唐柿に付いた虫 22 |
ゆっくりした時間が過ぎる。
蛍の舞う黄緑の光の軌跡を追うともなしに眺めながら、ちびりと美酒を口に含む。
ふっと消え、ふっと灯る、ゆらゆらと漂う不思議な光。
その光を目で追っていると、釣られて自分の魂も漂い出しそうな。
「もの思えば、沢の蛍もわが身より あくがれいづる魂かとぞみる、か」
昔の人は上手い事を言った物だ。
酒が喉を撫でながら胃の腑に下っていく感触に目を細める。
人の世界、殊にいわゆる「上つ方」や、その辺の事情と関わる事が増えると、どうしても重く心に沈殿していく様々な思考や黒い感情。
そこに酒が沁み、溶かしていく。
そして、酔いのままに蛍に意識を向けていると、それらの想いが軽やかな酒精に乗って、体の外に抜けていく、そんな心地がする。
酒はお清めとはよく言ったもんだ。
皆と語らいながら酌む酒も良い物だが、こうして一人、ゆっくりと杯を干し、自分の中から嫌な諸々の事を浄める時間もまた良い。
……いや、一人じゃ無かったな。
彼の隣からは、ちゅうと唐柿を吸う、白まんじゅうの食事の音が時折聞こえる。
本当、何なんだろうなぁ、こいつは。
この白まんじゅうが家に来てから何度目になるだろうか、その疑問を抱きつつ視線を落として、白い頭と赤い唐柿を見る、その視線に気が付いたのか、白まんじゅうは唐柿から顔を離し、不思議そうに小首をかしげてこちらを見上げた。
つぶらな緑色の瞳。
だが、その緑色は、夜の中を舞う蛍の光や、翡翠の柔らかい色とはまた違う、もっと透き通って居ながら、深く濃い色を湛えた。
そう、これは自分の中に形容する言葉が無い色。
……そういう事か。
ずっと、この白まんじゅうを見る時に、どこかで覚えがあると思っていた、この感覚、そうだ、この瞳の色は。
戦乙女の瞳に宿る空の色。
吸血姫の瞳に凝った真紅の血色。
それらと同じ、俺の知らない世界で育まれた魂を透かした色。
……やはり、君もそうなんだな。
「すまん、特に何って事じゃねぇんだ、食事の邪魔して悪かったな」
「んーん」
気にするなという感じに声を上げ、白まんじゅうが再び唐柿にかぶりつく。
あれほど立派だった丸々とした実が、今はもう半分以上が皺の寄った状態になっている。
(食欲旺盛だな……)
ちっこい体だってのに、良く食うもんだ。
こいつが酒が飲めるなら、是非とも一献献上したい所だが、さて。
(ま、そいつは先の楽しみにしとくか)
特にお互いの存在を意識する事も無く、男はゆるゆると杯を重ね、白まんじゅうは旨そうに唐柿の実にかぶりつく。
豊かで無為な時間が、穏やかな小川のように、一人と一匹を乗せて、ゆるゆると心地よく流れていく。
「はふー」
傍らからの満足げな声に、食事が終わったのかと向けた男の目に、まだまだ汁気を残した唐柿から口を離し、庭の蛍を眼で追う白まんじゅうの姿が見えた。
小さな白い頭が緑の光の動きに釣られるように、左右に揺れる。
良く見ると、短い脚や、黒い翼も楽し気にぱたぱたと動いている。
お前さんも、この時間を……この庭を、楽しんでいるのかな。
だとすれば、嬉しい事だ。
微笑が浮かんだ口に盃を運ぶ。
良い夜だ、本当。
あの盗賊団が占拠していた山のふもと、少しこんもりと木の茂った辺りに、覆面の男たちを乗せた馬車が止まる。
鳥の目を持つ者たちが見れば、それが、領主殿の陣取る場所とは反対側の、山道から少し外れた場所だと知れたろう。
一切言葉を交わす事無く、男たちは馬車を降り、馬から軛(くびき)を外し、馬車を手近な茂みに引き入れ、枝や持参していた布で覆い隠し、馬は少し奥まった木に繋いだ。
必要十分なだけの欺瞞を行う、全く無駄が無い手慣れた様子に、彼らの人生が透ける。
各々が仕事を終えた後、立木の陰に身を寄せながら、周囲の様子を窺っていた儀助の傍に集う。
「状況は?」
「粗方逃げ散った後だ、山に人が残っていても僅かだろう」
儀助が周囲で見出したのは、真新しい松明の燃え残り、足跡、逃げるのに邪魔な鎧や槍のような目立つ武具が遺棄された間道の様子。
この道を使ったのは、存在を教えておいた盗賊団の主だった者たちだろう、領主の陣とは反対の位置に下山し、敗走の様子がありありと見える事もあり、ほぼ間違いない。
