レッド・メモリアル Ep#.02「新たなる歴史 Part2」-1
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『ジュール連邦』《ボルベルブイリ》

 

チャコフ港

 

γ0057年4月6日 11:13P.M.

 

 

 

 

 

 

 

 東側の世界、『ジュール連邦』の首都である《ボルベルブイリ》の港は、先進国とされる西側

の国の港に比べれば、信じられないほどに寂れていた。

 

 船舶など1時間に1度、港にやって来るか、出て行くかを見る事ができれば良いほうだし、港

の積荷も、運び出されることなく、港で腐ってしまうようなものさえある。

 

『ジュール連邦』は確かに東側の大国として、その権威を振るっている。しかし世界に見せてい

る姿と、国の内情は幾分も異なるものがあったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 そんな《ボルベルブルグ》の港のとある埠頭で、ひそひそとした囁き声が聞えてきていた。

 

「分かっているな?寄り道をせずに、きちっと届けるんだぞ」

 

 男の囁き声だった。声だけでも警戒心に溢れ、闇の中で生きているかのような話し方をす

る。それに引き換え、次に聞えてきた声は対照的なものだった。

 

「分かってるって、いつもそうしてるでしょ。大丈夫。私に任せとけば」

 

 女の声。それも、女とは言ってもかなり若い女の声だった。もしかしたら、まだ子供ではない

かと思えるほど若々しい声である。

 

 口調も楽観的で、警戒心など微塵も無いかのようである。

 

「ふん。じゃあ報酬は向こうで受け取れ、いつものようにな」

 

 男は少し呆れたかのようにそう言ったが、女はあまり気にしないようだった。

 

「はーいはい。アルバイト頑張ります」

 

 女は明るい声でそのように答えたが、男の方はと言うと、港の周囲を見回して、誰もそこにい

ない事をチェックして立ち去った。

 

 だが実際の所、《ボルベルブイリ》の港には、深夜ともなれば、人一人としていない。港の管

理者もサボっているし、深夜に往来する船も無い。せいぜい、港を根城にしている浮浪者くらい

だろう。

 

 男が去って行ってしまうと、女はすぐに行動を開始しようとした。

 

 男から貰った包み。それは手に収まるほどの小さな包みだが、これを《ボルベルブイリ》郊外

に住んでいる、ある男の所へと届けてあげれば良い。これだけで、バイクのパーツが幾つも変

えてしまうほどの報酬を貰える。

 

 このアルバイトは、女、いや外見で言ったらまだ少女、にとって願ってもいない事だった。

 

 バイクに跨った少女はさっそくエンジンを吹かす。赤いボディをもつバイクは、彼女の体格に

合わせて大型ではないが、小回りが利くし、スピードも改造したエンジンやボディのお陰で相当

なものが出る。

 

 そんなバイクに乗った少女は、すらりとした体を持つ。まだ若い少女としては十分な長身だっ

た。彼女はそんな体を、ライダースジャケットの黒い光沢で包んでいる。

 

 この『ジュール連邦』にいながらにして、そんな素材を使ったジャケットを身につける事自体、

彼女自身が相当裕福か、ギャングか何かで金を巻き上げているとしか思われないだろう。大

体《ボルベルブイリ》でも、こんなジャケットを売っている店はそう簡単に見当たらない。事実、

それは東側の国の輸入品なのだ。

 

 少女の顔は自信に溢れていた。彼女は少し派手な外見をしている。赤く染め上げたショート

ヘアが、活動的な印象を周囲に与えつつも、とにかく目を引く。彼女の赤い髪は、暗闇の中で

もはっきりと赤という色を持つことが分かる。

 

 彼女はそんな髪をもつ自分の頭部を、ヘルメットを使って保護しようとした。しかしその時、彼

女のライダースジャケットの中の携帯電話が鳴り出した。

 

 『ジュール連邦』でも、携帯電話のネットワークは健在だ。幾ら、東側に見せられない現状が

あるとは言っても、携帯電話はとにかく必須のものだった。しかしもちろんの事ながら、携帯電

話は持つ人間も限られている。

 

 少女は、お気に入りの赤いボディを持つ携帯電話を取り出し、それを耳へと持っていく。

 

「ああ、母さんなの? どうしたの?」

 

