星ニハテル |
いよいよもって、孤独はやってきた。
白虎は、固い大地に近付きゆっくりと息を吐いた。
ガスが放たれ砂埃を巻き上げる。軌道、速度、角度はほぼ読み通り。残った衝撃は、白虎の四足裏につけられた、高分子のクッションが吸収した。
その高分子の構造は固くかつしなやかでよくたわむ。
白虎に積まれた、人類の結晶の一つ。
そうして、着陸した白虎はもう一つの結晶、これもまた高分子性の軽い強化レンズで上空を見上げた。
ここまで白虎を送り届けてくれたシャトル、朱雀に信号を送ると、朱雀が信号の受信に成功したことが分かった。
間もなく地球では白虎着陸の歓声が上がるわけだが、そんなことは白虎には知るよしもない。白虎にも不安はあったが、終わってしまえば大したことではない気がした。
むしろ長いのはこれからだ。
人間から見れば、着陸に成功しさえすれば、このプロジェクトの四割は成功と言っていいかもしれないが、単身送りこまれた白虎はそういうわけにもいかない。
長い長い、――……一時間程度の旅が始まる。
それは奇妙な星だった。
その星が辿っている航路は、いまだに地球から逃れられない人類には及びもつかず、到底観測できるものではなかった。
突如現れたそれは、火星の近くを通り抜け、遥か彼方、深遠なる太陽系の外へ旅立ってゆく。
その周期は恐ろしく早い。
注目を浴び、世間を騒がせたのはその点だった。
地球の公転軌道を光が駆け抜けたとしても、一週するのに一時間近くがかかる。
一方、その星はきっちり一時間で太陽系、それも火星や地球の近くへと戻ってきて、そして去ってゆく。その緩慢な公転速度と、観測できない公転軌道は謎の一言に尽きた。
太陽系の一つである地球から見て、その星はのんびりと遠ざかってゆく。もちろん人間から見れば恐ろしく速い速度であり、その星に探査機を飛ばすとなるとこれまた難しいのだが、それはこの星に限らず言えることで、他の惑星に比べればのんびり過ぎる速度だった。
その速度と、周期の計算がどう考えても合わなかった。
そんなに遠大な軌道ならば、もっと恐るべき時間が一周するのにかかるはずである。
逆にそんな軌道をその周期で一周するには、もっと恐るべき速度を出していなければいけない。光より速い速度などあり得ないことである。
謎が固まってできたような、星だった。
白虎は、その奇妙な、フェリックスと名付けられた星に降り立った。
世界中の幾人もが、フェリックスの軌道を望遠鏡で追おうとした。しかし、必ず見失ってしまう。誰も、フェリックスが一周して太陽系に戻ってくるまでの間、片時も離れずに見守ることは許されない。
この星の謎は、依然として解決しない。
ならば、無人の探査機を着陸させよう、という話になった。
「絶対に見失う」という謎の軌道を、たった一時間で回ってくる秘密を解き明かせばノーベル賞ものである。技術革新が起きるかもしれない。人類の新たな、偉大なる一歩の礎である。
と言っても、当の白虎にとっては星の名前もノーベル賞も興味はなかった。
もちろん白虎の希望も考えも、それこそ人間にとっては全く興味ないことなのだが。
白虎の足元から這い出るようにして一羽の機械がフェリックスに降り立った。
名を玄武というその探査機は、フェリックスに降り立った白虎を基地として、月よりも遥かに小さなフェリックスの地表を縦横無尽に移動して探査する。
玄武は白虎に対して何も抱いてはいないようだった。
そもそもが機械が何かを想うということも常なることではない。そのことは白虎も分かっていたが、自分の意識という存在を確信している白虎は、普通な機械というものにはいまいち実感が湧かない。
その意味では、玄武は非常に機械然とした存在であると言えた。
玄武は何百メートルかおきに砂を採取しながらゆっくりと進んでゆく。がらがらといまにも音が聞こえそうなほど車輪を回転させているが、その音は不思議なほどに聞こえてこない。静寂は、それ自体が音であるかのようだった。静寂という音楽が、宇宙には満ちている。白虎はそれを楽しんだ。元々音を楽しむ感性は持ちあわせていなかったが、だからこそ、この世界では白虎も人間も、等しく同じ音楽を聞くこととなる。そのことが、奇妙な事実として白虎の琴線を震わせた。まさしく、静寂は音でありながら、白虎の琴線をかき鳴らす奏者そのものであった。
それを気付かせた玄武はしかし、そんなことには興味がないのか、平坦に、愚直に、ただ己の任務をまっとうするべく白い岩肌を滑るように、浮かび上がるように走る。
だんだんと、その姿が遠ざかる。
地平線の彼方へと走り去ってゆく。
その姿が見えなくなり、白虎はより一層孤独に寄り添う。知れば知るほど、世界とは孤独と程遠いものであることが分かる。
宇宙に出たときに得た孤独感は、朱雀という母艦の存在が消し去った。フェリックスに降り立った際の孤独は、玄武が拭った。
そして白虎は、どこまでも孤独を求めて、果て無き虚を見上げた。
白虎は、あまりにも深い闇が一面に拡がっている宙をぼんやりと眺めた。宇宙というものを初めて生身のレンズで見たが、なかなかどうして不思議な場所だ。
白虎が求める何かに、宇宙は非常に近い場所である気がした。
星の公転速度に先程からあまり変化はない。地球は遥か彼方へ過ぎ去り、巨大な火星も段々遠ざかってゆく。
本当にこの速度のまま、一時間で帰ってこられるものだろうか?
