十五年前のクリスマスプレゼント(後編)
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 日本航空408便が無事、フランクフルトから成田まで十八時間の長いフライトプランを終えると、二十五歳の篁(たかむら)千雪(ちゆき)は、文字通り地に足がついた安心感を得た。

 二〇一〇年十二月。千雪は、ホッホ音楽院の流れをくむフランクフルト音楽・舞台芸術大学のFB1と呼ばれる職業教育学部の器楽科で、オルガン専攻を学び、既に九か月が過ぎていた。

 今回の帰国は、神奈川県相模原市にある大里研究所が運営する大里大学病院で、生まれつきない左腕とハイパー筋電義手の定期検診に加え、十二月は連日連夜のように有名無名のコンサートホールや教会で、クリスマスコンサートが開催され、第一線で活躍中のオルガニストでは到底、足りず、ある程度の技量を修めたと認められる学生ばかりか、海外留学中の者までかき集められる、いわば繁忙期であった。

 千雪も実家に近い赤坂の霊南坂教会で、クリスマス礼拝のオルガニストを依頼されている。

 フランクフルトと成田を繋ぐ国際線は、一日に三便しかなく、どれも航空会社が異なる。

 ルフトハンザ、日本航空、全日本空輸であったが、日本からの便は八時間で到着するが、フランクフルトからは十八時間もかかる。いずれにしても長旅だった。

 定期検診とクリスマス礼拝が済めば、またフランクフルトにとんぼ返りで、のんびりと家族と共にクリスマスや年末年始を過ごすなど、今の千雪にとっては夢物語となっている。

 ……オルガニストになるって、こういうことだったのか……千雪は疲れた溜息をついき、キャリーとボストンバックの手荷物を受け取ると、東京空港交通が運営する空港リムジンバスに乗り込んだ。

 千雪の自宅は赤坂六丁目のマンションの一室で、一丁目にあるホテル・オークラでバスを降りれば、それほど歩かずとも帰宅できるのだった。

 久し振りに自宅に帰ると、それまで天気予報番組を見ていた母の幸江が、

「あら、お帰り。電話をくれれば、成田まで迎えに行ったのに」

 意外そうな目を千雪に向けた。千雪はコートを脱ぎ、キャリーとボストンバックを放り投げるように床に置き、左前腕から筋電義手をはずすと、断端部を丸出しにして、

「いいよ、交通費だって安くないんだから。それより、何かない?」

 まだ、夕食前であったが、空腹を感じ、冷蔵庫のドアを開け、ごそごそと探した。幸江は、

「ケーキとっておいてあるわよ」

 応えると、千雪はクリスマスらしいイチゴがのったショートケーキを見つけ出し、右手だけで器用にケーキ皿に移し、フォークを使って食べ始めた。

 千雪は多少、水分が失われたショートケーキを食べながら、

「留学生って、こんな生活だと思わなかったよ、ドイツと日本の往復ばかりでさ。これで本職に就いたら、ヨーロッパ中が職場だよ。これじゃ、国際線のスッチーか商社マンみたい」

「あんたが好きこのんで飛び込んだ世界でしょ」

 幸江はペットボトルのミルクティーをカップに注ぎ、千雪に差し出すと、ふと娘の瞳を見つめ、

「あんた、昔、恩恵会病院で、ノートにオルガン曲の題名を自分で書いて、教会で会ったお姉さんに書いてもらった、って言い張っていたでしょ。あの題名、小学生のときにどうやって調べたの?」

 女性のオルガニストが、当時、千雪が使っていた算数のノートに記した『J・S・バッハ 小フーガ ト短調BWV578』という走り書きを思い出して聞くと、千雪はむっとして、

「だから、あれは本当にクリスマス礼拝のリハーサルに来ていたお姉ちゃんが書いてくれたの!」

 言い返したとき、ぱさりと音を立て、長い髪がテーブルにかかった。千雪はオルガニストも長い髪であったことを思い出した。

 この瞬間、今回の帰国の目的が、霊南坂教会でクリスマス礼拝に行われるオルガンの演奏であることも、いかに狭いオルガン奏者の世界とは言え、偶然の一致にしては、出来過ぎていることに気付いた。

 また、テーブルの上に無造作に自分が置いたハイパー筋電義手は、日本ではまだまだ普及されているとは言い難い。

 千雪はぞくりと寒気を覚えると、陽当たりのいいリビングから、四畳半程度の娘に与えられた居室へ行き、小学四年生のときに使い、お守りのように手放さなかった算数のノートを繰った。