 少女は、自分の母親からの通話に思わずにっこりとし、そう話し出した。

 

「うん。大丈夫だよ。私ちゃんとやってるからさ」

 

 電話先で自分を心配してくれる母に対し、少女は話し出す。まさか、自分がこんな配達人の

アルバイトをしている事なんて、夢にも思っていないだろうと思いつつ。

 

「母さんこそ体には気をつけてよ。もう若くないんだから」

 

 そう少女は言い、その後、二言三言のやり取りをした後で通話を切った。

 

 仕事の邪魔をされたとは思っていない。母は少女にとってかけがえのない存在なのだから。

 

 母に心配をかけさせないように、この仕事をさっさと終わらせてしまおう。そう思った少女は、

これまた赤いヘルメットをかぶり、バイクを発進させた。

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 夜の高速道路は気持ちが良い。

 

 港からすぐの所に高速道路の乗り入れ口があり、本来ならば通行料を払わなければならな

いのだが、どうせ係員は、時速100km以上のスピードで飛ばすバイクを走って追いかけては

来ないし、半分寝ぼけている。

 

 料金所の柵もどうせずっと前に壊されてしまったのだから、と、少女はまんまと無料で高速道

路を走っていた。

 

 かかるのは蓄電池のバイクの電気代だけ。スピードを出せるようにした分、かなりの電気代

がかかるバイクだったが、それも今回の報酬だけで十分過ぎるほどに稼げる。

 

 夜の高速道路には何も走っていない。《ボルベルブイリ》のビル街が周囲に広がっているが、

夜まで仕事をするという人間が少ないせいもあって、ビルの照明はほとんど点っておらず、さな

がら廃墟のよう。

 

 だが少女は、まるでこの高速道路を中心とした世界が、自分のものだけであるような気がし

ていて、夜の高速道路が好きだった。

 

 バイク配達人のアルバイトをしているのも、そのせいなのだろうと思う。

 

 だが今晩は、そんな少女のせっかくの時間を奪う存在が現れた。

 

 バイクの背後から、何台かの車が迫って来ていることは、バイクのサイドミラーを見ずともす

ぐに気がついた。

 

 高速道路を伝わって来る別の振動が、そのまま少女の体にも感じられていたのだ。

 

 サイドミラーを見ると、ライトを消した車が3台、並んで迫って来ている。夜の闇にも溶け込ん

でしまいそうなくらい、真っ黒な車だった。

 

 前にも高速道路の管理者に、料金を払わずに高速道路に侵入した事で追い掛け回された事

もあった少女だが、今回はそんな料金所の連中の車とは違う。

 

 大体、追いかけてきている漆黒の車のような高級車は、この『ジュール連邦』ではほとんど見

かけない。

 

 いたとしても政府の人間とか、大企業の重役とか、そういった人々しか乗れない車なのだ。

 

 少女は警戒してバイクを更に加速させた。元々相当なスピードを出していたのだが、少女が

アクセルをかけると、更にバイクは加速する。

 

 ライダースジャケットや、ヘルメットが切る風が一層強くなる。流れるビル街の景色も加速し

た。

 

 車の方も更に加速して少女を追いかける。どうやら高級車という見た目に反して、加速もかな

りのものがあるようだ。

 

 少女はあっという間に接近して来た黒塗りの車に左右を挟まれてしまう。更に背後にも1台の

車が迫ってきて、左右と後ろを固められる形になってしまった。

 

 このままここから逃げるためには、減速しては駄目だ。背後にいる車にぶつかり、このスピー

ドで接触したり横転したらただでは済まない。

 

 この場を脱する方法は一つ、更に加速するしかなかった。

 

 少女はバイクを更に加速させようとした。だが、左右を固めている車が突然接近してきて彼

女のバイクに接触しようとする。

 

 危うく彼女はそれを交わしたが、車のボディが脚をかすっていた。接触され、危うく倒れそうに

なるが、彼女は何とかバイクの姿勢を保つ。

 

 だが今度は反対方向の車が、少女のバイクへとぶつかって来た。

 

 バイク自体に細かな傷が入ることは構わない。もともと誰かに見せ付けるためにバイクに乗

っているんじゃあなく、高速を疾走するためにあるのだから。でもこのまま車にぶつけられれ続

けるのは、少女にとっても嫌だった。

 

