【加筆修正版】Two-Knights Vol'07 第一章「Divine Pulsation」 |
<1>
宵闇に包まれた山道。
肌刺すような氷雨が降り頻り、泥濘む地面を打ち鳴らす。
山の住人たる動物達は皆、巣穴に篭って息を潜めては、この寒さに震え、または闇に脅え、いつ来るかも解らぬ朝の到来を夢見て眠りについていた。
故に今、この山を支配しているのは漆黒の闇と雨音のみ。
常軌ならば、この過酷な環境下にある山中に人間の類が足を踏み入れる筈はない。
だが、この闇と冷気の世界は今、一人の来訪者を迎えていた。
泥跳ねの音を伴い、その者はやってきた。
闇を照らす灯りの類も、雨風を凌ぐ為の装束も、また山岳に挑む為の装備の類も一切身につけず、唯一その身に纏っているのは周囲の闇に溶け込むかの如き漆黒の衣装のみ。
このような軽装であれど、その者は闇に脅える訳でもなく、また辺りを支配する冷気や氷雨に震える訳でもなく、ただ前へ前へと歩を進めていた。
容赦なく降り頻る雨によって濡れた長き黒髪は、真白き顔にへばりつき、更には大きく開いた胸元に不規則な模様を作り上げ、そしてその先端は布地の隙間に潜り込んでは、豊満なる乳房に纏わりついていた。
来訪者は女であった。
彼女は終始無言。だが、紅を差した唇から洩れる白き呼気は荒く、濡れた髪の隙間から覗く両眼は瞬きを忘れたかのように見開かれ、只管に前方を見据えていた。
そして、その瞳の奥に宿る光は虚ろ。まるで夢現の狭間に彷徨っているかのように虚空を眺め、歩むその足取りはどこか覚束ない。
それでも女は歩いていた。何かに誘われるかのように。
傍目には、宛てもなく山中を彷徨う遭難者の様相。
だが、彼女が本当の遭難者ならば、一刻も早く麓の集落に救助を求める為に下山の道──即ち、この山道を下らんとすることだろう。
だが、女が歩んでいるのは延々と続く上り坂。そう、山頂へと至る道である。
故に、来訪者は遭難者に非ず。何らかの目的をもって、この山に挑まんとする者であった。
延々と続く漆黒の道を歩む女の虚ろなる瞳に、不意に青白い光が宿ったのである。
彼女が見たのは灯火。先刻より見据え続けていた虚空の彼方にて浮かび上がっては点と滅を繰り返す、小さな鬼火であった。
黒衣の女は、常におのれの前方にて揺れ浮かぶそれに導かれ、この山を訪れていた。
ここが何処であるのかという疑問──
この過酷な環境に対し、無防備に等しき身形でいる理由──
何故、この鬼火に導かれなければならぬのかという根拠──
常人ならば咄嗟に思いつくであろう、これら疑点の類など、訪問者たる女の脳に一切宿ることはなく、何らかの『理由』によって正常なる思考を悉く洗い流されているかのようですらあった。
事実、その『理由』は存在していた。
それは『声』。彼女の頭の中に直接響き渡る『声』であった。
『声』の主は不可視であれど、圧倒的な存在感を伴ったそれは女の思考を掻き乱すには十分にして余りあり、やがて、その精神を侵すまでに至っていた。
『声』とは、たった一文節からなる簡単な命令の言葉によって構成されたものであった。
──「急げ」、と。
「──急げ、だと?」白い息を吐きながら、女は初めて声を発した。
「何を急げというのだ? この私に──公国の主にして、総大司教たるこの私に命令する貴様は何者だ!」
眼前の鬼火が不意に膨張を始めた。これに比例し発せられる青白き光の量が増し、氷雨に濡れし女の姿が照らし出された。
少女の面影を残した若き女であった。
唇には紅を施し、胸が大きく開いた黒き薄絹の衣を纏っていた。こぼれんばかりの豊かな胸。絶妙な曲線を描いた細い腰。異性を誘惑するには理想的な姿態であろう。
だが、その端正な顔は半ば狂気に侵された精神によって醜く歪み、瞳に宿る光は虚ろであると同時に、怒りめいた激情の色を宿すその様は、世辞にも魅力的な姿であるとは言えぬであろう。
女とはソレイアであった。
ソレイアは、肌に纏わりつく濡れた髪や衣服がもたらす不快な感触には意も介さず、言葉を紡ぎ続けていた。
未だ膨張を続ける、眼前の鬼火に向かって。
「貴様は誰だ?」──と。
ソレイアは、おのが頭に響く『声』の主が、眼前の鬼火であると察していた。
確証はない。だが、本能的に彼女はそう確信していた。
幾ら言葉を紡いでも、問いかけを続けようとも、ソレイアの頭に響く『声』は止む事はなく、彼女が如何なる思考を巡らそうとも『声』がもたらす圧倒的な存在感が、それを悉く押し流していく。
人間とは世で唯一、思考することを可能とする動物である。
故に、思考を阻害され、人が人たる所以を奪われ続けていく中、ソレイアは雨水が滴る髪を掻き毟り、耳を塞ぎ、そして叫喚の声を上げた。
止まぬ『声』に抗う為に。
心が軋む。
欲望の為に悪行の限りを尽くし、大陸中の人々より狂人と称された女の心が悲鳴を上げる。
それは、更なる深き狂気の領域への誘い。
やがてソレイアは泥濘んだ地面に膝をつき、泥に濡れた手で頭を抱え、その額を泥中に埋めた。
泥が跳ね、その端正な顔や艶を帯びた髪、肌理の細かい白い腕や、豊かな胸の谷間を斑に染める。
「貴様は……誰だ……」
薄れゆく意識の中、ソレイアはもう一度だけ鬼火に問いかける。
返答など、一切期待してはいなかった。
この行為も、今まさに『声』によって押し流されつつある自我を繋ぎ止める行為に過ぎなかったからだ。
そして同時に、彼女は理解していた。
これも、結局は徒労に終わるであろうと。
刹那、朧げとなっていた視界の中で、眼前の鬼火が更に膨張し、青白く輝く炎の奥に潜む影を見た。
「貴様は……」
それは、背に翼を持つ首のない女であった。
鬼火の中に浮かぶ影であるが故、その詳細については一切視認する事は出来ぬ。
だが、ソレイアは影に見覚えがあった。
「……フェイ、なのか?」
ソレイアは、名を呼んだ。
かつて、錬金術師カレンの従者として自分の前に現れ、霊峰の秘密に挑んだ魔物の名を。霊峰を守護する者──霊術士によって、息の根を止められた夢魔の名を。
「亡霊となり果て、私に何を伝えに来た? 己の無念をか? 貴様を殺めた霊術士の死が望みか?」
公国の長は、必死に言葉を紡いだ。
「ならば──私に力を貸せ。私の目的が達成されたのならば、自動的に貴様の無念も果たされよう。魔物として上位に属する貴様の力を貸すのだ。フェイよ」
ソレイアの必死さとは裏腹、火中の女は一切動じた様子を見せぬ。
まるで、その様を冷然と眺めているかのようであった。
『声』は止まぬ。いや──止むどころか、それは次第に存在感を増していった。ソレイアは自分の頭が今に破裂するのではないかという錯覚に陥っていた。
幻の痛みが、ソレイアを苛む。
だが、公国の長がその顔に浮かべたのは──
笑みであった。
凄惨めいた豺狼の笑みであった。
「なるほど──これは託宣か」
痛みの中、ソレイアは現状の意味を解釈した。
「ここは貴様の死地──即ち霊峰か。亡霊の貴様が、ここで私を急かすということは、この霊峰にこそ、私を導かんとする『何か』が存在しているというのだな?」
意識は不意に途切れ、闇の世界へと落ちていく。
その中で、ソレイアは静かに呟いた。
「いいだろう──その託宣、確かに総大司教ソレイアが賜ったわ」
何かが弾けるような感触とともに、ソレイアは覚醒した。
彼女は私室の奥にある絢爛な椅子に腰をかけたまま眠っていた。
大量の寝汗によって衣服が肌に張り付く感触が不快であったが、先刻の鮮烈なる悪夢から解放された事による安堵感のほうが強かったのだろう。深い溜息をつくと、額に浮かんだ汗を手で拭い去った。
「また、この夢──か」
この国の指導者となってからだろうか、それとも東から押し寄せる騎士団の脅威を感じ取るようになってからだろうか。
ソレイアは同じ夢を見るようになっていた。
「回数も増えたような気がする──やはり、あの三拠点を落とされてからというものの、その頻度も顕著」
騎士団により、フラム、グリフォン・リブ、そしてグリフォン・ブラッドの三拠点が制圧されてから三年。東方への路、そして港町エルナスへの路が閉ざされた事により交易による外貨獲得の手段は悉く封じられていた。
公国内では、反乱分子らの扇動による暴動と鎮圧が絶えず繰り返されており、そんな荒れた国内からは内需など望めるはずもなく、国力の衰退を防ぐには、国外との交易に頼らざるを得ない。
だが、三拠点を制圧され、それすらも十分に行えぬ。
この公国包囲網と称すべき状況を、何としても打破せねばならぬ。
まず、ソレイアは密輸団を結成し、騎士団の監視の網目を縫って周辺地域への交易の再会を謀った。
最初は相応の成果を上げたものの、対抗する騎士団も愚か者の集団ではない。ソレイアの手の者による密輸の事実を知るや、監視体制を強化し、積極的にこれを摘発。密輸によって得る収益も、これを冒す危険と比較して割が合わなくなってしまい、とうとう昨年、密輸団の解体を余儀なくされた。
ならば、公国の領土内に、港を築き、そこを国外への玄関口としようとしたが、領土の大半が標高の高い山岳地帯であり、領土南端に接している海を利用しようとも、その海岸は高い崖の遥か下といった有様。
崖の一部を切り崩し、物資の輸送路と港を築きこそはしたが、そのいずれも小規模なもの。また、造船技術が未発達な公国では、港町エルナスに数多く存在しているような大型帆船を造る事は叶わず、必然と交易の小規模化を余儀なくされた。
港町エルナスを失った打撃に対する抜本的な解決にはなっていないのが現状である。
このような苦悩がソレイアを苛むが故に、このような悪夢にうなされるのだろうか?
