『鉄鎖のメデューサ』(第34章〜第40章)
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<第34章>

 

「伝えたか?」

 役目を終えて戻ってきた使者に問いかけたのは、五十ばかりの痩身の男だった。頬の肉が薄く鋭い印象の顔。切れ長の目に覗く影を宿した碧い瞳。容貌からすれば権謀術策を弄する間者とさえ思われかねないこの人物こそ、この辺境の街を治める五代目当主ギルバート・スノーフィールド伯爵にほかならなかった。

「ノースグリーン卿に長き休暇の間の軽率な行動の責任を問い、なおざりにしてきた警備隊の指揮を。そしてホワイトクリフ卿に任務における失態の責任を問い、警備隊指揮の任務を解いた上で解毒の花の探求をと。仰せのとおりに」

 深々と頭を垂れ報告した使者の様子を一瞥して、伯爵はさらに問いかけた。

「さぞ気落ちした様子であったろうな、ノースグリーンは」

「正直胸が痛みました。抗弁は一切なさりませんでしたが」

「無論だ。それが判らぬ男ではない」

 スノーフィールド伯は胸の前で両手の指をからめた。魔術士であった痩身の領主にとって、もはや癖になって久しい結印の仕草だった。

「ノースグリーンは秀でた男だ。だが、いささか情に厚すぎる。そこを突かれてみすみす奸計に踊らされた。情に負けてはならぬ重責を負いながら。

 だからこそ、あえてこの不安と心労のさなかに職務に戻ることを命じた。その意は判っておるはずだ」

 使者が頷くのを見て、伯爵は続けた。

「だが、ホワイトクリフはそうもいくまい。己が一族の誉れたる職務から解かれるとなれば、必ずや直談判にくるだろう」

 冷徹な顔つきの領主がもらした微かなため息に、使者は驚きの表情を浮かべた。

「あやつはとにかく真面目だ。向上心も決して欠けておらぬ。

 だが、思い込みの激しさと視野の狭さが目立ちすぎる。ノースグリーンにいたずらに対抗意識を持ったあげく、手もなく間者に手玉に取られた。おまけにスラムだからと民家をこじ開けるなどもってのほか。ノースグリーンに肩入れするようになったのだけは救いだが

 ノースグリーンのために働かせることで双方の絆と信頼を深めさせると同時に、ここは外の風に当てて見聞を広め、街を守るとはいかなることか頭を冷やして考えさせたいとは思うが、いずれ血相を変えてやってこよう。若いのに似ず頑固なあやつの相手をせねばならぬと思うと今から頭が痛いわ」

「はあ、それが……」

 言葉を濁す使いの者に、スノーフィールド伯は目を上げた。

「なんだ?」

「ホワイトクリフ卿はなにやら非常に意欲的でして、喜んで拝命いたしますとのことでした。実のところ、小躍りしそうなご様子とさえ見えました」

「ふむ? 意外なことよ……」

 なにを見誤ったのかとスノーフィールドの領主は自問したが、答えはついに見い出せなかった。

 

 

−−−−−−−−−−

 

 

 ゲオルクたちが持っていた花は戦いで傷ついた者たちの治療に費やされた。スノーフィールドに入れば罪人として裁かれる身のゲオルクたちは街道脇でキャンプ暮らしをするほかなかったが、戦いで死んだ者以外はわけへだてなく治療を受けた。

 小柄な妖魔も含めたすべての者が長旅に耐えられるまでに回復したある朝、一行は旅立ちのときを迎えた。すでに春を予告する小さな、しかし清楚な青い花が道端に咲き始めていた。

 ノースグリーン卿と五人のスノーレンジャーたちが街の大門の外まで一行を見送りにきた。

「こんな形で貴君を送り出すことになるとは、私のせいで本当に迷惑をかけてしまった……」

「気に病まれるな、ご領主の裁定だ。それにかの奸物を見張れるのだから本望だ」

 複雑な面持ちのノースグリーン卿に屈託なく応じるホワイトクリフ卿の姿を見て、苦笑を浮かべつつラルダがいった。

「花を入手したらまっすぐこの地へ戻ってくれる者がほしかったのだから、ありがたい話には違いないが」

「いつ新たな啓示があるか分からないということか」

 かたわらで呟くゲオルクに、黒髪の尼僧は頷いた。

 

「気をつけるんだぞ」「元気でね」

「ほんとうにありがとう。行ってくるよ」

 スノーレンジャーたちに囲まれて少し緊張した様子のクルルの肩をたたきながら、ロビンは笑った。

 そんな少年の姿を、ゲオルクの部下の一人が離れたところからひたすら見つめていた。

「どうした? ハンス」

 声をかけた仲間に、ややあってハンスは答えた。

「……そっくりなんだ、弟に」

 震えを隠せぬその声に、他の仲間たちもいっせいに彼の視線を追った。若者たちの間に沈痛な空気が流れた。

 

 ついに一行は出発した。手を振って見送るノースグリーン卿やスノーレンジャーたちの姿もみるみる遠ざかり、やがて見えなくなった。

 先頭はロビンとクルルを乗せたラルダの馬だった。小柄な妖魔は身にはゆったりした長衣をまとっていたが、頭部にはなにも着けず顔をさらしていた。だがロビンとラルダに挟まれているせいか、すれ違う旅人たちにも見落とされることが多く、くつろいだ雰囲気もあってか不思議と見とがめられずにすんでいた。

 だが続く馬の乗り手たちの雰囲気は、およそくつろぎなどとはかけ離れたものだった。

 ラルダの馬の斜め後ろには二頭の馬がつけていた。右側にゲオルク、左側にホワイトクリフが位置していたが、無言のまま前を見つめて馬を進めるゲオルクを、ホワイトクリフは緊張と敵意をむき出しにして睨みつけていた。そんな剣呑きわまりない気配のせいで、道行く人がメデューサを見落としたのではとさえ思えるほどだった。

 さらに続く騎馬の若者たちの一群が、なんとも思いつめた沈痛きわまりない表情で、これまたただごとならぬ雰囲気を漂わせていた。

 ついに途中から、ロビンは視線を背後に感じるようになった。誰が見つめているのかと思い、少年は何度か後ろを振り返った。けれど、はっきりしたことは掴めなかった。

 

