逆転
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 それ、が起こったとき、僕は突然吹き飛ばされており、自分でも何が起こったのかよく分

からなかった。

 だが、それは、あまりにも突然やってきて、僕自身でも全く予期しない内に起きてしまった

ものだった。

 日常生活があまりにも平坦で、いつも変化がないと、突然やってくる衝撃に人は対応しき

れないのだろう。だから、毎日毎日をほとんど意味なく過ごしていた僕も、それが起こった

時には、あまりに突然の出来事で、それが現実に起きたこととは思えなかった。

 吹き飛ばされた僕の体は、冷たい地面の上に転がった。地面って、こんなに冷たいのか

と思えるほど冷たい。

 でも、そこに生暖かいものが広がっていく事に僕は気がついた。

 周囲の光景が、いつも見ているものとは、全く違う姿で見えていた。人、建物、電柱、車、

あらゆるものが、いつもとは逆さに見えている。

 それは僕が、地面に顔を押しつけているかのような状態でいるからだ。僕は、アスファル

トの冷たい地面の上に、顔を押し付けたまま倒れているのだ。

「おおい…! 大丈夫か?」

 誰かの声が聞こえて来た時には、それが遠い世界から聞こえてきているかのようだっ

た。目の前で起こっている事も、どんどん遠く離れていくかのように見えて、とても現実味が

ない。

 今、僕が置かれている状態が、一体どんな状況なのか、それはすぐに分かってきた。

 僕は、このまま死のうとしているのだ。

 それは、最後に見た黒い乗用車にはねられたからだ。

 人は、死が目の前に迫ると、必死になってそれから逃れようとして、現実さえも認めたくな

くなるという。

 僕も、多分、自分もそうなってしまっているんじゃあないかと思っていた。

 だが、思っていたよりもたやすく目の前の状況が受け入れられる事はできたようだ。

 多分、車にはねられた時に頭を打ったせいだろう。思考回路という奴が、その衝撃でどこ

かに飛んでいってしまって、僕は目の前で起こっている現実を、考える思考さえも失ってし

まったのだ。

「ああ…、これはもう駄目だな…」

 誰かがそのように言っているのが聞こえた。そう。僕はもう駄目なのだ。

 でも、それでも構わなかった。どうせ生きていたって…、

 僕の視界の中にある腕時計が秒針を進めていく。午前9時15分20秒、21秒、22秒

…。

 

 

 

「やりなおしますか?やりなおしませんか?」

 声が響いてきた。一体、どこから聞こえてくる声なのかも分からない。

「な、何が起こったんだ…?」

 僕は周囲を見回そうとしたが、そもそも、見まわしたのかどうかも分からない。そういった

感覚が無かったからだ。

 声だけが聞こえてくる。

「やりなおせば、あなたは、やりなおす事ができます。でも、やりなおさなかったら、ここで終

わりです」

 まるで、コンピュータの電子音が喋っているような無機質な声だった。

「お、終わりって…?どういう事?それは…?」

「選択は一度きりです。決めてください」

 "声"がさらに言ってきた。

「よ、良く分からないけれども…、どっちでも良いよ。そんなの…。何の事なのかさっぱりだ」

 急かされた僕は適当に答えてしまった。

 "適当"。ここでの選択がどの程度重要なものかは僕には分からなかったけれども、僕は

今までの人生の中で、何度も"適当"な選択をしてきた。

 それは多分、僕自身が自分を大した人間としてしか思っていなかったからだろう。

 適当に物事を選択しても、たいして重大な問題にはならなかったからだ。

 そんな事を知ってか知らずか、"声"は僕に言ってきた。

「それでは、あなたの選択は、多数決によって決めます。今までに、最も多くの人が選択し

た方にご案内しましょう」

 "声"は、特に感情も込めない口調でそのように言った。

 

 

 

 気が付くと、僕はどこかの部屋の天井を見上げていた。木の天井で、木目がまるで生き

ているかのような感じの部屋。

 病院か?とも思ったが、とても病院とは思えない。そもそも、僕が寝ているのは和室で、

床に敷かれた布団に寝ていたのだ。

 奇妙な感覚だった。アスファルトの冷たい地面も感じないし、僕を見下ろしてくるような人

もいない。

 すぐに布団から起き出して周囲を見回してみるが、ここには誰もいない。和室に一人で眠

っていたのだ。和室とはいっても、窓には窓ガラスがはまっていて、6畳ほどの広さしかな

い。

 突然起き上がった場所で、僕がここがどこなのかさえも、すぐには分からなかった。

 だが、僕はこの和室を知っていた。

 ここは、僕が小学生から、大学に入学するまで家族と共に過ごしていたマンションだっ

た。

 僕は、ただそこの和室に寝ていただけに過ぎない。僕は、小学生くらいまで親と寝室を共

にしていて、その寝室として使っていた部屋がこの和室だった。

 妙に辺りが静かだったし、僕は、とても軽やかな気分であるかのようだった。

 何故、自分がこんなに軽やかなのか、僕はすぐに気がついた。

 和室にあるクローゼット、タンスが妙に高い。天井もとても手が届かないような位置にあ

る。

 まるで周りがすべて大きくなってしまったような光景に、僕が唖然としていると、和室の扉

が開いた。

「ねえ。早くしなさい。今日もまた寝坊したの?」

 唐突にそう言ってきたのは、僕の母だった。妙に若い。不思議だった。

「あ、ああ…、ええ?」

 僕は目の前で起こっている出来事が理解できず、そんな、間の抜けたような言葉しか返

せなかった。

「さっさと着替えて朝ごはんを食べなさい。遅刻しないようにね」

 と言って、僕の母は扉を閉めた。

 僕は、自分の姿を確認しようとした。確か、クローゼットに鏡が付けられていて、それで小

学生の間ずっと身支度をしていた思い出がある。

 案の定、白い色で塗られたクローゼットは、小学生の時にあった位置にしっかりとあっ

た。

 クローゼットを開けた僕は、思わず息を呑んだ。

 そこの鏡に映っていたのは、確かに自分自身だ。それは間違いない。

 だが、自分は自分でも明らかに、それは僕じゃあない。

 ちょうど、7,8歳くらいの僕がそこにいたのだ。小学校に入ってまだ間もない頃の。

 いったい何が起こってしまったのか、これは夢じゃあないのか。僕は、当り前のように頬

をつねってみたが確かに痛みも、感覚もあった。

 死ぬ瞬間に見る走馬灯なのか。でも、今、目の前で起こっている出来事は、こんなにはっ

きりと感じられ、しかもリアルなものだ。

 これは、現実なのではないだろうか、僕は自分に問いかける。

 これは走馬灯なんかじゃあない。確かに感じられる自分自身の感覚であり、現実だった

のだ。

 

 

 

 朝ごはんのとても無機質な味もそのままだ。僕の母は、母親としては悪くないのだろうけ

れども、料理が得意でない。それもリアルにそのままだった。

 多分、一人暮らしをしていた大学生の僕が、実家(と言っても、それはこのマンションだ)

に戻っても、おふくろの味などというものに満足できないだろう。そう思っていた。

 僕自身は現実味を持っていないかのようだったが、周りで起こっている出来事はあまりに

リアルな事ばかりだった。何よりも、新聞の日付、朝のニュースでアナウンサーが告げた日

付が、あまりにリアルなものとして感じられてしまった。

 普段何気なく見ているものほど、とにかくリアルなものだ。

 アナウンサーは、今日の日付を、1992年9月3日だと告げた。

 ちょうど僕が小学校2年生の時ではないか。

 僕は、どうしたら良いのか分からなかった。現実ではないと言い聞かせても、周りの出来

事は、あまりにリアルなものとして、僕に迫ってくる。

 僕のお母さんは、そんな僕の心情を見抜けなかったのか、たぶんいつもと同じように僕を

学校へと送り出した。

 

 

 

