幸福論。 |
彼と初めてキスをした。
ドキドキして、嬉しくて、思わずおれは「幸せです」って彼に伝えたんだ。
彼は少し黙って、それからもう一度キスをくれて……優しく頭を撫でてくれた。
その日からしばらく、彼はおれに会ってはくれなかった。
***
八神さんの家は知っている、だけど突然押し掛けたら絶対嫌がられるだろうし、かといって道場で待っていたって仕方がないし。
避けられてる、それは何となくわかってた。LINEも未読スルーが続いてたし、何より草薙さんと一緒にいてもやってこない。いつもならあの不敵な笑みと一緒にどこからともなくやってくるのに。
おれ、あの日何か気に食わないことをしてしまったんだろうか。キスひとつで浮かれて、ダサいやつだとでも思われたんだろうか。
色んなことが頭を廻って、あれが悪かったのかそれともあれがいけなかったのか、なんて、楽しかったはずの彼との時間をひとつひとつ省みて、何の憂いもなく彼のそばにいた自分が浅はかだだったのか、そんなことまで思い始めて。
胸が痛い。通じ合ったと思った気持ちがまたすれ違って、もしかしてあのキスはしつこいおれを宥めすかすための手段に過ぎなかったのかな、なんて、彼のことまで疑い始めたから流石におれは自分の弱い心を引き締めるように両頬をばちんと叩く。
……だめだ、やっぱり会いに行こう。
このまま一人でウジウジしてたって埒が明かない、八神さんと直接話さなきゃ何も解決しない。
おれは夕飯時に家を飛び出すのを見咎めた母さんに「大切な用事なんだ!!」って言って走り出す。行かなきゃ、彼の所に。
走って、息継ぎするのも忘れて全力で走ってようやく駅前までやってきたとき。雑踏の中に、彼を見つけた。
「八神さん……」
間違いない、見間違えるはずなんてない。赤い髪が夜の街並みに紛れてしまう前に捕まえたくてまた走り出していた。
スクランブル交差点の人波を掻き分けてどうにか彼に手を伸ばして、信号が変わる寸前に、その腕を掴む。
「八神さん!」
信号が赤に変わる、おれは黙ったままこっちを見てくれない八神さんの手を引いて急いで横断歩道を渡り切ると、行き交う人々の視線も気にせずに彼の肩を揺さぶってすがり付くように身体を寄せた。
「やっと会えた、八神さん、なんで……なんで何も……」
すると今度は彼がおれの手を引いて何処かへと歩き出す。相変わらず黙ったままの彼の背中は、飛び付こうと思えば出来る距離なのにそうさせてはくれない雰囲気があって、悲しい。
夜がこんなに心細いのは初めてだ。ふたりでいるのに、手を繋いで、確かにお互いに触れているのに心細くて堪らない。彼の掌は、少し冷たかった。
結局公園まで無言で手を繋いだまま歩いてしまったおれたちは、八神さんが足を止めたのを合図にしてその手をほどく。
「……八神さん」
彼の背中に向かって名前を呼ぶ。彼はゆっくりと振り向いて、ようやくおれを見てくれた。
怒っているようでも、何か不満があるでもない、ただおれの何かを探るように鋭い視線が投げ掛けられたから、また胸が痛む。
八神さんはおれの何かを疑っているのだろうか?おれが、彼を疑いかけたように、おれの気持ちの全てを受け入れてくれたわけではないのだろうか。
思わずTシャツの胸元をぎゅっと握ってしまう。すると、彼はそれと同じ痛みを伴ったかのように視線をぎゅっと絞りおれを睨む。そして、問うてきた。
「貴様にとって幸福とは何だ」
「え……?」
「此れが、幸福だと思うのか、本当に」
最初は彼が何を言っているのかわからなかった。だけど二度目に念を押されるように聞かれたとき、初めてのキスの後で彼の胸で鼓動を聞きながら『幸せです』と言った、あの日のことが彼の表情に重なった。
おれは乾いてベタつく口を一度結んで、それから彼のその視線を打ち返すみたいに見つめて答える。
「はい、幸せです」
迷いはなかったし、もう彼も自分自身も疑うことなどない。幸せだ、おれは八神さんと一緒にいられて幸せだったんだ。
一歩進み出て彼との距離を詰める。彼はその場から動かずにおれを受け止めてくれたから、彼の両手に自分の手を重ねて指を絡めた。
「大好きな人と一緒にいられて、キスすること、それはおれにとってかけがえのない幸せでした」