 だから彼女は、再び車が接近してくるのを待った。

 

 案の定、時速100km以上というスピードで疾走しながらも、車は少女のバイク目掛けて再び

ぶつかって来ようとしている。

 

 その時がチャンスだった。

 

 少女は再び接近して来た、高速で回転しているタイヤ目掛けて、蹴りを放った。だが、タイヤ

を直接蹴るのではない、ぎりぎりの所を掠めるようにして足を突き出すのだ。

 

 少女の足がタイヤの直ぐ脇を通過する。その瞬間は何も起きなかったが、彼女を追い詰め

ようとしていた車は突然、何かが破裂するかのような音と共にバランスを崩し、路肩によって寄

って行ってしまう。

 

 その車は前輪のタイヤをパンクさせられていたのだ。

 

 その隙に少女はバイクを操って、目の前に接近して来た、インターチェンジへとぎりぎりの所

で滑り込んでいく。

 

 あまりに急激にカーブして、バイクの姿勢も片側へと倒れこみそうになっていた。少女の膝

が、高速道路の路面を掠って、膝のところが破けてしまう。

 

 だが少女は何とか脱していた。あの車達は何だろう。あんな怪しげな車に追跡されるような

記憶はないのに。

 

 そう思いつつも少女は繁華街の方へとバイクを走らせる。

 

 時速100km以上のスピードで、《ボルベルブイリ》の繁華街へと突入していく。深夜だから車

もまばらだ。

 

 開けた通りだったが、浮浪者がうろつき、怪しげな店が立ち並ぶ。こんな時間に外をバイクで

走る少女だったが、あまりこのような所には来たくなかった。だが、あの黒塗りの車から逃げる

にはこれしかなかったのだ。

 

 だが、バイクで疾走する少女の目の前に、また新たに1台の車が現れ、その道を塞いだ。

 

 唐突に目の前に現れた車。急停車すればぶつかってしまうだろう。だが、少女はバイクのア

クセルの側にあった、ハンドルを握っていても操作する事のできる操作板を操作し、バイクへと

ある命令を出した。

 

 バイクは、全速力のまま、道を塞いだ車の方へと突入させていく。黒塗りの車からは、なにや

ら体格の良い、サングラスをかけた黒服の男達が次々と姿を現してきていた。

 

 バイクはその男達に向って突入させていた。だが、このまま激突させるつもりはない。少女は

バイクをぎりぎりの所で車をかわさせ、さらに自分は、時速100kmは出ているであろうバイク

から飛び降りていた。

 

 飛び降りる瞬間、男達の足元目掛けて、バイクの加速を加えた蹴りを放つ。すると2人の男

を巻き添えにして、少女の体は彼らの足を払い、転ばせていた。

 

 高速で走るバイクから飛び降りて、しかもその加速を利用した蹴りなどを放つなど、自分自身

もただでは済まない。

 

 だがそれは、少女がただの人間だったら、の話だ。

 

 今転ばせた男だけではなく、黒塗りの車から更に2人の男が現れる。

 

「おい、さっさと捕まえろ」

 

「ガキ一人だ。手こずるな」

 

 男達は口々に言って、少女へと近付いてきた。ヘルメットを被った少女の顔は相手には伺え

ない。それに少女の被ったヘルメットの内側には、様々な光学画面の表示が現れており、彼女

の顔はその表示で更に隠されていた。

 

 迫って来る大柄な男。少女とは2倍近い体格差がある。だが彼女は男に向っていきなり跳び

膝けりを繰り出し、鋭い膝蹴りを男の顔面に見舞った。

 

 続いて逆方向から迫って来た男へと、後ろも向かずに蹴りを繰り出し、彼の体を何メートルも

吹き飛ばす。

 

 ライダースジャケットを纏った少女の体は、すらりとして華奢なくらいだった。しかし放たれる

蹴りは、鋭く素早い。まるで弾丸のように放たれて、男達にとっては目に見ることができないほ

どのスピードを持っていた。

 

 だが彼女が放った蹴りでも、男達が倒せたわけではなく、すぐに起き上がり、彼らは再び彼

女へと襲い掛かる。

 

 4人の男達に囲まれ、彼女には逃げ場がなかった。しかしその時、少女の頭に被ったヘルメ

ットの中で、鋭い信号音が鳴り響いた。

 