 

−−−−−−−−−−

 

 

 夕方になり、一同は街道脇で野営することにした。翌日の午後には街道の十字路にさしかかる予定だったが、そこでゲオルクの部下たちは分散して諸国に派遣された仲間たちを連れ戻しにゆくことになっていた。

 

 焚き火に小枝をくべるラルダに、ロビンとクルルが身を寄せ、さらにホワイトクリフ卿がこれ見よがしに剣の柄に手をかけたまま背後に控えていた。若きナイトの視線の先で、ごま塩頭の従者は木の根元で腕枕をしたまま目を閉じていた。さらにその向こうには、若者たちが別の焚き火を囲んでいた。

 

 その若者たちの中から、一つの影が立ち上がり近づいてきた。ゲオルクが目を開けた。ホワイトクリフ卿が無言のまま剣を抜いた。

 だが、その影はまっすぐ近づいてくるとロビンの前に立った。ハンスだった。悲し気なその目を、震える唇を、ロビンは驚いて見上げた。クルルも首を傾げてまばたきした。

 ハンスの表情を一瞥したラルダが僅かに身を引いた。その緑の瞳には、焚き火の炎の不思議な揺らめきが映じていた。

 

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<第35章>

 

「なあ、名前はなんていうんだ。もしや……」

 思いつめた顔で問いかける若者を見上げて、少年はおずおずと答えた。

「……ロビン」

 すると相手は俯いた。ひどく意気消沈した、張りつめたものが切れたような様子だった。そうだよな、と呟くのが聞こえた。

 やがて若者が顔を上げたとき、目にはいっぱいの涙が光っていた。

「俺にはたった一人の家族が、弟がいたんだ。ヨハンっていう名前で、おまえとそっくりで、いつもハンス兄さんって俺のことを慕ってくれて……。

 でも、もうヨハンはいない。俺はヨハンが骨になっちまった国へ帰らなくちゃならないんだ」

 声が震え、堪えきれなくなった涙がついにこぼれた。

「俺は神に滅びた国の姿を見せられた。呆然とした。でも、まだどこか実感がなかった。驚きが大きすぎたのかもしれない。

 けれどあれから日にちがたって、だんだん分かってきたんだ。もうヨハンはどこにもいない。俺はたった一人でからっぽの国へ帰るしかないんだということが……」

 

 いつのまにか重い沈黙が辺りを支配していた。ハンスの言葉に誰もが聴き入っていることを示すものだった。

「仲間だってみんな身内を亡くした。俺だけがこんなことをいってはいけないことは分かってる。そもそも俺たちはおまえの国を陥れようとした。おまえに頼めるはずがないってことだって、

 でも、とても耐えられないんだ。このままじゃ俺はもうだめになっちまう。

 お願いだ! おまえのことを想いながら生きていさせてくれないか? できれば俺のこともたまには思い出してくれないか? だったらなんとか頑張れそうな、そんな気がするんだ」

 ロビンがとっさに答えられずにいると、仲間たちからも声がかけられた。

「そいつの頼みをきいてやってくれないか」「お願いだ!」

 だが、胸いっぱいに広がった思いに少年は呑み込まれ、それを言葉にできずにいた。共感の涙が目にあふれたが、それも混乱に拍車をかけた。胸のつまるような苦しみにロビンは喘いだ。

 

 すると、なにかが腕に触れた。舌足らずな声がおずおずと名を呼んだ。

「ろびん……」

 クルルの金色の瞳が不安そうにロビンを覗き込んでいた。触手の先が腕に触れていた。

 間近に見た小柄な妖魔の顔に、ロビンは初めて出会ったときに感じたことを思い出した。すると、思いが形をとった。紡ぐべき言葉が見出された。

「……僕の姉ちゃんも二年前に死んだ。そしてクルルは姉ちゃんに似てた。そんなふうにクルルと出会った。

 でも、クルルは姉ちゃんじゃない。人間じゃないけれど、それだけじゃなくって、クルルにはクルルの思いがあるって分かったから……」

 

 たどたどしく話す言葉は、話すそばから重い沈黙の中に吸い込まれた。これでいいのだろうかという不安をロビンは感じたが、形になった思いを頼りに言葉を続けた。

「クルルは姉ちゃんじゃないけれど、僕にはもう姉ちゃんと同じくらい大事なんだ。だから、僕はあなたの弟にはなれないけど、それでも僕のことを思ってくれるんだったら、別の大事な誰かになれるんだったら、僕は嬉しい……」

 一瞬の沈黙のあと、ハンスがロビンの前に膝をつき、その手を取った。

「ありがとう! ロビン、本当に……っ」

 あとを続けられずに嗚咽をもらすハンスのその声に、小さな、繊細に打ち震える喉声が重なった。クルルの触手が、ロビンの手を包むハンスの手にそっと触れた。ハンスが顔を上げ、仲間たちも立ち上がった。

「メデューサが鳴いた……」「あんな声で鳴くのか……」

 若者たちが囁きあう中、ハンスは手に触れた触手をロビンの手に重ねて、改めて自分の手を重ねた。若者たちが集まってきた。誰もが涙を浮かべていた。

 

 

「その無粋なものはしまっておいたほうがいいぞ」

 抜き身の剣をぶら下げたまま、思いもよらぬ光景に心奪われていたホワイトクリフに、いつの間にかそばにいたラルダがそっと声をかけた。あわてて剣を収めたホワイトクリフは、うるんだ目を見られまいと顔をそむけた。そして視線の先にいたゲオルクの顔に浮かぶ奇妙な感慨を認め、思わず話しかけた。

「きさまもメデューサの声は初めて聞くのか?」

 ゲオルクは若きナイトに視線を移し、頷いた。

「出会えば石にされるかもしれぬ妖魔だ。俺たちにとっては殺すか追い払うほかない相手だった。隣りあわせで住んでいたのに、いや、そうだったからこそ分からなかったというべきか……」

「これからは、それも変わってゆくのだろうか」

 ラルダの呟く中、三人は少年と小柄な妖魔を囲んだ若者たちの姿を、いつまでも見つめていた。

 

