妹と死体と吐気と
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「お兄ちゃん」

 

「菜摘か、もう時間だったか」

 

図書館の閲覧テーブルで本とノートを開いていた雅之は、背後からかかった妹の呼び声に答えつつ腕時計を見た。約束の時間の10分前だった。

 

「早いな」

 

そう言いつつ雅之は本を閉じて振り返る。そこには小さな体躯の大人しそうな一人の少女が立っていた。繊細そうな艶のある黒髪は僅かに肩にかかるくらいの長さのミディアム。くりっとした丸い目が印象的の目鼻立ちは整っているが、まだ幼気で可愛らしいという印象の方が強い。

 

外出用の可愛らしい柄のベストとスカートに身を包んだ幼い少女の名は菜摘。雅之の妹だった。

 

「ちょっと早く着いちゃった。ごめん、まだ終わってない?」

 

「いや、丁度一区切りついたところだよ。行こうか」

 

この日は休日だった。雅之は大学のレポートを纏めるのに必要な資料を漁りに図書館に来ていた。妹とは、たまには外食でもしようと昼から待ち合わせていた。

 

雅之は本を書棚に戻し、菜摘と揃って図書館を出た。必要な文献の目録は大体出来たので、今日は別に本は借りずに。

 

外に出ると初夏の日差しが眩しくも心地良かった。雅之は一つ伸びをして聞いた。

 

「何食べたい?」

 

菜摘は、んー、と上目遣いに少し考える様子を見せて言った。

 

「ハンバーグかなぁ」

 

「ん、りょーかい」

 

そう言って雅之は歩き出す。遅れて菜摘も付いて来た。それに合わせ雅之が歩幅の小さい菜摘に合わせて歩む速さを落とし、菜摘も雅之が自分に合わせてくれているのが分かるから兄が焦れないように普段よりも足を早める。そんないつもの二人の連れ添う速度に自然となった。

 

特にお金をかける必要もないので、二人は図書館から歩いて近くのファミレスに入った。店内は昼時という事もあり少し混み入っていたが、さして待たずに二人は禁煙席に通された。

 

「何にする」

 

「えーと、チーズハンバーグとパン」

 

尋ねた雅之にメニューを真剣な顔で睨みながら菜摘が答えた。

 

「そうか」

 

食べるのにも一生懸命な奴だなと、口元に小さく笑みを浮かべつつ雅之思った。

 

「あ、と」

 

「?」

 

菜摘が続けて何かを言いたそうにして、言いあぐねている様子を見て雅之は言った。

 

「他にも頼みたければいいぞ」

 

「じゃあ、パンケーキも、いい?」

 

雅之に促されると、菜摘は兄を伺うように上目遣いで言った。

 

「はいよ」

 

そのくらい高いものでもなし、遠慮する事はないのだが。しかし、雅之は別に菜摘がお金で遠慮したのではない事は分かっていた。

 

雅之は甘い物が嫌いな為、自分だけデザートを食べる事に気後れしたのだ。菜摘には子供らしからぬ、空気を読んだり気を回し過ぎる所がある。

 

子供らしくもっと我儘を言って甘えてくれてもいいのだが、そう雅之は思う。せめて兄である自分くらいには。

 

世の中の兄妹というのは仲が悪い場合が多いものだが、菜摘と雅之はこうして時折一緒に遊びに行くなど兄妹仲は良好である。

 

この兄妹が仲が良いのは、一つには二人の年の差に開きがあるという事もあるだろう。

 

そしてもう一つ、兄妹間の絆が深くなる要因がある。

 

それは両親間の仲の悪さである。

 

夫婦の仲の良さと兄妹の仲の良さは反比例する。この二人の兄妹の両親は不仲である。

 

父親は仕事を建前に最近はあまり家に寄り付かない。しかし母親と顔を合わせれば必ずといっていいほど口論になる程度には夫婦は啀み合っている。

 

しかし、両親とも自身の子供を??少なくとも菜摘の事は??愛しており、決して悪い親ではないと言える。

 

それが返って面倒な所もある。夫婦仲は冷め切っているが、二人ともまだ幼い菜摘の事を考えて離婚に踏み切る事を思い止まっているようなのだ。

 

