二重想 第三章 二 |
弐
私は、全てを取り戻した。忘れていた記憶も、何もかも。だからこそ、目を開けることを躊躇っていた。私が目を開けたとき、そこに何が待つのか、恐怖していた。
雪村恵吾でいた時の記憶。
雪村聡志でいた時の記憶。
全てが一本の糸につながり、私の心は、居場所をなくしていた。考えることが多すぎる。
……全て、偽りだったら良かったのに。
「そうは、いかない。全ての原因は君の弱さから始まったことだ。……ちゃんと責任、とって貰うよ。」
突如聞こえる、謎の声。だが、その声は、……私の声?いや、これは、
「そう、ご明察だね、僕だよ。初めまして、雪村恵吾さん?」
途端に視界が開けた。するとそこには、私、雪村恵吾と、一寸の狂いの無い、もう一人の私、……雪村聡志が立っていた。周りはピンクの靄に包まれている。私はこの景色を知っている。……つまり、ここは、
「ここが何処だかわかるかな?恵吾さん。いや、わかるはずだよね、だって、君はここにいたことが、あるんだから。君の、……いや、僕達のと言うべきか、わかるかい?心の中だよ。心の中、恵吾さん。」
お茶らけた声で、彼が説明する。確かに、この世界は私にも見覚えがある。だが、
「……。」
私は動揺を隠し切れない。予測していたとはいえ、まさかもう一度この世界にやってくるとは思わなかったからだ。
「決定打なら、彼女がいれば十分だろ?」
「お久しぶり。雪村君。」
音もなく……、耀子は現れた。あの時から、止まったままの状態で、聡志の隣に立っていた。
「あ、あ、ああ、ああ、あ、あ。」
何も言葉を返すことが出来ない。全身が脈打っている。身体が熱い。
「緊張しないで、かつて、愛し合った仲なんだから。」
「な!」
「違うの?」
「……。」
確かにそれは違わない、違わないが私はもう、今は、冴を愛している、……のか?
一体、私は、誰を愛しているんだ?
冴を愛しているのか?それとも耀子なのか?
口には出していないものの、その迷いは耀子にはちゃんと、届いたらしい。悲しそうな目をしながら、
「ねえ、雪村君、……もう、全て思い出してるんだよね。」
「……ん、ああ。」
確認するような彼女の言葉に私は頷いた。
「……もう一度言うよ。……私は、いつでも、雪村君の味方だから……。」
次々にディミヌエンドしていく、言葉。私は、とんでもない大罪を犯していたのだろうか?
罪悪感が、どんどん体を蝕んでいく。
「……、今まで、済まなかった。」
「それは、いつに対して謝ってるの?私が死んだ時?私を忘れてしまった時?私に罪をかぶせた時?それとも……、」
「耀子……。」
彼女の目から滴が零れ落ちる。泣いている?
「冴を愛してしまった時……?」
「わ、私は……。」
「いい加減にしろ!」
第三者であった、雪村聡志が突如、怒鳴り出した。それと、瞬時に私の手前まで、詰め寄り、私の胸倉を掴んだ。
「おい、恵吾。お前、何様のつもりだ?……自分の気持ちもはっきりさせてないような奴が、自分の罪を謝るのか?今のお前の存在そのものが、罪に他ならないだろ!」
「……な、何の話だ?」
「僕がわかってないとでも思ってるのか?半年間、僕は、お前の中で、ずっとお前の気持ちを浴びてきたんだぞ。しかも記憶まで共有しているんだ。
……いつも、お前は、冴ちゃんを愛していると言いながらも、その気持ちの根底では、耀子を忘れきれなかった。だから、お前は、冴ちゃんと耀子さんを重ねる。そうだろ?僕が表へ出てた時、君は、耀子さんと愛し合っていた。それがさも当然のように。だけど、僕が引っ込んだら、君はどうだ?今度は、僕の気持ちを、自分のものと勘違いして、冴ちゃんと付き合い始める。これもまた、さも当然のように。……一体君は誰が好きなんだ?」
「……そんなの、」
私は怒りに肩を振るわせ始める。聡志の言うことは全く持って当たり前のことであったが、いや、だからこそか、私の怒りのボルテージは上昇していった。
「そんなこと、私だって知りたい!お前こそ、何様だ。いつの間にか、人の中に居座り、今度は冴を好きになった?それこそ傲慢と言うものだろう!」
「馬鹿言うな!そもそも、僕を作り出したのは、君の精神的な弱さじゃないか。僕を作り出してくれたことには感謝しているが、だからと言って、ぼくは君の言いなりになるために生まれてきたわけじゃない。僕は僕だ。君じゃない!君が耀子さんを好きになったように、僕は冴ちゃんを好きになった。それだけのことに過ぎない、なのに、君は、耀子さんのことを記憶から抹消した上に、僕の気持ちを奪ったんだ。」
彼が私を突き放す。私は、少しよろめきながらも、もう一人の私を見返していた。彼は、私が、彼の気持ちを盗んだと言っているが、それは、どういうことだ?
