IF YOU WERE HERE
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学園は、バレンタインを終えた後もずっと浮足立っていた。去年卒業した先輩たちに負けず劣らずのスター揃いである三年生があと半月でとうとう卒業を迎えるのだ。ファンや取り巻きの学生たちは日がなお目当ての生徒を追い掛けて、卒業式までの推し活≠フプランニングをしているらしい。とりわけ明日以降は有名私大を含む主な大学の合格発表の日が続くとあって、皆どこかそわそわとした表情で教室や廊下で先輩たちの噂をしていた。

自分の受験でもないのによくそんな深刻な顔で気にしていられるな、なんて呆れてみせてから、おれだって八神先輩に御守りを渡したくせにってもう一人の自分が胸の奥をちくりと刺してくる。

渡り廊下で話したことを思い出す。本当にバカみたいな約束だ、受かったらキスさせろだなんて、今まで散々勝手に無理矢理キスをしてきたのは誰だっていう話だよ。それこそあの日、階段の踊り場で先輩にファーストキスを奪われてから全部がおかしくなってしまったんだ。平穏な学園生活なんかどっかに飛んでいってしまって、あの自分勝手な赤い髪の人に二年間も振り回され続けている。

でも、それももう終わるんだ。先輩がいなくたっておれは学校に来る、先輩のいない学校が一体どういうものか知らないままでおれは高校生活最後の一年を過ごすことになるんだ。

……ぼうっとしていたらホームルームが終わっていた。誰かが開け放った教室の扉から廊下の冷たい空気が足元まで這い出してきて足首を捕まえてくる、動けなくなる前に振り切って走らなくてはならない。椅子から立ち上がったおれは机の横に引っ掛けた鞄を雑に肩に引っ掛けて不機嫌に教室を出た。機嫌が悪い理由については、今ははっきり自覚したくなかった。

 

暦の上では春なんだろうけど吹き曝しのグラウンドはやっぱり寒い、三年生がほぼいない分練習もやや寂しく思えてくる。

入念にウォーミングアップをしていたら、部室棟の奥から黄色い歓声が聞こえてきた。ふと目を遣れば女子たちに囲まれて誰かが歩いて来るのが見える、反射的に身構えたけどその中心にいたのは学ランの男で、同学年で銀髪が特徴的な編入生だった。話し掛けられても無視をし続け、うざったそうに歩いている。草薙先輩もあんな感じだったな、なんて思い出していたら、トラックの基礎練に向かう同級生がおれと同じ方向を見ながら声を掛けてきた。

「どうするんだろうなあ」

「え、何が」

「先輩たちの追っかけやってる奴ら、先輩たち卒業したらさ」

「あー……同じ大学に行く、とか?」

「同学年ならそれもあるかもしんないけどさ、ほら俺らと同級とか、後輩とかさ」

そんなことこっちが気にすることじゃないし何の関係もないことだ、好きにすればいい、追うも追われるも、勝手にしたらいいと思う。

「また別の対象見つけて同じことするんじゃないの、知らんけど」

現に、あの編入生の後ろから声を掛けるチャンスを狙っている数人の女子を見つけて、そこに八神先輩を追っかけていた取り巻きの女子が一人混ざっているのにうっかり気付いてしまったものだから何とも言えない気分になる。そんなもんなんだよな、そうだ、いなくなるってわかってる人のことなんかさっさと忘れたほうがいいのかもしれない。

「あ、お前、さては次期スターの座狙ってんな?」

「そんなワケあるかよ、ほら、お前こそ次のスターかもしんないぞ、新部長」

軽口から始まったその日のテンポ走では、春に向けて修正したはずのフォームが乱れてきてるって指摘された。軽めの調整をしに来ていた前部長からはスランプを心配されたけど、おれは曖昧に笑って誤魔化すことしか出来なかった。

彼がいなくなった学校ならば、もっと自由におれらしく走れるはずだ……ふとつまらない言い訳を考えてしまって、そんなことに不調の理由を探すほど不真面目に陸上やってない、って即座に頭を振った。

陽は随分長くなっていて、5時半を過ぎてもまだ空は薄っすらと明るかった。

 

***

 

あくる日の昼休み、チャイムが鳴ると皆一斉に席を立ちそれぞれのランチタイムに向かって散り散りになっていく。もう草薙先輩も学校に来てないしクラスメイトたちと連れ立って学食に行こうとした、まさにそのときだった。