物事をドライに考える雅之からすれば、もう昔から不仲な両親などさっさと別れた方が互いのためではないかと思うのだが。

 

それに先程みせたように菜摘が必要以上に空気を読み、大人の顔色を伺うようになった最大の要因は昔から怒鳴り合っていた両親の元で育ってきたせいなのだ。

 

両親も菜摘の事を考えているのだが、その結果の現状が確実に菜摘の情緒に影響を与えているジレンマ。

 

こうして雅之が菜摘とたまに外出するのは、妹が内心に溜め込んだものが少しは解消されればという思いもあった。

 

「お兄ちゃんは何にするの?」

 

「あー、カルボナーラ」

 

菜摘と違い食に無頓着な雅之は、メニューのスパゲッティの中から適当に目に付いたものに決めた。

 

雅之は丁度通りかかったウェイトレスを呼び止めると、二人分のドリンクバーも一緒に注文を済ませた。

 

暫くして、ハンバーグとカルボナーラが運ばれてくる。二人は雑談を交わしながら食べた。二人の間では、言葉少ない雅之は専ら聴き役に回り、菜摘が話題を出す事が多い。

 

最近はファミレスも随分と味が良くなったなと雅之は思った。菜摘も顔を綻ばせて食べていた。

 

少食の菜摘はハンバーグを食べるのを雅之に手伝ってもらう。頑張って一人で全部食べてしまうとデザートが食べなれなくなってしまう。

 

少食というのも関係しているのか、菜摘は身体が強い方ではなくどちらかというと少し病弱だ。良く体調を崩して学校を休んでいる。体躯も、最近の発育の良い同年代の子供と比べて小柄だ。少し雅之も心配している。

 

体質なのかも知れない。でも、この年頃では家庭で受けるストレスも体調に影響しているのではないかと雅之は考えていた。

 

のんびりと食後のコーヒーを飲んでいる雅之は、向かいで幸せそうにパンケーキを食べる妹を微笑ましく見ていた。今みたいに余計なことに悩まずに菜摘が日々過ごせたらと雅之は思った。

 

食事を終えて二人は店を出る。時間もまだ昼下がりなので、ショッピングモールまで足を伸ばした。服屋買う訳でもない服を見る菜摘に付き合う。

 

そして雅之はモール内の本屋で本を買ったり、二人でゲームセンターのメダルゲームをしたりして遊んだ。

 

そうして二時間程遊んで二人はモールを出た。そろそろ帰宅しようと。

 

繁華街の道を二人は雑談しながら歩いた。少し歩けば閑静な住宅街があり、二人の自宅もそこだ。歩ける範囲に色々店があるので便利な立地だった。

 

そうして車道脇の歩道を歩いていた時に違和感を感じて雅之は急に立ち止まった。兄が足を止めたのを見てどうしたのかと思いつつ菜摘も歩みを止める。

 

菜摘は唐突に立ち止まった兄を不審に思って、どうしたのかと尋ねようとした。しかし、彼女はそれを口にする機会を失う事になる。

 

コトが起こるのは雅之が足を止めてから、菜摘が口を開かんとした僅かな間だった。

 

足を止めてから雅之は一体何故自分は足を止めたのかと自問した。

 

その一瞬後に雅之が感じた違和感がクッキリとした形を成した。雅之が道行くほんの近くに影がはっきりと落ちた。

 

成る程自分は突然現れたこの影が引っかかって足を止めたらしい。で、この影はなんだ?

 

次の瞬間にバキッバンッという大きな音と共にいきなり人が現れたように地面で一つ跳ねてぐしゃりと力なく横たわった。

 

まるで壊れた人形のように無機質に横たわる若い女を雅之は見て、そして視点を上に上げる。横に立つビルの屋上は10階以上はありそうだ、そうして視点をまた女に戻し雅之は納得した。

 

おそらく飛び降りだろう、あるいは事故かも知れないが。しかし危ないところだった。雅之が違和感に気付かずに歩みを進めていたら高所から落ちた女に直撃されていたかも知れない。人間の大きさ、少なくとも50キロ前後はある物体がビルの屋上からの落下してくるのを身に受けてれば雅之は、まず死んでいただろう。

 