 『小フーガ ト短調』の走り書きが、シャーペンにHBの芯を入れて使っていたにも関わらず、まるで2Hの芯でも使ったように、硬質の薄い筆致で、活字を参考に学んだようにきっちりと正方形に収まるような筆跡は、間違いなく自分の字であった。

 千雪は愕然とした。

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 西新橋にある東京恩恵会医大病院のリハビリ外来で、整形外科医の白衣の襟首を右手で引っ掴み、左肘で殴りかかろうとした日、千雪は紹介状を手渡された。

 それは、相模原市にあり、多くの特定機能病院の承認を受けている大里大学病院のリハビリ科教授当てのものだった。

 運営母体の大里研究所は、ハイパー筋電義手を開発し、義肢装具の関係各方面から注視されている存在だった。

 千雪はすぐにかかりつけ病院を替わり、ハイパー筋電義手の処方を担当となった医師に申請した。

 筋電義手とは、手先具や肘継手などに力源として、電動モーターを用い、その制御を断端の筋が収縮する際に発生する筋電位で行うものである。

 この利点は、手先具の可動範囲が能動義手と比べはるかに拡がること、筋力に関わらず、ピンチ力が強いことだった。

 しかし、欠点もあり、可動範囲が広いと言っても義手は義手で、つまんだり、放したりの動作しか出来ないこと、義手が重く断端部の負担が大きいこと、体表面に発生する筋電位が微弱な者には操作出来ないこと、保守点検が一定期間で必要なこと、何よりも高額に過ぎることだった。

 こうした欠点の数々を大里研究所では、把持動作だけではなく、楽器演奏に欠かせない全指を広げたり、握ったりの動作を可能としたばかりか、手継手と呼ばれる手首関節に相当する部分の橈屈、尺屈、回外、回内の運動まで実現した。

 また、徹底した軽量化により、従来のものよりはるかに軽く、より堅牢化に成功した。制御装置やバッテリーも見直され、微弱過ぎる筋電位でも検知が可能で、稼働時間も大幅に伸び、ハイパー筋電義手と名付けられた。

 また、支給に関しても最終判断は指定医、行政機関が行うが、障害児用のハイパー筋電義手を売り込みたい大里大学病院では、右から左へ千雪に認可を出した。

 千雪の住所地を管轄する東京都知事が、父が戦傷者で引き揚げ後に恩師の義足を賜った、と自慢して歩くその舌の根も乾かぬうちに、薄汚れぼろぼろとなった復員服を着込み、上野公園内でアコーディオンを弾いては日銭を投げ渡されるやりきれない姿を目の当たりにして育ったことから、福祉に関しては十分過ぎる都政を打ち出し、千雪のハイパー筋電義手支給の申請は、あっさりと認められたのだった。

 ドイツ、イギリス、カナダでは給付が進んでいる筋電義手だが、日本での対応は大幅に遅れており、千雪は幸運と言えた。

 筋電義手の装着訓練は、千雪の場合、まず左前腕の断端部の手関節伸筋群に電極を当て、高反応の部位を探し、肘関節の屈曲の 伸展運動に干渉しない位置に決定される。

 次に、正中位での使用を行う。千雪は女児であることから、健側の右手で把持したぬいぐるみと左前腕に装着した筋電義手で把持したぬいぐるみをキスさせる、あるいは引き離すなどの動作から入って行く。

 筋電義手実物を装着しての実地訓練の他、電極だけを断端部に取りつけ、パソコン画面上での仮想訓練も有効で、特に幼児や児童には歓迎された。

 従来の把持動作に限定された筋電義手とは全く異なるハイパー筋電義手であったから、パソコンでの仮想訓練に、日本古来の一人遊びであるお手玉や影遊び、綾取りなどの電子版を開発したところ、平成生まれの子供達の目には、新鮮に映り、理学療法士がついての訓練時間が過ぎても、子供達同士で習得した操作を競い、啓発し合って、更に向上させる姿は、医療を提供する側にとっても注目され、今後の国内外での普及が期待された。

 通常は三か月から六か月の訓練期間を必要とするハイパー筋電義手であったが、千雪は二か月で終了し、中学校へ進学する頃には、完全に使いこなせるようになっていた。

 千雪は進学先に港区立の普通中学校は選ばず、JR上野駅から近い、私立の東上野学院中学校の音楽コースへ進んだ。

 東上野学院は明治末期に東上野女学校として開校した伝統があり、戦後すぐに東京都より音楽研究指定校に選定され、中学、高校と開校されている。特に、音楽科を設置した高校は、日本では初例となっていた。