彼の手に力が込もって、絡んだ指先が結ばれる。触れた掌はさっきまでの心細さを忘れさせるくらいに熱い。
何も言わずにおれを見ている八神さんに、おれは自分から唇を重ねた。触れるだけの、そっと彼の体温を掠め取るようなキス。
「おれは、八神さんがキスしてくれて嬉しかったし、それだけで本当に幸せだったんです」
それでもあの日のキスには足りない。まだ胸が痛むのは、彼が何も言ってくれないからだ。
彼は吐息して目を伏せたあと、手をほどいておれの頬に触れる。綺麗な爪が街灯をきらりと反射していた。そのまま指先はおれの唇を撫ぜる。
「……貴様には、他の幸せもあるだろう」
ぽつりと、まるでひとりごとみたいに言うから、余計に痛む胸に刺さる。
「俺に拘らなくても」
なんでそんなこと言うんですか、おれは貴方だから、八神さんだからキスをしたいと思っているのに。八神さんじゃなかったらそんなこと思わない、おれは貴方だから……幸せなのに。
「キスしておいて、今更じゃないですか、そんなの」
今更だよほんとに、キスした後でそんなこと言うなんて、ナシっすよ、ほんと……
「おれのこと怖いんですか」
「何……?」
気が付いたときにはまるで彼を煽るような言葉が口から出てた。だってそうだろう、怖じ気づいたのと同じじゃないか、おれはあの時確かに幸せで仕方なかったのに、それを今になって何だよ。
「おれが怖いのか!!八神庵ッッ!!」
「な……ッ!?」
思いっきり彼に叫んで、そして、キスをした。
おれから逃げ出そうとするようなこと、彼には似合わない後ろ向きなことを言うその唇を塞いで、奪ってやるって、唇をうんと押し付ける。
彼がしてくれた大人のキスじゃないかもしれない、恥ずかしいしドキドキもする、だけど今はそれ以上に彼に伝えたいことがある、それだけだった。
重ねた唇をそっと外して彼から離れたら、彼は驚くやら何やらで……おれのことをぼうっと見ているから途端に恥ずかしさが上回ってしまって照れながら頭を掻く。
「なーんちゃって……へへっ」
そしたら、彼の両腕が伸びてきてあっという間に抱き締められてしまった。
ぎゅうっと彼の全身で包み込まれる。苦しいけど、苦しくない。八神さんを全身で感じられる嬉しさがじわっと広がって体温の中に染み込んでく。
おれは彼の背中に手を回す。耳元で乱れている彼の呼吸の音に身を捩りながらその背をさすった。
「八神さんがおれと一緒にいても幸せじゃないなら謝ります、でも、でもおれは幸せなんです、それは否定しないでください」
あの日のあのキスで満たされた気持ち、絶対に嘘じゃないし、なかったことになんかしたくない。
八神さんにもらった幸せは他のどこにもないから、彼と一緒にいないと感じられない宝物みたいなものだから。
「だから他の幸せなんてないんです、八神さんのそばで感じられる幸せは、ここにしかないんですから」
だからおれから逃げないで、おれが幸せだと感じたことまで諦めようとしないで。
彼に寄せた頬を涙が伝っていく。止めようとしたけど無理で、彼の頬まで濡らしてしまう。彼は大きな溜息を吐くと、駄々っ子をあやしつけるみたいに背中をトントン叩いてくれた。
「わかった、わかったから泣くな」
「だって、だって」
子供の我儘扱いされるのは嫌だったけど、彼の声が優しくなったから甘えてしまう。彼はそのまま頭を撫でて耳元に口付けたら、吐息混じりに囁いてくれた。
「……すまなかった」
色んな気持ちが込められていると思った。おれにも、おれの気持ちにも、そして彼自身の気持ちにも向き合うことを約束してくれるのだと勝手に感じ取ったのだけれど、きっとそれは間違ってないと思う。
「幸福なんだろうな、俺も」
顔を上げた彼は自嘲気味に笑っていて、おれの顎を掬い上げたと思ったらあの日よりも情熱的に、とてもとても幸せなキスをしてくれたから、おれはもう一度彼に伝えた。
「おれ、幸せです」
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G庵真。ありふれた日常よりも先に手に入れたいのはあなたとの幸せ。 | ||
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