横たわる女を見て雅之は救急車を呼ぶ必要は無さそうだと悟る。女の顔面は平たく崩れており飛び出した眼が虚しく空を睨んでいた。割れた頭蓋から桃色がかった灰色の脳味噌がアスファルトの地面に派手にブチ撒けられていた。手足も妙な方向に捩くれている。掛け値無しの即死。

 

恐らく頭から落ちたのだろう、最初の硬くて乾いたような音は頭蓋骨がアスファルトと当たって砕ける音だったか。

 

自分以外の通行人もいきなり道に現れた転落死体に驚き、足を止めていた。

 

周囲の喧燥が大きくなるなか、雅之は救急車は無意味にしても警察に連絡するべきかと考えていた。しかし、自分が思考に沈んでしまっていたのに自覚して、思い出したようにすぐ後ろにいる妹を振り返った。

 

菜摘は真っ青になってその眼は見開かれたままスイカのように頭の割れた女の死体を見つめて凍りついていた。死体は菜摘達から僅か数歩の至近距離、砕けた頭蓋骨の破片の一欠片すら良く見える。いや、この近さでは臭いすら届いた。血生臭さに何か不潔な人間の垢というか、そういう不快な臭いを凝縮したような胸の悪くなるようなものが混じった臭い。脳や髄液から発しているのかも知れない。菜摘が口元を押さえた。

 

「大じょ……」

 

「っぷ」

 

雅之が声をかけようとした途中で猛烈な吐き気を覚えた菜摘が顔を背けた。口内に酸っぱい唾液が分泌されるのを自覚して菜摘はふらりとした足取りでビルの壁際に歩み寄った。すぐに胃の中身が逆流してきて菜摘は頬を膨らませた、苦しょっぱく酸っぱい味が口の中に蔓延する。

 

「おぇえぇぇぇっっっ!!」

 

そして壁に手をついた途端に菜摘の唇は決壊した。激しく収縮する胃によって勢いよく吐瀉物が吐き出された。それは壁に当り、舗装された歩道に広がる。

 

「げぽぽぽぽ」

 

びちゃびちゃっびたと音を立てて消化されかかったドロドロの吐瀉物が壊れた蛇口のように菜摘の口から吐き出される。昼食に食べたハンバーグやパンケーキやジュース、それらのミックスされた小豆色がかったクリーム色の醜悪な吐物が撒き散らされる。

 

「はぁーはぁー、っ!えぇぇっ!ゲッ!」

 

第一波が収まって荒い息を吐いていた菜摘に、歩み寄った雅之が無言でその背中をさすると直ぐに、菜摘は込み上がってきた第二波を吐いた。その始めの勢いと量は第一波を凌駕していた。菜摘の背中が蠕動するようにビクビクと跳ねながら彼女は吐いた、思い切り壁を叩きながらびたびたと地面に跳ねる。昼食を食べてからそんなに時間が経っていなかったのが悪かったか。しかし、テーブルに並んでいた時は食欲をそそる美味そうなハンバーグやデザートだったのに、もやは見る影も形なく、生臭くて酸っぱくて、どこか甘ったるくもある酷い臭いを放っていた。こんな汚物を人目もはばからず可愛い少女が撒き散らしているという事実。

 

「うわぁ、吐いてるよ」

 

集まってきていた野次馬の中から菜摘を揶揄するような声が小さく聞こえた。しかし、菜摘には嘔吐に夢中でそんな言葉は届いてはいないようだ。

 

雅之は野次馬の中から嗚咽の声と共に吐物が地面を打つビシャビシャという音を聞いた。どうやら無残な死体の惨状と菜摘の酷い嘔吐に当てられて嘔吐したものまで居るらしい。

 

「おぇぇぇっ!ぇっ、えっ」

 

菜摘は粗方吐いてしまうと、絞り出すようにトロトロと口から唾液とも胃液ともつかぬものを吐いて、やっと嘔吐が収まった。真っ青な顔色でまだ荒い息をついている。

 

「休めるところに行くぞ」

 

雅之はそう声を掛けて、菜摘の手を引きその場から歩きだした。菜摘も覚束ない足取りでついてくる。本来はもっと落ち着くまでその場で休ませた方がいいのだろうが、野次馬の好奇の眼に晒されている中に妹を置いておきたくなかった。それにこのままここにいれば駆けつけるであろう警察の事情聴取やらに付き合わなくてはならなくなるかも知れない。ちょうど女が転落した一番近くに雅之達はいたのだ。そんな面倒に巻き込まれている場合ではない。