 いくつかのケースが考えられる。

 今、起こっている目の前の出来事が、現実に起こっている事を前提として考えてみよう。

 もし夢だったら、変な夢を見たという事で、簡単に結論は出るのだから。

 まず考えられる事が、僕は死に直面した瞬間に、精神だけが切り離されてしまい、それ

が、小学生の頃の僕の体へと時間を飛び越えて到達してしまった。という事。

 非現実的すぎる。そんなSF映画がどこかにあったような気がしたが。

 もしくは、僕が死んだ瞬間に精神が切り離されてしまって、それが隣の世界、僕が今まで

いた時間とは時間の流れ方が違う世界に流れてしまい、同じようにそこにいた僕と入れ替

わったか、押し出してしまったか、だ。

 どう考えても、あまりに唐突すぎて、僕の頭はついていけなかった。

 考えに考えても仕方がない。だから、小学生の時そうしていたように、僕は、学校に行くに

した。

 とは言っても、自分の意志でそうさせたというよりも、気がつけば学校についていた、そん

な感じだ。まるで僕の中の小学生の時の本能が、学校に帰巣本能を持っているかのよう

に。

 途中、僕は、小学校時代の同級生だった子達と出会った。

 小学生の頃は、登校班という形で学校に通う事になっていた事を、すっかり忘れていて、

僕は一人で学校に行こうとしている所を、その同級生たちに呼び止められ、初めて思い出

したのだ。

 僕は、もともと明るい性格をしていたわけではない。友達も少なかったし、特に登校班に

いた同級生や上級生、下級生には友人もいなかった。

 だが、あまりに上級生の姿が大きく見えたのが印象的だった。大人の僕だったら、小学

校6年生など、小さな子供でしかなかったというのに。

 僕は元々、あまり小学生の時も人と話さなかった事が、逆に幸いした。

 どうやら、僕が目を覚ましたこの世界でも、僕の性格も人間関係も同じだったらしく、あま

り同級生も話しかけてこなかった。

 今、僕は、突然小学生まで戻ってきてしまって、頭が混乱している。人に話しかけられたく

ない。不審がられたくないのだ。

 気がつくと、僕は小学校の教室の机の前に座っていた。

 小学2年生。ほとんど忘れてしまった過去の出来事が、本物の現実となって、僕の目の

前に再び現われていた。

 朝のホームルーム(小学校の時は、朝の会と言われていたが)が始まるまで、皆は教室

の中を走り回っていた。

 何に対してそんなに興奮することができるのか、僕は今になっても分からないけれども、

とにかく皆、走り回っていたり、友人と話したりしている。

 朝からそんなに元気でいられるのは、小学校低学年のうちだけだ。僕は机に座りながら

横目で同級生を見つつそう思った。

 僕に話しかけてくる友達もいなかった。

 そう。僕は子供のころから友達がいなかったのだ。

 

 

 

 僕は、唐突に、小学校2年生まで時間を戻された。それは、僕が死んだからなのか、それ

とも、

 これは天が、僕だけにくれた唯一のチャンスだとでも言うのだろうか。いや、そんな事は

無い。

 僕にとっては、ただ憂鬱で意味のない日々が続いていくだけに過ぎないのだ。

 小学生のころに戻ったから、何かが変わるというのだろうか?

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 僕は再び小学校2年生から人生をやり直す事になってしまっていた。