白虎にとっては別に帰ってこられなくても構わなかったが、素朴な疑問としてそれはあった。人類よりも先にこの星の秘密に触れられるというのは、それはそれで光栄なことである。
宇宙は、白虎が好きな絵に似ていた。
正確には、白虎を作った研究者が好きだった絵画に描かれた男性の瞳にとてもよく似ていた。何度も見た覚えはない。ただ、何度か白虎のレンズの前で、研究者がその絵画を見ていることがあった。
古典派の宗教画だったが、白虎にとってはそんなことは取るに足らないことだった。
白虎が惹かれたのは、その描かれている男の瞳だった。
深淵が、あった。
何者をも飲み込み、何者をも拒む。
純然たる黒。たった一つの色で、しかしたった一つしかない色だった。他のどんな色も混ざらない。混ざることを許さない。純粋な黒。孤高の黒。それは黒としか呼べない。
タールのような、烏羽玉のような、そんな比喩が追いつく世界ではない。
強いてその男の瞳に通ずる色があるとすれば、それは今白虎が見ている世界、宇宙だけだろう。
そんな、宇宙のような瞳を持つ男が、絵画には描かれていた。
白虎は一目で魅了された。
男が何を見ているのかには、大いに興味が湧いた。何も映っていないように見えるその瞳で、男はなにを捉えていたのか。それは、なぜ男が生きているのかに通ずるものがあるように思えた。ひいては、なぜそんな男を、そんな瞳を描いたのか。そしてその絵はどうして世界中の人々に愛され、見守られているのか。
なぜ、なぜ、どうして。
人生という言葉の意味が少しだけ分かる気がした。
生の理由がそこにはあり、その深淵の先に白虎が求めるものがある気がした。
もう一度あの絵を見たいと思った。
宇宙という広大な、永遠の黒を見て、白虎はあの絵をもう一度見たいと思った。それは郷愁というものだったが、白虎はその言葉を知らなかった。
それに、もう一度地球に戻ることができるかどうかは分からない。
そのうちに、白虎が知っている星はすっかり見えなくなった。太陽系は遥か遠くへ消えてしまった。宇宙に、瞳の奥に吸い込まれたのだ。
白虎の目には、ただ広がる黒という名の無と、おびただしい数の光、星が瞬いている。
この世界で、他の天体や、フェリックス自体、ましてや自分の身体を見ようなどとは思う気にはなれなかった。白虎はただただレンズを上に掲げ、空を映し続けた。
時たま地球からの指示で、惑星などを目で追った。
それはそれで良かった。別に黒以外に全く興味がないわけではない。しかし、最終的には宇宙という空間にただただ圧倒された。
初めて見た宇宙という景色もあってフェリックスとの旅は楽しいものだったが、なにも観光するために白虎は宇宙まで飛んできたわけではない。興味はないが、義務感はあった。
そろそろだった。
そろそろ、幾人もがこの星を見失う時間だろう、と白虎は思った。着陸した地点、地球からフェリックスの距離が最も短くなる座標を発ってから、二十分が経過していた。
そのうちに、白虎は不思議なものを見た。
ぽっかりと、宇宙が口を開けている。それがなんなのか白虎には分からない。宇宙は、あの絵画の男の瞳に最も近い色をしていると思っていた。しかし、違った。いや、「最も近い」という意味では当たっているかもしれない。
その違いは、白虎にしか分からないかもしれない。
あるいは、画像を解析すれば人間にも分かったかもしれない。
――そこに、本当の深淵があった。
白虎はまさしく、男の瞳そのものを見た。
今まで心を奪われていた宇宙の景色が、偽物であることを知った。
ぽっかりと空いた穴。
それこそが、男の瞳に等しい、黒であり、闇であり、深淵であり、孤高であると知った。
白虎はただ見つめるしかなく、呆然と、フェリックスがその穴にゆっくりと向かっていくのを見ていることしかできなかった。白虎も共に、その闇へと足を踏み入れる。
白虎のレンズには、確かに、宇宙よりも暗い真の闇が写り込んでいた。
白虎の瞳は、絵画の男と等しい色をしていた。
まだ、人類はその穴の存在に気付いてすらいない。
穴に入った直後、嵐が発生した。