 

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 次の日も一行は馬を走らせたが、雰囲気はがらりと変わっていた。刺々しさや沈痛な影はもはやなく、蹄の音を轟かせながら、彼らは力強くひた走った。

 太陽が西に傾き始めたころ、行く手に十字路が見えてきた。若者たちの集団が二手に別れた。それぞれが東と西に進み、諸国を訪ね仲間たちを合流させながら滅びた祖国へ連れ帰るべく。

 十字路に差し掛かる寸前、ハンスがロビンの乗った馬の横に近づき呼びかけた。

「ロビン、いつか俺たちの建てる国を見にきてくれ!」

「きっといくよ! ハンス」

 ロビンが答えたとたん、若者たちは十字路を右と左に曲がっていった。西に進んだ一団の後ろで手を振るハンスの姿もたちまち見えなくなった。

 

 そして見送ったロビンの胸の中には、ひとつの決意が生まれていた。

 

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<第36章>

 

「薬のことを教えてほしいって?」

 焚き火に枝をくべる手を止めて訊き返したラルダに、ロビンは頷いた。

「きのう姉ちゃんのことを思い出して、昼間ずっと考えていたんだ。薬が買えずに目の前で姉ちゃんが死んじゃったあの日、僕はなにもできなかったけれど、今もスラムには、薬も買えない人はいっぱいいる。僕が薬を使えるようになれば、そんな誰かの役にたてるかもって。

 あなたは薬や薬草にくわしい。街への旅の途中に寄った村で、病気の人に薬を作ってあげたっていってたでしょ? だったら、僕もそんなふうになれたらって」

「そうか……」

 ラルダの声には感慨がにじんでいた。

「実は私も、せめてロビンに解毒の花の扱い方だけは教えたいと思っていたんだ。クルルを樹海に帰し解毒の花を手に入れれば、ひとまず今回の件は解決する。今までの経験からすれば、新たな啓示をその場で受けるかもしれないから」

 尼僧のその言葉に、少年は虚を突かれた。

「なんだか僕、スノーフィールドにはいっしょに戻れると思ってた」

「私はもともとよそ者だぞ」

 半ば呆然と見つめるロビンに苦笑しつつ返したラルダ。そこへホワイトクリフ卿が割り込んだ。

「そもそもなぜ、あなたはこんな旅を続けておられるのです? ラルダ殿。なにゆえ続けねばならぬのです?」

 若きナイトのその言葉に、ラルダの表情が陰った。

 

「……私はなにか、罪を償わなければならないらしい」

「あなたに罪などあるはずがっ」

 思わず遮るホワイトクリフ卿だったが、尼僧の緑の瞳に浮かぶ煩悶の色に言葉を続けられなくなった。

「二年前、私は神の声を聞いた。それより前の記憶は一切ない。自分がいつなにをしたのか、まったく分からない。だが……」

 燃え尽きてゆくねじれた枝を見つめる瞳に炎が映えた。それはゆらぎ、ラルダ自身の魂の姿であるかのごとくおののいた。

「旅を続けるうちに、神の意志は私を多くの者の運命を狂わせる出来事に向きあわせるところにあるのではと思うようになった。そしてあの時ノースグリーンが運命を呪うと叫んだことで、私は気づいてしまったんだ。私はなにか恐ろしい運命に襲われ、同じことをいったことがあったと。すべてを呪い心を歪ませ、誰かに恐ろしいことをしてしまったのだと……」

「……怖れておられるのか? あなたご自身の過去を」

 

 応えはしばらく返ってこなかった。ようやく返ってきた声は、鎧のように硬質なものだった。

「すべては旅路の果てに明らかになるはず。目を背けることなどできない。許されはしない」

 重い沈黙の中、再びロビンはラルダが本来の在り方に至れずにいるのだと感じた。もの哀しさで胸が溢れそうだった。

 

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<第37章>

 

 次の日から、ロビンはラルダに薬草の種類や薬の作り方について学び始めた。スノーフィールドから南下する旅であったので、最初はロビンも名前なら知っている植物が大半を占めていたが、それでも様々な植物がいろいろな薬効を持っていることや、その効力を引き出す手法の多岐に渡ることは少年にとって全く未知の領域だった。

 そして寒冷地であるスノーフィールドから遠ざかるにつれて、植物の種類は飛躍的に増えていった。ロビンは生まれ育った街の自然の厳しさを、そしてなぜスノーフィールドで薬の入手が困難なのかを実感させられた。

 ラルダは訪れた村で病人や怪我人を治療するとき、ロビンに助手を勤めさせた。作業そのものをできるだけさせながら、症状の度合いに応じて薬を調合するコツを教え込んでいった。そして少年が技術を修得するにつれて、しだいに作業自体を任せるようになった。

 

 

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「なかなかやるじゃないか、ロビン」

 とある村で子供に解熱の薬を作った帰り道、ゲオルクが声をかけた。

「こんな短い期間でここまで腕を上げるとは正直思わなかった。これならたしかに薬を作って身を立てることはできるだろう。だがスラムで貧しい者に薬を売るとなれば話は別だ。技術だけでは解決できない問題がある」

「薬の材料がスノーフィールドでは手に入りにくいこと?」

「そうだ。遠方から運んでこなければならないから材料自体が高値になる。だから貧しい者では手が届かない。普通の取引にゆだねていたのでは、高値で売ろうとする輩が横行することになる。ここを解決できなければ安い薬は作れない」

「それは私がなんとかしよう」

 ホワイトクリフ卿も話に加わった。

「かかった費用を肩代わりするか、いっそ自前で薬草を調達する形を整えるかだろうが、怪しげな者に調達させるくらいなら自前で調達したほうがよさそうだ。セシリア殿を治すことができればノースグリーン卿の助力も得られるかもしれない」

 ごま塩頭の従者も若きナイトに頷いた。

「ここを間違えると犯罪の温床になりかねん。治安維持の一環と思ってせいぜい手立てを講じることだな」

「貴様にはいわれたくない話だな」

 憮然とした顔でホワイトクリフ卿が応じた。

「蛇の道は蛇ってやつだ」

 ゲオルクの薄い唇に苦笑が浮かんだ。

 

