天正十七年のリモートワーク
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 聚楽第の前田屋敷で、男たちが額を寄せ合い、

「まずいことになった」

 と相談している。

 天正十七年六月五日、会津磐梯山の裾野にある摺上原という場所で、伊達政宗と蘆名義広の軍勢が激突した。

 この戦いで蘆名勢は壊滅的打撃を被り、再起不能に陥った。城を守る兵の確保もままならず、蘆名義広は城を捨て、実家の佐竹へと逃亡。事実上蘆名家は滅亡してしまう。

 勝った政宗から、つき合いのある前田利家、富田一白、斯波義近といった秀吉の重臣たちに戦の経過とその後のことが書かれた書状が届けられた。

 政宗にとっても望外の大勝利だったようで、興奮冷めやらぬという気持ちが伝わってくる筆致だった。

 それがまずかった。

 天正十三年十月、秀吉は九州の諸大名に対して惣無事令……私戦禁止令を出している。後に関東と奥羽の諸大名に対しても惣無事令を出していて、今回の政宗の所行はこれに違反するものだった。

 さらにまずいことに、越後の上杉景勝から御注進の使者が来ていた。景勝は蘆名とつき合いがあり、蘆名に肩入れした報告をしているのは明らかだった。

「伊達殿への返信には「兎角早々殿下様へ御入魂の御理然るべく存じ候」と書きましたが……」

 富田一白がぼやくようにして言う。

 殿下様とは関白殿下豊臣秀吉のことで、「とにかく今すぐ殿下様へご事情を説明申し上げるべきです」という意味になる。

「いつ書かれました」利家が訊ねた。

「昨日です。十三日付で、すでに使者を走らせています」

「伊達殿の書状は確か、先月十六日付でしたな」

 太閤殿下の威光により世が安定してきたとはいえ、まだまだ書状のやりとりには時間がかかっていた。特に奥州への使者は、伊達への警戒心があらわな上杉領か、豊臣政権との対決を決意していた北条領を通らねばならず、足止めを食らったり、飛脚が行方不明になることがままあった。

 結局この日は、とにかく伊達殿には殿下へ釈明の書状を書くよう促し、様子を見ようということになった。

 ところが。

 利家が秀吉へ政宗の件を伝えたところ、蘆名は書状のやりとりもある存知のものだ、木っ端な土豪とはわけが違う。それを政宗の宿意で滅ぼしたとはどういうことだ、と、利家を問い詰めたのだ。

 この時、秀吉は五十三歳。この年の五月には待望の嫡男鶴松が生まれ、御機嫌良く意気軒昂という日々を送っている。

「どうなんだ、おい、どうなんだ」

 秀吉は笑っていた。馴染みの深い利家が相手だからか、軽く砕けた口調だったが、利家の頭の中は「まずいまずいまずい」という言葉で一杯になっていた。あの顔をしているときが一番まずい。

 その場は「なにぶん遠き奥州でのこと、詳しくは伊達めに釈明させ、その後仕置きを決められればよろしいかと」と弁明するのが精一杯だった。

「取りなせましたか」

「そんあわけあるか」

 利家はすぐさま政宗へ書状を書く。また翌日には利家から話を聞いた僧の全宗も政宗宛の書状をしたため、その中で

「上意御機色然るべからず候」

 と、秀吉の御機嫌が悪い、とはっきり書いている。

 この他にも、政宗と通信のあった大名や文化人たちが警告の書状を出しはじめた。

  太閤殿下の御機嫌が悪いは、それらの書状には決まり文句になっていた。

 秀吉の人となりを知る者、あるいは豊臣政権という武断から文治へと脱皮しようとしている権力の内実を知っている者にとって、これは最大級の警告の言葉だった。

 が。

 政宗はこの言葉をどう受け取っていいのかわからなかった。

 せっかく蘆名を平らげたというのに、返書には祝着の言葉は殆どなく、殿下の機嫌が悪い、と書いてあるのだ。

「機嫌が悪いのがなんだというのか」

 こんな政宗の様子を伝え聞いて恐怖したのが、上郡山仲為だった。

 騒動が起こる前、仲為は秀吉の命を受けて政宗のもとに赴いていた。政宗上洛の段取りをつけるためだった。交渉は上手くいき、仲為は都に上って宿所の確保などの準備をし始めていた。