 そして彼女のヘルメットの中に表示が現れる。

 

 危険 接近中と。

 

 男達が迫って来る中、少女はただ彼らの中心に立っていた。しかし次の刹那、男達の背後か

ら、思い切りぶつかってくる何かの姿があった。

 

 それは、少女が乗ってきたバイクだった。誰も乗せていない無人のバイクが、男達の背後か

ら飛び込んできていたのだ。

 

 背中からバイクにぶつかられた男は吹き飛ばされた。時速80kmは出ているバイクに背後

からぶつかられたのだ。

 

 しかし少女は予期していたかのように、自分のバイクへと、空中に飛び上がりながら、ハンド

ルに手を付き、逆立ちをする姿勢を一旦とってから軽やかに飛び移っていた。

 

 全てはリモートコントロールによって、自分のいる位置にバイクが戻ってくるよう、少女は操作

していたのだ。

 

 少女は男達の内の一人の体で、まるで踏み台にするかのように、バイクを飛び込ませ、高ら

かにジャンプをした。一台のバイクが、黒塗りの高級車の屋根を飛び越え、バリケードのように

行く手を塞いでいた車を飛び越えてしまう。

 

 反対側へと降り立ったバイクは、着地の衝撃を上手く吸収し、更なる加速をしていった。

 

 少女を乗せた一台のバイクは、《ボルベルブイリ》の街並みへと消え去っていく。

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《ボルベルブイリ》市内

 

4月7日 10:05 A.M.

 

 

 

 

 

 

 

 アリエル・アルンツェンは、《ボルベルブイリ》の公立高校に通う高校生の一人に過ぎなかっ

た。

 

 彼女はつい最近まで成績も優秀だったし、特に問題の無い生徒だった。しかしながら、就職

も間近に迫った18歳。『ジュール連邦』の高校でも最高学年に達する数ヶ月前から、彼女の姿

は変わりだした。

 

 バイクに乗り出したことが原因だろうと、周囲の人間は言っていた。彼女は15歳でバイクを

乗り出した時から、自分のバイクをお気に入りとしていたし、様々な改造を施し、性能を上げ、

それを自在に乗りこなすのが好きだった。

 

 そしてライダースジャケットを纏い、バイクに跨って疾走する姿は、魅力的でもあったし、凛々

しくもあった。同じ高校に通う男子達の魅力の筆頭になった事は間違いないだろう。

 

 そんな事もあってか、彼女はある時から、元々の黒髪を、派手な赤い色へと染めていた。

 

 『ジュール連邦』の学校は、宗教関連の私立学校でも無い限りは、それほど校則が厳しくな

い。いや、正確には厳しくともこの社会では、教師でさえもいい加減な仕事をし、生徒の素行な

どはほったらかしにされている、と言った方が良いだろう。

 

 事実、アリエルは学校側からは何も言われなかった。周囲の男子や女子が騒いだ程度で、

今では彼女の真っ赤な髪の毛は、彼女自身のトレードマークにもなっている。

 

 アリエルは確かに昔のアリエルでは無くなり、容姿も大きく変わっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 今日もバイクに跨り、アリエルは学校へと登校してきていた。寂れた通りの建物の一つである

学校。裏にある駐車場は教員専用の駐車場という事だったが、ごみも散乱しているし、昨日も

誰かがここでパーティーをしたようだ。空き缶や袋などが散らかっている。そんな中へと、アリエ

ルはバイクを突っ込ませていた。

 

 ヘルメットを被ったままバイクから降りた彼女。だが足元に空き缶が転がっている事に気付

かずそれに足を滑らせて転んでしまう。

 

 したたかに尻餅をついた上に、ヘルメットの後頭部を、バイクのボディへとぶつけてしまう。

 

「い、痛ったあああ」

 

 ヘルメットを脱ぎ捨て、アリエルは転んで打った部分を摩る。彼女の自慢の赤い髪が露にな

ったが、その顔は、痛みに不満げだ。

 

「前もやっちゃったばっかりだからなぁ、傷になっていないかなぁ?」

 

 ヘルメットでぶつけてしまった自分の自慢のバイクのボディをさすり、彼女は呟いた。先週も

似たような状況で、バイクにヘルメットか体をぶつけていたのだ。

 