 

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 一行が南下するにつれ、あたりの様子はどんどん様変わりしていった。薬草を学ぶロビンにとって、それは植生のさらなる多様化として捉えられた。冬がまだ終わりきらぬスノーフィールドを旅立つとき、ほんの小さな草花が白一色の世界にささやかな色を添えていただけだった世界は、春の訪れとともに浅い緑の草原にさまざまな色合いの花々が競い合うものとなり、春が過ぎ行くにつれ、より深い色の葉を茂らせた潅木の林へと姿を変えた。

 そして世界の緑の深まりにつれ、小柄な妖魔のつややかな鱗の緑があたりの色あいになじんでいくのが実感された。ラルダからかつて聞いたとおり、それは周囲に溶け込む色だった。クルルも故郷に近づいていることを実感しているらしく、しぐさ一つにも生気と喜びが増してゆくのがうかがえた。

 

 

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 そして太陽が天頂高く輝くある真昼どき、一行の眼前には広い草原のむこうに深い森がどこまでも広がっていた。大樹海の北の端へと、彼らはついにたどりついたのだ。途中の分かれ道を東に進めば滅びたヴァルトハール公国だったが、諸国を訪ねながら仲間を集める若者たちはまだ戻っていないはずだった。いまだ死の支配する土地へは向かわず、彼らは道から草原に馬を進めた。

 草原を渡ってたどりついた森のはずれに岩があった。その岩を見たロビンはクルルに話しかけた。

「二年、そう、二年たったらここへ来るよ。太陽が空の一番高いところにいるとき、この岩のところでまた会おうよ」

 馬からおりた少年は小柄な妖魔を馬からおろすと、目に浮かんだ涙を見せまいとその細い上体を抱きしめた。姉によく似たその顔を、とても正面から見られないように思った。うっかり泣いてしまったら、ここで別れることなどできなくなりそうだった。

 

 そんなロビンの耳に、けれど舌足らずな声が聞こえた。

「ろびん、ナミダ……?」

 赤い眼点のある触手がいくつも自分の顔を覗き込んでいるのに気づき、ロビンは笑った。涙が頬をつたったけれど、つい笑ってしまった。相手が人間ではないことをまるで忘れていた自分が、なんだかおかしかった。そして、そのおかしさで笑っていられる今こそ別れのときだと思った。

 涙をふくと、ロビンはクルルの肩に両手を置いて正面からその顔を見つめた。姉の面影があるものの、それ自体別の存在である小柄な妖魔の姿を、蛇に似た触手も、石化の魔力を秘めた金色の瞳も、首の根元をおおう白い毛も、腹の赤い横長の鱗と森の色に溶け込む艶のある緑の細かい鱗も、それぞれ三本の爪をそなえた短い腕と長い脚も、そして短い尾もそのまま脳裏に焼きつけた。鍵がなくてはずせなかった鎖の切れ端をつけた金属の首輪だけは心残りだったが、それでも故郷の風景の中、クルルの姿は調和のとれたかけがえのないものに見えた。ここまで来ることができて本当によかった、そう心から感じた。

 

「じゃあ行くよ、クルル。セシリアも会おうっていってたんだ。二年たったらきっといっしょに来るから」

 肩に置いた手に巻きついていた触手をそっとはずすと、ラルダが馬を寄せてきた。ロビンが馬に登ると、クルルも岩の上に登り馬上の二人の姿を見てまばたきした。黒髪の尼僧が柔らかな声を返した。

「元気でね。クルル」

 馬が進み始めると、離れたところから見守っていた二人も合流した。街道に向けゆっくり戻る馬上から、少年は岩の上の小柄な妖魔の姿がすっかり見えなくなるまで、喜びと寂しさをともども噛みしめながら、ひたすら見つめ続けていたのだった。

 

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<第38章>

 

 一行は樹海を西に迂回しながら先を急いだ。まっすぐ南下すれば人魚を崇めたルードの村だったが、ハイカブトの自生地は大陸の西南端だったから旅路はまだ半ばにも達していなかった。花を入手したらスノーフィールドに最短で戻らねばならないが、その道をゲオルクが知っていた。彼はホワイトクリフに地図を書き、途中で宿泊できる街や村、注意が必要な様々なことなどを詳しく教え込んだ。

 一方ロビンはラルダと相談しつつ、旅の途中で見かけた滋養に富む植物を集めていた。セシリアを花で解毒できても、あれだけ痛めつけられた体を回復させるには特別な手立てを講じる必要があった。解毒の花の効能を損なわず筋肉の削げた肉体を癒すにはどれが最も有効なのか。二人の熱のこもった検討はしばしば深夜にも及んだ。

 

 

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 極北の街に生まれ育ったロビンやホワイトクリフを痛めつけ、終わらないとさえ思わせた夏の暑さもようやくやわらぎ始めた。そして風に冷たさを感じるようになり始めたころ、ついに彼らは目的地にたどりついた。

 灰色の曇り空の下、空の色を映したかのような色の花をつけたひょろ長い草の群生が丘一面に広がっていた。

 

「これがハイカブトの群生だ。土質にあった場所にしか生えず、ここにしか自生していない。そのかわり根が持つ毒のせいで他の植物は一切生えないし、葉や茎の毒も虫や獣に食べられることを防いでいる。この草にとって、この毒こそが生きるための手だてなんだ」

 そういった黒髪の尼僧の顔に、突然光がさした。光がさし込む灰色の雲の切れ目へと、ラルダは目を向けた。緑の瞳が光を受け輝いた。

「啓示の刻かっ……」

 ホワイトクリフ卿が呻く中、光は薄れて消えた。しばしの瞑目のあと、ラルダはゲオルクに問うた。

「見たか?」

「女のような顔の虹色の鳥が、片方の翼を矢に射抜かれていた。あれは……?」

「幻惑の妖鳥セイレーン。人魚とはまた異なるが、やはり精神に作用する力を持つ妖魔だ。ならば我らの道は、まだ分かたれぬということか」

「……神はいったいなにを考えておられるのだ!」

 ホワイトクリフ卿のその声に、皆の視線が集まった。

「あなたのような人が荒野の困難な旅をいつまでも続けなければならないなんて。あなたの罪とやらがどんなものか知らないが、あまりに過酷に過ぎる話ではないか!」

「気持ちはありがたいが、これは贖罪なんだ。ホワイトクリフ。ここを経なければ、おそらく私は私になれない。神が歪められたものをあるべき姿に戻すことを私に課したのは、きっとそういう意味なんだ」