「──くそっ、忌々しい!」
端正な顔に悪鬼の如く表情を浮かべ、ソレイアは毒づく。
その時、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「入れ!」
「失礼致します」
その不機嫌な返答に一切怯む事なく、入室したのは二人の母子。
公国錬金術師団長カレンと、彼女の幼き娘であった。
「御機嫌斜めで御座いますね。猊下」
そう言い、錬金術師の長は微笑みかけた。だが、それは主君たる女を気遣う微笑ではなかった。
彼女の銀色の瞳の奥に宿る澱んだ輝きが表情に宿る真意を物語る。
──それは悪意。嘲笑めいた悪意であった。
ソレイアは悪態をつく腹心に対し、怒りの表情を向けた。だが、それは一瞬のこと。笑顔の仮面をもって配下の来訪を出迎えた。
「少しばかり体調が優れぬ故、そう見えるのでしょう」
「騎士団に追い詰められているが故の心労なのでは?」
「それは違うわ」公国の主は皮肉の言葉を発する女の顔を見遣り、そして笑った。「もう、この国には私に財をもたらす力など残されてはない。故にこの国は用済み──とっとと捨て置けば良い」
そう言ってソレイアは椅子より立ち上がると、窓際へと歩き出した。そして、彼女は窓の向こうに存在する景色に視線を向ける。
部屋からは旧聖都の景色が一望できた。眼下に広がる通りには、かつては巡礼の聖職者が行き交い、大聖堂へと続く道に、長き行列を成していた。
だが、ソレイアがこの街を蹂躙した今、その光景は驚くべき変貌を遂げた。
路上を徘徊するのは街の労働者層たる魔物と、今日の飯にすらありつけず、宛てもなく彷徨う街の最下層民──旧聖都の住民達のみといった有様。
かつては長旅に疲れた聖職者らの憩いの場であり、露天商が数多く並んでいた街の中央広場も、今では鮮血に濡れた断頭台が所狭しと並べられていた。
公開処刑場である。
今日も十数名もの人間が──この街に潜伏する反ソレイア主義を掲げた団体の幹部が──あの広場にて処刑されたばかりだ。
遺体は野晒しとされたまま放置され、不気味な声をあげながら群がる烏の好餌と成り果てていた。
この荒廃に極みたるや無法地帯の様相。それは国家が国家たる機能を一切放棄し、この地の富という富、財という財を吸い上げ、食らい、貪りに終始した挙句の果てに存在する光景であった。
言わば、残骸。食い散らかしの跡。
「それに──王という立場にも、そろそろ飽きて来たところです。こんな塵芥の如き都の支配権など、欲しければ幾らでも差し上げましょう」
「ですが、貴女の打倒を旗印に掲げる騎士団が、それで許すとは思えません。ソレイア様のお命を奪うまで、執拗に戦いを続ける事でしょう」
「面倒臭い連中ね」ソレイアは鼻で笑う。
「──とはいえ、そう簡単にくれてやるほど、私の命は安くない。ならばそれに相応しい代償というものを払ってもらわなければなりませんね」
「それは可能なのですか?」
カレンが問う。
常人であれば、この国が騎士団に対抗するための国力は持ち合わせているとは到底考えられぬであろう。
そして、常人であれば言うであろう。
──騎士団に勝利する事など夢物語である、と。
だが、この部屋に存在しているのはソレイアとカレン──片や己の出世欲を充足させる為、数多の人間を籠絡・利用して、一介の僧から一国の主にまで上り詰めた狂人。片や実兄を溺愛するが故に、人としての禁忌──人間の近親交配──に挑む錬金術師である。
このような人物が、常人の思考など持ち合わせている謂れはない。
「私は勘違いをしていたわ」
不意に、ソレイアは言葉を紡いだ。
「王という立場になれば、誰もが私に平伏すと思っていたわ。でも、現実は四方を騎士団や神官戦士団どもによる布陣に囲まれていると言う惨状──どうやら、私の考えは真実ではなかったようね」
「ならば、この現状を前に如何様にして騎士団にその代償とやらを払わせるというのですか?」
「簡単よ」ソレイアは口元に悪意めいた笑みを浮かべた。「王の地位でも不足というのならば、それをも超越し、誰もが平伏す程の『存在』になれば良いのです。喩え、敵が民衆であっても、騎士であっても、神の使いたる聖職者であっても──」
「──そして、敵が『神』そのものであっても」カレンは得心し、頷いた。「故に私を呼んだわけですね」
「ええ」
二人の狂人が微笑む。狂人ゆえ、ソレイアの発言に疑問も抱かぬ。
眼前の絶望的な状況から目を逸らし、現実から逃避しているのではない。
事実、カレンはおのれの思考──良識や常識の類など一切介在せぬ、冷徹な理論に従い、ソレイアの提言を実現させる方法を模索し、錬金術師の女は一定の仮定に基づく結論に至っていた。
カレンが今日、ソレイアのもとを訪れたのは、その方法についての議論を交わす為。
「そして、貴女の論拠は──その娘にあるということですか?」
ソレイアは、カレンの隣にいる娘に視線を向けた。
先日、二歳を迎えたばかりの女児であった。傍目には只の幼児。
本来、幼児は物心が付くまでは、親の庇護のもと家の中で育てるのが常であり、このような年端のゆかぬ子を人前に──ましてや、一国の主たる公人の前に出す事など、余程の理由がなければあり得ぬ話である。
そう、『余程の理由』がなければ。
故に、ソレイアは確認の為に問うた。
カレンが連れてきた娘こそ、『存在』を実現させる為の秘策、その根拠であろうと。
対し、錬金術師の女は不敵な笑みを浮かべ、静かに頷いた。
「我が娘であり、我が実兄ヴェクターの忘れ形見にございます」
そう。カレンの隣に立つ女児は実の兄妹の間に生まれた子──即ち不義の子である。
それを本能的に自覚しているのだろうか? 娘の双眸には、二歳の幼児には似合わぬ濁った光を湛えていた。
血縁者同士の間で出来た子供には、先天的奇形をはじめとした、様々な障害が発現する可能性が高く、また死産の可能性も高いとされる為、このような縁組は慣習面、法律、宗教面のいずれにおいても禁忌とされているのが常。
事実カレンも過去に兄との間に授かった子を三度、死産の憂き目に遭わせていた。
だが、カレンは二年程前、これらの障害を乗り越え、子を授かったのだ。
最愛の実兄との間に出来た子を。
錬金術師は、澱んだ目をした娘の頭を軽く撫でた。その様にソレイアは怖気を覚える。
「──やはり、霊峰の力ですか?」
「はい」カレンは頷いた。「私の出産が成功した要因は、妊娠期に過ごした霊峰での生活にあると考えております」
霊峰とは西の高山地帯の中でも最高峰と称される山。山頂には聖獣グリフォンの魂が宿る石英碑が祀られており、かつては聖域として周辺地域の人々から敬われ、そして同時に畏れられていた。
事実、石英碑からは無指向性にして絶大な『力』が絶えず溢れ出ており、それは周囲の自然法則を狂わせる程の混沌たる力であった。
自然法則──即ち、生命の法則を捻じ曲げる程の。
故にカレンはグリフォンの魂より与えられる『力』にあてられ、命の法則すらも捻じ曲げられるのならば、不義の子であれど、健全な命を宿す事が許されるであろうと考え──そして、その思惑は的中した。
「私は我が娘──ノエルの出産に成功した事により、ひとつの可能性、その糸口を見出しました」錬金術師の女は、娘の頭を撫でながら言った。「生命の法則を捻じ曲げる程に強大な霊峰の『力』──それを支配する方法を」
「そうですか」
ソレイアは微笑みを浮かべ、平然とした様相で静かに頷いた。
錬金術の真髄とは、肉体や魂を人の手によって錬成する事にある。
公国を代表する錬金術師であるのならば、このような結論に至る事こそが自然。
それを知るが故、カレンの度外れた発言に対し、公国の主は一切驚きの感情を抱くことはなかった。
「霊峰の『力』を、貴女の錬金術に転用するという事ですね?」
「はい」と、カレン。「以前、ソレイア様が手に入れて下さった我が師レーヴェンデ様の文献。そして、この街に遺された霊術士どもの文献を読み漁り、検討を重ねた結果、ある一つの結論に辿りつきました」
「なるほど」ソレイアは得心して頷いた。「確実なのですね?」
「幾つかの『条件』が整えば、極めて高い確率で成功すると考えております」
「──興味深いわね」
そう言い、ソレイアは椅子に腰かけたまま、軽く身を乗り出す。
そして、数瞬の間を置き、公国の主は配下たる錬金術師を促した。
「さあ、話せ」
「はい。では──」
<2>
西方三拠点の一つにして、その最も南端に位置する街、グリフォン・ブラッド。
三年前、聖都が蹂躙されて以来、ソレイア打倒を掲げる騎士団にとって最前線基地の役目を担ってきた街。
南方に諸外国との玄関口たる港町エルナスが存在しているという地理的な理由で、幾度となく侵攻と解放が繰り返されてきた。
故に、最も戦禍の影響を受けた街であると言えよう。
戦いの傷跡が色濃く残る街に今、十数人から成る一行が、その地を踏んだ。
神官衣を纏った聖職者から成る一団であった。