 気を取り直して、アリエルは立ち上がり、ヘルメットを持ったまま、学校へと向った。チャイム

が鳴る事はないが、とっくに大幅な遅刻になっている。

 

 だが、アリエルは少しも焦らなかった。まるでステップでも踏むように悠々と余裕を見せて学

校へと向ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「アルンツェンさん。昨日も、今日も授業をサボりましたね?」

 

 授業の後、アリエルの担任がそのように言ってきたが、彼女はほとんど上の空で聞き流して

しまっていた。

 

「そんな様子ですと、卒業すら危ういですよ」

 

 と、教師は言ってきたが、アリエルは得意の言葉で返した。

 

「この前の数学のテストの成績、どうでした?」

 

 それを言ってしまうと、相手の教師は何もいえない様子だった。アリエルはわざとらしく笑みを

浮かべる。

 

「クラスで5番目でしたよ」

 

「あら、残念ですね。去年ならば、2位とか3位とか、平気で取れたのに、今年は頑張っても、5

番目ですか。さすがに難しくなってきちゃったのかなあ」

 

 アリエルのお得意の作戦だった。それも授業が終わったばかりの廊下で、わざと周りの生徒

達にも聞えるような声で言い合うのだ。

 

「と、とにかく、成績が下がっているというのは事実で、あなたは最近素行も」

 

「こんなご時勢で、クラスで一番の成績を取って、一体何になるって言うんです?クラスで一番

の成績を取って、良い企業に入って、それでいて、そんな会社がいとも簡単に、潰れちゃった

ら?クラスで一番の成績なんて取っても意味ありませんよ?

 

 もちろん、私だって、おちこぼれたくはないですからねぇ。こうして頑張って勉強しているんで

すけど?」

 

 アリエルの声は学校の廊下中に響いていた。相手の教師にとっては、何とも生意気な言葉に

聞えたかもしれない。

 

 年端もいかない、社会について良く知らないような小娘が、何を偉そうに言っているのかと。

 

 だが、アリエルの言った言葉は、実際の所は本当だった。

 

 この『ジュール連邦』では、極度の経済危機により、多くの企業が倒産し、例え学校を一番の

成績で卒業しても、失業者になる可能性は十分にあった。

 

 それはアリエルのような若い世代にも、はっきりと分かるほど身近に迫っている、東側の社会

の現実だったのだ。

 

 だから、アリエルの担任は何も反論することができずにその場を立ち去った。

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 アリエルは、ほとんど教科書もノートも持たずに学校へやってきて、そのまま帰ろうとしてい

た。

 

 そう言えば、今年で高校も最高学年だから、進学か就職かを考えなければならない。高校を

出たら、すぐに親が認めた相手と結婚して家庭を持つ、という風習は、すでに『ジュール連邦』

でも古臭いものとなっている。

 

 アリエルは、進学するつもりも無かったし、劣悪な環境下で働かされるという企業に就職する

つもりも無かった。

 

 進学の方は、昔から変わらず、きちんとした大学入試で、世界有数の大学と言われる、ボル

ベルブイリ大学に入学する事もできるが、こちらにもアリエルは興味が無かった。特に最近は

勉強もろくにしていない。元々の成績は良かったのだが、最近では勉強に対してのやる気も失

せてしまって来ていた。

 

 できれば、バイクの荷物運びの仕事を続けていたい。あれを繰り返せば、一人でも生活でき

るくらいの金は手に入るのだ。

 

 やがてアリエルが、学校から下校するために、また裏手の敷地にある駐車場へと戻ってきた

とき、なにやら声が聞えてきていた。

 

「ああん?ジュール人は、上手い飯も、暖かい家もあるくせに、ろくに働かない、落ちこぼれだ

と?よくも言ってくれたな?」

 

 大柄な男達、と言っても、アリエルと同じ学校の生徒達が、一人を取り囲んでいた。どうも喧

嘩になっているらしい。

 

「てめえら、スザム人だって同じじゃあねえか? オレ達の国に移民して来れているから、のう

のうと暮らしていけるんだろう?」

 

 そんな風に言ってくる男達の、非難の的となってしまっているのは、アリエルと同じくらいの年

頃の少女だった。

 