廊下から黄色い声が聞こえて瞬時に嫌な予感が全身を駆け巡る。まさか、いや、どうか別人であってくれと教室の内側から祈るような気持ちでいたら、誰かが「いおりん」って呼んだ声がしたのでいっそ体の力が抜けていく。ウソだろおい、クラスメイトに「あのさ、おれちょっと」と後退りしながら苦笑いで誤魔化してはみたものの、逃げ場なんてもうどこにもない。

教室の扉が開いた。咄嗟に顔を背けて息を止める、熊に遭ったんじゃないんだから、そんなことしたって無駄なことは最初からわかっていた。ザワつく教室へ大股歩きの上履きの音がして、おれの手を掴もうとして止めた手が行き場に困って拳を握った。

「話がある」

「おれはないです、話なんて」

「此方にあるんだ」

自分のほうを見もしないで拗ねている、そんなおれを説得でもしようって思ってるのか先輩は何も言わずにおれを睨んでいるものだから、教室の中は嫌な緊張感で張り詰めているのがわかる。一触即発、喧嘩でも起きるんじゃないかとはらはらしてるんだろう、女子のグループが「先生呼んできなよ」って小声で言ったのが耳に入ったのか先輩は舌打ちをしてそっちへ一瞥くれるとおれには一言だけを告げて踵を返した。

「部活の後、迎えに行く」

いいも悪いも聞かないまま立ち去っていく背中を見送る。廊下で待っていたらしい取り巻きたちの声が遠くなると、教室の中はようやく呼吸の仕方を思い出したように皆口々にざわめきを伴いおれに視線を注いだ。

「びっ……くりした、矢吹お前、八神先輩と何かあったんか!?」

「ないよ何も、何か、その……ずっと因縁付けてきて、勝手に」

聞かれたところで何て答えたらいいのかわからないかは、歯切れの悪い言葉を延々繰り返してしまう。教室を出て階段を降りる途中で、ふとクラスメイトの一人が笑いながらおれの肩を叩いた。

「取り巻きの女に手ェ出したとか?」

「……」

「じょ、冗談だよ……ほら早く飯行こうぜ飯」

何て返せばいいのかわからなくてソイツをただ睨んだのは、もちろん軽薄な物言いに腹が立ったというのもあるけど、ここまできても本当のことをどこにも吐き出せない意気地無しの自分に一番腹が立っていたからだと思う。

 

……

…………

 

その日、おれは部活を早めに上がらせてもらうことにした。相変わらず調子か上がらなくて、今日は少し休みたいと顧問に告げて一足先にグラウンドを後にする。

調子が良くないのは本当だ、だけど一番の理由は、いつもと時間をずらせば八神先輩の待ち伏せに出くわさなくて済むんじゃないかって考えがあった。一時間も前から校門で待ってたら取り巻きたちが騒がしいだろうし、それこそ不審に思った生徒が先生に何らかの連絡をするだろう。

足早に靴を履き変え玄関を出て、周辺や校門の辺りの様子を窺う。よし、八神先輩はどこにもいない。ほっと胸を撫で下ろして改めて帰路に就こうとしたとき、肩に大きな掌がぽん、と置かれて低い声が降ってきた。

「早かったな」

最早ホラーだろう、こんなの。顔を青くして振り返ったなら、得意満面の八神先輩が尚もおれの肩を捕まえていた。慌ててその手を振りほどいて後退りして、まさか背後に現れるとは思ってなかった先輩に向かって思い切り指を差した。

「どっ、どこにいたんですか!?」

「教室からグラウンドを見ていた、降りてきて正解だったな」

やられた、まさか部活中ずっと見張られているとは思いもしなかった。というかこんなのもうストーカーだろう、それこそ先生に言ってやろうかと思ったところで先輩は突然おれの手を取り校舎内に戻ろうとする。

「ちょっ……と!!」

この人の強引さを忘れていたわけじゃないけれど、急に手を引かれたら咄嗟に払うのは仕方のないことだろう。掴まれた手を払い除けた後で何故か気まずくなってしまったおれが訝る視線で睨むと、先輩はほんの少しだけ申し訳なさそうに伏し目がちになって、それからひとりで校舎の中に戻ってしまった。

「ちょっと、先輩、八神先輩」

呼び掛けたら足を止めて、まるで『来ないのか』とでも言うみたいに背中越しの視線をくれている。こんなの、全部この人の思う壺じゃないか。奥歯を噛み締めて苦々しく思えど、今のおれは上履きを履き直して、おれを待ってくれている彼に付いていくことしか出来なかった。