 千雪は中学二年生になる頃には、身長もすっかり伸び、ハイパー筋電義手のソケット部分を年に三回も調整しなければならなかった。

 身長が百五十三センチになったとき、かつて困惑された浅草橋にある音楽教室での受講も認められた。

 東上野学院高校の音楽科を卒業すると、千雪は東京芸術大学音楽部オルガン科に現役合格した。

 このとき、千雪が気付いたことは、オルガン科の生徒といっても年に一人か二人で、講師も日替わりで替わる。

 これは、パイプオルガンの演奏を教えられる講師が日本では極めて少なく、殆どがパイプオルガンを設置したコンサートホールに所属していたり、礼拝堂をもつキリスト教精神に基づいた教育を行っている私立学校の教職員に就いており、多忙であるためだった。

 こうして、大学院まで修了し、千雪はドイツ国立フランクフルト音楽大学へ留学していたのだった。

     ○

 翌朝、千雪は黒いブラウスにダウンジャケットを重ねると、自宅から近い母校である港区立氷川小学校を訪ねた。

 既に統廃合の結果、赤坂子ども中高生プラザになっている。

 千雪が障害児であったことをクラスメートに知られ、絶望の底で、生々しい前腕義手を抱え、とぼとぼと歩いたのは、赤坂六丁目から交通が激しく、頭上を首都高環状線が走る六本木通りの地下歩道から再び地上に出て、桜坂を上った赤坂一丁目へ至る道だった。

 総赤レンガ貼でバリアフリーが行き届いた霊南坂教会へ行くと、打ち合わせ通り、クリスマス礼拝で演奏するオルガン曲のリハーサルを始めた。

 十五年前に出会った黒いブラウスを着た女性で、ストレートのロングのオルガニストとは、実は……千雪自身、未だ信じかねる思いで人気のない小暗い礼拝堂で一人、リハーサルを始めると、不意に、背後に人の気配を感じた。

 誰が礼拝堂へ入ってきたのか、すぐに解った。この来訪者に、自分は多くのことを伝えなければならない。

 ただし、氏名は名乗れない。

 二十五歳に成長した千雪が、ハイパー筋電義手を装着していること、海外留学していること、定期検診と霊南坂教会で企画されているクリスマス礼拝でオルガン演奏を依頼され、帰国していること、そして、バッハの『小フーガ ト短調』をプレゼントしなければならない。

 それより何より、これから十五年間がんばり続けられるように、たった一言、

「あのね、人生って、自分自身を認めて、受け入れないと、始められないの」

 と伝えなければならない。

 二十五歳の千雪は、ゆっくりと振り返ると、前腕義手を抱え、涙に暮れた十歳の自分が会衆席にへたり込むように座っていた。

 それは、希望を探し求め、十五年間もの時間を超えてきた幼い女の子だった。

 十歳の千雪は、慌てて前腕義手を背後に隠した。二十五歳の千雪は、

「こら、こそこそすんな」

 笑って言い、幼い千雪の傍らに腰を下ろした。

 このとき、二十五歳の千雪は、十五年前に贈られていたクリスマスプレゼントとは、『人生』という途方もない贈り物であったことに、初めて気付いた。(完)

説明
二十五歳に成長した篁(たかむら)千雪(ちゆき)は、留学先から一時帰国します。自宅で母が何気なく言った一言に、千雪は十五年前に贈られていたクリスマスプレゼントに気付いていきます。小市民のクリスマス・ファンタジー、感動の最終回です。
ところで、この作品を書くに当たり、池袋の東京芸術劇場、赤坂の霊南坂教会、浅草橋のオリゲル音楽院でお忙しい方々に、世にもトンマな質問をしてきました。本当にごめんなさい。そして今年一年、小市民の作品に目を通して下さった方々、本当にありがとうございました。よいお年をお迎え下さい。来年もよろしくお願いします!
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コメント
お二人も支援をいただき、ありがとうございます。ラストはいかがでしたでしょう?(小市民)
タグ
霊南坂教会 装飾義手 能動義手 筋電義手 パイプオルガン 先天性左前腕欠損 小フーガト短調BWV578 音楽教室 フランクフルト音楽大学 

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