 何日か過ごせば、大学生の僕に戻るだけ。これは夢でしかない。ただのリアルな夢でし

かないのではないかと思っていた。

 だが、そうではなかった。

 何日経っても、一向に変わる様子がない。

 僕はずっと、小学校2年生のままだった。眠って朝起きたら、大学生の僕に戻っている。

そんな期待もしばらくは持っていた。

 だが、いつまで経っても、僕が大人の僕に戻るような事はなかった。

 一週間経っても、一カ月経っても変わる様子はない。

 しかしながら、僕にとっては、元の世界にはまったく未練がなかった。どうせ元の世界に

戻っても、そこには全く未練はない。 僕の居場所なんて、元の世界には全くない。

 だが、困ったことがあった。

 僕はもともと、この小学生の頃に戻りたいわけではなかったし、元々、小学生の頃の僕に

は居場所なんてどこにもないのだ。

 否応なしにやって来た、不可抗力だったのだ。こんな事をされても困るだけだ。

「じゃあ次の問題。あなたが解いて」

 僕がいつものように、机の前でうなだれているような状態で教科書を見つめていると、先

生が僕を指してそのように言ってきた。

「え…」

 僕は思わず戸惑った声を漏らして顔を上げた。

 皆の注目がこちらへと向いて来ている。運が良かったかどうかは分からないが、小学生

の世界に引き戻されてから一か月間。僕は全く周囲の注目を引かなかったはずだったが、

ここにきて初めて、周囲の注目を浴びてしまった。

「ほら、早く。ちょっと難しいけど、九九は覚えたでしょう?」

 と言って僕は黒板の方を見つめた。そこには、小学校2年生に解かせる問題が書いてあ

る。

 それは九九だった。

 そう。九九。僕はこの一か月間、全くもって授業に身が入らなかった。なぜなら、小学校2

年生の問題なんて、解く価値もないからだ。

 授業も子供遊びみたいなものばかりだと思っていたし、実際そうだった。

 それに、いくら僕が、その小学校2年生の問題の解き方を知っていても、下手に出しゃば

れば、周囲の注目を集めてしまう。そうも考えていた。

 周囲の注目を集め、特別意識されるのが、とにかく嫌だったのだ。

 つまらない。なんてつまらないんだろう。

そう思っていた矢先の出来事だった。

 今まで、うまく小学2年生のふりをしてきていたのに、今は、明らかに周りの注目を集めて

しまっている。

 この小学生の場でも、僕は友達が少なかったし、居場所もなかった。

 だが、今は逆に皆の前に出て、黒板で九九を解かなければ、逆に、注目を集めてしまう

だろう。

 僕は、皆に、特別な目で見られたくなかったから、皆の前に出た。

 黒板に出ている問題は3つあった。どれも、今の僕だったら簡単に解ける。

 2×3=

 5×6=

 9×7=

 とある。

 大学生の時の僕は、別段、成績が良いわけでもなかった。そもそも、何も興味がなかっ

た経済学部に、"周りも皆大学に入っているから"という理由で入っただけで、やる気も無か

ったのだ。

 しかしさすがに、小学校ぐらいの問題だったら簡単に解く事が出来る。

 僕は、黒板の前に立ってチョークを持った。黒板が異様に大きく見える。僕が小さくなって

しまったせいか、それとも、皆の前で問題を解く事に抵抗があるせいだろうか。

「ほら、早く解きなさい。九九は覚えて来たでしょう?」

 先生が僕の背後からそう言ってきた。

 九九は覚えるまでもない。大人の僕が、自転車の乗り方のように、体の一部として覚えて

いる。

 その知識は、過去に戻ってしまった、今の僕の体にも染み付いているのだ。

「はい…」

 僕は、心の中でそう思い、答えである6、30、そして63という数字を書いた。

 そこで、困った事が起こった。

 僕は、小学校2年生が、どの程度の算数の力を持っているのか、すっかりと忘れてしまっ

ていたし、それを知ろうという気もなかった。

 だから、黒板にある問題をただ解けば良いだけ。そう思っていた。

 だから、何の迷いもなく、すらすらと九九の問題を解いてしまうのは、さすがにまずかった

ようだ。

 そして、僕はこのクラスで、小学校2年生にとっては複雑な、九九の9の段まで記憶してい

る生徒が、まだ一人もいない事を知らなかった。

「すっげー」

 と、誰かが言った。

 次いで、黒板に対する注目がどんどん集まってくる。

 やがては先生までも、僕のそばにやってきて言った。

「すごいじゃないの。たった一カ月で九九の9の段を全部暗記できるなんて! 塾とかに通

っていたっけ、あなた」

「い、いえ…」

 もう、僕はどう答えたら良いのかも分からなかった。

「じゃあ、これは分かるかしら? 9×8=?」

 と、先生は、黒板に問題を書いてみせる。

 今度は目立ってはいけない。僕はそう思っていたが、口から出てきた言葉は、

「分かりません…」

 という自信の無いものだった。自分でも恥ずかしくなりそうなくらいに、わざとらしい言い訳

だった。

「恥ずかしがる必要はないでしょう? 間違ってても良いから、答えを言って見せて」

「ななじゅう…、に…」

 僕は、わざと解答を間違える。という事を考える気力もなくそう答えていた。

「やっぱり解けるじゃない。九九のいちばん難しいところをしっかりと覚えているなんてすご

いわ。先生、あなたを、算数博士って呼んであげたい」

 と、先生は、僕が九九を解けた事を、まるで自分の子供の自慢であるかのように言ってき

た。

 だが、僕はそれに対して、嬉しいとも思えなかったし、何とも思えなかった。

 逆にできることで、目立ってしまう。その事の方が僕にとっては嫌なことでしかなかったの

だ。

 黒板から机へと戻るとき、クラスの皆が僕を見つめてきていた。

 その視線からは、驚き、賞賛、そして嫉妬さえ感じられる。

 大人にしか分からないような、それらの感情は、大学生から小学生へと引き戻された僕

だからこそ、感じられるものだった。

 確かに、僕は大人の精神と知識のまま子供の自分に戻された。おそらく勉強なら、中学

生くらいまで一切不自由しないのだろう。

 だが、それは決してうまい話ではない。そう。

 僕はそれまで、目立たないようにしていなければならない事の裏返しでもあるのだ。

 どうして、僕が小学生まで時間を戻されたのか、それは小学校を再び卒業する時が来る

ときが来ても、まったく分からなかった。

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 やがて、僕は2回目の小学校を卒業した。

 僕は大人の知識と、精神状態を持ったまま、小学校時代を過ごしていたわけだから、そ

の子供じみた生活や、同級生たちの話に合わせるのが精いっぱいだった。

 僕の頭の中には、20代まで生きてきた、確かな知識が残り続けている。

 しかし、それを一体、誰が信じてくれるというのか。

「僕は、20代の大学生まで生きていました。でも、ある時、交通事故に遭って、気が付いた

ら小学校2年生まで時間を戻されていたんです」

 ある時、僕は、鏡に映った自分に向ってそう話していた。

 だが、それは滑稽なものにさえ自分の目に映ってしまった。

 こんものじゃあ駄目だ。僕は、別に、人にこの事を知ってほしいわけじゃあない。

 人が、僕を、未来の自分から引き戻されてきた存在だと知って、一体、何になるというの

だろう。

 僕は、子供の時のそうしてきたように、引き戻された世界でも、なるべく人とのかかわりを

拒絶していた。

 子供の時よりも、もっと友達を作らなかった。どんな誘いでも、ほとんど断り続けていっ

た。

 僕自身は、大人の僕を心の中に持っているのに、今更子供たちと遊んで何になるという

のだろう。

 何にもならない。ただくだらないだけだ。

 だから、僕は皆がそうするように、中学に通い出した。小学校2年生に引き戻されてから

5年間。僕は、大人の僕に戻る事はできなかったし、僕の周りで起こっている事や、世界で

起こっている事も変わらなかった。

 僕のクラスの担任の先生も、まったく同じだったし、僕の家の近くを走る鉄道路線も、まっ

たく同じ年に新駅を建てていた。

 神様がいたとして、一体、僕に何をさせたいのか、さっぱり分からない。

 そう。僕は、結局この世界に来ても、何も変わっていないのだ。

 引き戻された小学校2年生の時に、みんなの前で、九九を解いて見せてからというもの、

できる限り、普通の子になるように努めてきた。

 目立ちたくないのだ。中学になっても、勉強自体は、大人の僕が経験済みだったから、つ

いていけない事はなかったし、僕は落ちこぼれる事もなかった。

 だが、結局は、何も変わっていないのだ。

 もしかしたら、このまま行くと、結局、20代後半までいってしまって、また交通事故に遭う

だけなのではないか。

 そして、僕は死んでしまう。

 もしかしたら、そうなるだけなのではないか。

 

 

 

 中学1年生までやってきて、僕がそう考えている矢先の出来事だった。

 学校の男子トイレの前で、たむろしている、体格の良い同級生たちの姿を僕は見てい

た。

 そういえば、ずっと昔にも、僕は、そのような光景を見ていたような気がする。

 それもそのはずだ。

この光景は、僕がずっと昔に実際に経験していた事なのだから。

「おい、ちょっと、お前上の階のトイレ使っていろよ」

 体格の大きな同じクラスの同級生が、中学生の僕に言って来ていた。彼や、その周りに

いる者達は、通っていた中学でも問題児で有名だった。

「おいおい、中を覗くなって! あっち行っていろ!」

 同級生相手でも、まるで指図をするかのようなその同級生。僕は彼の未来を知っている。

なぜなら一度、僕は、この世界でこれから起こる未来を知って、戻って来ているからだ。

 彼らはこの先、どんどん荒れ、問題児のまま卒業していくのだ。

 そして彼らのせいによって、面倒な被害に遭う生徒も大勢いる。

 できれば、僕は彼らと関わりあいたくなかった。一度経験している世界でも、僕らは、この

中学の問題児達とは関わり合いにならなかった。

 

 

 

 だが、

 僕はちらりと見てしまっていた。一度経験した世界でも、この世界でも。

 トイレの中に一人の男子生徒が連れ込まれていたのだ。

 それも、殴られているらしく、顔を片手で押さえていた。

 彼の未来も、僕は知っていた。

 その男子生徒は、この先、いじめに遭った上に、学校に来れなくなってしまう。その先、ど

うなったかは僕も知らないが、どうやら、僕が一度経験している世界では、一生生傷が残る

ようないじめを受けていたというのだ。

 思い返せば、ちょうどこの時期から、そのいじめが始まっていたような気がする。

 そして、いじめを行っていたというのは、正に今、僕の目の前に立ちふさがっている連中

なのだ。

 それは、たった今から始まろうとしている。

 

 

 