 

***

 

生徒の少なくなった夕方の校舎を並んで歩く。途中で知らない下級生とすれ違ったりしたけれど、おれたちを疑問に思ったりはしなかったみたいだった。

彼に御守りを渡した渡り廊下を通って、やがて辿り着いたのはあの特別教室棟の階段の踊り場だった。先輩の様子を見るに、相変わらずひと気のないこの場所がどういう場所かってちゃんと気付いているのはおれだけみたいで胸が痛くなる。

初めてキスをした場所だ。間違いない。いや、キスをしたっていうのは違う、だって一方的に奪われたんだからあれは強奪、簒奪だ。

ここでおれのファーストキスを奪って、それからはどこに行くにも付きまとっては時間を奪って、もしかしたら学園生活の何もかもをこの人に奪われたのかもしれない。それなのにまだこの人はおれから何かを奪っていこうとしている。

強張る体を誤魔化したくて、近付いてくる先輩を押し退けた。おれはわざとらしく咳払いをして「それで、話って何ですか」と問う。正直に言えば話の内容は察しが付いていた、そして先輩はまさにその通りの言葉で、おれに『話』を切り出したのだった。

「受かった」

「そうですか」

ああ、大学受かったんだ、そっか。よかったですねおめでとうございます、と言おうと思ったのに喉元に詰まって出てこなかった。まるでめでたくも何ともないと捻くれて見えるおれの仕草を笑って、先輩は今度はそっとおれの手を取った。大切なものを傷付けないように……そんな気遣いをされているように感じて居た堪れない。目を背けたって、先輩は掌とか手指とかをゆっくり撫でてくれる。

「貴様の御守りの効果があったな」

「だから、あれは先輩が落としたんでしょう、おれがあげたわけじゃないし、その、拾っただけで」

「ああ、そうだった」

きゅ、とおれたちの手指が結ばれる。先輩の視線が窓から差し込む街灯の薄明かりの中で妖しく濡れたのを見て、つい手に力が籠った。先輩は、ふ、と吐息交じりに笑い、内緒事を話す声色でもっておれに囁いてきた。

「約束、覚えているだろうな?」

一瞬、心臓が物凄い音を立ててボンと跳ねる。覚えてる、忘れられるわけがない、あんな身勝手で意味のない約束は初めてだったから。おれは約束が何であるかを改めて確認することもせずに、先輩から手を離して不機嫌さを声色に乗せて呟いた。

「……すればいいじゃないですか」

「良いのか」

「だから、したけりゃすればいいでしょうって言ってるんです」

ずっと、そうしてきたじゃないですか。勝手に奪っておいて今更何なんだ。苛立ちとも何とも付かない感情のまま八つ当たりみたいな言葉を返したら、八神先輩はもう一度おれの手を掴んで目の前まで引き寄せて、それから親指でおれの唇をひと撫でして熱っぽく囁く。

「この唇から、答えを聞きたい」

「ダメって言ったって、どうせするくせに」

「そうかもしれんな」

「じゃあやっぱり意味ないじゃないですか」

もう少し、あと少しでもどちらかが動けば容易く触れるはずの唇の距離を、おれたちは幼稚な駆け引きごっこで近付けないままでいた。赤い前髪が頬に触れている、もう一度指先がおれの唇を掠めでもしたらいいと言ってやろうと思ったのに先輩は何もしてこない。このまま無限の時が過ぎてしまう、もしくは本当にここで終わってしまうと思ったら今度は段々と焦ってきた。こんなの、マジで先輩の思う壺じゃないか。

彼の唇に、今度はおれが指先で触れる。ごくりと喉を鳴らしてから、視線を伏せたままで彼に告げた。

「……してください、約束、ですから」

結局、何のための約束だったのだろう。おれからこうやって誘わせるためだけの約束だったとしたらマジで最悪だ、だけどそれを確認なんてする間もなく、おれの唇は彼の唇にあっという間に奪われる。

「ん……っ!!」

してくれと言うや否や、八神先輩は襲いかかるようにおれにキスをしてきた。触れて、啄んで、柔く歯を立ててそれから舌先を捩じ込む。

「んぅっ、うぅ、ん……んぅ、んっ」

丁寧に丁寧に、順序立てておれの唇を少しずつ味わうようにほどいていく彼の唇に背筋が震えた。だってこれは、今までで一番優しくて、触れ合った場所から溶けていくようなキスだったんだ。