 

そうして少し離れた場所にある公園に雅之は菜摘を連れてきた、人気もそんなにないし、ここなら大丈夫かと思い雅之は菜摘をベンチに座らせた。

 

「横になってもいいぞ」

 

雅之の言葉に菜摘は未だ紙のような顔色のままフルフルと首を振った。

 

「休んでいろ」

 

そう言って雅之は背を向け歩き出す、菜摘が何か口を開きかけた事には彼は気がつかなかった。雅之は公園入り口の自販機でミネラルウォーターのペットボトルと缶コーヒーを買って、菜摘の元にすぐ戻る。

 

「ほら」

 

そう言って雅之は菜摘にペットボトルを差し出した。嘔吐したまま濯がずでは口の中も不快だろうと気遣った。菜摘は両手でペットボトルを受け取る。

 

菜摘はキャップを開けて、口をつけて少しずつ水を含んだ。まだ吐瀉物の残滓で嫌な感触がしていた口の中が水で洗い流されて少しスッキリした。そこで濯ぐだけにしておけば良かったのだが。

 

しかし菜摘は口に含んだ水を飲んだ。胃酸で焼けた喉がピリピリしていたからだ。荒れた喉を潤す水が心地よく菜摘はこくりこくりとペットボトルから水を飲んだ。

 

しかし、先程激しく痙攣収縮したばかりの胃に突然の水分補給は急すぎた。胃に落ちた水が猛烈な異物感を発するのに菜摘は気がついた。

 

その異物感が不快感になるともう駄目だった。先程の嘔吐を思い出し、そしてその原因となった女の頭の崩れた死体を思い出した。その臭いすら感じられるよう錯覚する程に鮮明に。

 

蘇ったその記憶が菜摘の嘔吐中枢を猛烈に刺激し、即座に狂った胃がひっくり返った。

 

「えっ!ゲェェェッ」

 

とっさに前のめりになり菜摘は飲んだ水をビチャビチャと地面に戻した。どうやらまだ胃の中は空っぽでは無かったようで水だけでなくブツブツと昼食の残滓が混じっていた。

 

雅之は吐いてしまったかと思いつつ缶コーヒーのプルタブを開けた。もう全部吐いてしまったほうが良いだろう。

 

「ぇぇぇぇっ!」

 

まだ胃粘膜と胃液の混じったようなものを糸を引くように地面に吐き戻す菜摘。菜摘とは逆に無糖の缶コーヒーを?み下す雅之。

 

「ぇっ!うぇーっ!げっ」

 

もう完全に吐くものが無くなっても菜摘の内臓の痙攣は止まらなかった。気持ち悪い気持ち悪いきもちわるい!吐く吐く苦しい苦しいくるしい!そう菜摘は思っても口からは粘度の高い唾液が落ちるだけでもう何も出てこない。しかし吐き気は未だやまない。

 

一服して人心地ついた雅之は菜摘の隣に座り背中をさする。菜摘の背中はびくんびくんと震え、しばらくの間、空嘔気を繰り返した。

 

ようやく胃がひっくり返っかえるような感触が引いてきた菜摘は荒い息を吐いていた。口を濯ぎたくなったが、未だ吐き気がやまずそれすら出来なかった。口に何か入れただけでまた胃が暴れだしそうな気配がしていた。菜摘は口を手で抑え、吐き気を堪える。

 

雅之は無言で菜摘の空いている片手を取った。手は酷く冷えていた。急性のストレス反応で自律神経が狂っているのか。雅之はその手を温めてるように自信の片手で包んだ。

 

「お、兄ちゃん」

 

「なんだ?」

 

雅之は片手で菜摘の手を温めるように摩りながら、片手で缶コーヒーを一口飲み応じた。

 

「こ、わい、よ」

 

「何がだ」

 

冷え切った、菜摘の手はガタガタと震えていた。いや、全身が怯えるように細かく震えている。

 

「私、もああいう風に死ぬ、の」

 