一見すると巡礼の行旅とも見える。だが、巡礼の最終目的地たる聖都がソレイアに蹂躙されて以来、巡礼の旅に出る僧らは激減しているという。これ程までの人数の僧が旅を共にすることは、今となっては極めて稀な光景となっていた。
事実、彼らは巡礼の為に集った一団ではない。ある任務を終え、このグリフォン・ブラッドへ帰着した者達であった。
長旅を終えたのだろうか。一行からは心なしか疲れの色が見え、その歩みも遅々たるもの。
その時、一行の先頭を歩くフードを被った女が、後続の者に向かって優しく声をかけた。
「──皆様。この度は私の任務に護衛として御同行頂き、誠にありがとうございました。後は私一人で十分です。貴方達はこのまま詰所へ戻り、カミーラさんの指示に従って下さい。恐らく明日以降、数日の暇を与えられる事となるでしょう。どうか長旅の疲れをお癒し下さい」
そう解散の指示を下すと、女は颯爽とした足取りで歩き始めた。
刹那、一陣の風が吹き、女のフードを脱げた。フードの下より現れたのは美しく輝く金色の髪。風に靡くそれは神話の世界に登場する黄金色の河の如し。
女とはセティであった。
彼女は歩きながら、道の両脇に軒を連ねる家屋を見遣る。
かつては戦によって崩落した家屋の瓦礫が彼方此方に残され、無残な姿を晒していたが、今ではその殆どは綺麗に片づけられており、既に幾つかの家屋には修繕の手が施されている。
街の広場に差し掛かると、未だ乏しい物資を扱う商店や露店には絶えず人が群がり、そして道を行き交う人々の表情には活気が満ちていた。
セティはその溢れんばかりの活気に、街の復興の息吹を感じ取り、心の底より安堵する。
──半年前と比べれば、見違えるかのようだ、と。
そう、彼女は半年前に任務の旅に出て──今日、無事に帰還を果たしたのだ。
旅の目的とは、二つの任務を達成する事であった。
第一に大陸中の主要都市を巡り、ソレイアとの戦に関する現状の説明を行うというもの。
これは、聖都奪還を待望する各地の神殿勢力や、それに近しい関係にある有力貴族の再三再四の要請に、戦の前線を担う神官戦士団が応じる形で実現された。
その神官戦士団側の代表者としてセティが選抜されたのは、彼女が前線の指揮を執る『二人の聖騎士』と最も近しい関係であるという事情があるが故の人事であった。
セティはこれに関して、一定の説明責任を果たしたと自負している。だが、説明を受けた者からの反応は様々であり、前線の事情に理解を示す者もいれば、月日を経てもグリフォン・テイル奪還に至らぬ事に激昂する者もいた。また、ある街を訪れた際には、聖都奪還を諦め、聖都をソレイアの勢力下にあるグリフォン・テイルから、三年前に司教ウェズバルドが逝去したグリフォン・リブに遷都すべきという機運が高まっているという事実を知った。
この問題は、聖都奪還を実現せぬ限り、燻り続けるであろう。だが、前線もソレイア公国側も、度重なる戦によって消耗・疲弊し、その勢力の回復に全力を向けているのが現状であり、互いの関係は膠着状態の様相。最近二年では、両者間で表立った戦すら起こってはいない。
前線の騎士団と神官戦士団がソレイア公国への攻撃にいつ再着手するのか? 聖都奪還に乗り出すのか?
それは誰にも──セティにすらも予測出来ない状態であった。
だが、セティは自負する。
勢力の回復力に関しては我々が上であると。公国への攻撃は、そう遠くない日に実現するであろう、と。
自負の根拠は、彼女が授かったもう一つの任務、その成果の中に存在していた。
そして、第二の任務とは──エッセル湖畔の視察であった。
かつて、エッセル湖岸には、幾つかの街が存在しており、そのうち、北に険しい山岳地帯を抱えるグリフォン・クラヴィスが実質上、東西の玄関口としての役目を果たし、その立地条件故に交易が栄え、大陸を代表する一大商業都市として発展を遂げる反面、他の湖岸の集落では過疎化に拍車をかけていた。
また、その発展著しいグリフォン・クラヴィスにおいても、ソレイアが西の聖都を蹂躙した影響によって、大陸全体の治安が悪化し盗難や強盗などといった被害の頻発によって採算が合わぬようになってしまった商売に見切りをつける商人が続出。職を失った者らが街中に溢れかえると言う有様。
だが一昨年、一人の聖騎士の考案によって、その惨憺たる地に大規模な改革が施された。
まず騎士団は、採算が合わぬとして長年安値で放置されていた『エッセル湖における水運と、造船に関する一切の権利』を買い上げ、そして、どこからか幾つかの大型船を調達したのである。これにより、エッセル湖を利用した東西への大規模な運搬航路が開拓され、物資不足に喘ぐ前線への補給活動を円滑に行う事を可能とすると、その利便性に商業的価値を見出したグリフォン・クラヴィスの豪商らが続々と、この水運事業に便乗せんと名乗りを上げた。
エッセル湖における水運と、造船に関する一切の権利を掌握する騎士団は、これら豪商ら向けに幾つかの船舶を造船、そして高額で売却すると、運搬の規模に応じ通行料を徴収するといった契約下において、これらにエッセル湖の利用を認可した。
これにより、騎士団は新たにして大規模な収入源を開拓する事に成功することとなる。
そして、この改革によりエッセル湖畔にもたらした恩恵は、これだけではない。
エッセル湖畔に本拠地を置く豪商らの間で水運事業が急激に普及したことにより、船員や港湾での作業従事者の需要が急増。職を失った者達も再び働く事が可能となり人々の生活基盤も回復。貧困に起因した犯罪の類は激減し、エッセル湖周辺地域の治安が回復しただけに留まらず、これら豪商らの業績も向上。税収も増加した。
そして、水運の普及により、かつては過疎化が著しかったグリフォン・クラヴィスを除くエッセル湖畔の街にも次第に人が流入してきているという。
改革の成果が顕在化してから約一年。セティは安定化しつつあるエッセル湖畔の現状を肌で感じ、騎士団勢力の回復のみならず、ソレイアによって著しく損なわれた国力の回復を実感した。
このような様々な諸問題、または朗報を携え、神官は半年の旅を終えた。そして、旅で得たこれら情報を取り纏め、報告を済ませれば、彼女の任務は完了する。
神官は、ある建物の門をくぐった。
そこはかつて、西方最強と謳われたグリフォン・ブラッド騎士隊の詰所であった。
だが、その本来の主たる騎士隊は、ソレイア公国による侵攻からの防衛失敗によって瓦解・壊滅している現在、ここは王都より派遣された師団の前線基地としての役割を果たしている。
故に、中庭は殺風景。一切の手入れをされた痕跡はなく、先の戦により半ば崩れ落ちた塀もそのままで、乱雑に放置されていた資材の類が、その代わりを果たしているといった有様。
このグリフォン・ブラッドをソレイアの手より解放してから三年。ここの光景だけは少しも変わっていなかった。
こういった塀や庭の修繕は専門の職人らによって行われるのが常であり、況してや聖都奪還の中枢にして前線基地たる騎士隊の詰所となれば、否応なしに民衆の注目の的、求心力の象徴ともなるであろう建造物である。
民衆の目を意識するならば、これらの修繕は優先すべきである。
だが、現実は既に復興の途上にあり、戦の傷から著しき回復を見せている周囲の町並みと比較しても、それは貧弱な有様。まるでこの敷地内の空間の時間だけ、戦の直後の時点にまで巻き戻ったかのような錯覚すら覚える。
三年前、グリフォン・ブラッドが解放した後、騎士団は戦によって傷ついた街を復興させる為、各地より職人を招集し、建物の修繕などの作業に従事させていた。昨年、復興作業に一定の見通しがつき、街の再建基盤を築くや、次にこれらの人員の殆どを、ここより少し西にある砦の建設の為に向けたのだ。
今にも朽ちそうな詰所の修繕も中途で打ち切っての事である。
だが、その甲斐もあってか砦は半年前に完成し、そしてつい先日、その砦とフラムの西、そしてグリフォン・リブの西に建設された砦とを結ぶ『壁』が完成したのだという。
それはかつて、今は亡きウェムゾン侯爵が構想していたソレイア公国を包囲する『壁』。その政策を採用したものであった。
『壁』が完成したことにより、公国からの密出国、及び公国への密入国をいとも簡単に、そして厳しく制限することが可能となった。国内の情勢が荒廃の一途を辿り、内需が期待できぬ公国にとって、一番の生命線たる周辺地域や諸外国との交易の道を断つ事にもなるだろう。
『壁』が完成した瞬間、ソレイア公国はまさに陸の孤島と化したのだ。無論、ソレイアにとって『壁』の完成という事実は、この上なき圧力となっているのは言うまでもない。
その戦略的な価値が高いと判断されたが為、騎士団は敵対関係にあったウェムゾン侯爵の政策を敢えて採用し、『壁』の設置を命じ、今日、その判断が実を結んだ。
そして、いつの日かソレイアを滅ぼし、聖都を奪還した暁には、その『壁』は勝利の象徴となると同時に、外敵から聖都を守る役割を与えられるであろう。