「……だったら、なぜ私には神は語らない? 私はあなたの役に立ちたいのに、私にできることは何もないとでもいうのか!」

「あなたは罪人ではない。すでに自分自身の生のさなかにある。あなたのあるべき姿に。だから神はあなたに語らないんだ」

 ラルダの声が憂いに陰った。

「どんな経緯だったのか、それはわからない。だが、私は誰かの運命を歪めてしまった。これだけの贖罪を負わされている以上、おそるべき苦しみをもたらしたに違いない。ならば、私のせいであるべき姿を失う者を、もう出してはならないんだ……」

 若きナイトは唇を咬み沈黙した。ややあって、苦渋に満ちた声が告げた。

 

「正直にいえば、あなたとどこまでもゆければと思う。しかし、あなたを苦しめるのは本意ではない。あなたの重荷になるのだとなれば、もう無理はいえない」

「すまない。ホワイトクリフ」

 つぶやくラルダの横を通りすぎ、ホワイトクリフはゲオルクの正面に立った。一瞬唇を固く結んだが、相手の目を見据えて語り始めた。

「……私は最初きさまを信用していなかった。だが、ここまでの道中において、きさまは二心なく仕えているように思える」

 ゲオルクは無言で若きナイトを見返した。

「きさまがラルダ殿と共に行くのは不本意だ。だが、今の私ではきさまに及ばないのも確かだ。ならばその力、きっとラルダ殿を助けるため使ってくれ!」

「力はなにかをなし遂げるためのもの。俺は祖国に忠誠を誓い、全力で仕えていたつもりだ」

 感慨をにじませたさびた声が応じた。

「だが、自分が実はとっくに滅びた祖国のため働いていたことを見せつけられたあの時の空しさ。己の中で根拠としていたものが一瞬にして崩壊した衝撃に続く虚無。とても耐えられるものではなかった。だから神がなすべきことを示したとき、俺は縋るしかなかった。力をふるう場がないと生きてゆけぬと思い知った」

 薄い唇に自嘲が浮かんだ。

「俺は犬として生きてきた。犬としての忠誠だ。そういうものと思うがいいさ」

「ならば、私はいつかきさまに追いつく、追い越してやる!」

「ご苦労なことだ。まあ、せいぜいがんばることだな」

 そんな二人のやりとりに、ラルダの声がかぶさった。

「今度の場所は遠い。大陸の東岸に立つ断崖の城だ。急ごう」

 

 そこへ、ロビンが声をかけた。

「ねえ、二年たったらあの樹海の岩の前に集まろう。難しい話はよく分からないけど、それがいいような気がするんだ」

 向き直った三人に、ロビンは続けた。

「前から思っていたんだけど、ラルダさんはクルルと向き会うとなんだかとっても柔らかいんだ。ああいうあなたが本当のラルダさんなんじゃないかって、そんな気がするんだ。

 それに、二年たったらゲオルクさんの国にもみんな帰ってるんでしょう? ハンスにも会えたら嬉しいよ。

 運命がどうとかは分かんないけど、あんな風に出会ったとき、誰もみんなでここまで来るなんて思わなかったよね。ひどい目に遭った人も、つらい思いをした人もあんなにいたのに、なんだかこんなふうになれて良かったって思えて……。

 だから、みんなでまた集まれたら、それがいいような気がしてしかたがないんだ」

 

「そうかもしれないな、確かに……」

 ラルダが呟くと、ゲオルクとホワイトクリフも、改めて灰色の花に覆われた丘を見渡した。

「二年後の夏至の正午、あの岩でということか。面白いかもな、確かな約束は難しいが」

 ゲオルクがいうと、ホワイトクリフが返した。

「そのため、我らはそれぞれ自分のなすべきことをすればいい。東の国も急ぐかもしれぬが、こちらもセシリア嬢のところに花を持ちかえらねばならぬ。きさまがしたことの後始末だ。感謝してほしいものだな」

 ゲオルクは口元を歪めて笑うと、馬を下りてロビンを誘い毒草の群生に分け入った。

「茎にも毒がある。花の根元の少し上の部分を摘み取れ。こんな具合だ」

 ラルダもホワイトクリフもやってきた。四人がかりで摘んだ花は、たちまち大きな袋いっぱいになった。

 そして彼らは馬に乗り、互いの顔を見交わした。

「では」

 ラルダがいうと、ロビンが頷いた。

「二年後の夏至の正午」

「樹海の北のあの岩で」

 馬首をそれぞれ東と北にめぐらせながら、ゲオルクとホワイトクリフが呼び交わしたのを合図に、馬に鞭が当てられた!

 灰色の丘を背に北へ駆け出した馬上から、ロビンは東へと走り去る二頭の馬を見送った。だが、ホワイトクリフは北の行く手を見据えたまま、あえて視線を東へ向けようとはしなかった。

 

 

−−−−−−−−−−

 

 

 大陸を北東にひた走る旅路につれ、秋は過ぎ冬が訪れた。なじみ深い寒気を肌に感じると、大陸南部の夏のあの暑さはなにかの間違いだったような気さえした。そしてある夕暮れどき、ついに彼らは故郷スノーフィールドの境界線に踏み込んだ。

 白く凍りついた森を抜けるとき、哀しげな遠吠えが聞こえた。見ると小高い丘の上に、一頭の純白の狼がいた。

「白狼か! こんな場所で見かけるとは」

「あれが白狼? 雪の精霊の? だったら見ると幸運が来るんでしょ?」

「そうだ、幸先がいいぞ。セシリア嬢はきっと助かる!」

 大門の門番の誰何ももどかしく、かつて小柄な妖魔が疾走した大通りを彼らはひた走った。ノースグリーン邸で馬から下りると長身のナイトが走り出た。二人の手を取り涙を浮かべて感謝するノースグリーン卿の顔には、耐え続けた心労が深く刻み込まれていた。