実際の死体を目の当たりにした菜摘は、死の恐怖に怯えていた。もっとも生きる事に貪欲で、死からは遠い幼い子供である、はず、の菜摘は、凄惨な死体を目の当たりにした事により気が付いたのだ。

 

お前も、また、こんな無残に惨たらしく死ぬぞと。

 

それが対岸の火事ではない事実を喉元に突きつけられたのだ。

 

それに対して菜摘の手を温めながら缶コーヒーを傾けて雅之は言った。

 

「あぁ、死ぬよ」

 

びくり、と菜摘が震えた。

 

「形はどうかはわからない。あの女と似たような死に方かも知れないし、違うかも知れない。」

 

ただ雅之が間違いないと断言して言えるのは。

 

「菜摘も、俺も死ぬよ」

 

「それこそ、もしかしたら今すぐにでもね」

 

そう言って、雅之は缶コーヒーで口を湿らせた。カタカタと細かく菜摘の手が震えだした。

 

こういう時、きっと妹を愛する兄ならこんな事は言わないのだろう。何を言うか?あんな死に方はしない。死ぬのなんてずっと先だから心配ない。色々言い方はあるだろう。

 

事実とは掛け離れた、愚にもつかない戯言の気休めを信じこませようとするだろう。妹と、そして何よりもそれを言う自分自身に。

 

言うまでもなく雅之も妹を想っている。だが、そのような詭弁だけは雅之は許せないのだ。人間誰しも譲れない信念の一つくらいはある。

 

人間は誰もが自分いつか死ぬと分かっている、つもりになっている。しかしそれを差し当たり当面は自分と関係のない事として、脇に置いておく。

 

若いから、幼いから、死とは遠い?笑止千万。人間は生きてる限りすぐ隣に死が寄り添っている。

 

しかし、多くの人間が死の可能性を直視出来ずに、それから眼を逸らし、日常に頽落する。他でもない死の不安の為に。

 

死へを先駆こそが本来の生を生きる事を可能とする。それ故に雅之は死の可能性を直視しない人々を軽蔑する。

 

だから

 

「その恐怖を忘れるな」

 

死を目の当たりにした恐怖こそが死を直視する勇気となると雅之は思い言った。

 

そうして暫く雅之は菜摘の側に付き添っていた。やがて恐怖と吐き気も収まってきて、少し菜摘の様子は落ち着いた。

 

しかし、肉体的にも精神的にも消耗しきってしまった菜摘はそうすぐに回復は出来ず。かと言っていつまでも外で休んでいる訳にもいかない。安心出来る場所で休息するのが一番なのだから。

 

だから雅之は菜摘を背負って帰路を行く事にした。軽くはないが人を背負っているにしては重量感がない。だが、子供特有の体温の高さが背中から伝わってくる。菜摘の小さな身体を背負う雅之は幼い命の熱量を感じていた。

 

彼は菜摘の気分が悪くならないように、ゆっくり、揺らさないように歩く。

 

「お兄ちゃん」

 

「なんだ」

 

「ごめんね」

 

「そういう時は謝るより礼を言った時がいい」

 

雅之の言葉は少なく、最低限を抑揚なく伝えてくる。だから無愛想で冷たいように誤解されやすいが、菜摘はそれは違う事を理解していた。

 

「うん」

 

「ありがとう」

 

兄はいつだって必要な事を言ってくれるし、その言葉は優しいものなのだ。

 

雅之は菜摘を背負ったまま帰宅した。家には母親が居た。父は休日にも関わらず仕事だ。あまり家には居たくないのだろう。

 

母親は憔悴した様子で兄におぶさり帰ってきた菜摘の姿に驚いた。菜摘をソファーに横たえて休ませて、雅之は飛び降りた(と思われる)人がすぐそばに落ちてその死に様を至近距離で目撃して、ショックを受けた菜摘が酷く吐いた事などを端的に説明した。

 

母はその話を聞いて流石に動揺した、普段まず見ないような酷く死体など幼い娘が見てしまったとなれば当然心配になった。

 

「可哀想に、トラウマになったりしないといいけど」

 

「暫くは様子を見ておいた方が良いだろうね」

 

不安げに言った母に雅之は返した。その淡々としてあまり変わらない表情に母は眼を向けた。

 

「……貴方は大丈夫?」

 

「何が?」

 