「何見てんだよ!さっさと行け!」

 と、凄んでくる、大柄な問題児が目の前にいた。

 仕方なく僕はその場を離れようとした。

 何しろ、面倒事には巻き込まれたくなかったからだ。ただでさえ面倒なことになってしまっ

ているのに、これ以上面倒事に巻き込まれたくはなかった。

 僕は、トイレにいる男子生徒を見捨ててしまい、その場を後にした。

 だが、僕にたった今、凄んできた生徒は、所詮、体格は大きくとも、中学1年生、13歳で

しかない。偉ぶっていられるのは同級生だけという、所詮は小さな連中のはずだった。

 一度経験している世界では、僕はその迫力に怖気づいていたかもしれない。

 だが、今の僕ならば、何とかできるはずだ。

 この、一度経験している世界ならば、一人の人間を救うことができるかもしれない。

 僕は気づいていた。

 廊下の先を、一人の教師が歩いていく姿が見えていた。

彼からは、トイレの中を見る事は出来ない。だから、その教師は、トイレの中で起こってい

る事は知らない。

だが僕は、その教師を呼びとめる事が出来る。

 もし僕が、この場でその教師を呼びとめる事が出来れば、あのトイレから、

全てのいじめが始まってしまった、大人しそうな男子生徒を救う事が出来るかも知れない。

 廊下を歩いていく教師は、生徒からは恐れられている存在だ。以前の僕だったら、呼びと

める事さえ恐れをなしてしてしまっていただろう。

 だが、

「先生!」

 と、僕は一言、その教師を呼び止めて、トイレで起こっている出来事を告げれば良いだけ

だったのだ。

「うん?何だ?どうかしたのか?」

 教師がこちらを振り向いて来た。中学生の視点から見ると、その顔や体格は、かなり迫

力がある。話すことさえも抵抗がありそうだった。

 中学生から見る大人の教師というものは、かなり迫力があるものだと、僕は再び実感して

いた。

「あの、あそこのトイレで…」

 僕はどもりながらもそう言うのだった。教師の方を見つめる事はできず、つい目線をそら

してしまう。

 それは大人の僕も、今の僕でも同じだった。

「トイレがどうかしたのか?」

「行ってあげてください。ちょっと…」

 僕はそう言うだけで良かった。

 それだけで、教師の気を引いてやり、トイレの中で起こっている問題を解決することがで

きる。

 僕は、教師がトイレの中に入っていった隙に、素早くその場から脱した。

 その後、トイレでどんな事が起こったのか、大体の想像はつく。

 いじめられていた男子生徒も、いじめていた側も、その後、しばらくして教室へと戻って来

ていた。

 僕は、何もチクリはやっていない。ただ、ほんの少し、一度経験している知識を利用して、

過去に影響を与えたのだ。

 彼をこの場から救い出すために。少しだけ、時間を稼ぎ、手順を変えたにすぎない。

 僕は、だんだんと過去を変え始めていたのだ。

 それも、僕自身は、ドミノを倒し始めるかのように、ほんの些細な力を加えるだけで良か

った。

 過去というものは、いとも簡単に変えてしまう事が出来るのだ。

 ただ、そう思う事が出来たのは、この時だけの話だった。

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 かつて僕が経験した世界では、いじめられていた男子生徒。

 彼はその後、再び僕が経験することになっているこちらの世界では、トラブルに巻き込ま

れる事がなかったようだ。

 今まで、僕は、いじめの現場を目撃しても、それを黙っている事が最良だと思っていた。

 しかし、案外いじめというものは、最初は些細なものでしかない。現場をチクったから、チ

クらなかったからと言って、僕までいじめられるなどという事にはならないようだった。

 その後も僕は、荒れだしていく問題児に関わり合いにならなかったせいなのかもしれない

が。

 ただ彼らは結局、別のいじめの対象や、苛立ちの吐け口を見つけたらしく、そちらに構っ

ているらしい。

 もしかしたら、僕が、内気な男子生徒を救った事によって、別の誰かがいじめられる事に

なってしまったのではないか?

 それも、僕がかつて経験した世界では、いじめられる事もなく、幸せに生きてきた生徒が

いじめられているのではないのか。

 僕は、生まれて初めてだろうか。他人の心配をしてしまっていた。

 罪悪感だろうか。過去を変えてしまった自分の罪について、なのだろうか。それって、もし

かしたら、とても重大な過ちなのではないのだろうかと。

 僕自身は、その後は大したトラブルにも巻き込まれることなく、中学時代を過ごしていっ

た。

 

 

 いつしか、僕は、かつて僕が経験していた世界の人生の半分以上を、引き戻されてしまっ

た世界で過ごしていた。

 15歳になって、中学を卒業するころには、他の人たちで言ったら、実に、40歳にも及ぶ

ほどの人生を経験をしてきてしまった事になる。

 だが、他人から見た僕はあくまで、中学生としての姿しかしていなかったし、40代の人間

にも匹敵するほど、多くのものを見てきたようには思われないだろう。

 そして、僕は高校生になっていた。

 

 

 かつて僕がいた世界の知識は、僕の脳の中に残ってたはずだから、再び中学の勉強を

して、高校受験を頑張ってみる事もできただろう。

 かつて僕がいた世界では、僕は、その時受験して、合格できるだけの高校に合格しただ

けで、大した高校受験の勉強をしなかった。それだけで十分だと思っていたからだ。

 しかし、その時に勉強してきた事を、まるっきり忘れてしまっていたわけではない。実際、

僕は大学生だったし、中学校のレベルの勉強なら、他の生徒よりもずっと理解することが

できる。

 だが僕は、頑張って勉強して、高校受験に合格する。そんな気持ちになれなかった。

 果たして、良い大学に入る事が出来る高校に入って、一体何が変わるのか。僕はそう思

っていたからだ。

 それに、かつて僕がいた世界の経験がなければ、まったく経験したことのない高校でやっ

ていく自信もなかった。

 だから、僕が選んだ高校は、かつて僕がいた世界での高校、そのものだった。

 高校受験の問題すら、僕が受験した時と全く同じものが出題されていた。あの時の光景

が、フラッシュバックのように蘇りそうだった。

 僕は高校生になったが、今だに、なぜ自分が昔に引き戻されてしまったのか、さっぱりと

理解できなかった。

 

 

「やりなおしますか、やりなおしませんか?」

 あの時、聞こえてきた言葉は一体、何だったのだろうか?

 たったそれだけの言葉が与えてきた選択肢で、10何年もの時間を与えられてしまった。

 しかもあの時、僕は、

「どちらでも良い」

 という選択をしてしまっていた。

 "どちらでも良い"とは、何と曖昧で、危険な選択肢なんだろう。僕は痛感するのだった。

 

 

 結局、毎日同じように過ぎていくだけだ。

 高校の教室で、皆が、どうでもいいような話をして、誰かを馬鹿にして、また、誰かに対し

ての愚痴を吐いて笑っている。

 所詮は10年後には忘れられているような、くだらないことだ。

 なぜそのような、どうでもいい事に対してムキになったり、熱くなったりすることができるの

か、僕には分からない。

 昔もそうだった。僕が小学2年生まで引き戻される前も、僕はあらゆる物事に対して、冷

めきっていた。もう一度経験する今の世界では、もっとつまらない。

 学校に同じように通って、同じように過ごしていく。それだけでしかない。

 そもそも昔から、僕はあらゆる事にやる気がなく、非常に冷めた目で物事を見ていたよう

な気がする。

 だから、結局昔に引き戻されてしまったとしても、同じように日々を過ごして行く事しかでき

ない。

 "中学生が終われば、きっと何かが変わる"

"高校生が終われば、きっと何かが変わる"

かつて過ごしていた世界でも、僕は、そう思っていた。だから、中学校、そして高校の3年が

早く過ぎてしまえばと思っていた。

 だが、結局僕は何も変わっていない。ただ、"変わる"という根本的な事を先送りにしてき

ただけだ。

 変える事も出来ない事を知っていた。

 だから、無理やり子供の時代へと引き戻されて、同じような日々を過ごしていくなど、僕に

とっては苦痛以外の何物でもなかったのだ。

 過去の時代に戻されたことに意味があるのか、僕は分からなかった。

 ただ、高校の授業中にも、ずっとこのように苦痛とも言える悩みを抱えさせるために、あ

の声の持ち主が仕組んだのか?

 僕は、元に僕がいた世界でも、特に部活動などに入って、何かに活動をしていたわけで

はなかったのだが、今度の世界でも、結局何に対しても興味を持つ事は出来ないでいた。

 勉強も、学校行事も、日常生活も。

 何を何度繰り返しても、そこには喜びさえも感じる事が出来ない。

 皆は、笑って高校生活を過ごしていく。

 何がそんなに楽しいのか?