 

 持ちかえった灰色の花をロビンが水に溶くうちに、石化解除のため呼ばれた高僧が寺院からやってきた。寝室の寝椅子の上で、セシリアはあの日のまま微笑んでいた。高僧が印を結ぶと、石の色をした肌に血が通い始めた。

 まぶたが震え、ゆっくりと開いた。黒い瞳が居並ぶ人々の顔に焦点を結んだ。

 

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<第39章>

 

 草原を渡る夕方の風に乗って、笛の音が音階をなめらかに舞い降りた。

 無蓋の馬車に積んだ荷物の上に腰掛けた細身の少女が吹く笛の音は、風が遠ざかると旋回を緩めた。風とともに舞うようなその調べに、隣で聴くロビンはただ聴きほれていた。

 セシリアの笛の調べは前の馬車の中のノースグリーン卿にも、後ろの馬車の中のホワイトクリフ卿にも、そしてそれらの馬車を護衛するスノーレンジャーたちにも等しく届いていた。いつしかそれは、皆が待ち望む夕べのひと時になっていた。以前はわずか一つの音に縛られ、ただ悲痛な諦念を音色に滲ませるだけだった調べは、ときに憂いの回想が挟まれることで奥行きを感じさせる静かな幸せの響きを主調とするものになっていた。それは聴く者すべての胸の奥に、深き淵より生還した者の喜びと感謝を伝えてやまなかった。

 

 彼らは旅の目的地で夜を過ごすため、かつてヴァルトハールという名の公国があった場所を目指していた。それは任務だった。スノーフィールドを陥れようとした謀略国家が滅びた後、そこに人間が戻っているならばどのような状況にあるのか確かめることを、領主ギルバートは事件の渦中にあった二人のナイトとスノーレンジャーたちに命じたのだ。

 当初ノースグリーン卿は、この旅にセシリアが同行することに難色を示した。謀略の標的となり死の淵にまで追い込まれた娘を下手人には会わせたくないとの思いゆえだった。そんな父親に、それでもセシリアは願ったのだ。私はなんとか死なずにすんだ。でも彼らはみな大事なものを根こそぎ失った。十分すぎるほどの罰を受けた彼らが、それでもロビンの話のように頑張っているのなら、それはきっと私にも力を与えてくれるから、と。

 いまだ両脚に十分な力が戻っておらず一人で歩けるまで至っていない娘の願いを受け入れはしたものの、ノースグリーン卿の胸中は複雑だった。だが、夕べの祈りのような笛の音を毎日聴いているうち、セシリアのいわんとすることが分かるような気がしてきた。どんなものを見せることになるかへの一抹の不安は残っていたものの、今や父親の胸は、運命の歪みのもたらした苦しみの中から立ち上がろうとしている娘に対する誇りにも似た気持ちで満たされていた。

 セシリアの笛の調べを耳にしつつ、そんな思いにノースグリーン卿がひたっていると、御者を務める警備隊員が馬車を止め誰何した。物思いからさめた卿もまた馬車の窓から前を見た。

 

 三人の騎馬の者たちが前方から近づいてきた。夕映えを背に浮かび上がった細身で優美なその姿は、極北の辺境都市に住む一行にとって話に聞くばかりの者たちだった。

「エルフ族。樹海の賢者の一族……」

 ノースグリーン卿の呟きに、誰何への返答が重なった。澄んだ響きの、しかし厳しさを含んだ声が告げた。

「我らは奇しき縁により、グリュンヘルツの里と交わりを持つに至った者。故に問う。汝らかの里にいかなる用向きか?」

「そこにはハンスという人はいますか? 僕たちハンスに会いに来たんです。僕、ロビンっていいます」

 少年の声がそういうと、エルフたちの態度がやわらいだ。

「では、汝は奇しき縁に連なる者。我らの敬意と友愛を携え先に進まれよ」

 すれ違いざまに一行に一礼を交わすと、エルフたちは無駄のない動きで馬を走らせ姿を消した。エリックが口笛を吹いた。

「エルフに一目置かれているのか、たいしたもんだな大将」

「僕、なにがなんだか分からないや……」

「わたくしには見当がつきましてよ。まあ行けばわかることですわ」

 そんなメアリから十分離れた場所で、アンソニーがアーサーとリチャードにこっそりぼやいた。

「……子供にだけは、優しくできるんでありますなぁ」

「わが隊に子供がいないことを初めて残念に思ったぞ」

 アンソニーの言葉にリチャードが生真面目に返し、アーサーの顔にも苦笑が浮かんだ。

 

 

−−−−−−−−−−

 

 

 日が暮れてからたどり着いたその里の簡素な門の脇に、かがり火の明かりに照らされて旗がひるがえっていた。緑の地色を背景に、簡略化した人とメデューサの横顔が向き合う図柄だった。

「こんなことだと思いましたわ」

 メアリが得意げにいう間にも、ロビンの名乗りを聞いた門番に呼ばれたハンスが駆けてきた。一行を中に招き入れるやいなや、喜びを満面に浮かべたハンスはロビンの両手を握りしめ、一同を村の広場へと誘った。

「ちょうど夏至の祭りの準備をしていたところなんだ。たいしたものはないが、存分に食べて休んでくれ」

 焚き火の横に積み上げられた食べ物には、野菜や穀物や川魚の他に、果物や鳥獣など草原では手に入らない品も含まれていた。それを見てホワイトクリフ卿が問いかけた。

「ここへ来る途中エルフたちと出会った。彼らと交易を交わしているのか? きっかけはあの旗か?」

 ハンスは頷いた。

「一年ほど前にあの旗を掲げたら、彼らはたちまちやってきた。突然滅びたこの国の異変をどうやら調べていたらしい。我々の話に彼らは感じ入ったらしかった。自分たちはメデューサを恐れはしないが、それでも心を通わせるところまではなかなかゆかぬ。人間にもそんな者がいるのかと。それ以来のつき合いだ。小さな村にすぎない我々の様々な困難に関し、彼らからは色々と助言や助力を受けている。みんなロビンのおかげだ」