 赤毛、と言ってもアリエルのように染めた色ではなく、天性の赤毛だから、オレンジ色の近い

赤毛で、背が高い少女。顔立ちや髪の色、そしてアリエルよりも少しがっしりとした体格は、ス

ザム人特有のものだった。

 

「わたしは、あんたらに、落ちこぼれだって言ったんじゃあない。ジュール人はいずれ、思い知

るだろうってそう言ったんだ」

 

 やれやれとアリエルは思った。何故なら、男達に絡まれている少女は、アリエルと深い関係

のある少女だったのだから。

 

「同じような事じゃあねえか!なめやがって!てめーらは、オレ達に従っていれば良いんだ

よ!」

 

 迫力のある男子生徒に脅されても、その女子は怯まないどころか、逆に男を睨みつけてい

る。

 

 突然、男子生徒が手を振り上げた。アリエルは目の前で起こっている事を見過ごすことがで

きず、素早く行動した。

 

 考えよりも手の方が先に出た。アリエルは、男子生徒の振り上げた腕を掴む。

 

「な、何だ?てめーは?アリエルじゃあねえか?何、してんだよ」

 

 大柄な生徒は、アリエルに手を掴まれ、背後の彼女を振り返った。

 

 その場にいる皆が、意外そうな顔をしてアリエルの方を向いている。赤毛で長身の少女も同

様だった。

 

「差別はやめておきなよ。見てらんない」

 

 アリエルのその言葉には、多少なりとも怒りが篭っていた。

 

「てめーも、こいつらに味方をするのか?このスザム人が、先週に地下鉄の駅で何やったか知

って言ってやがるのか?」

 

 大柄な男子の取り巻きの生徒が言ってきた、その事件についてはアリエルも知っていた。だ

がアリエルにとっては、そんなスザム人だから、という理由で差別している男達の方が下劣に

見えていた。

 

「私とやろうって言うの?いいんだよ。病院送りになったって」

 

 と、アリエル。彼女は少しわざとらしく、ボクシングか何かの格闘技のファイティングポーズを

取ってステップを踏んでみた。

 

 そんなアリエルの姿を見て、大柄な男子生徒達は怖気づいた。

 

 明らかに彼らとアリエルの間には大きな体格差がある。アリエルの相手の方が1.5倍ほど

の体格もあろうか。

 

 アリエルは、18歳ながらも魅力的なスタイルをしてはいた。それは彼女が着ているライダー

スジャケットの上からでもくっきりと現れている。でも特別腕っぷしが強そうには見えない。

 

 ただ髪の毛を派手に赤く染めていて、妖しい格好をしているに過ぎない。

 

 だが大柄な男達は怖気づいたように、

 

「い、いや、大した事じゃあなかったんだぜ。さっきの授業でちょっと分からない事があったんで

な、それを教えてもらっていただけなんだ。な?」

 

 と、リーダー格の生徒は、赤毛の少女に言った。が、少女の方は黙っているだけだった。

 

「ふーん」

 

 アリエルは相手と目線を合わせたまま様子を伺った。

 

「じゃ、じゃあな。それと、お前いつの間に格闘技なんて習ったんだ? 今度オレにも教えてくれ

よ、ごろつき10人を傷一つ負わないでのしあげる方法をよ」

 

 立ち去り間際に、リーダー格の男は、アリエルにそう質問してくる。しかしアリエルは、

 

「早く行かないと、あなたの体でそれを教えちゃうよ」

 

 そう、猫なで声で言うのだった。

 

 学校でも素行の悪い生徒達が立ち去ってしまうと、学校裏の空き地には、アリエルと赤毛の

少女だけになった。

 

「シャーリ、大丈夫?怪我はない?」

 

 アリエルは、自分よりも背の高い赤毛の少女の顔を見てそう尋ねた。この少女は、顔の右側

の部分を髪で隠している。初めて見た者は、そういう髪型なのだと思うかもしれないが、この少

女は、その髪で片側の顔にある深い傷を隠している。という事が近づいてみると分かる。そし

てその傷は彼女の右の眼に繋がっており、彼女は右目が見えていないという事も分かる。

 

 だが、アリエルは前々からその事を知っていた。

 

「ありがとう、アリエル。でも、あんな奴ら、別にどうって事ないから」

 

 と、シャーリと呼ばれた赤毛の少女は答えた。

 