 10年後には忘れられているような事、もしかしたら、1年後には忘れ去られてしまってい

る事に、妙に感情移入をしている皆。

 その中で、僕は非常に特異な存在だったかもしれない。

 だが、それに関しては、それでいいのだ。

 誰も構って来なければ、それでいい。やっぱり僕は、自分が引き戻された理由を、自分自

身で見つける必要があるんだろう。

 皆は笑って過ごす。僕は、わけも分からない戻された、この世界で、何十年も過ごして行

く。

 

 

 だから明日、10年後も、50年後も忘れられないような、大きな鉄鎚が迫って来ていると

いう事は、僕以外誰にも予期できない事だった。

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 2001年9月11日。

 その日は、誰にとっても、普通の日でしかなかった。僕が2回も、高校生活3年間を通う

事になっている高校では、夏休みの余韻も抜けきらずに、ただ気だるそうに過ごしている生

徒が多くいた。

 その日は、世界中の人々が、ごく当たり前に時間を過ごしていた。

 僕が小学校2年生まで引き戻されてきた"こちらの世界"でこれまでに経験してきた話を

少し振り返ると、

 阪神大震災、地下鉄サリン事件。その他、僕の記憶に残っている様々な事件がある。僕

はそれをすでに知っているはずだった。

 その事を知っていたからと言って、実は僕は誰かに警告しようと考えなかったわけではな

い。

 しかし、ある考えが僕を押しとどめた。

 "果たして、阪神大震災をすでに知っているからと言って、それを誰に警告するというのだ

ろう"

 地震を予知することができた、超能力少年。として、テレビにでも出演するというのだろう

か? おそらく、震災が起こるまでは、誰も僕の言う事を信じない。

 そして、事件が起こってから、皆が僕を珍しいものを見るような眼で見出すだけに違いな

い。

 地下鉄サリン事件が起こる。それを、東京メトロ(この当時は、営団地下鉄だが)に警告

した所で、一体だれが聞く耳を持つのだろう?

 だから、2001年9月11日に起こる事も、僕は知っていた。

 日本時間で言えば夜も更けてきた頃に、僕は世界の反対側で、何が起こるかを知ってい

た。

 僕という存在自体は、未来の世界から引き戻されてきて、元の時間へと戻れずにいるだ

けかもしれない。

 だが、もしかしたら、大勢の命を救うために、過去へと引き戻されてきたのかもしれない

のだ。

 そう思った事が僕には何度かあった。

 誰かに警告しようと、電話機さえ握った事さえある。

 警告しようと思えば、僕は誰にでも警告することができた。しかし一体、誰がたった一人

の少年の言う言葉を信じるのだろうか?

 そもそも、一体、誰に連絡すれば良いのだ? 

"9月11日に、アメリカニューヨークの貿易センタービルに旅客機が突っ込みます。それは

テロ事件で、いずれは戦争にまで発展してしまう歴史的な大事件になるんです"

 日本の高校生の一人でしかない僕が、アメリカの航空会社に警告でもするというのか? 

そうだ。現地の日本大使館に連絡すれば、言葉が通じるし、警告を発してくれるだろう。

 いや、それはだめだった。

 具体的な内容の予知にも似たものを、警告して出せば、アメリカも日本の警察も、"テロ

事件を知っていた人物がいる"として、僕の行方を捜すだろう。

僕はテロリスト扱いされてしまうかもしれない。

 それでも、数千人の命には代えられるか?

 しかし、良く考えてみよう。

 もし、僕が、今日テロ事件を救ったとして、そこで大勢の人間が生き残る事になる。

 "僕が元にいた世界では死ぬはずだった人間が、生き残ってしまう"

これはどういうことだろうか?

 テロリスト側も、今回のテロが失敗したからと言って、諦めるわけがない。次はもっと確実

な方法で、もっと大きな被害を出す攻撃を仕掛けてくるかもしれない。

 僕が数千人を救った事で、今度は数万人が犠牲になる事件が起きてしまう。

 そう考えられなくもないのだ。

 そもそも、僕には、こんな大きな歴史の流れを変える、勇気がなかった。

 結局、それが、僕に与えられた使命ではないのだ。

 そんなものが、あればの話だが。

 

 

 

 時は意識していてもしていなくても、無情に過ぎていってしまうものだ。

 貿易センタービルに旅客機が突っ込むテロが起こっても、僕らの時間はどんどん過ぎ去

っていく。あっという間に6年間もの時間が経ってしまっていた。

 2007年10月。

 僕は失意と無気力の真っただ中にいた。

 生きたいわけではない。かと言って死にたいわけではない。

 どちらをやろうにも、まったく意味のない事にしか感じられない。

 ただ流されるだけの人生に流されていく。それを、もう一度繰り返しているだけに過ぎな

い。

 何を見ようにも笑えない。その物事の結末を知っているからだ。

 何をしようにも楽しめない。その物事の薄さを知っているからだ。

 これは絶望でなければ希望でもない、その中間にさえ位置しないもの。とても恐ろしいく心

を蝕んでいくかのような事だ。

 それを繰り返されるなど、2倍恐ろしく、2倍病んでしまう出来事だろう。

 結局、大学に入っても、僕は右にも左にも行けない。

 人生をやり直しても、人生を変えることなどできていない。

 変える事が恐ろしいのだ。

 

 

 

 と、思いつつも、僕は何度か、色々な事を試してきた。人よりも何倍も生きているのだか

ら、何倍も何かをすることができる。そう考えていた。

 だが、結局僕が変わっていない所からして、それが大した試しではなかった事は、誰から

見ても明らかだろう。

 

 

 

 そうだ。もしかしたら、金を稼ぐ事はできるかもしれない。

 僕には、かつて過ごしてきた世界での記憶がある。ある地点で、僕は過去の世界に引き

戻されてしまったわけだが、僕には、人より二十数年分の多くの記憶がある。

 これから起こるであろう未来を知っている。

 つまり、この国や、世界の経済も知っているのだ。

 株式投資にこれを生かせないだろうかと思った。為替投資でもいい。

 未来を知っているという事は、これにお金をつぎ込んで、一気に稼げるに違いない。

 今まで、何に対してもやる気が起こらなかった僕だが、何かに打たれたかのように、突然

やる気が湧いて来る自分に僕は気が付いていた。

 だが、僕はある事に気が付いていた。2007年まで、世界経済は上昇を向いていた。し

かしながら、何かしらが原因で、2007年の11月ごろから、一気に経済は下降を向いたは

ず。

 何とかショックなどとテレビは報じていた。

 確か、サブ…、何とかローン問題とか言う出来事だ。

 僕は、そんな、世界的な経済危機が起こった。そして、世の中の人たちが、そんな経済危

機を受け入れ出していて、不況がという言葉が当たり前のように使われるようになってきた

ころ、

 車にはねられた。

 まるで、僕が株投資で、お金儲けができないように、未来を大きく変えてしまわないように

と、神様が運命の安全装置をしかけていたかのように。

 どうやっても、僕は、やり直す事ができないかのように、神様が安全装置を付けてしまっ

ていたのだ。

 言い換えるならば、もう少しで、手が届く場所に、厳重に柵が張られていて、そこから僕を

たたき落としてしまうかのようだ。

 楽してお金を稼ごうとする。という安直な行為は、その柵の前では、蠅のように簡単にた

たき落とされてしまうようだ。

 

 

 

 だったら、何故、神様は僕を昔まで戻してしまったのだろう?

 金を稼がせるためでもない。

 まして、多くの人を救うためでもない。

 まるで意味のない事のように。

結局10年以上考えても分からないまま、僕は、かつて、僕が引き戻された時代にまで戻っ

てきてしまっていた。

 ちょうど、あの僕が車にはねられて、小学生の時代にまで引き戻されてしまった、あの地

点だ。

-6ページ-

 "僕は、結局何も変わらない"

 小学校2年生の時代に戻されてきた地点から、もう一度20代前半までやって来てしまっ

ていた。

 "もしあなたが、人生をやり直せるとしたら、何を変えますか?"