何処か形式的に気遣いの言葉をかける母に雅之はキョトンと問いを返した。

 

「……貴方はいつもそうね」

 

母はそう溜息を一つ吐くと雅之に背を向けてソファーで横になる菜摘の元へ向かい、何か心配そうに声を掛け始めた。雅之はそんな母に何も言わなかった。

 

たまにこう言う事がある。何かが噛み合わない。どうやら雅之はまた失敗したようだった。

 

母はその夜の夕飯に食べやすいうどんを作った。少しでも食べた方がいいと母に諭されて菜摘も食卓に着いた。夕食まで横になって休んでいたため菜摘も大分気分は良くなったが、それでも食べ物を前にすると吐き気を催しそうになる。

 

しかし、それでも恐る恐るうどんを口に運ぶと、さっぱりした出汁とうどんのするりとした喉越しにあまり抵抗なく食べられた。

 

「食べられそう?」

 

「うん」

 

母の問い掛けに菜摘は頷いた。案外胃の中が空っぽより何か入っていた方が吐き気には楽な事も多い。菜摘は自分の分の小盛うどんを全部食べて、母は一安心した。雅之は同じ食卓に着いて一味をかけた大盛りうどんをズルズル啜っていた。

 

そうして食事も終えると、菜摘はソファーに横になり、食休みしながらテレビを観ていた。母はキッチンで洗い物をしている。雅之は菜摘と同じダイニングで座って本を読んでいた。普段は彼はテレビの雑音を嫌うので食後は誰かがテレビを観ているダイニングは避けて自室に引っ込んでしまうのだが、今日はあえてここで読書をしているのは菜摘を心配しての事だろう。

 

全く表情を変えないままページを捲る兄の暖かい思いに空気に機敏な菜摘も気がついていた。嬉しいと思う反面、そんな風に心配させてしまっている事を申し訳ないとも考えてしまう。大体の子供はそこまで考えずに甘えてしまうものだが、弱っているにも関わらず菜摘の気を回しすぎる悪癖が出てしまっていた。

 

「う、ぷっ」

 

食後三十分強程度が過ぎた頃だろうか。突然に菜摘の方から声がして、雅之は顔を上げた。見ると菜摘は蒼白な顔で口を押さえて吐き気を堪えていた様子だった。大分落ち着いた様子だったのに急に何故、そう考えた雅之の視界の端に今まで耳に入れないように無視していたテレビの映像が映った。

 

エンタメの一場面だろう、ステーキが映っていた。厚いステーキをタレントがカトラリーナイフでカットしている。レアで焼き上げられた厚い肉が血の滴るような鮮やかな赤い断面を晒していた、食欲をそそる美味そうな映像。だが昼間みた崩れた人間の血肉の朱を想起させるものだ。

 

それで雅之は菜摘が吐き気を催した理由を知り腰を上げる。菜摘は目が離せなくなってしまったように込み上げてくるものに頬をぷっくり膨らませたままテレビ画面を凝視している。

 

それから菜摘は跳ね上がるように横になっていたソファーから身を起こして身の乗り出した、トイレか、キッチンのシンクか、嘔吐を堪えきれないと悟っての行動だろう。

 

「ゲェッ!おぇっ、ェェェエッ!」

 

しかし間に合わなかった。丁度テレビでタレントがステーキを口に運び目障りな程のオーバーリアクションで耳障りなテンションで美味いと訴えているのと同時、菜摘はフローリングの床に激しく吐き戻した。

 

「えぇぇぇぇっ!オェッ!ヴッ!」

 

ビチャビチャと音を立てて食べて間もなく夕食がフローリングの上に広がった。出汁の混じった水分に噛み砕かれたまま殆ど消化されてない細かいうどんの欠片が大量に混じって、それにワカメや大根などもみて取れる液状のゲロだった。醤油の匂いが混じった饐えた臭いが当たりに広がる。雅之はテレビの電源を切った。

 

「菜摘!」

 

台所で片付けをしていた母が吐瀉音を聞きつけて悲鳴に近い声で菜摘に呼びかけつつ飛んできた。

 

「ゲェェェッ!」

 

第一陣より中身の薄くなった第二波が菜摘の口から迸る。母は菜摘に取りすがりも出来る事は多くもなく背中をさする。雅之が手近なテーブルの上に雑多な物が入ったビニール袋を見つけ、彼はそれを取り中身は床にぶち撒けて、手早く母に手渡した。