「私は確かに弱かったかもしれない。……だがな、だとしても、私が、君の気持ちを盗んだ保証は何処にもあるまい。私の気持ちは、……私だけのものだ。」
「なら、何故、僕を生み出す前は、何も感情を抱いていなかったくせに、僕と入れ替わった直後に、恋心なんてものを持つ!そのことのほうが、まず有り得ないだろう?一目惚れか?じゃあ、なんで、前に出会ったとき、そうならなかったんだ。」
「そんなこと私が知るか、恋の神様にでも聞いてくれ!恋が気まぐれなものぐらい、お前にだってわかっているだろう?」
「そりゃ、そうだが……。でも、耀子さんの言ったことだ。彼女の言うことに間違いはない。そうだろ?彼女はこの世界のことを、一番良く知っている人間なんだから。」
「耀子が?」
私は耀子の方を見やる。……まさか、
「まさか、耀子、違うだろ。」
私は祈るような調子で、耀子のほうを見つめた。
「いいえ。本当のこと。……事実、雪村君は、聡志さんの想いに、感化されて、冴を好きになった。」
「……そんな!まさか!」
私は絶叫した。そんなことが、あっていいのか?私の気持ちが偽りだったなんて。
「雪村君、誰もそこまでは、言ってない。そう、偽りではないの。確かに、あなたの中には、冴を想う気持ちが、……あるけど、それは、もともと、聡志さんが持っていたもの。だから、正確には、……誰が冴を好きになったのかといえば、……それは、あなたじゃない。」
「なっ!」
「そういうことだ。……それなのに君は、僕の気持ちで、そのまま冴と恋人同士になって、あまつさえ、その……肉体関係まで……。」
「それは、……。」
私は黙り込むしかなかった。言い返そうにも、言い返せるはずが無い。突然、君の心は人のものだったんですよ、などといわれて、そう簡単に納得できるはずもないし、というか、そんな馬鹿な話……、あるわけないじゃないか。そうだ、あるわけが……。
「それがあるから、今、こういう状況に陥ってる。そういうことじゃないの?雪村君。」
私の心を読み、的確に、それに意見を述べる彼女。
「そうだ、君は、僕の心を奪った。だから、僕は、君をここへ呼んだ。……君だけぬくぬくと、幸せの中で生かすわけにはいかなかったからね。しかも、何もかもを忘れ、それを真実とし、……自分に都合のいい人生を作り上げた。」
「それは、違う!」
私は声を張り上げた。私は、……そんな風に、生きようとしたわけじゃ、
「ふん、この際、記憶が戻らなかったから、しょうがない、というような、くだらない、言い訳は止めてもらおうか。君の本心は、僕達が良く知っている。……君の心の中にいた僕達が……。君が、耀子さんの記憶を取り戻していた時、君が何を思っていたか、教えてあげようか?」
「私が?」
そんなこと、辛かったに決まってるじゃないか?耀子への愛、それを思い出すことが、どんなに辛かったか。
「そう、あなたは辛かったの。」
苦しそうに呟く耀子。
「そうだよ、君はいつもそう思っていたんだ。そして、……君のその想いがどれだけ、耀子さんを傷つけたと思う?自分と過ごした記憶が、拷問器具のように、君を戒めていた時の、耀子さんの気持ちがわかるか?そして、その度に、君は、冴ちゃんを求めるんだ。……耀子さんはいつも泣いてた。わかるかい?君の犯した罪を。」
「やめろ。」
私は小さな声で呟く。
「愛する人が傷ついている。しかもそれが自分のせいで。……これほど辛いことはないだろう。だけど、耀子さんは何も出来なくて、……君はそんなこと考えもしなかったね。ただ、冴ちゃんの温もりに甘えていただけで、死者を思いやることすらしなかった。」
「やめろ。」
先程より少し大きい声で、遮ろうとする。だが今回も無視だ。