 以前までの僕だったら、紙に書ききれないような事をずらずらと書いていただろう。それ

は、多分、他の人もそうだろう。

 皆が、人生をやり直したがっている。それはこの世界でも同じだった。

 だから、僕が車にはねられたあの時、人生をやり直す選択をしたのは、多くの人が望ん

でいた事と同じなのだ。

 だが、現実に、いざそのやり直す段階になっても、どうやり直したら良いのか?分からな

かったし、結局は、やり直す事もできなかった。

 例え、過去に戻ったとしても、僕のような勇気もない小さな人間は、何も変える事は出来

ないのだ。

 そう痛感していた。

 

 

 ある時、僕は夢を見ていた。

 かつての僕が普通に過ごしていた時代と同じように、大学生の時、親元を離れて、一人

暮らしをしているアパートで、ただ一人、床についたまま夢を見ていた。

 夢の中は真っ暗で、僕はただ一人そこにいた。

 一人の男、というよりは年頃で言ったら男の子、が暗闇の中から現れた。

 どこかで、その姿を見たことがある。僕が通っていた中学の制服を着ている。

 思い出した。彼は、僕が、中学の時(やりなおして来た世界での事だが、)にいじめから救

ってあげた男子生徒だった。

 僕は、彼の名前さえ覚えていなかった。それに、救ったと言っても、僕は、ほんの少しだ

け、運命の歯車を掛け違えさせただけに過ぎない。

 だが彼は夢の中に、中学の時と変わらない姿で姿を見せていた。

「また会ったね…?」

 と、その子は僕に言ってきた。あまりに突然現れてきた、その子に、僕は本来なら戸惑う

はずだったが、不思議とその存在を受け入れる事が出来ていた。

 多分、夢の中だから、その存在を受け入れる事が出来ていたのだろう。

「君は、えっと、名前は…?」

 僕は、顔を上げてその子の名前を思い出そうとした。

「嫌だな…、忘れないでくれよ。シュンイチだよ。君は、自分が助けた人の名前も忘れてしま

うのかい?」

 助けてしまう。という言葉を聞いても、僕には不思議と、その実感がなかった。

 あの時、助けてあげるつもりなど、そもそも無かったのだから。

「僕は、君を助けてあげるつもりなんてなかった。それに、そんな事なんて、僕はほとんど覚

えちゃあいない…」

 僕がそう言うと、"シュンイチ"は僕に向かって言って来た。僕は夢の中で、たった一人き

りになりたい気分だったけれども、どうやら、シュンイチは僕に付きまといたいらしい。

「君がそう思っていても、僕は君に助けてもらえたんだ。今でも感謝しているよ。何しろ、僕

は、こっちの世界では幸せに暮らしているんだからね。

 自分のやりたい事を学んで、やりたいように生きている。もちろん、良い意味でね」

 その"シュンイチ"の言葉が、僕にはまるで挑発的に聞こえてきた。

 自分のやりたい事をしているなど、何と都合の良いきれいごとだろう。そんな事を言える

人物が、僕にとっては憎くてたまらないのだ。

 普段口にはしないが、憎くてたまらない。

 そんな僕の気分など知りもしないかのように、"シュンイチ"は言ってきた。

「君は、もっと大きな歴史の流れを変えようとしたね?」

 僕は顔を上げた。

 彼は、僕が、この世界に起こる悲劇的な出来事を変えようとした事を知っているのだ。

「なぜ、それをしようとしたの?」

 なぜ、と問われても、僕には何も答えようがない。

 そうする事が正しい事だと思ったからだ。

「もしかしたら、君は、自分が戻された事が、特別なことだとおもっていない? 世界中のだ

れにも起きないような、特別な事が自分に起きたから、世界中の誰にもできないような、特

別な事をしようって」

「じゃあ、僕に何をしてほしいんだ?」

 シュンイチの言葉を遮るかのように、僕は言い放っていた。

「君に、やってほしい事なんてない」

「はあ?じゃあ、僕が、昔へと戻されてしまったって言う事は、何の意味もない事なのか?」

 夢の中でだったが、僕は初めて、自分が引き戻された人間だという事を人に明かしてい

た。

 ただ、僕が話している相手は、あくまで僕の空想の産物が生み出した人間なのかもしれ

ないが。

「でも、アドバイスをするならば、君が変えるべき事は、案外すぐ近くに転がっているかもし

れないっていうことだよ。

 僕は君に対しては何も要求しないけれども、"君が何かを変えることによって、やり直して

きた人生に意味を持たせたい"のならば、

 君の未来を変えるような出来事なんだ。十何年も人生をやり直してきた価値はあるかもし

れないよ?」

「どういう事なんだよ?」

 僕は顔を上げて問う。

「君は今日、大学に通う途中に、車にはねられる。それは確かな運命なんだ。でも、君は過

去に戻ったことで、それを変えることができる」

 シュンイチが言ってきた言葉が、僕にはさっぱり分からなかった。

「はあ?変えるって?」

 僕が尋ねると、すかさずシュンイチが言ってくる。

「君が僕をあの時に助けてもらった事から、君は、僕を意識する事ができるようになった。

だから、僕はこうして君の夢の中に存在できる」

 そうシュンイチに言われても、僕には全くもって理解することができない。そんなに難しい

言葉を並べないでくれ。

「君に、ある人を救ってほしい。その人は、今日、命を断とうとしている。君が、僕を救ってし

まったせいでね。それは、ちょうど、僕が運命を変えられてしまったお陰で、逆に命を失い

そうになっている運命にある…」

「よく、分からないな…。僕が君を救ったおかげで、別の誰かが死ぬって?」

 僕はシュンイチとは目線を合わせずに尋ねた。

「君が、僕を助けてくれたのは、ほんの些細な、パターンの組違いでしかない。誰にも気が

つかれないように、時間の歯車を組み替えただけ。だけれどもその歯車は、別の方向に大

きな影響を及ぼしたんだ」

「君の言っている言葉が、僕には良く分からない…」

 僕は自分の夢の中で頭を抱え、ただシュンイチにそう言うしか方法がなかった。

 だが、シュンイチはすかさず僕に言ってきた。彼は僕に優しく言い聞かせるかのような口

調で言ってくる。

 そして、優しく僕の肩の上に手を乗せてきた。

「だから、ホラ。起きて。君が早起きするだけで、また運命が変えられるかもしれないよ?」

僕は、その声を聞いて、その場で身を起こしていた。

 

 

 ベッドの上で、いつの間にか僕は身を起こしていた。無意識の内に身を起こしていたこと

なんて、今までにあっただろうか。

 あまりに不自然で、おかしな出来事だった。

身を起こした状態のまま、僕は時計を見る。時刻は、7時34分。

 大学生が、朝の講義に出席するには、そろそろ出かける準備をする必要がある時間だ。

 だが僕はいつももっと遅くまで眠っていたし、朝の講義に定刻通りに出席した事など数え

るほどしかない。

 だから、本当は、僕はもっと遅くまで眠っている。それがいつものスタイルだった。

 だが、今日は何かが違う。そう思った。

 

 

 大学のキャンパスにたどり着いた時、僕は奇妙な感覚を感じていた。そう言えば、ずっと

以前にも、これと全く同じ光景を目にしていたような気がする。

 どこで、そう、どこでだっただろうか。

 ここ、2、3年ほどの間の出来事ではない。

 もっとずっと前、人生をずっとさかのぼった昔に、似たような光景を見ていたような気がす

る。

 上手く思い出す事が出来なかったが、大学の建物と、更に周囲に広がっている光景、目

の前を走る車で理解した。

 これは、僕が車ではねられた通りだ。

 それは大学に通う時から知っていた。

 だが、特別なのは、その車ではねられた時が、まさに今日がその日だったという事であ

る。

 僕は、かつて経験していた人生では、今日、この日に車にはねられたのだ。

 そのあと、どうなってしまったのかは僕も分からない。僕は何かを知る間もなく突然、小学

校2年生まで自分の人生を戻されてしまったのだから。

 もう一度、まったく同じ出来事が起こってしまったら、一体どうなるのだろうか?僕は、前と

同じように、ずっと昔まで、人生の歯車を戻されてしまうのだろうか?