 シャーリは、アリエルと幼馴染だった。たまたま、幼い頃に住んでいる家が近かったのだ。小

学生、中学生のときは、シャーリ自身がこの街を離れていたせいもあって、2人は分かれ離れ

だったが、偶然、入学した高校が同じだった。

 

「あんな人達、酷いと思わない?別に自分が被害者じゃあないって言うのに、あなたみたいな、

何も関係の無い人を犯人にして、暴力を振るうなんて!」

 

 アリエルは素直な感情でそう言った。

 

「戦争って、そういうものなのよ」

 

 シャーリは、左側の眼でアリエルを見つめ、そう言うのだった。

 

「何言っているの?今は現代で、ここは学校の裏の敷地!それでいて、あなたは何も関係の

無い人で、あの人たちはただ暴れたいだけ。それだけなのに、戦争って?」

 

 シャーリは自分が押し付けられていた建物の壁から背中を離し、アリエルに背を向けた。

 

「いずれ、あいつらも身をもって理解するわ」

 

「はあ?」

 

 アリエルは、何故シャーリからそんな言葉が出てくるのかが分からなかった。

 

「人間が滅びるのならば、それはまず自分達からだって事をね」

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5:41 P.M.

 

 

 

 

 

 

 

 幼馴染であるシャーリを助けた後、アリエルは、バイクに跨って、《ボルベルブイリ》の街へと

繰り出していた。

 

 街をバイクで走るといつもアリエルは思う。

 

 この国のどこの街に行っても、自分を満足させるものはどこにもない。どことなく歴史的な風

景を残している《ボルベルブイリ》の街並みも、酷く寂れており、街の通りのいたるところには浮

浪者がたむろしている。

 

 車だってほとんど走っていない。むしろアリエルが乗っているバイクなど、ほとんど見かけるこ

とも無いのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 人々の主たる移動手段は、街の地下を走る地下鉄だった。地下鉄も、結局の所は動いてい

るだけの通りのようなもので、浮浪者のたまり場と化しているが、実際、交通手段にはなってい

る。

 

 車に乗るよりも安上がりになるというし、何より、駅員がサボっているような駅ならば、十分に

無賃乗車をすることができるのだ。

 

 《ボルベルブイリ》は、『ジュール連邦』の首都ではあったが、その荒廃ぶりはどんどん加速し

ており、東側の国に比べれば、技術的にも大きく劣る形になっている。

 

 本当にこの『ジュール連邦』を主軸とした東側の国は、テクノロジーで大きく勝る西側の国と

実際に対立できているのか、国民としてみれば怪しい事この上なかった。

 

 アリエルも、幼い時はまだこんな国の内情について知らなかった。そもそも、養母に引き取ら

れ、《ボルベルブイリ》から離れた郊外で暮らしていた時は、都市の荒廃など知る事はなかった

し、むしろ寒くはあったけれども自然な環境に恵まれていたのだ。

 

 アリエルのような『ジュール連邦』の若者が、国の内情や、西側の国と続く、『静戦』について

知る事になるのは、学校で習う歴史の科目だ。

 

 そこでは、『ジュール連邦』側を相当に美化した歴史を学ばされるのだが、歴史上の真実、ど

れだけ東側の国が退廃しているかは、若者達は、コンピュータのネットワーク上で知る事にな

る。

 

 西側の『タレス公国』では、電気エンジンだけではなく、水素燃料や、太陽発電による車が高

速でハイウェイを疾走し、地下鉄も、2本の線路の上を走るのではなく、リニアモーターによって

走る事をアリエルは知っていた。

 

 それらは『ジュール連邦』側の、半ば独裁政権とも噂される政府によっても、決して規制する

ことの出来ない情報として若者達には知られている。

 

 アリエルも、学校寮のネットワークを閲覧し、『タレス公国』の国に憧れ、輸入したバイクにさえ

乗っている。

 

 東側の国が荒れている原因が、何でも、共産主義に起因しているという事はアリエル達も良

く知っていた。この国が、働いた分だけ賃金を支払う国ではなく、皆が平等の賃金を払うという

制度を取っているという事を。

 

 だったら、死ぬ物狂いで勉強して、昼も夜も、机にかじりついている人であっても、結局、バイ

クを乗り回して、適当に勉強して、学校を卒業する事を目指している者達も、同じ評価を受ける

だけ。

 