「一番最初の、戒め、プロテクトもそうさ。君が、耀子さんを失ったばかりの時、君は、自分に傷をつけた。そう、この、右手の甲に。そして、変な風に視覚中枢に細工を施したね。……君は、それを、耀子さんを愛しているからこそ、そうしたみたいだけど、でもさ、それも、耀子さんを傷つけただけに過ぎないんだ。」
「黙れ!お前に何がわかる。耀子が記憶から消えていく、あの喪失感。私は、私は……。」
私は怒鳴った。さすがに、これは幾らなんでも言い過ぎだ。だが、彼は、
「そんなのただの君の自己満足。違うかい?」
「何?」
「だって、そうだろ。愛する人を失ったのは、世界で君だけだとでも思っているのかい?……君だって幾らなんでもそこまで馬鹿じゃないだろう?だったら、判るだろう?君のやっていることは、全部、自己満足さ。自分が、どれだけ、彼女を愛したかわからないから、それを形で欲しかっただけだ。自分を戒めるという形でね。」
「違う!私は、本当に、」
「もういいよ。二人とも。」
私たちの言い合いを遮ったのは、耀子だった。穏やかだが凛と張った声だった。
私たちを、哀れむような瞳で、見つめている。
「もういいの、私は別に。だって、もう死んだ人間なんだから。今更、そんなこと蒸し返したって、意味が無い。……私は、二人に幸せになって欲しいだけだから。……だから、ね。争わないでよ。」
「だけど、耀子さん。」
「いいの、聡志さん。……雪村君は、何も悪くない。……何も。ううん、誰も、悪くなんて無い。ただ、私は二人に生きて欲しいの。それだけなんだ。でも、覚えててね。私は、二人のこと、……愛してるから。」
涙を目いっぱいに浮かべ、彼女は告白した。
愛してる、純粋な言葉だけに私の心に良く響いた。
「耀子……。」
「耀子さん……。」
「ごめんね、私は、どちらかを選ぶなんてこと出来ないよ。だって、どっちも、私の好きな、雪村君だから。……違う、人格かもしれないけど、……私には、全部、ひっくるめて、雪村君としか言いようが無いから。」
私は、荒れていた。台風直撃の天候のように、荒れていた。
耀子のその笑みが、仕草が、懐かしい記憶となって、私の中に溢れ出す。
これほどまでに鮮明に。どうして……私は、こんな素晴らしいことを忘れていたんだろう。こんなにも、楽しくて、苦しくて、甘酸っぱくて、歯痒くったはずなのに。そして、その全てが、心地よかったはずなのに……。
「駄目だよ、雪村君!思い出しちゃ、それじゃ、また……。」
「えっ?……なに?」
突然叫びだす耀子。しかし、私は最後まで聞き取ることが出来なかった。私の身体を突如として、何かが取り囲んだからだ。しかもそれは、私を動かさないためか、両手を広げた程度のスペースしか与えておらず、中からは流れの速い渦のように見えた。外から見ると竜巻のように見えるかもしれない。まあ、それはともかく、こちらからは外を見ることは出来ず、外からの声も、発されているのかどうかわからないが、渦のノイズによって、かき消されている。恐ろしいまでに、禍々しい轟音。何者も近づけないような恐怖そのものだった。
しかし、私は恐る恐るその渦へと手を伸ばした。愚かと知りつつも、自分を取り囲むその恐怖に向かって。……きっと、不安だったのだろう。一人でいることへの不安。未知なる物への不安。それらが重なったために、私は手を伸ばしたのだ。するとどうだろう。それに触れた瞬間、私の身体に異変が起こった。私の体が、どんどんばらけていくのだ。まるでパズルのピースのように、右手、右腕、右肩と、どんどん分解されていく。
「おい、嘘だろ?」
痛みがない分、余計に恐ろしく感じる。神経がどんどん消失していく。それを感じ取れる!こんな馬鹿なことがあっていいのか?