 照れくささいっぱいの顔で、でも心底嬉しそうにロビンが笑った。

「旗の緑は草原の意味か?」

「……エルフたちとつき合い始めてからは森の緑の意味も込めているが、本当は人魚の髪の色の意味合いも込めているんだ。誰も自分の目で見たものはいないが、この国の始まりの出来事として忘れてはいけないことだから」

 ハンスはロビンに向き直ると姿勢を改めた。

「ラルダは人魚の墓がどこか話していなかったか? 知っておくべきだと探してはみたんだが、とうとう判らなかった」

「小川のそばに埋めたらしいけれど、僕も詳しい場所は知らないんだ」

 ロビンがそういったとき、門番を勤めていた青年がまた駆けてきた。

「ラルダとゲオルク隊長がやって来た!」

 

 その場の者たちはみな門へ急いだ。すでに多くの者たちが門に集まり、黒髪の尼僧とやや白いものの増えたかつての隊長を挨拶責めにしていた。一見したところ、挨拶を返す二人も嬉しそうな様子だった。この里の姿を喜んでいるのは疑いなかった。

「背が伸びたなロビン! 声も少し変わったか?」

 そういうラルダの笑顔の奥に、だがロビンは影を感じ取った。隣にいたホワイトクリフも眉をひそめた。ハンスに呼ばれ尼僧がその場を離れると、従者が二人に耳打ちした。

「やはりおまえたちは気づいたか」

「どうしたの? 鳥を助けることはできなかったの?」

「いや、セイレーンを助けることはできた。だが、その礼としてあいつが教えたことに、ラルダは打ちひしがれているんだ」

 ゲオルクは少年を見通すようなまなざしで見つめたあと、その両肩に手を乗せ言葉を続けた。

「事情は察したつもりだが、おまえの方がうまくやれるだろう。話を聞いてやってくれないか」

 

-8ページ-

 

<第40章>

 

「そうか、ロビンには気づかれていたのか……」

 焚き火を囲んでの歓待が一区切りしたところで座を離れ赴いた建物の陰で、ラルダが応えた。その沈痛な声に、ロビンは言葉を続けられなくなった。

 少年にとって果てしなく思えた時を経て、ようやく口を開いた黒髪の尼僧の声は、もはや呻きにも似たものだった。

「私たちはなんとかセイレーンを助け出すことができた。幻惑の魔力の秘密を暴き、それをもとに戦に応用できる大規模な術式を編み出そうとする魔術師に捕らわれていたんだ。ゲオルクの助けがなければ救出は到底おぼつかなかった。

 いよいよ翼の癒えた妖鳥を放すことになったとき、セイレーンが私にいったんだ。おまえは誰かを苦しめたことがあると思っているはず。自分には、その相手かもしれぬ者の思いが微かに感じ取れる。おそらくその者は自分の同族を身近に置いていると」

「どういうこと? それは」

「人魚と同じくセイレーンも精神の領域に働きかける力を持っている。違うのは人魚の力は相手に作用する力が大きく発達しているが、セイレーンの力はむしろ感受する力、感応する力に秀でている点だ。そして同族同士の力が感応しあうとき、その範囲は優に世界を覆うほどのものになるという。

 だが、そのセイレーンは告げた。その者はどうやらこの世界の者ではなさそうだと」

「……それはなぜ?」

「同族の力を介した場合、この世界の者であればその者の存在の形を感じ取れるが、それが全く見えないというんだ。男か女か、若い者か老いた者かさえわからない。あまりにも微かに、なのに深く強い思いが私に向けられているのだけが感じられるのだと。しかも、それは……」

 ラルダの言葉が途切れ、その顔が俯いた。

 

「明らかにその者は苦しみのさなかにあるという。ならばと私は思ったんだ。その強い思いは私への恨み、憎しみに違いないと。けれど、あのセイレーンはおそらくそうではないといったんだ。そういう負の感情は感じられない。はっきりしているのは、その思いがそれほど魂の深いところから出たものでなければ、そして同族がそばにいるのでなければ、その思いを自分が感じることはできなかったはずだということだと。同じ世界にいるのならば、こんなことは考えられないと」

 ラルダが顔を上げた。その緑の目に光る涙にロビンは胸を突かれた。

「なぜ、そんなことになるんだ? 私はいったいなにをした? しかもその者が今も苦しみのさなかにあるというのに、会うことさえもできないのか? ならば、私には永遠に罪を償うことなどできるはずが……っ」

 叫びとなるはずの声が抑えつけられ、苦しげによじれていた。その痛切さに、少年の目からも涙がこぼれた。

 

 だが、ロビンはかつてのロビンではなかった。この二年の間に体験したことが、以前ならいえなかった言葉を紡いだ。

「……あれから僕はスラムで薬を作ってる。たくさんの人に遠くから薬草を届けてもらって、それで薬を調合している。それで助けられた人ももちろんいた。

 けれど、だめだった人もいた。そんなとき、やはり無力だって思ってしまう。でも、そんなに一人の力で何でもできるわけじゃない。薬一つ作るのだって、皆に助けてもらってやっと作れるんだし……」

 かつてハンスに語りかけたときのような不安のただ中にありながらも、ロビンは自分の体験から確かだと感じたことを頼りに、懸命に話しかけた。それでもその耳には、その語り口はかつてと変わらぬたどたどしいものとしか聞こえなかった。だから少年は気づけなかった。そんな己の言葉にも、体験ゆえの重みは確かに宿っていることに。

「クルルだって皆の力で森に帰れたんだ。誰かが一人欠けていたら、帰れなかったと思うんだ。セイレーンだってゲオルクさんがいたから助けられたんでしょう? セシリアだって。だったら、自分の力で、自分だけでって思いつめなくていいと思う……」

 相手がまた俯いた。いっそう不安にかられたロビンは、必死でぎこちない言葉を続けた。

「たとえその人に手が届かなかったとしても、直接その人に償うことができなくても、その人のそばには誰かがいて、その苦しみをやわらげているかもしれない。他の人に救われることのほうがきっと多いと僕は思うから、あなたがこの世界で誰かを助けるのだってやっぱり償いだと思う。絶対に無駄なんかじゃないんだ。それに……」