 

「うぇっ!ゲプッ!おぉぉっ!」

 

母がそのビニール袋を菜摘の口に当てがうと、タイミング良く菜摘は第三波を吐いた。バサバサと音を立ててビニール袋にうどん混じりの吐瀉物が落ちる。しかし、菜摘は胃の中の大半を床に吐き散らしてしまっていてその量はさして多くない。

 

「うぇっ!げぇっぷ!げぇっ!」

 

もう吐くものもないのに菜摘は激しく嘔吐く。透明な粘液が糸のように口からビニール袋に落ちる。苦しみと生理的な反応で菜摘の目から涙が落ちた。ちょうど母が口元にビニールを当てがっているので、まるで菜摘はシンナーを吸うように自分が吐いた物の腐った出汁のような臭いをもろに吸い込む事になり、その為に吐き気が止まるどころか強まる。

 

「えぇぇぇっ!」

 

菜摘は嗚咽しながら、母の手を払い、不愉快な吐瀉物入りビニール袋を自身の顔の前から遠ざける。しかし、母は何故に菜摘が自分の手を払ったのか察する事が出来ず、まだ激しく嘔吐いている菜摘をみてまだ口を当てがおうとする。

 

口元を押さえて吐き気を堪えながら菜摘は強く母の手を払いのけた。叩かれるに近い拒絶をされ危うくビニール袋を落としそうになり。しかし、とことんまでに察しが悪く、母はなおビニール袋を菜摘に近づけようとする。これは単にこの母親が愚鈍と言うだけでなく、彼女自身軽い混乱にあるのだろう。

 

その母の手を制したのは雅之だった。冷静な彼は菜摘がそれを必要としていないのは理解していた。雅之に止められて母もやっとそれに気づいた。

 

「菜摘、大丈夫」

 

「……うっ!」

 

母は心配で菜摘の身体をさすりながら、そう呼びかけるが、菜摘は吐き気を堪えるに必死だった、なんとか答えようとしてまた軽く嘔吐いてしまい、口元を押さえて堪える。

 

そうして少ししてなんとか吐き気が引いた菜摘は口をゆすいだ。母は菜摘が吐いてしまった床の掃除をした。最早テレビはつけられる事もなく、菜摘は額の上に冷水につけて絞ったタオルを乗せてソファーに横になってぐったりとしていた。まるで熱を出したような処置だが、まだ吐き気がある菜摘の気分が良くなるように、冷たいタオルを乗せていた。それは額の上が気持ちよく大分菜摘の気分も紛れた。

 

母は早めに自室で休ませる事も考えたが、しかし、菜摘は精神的な物が理由で弱っている事を考えると部屋に一人休ませるより、誰かがいるダイニングに居た方が不安がないかと判断した。

 

菜摘は恐怖と不安に苛まれているので、確かにそれは英断といえたが、しかし

 

夜も更けてしばらくして、父親が帰宅した。彼にとっては殆ど寝る為だけに帰ってくるような家である。しかし流石に帰ってきて愛娘が如何にもな体調不良の様子でぐったりとしているのを見て驚く。

 

どうしたんだ。そう戸惑ったように口にした父親にその妻が今日あった事を説明し出した。普段は帰宅の挨拶も交わさず、顔も合わせないようにしているか、あるいは、嫌味を言いに出るかのどちらかの母にしては珍しい態度。それだけ彼女にとっては娘は大切だという事だろうが。

 

「どうしてそんなものを見せたりしたんだッ!」

 

だが、上がったのは男の怒鳴り声だった。父親は娘が飛び降りを目撃したと聞いて、娘になんてものを見せるのかと激昂した。その憤りは普段から苛つきを覚えてる妻に理不尽に向けられた。

 

「そんな事をアンタに言われる筋合いはないでしょう!」

 

その理不尽な夫の罵倒に妻も即座にヒステリックに叫び返す。口答えされたことにさらに苛つき夫は大声で反論して、更に妻も怒鳴り返す。

 

議論とも言えない罵詈雑言の交換は、やがて醜いただの喚き合いになる。ある意味でこの夫婦にはいつもの事だったがしかし。

 