私のピースは、次々に渦の中へと吸い込まれていった。次第に、言語も、嗅覚も、視覚も、聴覚も、……そして最後には、何も感じなくなり、私は、消えていた。
気付いてみれば、全てをなくしたはずの私は、……私は、……青空の下に、倒れていた。後頭部に、柔かい感覚。僅かだが、人の輪郭が視界に入る。その姿に驚いたが、すぐに、それが、冴だということに気付く。
「……恵吾?」
「冴、か?」
私の確認するような言葉に、彼女は堰を切ったように泣き出し、私の胸元に崩れ落ちた。
「……恵吾、良かった……、また、いなくなっ……ちゃっ、たのか、と思、った。……恵、吾。け、いご。けい、ご。」
私は彼女の髪を梳くようにしながら、頭を撫でた。随分と心配を掛けたようだ。
「すまん、冴。」
私は、上半身を、起こしながら、彼女を胸に抱いた。その存在が本物であることを、確かめるように、しっかりと強く。彼女の首筋に、顔を埋める。
「けい、ご?」
「ありがとう、冴。……もう、絶対、お前を、離さない。……私は、君が、誰よりも、……好きだ。」
「……ん、あ、たりまえ、だよ。私も、恵……吾の、こ、と、大好き、だか、ら。」
私達は、ちゃんと向かい合った。肩に置いていた手を、背中に回し、顔の距離を一気に詰める。
耀子の目は、染めたように真っ赤だった。涙で、化粧もぼろぼろになり、お世辞にも美しいとはいえない状態であったが、私には、そんな状態になるまで、自分を心配してくれる存在がいること、その事実が、何倍にも嬉しかった。
……自然と、私自身から求めていた。目を閉じ、耀子の柔かい唇の感触だけを、楽しむ。愛を確かめ合うのではない、愛をつくっているのだ。
呼吸が辛くなれば、唇同士は自然と離れた。互いの触れ合っている部分から、相手の鼓動を伝え合っているようだ。彼女は、私の鼓動を。私は、彼女の鼓動を。
彼女の頬に少し紅が差した。
私達は、誰か人がくるその瞬間まで、そのまましばらく、互いの体温を感じあっていた。
気付くと私は、耀子の体を抱いていた。
プロテクトが、……再発した瞬間だった。
半
「駄目だよ、雪村君!思い出しちゃ、それじゃ、また繰り返しになっちゃうよ!」
しかし、この言葉は『彼』に聞こえただろうか?謎の物質が僕達を弾き飛ばした。そのため僕は、数mほどの位置で、したたかに頭を打った。
「イテッ!」
「きゃあ!」
思わず悲鳴を上げる。彼女もこのことは予想外だったらしい。大丈夫だろうか?
「一体何なんだ?」
僕は、頭をさすりながら、前を見た。すると、そこには信じられない光景が存在していた。……天高く、地深くどこまでも、続く、竜巻が、彼を包み込んでいたのだ。
「……何だ?これは。」
僕は唖然としてその、竜巻を見上げた。一体何処まで続いているというのだ。そこへ、
「駄目ええええええ!まだ、まだ……。」
そう絶叫しながら、突っ込んでいく、女性の姿があった。もちろん、耀子さんには違いないが、これは無茶と言うものだ。死ぬ気か?