 それとも、今度こそ車にはねられて、僕は死んでしまうのだろうか。

 だが、あれが起きたのは、午前9時30分を過ぎた時間だ。まだ、午前8時50分。大分時間

はある。

 前に経験した時とは、大分、条件が異なってきているようだ。

 だから僕は、大学の前の通りを無事に渡って大学にたどり着く事ができた。いつもと変わ

らない光景。もしかしたら、日にちを間違えたのかもしれない。そうさえも思っていた。

 だけれども、明らかに僕は感じていた。

 あんな夢を見てしまうなんて。やっぱり今日は普通の日ではない。

 きっと何かがあるはずだ。

 それに、あの夢は何か僕に今日、変える事が出来るものがあると言っていた。それが、

京、大学に行けば見つかるのかもしれない。

 僕は、何者にもさえぎられる事無く、大学へとやって来ていた。

 ちょうど、朝の講義が始まる時間だった。だが、僕は朝の講義はいっさい時間割の中に

入れていなかったし、早く大学に来る意味さえもなかった。

 いったい、こんなに早く大学にやってきて、何か見つけられるものがあるとでも言うのだろ

うか。

 もしかして、あの夢は、僕を事故に遭わせないためにこうして大学に早く来させたのだろう

か?

 僕が事故に遭わなければ、僕は過去に戻ったりする事もなく、また車にはねられて死ぬ

ような事もないわけだから、未来を大きく変えてしまう事が出来る。

 もしかしたら、そういう事なんじゃあないのか。

 夢でそのような警告を仕掛けてくる。よくある話だ。だが、あくまで話で聞いた事があるだ

けで、現実にそんな事があるなんて信じられない。

 現に僕がこうして、過去に引き戻されて、人生をやり直しているのだって、だんだんと自然

になってきてしまえば、特別な事でも何でもない。

 結局ずっと変わらない毎日。はっきり言って、生きていたからと言って、一体何があるとい

うのだろう。

 それぐらいだったら、いっその事、車にはねられて、死んでしまった方が良い。

 また、かつて小学生だった時代にまで引き戻されて、また人生をやり直すなんて嫌だし、

これから当てもないような人生を歩んでいくなんて、とても僕には耐えられない。

 僕が変えたいのは、人生をやり直すような事とは違うんだ。

 いつの間にか、大学にやって来ていた僕。

 僕は、ふと、大学に向かう構内で、建物を見上げた。

 すると、10階ほどの高さがあるその最上階の窓が開け放たれている。確かそこはトイレ

で、普段は窓など開けない。

 今は冬場なのだから窓は開けないのは当然だ。

 普段は開いていないはずの窓が開いている。僕は不審に思った。

 どうせ、朝の講義は出席しないつもりなのだから。僕は急ぐ必要もなかった。だが、わざ

わざ普段入らない建物の、10階まで上がる必要もない。

 しかし、その窓から、一足の靴が姿を見せた時、僕は、その窓に視線を集中させた。

 誰かが、10階の窓に足をかけている。

 もしかしたら。と僕は思った。

 あの夢の言葉を僕は思いだす。夢の中で、シュンイチは言っていた。

 君に、ある人を救ってほしい。という言葉を。

-7ページ-

 僕が10階の男子トイレまで階段を駆け上がった時、その男子学生は、靴を綺麗にトイレ

の床に揃えている所だった。

 よく自殺者がそうやると言われている。靴を履いたまま、トイレの窓から飛び降りるような

事はなく、靴をしっかりと揃えて窓から飛び降りるという。

 なぜそうやるのかは知らない。だが、自分の自殺に、しっかりと礼儀をしたいのだろうと、

僕は思っていた。

 男子学生が僕の目の前で、今やっているのは、いわゆる儀式なのだ。

 自分で自分の葬式を上げているようなもの。その中に僕が踏み込んでいくのは、いわば

彼の尊厳を汚すようなものだ。

 だが、僕はその男子学生しかいないトイレの中に踏み込んだ。

「ああ…!一体、何て事をしてくれるんだ!いつもいつも!」

 突然、その男子学生は僕に向かって苛立ったような声を上げた。

「いいか、ぼくを止めないでくれよ。もう、何度も何度も邪魔されて来ているんだ!もう、ぼく

は誰にも構ってほしくない!」

 僕はどうしてそう言われるのか分からなかったが、とりあえず言葉を並べるしかなかっ

た。

「その…、そこから、飛び降りるのは、やめた方がいい。じ…、自殺はよくないから…」

 元々、人とのコミュニケーションが苦手な僕だったから、このような場においても、ロクな

言葉を並べる事は出来ない。

 だが、その男子学生を見ていて、僕は思い出した。

 この男子学生は、中学で同じクラスだった。詳しい事は知らなかったが、中学3年生、ちょ

うど受験の時期に、学校に来なくなってしまった。

 僕は、その子の顔をよく覚えていた。彼はあまり顔が変わっていなかったからだ。

「君も、なのか、君も同じクチなのかい?」

 と、突然彼は言ってきた。何故そんな言葉を言ってくるのか、僕にはさっぱり分からない。

「は、はあ…?」

 僕は、この子を知っていたが、あえて言わない事にした。相手は僕については何も覚えて

いないようだった。

 彼はあまり中学の頃から顔が変わっていないが、僕は大きく変わっているようだ。

「君も同じ事を言うのかい?自殺はいけない。自殺は罪だって。そんな事を一体だれが決

めたって言うんだい?君だって、僕と同じような事になれば、気がつくはずだよ」

 彼は僕に言ってくる。自殺を止めてやりたいという気持ちは僕の中にあったが、

 彼の言っている事をもっともだと思える気持も、僕の中にある。

「世の中には、僕なんかよりも、ずっと苦しんでいる人がいる。だから、生きなきゃあいけな

いってね。だけれども、僕がこれ以上生きていたから一体何になるって言うんだい?