「おい、煩いよ」

 

菜摘本人が休んでいるダイニングでいきなり口喧嘩を始めた両親に幾ら何でも場を弁えろと流石の雅之も頭に来て二人に向かって注意をする。

 

しかし、お互いを罵る事に夢中の両親は聞こえないのか、言い争いを辞めない。雅之がさらに強く制止の声を上げよとした時。

 

「げっ!げぽぽぽ」

 

菜摘が身を起こしてソファーの傍らに置いてあった袋に嘔吐した。びちゃりと音を立てて額に乗せられた濡れタオルが床に落ちた。もう胃の中の食べ物は先程全て吐いてしまった為に、吐いたものは殆ど胃に溜まっていた胃液と粘膜の混合物だった。ほぼ液状のそれを菜摘はそれでも絞り出すように苦しげに多量に吐き出す。

 

「えっーぇっ!う、げぇ」

 

それすらも吐き出し尽くしてしまうと菜摘は空嘔吐きを繰り返す。ぽたぽたのその眼たら涙が溢れる。

 

「うっ、うぅぅ、やだぁ。もぅ、やだよぉ」

 

そのまま菜摘は泣き出してしまう。度重なる心的負担にその心は折れていた。

 

父と母はそんな娘の姿にどうしていいか戸惑ったように立ち尽くした。駆け寄るにも流石に精神的に弱っている娘にトドメのようにストレスを与えたのが自分達だと自覚出来ぬような、そこまで救いのない愚鈍では流石に無かった。

 

そして、咄嗟に何も出来ぬ両親を雅之は侮蔑の目で見て、舌打ちしてから、菜摘に寄り添った。

 

泣きじゃくる妹を立たせて両親を無視して部屋を出て行った。口を濯がせて菜摘の自室へと向かった。

 

菜摘を自室のベッドに運び、雅之はミネラルウォーターのペットボトルと洗面器を取りに行った。部屋に戻っても菜摘は横にならずベッドに座ったまま泣いていた。普段から小さなその体が一際小さく、今にも潰れそうに見えた。

 

雅之は手に持っていたものを置くと自身も菜摘の隣に腰を下ろした。泣いている妹に手を伸ばすと、それを見た菜摘が縋り付くように強く雅之に抱きついてきた。そうしてただ何も訴えずに少女は泣いた。

 

雅之は何か口を開きかけた。雅之にとってそれは転落死体などよりも……

 

俺は……こんなものは見たくはない。どうか、笑って欲しい。

 

しかし、雅之は何も言わずに口を閉ざし。ただ無言で妹を抱きしめ返して頭を撫でた。彼女が泣き止むまでずっとそうしていた。

 

そうして、やがて泣き止んだ菜摘を雅之はベッドに寝かせた。寝るまで付き添っているつもりで。菜摘が嫌がったので照明は落とさなかった。

 

雅之はベッドの傍らに座り本の続きを静かに読んでいた。そんな兄に寝たまま菜摘は手を伸ばす。

 

「うん?」

 

雅之はその手を取って握った。

 

「お兄ちゃん」

 

「うん」

 

「ひとりに、しないで」

 

その言葉に雅之は、答えられなかった。人間はいつどうなるかわからない。自分も菜摘も明日には死んでいるかも知れない世界で、雅之は出来もしない事に頷く事は出来なかった。しかし、否定もせず彼は無言を返した。

 

お兄ちゃんは、こわいね。

 

でも、すごくやさしい。

 

雅之は片手で菜摘の手を握ったまま、しばらく読書していると、やがて菜摘は眠りについた。果たして眠れるような精神状態か不安だったが、消耗した精神は休息を選んだのだろう。

 

それから五分だけ様子を見て、雅之は菜摘の手を解いて、静かに布団の中に戻した。彼は静かに寝息を立てる妹の頬にかかった髪を撫でるように除けた。

 

そうして本を閉じて、雅之は部屋の照明に手を伸ばし、結局落とさずに手を下ろして部屋を出た。ドアを閉める前にベッドで眠る菜摘の顔を見た。

 

穏やかな寝顔をしていた。

 

雅之は口の中だけで小さくおやすみ、と呟きドアを閉じた。

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女の子がゲロ吐くだけの話です。
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