逃げる時に迂闊に武装していると、逆にそれ目当ての落人狩りに遭いかねない、慌ててそれらを脱ぎ捨て投げ捨て、身一つで逃げ散った様が目に見えるようだ。
そして、彼らすら逃亡したという事は、もう、この山に盗賊団は……。
「全滅ですか」
無念を帯びた部下からの低い声は疑問というよりは確認、だが、彼らより余程に盗賊団を組織する為に奔走した筈の儀助は、その言葉に軽く頷いただけで、平静な口調で別の事を口にした。
「暫しここで待つ、休め」
「……は」
その短い返事の中に、儀助が無念さを見せない事に対し、若干不満そうな気配が見える。
彼らの見立ては正しい、儀助にしてみれば、あの有象無象の群れなど、便利な道具が無くなった程度の感慨しかない。
盗賊団は、あのお方が必要とする各地の神宝を集める、その為だけに作られた。
神宝だけを狙い盗み取るだけなら、儀助と彼に従っている四人がいれば事足りる。
だが、神宝の喪失が続けば、妖怪や式姫、人の中にも彼女のような存在の気配を感じ取り、探りに掛かる者が出てこよう。
だが、それらの宝が、価値を知らぬ野卑な盗賊集団に、金のついでに奪われたと世間に思わせられれば。
山の中に砂粒を、森の中に一本の木を隠すように、そういう類の存在を、多少でも誤魔化せれば。
そう、あの盗賊団は、ただそれだけの為に、主と儀助がしつらえた駒。
とはいえ、同じ駒でも、古参のこやつらの重要さは、あの盗賊団とは比較も出来ない。後で少し宥めてやる必要は有ろう。
まぁ、全ては後の話だ、今はただ、あの棺を……あのお方の大願の掛かった宝を持ち帰る事だけに集中しよう。
儀助が山を見上げる。
吸血姫が鞍馬に伝えたように、巨木と呼べそうな木の大半が伐採された山は、身を隠す場所が少ない。
夜の事ゆえ、自分達の姿を見咎められる事を怖れている訳では無い、ただ、あの棺を回収した後に下山する事を考えると、その道のりを含め慎重を期さねばなるまい。
担ぎ手はこの四人にさせるとなると、万一、他者に姿を見られた時は、自分が手を下さずばなるまい。
そう思うと、腰にした短めの刀が重く感じる。
やれやれ、誰にも出会わねば良いが。
必要なら躊躇いは無いし、その辺の輩に負ける気も無いが、血は好む所では無い。
顔をしかめていた儀助の胸元で、主より預かった銀の首飾りが微かにチリっと震えた。
(来たか……)
それを取り出し眼前に翳してから、耳慣れぬ響きの言葉を、呪のように呟く。
儀助もその意味までは教わっていない、あのお方の生まれた異国の言葉の一節。
唱え終わると同時に、銀の首飾りを通して、彼の頭の中に何かがするりと入り込む、何とも言葉に出来ない感覚が脳髄の辺りを痺れさせる。
(聞こえてる?)
(は、聞こえております)
頭の中で直接響くような不思議な声、それに対する、念じるだけの返答にも、流石に慣れた。
(館付近の人払いは終わった、行きなさい)
(承知しました)
お互い一刻を争う状況なのは把握している、一切の無駄口なく交信が終わる。
首飾りを再び着物の奥に仕舞い、儀助は覆面を直しながら山道の方を軽く睨んだ。
まだ、自分も主も、こんな所では終われない。
右手を上げ、任務開始の合図を送る、それと同時に、五人の男たちは再び密やかに動き出した。
説明 | ||
式姫の庭の二次創作小説になります。 「唐柿に付いた虫」でタグ付けしておりますので、過去作に関してはそちらからご覧下さい。 |
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コメント | ||
OPAMさん ありがとうございます、闇の中に身を置いたときにどう思うかというのは、善悪抜きにして常に描きたいテーマではあるんですよ、そういう対比が生まれていたら嬉しい限りです。(野良) 静かな夜の場面の描写が前回のスピード感あふれる戦闘と対照的で良い雰囲気。同じ静かな夜でも前半と後半で明と暗、白と黒なイメージの対比が見事です。(OPAM) |
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