僕は、急いで立ち上がると、耀子さんを追いかけ走った。しかし、どう考えても間に合う早さじゃない。それなら、と僕は彼女の後ろへと回り込んだ。間に合わないなら、せめて、弾かれた時のダメージを、軽減するくらいならと思いついたのだ。
結果は、……成功だった。
私の立ち回った位置に、彼女は丁度吹き飛ばされてきた。私はしっかりそれを受け止める。そして、そのまま、動けないように、彼女の腕を捕まえた。
すると、耀子さんは、状況を立て直そうと思ったのか、腕に力を込めた。しかし、私が自分を捕まえていることに気付くと、
「聡志さん!離して!」
涙目になって、そう訴えてきた。だが、そういうわけにはいかない。このままでは、彼女が死んでしまう。
「私なんかどうなったっていい。どうせ私は一回死んだ人間なんだよ。……それより、このままじゃ、雪村君が、また、……。」
彼女は、僕の心を読みつつ、僕達の目と鼻の先にある、竜巻へ向かおうと、必死に身体に力を込めていた。
「あ、あ、雪村君、雪村君……雪村くぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅん!」
彼女の二回目の絶叫。連呼する『彼』の名前。僕は、嫌な気分になりながらも、彼女を押さえつけていた。どんなことがあっても離すわけにはいかなかった。
……彼女は、僕を愛してくれている人だから。
「まだ、まだ、連れて行かないで!お願い!いや、いやあああああああ!」
その悲鳴を最後に、彼女から一気に力が抜ける。私はその身体を、落とさないように踏ん張った。
耀子さんはがっくりと首を項垂れ、跪き、うんともすんとも言わなくなった。気絶しているようだ。
私はそんな彼女を、在るのか無いのかわからないような床に、仰向けで寝かせた。目尻には、きらりと光るものが覗けた。
……こんなにも彼女が、取り乱した姿を見たのは初めてだ。……やっぱり、彼女は、『彼』が好きだったのだろうか?いや、そうなのだろう。私のことも好きだったのかもしれないが、……彼の方が、やはり、私なんかより、ずっと、
「ごめんなさい。……確かに、そういった面は在るのかも。」
「えっ?」
突然彼女は、目をパッチリ開いたかと思うと、いつもの調子に戻っていた。
「私が付き合っていたのは、何だかんだいって、雪村君のほうの人格だから。……だから、どうしても、雪村君には、反応が過敏になってしまうみたい。……それは認める。でも、わかって。聡志さんのことも、好きなんです。本当に。……なんていうか、説明できないんですけど、……弟みたいな感じがして。」
「弟?」
「ええ。」
恥ずかしそうに彼女は肯定した。弟……か。そんなに、僕って子供っぽいのかな。
「と言うよりも、聡志さんは、雪村君の中で生まれた存在だし、外見は雪村君そっくりだから。」
そう言って、にっこり微笑む彼女。
しかし、彼女の認識ってつまり、僕は、『彼』と、彼女の子供になるということか……。
「いえ、違いますよ!そんなんじゃないですって。」
慌てて否定する彼女。その様子が、思いっきり、僕の考えを裏付けていた。
……僕って、一体何なんだ?