その規模の壮大さに半ば感心し、半ば呆れながら、セティは中庭から屋内へと入った。十字に分かれた通路を直進し、目的の部屋へと向かう。
一階の一番奥に設けられた部屋まで広く長い廊下を神官は歩いた。左右に鉾槍を構えた衛兵たちが並んでいる。鉄鋲の打たれた長靴が、石の床に擦れて、時折火花を散らす。
セティは居並ぶ衛兵の一人一人に対し、会釈をしながら進んでいった。
部屋の前にやってくると、入口に控える衛兵がセティのもとにやってきた。彼はセティに恭しく礼をし、顔を上げるや、爽やかな笑顔を見せる。
「セティ様ですね。お待ちしておりました」
「いつもご苦労様です。聖騎士様はご在室でしょうか?」
「聖騎士様は、中にてお待ちです。さぁ、どうぞ」
衛兵は返答すると入り口の扉を開き、神官の入室を許可した。
セティは礼の言葉を述べると、部屋の中へと足を踏み入れる。
室内は広く、床には毛の深い絨毯が敷かれていた。両側の壁には一面、本棚が並べられており、そこには様々な書物の類が敷き詰められている。
また、手前には三人掛けのソファーが四脚、円卓を取り囲むように並べられていた。部屋の主が、この室内で簡単な会議を行う事が出来るよう配慮したのだろう。
そして、部屋の奥。大きな窓が備えられた手前には、樫で造られた重厚な机が置かれていた。
部屋の前に居並ぶ衛兵の数。そして、室内の様子より、ここは相当な高位に属する貴人の執務室であると察する事が出来る。
だがセティは畏まる様子も、或いは臆する様子も見せず、彼女に背を向け窓際に立ち、外の様子を眺める人物──部屋の主に声をかけた。
「只今戻りました。聖騎士様」
「──その呼び方は止めてって、言ったじゃない?」
明らかに辟易したかのような口調──だが、どこか朗らかな声とともに、部屋の主は振り返る。
短く切り揃えられた赤い髪が、陽の光を浴びて、一瞬だけ輝きを放った。
「そうでしたね」セティは微笑を浮かべた。「──エリスさん」
「聖騎士の地位に就いてから三年も経つけど、正直その名で呼ばれる事にまだ抵抗があるのよね。公式の場では割と平気になったけどさ」
部屋の主──エリスが冗談めいた笑みを浮かべる。その快活な様子に、セティは心より安堵した。
「半年ほど街を空けておりましたが、エリスさんも元気そうでなによりです」
「セティも、よく無事で」
エリスはセティのもとへと歩み寄り、静かにその手を取ると、両手で握りしめる。
親友の無事を喜び、同時に任務の完遂に敬意を表す握手であった。
「それじゃ早速、旅の報告をしてもらって、今晩はセティの帰還を祝す宴でも催す事としましょう」
そう言うと、エリスはわざとらしく視線を逸らし「──と、言いたいところだけど」と呟いた。
「何かあったのですか?」
セティが問うと、エリスは申し訳なさそうな表情をし、頬を掻いた。
「もう一人の聖騎士様が、エルナスに出向いてしまったのよ」
「レヴィンさんが、あの港町に……ですか?」
「以前、エッセル湖で船を動かす為に、エルナスから相当数の造船職人を強引に引き抜いてしまった事が徒になってしまったらしくてね。エルナスを拠点とする商人貴族が、船の修繕に必要だからと職人の帰還を要請してきたそうなの。そこでレヴィンが自ら出向いて、直接話をつけに行ったって訳よ」
「私が視察しましたところ、エッセル湖で運行する船の数は十分に確保されたと思います。今後必要とされる修繕の為に何人かを残しておいて、残りを帰してあげても良いと思いますが──」
「それが出来ない事情があるのよ」
エリスは溜息をついた。
そして、やや乱暴な動作でソファーに腰をかける。
「……事情ですか?」
言葉の真意が掴めず、いぶかしげな表情をするセティに、エリスは正面の席に手を差し伸べ、座るよう促した。
従い、セティが正面のソファーに腰を下ろす。
それを見届け、エリスは口を開いた。
「帰還の要請は、港町エルナスに勢力を持っているカロス一族からのものなの」
「カロス一族?」
「エルナスでの造船技術を独占し、諸外国への交易に関する権利・権限の殆どを掌握する一大閥族よ」
「その一族がどうして?」セティは小首を傾げた。
「エッセルに送られた造船職人ら──彼らはかつて、カロス家お抱えの造船職人団だったそうなのよ」
「なるほど……」
セティは得心し、頷いた。
大陸と諸外国との唯一の玄関口であるエルナスにて、造船に関する様々な技術を会得している者達であるのならば、その能力たるや比類なきものであるのは明らか。
彼らの腕をもってすれば、水運に関する感心が薄かったエッセルにて、短期間であれほどの大型船を調達出来たのも道理であった。
「ですが、どうしてカロス家は国内唯一無二の技術力を有する造船職人団を手放したのでしょうか?」
「答えは簡単よ」エリスは言った。「ある疑惑を有耶無耶にする為、その交渉の口実に利用したのよ」
「疑惑……ですか?」
「──このグリフォン・ブラッドがソレイアの影響下に置かれていた頃、ソレイアは諸外国とも交易を行っていたそうよ。その事実が明るみになるや、巷ではカロス家がその手引きを行っていたのではないかという疑惑が浮上したの」
「……なんですって?」
一瞬、神官の表情が険しいものへと変じた。
それを見て、エリスは首を横に振る。
「閥族というものは、往々にして排他的な性質を持つもの──緘口令が敷かれているのか、一族を追及しても事実を口にする者はいなかった。だから事の真相は闇の中。でも、エルナスでの交易に関する権利を掌握している立場上、ソレイアの交易を看過してきた管理責任からは逃れることは出来ないわ。その方向から追及するや、カロス家は自らお抱えの造船職人団を差し出してきたってわけ」
「──刑罰を受ける代わりに、自らの配下である造船職人らを手放し、騎士団に譲渡させたという事ですね」
「今にして思えば、体のいい組織整理だったのかも知れないわね。聞くところによればカロス家は既に十分な船舶を所有しており、もう新たな船は必要としていない状態にあったとか」
「では、何故今更になって職人の帰還を要請してきたのでしょう?」
神官からの問いに、エリスは頷いた。
「一ヶ月程前、南の海が荒れたらしくてね。その海域をカロス家の商船団が航行していたらしく、船が大きな損傷を受けてしまったそうよ。中には廃船寸前のものもあったとか……」
神罰が下ったのねと、エリスは小気味良さそうに笑った。
この悪態にセティが眉を顰めると、エリスは笑うのを止め、ばつが悪そうに小さく舌を出した。
「騎士団は、このカロス家の要請に従うのですか?」
「──まさか!」
エリスは咄嗟に否定する。
「もし、ここで騎士団が職人の帰還を承諾してしまったら、交渉の意味も、その前提となっているカロス家の罪、管理責任に関する是非が揺らいでしまう。それだけは絶対に避けねばならないわ」
「だから、レヴィンさんが直接出向いた……という事ですか」
「うん。だから大丈夫よ。今頃カロス家の連中は、あいつに完膚無いまでに叩きのめされている頃だろうね」
「──そうですね」笑みを浮かべ、セティは頷いた。
あの知恵者の事。必ずや期待に応え、結果を出すだろう。
彼の発言──聡明な頭脳によって導き出された数々の名案・妙案の数々は、幾度となく窮地を救ってきた。そして、その実績に裏打ちされた彼の論調は首尾一貫し、道理にかなっているのが常。
その様は鋭き槍の穂先が如く。生半可な論客程度では一切の反論すら許さぬ。
それを知り尽くしているが故、エリスとセティは「大丈夫だ」と断言する事が出来る。安心して彼の帰還を信じて待つ事が出来る。
だが、二人は知らなかった。
時を同じくして、その『彼』──レヴィンが、今まさに大陸中を巻き込まんとしている不穏、その胎動の音を聞いているという事を。
<3>
明るい部屋の中、二人の男がいた。
ここは港町エルナス。グリフォン・ブラッドより馬で二日ほど南下した位置に存在する国内最大にして唯一の、海外への玄関口。その南側の一角──高級邸宅街にある一際広大な屋敷。
その南側の一室、窓の外には一望千里の海原と水平線からなる絶景が広がっていた。
男のうち片方は、窓際に立ち、その絶景を眺めながらも終始無言。太刀を佩き、白銀色の輝きを放つ甲冑を身に纏う様は、まさに高位の武人の如し。
だが、その豪傑な風体とは裏腹、露出する顔たるや精悍な若き青年のそれであった。
そしてもう片方は、部屋の中央に備えられた椅子に腰かけ、頭を垂れながらも震える中年の男性。
高級な生地によって造られた衣服に身を包み、両手の指には金銀に輝く指輪が嵌められていた。
その汗の滲んだ手指を落ち着かない様子で動かし、肉が弛んだ顔に埋もれた目をちらちらと動かしては、おのれに背を向けたまま微動だにせず、一言も発さぬ武人の様子を伺っていた。
無論、中年の男からは、青年の表情を知ることは出来ぬ。
これら二者の間に漂う空気は緊張によって張り詰められていた。
ここは港町エルナスを実質上支配する一大閥族──カロス家現当主の邸宅。その客間であった。