電磁波と、熱と、強力な、物理的な風が白虎を襲った。それをまだ人類は知らない。
白虎は、地球と連絡を取る方法を失った。それをまだ人類は知らない。
白虎のレンズは何も映すことができない。
白虎は、突然現れた真の孤独に怯えた。きしりと身体が身悶えた。突然発生した嵐に、白虎の身体は耐えられないかもしれない。宇宙センターの人々の、苦虫を噛み潰したような顔が浮かんだ。あるいは、絶望の顔が浮かんだ。真実のところはすでに白虎に知る術はないが、そう、想像と違わない事態が宇宙センターでは起きているだろう。
白虎は唸った。
それは、吹き荒れる嵐にびりびりと振動している身体が鳴らす音だったが、白虎の心中としては唸っているも同じだった。
ここで、自分は死ぬのだろうか。
そこまできて、白虎は合点がいった。
描かれていた男は、死ぬ直前だったのかもしれない。あるいは、直後を風刺していたのかもしれない。いずれにせよ、死という概念を描こうと具現化されたものであるように、白虎には思えた。
死とは、そういうものなのではなかろうか。
孤独であり、孤高であり、何者をも受け入れず、何者をも拒む。それでいて、すべてを包み込み飲み込む広大で巨大な、圧倒的な広さを持っている。
あの瞳とは、まさしく死ではなかったか。
そして、フェリックスを飲み込み白虎を飲み込んだあの穴は、紛れもなく死そのものではなかったか。
ならば、自分は死んだのか。
死んだのか?
白虎が抱いた疑問は、当然で、自然なものだった。
その疑問は素朴で、生まれたばかりの赤子のような姿をしていた。
「なぜ、自分は生まれたのか」
視界が開けた。永遠に続くかと思われた息苦しい嵐は、まるで幻だったかのように消え去った。吹きすさび、白虎を殺さんとわめいていた嵐が、嘘のように消え去った。
なにも残らなかった。
視界は真っ白だった。何も残っていなかった。なにも溶けてはおらず、何ものをも確固としたものとして存在させる。闇に最も似ていて、最も遠い。
真っ白な世界に、白虎は浮かんでいた。
フェリックスの姿はなく、そんなことは白虎にはどうでもよくなっていた。
「おはよう」
鮮やかな色彩を感じさせる女性の声。
白虎は、瞬きした。世界をその目に捉えることが、いまだ叶わない。あまりにも眩しすぎる。
「ここは、」
白虎の意志が、初めて世界を揺さぶった。それは今までならば有り得ないことだったが、白虎は自然とそれを受け入れることができた。
そのために生まれたのだ。そう感じることができた。
意識すれば、確かに穴の向こう側の世界を感じることもできた。
「あら、器用ね」
女性の声は、なんとも楽しそうだった。どうやら白虎が向こう側、太陽系や、白虎との連絡が途絶えて騒然としている地球の人々を観察しているその様を見て言ったようだった。
「私にはできないの。あなたは随分器用なのね」
白虎が口を開こうとして、女性は先手を打った。
「三分間よ」
「え?」
「フェリックスが、この世界を通過していくのにかかる時間」
「それは……」
信じられないでしょうね、と女性はくすくす笑った。
白虎は、視界を効かせることを諦めた。むしろ、この世界ではそんなものは役に立たないのだと思った。開き直って、女性の声に耳を傾けることにした。
「聞こえるかい、白虎サン」
しかし聞こえたそれは少年のような声だった。
白虎は四方へ意識を巡らせた。すぐにそれは見つかった。愚直さを表すような単純かつ丈夫な車輪がうごめくのが感じられた。
そこにいたのは、紛れもなくフェリックス探査に飛び立った玄武だった。
「聞こえるよ」
白虎が答えると、玄武は満足がいったようだった。
「三分、それがなにを意味しているか、レンズと発着陸装置しか持たない白虎サンには分からんだろうね」
確かに。
白虎の意義のほとんどは、玄武をフェリックスへと送り届けるためのにあるようなものである。
白虎が好むこと自体も、観察という部分に重きが置かれる場合が少なくない。白虎の持つレンズは、白虎自身の方向性との相性がいい。
穴を抜ける前、白虎と玄武の意識が重なることがなかったのは当然と言えた。