 そんな事を言う奴には、僕や、僕と同じような考えをしているような人の気持ちなんて、分

かりやしない!」

 その男子学生は、再び窓に身を乗り出し、身を投げようとする。

 だが、僕は思わず飛び出して行き、彼の腕を掴みにかかった。

「何をするんだ。離せよ!」

 彼は奇声にも似たような声を上げて僕を振り払おうとした。

 その時、彼の来ていたシャツがまくれて、彼の白く、日に焼けた事もないような腕があらわ

になった。

 僕は思わず息をのんだ。

 なぜなら、その剥き出しになった腕には、切り傷が幾つも付いていたからだ。一つや二つ

などではない。実に20や、30を超えた傷が付いていた。

 リストカットというものだ。この学生は、リストカットをしている。それも一回や二回などでは

ない。癖になるくらい何度も傷を付けているのだ。

「あの時に、戻れたらって思う!あの時、僕が、チクリをやったんだって事を誤解されなけ

れば、僕はいじめられなかったし、高校にも行けて、大検じゃなくて、もっと良い大学にも行

く事ができたはずなんだよ!」

 何という事だ。僕は、思わずその学生の腕を掴む力を弱めてしまった。

 この学生は、やはりいじめられていた。それも僕と同じクラスだったのだから、たぶんそ

れは、"シュンイチをいじめる事になっていた"連中にいじめられたりしたのだろう。

 そして、チクリをやったのは、他でもないこの僕だ。

 彼は誤解されてしまったのだ。他でもない、僕の原因で。

 僕が、過去を変えてしまったせいで、本来なら、幸せに生きる事ができてしまった人が、

今、僕の目の前で自殺をしようとしている。

 この男子学生が自殺を考えているのは、他でもなく、僕に責任があるのだ。

 自殺を止めてやりたい気持ちが僕の中で強まった。

「だ、だからって、自殺を考えるのは止めてくれ。僕も、人生をやり直したいって思う時はあ

るけれども、自殺をしてしまったら、やり直す事だってできない…」

「偉そうに言わないでくれ!君にはどうせ、僕の気持ちなんて分からない」

「わ…、分かるって言ったら? 上手くいかない事も、生きていればいくつもある。でも、いつ

も上手くいかないわけじゃあない。

 やり直すっていう事は、昔に戻ってやり直すっていうことじゃあないんだ。これからやり直

す。そういう事なんだよ」

 僕が発した言葉は、僕の夢の中で、シュンイチが話していた言葉に似ていた。

「いや、僕にはそんな事は無理なんだ。だから、手を放してくれ」

「だ、駄目だ。僕の目の前でそんな事をしないでくれ。それに、下に人がいたら、その人た

ちを巻き添えにしてしまうかも…。

 いや、その人たちを巻き添えにしなくても、君が飛び降りるのを見ただけでも、巻き添えに

してしまった事になるかもしれない」

 だが、僕の言った言葉は、彼に対して何の説得力も持っていなかったようだ。

「じゃあ、君は僕にこっそり死ねって言いたいのかい?」

「そう言っているわけじゃあないんだ。でも、死ぬっていう事が、どういう事か、本気で考えた

事はあるのかい?」

 結局、僕が彼に対して言う事ができるのは、そのような言葉でしかないのだ。

「さあね?何で君にそんなに偉そうに言われなきゃいけないんだ?だけど、僕みたいに空

気な人間は、生きている価値がないって言う事なんだよ」

「きちんと、自分を持っているじゃあないか、君は。僕に、そうやって、自分の意思を伝える

だけ、空気じゃあないよ」

 そこまで僕が言った所で、彼はどう思ったのだろうか?突然、僕が掴んでいた腕を振りほ

どいて言った。

「ふん。君のおかげで、飛び降りる気がいっきに萎えちゃったよ。どうしてくれるんだい、全

く」

 その男子生徒は僕に向かって嫌悪もあらわに言ってきた。

「今、飛び降りようとしたら、君まで一緒に付いてきてしまいそうだし、君は、僕を止められな

かったって事で非難を浴びるかもしれない。

 下手したら、殺人罪で疑われるかもね…。さすがに今から死んだとしても僕はそれはご免

だ。でも、君のせいだからな」

 彼は僕に向かって言い放つ。

「次は、誰も見ていないところでやるよ。ここでの事を誰にも言うなよ。今の事は君のせいだ

からな!」

 そう言うなり、彼は、自分が飛び降りるつもりで開けたのであろう、窓の方ではなく、男子ト

イレの扉の方へと向かっていった。

 彼は一切、僕の方へと振り返ることなく、扉から出て行ってしまったのだ。

-8ページ-

 午前9時10 分。僕はまだ窓が開け放たれたトイレの中に一人でいた。

「よくやったね。これで君は、2人の人間を救った事になる」

 幻聴でも聞こえてくるかのように、ある声が聞こえてきた。

 見回してみたが、トイレの中には僕以外には誰もいない。

「いいや、君を加えたら3人かな?」

 その声には聞き覚えがあった。それも、ずいぶん最近にも聞いた気がするし、過去にも

聞いた気がする声だ。

「やれやれ…、また君か…」

 それは、今朝僕が夢の中で聞いた、"シュンイチ"の声だった。不思議と、頭の中でそんな

声が聞こえる事に違和感を感じない。

「君は、今、時間の歯車の並び方を変えた。いや、君は、大分、昔から時間の歯車の並び

方を変えている」

「よく分からないな。結局、君は僕に何をしたかったんだい?小学生まで戻して、それで一

体、何を…?」

「それに関しては、深い意味はない。こういった事は時々起るんだ。それがたまたま君に起

こった。それだけの事…」

 だが、"シュンイチ"は言ってくる。

「大抵の人は、それを生かす事は出来ない。中には、君と同じように小学生くらいまで時間

が戻ってしまっても、やりたい放題やる人もいるけれども、君は違ったようだね…」

 そうなのか。僕以外にも似たような事をする人がいたのか。だがそんな人の事なんて、僕

は知りようもない。

「結局、僕は何もできなかった。いいや、何も変えることができない。それだけの勇気がな

かったというだけ…」

 自虐的な言葉だったが、それは僕にとって、疑いようもない、事実だった。

 かみしめるかのように僕は言葉を並べたが、"シュンイチ"は至って穏やかな表情をして

答えた。

「いいや、君は、最も良い手段を取ったと思うよ。

 過去に戻って、自分を変える事を望む人は多いと思うけれども、実際のところ、過去に戻

っても、そう簡単に自分を変えることなんてできるものじゃあない。

 あの時、ああしておけば良かったという事をやり直していっても、結局はキリがないし、元

の自分が変わらなければ、似たような結果しか生まれないんだ。それは君が良く知ってい

る事だよ」

「じゃあ、僕はこれからも変わらないって事かい? 過去に戻されてしまった事は、ただの

偶然で、まったく意味が無いって?」

 僕は、あくまで否定的に言葉を返す。否定的な言葉は、まるで僕の人生を生き映している

かのようだ。

「さあ?それはどうかな?少なくとも、君はぼくと、あの子と、君自身、3人の命を救っている

…。そういう事を考えると意味はあったんだと思う」

「あの子って、あの子は、また自殺しようとするかも知れないんだ…!」

 救ったという言葉ではとても納得できない僕だった。

「まあ、あの子は、ぼくに任せておいてくれれば良いから…」

 その言葉を残し、"シュンイチ"は姿を消してしまった。僕の頭の中から、僕にしか見る事

が出来ない幻影とともに声までも消え去ってしまう。

 僕はその時、気が付いていなかったが、腕にしている腕時計の針は、午前9時15分20

秒、21秒、22秒…と、時を刻んでいた。

気がついたら、午前9時15分を回っていたのだ。

 僕にとっては、もう何年も経っていた事だったから、忘れてしまいそうなことだったが、この

時間こそ、かつて僕がいた世界で、僕が車にはねられた正にその時間だったのだ。

 結局のところ、僕の周りで過ぎていく世界は、かつて僕が経験していた世界と全く同じだっ

た。

 僕は別の世界に来たのではなく、結局、同じ世界をもう一周回ってきた。それだけの事に

過ぎないような気がする。

 結局、僕が巡ってきた世界は何だったのだろう?

 余計に、もう一度人生をやり直してきた。ただそれだけの事なのだろうか?

 人生をやり直したって、自分が変わるわけじゃあないし、そう簡単に変わるものではな

い。僕はそう思っていた。

 だけれども、どうやら車にはねられる事だけは、免れたようだった。

 それで?車にはねられなかった僕に、一体どうしろというのだ?

 これからの人生をどう生きていったら良い?結局のところ、僕も、さっき、このトイレの窓

から飛び降りようとしていた男子学生と同じで、後にも先にも希望はない。

 いや、同時に絶望もないだろう。僕は今までそうであったように、ただ空気のように過ごし

て行けば良いというのか?

 

 

 

 その後、あの男子生徒がどうなったかは、僕にも分らなかった。

 あれ以来、彼の姿を見る事もなかった。だが、僕の大学の学生が自殺をしたという事を

噂にさえも聴く事はなかったから、多分、彼は自殺という選択肢は取らなかったのだろう。

 大学をドロップアウトしたにせよ、少なからず通っているにせよ、彼はまだ生きているだろ

う。

 僕も、そのまま大学に通い続けた。

 卒業までの道のりは、まだ果てしなく遠くにあるかのように感じられたが、僕は確かに生

きていた。

 車にはねられる事もなかったし、僕の大学生活が特に変化するような事もなかった。

 この20年間という、やり直してきた人生は、まるで夢幻のようなものであったのではない

か?

 そう思えてしまっても不思議ではなかった。

 僕は、ただ20年間に体感できるほどの夢を見てきただけではないのか。そう思えるほど

のものだ。

 だが、やり直していた人生の間には、何が起こるのか、僕にははっきりとわかっていた

が、今はそうではない。

 僕の前には未知ともいえる時代が広がっていたのだ。

 それをどのように生きていくかは、完全に全てが僕次第なのだろう。

 

説明
主人公の周りの時間が色々とおかしくなってしまうというタイプの小説です。一応ファンタジーですが、舞台は現代です。
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