 自分の思いを見失うまいとの一心で、少年は続けた。

「その人の思いがそうして届いたのなら、あなたの思いもいつかきっと届く。だから、」

 突然、腕を掴まれ引き寄せられた。気がつくと、膝を落としたラルダがすがりついていた。肩に埋められた顔から、くぐもった涙声が聞こえた。

「すまない。でも、少しだけ。少しでいい、から……っ」

 まだ自分より背も高く、常に硬質なものに覆われているような黒髪の尼僧の内なる魂の震えをじかに感じながら、ロビンはただ立ちつくしていた。

 

 

「……子供でないといえたもんじゃないセリフだな」

 建物の角を折れたところで呟くホワイトクリフ卿の憮然とした顔に、ゲオルクがじろりと視線を向けた。

「あれはロビンだからさ。小僧なら誰でもというもんじゃない。十年前の自分がどんなだったか、まあ思い出してみるんだな」

「み、見てきたふうな口を! どこまで私を愚弄するかっ!」

「声が大きいですじゃ。ロッドの若」

 老執事グレゴリーの口調をまね、ごま塩頭の曲者は笑った。

 

 誰に請われたものか、いつしかセシリアの笛の音が穏やかに、深まるしじまに寄り添うかのような風情で流れていた。

 

 

−−−−−−−−−−

 

 

 空の高みへと登りゆく太陽に照らされて、澄んだ流れが涼しげなせせらぎの音をたてつつ色鮮やかな水草を洗っていた。樹々に覆われた山裾から流れ出た小川が、わずかに傾斜した平原をゆるやかにうねりながら、はるか彼方に消えてゆくのが一望された。きらめく流れの上に腕のような枝を伸ばすしなやかな若木の根元を、黒髪の尼僧は指し示した。

「人魚はそこに眠っている。川の流れゆく先がいちばん遠くまで望める場所だったから。ああ、その水草! あの人魚の髪の色とそっくりだ」

 

 ロビンはあたりを見回した。蒼穹に輝く太陽の下、ゆるやかにうねる草原も豊かな樹々の連なる森もたとえようもなく美しく、その豊かな緑の色彩を白銀のようにきらめく川が縫っていた。

 これほど美しい世界の中、けれど人魚は命を落とした。海からこんなに引き離されて。ロビンはそれが悲しかった。「あるべき場所で、あるべき姿で」とラルダに告げた神の声の谺を聞く思いだった。その意味が深く胸に迫り、ロビンは自ずと頭を垂れた。誰もが同じだった。

 

 一同が黙祷を捧げたあと、里の若者たちはここに建てる墓標についての相談を始めた。ハンスがロビンのそばにやってきた。

「ここから行くなら小川に沿ってしばらく下るのが、あの岩への近道だ。行こう、クルルが待っている。やっこさんもよほど待ち遠しいらしい。もうここ数日、昼どきになるとあいつは岩の上にいるんだ」

 思わず目をうるませたロビンを見たハンスが、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

「会ったらきっと驚くぞ」

 

 

−−−−−−−−−−

 

 

 遠い海の方角へ大きく曲がる小川と別れて草原を渡った一行の目に、あの大岩がついに見えてきた。ちょうど天頂に登りつめた太陽から降りそそぐ光を浴びて、岩の上にうずくまるものの姿がつややかな緑のきらめきを放った。草原ではゆっくりとしか進めない馬車がもどかしく、ロビンは跳び降りると岩にむかって駆け出した!

「クルルーっ!」

 ロビンが叫ぶときらめく姿が立ち上がり、細身のすらりとしたシルエットが青空を切り取った。

「え?」

 ロビンの足が止まった瞬間、それが岩の頂から跳躍した。一直線に駆けてくる姿が視界の中でみるみる大きくなるのを、少年はあっけにとられて見ていた。ついに目の前へやってきた相手を、彼は呆然と見上げた。

 もう小柄とはいえなかった。ラルダやメアリと背丈はほとんど違わなかった。緑と赤の鱗もかつてなかった色艶で、人とはまた異なる均整美を備えた姿を鮮やかに包んでいた。

 けれど外せなかった金属製の首輪からは、いくらか錆びた鎖の切れ端が胸元の真っ白な毛に垂れていた。そして色鮮やかな妖魔は、見覚えのある仕草で首を傾げてまばたきした。舌足らずな、あの懐かしい声が呼びかけた。

「ろびん……」

 そして小さな三本指の両手に持つ赤くて丸いものを、クルルはロビンに差し出した。

 河舟で売っていたものとは全然違った。大きく、信じられないほど香り豊かだった。出会ったあの日に自分が差し出したのとはまるっきり別物だったけれど、それでもそれは林檎だった。

 その見事な果物のイメージが背の伸びた妖魔の姿と重なった。あるべき場所で生きるということの意味が、海に戻れずに死んだ人魚の運命に感じたばかりのものを背景に浮かびあがった。目がうるみ、クルルの姿と大きな林檎がにじんで溶けあった。ぐいと涙を袖で拭い、ロビンは林檎を一口かじった。このうえなく豊潤な果汁が口を満たすと、本当によかったという気持ちも胸一杯に広がった。

 

 背後で歓声が上がった。見ると人々の囲みの中で、セシリアがノースグリーン卿にすがりながらも立ち上がっていた。父親は高すぎる背をかがめて娘を支えながら、顔をくしゃくしゃにしていた。思わず足を踏み出しかけたロビンに、いつの間にか隣にいたラルダが声をかけた。

「待ってあげて。ここまで来ようとしているんだから」

 常よりも柔らかいその声を耳にしたとたん、ロビンはまた胸が一杯になった。それはもう、言葉になりようのない思いだった。だから少年は全ての思いと願いを込めて、幸せの味がする大きな果実を黒髪の尼僧に差し出した。

 

 

                          終

 

説明
ついに事件も解決し、いよいよ旅立ちという場面から始まり、さらに2年後の再会の場へと続く締めくくりのお話です。
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