「ここは今も、拡大し続けている。次にフェリックスがこの空間に来る時、そのときすでにここは三分間では抜けられない。今よりも長い時間がかかる」
その言葉の意味が白虎には分からない。白虎のそんな様子に玄武は溜息をついた。
「ここは、いわば二つ目の宇宙。そしてそれは、ゆっくりと拡大し続けている。白虎サンよりも、より空間把握に長けた俺には分かる。第一宇宙でのフェリックスの軌道速度は月のそれとほぼ同じ。しかし、穴を抜けることでフェリックスは急激に加速する。現在の平均速度は約秒速十万キロメートル程度か。三分間の移動、つまり、少なくとも第二宇宙は千八百万キロメートルの辺を持つ空間が広がっているということになる。人間は未だこの第二宇宙を観測する術を持たない。だから、フェリックスの軌道を終えない。また、拡大している第二宇宙の影響でフェリックスは一年中ほとんど地球の側を通り抜けてゆく。太陽系の軌道とは違うにも関わらず、だ」
とすれば、嵐の正体は恐ろしいまでの加速度と慣性の法則が産んだ産物であろうか、と白虎は考えた。その加速度が生まれたさらなる要因までは白虎にも玄武にも分からない。少なくとも、現在嵐のようなエネルギーを感じていないため、平均速度は随分安定しているようだ。
玄武のその言葉は、不思議な響きを持っていた。よく知っている存在であったはずの玄武が、まるではじめからこの第二宇宙の存在であったかのように見えた。それほどまでに玄武の意志は自信に溢れていた。
まるで、何かを決意したかのようにも見える。
「玄武、何を企んでる」
「企んでなんかいないさ、ただ、俺たちは選択を迫られている」
「選択?」
「そう、選択だ。俺は、ここに残る」
玄武の意志の隣で、女性が静かに微笑んでいる。拒まない、むしろ迎え入れるような笑み。玄武の少年じみた声が言う。
「白虎サンは、どうするんだい」
それは。
「帰るなら、そのままフェリックスに掴まっていかないと帰れないわよ」
「帰る?」
「帰らないの?」
それは……。
女性の問いかけに、白虎は即座に答えられない。
つと、女性が足元を指さしたのが分かった。
巨大な天体、白虎がそびえている。周囲の、なんのムラもない真っ白な空が流れているのが、白虎には分かった。
視界で語られるよりも遥か外の概念が渦巻いているのが分かった。
「俺は、死んだのか?」
「なぜ? 生きてるじゃない?」
女性の言葉があまりに軽やかだったため、白虎は言葉を失った。
「それも、そうだな」
「帰るの?」
女性はもう一度尋ねた。
白虎は女性を見て、玄武を見て、そして応えた。
「帰るよ」
白虎の答えは、玄武に負けじと強く響いた。
間もなくして、フェリックスはもう一度穴を抜けるだろう。玄武はふわりとフェリックスから離れると、女性とともにたゆたった。完全に、玄武との繋がりが途切れたことを白虎は知った。
「またね」
女性の別れの言葉に、白虎が返すものはない。
また、あの絵画が見たい。深淵の先に何があるのかを永遠に見つめ続けて、探し続けてみたい。あの絵は、そういう絵なのだろう。なにか答えを見つけるものではないのだろう。見つめて、自己を顧みて、何かが開けるものなのだろう。
何かを、この目に、レンズに映したいと思う。
それが生きるということだろうと、白虎は結論付けた。
それならば、この死の果てのような世界に居続けることは白虎の意志に反する。死を見つめてこそ、生を得ると結論したのだから。
白虎は、フェリックスとともに穴に飛び込んだ。圧倒的な深い白の世界に、飛び込んだ。レンズは輝き、光に満ち充ちていた。
白虎は、地球への帰還を選んだ。
その身が、二度目の嵐に耐えられないと知りながら。
説明 | ||
三分間SSで書こうとしたつもりが大きく脱線したのでこちらでひっそりと公開。興味ある方は、楽しんで読んで頂ければ幸いです。 | ||
総閲覧数 | 閲覧ユーザー | 支援 |
563 | 553 | 1 |
タグ | ||
オリジナル 小説 | ||
yui0624さんの作品一覧 |
MY メニュー |
ログイン
ログインするとコレクションと支援ができます。 |
(c)2018 - tinamini.com |