そして、中年の男の前にある卓上に積まれているのは、数十枚から成る羊皮紙の束。
それは、ここ港町エルナスから入出港する船舶に積まれた積荷の一覧であった。
この国では、国内外への物資の輸送に関して、国内の経済体制への混乱を未然に防ぐ為、厳しい規制が敷かれており、海外へ輸送船を出港させる為には王族、または王族の指名によって委任された有識者──専門の知識を有する爵位を持った貴族の何れかの認可が必要であるのが常であり、その認可の証として、積荷の一覧に公印が捺印されるのが通例となっている。
この度、青年の武人によって持ち込まれ、卓上に積まれた羊皮紙に捺されていた印は──ソレイア公国の公印。
即ち、諸外国への交易に関する権利・権限の殆どを掌握するこの中年の男がソレイアと密接な関係にあったという動かぬ証拠であった。
「ご説明ください──カロス殿」
青年は追及の言葉を発した。その声には、未だ震えの収まらぬ男へ向けられた呆れの感情が込められていた。
「我々とて、何の証拠もなく貴殿に嫌疑をかけている訳ではないという事を知って頂きたく、その論拠となる物品を提出した次第。ならば、次は貴殿がこれに対する説明責任を全うする番──答えられよ」
──答えられる筈はない、か。
青年は心の中で呟きながら振り向いた。
カロスと呼ばれた男の前に、青年の顔が、その表情が露わとなる。
それは極めて厳しいものであった。眉根を顰め、非難めいた冷たき視線に宿る鋭き光が、男の心を圧倒した。
「恐れ入りました」カロスは堪らず、忽ちのうちに平伏すると貧相な声をあげ、許しを請うた。「──聖騎士レヴィン様」
「世辞は結構」青年の武人──レヴィンは、この乞いを冷徹に切り捨てた。「再三再四申し上げているが、俺が求めているのは、これら書簡に関する貴殿の説明のみだ──さぁ、納得のゆく説明をされよ」
だが、カロスより返ってくるのは数分の沈黙のみ。
──そして、答える意思もなし、か。
レヴィンは嘆息する。
平伏する豪商の男が遂に顔を上げ、怒りと憎悪の感情を込めた視線を向けた。
それはまさに逆恨みによる態度であった。その筋違いな反応にレヴィンは呆気に取られ、鼻白んだ。
「ソレイアは人身売買や、違法な薬品の売却によって外貨を稼いでいると聞く。貴殿は、その悪行に加担して利を貪っていたのではないのか? 悪行が明るみとなれば、その者に追って沙汰があるのは世の道理。この度は貴殿がその道理に従う番が巡って来ただけの話ではありませんか?」
豪商は聞いておらず、その視線をひたすら騎士に向けていた。憎悪の箭に続いたのはレヴィンを非難する言葉の箭であった。
「汚い策略を巡らせての騙し討ちをしておいて、よくもそのような戯言を! 巷で私に対する疑惑が浮上した際、配下の造船職人団を提供する見返りとして、以降、この問題には一切言及せぬと約束したのは貴様ら騎士団ではないか! その約束を反故にし、私を再び問責するなど──」
「何を言っている?」
レヴィンは豪商の言葉を遮った。氷の如き冷たさを宿した声をもって。
「確かに我々騎士団は、貴殿お抱えの造船職人らを譲り受ける代わりに、これ以上の言及はせぬと約束した。だが、その折に不問としたのは、諸外国への交易に関する権限を掌握する一大閥族・カロス家としての責任──即ち、港湾の管理者としてソレイア公国による商取引を看過していた事についてのみ」
平然と言い放ち、反論を待たずレヴィンは続けた。
「カロス家がソレイアと与し、悪事を働いていたというのならば、話は別。国に対する反逆にも等しき行為を看過する程、我々は甘い存在ではない」
「……どういう意味だ?」
「貴殿を、国家反逆の罪で捕縛する──」
「──!」
驚愕の表情を見せる豪商を横目に、レヴィンが合図を下した。刹那、入口の扉が荒々しく開け放たれ、外で待機していた数名の騎士が室内に躍り込む。
彼らは瞬く間に、豪商の男を押し倒すと、その両手・両足を押さえ込み、縄をもってこれを拘束した。
「離せ、この卑怯者!」不意を討たれ、最早足掻く事しか出来ぬ男は、思いつく限りの蔑みの言葉を並べ、レヴィンを罵った。
「私を捕え、罪人として処すれば、私の下で働く数百人の者達──エルナスに住まう三割に相当する民が一斉に路頭に迷うのだ。間も無く生活に困った者どもが盗みを働き、やがて街中には浮浪者が溢れかえるであろう。海外への玄関口として名高きエルナスの荒廃は、我が国の恥を諸外国へ晒す事と同義。国家の名誉を代弁する騎士たる者どもが、そのような愚行に走るとは笑止千万!」
だが、レヴィンはこの罵倒の言葉を涼しい顔で聞き流すと、地面に突伏す男のもとに寄り、そして口元に笑みを浮かべた。
そして、穏やかな口調で言った。
「御心配召されるな。貴殿が捕縛され、罪に問われる事となれば、貴殿の所有している財産や権限は全て国に没収され、競売にかけられる手筈となっている。大陸唯一にして最大の港の支配権、諸外国への交易に関する権限だ。各地の諸侯貴族であるのならば喉から手が出る程に欲するであろう代物。やがては財力のある者によって落札される筈。今後はその者の手によって運営されていくだけの話ではありませんか? 日々の仕事と月々の給金にありつければ良いだけの者達にとっては、これら一連の騒動は首を挿げ替わるだけ刹那的な騒動に過ぎず、大事には至らぬものと考えております」
豪商の男は悲鳴を上げた。取り押さえる騎士達に乱暴に起こされ、両脇を固められた。抗う術を失った彼が出来る事と言えば、ただ只管に悪言を喚き散らすのみ。
やがて両脇の騎士に連れられ、入口の向こうへと消えていった。
入れ替わり、一人の騎士がレヴィンのもとを訪れた。
「見事な論詰でした」その騎士は言った。「密約の締結によって、おのれの責任が有耶無耶となった事に付け込もうとしたのでしょうな。それが逆手に取り新たな証拠を示すとは──あれでは、反論も弁解も出来ますまい」
レヴィンは悪戯っぽい笑みを浮かべ、配下の騎士に応えた。
「疑惑の裏付けをとってはならぬという密約を結んだ訳ではないからな」
騎士は愉快げに大笑し、手を叩いた。
「これはなかなかに狡獪な聖騎士殿よ」
「そんな下らない皮肉を言いに来たのか?」
レヴィンが不愉快そうに頭を掻き、睨みつけた。
「まさか」配下の騎士は、その視線に少し圧倒され、自らの不心得を誤魔化すかのような笑顔を浮かべた。
だが、それも一瞬の事。忽ちのうちに真顔へと変じ、そして言った。
「港に停泊していた船を検めておりました者達より、報告が上がって参りました」
「何かわかったのか?」
「はい。荷の一覧より、ソレイア公国向けの荷が積まれたであろう船を検めておりましたところ、一室に数名のホムンクルスと思しき女性らが──」
「──何だと?」
レヴィンの表情が一瞬にして険しくなった。
ホムンクルス──ソレイアが聖都を占領した際、逃亡に失敗し捕らえられた聖都の住人であった。
錬金術師カレン率いる、ソレイア公国錬金術師団の手によって脳を弄られたことにより、自我を破壊された年端のゆかぬ生娘の成れの果て。抗う術なく性の奴隷として売られた哀れな肉人形。
そして同時に、ソレイア公国にとって貴重な収入源でもあるとされていた。
「心得のある者が見たところ、彼女らは全て懐妊しており、安静が必要な時期であるとのこと──恐らく、不義の子を抱えるのを嫌った不届きな者がその処理を提供元である公国側に依頼したものではと考え至る次第」
自我を奪われ、その存在を人形へと堕とされようと、彼女らは生殖機能までをも奪われた訳ではない。事と次第によっては、子を授かる事も可能である。
それが、望まぬ者と望まぬ形で交わり、出来た子であろうとも。
「……屑が!」
レヴィンは吐き捨て、毒づいた。
無論、これは報告者たる騎士に向けての言葉ではない。人道に背いた行為によって罪なき少女らの尊厳を蹂躙するソレイアと、乗じて、その身勝手で卑しき肉欲を満足させたいが為ゆえに、ホムンクルスに手を出した者達に向けられた非難であった。
報告者たる騎士は深く頷き、その怒りの言葉に対して同意の意思を見せる。そして、その怒りを掻き立てぬよう細心の注意を払い、落ち着き払った声で言った。
「これより我々は少女らを保護し、グリフォン・ブラッドの施設まで護送致します」
「嫌な役目であろうが、宜しく頼む」
レヴィンが指示を下すと、騎士は「心得ました」との言葉とともに略式の敬礼をした後、颯爽とした足取りで部屋を後にした。
誰もいない、静まりかえった室内。まるで何かから取り残されたかのように、レヴィンは唯一人、そこに佇む。
ふと、眼前の卓上に積まれた羊皮紙の束を見遣った。
レヴィン自身が持ち込んだ資料。ソレイア公国の公印が捺印された書類──積荷の一覧には、食料品や日用品の類と思しき品名が記されていた。
だが、それらの単語は全てホムンクルスや違法薬物を指す隠語である。
一体、こんな紙一枚に騙されて、どれだけの非合法な品が売られていったのだろうか?