 政宗が蘆名を攻めたのはこのときだった。

 肝心なときに奥州におらず、政宗を止められなかったのだ。

 間が悪い、ではすまされない。なぜ止められなかったと必ず訊かれる。

 きっと太閤殿下は事情を説明すれば分かって下さるだろう。しかし……。仲為はごくりと喉を鳴らす。太閤殿下は御機嫌が悪いのだ。

 仲為はまず木村清久、和久宗是という秀吉の配下と相談して、浅野長吉……後の長政……宛てに弁明の書状を書いた。

 政宗に対しても書状を送る。人も出した。最初に政宗からの書状を受け取った利家や一白らとも相談し、根回しを行った。

 書状の返事が届くのはいつになるのかわからない。片道にひと月かかることもある。行方不明になることもある。政宗からの返事を待つ仲為は苛立ち、機嫌が悪くなり、体調も崩しがちになっていった。

 そんな仲為の様子を、秀吉が伝え聞いていた。秀吉は自分のために額に汗して働く者が好きだった。北条のこともあり、政宗への怒りは「あの奥州の田舎者が」とぼやく程度におさまっていった。

 十一月になって、ようやく政宗から弁明の書状が届いた。

 一白や利家、それに全宗や仲為からの書状だけでなく、都から「太閤殿下の御機嫌が悪い」「このままでは戦になるぞ」「とにかく謝れ」「次はお前の番だ」という書状が何十通も五月雨式に届いたため、さすがの政宗も「まずい」と悟ったらしい。弁明の書状は飛脚ではなく伊達家重臣の遠藤不入斎が届けている。

 この書状は秀吉に披露された。関わった者たちが奔走している様子を見て、秀吉は御機嫌を直していた。

 そんなことよりも北条である。

 秀吉は小田原征伐の大号令を発し、小田原城を囲んだ。

 政宗は最後まで秀吉につくか同盟相手である北条につくか悩んだが、結局秀吉に降った。

 その前後、秀吉周辺から矢のように書状が届けられたのは言うまでもない。

 仲為は、

「御進物の儀は、此方において如何様にも安からべく候。左様の儀は、いささかもお手間を入れられべからず候」

 ……殿下への進物はこちらでなんとかするからそんなことは気にせずさっさと上洛してくれ頼むよ後悔するぞ。

 とまで書いている。

 

「書状のやりとりだけではよくわからん」

 小田原を囲む秀吉の大軍勢を見て、政宗はぼやいた。自国の領民の数より多いと思った。これはだめだ。かなわない。確かに機嫌を損ねてはいけない相手だった。

「大身になると、勝手に動けなくなる。俺は本当は城にいて書状を待つよりも、こうして外に出て、実際に人と会い、見聞するのが好きなのだ」

 政宗は緊張のため饒舌になっていた。

「書状だけではどうもいかん。わからなくなる。城にこもるのもだめだ。外に出なければ」

 秀吉に拝謁した政宗は、ひと目見て「まずい」と思った。自分がどれだけ危ない状態にあったのか、秀吉の御機嫌を見て悟ったのだ。

 これまで書状の差出人としか認識していなかった人たちとも会って話をすることが出来た。

 彼らは一様に機嫌が悪かった。

「やはり仕事は人と会わなければだめだな」

 

 小田原落城後、秀吉は鶴岡八幡宮を参拝。源頼朝公の奥州合戦の故事にならって宇都宮に入った。

 政宗はこの地に出向き、再び秀吉と対面している。

 この時、奥州の仕置きについて二三意見を言上したという。

 数日後、秀吉は激怒した。

 近くにいて取りなした木村清久は殺されそうになり、浅野長吉も部屋を追い出され、側近たちは右往左往するしかなく、往生したという。

 この件は書状ではなく直接のやりとりだったため、政宗がどんな余計なことを言ったのか誰にもわからなかった。

 

 

                          おしまい

説明
政宗上洛問題の顛末です。
【参考文献】「戦国のコミュニケーション 情報と通信」(山田邦明/吉川弘文館)
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伊達政宗 豊臣秀吉 戦国時代 歴史小説 

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