「だから、違うんですって。誤解しないで下さい。私は、ただ……。」
「ただ……?」
僕が聞き返すと、彼女は答えにすぐ窮してしまう。……はあ、やっぱりそうなんだ。僕は要するに、『彼』と彼女との間に生まれた子供ということか。まあ実際、両親みたいなものであることには、変わりないからな、僕は。ただ、生んだのは、『彼』の方だけど。
そんなことを考え、僕は苦笑した。彼女は、まだ何か言いたそうにしていたが、文句が思いつかないのか、口をあうえうさせている。僕は、ほんの少し可哀想に感じたので、話題を変えることにした。
「……そう。で、さっきのあれ、なんだったの?」
「あの、竜巻、ですか?」
「ああ。何か凄かったけど。」
「あれは……」
すると、耀子さんは、今まであった竜巻の場所の方を向き、思いを馳せるようにそこへ視線を向けながら、しばらく押し黙った。
そして、ゆっくりと口を、開いた。
僕は、その間の空白に、ごくっと唾を飲み込む。
「あれは、……多分、タイムリミットだったんだと思う。」
「タイムリミット?」
「ええ。よくわからないけど……。」
彼女は躊躇いがちだった。いつものように、断言していない。
「雪村君をこの場に呼び出せたのは、偶然とまではいかないけど、本来有り得ることじゃないの。だって、雪村君と、聡志さん、必ず活動するときは、表か裏、それぞれどっちか一方。だから、この場所に二人が存在しているのは、思っているより身体に負担が掛かるんだと思う。……仮説だけど。」
なるほど、確かに説得力はあった。小説の中などでも、よくあるネタのような気もする。だったら、実際に起こっても不思議ではない。何しろ、ここは、『彼』の心の中だ。『彼』の思うように、世界は動く。小説のストーリーでも彼が願えばそれは叶うのだ。
「じゃあ、『彼』は、戻ったのか?」
「ええ、きっと。もうすぐ目を覚ます頃だと思います。」
「そう、か。」
戻ったら『彼』は、どうするのだろう。また、愛を、冴ちゃんに求めるというのだろうか?
性懲りもなく、何度も、何度も、繰り返すのだろうか?
……結局何も変わらないままなのだろうか?
「大丈夫ですよ。この世に無駄なことなんてありはしません。あなたが何か行動を起こせば、それは原因となって、何か結果を導きだす。……雪村君の言葉です。……大丈夫ですよ。辛いかもしれませんが、……絶対、何か変わります。それに、彼は、……もう、冴を、正直に愛せませんから。」
「どういう意味?」
「……それは、」
彼女は言葉にするのを躊躇っているようだった。それほど、まずいことなのだろうか?
「……雪村君には、今、冴を想う心が宿っています。それはもう、納得済みですね。」
「ああ。」
全く持って不満だが、認めるしかあるまい。
「それで、……最後、私の告白のせいで、彼は、……雪村君は、私を想っていた時の気持ちを、完全に取り戻しました。本来なら、過去に置き去りにして置いてよかったはずの。」
「……どういうこと?」
「つまり、こういうことです。『彼』の心の中には、今、二つの想いが宿っています。……さっき言った、冴への想いと、過去に抱いていた私への想い、その二つが、今、彼の心中には、存在しています。しかも……、」
「しかも?」
私は先を促す。
「……これは、憶測だけど、雪村君には、プロテクトが……掛かった。多分。」
「……本当?」
彼女は自信無さそうだっだが、ゆっくりと首を縦に振った。
……それは、予想外だな。あ、だから、耀子さんは、あんなに必死だったのか。
「だけど、もう、こんな状況となった今では、……私には、どうすることもできない。」
耀子さんの、冷静な表情が、段々と悲しみを帯びてきた。
「耀子さん……。」
「後は、もう、雪村君、……次第だから。……雪村君が自分で、何とかしないと……。」
つまり、こちらからは手が出せない、ということ、か。それは、辛いな。結果的に、また最初に戻ったってこと、だもんな。あ、でも、もしかして……。
「ええ。そうです。雪村君は、私達に関する記憶を全て、手に入れています。」
「それって、結構まずいんじゃない?」
「……。」
耀子さんは答えようとはしなかった。それだけ事態が、深刻ということだろうか?