一体、どれだけの少女達が売られていったのだろうか?
そして、不義の子の処理の為に、どれだけの少女達が公国へと送り込まれたのだろうか? そして、そんな彼女達の待つ運命とは、如何に苛酷なものだったであろうか?
レヴィンの明晰な頭脳をもってしても想像すらつかぬ。
グリフォン・ブラッド、グリフォン・リブ、そしてフラム──西の三拠点を制圧された公国は袋の鼠の様相。にも関わらず、降伏はおろか、悪事を止める気配すら見せぬ。
だが同時に、この窮地を脱しようと三拠点に捨て身の攻勢に出る気配もまた皆無。
──一体、何を考えている?
釈然とせぬ思いだけが、彼の胸中を支配する。
その言い知れぬ不安が、聖騎士にある思いを抱かせた。
──嫌な、予感がする。
予感に根拠はなかった。だが、ソレイアほどの人物が、今の窮地に対し、何の策も打たぬとは到底考えられぬ。
事実、その悪意の顕在を実感した今、沈黙を続けるソレイアに一種の不気味さと腥さを感じていた。
聖騎士は、その直感を信じた。一刻も早く仲間と合流し、情報を取り纏め、手を講じねばならぬ。
そう思い至るや、彼は足早に部屋を後にした。
その二時間後──港町エルナスからレヴィンの姿は消えていた。
<4>
遠くから誰かが啜り泣く声が聞こえる。
夜──暗い廊下を歩く一人の女が、その声を聞き届けていた。
長く伸ばされた赤い髪を、髪留めを用いて後ろに束ね上げ、身に纏うは、まるで砂漠の国の貴婦人の如き衣装。胸を純白の布で覆い、腰を覆うは腰布のみという薄着。
窓より注がれる月明かりが、彼女の腕と脚、そして腹に刻まれた刺青──植物の蔦めいた紋様を照らし出す。
女とはリリアであった。二人の聖騎士レヴィンとエリス、そして神官セティの仲間にして、霊峰に祀られている聖獣グリフォンの魂と交信し、様々な奇跡を起こす『霊術師』と呼ばれる異能者の姿であった。
リリアは慣れた足取りで廊下を歩いていた。盲人である彼女が一人で徒歩を行う際、それは至極覚束ない所作であるのが常。そんな彼女が為慣れる程にまで通い、歩き詰めた廊下。
昨年、グリフォン・ブラッド北部の一角に建てられた『施設』の廊下であった。
ソレイアの配下である錬金術師の手によって、自我を奪われ、ホムンクルスと称して周辺地域の貴族や豪族らに──言わば、性玩具として──売り飛ばされ、そして、騎士団や神官戦士団によって保護された少女達を収容する『施設』。その目的は無論──被害者の治療の為である。そして同時に、心無き世間の偏見の目より彼女らを守る為でもあった。
先刻の泣き声も、この施設特有のもの。少女らが錬金術師によって破壊されたのは自我のみであり、それ以外の記憶や知性、理性などはしかと保たれているという特性故の現象であった。
そう、売り飛ばされた挙句、見知らぬ男の手によって純潔を汚された──その痛ましき記憶、癒える事なき心の傷が少女達に涙を流させる。
皮肉にも、薬士クラウスの手によって開発・練成された治療薬によって、自我の一つ──感情表現能力が幾分回復した事も原因であった。
また別の部屋から、また誰かの啜り泣く声が聞こえる。
その声に、霊術師は心を痛めた。
霊術師の持つ様々な異能──その初歩の術に、人の魂の輝きや脈動から、心の起伏を見ることを可能とするものがある。
盲人たるリリアは毎日、『施設』に足繁く通っては、この術を介して少女らの具合を診ていた。その結果は、看護・介護を担当する聖職者らや、治療薬の開発を担う薬士クラウスにとって、今後の治療方針の考察や新薬開発の方向性を定める為の重要な情報源となっている。
それ故、リリアは聞こえてくる泣き声に幾ら心を痛めようとも『施設』への訪問を止めたりはしなかった。
自らの行為が、ソレイアによってつけられた様々な傷が癒えていく事へと繋がると信じているからである。
気が付けばリリアは、今日の日課を終えていた。このまま先に進めば宿直室がある。リリアはそこで待機している職員に挨拶をする為、先へ進んだ。
宿直室には聖職者が三名待機をしていた。彼らは与えられた机に向かい、書類を広げて何やら書き留めていた。
盲人たるリリアの耳には、羊皮紙の上に慌ただしくペンを走らせる音が三種類届いており、これより、霊術師は彼らが何らかの作業中であるという事を察した。
「終わりました」
リリアは彼らの作業の邪魔をせぬよう細心の注意を払いながら、そう声をかけた。
ペンを走らせる三種の音が一斉に止み、彼らもまた挨拶を返した。
「これは、リリア様」
「いつも御疲れ様です」
「異常はありませんでしたか?」三人の職員のうちの、三番目が微笑みかけながら尋ねた。
「皆、次第に──そして順調に回復へと向かっております」
そう言って頷くと、霊術士は一瞬だけ表情を曇らせた。
確かに、少女達は回復に向かっている。だが、完治には程遠い有様である。
彼女らは性の玩具となるべく、錬金術師の手によって脳を直接弄られている。
施された術の性質上、完治は絶望的──この事は、医療・医術に関しては、全くの素人であるリリアであっても想像に難しくなく、事実、リリアは三年程前より少女らの治療に携わっているが、まだ誰一人とて完治したという者と巡りあってはいない。
そう、眼前の職員らも、そしてリリア自身も、常にある思いと戦っているのだ。
『自分の行為は無駄に終わるのではないか?』という疑念と──
苦慮めいた思いを押し殺し、リリアはその顔に笑みを装った。
その笑みを見て、第二の職員が大袈裟に頷く。
「流石はクラウス様の精製された薬。投薬を施す以前では考えられぬ程の回復ぶりよ──まさに霊薬・神薬の類とは、このような事を言うのであろうな」
「同じ錬金術師によって負わされた傷を癒す事が出来ねば、薬士にして錬金術師の名折れ──以前クラウス様は、そう仰っておられました」第一の職員が語を継いだ。「その言葉を裏付けるかの如く、クラウス様は連日連夜に亘って自室に篭って研究に明け暮れておるそうです。クラウス様ほどの実力をもった薬士が、あれ程までに努力されているのです。近いうちに必ず新薬を、特効薬が出来上がる日が訪れる事でしょう」
その言葉に確証はない。だが、疑念と戦い続け、ふとした拍子で失望へと心が傾きかねぬ彼らにとって、その言葉こそが最大の激励にして、最高の配慮であった。
「故にリリア様。その日まで宜しくお願い致します」
「──はい。こちらこそ」
リリアは、職員らの気遣いに少しだけ救われたような気分になった。そして「お邪魔しました」と最後に挨拶を交わし、出口へ向かって歩み始めた。
もう夜半も近い時刻。術の行使によるものと相俟って、身体は疲労の頂点におり、一刻も早く眠りにつきたいと思い始めていた。
『施設』の敷地から出て、騎士隊の詰所に向かい歩を進めていく。彼女はその騎士隊詰所の敷地内にある宿舎に身を寄せ、寝床としていた。
詰所は『施設』から南に歩いて数十分の位置に存在している。距離こそは離れているものの、大通りを直進するだけの単純な道。この迷いようのない道は、視界に頼れぬ彼女にとって何よりも便利であった。
リリアが詰所へと身を寄せるようになったのは、仲間であるエリスの助言に従った故の事。盲人たるリリアが『施設』への往来をしやすくする為の配慮であった。
霊術士は大通りを歩み始め、帰路につこうとしていた。
今頃、港町エルナスより帰還を果たしたレヴィンが詰所へと戻っている事だろう。久しぶりの彼との再会に、彼女の心は弾んでいた。
と、そのとき。
悲鳴が背後から聞こえてきた。次いで、警告を発するような声。
それは、常人では到底聞こえる筈もない小さな音となって、リリアの耳へ流れ込んできた。長年に亘って視界に頼れぬ生活を送る中、必然と他の四感を研ぎ澄ませてきた彼女だからこそ、その遥か遠方より発せられた音を「声」として認識する事が出来た。
同時に声のした方向と距離から位置を推量する。
「──!」
そして、思わず息を飲んだ。刹那、反射的にその地点を目指し全力で駆けはじめる。
あそこには、神殿が運営する孤児院があったはず──
リリアは頭の中で様々な可能性を検討していた。
──盗賊かもしれない。ここ一、二年というものの、街は戦の荒廃から復興を果たし、伴い治安も安定していた。
だが、民はと言えば、戦によって家を焼かれ、僅かな蓄財すら失った者も数多。殆どの者の暮らしはいまだ困窮しているのが現状。
盗賊にとっても、これらの蓄財を狙えぬとなれば趣旨変えを余儀なくされるのは必然。
安定した財産を持つところから改めて標的を選定し、盗みを働くしかない。
私兵団を抱え、昼夜問わず厳しい警備を張り巡らせている富裕層の邸宅や、武の象徴たる騎士隊詰所は無論、論外である。ならば残るは神殿勢力が運営する施設の何れかを狙うはず。
そのうち、盗賊にとって最も危険の少ない場所と言えば──孤児院もその候補として上がるだろう。