ちゅる、と唾液を啜る音がして、唇の裏や歯先とか、上顎までをくまなくまさぐられて腰が抜けそうになる。先輩はおれの下肢が震えているのに気付いて支えるように腰を抱いてくれた。

「真吾……」

「ひぇんは、ぃ……ッ」

絡み合う舌が熱い、先輩の舌に舐られる度に口の中が甘く疼くのが怖かった。それでも先輩はキスするのを止めてはくれない。優しくてあたたかい、奪われているのに優し過ぎるから、それが怖くて堪らない。

唾液が糸を引いて舌先が離れて、そのままぎゅうっと抱き締められた。耳元で名前を呼ばれて、そのまま耳朶を掠めた唇でちゅ、と頬にキスされて、それからまたふたりの唇同士が重なる。先輩の薄い唇がおれの唇を優しく啄んでは熱い吐息が掛かって、されるがままなのが嫌でおれも先輩の舌や唇を甘噛みした。

「真吾、好きだ」

「先輩……ッ」

「好きなんだ、本当に」

……違う、奪われてなんかない。おれはずっと先輩から与えられているんだ、真っ正面から受け取れない想いをずっとずっと先輩から愚直に与えられ続けて破裂してしまいそうになっている。そんなんだからおれの記憶の隙間の隅々にまで八神先輩が入り込んで、もうどうやったって出ていってなんてくれない。

怖い、こんなにもおれの中が先輩でいっぱいになってるのに、先輩がいなくなるのが怖い。おれの中にこんなにもたくさんのものを置いて卒業してしまう。そう思ったら堪らなくなって、おれはいつの間にかぼろぼろと泣きながら先輩とキスをしていた。

「ひぇんぱ、ぃっ、うぅ、やらみひぇんはぁぃ……」

じゅ、じゅぷ、とおれの涙を吸ったキスの音が濁る。口の中がしょっぱい、しゃくりあげると舌を噛みそうになるから、危ないと思ったのか先輩はそっと唇を離すとおれの目元を袖口で拭う。

「……泣く程嫌か」

「違う、違います」

キスするのは嫌じゃない、ただこのままキスをしていたらおれの全部が先輩だけになっちゃいそうですごく怖くて、先輩が、先輩が卒業して大学に行って、そしたら先輩の中にはいつの間にかおれがいなくなってしまうんじゃないかって、全然気持ちに釣り合いが取れなくなるんじゃないかって、怖くて、嫌で…………

「苦しかっただけです、息、出来なくて」

みっともなくしゃくりあげて先輩の腕の中から抜け出して、それからこの人に何か言わないとって必死に言葉を探して全然まともに話せない涙声を駄々漏らす。

「先輩、マジで、全然、おれのことなんか」

涙が全然止まってくれない。まるで子供みたいにべそをかいて、おれはひたすら先輩、先輩って呼び続けた。先輩は何も言わずにただそれを聞いていて、しゃくりあげてようやく止まった意味のない言葉の隙間に手を差し伸べては涙を指先で拭ってくれた。

「泣くな、苦しくさせたのなら謝る、だから」

おれが苦しいとわかっているのなら、どうしておれのことなんか好きになったんですか。どうしておれにこんな気持ちだけ置いて卒業してしまうんですか。

理不尽な罵声だけが頭に浮かんでは言うことも出来ずに涙になって消えていく。おれは乱暴にブレザーの袖で目元を拭うと、八神先輩の胸をぐいっと押して遠ざけた。

「もういいでしょうキスしたんだから、おれ帰ります」

「真吾、待て」

「それじゃ、さよなら」

床に打ち捨てられていた鞄を拾い上げて階段を一足飛びに降りて、そのまま玄関まで力の限り走った。上履きを乱暴に突っ込んで靴を履いて、それからまた走る。どこへ、どこへでもいってしまえばいい、走って、消えてしまえばいい。

息が苦しい、胸が痛くてすごく重たい。めちゃくちゃになったフォームのことを思い出す、気付いたときには校舎からだいぶ離れてしまっていて、おれは何となく後ろを振り返る。そこには誰の影もない、気配も声も何もなかった。

 

おれを好きだと言った先輩は、おれを追ってこなかった。

先輩に何も言えなかったおれは、道端で声を上げて泣いた。

説明
G学庵真、卒業間近になった先輩と拗らせまくってる高2男子の話です。
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