不思議的乙女少女と現実的乙女少女の日常 『ネクロノミコンsaint4-5(終)』 |
「…………ッハァ!」
呼気と共に、ネクロノミコンの両手を振り払う。
久遠の心中に恐れは無かった。
少なくとも、その表面上に恐れは無かった。使命感に燃やされた心は、その熱を余す事無く全身に伝えている。
だが、それ故に、欺瞞に気が付いてはいけない。
逆境において、自己を欺瞞で覆い隠すというのは1つの防衛反応であり、時には最大の武器にも成りうる。嘘で有ったとしても、突き通せば真実なのだ。
だから、欺瞞の奥に眠る真実に気が付いてはいけない。いくら覆い隠そうとも、根底に在るのはやはり真実であり、己を支配するのもまた、最終的にそれであるのだから。
故に、実は苦し紛れだった。
強い言葉を吐いたのも、所詮は現在の精神状態を支えるための、自己満足に過ぎないだろう。自らの絶望を押さえ込み、自己犠牲に果てるのは素晴らしい事だろうから。仕える者に対しての忠誠を示すには絶好の機会であり、死に花を散らせば、それはとても美しいだろう。
素晴らしいに違いない。
だが、やはりそれは苦し紛れであり、欺瞞なのだ。
だから、それに気付いてはいけない。心の根底を十分に覆い隠して、欺瞞を真実に見立て、その奥に在る真実に気が付いてはいけない。
真実を知ってしまった者は、欺瞞を肯定する事を恐れなければならない。肯定すれば、覆い隠していた真実は、きっと全てが欺瞞に支配される。欺瞞で有る事を忘れる。無意識にすら忘れる。自己欺瞞を正当化した時、それは誰もが恐れる悪になるのだ。大切な人を傷つける刃になるのだ。
引けない。
その欺瞞を理解すれば、きっと全てを放り出して逃げてしまう。
久遠の握り締められた左右の拳が、恐るべき速度で放たれる。右腕から放たれた拳は、翻されて肘打ちへと転じ、更に曲がった右腕を跳ね上げて裏拳へと転じる。流れるような勢いで上方から左腕を叩き付け、振りぬいたその腕を、すぐさま同じ軌道で返し抜いた。コンマ1秒の間に放たれた拳は10を超え、故に、異変が起こるまでの1秒間で放たれた拳は100を超えていた。
ネクロノミコンへと放たれた100の拳が周囲に与えた影響は甚大なものだった。拳が彼女へと到達した瞬間に、衝撃は別の場所へ爆散した。久遠の拳打、その威力は先にて明確に示されている。それは地面を大きく穿ち、木々を薙ぎ倒し、あるいは大気を破裂させた。その変化は甚大で有り、広範囲に渡って破壊を広げたが、その変化の最たるものは久遠の脳内で起こっていた。
銃撃で起こされた際の事実誤認、あるいは事実変換。ネクロノミコンに対して行った銃撃が、全く別の対象に放った事が正しいと思い込んでしまったかの様な変化。それが、1秒間の間に100超の回数で起こるのだ。1撃に起こる変化は当然1度。10撃で起こる変化は当然10度。1撃1撃、その度に起こる変化に対して、久遠は正気や目的を見失わないために、脳内で高速の修正を行っていた。そうしなければ、あるいはネクロノミコンへと放たれるべき拳が、全く別の方向へと飛んで行きかねなかった。もちろん、拳がネクロノミコンへと放たれても、破壊が巻き起こるのは結果として別の場所ではあるが。
ともあれ、久遠は僅かな時間、たった1秒の間で、限界に達していた。限界に達したのは拳を放つ腕では無い。
脳だ。
高速で処理された事実の修正は、久遠の脳に過大な負荷をかけていた。高速で回転する思考の連続は精神を破壊しかねない程の負荷を要求しており、刹那の間に倒れてしまってもおかしくは無かった。糸の切れた操り人形の様に。
これが最後の一撃になる。攻撃を開始してから過ぎ去った時間、1秒。その終りの刹那に、久遠はそう確信した。
右腕に全てを乗せ、解き放ったその拳は、大気に灼熱を乗せて、意気に殺意を込めて、正に全霊を込めた一撃。故に、その他には何も無い。全ての意思が集約され、久遠の思考に空白が生まれた。
そして、殺意に全てを傾けた久遠は、コンマ1秒にも満たない僅かな時間で、確かに視た。ネクロノミコンの、悲しげな瞳を。枯れゆく花を哀れむ、その面持ちを。だが、同時にその瞳は慈愛に満ちており、久遠の中の何かを肯定していた。
それを眼にして…………久遠の心に、冷たい風が吹いた。…………そして、真実が欺瞞に追いついた。覆い隠した真実が、空白の思考に雪崩れ込んだ時。
久遠は襟を強引な形で掴まれて、地面に尻餅を付いていた。
襟を掴んだのは、妙に白い印象を与えられる、幼い少女。何故か知っているかのような雰囲気を持っていた。
その少女を見上げて、久遠は自分が死んでいない事に、ようやく気が付いた。
「命の有り難みに気が付いたのか? 全く、度し難いの」
カレンは久遠を視て呟いた。
久遠の事は覚えが有る。もちろん、直接的に対面した事など有ろう筈も無いが、記憶だけは有る。他でもない、主であるリコの記憶だ。
久遠は震えていた。カレンが襟を離すと、這い蹲るような体勢で呻いた。
恐らく、今まで無かったのだろう。死に瀕して、死にたく無いと感じた事が。久遠の、人生の経緯は知らない。だが、あれほどの戦闘能力を手に入れるには、常軌を逸した環境で生き抜いてこなければならない事を、カレンは知っている。
「いや…………異常に常軌を逸した環境、かの」
これは以前の主に教えてもらった事だ。忌々しい男だったが、役に立つことも有る、というわけだ。