無論、盗む対象とは、そこに身を寄せる子供達。力弱き子供であるのならば攫うのは容易い。そして身代金を、その後援者たる神殿勢力に要求する腹積もりなのかも知れない。
それが事実なのだとしたら、何としても食い止めねばならない。
人攫いという非人道的な行為を罷り通す訳にはいかないのは勿論の事、その身代金の拠り所となっている金──ソレイアとの最終決戦の為に蓄えた軍資金に手をつける訳にはいかないからである。
孤児院の正門が見えるところまでやってくると、リリアは一旦立ち止まった。
そして、意識を集中し、西の霊峰に祀られている聖獣グリフォンの魂と交信を開始すると、やがて聖獣より授けられる不可視なる『力』の奔流が、彼女の体内に召喚された。
リリアは授かった『力』を四散させ、蜘蛛の巣の如き形状に再構築させると、それを眼前に広がっているであろう孤児院へ向け、張り巡らせた。
これは先刻、『施設』内で収容されている少女らを診る為に行使された術と同じもの。盲いた彼女が張り巡らせた、生物の存在を探る『目』であった。
状況はすぐにわかった。玄関と思しき場所で、見張りであろう三人の人間が倒れている。
何者かの襲撃があったのは間違いなかった。
更に意識を建物の中に向ける。
室内は混乱の極みにあるようだった。
襲撃者は五人。うち三人は、抵抗をする職員と格闘を演じ、そして残る二人は、これもまた抵抗する子供たちを一人でも多く連れ去らんと躍起となっているようであった。
──やはり、賊のようですね。
リリアは先刻の推論が正しかったのだと思い至った。
助けを呼ぶか、一人で行くか──彼女は逡巡した。
だが、辺りの通りには、人間と思しき魂の接近は見られぬ。これだけの騒ぎが起こっているにも関わらず、巡回兵らが駆けつけて来る様子もない。
「──仕方ありません」
助けを呼ぶ事を諦め、正門をくぐり、入口に向かって駆けた。
それと同時に、入口より襲撃者と思しき者のうち、二人が姿を現した。無論、盲人たるリリアのこと姿の詳細は分からぬ。だが、彼女は自らの術によって、人型の輪郭に添って輝きを放つ二つの魂の存在を察知しており、また、それらの右手にあたる部分は何か棒状の物が握られているかのように、形が歪んでいた。恐らく得物でも握っているのだろう。
賊に違いない──そう、彼女は確信した。
ふと、遠くに意識を向ける。恐らく裏門から逃走を図っているのだろうか、襲撃者のうち三人が両脇に子供と思しき小さな人型の輝きを抱え、一目散に逃走を図っている。
霊術士とて、所詮は生身の人間である。遠くで逃走を図ろうとする人の足に追いつく術は持ち合わせてはいない。
それよりも眼前の二人を捕えて厳しく詰問すれば、盗みや人攫いなど、人道に背いた行為を行わねば糊口を凌ぐ事が出来ぬ卑しき心の持ち主の事、やがて素性を白状するであろう。事の全容解明には然程時間はかからぬ。
そう判断し、リリアは裏門から逃走する三人の追跡を諦め、まずは眼前で得物を構える二人を撃退する為、立ち塞がり、対峙した。
「何だ? この女」
「退け! 退かないと──」
「──退かないと、どうすると言うのです?」
リリアは凄む二人の言葉を遮り、冷淡に声を発した。
同時に、霊術士は気を発した。全身に纏った気配が不意に膨れ上がり、肉体の輪郭に接する。
それは単純なる視覚をもってしても可視なる気配であった。この眼前に広がる非現実的な光景に、盗人と思しき二人が怖気づいたのか、腰を抜かし、その場にへたりこんだ。
ここ西方には「誇示する陋劣、力を恐れる」という諺がある。
眼前の盗人のように、小手先の暴力をもって虚勢を張ろうとする者に限って、それを上回る力を示されると程なく萎縮してしまう様を揶揄する言葉である。
まさにその言葉の通りとなった。その露骨な反応に、リリアは内心呆れながらも、彼らに手傷を与えぬよう細心の注意を払いながら術を行使した。
刹那、大きな破砕音が鳴り響いたかと思うと、盗人らの足元の地面の土が、まるで間欠泉の如く、上へ目掛け噴出した。
この大きな音は、盗人らに手傷を与えず気絶させると同時に、周囲に異変を知らせる為のものである。無論、実害はない。
リリアの狙い通り、土砂に塗れ、轟音に驚き慄いた二人は忽ちの内に気を失い、そして、突如鳴り響いた大きな音に、辺りは騒然となり始めた。
「何事だ!」程なくして、リリアの後方より巡回兵と思しき声が聞こえてきた。
「貴方は──」
聞き知った声を聞き、リリアは少し安堵する。
名こそ覚えていないが、このグリフォン・ブラッドで巡回兵として働いている者のうち、一番年齢の若い男の声と記憶していた。
「一体、これは何事ですか?」抉れた地面に埋もれる二人の盗人の姿を見て、呆気にとられたのだろうか。巡回兵の若者は、リリアに問うた。
「この孤児院に忍び込んだ人攫いの盗人一味の者と思われます。恐らく犯行は全五名によって行われ、うち三名は子供を攫い、裏口より逃走した模様です」
「一体どうして……」
「委細はわかりません。ですが、彼らを捕縛し詰問すれば、やがて全容は解明することでしょう。まずは彼らを縄で拘束し、詰所へと連行していって下さい。私は騎士隊へ報告に行って参ります」
「わ、わかりました」
次第に辺りは騒然となりはじめていた。騒ぎを聞きつけた野次馬の類によって、孤児院が包囲されようとしているのだろう。
盲人であるリリアにとって、このような人混みを縫って歩くは極めて疲労が伴う行為である。霊術の助けがある今であっても、これだけは慣れる事はない。
「お願いいたします」
リリアは現場を巡回兵の若者に任せる事とし、足早にこの場を後にした。
レヴィンとエリスは街中を駆けていた。北の方角から突如起こった轟音を聞き、リリアが今頃、丁度その北の方角に存在している『施設』に出向いている頃合いと気付くや、居ても立っても居られず、詰所を飛び出していた。時々、すれ違う人間に、リリアの行方を尋ねながら。そのうち『施設』の正門を守衛する哨兵と出会い、孤児院の方に走っていくリリアを見たと教えてくれた。
「孤児院──だって?」
「おかしいわね? いつも『施設』から出ると、まっすぐ詰所に帰ってくる筈なのに……」
嫌な予感がする。
二人の聖騎士は走る速度を速めた。
孤児院に至る角を曲がった時、エリスは走りこんできた人影に危うくぶつかりそうになった。
緊張し、視線を人影に向けたエリスの表情が変わる。
「リリア!」
暗い夜道でもわかる特徴的な衣装から、エリスはこの人影こそリリアに間違いないと覚った。
「エリスさん!」リリアも肩で息をしており、発せられた声もまた緊張を帯びたものであった。
その様より、レヴィンとエリスは徒ならぬ気配を察した。
「一体、何があった?」
「私が『施設』から出た後、悲鳴がしたので駆けつけて見たら……」まだ息が収まらないのか、その声は途切れ途切れであった。「賊が五人、人攫いの為に孤児院に侵入しているところに鉢合わせをしてしまいまして、うち二人は捕えましたが、残る三人が子供達を攫って逃走を……」
「なるほど……」
レヴィンは得心して頷いた。霊術士たるリリアが直々にこれら盗人を捕まえたというのなら、先刻の轟音にも合点がゆく。
次いで、エリスがリリアに問うた。「捕えた二人は?」
「巡回兵に引き渡しました。恐らく今頃は、巡回兵の詰所で尋問を受けている頃でしょう。私はこれから騎士隊の詰所に向かい、事の次第を連絡しようと急いでいたところでしたが──」
その手間はどうやら省けたようですね、と最後に言い添え、彼女は微笑んだ。
「賢明な判断だ」とレヴィンは言った。
そして、エリスと顔を見合わせ、頷きあう。
「エリスはリリアと連れて騎士隊詰所に戻り、指令を下せ。街の門を封鎖し、巡回を強化するようにな」
「わかったわ。セティ経由で神官戦士団にも応援を要請しておくわ」
「そうだな。頼む」
騎士の本分とは、魔物や罪人の類から民を守る事にあり、故に、このような事態に陥った時、解決に全力を尽くすのは道理。
ましてや、今はソレイアとの戦いに備え、騎士団、神官戦士団、議会、そして民衆が一枚岩の如き結束を築かねばならぬ時であり、そして、その結束には僅かな綻びも許されない。
走り去るエリスとリリアの背を見届けたレヴィンは、一人歩き出した。盗人が連行された巡回兵の詰所を目指して。
<5>
巡回兵詰所。
捕らえられた盗人の二人はいまだ目を覚ましておらず、レヴィンは捕縛を担当した巡回兵に事の次第を尋ねていた。
だが、先刻リリアから聞いた内容以上の情報は手に入らず、全ては二人が目覚め、尋問を開始してからだろうという結論に至った。
レヴィンは詰所にある椅子に腰かけ、机の上に乱雑に広げられた品々──二人の盗人どもの所持品を見遣る。
武器として使用された安物の刃物と、土に塗れ汚れた衣服。そして、パン一つすら買えぬ程の僅かな金銭のみであった。
貧困ゆえにこのような犯行に及んだのであろうか?