「かなり、まずいの?」
私の心は届いているはずだから、彼女には、通じていたはずの言葉を、もう一度繰り返す。彼女の表情は、不安に包まれていた。
「……わかりません。雪村君が、どう行動するかによって、私達は、もう一度、彼と逢うことになるのか、それとも、永遠に闇に葬られるのか……。なんとも言えません。」
「つまり、最悪の場合、僕達は、どうすることも出来ず、消滅するっていうこと?」
「ええ。……雪村君が、私達か冴、どちらを選ぶこともしなかった場合、そうなります。」
「……そんな。」
僕の中に大きく深い闇が、どろどろと積み重なり始めていた。べっとりとしたものが、身体をゆっくりゆっくりと流動していく。
これは何だ?憎悪?それとも、……。
「僕は、まだ、……。こんな終わり方、嫌だよ。……誰にも知られず、ひっそりと消えていくなんて。……まだ、僕は、冴ちゃんに、……せめて、一目でも逢いたいのに。」
僕はすがるような瞳で、耀子さんを見つめた。それが出来ないのかと、必死に心で問い掛けた。しかし、返答は、
「無理です。……全部、雪村君、次第だから。私達には、どうしようもありません。今までもそうだったように、外側にきっかけが生まれない限り、心の中から外側へは、干渉出来ない。」
彼女は残念そうに首を横に振った。だが、その顔の動きが止まると、彼女の瞳が真っ直ぐと私を見据えた。
「……でも、聡志さん、雪村君を信じてあげて。……雪村君だって、ちゃんとわかってるはずだから。進まなきゃいけないことぐらい、わかっているはずだから。」
「そんなの無理だ!」
怒鳴られることは予想しきれなかったのか、僕を励ましていた彼女の、顔が急に強張った。だが、今の僕には、そんなことを気にしている余裕はない。
「信じるなんてこと、出来るわけないじゃないか。僕は何度も『彼』の弱さを見てきているんだ。土壇場になれば、いつもすぐに逃げ出す『彼』を。……変化することを恐れるくせに、そのくせ、死すら選べない『彼』を。……そんな状況なのに、どうやって、『彼』を信じるの?」
今までの『彼』の行動を振り返ってみる。どう考えても、雪村恵吾が、この修羅場に立ち向かえるとは、思えない。
……だが、そのはずなのに、彼女は、こちらを向いたまま、ゆったりとした微笑を浮かべていた。何人をも包み込む、俗っぽさからかけ離れたその表情。
何でそんな顔が出来るんだ?
「それは、……私が、雪村君を愛していて、……雪村君よりも、雪村君のことを知っている存在だから。……彼の異変を知っている中で、一番彼のことを知っているのは私。……そうでしょ?」
「……うん、そうだけど……。でも、……。」
「聡志さん、私達は、肉体を持っていない、言うなれば、精神だけの存在で、しかも、私達は彼の弱さ、即ち歪から生まれた。……だから、私達が死ぬ時は、彼が肉体的な意味で倒れるか、彼の精神の歪が取り除かれるかのどちらか。そんな中、私は、もう六年も生きてきた。
……いろいろあったけど、六年間、ずっと『彼』を想って生きてきた。報われるはずがないとわかっていながらも、六年間、私に出来る形で雪村君を愛してきた。……もちろん、私と雪村君が、接点を持てたのは、僅かな間だったけど、そんなこと関係なく六年間、私はとても幸せだった。あなたが、冴と逢えたように。
……だから、私は、その幸福のために生きてるの。一瞬の間でもいい。雪村君と想いが通じるならって。……私は、そのために生きてる。……これは、あなたも同じでしょ。ここにいてわかったと思うけど、私達は、いつも受身側。だから、想っていることぐらいしか出来ない。……これは辛いことかもしれないけど、……でも、だからこそ、信じることが必要なんだと私は思う。
雪村君は、必ずしも、強くはない。それは私も知っているし、今回ばかりは、そのことが、私たちの生命に関わっていることも、理解しているつもり。……だけど、私は、それならそれで、別に構わない。私は、もう一度、……死んだ身だしね。」
自虐的に呟く耀子さん。最後は、まるで自分に言い聞かせているようだった。今にもアクセル全開で突っ走りそうな自分の心に、歯止めを掛けるかのごとく。
「気のせいだよ。」
「……そうです、か。」