何処かの組織に飼われていたのを、エリーに拾われた、という事だろうか。命を懸けてエリーを護ろうとした事は、何となく推測出来る話だった。久遠の拳打、その当ても無く彷徨った衝撃で破壊されつくした塀。その内側が聖域で有る事はすでに理解していたし、先ほど、リコの家で感じたネクロノミコンの気配から鑑みて、久遠がネクロノミコンに対して脅威を感じたのは間違いが無い。
まあ、いずれにせよ、カレンには関係の無い話だったが。
「負の集合体…………その慣れの果て、か」
大して興味も無さそうなのは、ネクロノミコンも同様な様だった。彼女の声音には、心底何の好奇心も投影されていなかった。が、この場合、興味の無い対象が異なる。ネクロノミコンにとって興味が無いのは、カレンなのだろう。
「丁度良いわ。君の処遇には満足していなかったのよ。今ここで、還りなさい。世界へと」
久遠には向けなかった厳しい言葉と雰囲気を、ネクロノミコンは放った。
空気の質が変わった。重く、厚い何かが上方から降り注ぐかのような、圧力に似た重質。
それを正面から感じながら、それでも怯まずに、カレンはむしろゆったりとした歩調で進み出た。
そして、無造作に、ネクロノミコンに向けて右腕を振り払う。
ただそれだけの動きだったが、次に起こった変化は劇的だった。
空。
遥か仰ぎ見る事で観測できる雲。
その雲が穴を開けた。およそ1個の人間が、自身の視力で観測できる範囲の限界で、ぽっかりと穴を開けたのだ。今日はどちらかといえば曇りに近かく、うっすらと雲の幕が天を覆っていたので、変化はより明確に理解された事だろう。つまり、上空にある雲が吹き飛んで、ほとんど晴天に変わらない状態へと変化した、という事なのだから。この場で、その変化に驚き、理解した人間は、久遠ただ1人だっただろうが。
起こった事は複雑だが、過程や結果は先ほどの、久遠が起こした攻撃の結果と同じだ。
ただ、カレンと久遠の間に、圧倒的な火力の差がある。それだけの話なのだった。
そして、カレンは笑った。邪悪に過ぎる笑みを浮かべていた。
「なるほどの。なんとも不便な概念じゃないか。所詮は出来損ないの全能崩れか」
「言ってくれるわね。化物風情が」
「さて、どちらが化物かの?」
カレンの笑みが深まった。
「普通の人間には視ることが適わない。視れば死んでしまうからだろうがの、そうなった原因は何処に有る?」
「その事を問い詰めて、今更私に何かの効果を期待をするのは間違っているわ。もうすでに、折り合いは付いているもの」
ネクロノミコンは少し黙って、
「…………そうね。どちらも化物だわ。君も、私も。そして、上に居るアイツ等も」
カレンはネクロノミコンの様子に、やや残念そうな表情を浮かべたが、すぐに虚しさに眼を落とした。
「所詮、同じという事かの。同情はしないが、哀れだの」
「君の事は、流石に私でも知り難い。一体、誰を指して哀れだと言っているのか、教えてもらえるかしら?」
「…………もちろん、我とお前と、そして神と人間だの」
「そうね。…………君と同調なんてしたくは無いけど…………賛同せざるを得ないわ」
「ふん…………全くだの」
カレンが言い終わるが早いか、ネクロノミコンの姿は消失していた。攻撃へと転じるために消失したのでは無い。
この場から立ち去ったのだ。
久遠は絶望に放り込まれたかの様だった。この世界の全てに存在する、ありとあらゆる恐怖を足してもまだ比肩しうるものが無い程に、久遠は恐れていた。
先ほど気が付いてしまった死への恐怖とは全く異なる、圧倒的な存在に対する畏怖。ネクロノミコンは死の象徴だと聞いたが、久遠にしてみれば、眼の前に立つ少女2人は、どちらも大差無かった。
化物2人は淡々と会話を交わしていたが、それすらも恐ろしかった。圧倒的異常の中で行われる日常的な会話。その違和感に吐き気すら覚えた。
だが、突然、ネクロノミコンが消失し…………次いで、もう1人の化物も消失した。
1人取り残された久遠は、呆然とするしかなかった。
果たして、先ほどまでの状況は、現実のものだったのだろうか? だって、破壊の爪痕おびただしかった地面や木々、カルペンティエリ邸の塀の全てが、戦闘前の状態に戻っていた。
自分は中庭の手入れをしていて、不審人物の報を受け、お嬢様を別の場所へ避難させた後、自らこの場所へ確認に出たのだ。
そんな馬鹿げた考えが、自分の中で正当化していくのを、久遠は感じていた。後で部下に確認したら、事実その通りだと主張したし、敬愛するエリーは血を吐いて倒れてなど居なかった。そういう事になっていた。
額に拳を叩き込んで、その考えを吹き飛ばす。覚えておかなければならない。あの恐ろしい記憶を忘れてはいけない。
額から血が流れ出て、視界が赤く染まる。
額に押し付けた右手を左手で握り締め、久遠はまた震えた。
お嬢様と共に生きたい。1人で死にたくない。
その考えは間違いでは無いはずだ。なにより、どうしてだろうか。ネクロノミコンに全霊の一撃を放ったあの時。彼女の瞳に、救われた気がした。
ネクロノミコンは化物だった。だが、その精神性まで化物だっただろうか。少なくとも今、久遠は死んでいない。
今はただ、エリーに会いたかった。
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描きたい事を長々と描いてたらだれるし、適当に端折ったら説明不足になる。 そんな話です。 |
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