もし、そうならば彼らもまた戦の被害者なのかも知れぬ。聖騎士として騎士団の求心力──今の戦の中心と称されても過言ではない立場を担うレヴィンは胸が締め付けられるような思いに苛まれていた。
──程なく詰所の奥より歩み来たる人影があった。
髭面の中年の男。レヴィンの記憶によれば、この地区を管轄する巡回兵の長の地位にある男であった。
髭面の男は、レヴィンの姿を認めると恭しく礼をし、出迎えた。
「このような夜分にわざわざ聖騎士様が来訪されるとは──何か、今回の事で気がかりな事でも?」
「いや、リリアが捕縛に携わったと聞いて、事情を聴きに来たのだが……」
「そのようでございますな。いやはや、霊術士という者の存在は噂には聞いておりましたが、あれ程までに強大な力を行使される人物であるとは。かつて聖都が霊峰の管理者として、その存在を秘蔵としていたのも頷けます」
男は髭を揺らし、愛想の良い笑みを浮かべた。
「恐らく明日には盗人の身柄は騎士団のほうへと引き渡される手筈となる事でしょう。可能であるならばこちらで尋問はしておきますが……こればかりは連中が目覚めぬ限りはどうにもなりますまい」
「手数をかけて済まないが、頼む」
「なに。戦で荒れた街の復興を担って下さった騎士団の頼みとあれば、街の治安を守る我々としても協力は惜しまぬ所存。今、茶でも出します故、飲みながら連中の目覚めを待ちましょう」
そう言うと、髭面の男は卓上より盗人の所持品を荒々しく押し退けた。床に衣服と数枚の硬貨が落下する。
「もう少し丁寧に……」
「いや、これは失礼。茶を置く場所を確保したかったのでしてな。なに、所詮は貧しき盗人の所持品よ。そう重要な代物など、紛れ込んでおりますまい」
詰所の長がそう言うと、笑いながら部屋の奥へと向かっていった。
「やれやれ……」
レヴィンは溜息をつくと、床に落下した品々を拾い上げる。
土に汚れた感触と、衣服に染みついた臭気が不快感を誘う。レヴィンはこれらを適当な場所に置こうとした、まさにその時──
衣服の裏地に目が止まった。いや、正確には衣服の裏地に施されていた刺繍に。
それは傍目には目立たぬよう、黒い布地に黒い糸にて施されたものであった。
「こんな貧相な服に何故このような刺繍が?」
レヴィンは頭を傾げた。刺繍とは国の高官らが好んで衣類に施す、言わば身分の象徴であるとされるのが常であり、また刺繍の技術も上流階級の女性の教養として、半ば閉鎖的に継承されているものである。
無論、衣類に刺繍を施す事自体も、大金が必要であるとされ、それ故に疑問を抱くに至る。
だが、それはすぐに解消されることとなる。
衣服の裏地に施されていた紋章と思しき刺繍。それはレヴィンにとって見覚えがあるものであった。
いや、忘れようとも忘れようはずがない紋章であった。
「ソレイア公国の紋章──」
それを察するや、レヴィンの表情が厳しいものへと変じた。そして、刺繍の色が指し示す意味を知るや、その表情は更に厳しいものとなった。
公国では、公職に就く者の衣服には国の紋章を施すのが義務とされている。そして、刺繍される糸の色によって、その者が国内で如何様な組織に所属しているかを表しているのだという。
例えばソレイア直下の錬金術師団に所属している者ならば、その衣服には金色の刺繍が、また、軍の司令官などといった軍部に所属している者ならば銀、国内の内政に携わる者ならば白の刺繍と決められている。
そして、黒の刺繍が施されている者とは、ソレイアが最も信頼を寄せる組織を示すものであった。その実務は敵国の情報収集や秘密工作、果ては要人の暗殺や、内乱の首謀者の殺害などといった、公にはできない任務ばかりを担う、言わば闇の諜報活動を主としていた。
「──月影の手の者か」
そして、その諜報組織の長の名は、月影と通称されるソレイアの情夫。三年前、エリスの父にして前騎士団長シェティリーゼ卿をはじめ、グリフォン・ブラッド住民に対し、錬金術によって造られた薬を投与して操り、周辺地域の集落に殺戮を繰り返させるよう仕向けた張本人であった。
「ならば何故、ソレイアの手の者が人攫いなんかを?」
三年前の戦いにおいて公国は西の三拠点を失い、更に『壁』の完成によって周辺地域への交易の道は完全に閉ざされている。また、国内は荒廃の果てにあり、内需は到底見込む事が出来ぬ現状。その財政は極めて逼迫していると考えられる。
そのような国の者が、人攫いなんかをして何の得があろうか?
──身代金目的か?
違う。
公国の──況してや、公職に就いているであろう者が、このような犯罪行為に出ているという事が明るみとなれば、公国に対する非難の声は更に高まるのは言うまでもなく、騎士団に公国攻めを開始させる契機となりかねぬ。
窮地に追いやられ、体制の維持──延命を第一とせねばならぬソレイアが、そのような危険を冒すとは、到底考えられない。
──では、新たなホムンクルスの材料としてか?
いや、違う。
先程の巡回兵から情報によれば、今回拉致されたのは年端もいかぬ子供、そして男児も混ざっているという。ホムンクルスの材料としては不適当であろう。
──公国の労働と武力を担う食人鬼の餌としてか?
いや、それも違う。
今回拉致された子供は数名程度。数千から成る食人鬼兵団の口腹の欲を満たすには圧倒的に足らぬ。それならば繁殖力の高いゴブリンやオークの肉を食わせた方が余程効率が良いはずである。
「だが……子供か」
先日の港町エルナスでの一件においても、ソレイア公国向けの積荷の中に懐妊したホムンクルスが多数紛れ込んでいたという。また、その後の調べによると、以前から同様のホムンクルスが幾度にも亘って公国に送り込まれているのだという。
母体の胎内にいるかいないかの差はあれど、公国内に多数の子供が流入しているのは事実である。
この『子供』という共通項。レヴィンにとって、それは単なる偶然とは思えなかった。
聖騎士の胸中に暗雲が広がっていく。このような嫌な予感は、エリスらと共に旅を始めてから三年もの間、幾度となく経験してきたものであった。
だが、今回は違う。
今までの悪しき予感の元凶は、その規模の多寡はあれど全て人為的に起こった事件が根底に存在しており、それ故に解決も比較的容易いものであった。
だが今回は、それすらも超越した──超常的な何かが、その根底に存在しているような気がしてならなかった。
喩えるのならば、地獄の底に住まう数百の悪鬼に睨まれているかのような、おぞましき感覚であった。
説明 | ||
全8巻で構成される長編ファンタジー小説 "Two-Knights"第7巻の第一章を公開いたします。 現在、本作品は同人ダウンロード専門店「DLsite.com」「DiGiket.com」「とらのあなダウンロードストア」での購入が可能となっております。 http://www.dlsite.com/home/work/=/product_id/RJ111605.html http://www.digiket.com/work/show/_data/ID=ITM0078956/ http://dl.toranoana.jp/cgi-bin/coterie_item_detail.cgi?cf_id=260001938100 |
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