何となくその言葉は嘘だと思った。生きていた時に、こんな気持ちで耀子さんと『彼』が過ごしていたならば、きっと耀子さんは自らの想いに、耐えることなど出来なかっただろう。そんな軽い気持ちであるはずがないのだから。
自分のものもそうであるように。
……ただ、耀子さんの場合、僕と違って、もう一度、この世からいなくなってしまっている。その事実が、彼女を僕より忍耐強くするのだろう。
「だから、違うよ。私は、消えることなんてなんとも想っていない。私は、雪村君と、ずっと一緒にいられれば、……全然、構わない。『彼』の想い出の一部となってしまっても、全く。」
決意を固めるように、彼女は言葉を繰り返した。
「でも、僕はそう、簡単には、冴ちゃんのこと諦めきれないよ。僕は、歪みから生まれた存在かもしれないけど、……ちゃんと生きていたんだから。……そうだよ、僕はまだ、生きているんだ!だから、まだ、彼女と一緒にいたい。まだ、……終わりたくないんだ。」
一体何度この言葉を口にしただろう。自分でも飽き飽きするほどに、何度も何度も。その度に心が締め付けられた。だが、その痛みこそが、僕の想いの強さの証明でもある。
「聡志さん……、だから、そのためにも。」
「うん、わかってるよ。……いや、まだ、わかってないんだろうね。感情なんて理解するものじゃないから。僕は、……『彼』を憎く思ってるよ。だけど、それは、もう一人の僕を憎んでるってことになるんだよね。『彼』、すなわち僕の弱さを。でも、だから僕は―――」
はたと気づく。
……僕と彼は二人で一人。
僕は、彼の強さ……。
彼が変われば……、
僕の中にある思考の歯車が噛み合い始めた。少しずつ論理が展開し収束していく。
そして、しばらくして僕の中で一つの結論が導き出された。まるで数学の証明問題のように。また、その応えに僕は確信を持っていた。
……そうか、そういうこと、だったのか。
僕は、確認するように、彼女を見た。同じ歪みから生まれた彼女を。
僕には、選択肢はない。そういうことなんだね。
口には出さず問い掛ける。……彼女の首肯。
激情は起こらなかった。全てが、僕の中で崩壊していく。……人間の人生、それは、どんなものであろうと、いつだって自分が主人公だ。たとえ、その事柄において、脇役に位置していたとしても、その役に位置していた人にとってすれば、その中では自分が主役なのだ。だけど、僕は、……そう、道具に過ぎなかったんだ。
「そんなことない!聡志さんは、聡志さんは―――。」
彼女の言葉は耳に入るものの、もうそんなことはどうでも良かった。
……僕は『彼』を、信じなきゃいけない。もう一人の、僕を。それが、最良の……選択なんだ。
僕は奥歯をかみ締める。………涙が、溢れてくる。
全て、無に還る。
そうなんだ。僕はもう……。
「違います!聡志さんは、生きてます。そんな簡単に―――、」
「黙ってくれ!僕だってこんな事実、受け止めたくない!だけど、これに逃げていたんじゃ、僕は『彼』と全く変わらないじゃないか!僕は『彼』の強さ。常に強くあり続けなきゃ、いけない。……僕は、僕だけど、やっぱり『彼』でも、あるんだよ。」
今の今まで、頑なに認めたくなかった事実。だが、それは、負の波動と共に、僕の中で、完全なる事実として、成立した。
「ははは、はは、はは、あははは、はは、あは、あはははははは……。」
僕は狂ったように笑いつづけた。眼から滴る涙、それは、頬を渡り、あごの先端へと流れ着く。そこから、今度は首を這い、鎖骨を乗り越え、胸へと辿って行く。体の神経が、悲しみに食われる、その感触が堪らなく気持ちがいい。
「聡志さん……。」
いつの間にか、耀子さんが、僕の身体を前から、抱きしめていたが、僕にはどうで良いことだった。泣き笑いは、苦しくならないように、ずっと、ずっと、休憩をはさんで続けた。機械のようにずっと。
永遠の失恋。しかしそれは、僕の失恋であるだけで、僕の心は永遠に生き続けるのだよ。
だから、僕は逃げない。逃げる必要がない。僕は強い。
……僕は、……強いんだ。
だって、『彼』と『僕』は合わせて、一つなんだから。
皮肉、……その言葉が、この時、とても素晴らしく思えた。
半
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