 そう感じている若者、そして大人が原因となって、『ジュール連邦』とその他の周辺諸国の荒

廃は加速しているのだ。

 

 アリエルも、いつまでもこの国にいるつもりはない。学校を卒業したら、『タレス公国』にでも移

住したかった。もちろん養母も一緒に連れて。そのために、バイクの荷物運びをしているのでも

あるのだ。

 

 最初は、学校のクラスメイトの紹介で始めたアルバイトだったが、今となってはほぼ毎日請け

負うようになっている。

 

 アリエルに渡される小包は、大抵が手に収まる程度の小さなものばかりで、アリエルがそれ

を運んだことで、トラブルに巻き込まれてしまうものかどうかは、実際に中を覗いたことが無い

ために彼女も知らない。

 

 ドラッグにしてみても、あまりに物が小さすぎた。

 

 それをバイクで運ぶだけで、バイクのパーツが10も20も買えてしまうほどのお金がもらえる

となれば、アリエルも文句を言うつもりは無かった。

 

 今日も《チャコフ港》で、アリエルへと一つの小包が渡されようとしていた。

 

 だが、今日はいつも会う男のほかに、一人の大柄な男がついてきていた。見上げてしまうよう

な、山ほどの体格もあるような男達で、アリエルの体の2倍ほどの大きさはあるだろう。

 

「ど、どうも。こんにちは」

 

 アリエルは、少しおどおどとしながら、必要も無い挨拶を彼らにした。

 

「なあ。オレはお前を信頼している。そりゃあ、ここ1年の間、ほとんど毎日、荷物運びを頼んで

いる事からもはっきりと分かるだろう?」

 

「あっ、はい」

 

 アリエルにとっては意外な言葉だった。しかしそれにはどうも裏がある。それは彼女にとって

も理解できた。

 

「だけどな。1年も働いていれば、そりゃあ、この国の奴らならば当然さ。手を抜きたくなってき

ちまう。例えば、おかしな奴らに付けられたりしてな?」

 

 そう言って男は、アリエルに近づき、首の後ろ側を掴んできた。それもかなり強い力でだ。

 

「い、痛!な、何を?」

 

 と、アリエルは思わず慌てて言った。しかし彼女を追い詰めるかのように、男が耳元で囁く。

 

「今日限りは許してやる、今日限りはな。だがな、お前がどんなものをいつも運んでいるかを知

ったら、もっと気をつけるようになるだろうぜ」

 

 そう言うなり、男はアリエルの首から手を離した。そして、いつも渡されているものと同じような

小包をアリエルへと渡す。

 

「いつもの所だ。よろしく頼むぜ。だけどな、今回は報酬ナシだ。分かるな?」

 

「え、ええ」

 

 そのように答えたアリエルは、相手の脅迫に対して、納得するしかなかった。

-6ページ-

 やれやれ、とんでもない事になってきちゃったな。

 

 そう思いながら、アリエルは男から預けられた小包を抱え、《ボルベルブイリ》の市街地を疾

走していた。

 

 街中にはすでに雨が降っていて、空の雲行きは怪しい。今日はどうやら雨になってしまうよう

だ。これは《ボルベルブイリ》特有の気候で、しょっちゅう雨が降ってきてしまう。しかしアリエル

は、例え雨が降ってもこの仕事を放棄するつもりはさらさら無かった。

 

 だが、あの男達が見せた態度は脅し。もしかしたら自分は、とんでもない事をしているのかも

しれないとアリエルは思い始めていた。

 

 そろそろ潮時かもしれない。せっかく友達に教えてもらったアルバイトだけれども、危険な事

が多すぎる。

 

 バイト代が高額なのは嬉しかったけれども、どんな上手い話にも裏があるものだ。アリエルは

そう自分に言い聞かせた。

 

 昨晩に、おかしな黒い高級車に襲われたのだって、自分から望んでした事じゃあない。ただ

向こうからいきなり襲ってきただけだというのに。

 

 やっぱり、危険なことに手を出すべきじゃあないのだろうか?

 

 そう思ってバイクを加速させるアリエル。ヘルメットや、ライダースジャケットに叩きつける雨

は、だんだんとその強さを増させてきていた。

 

 ヘルメット内のバイクに直結した便利な表示は、今日の天候は雨と表示されていた。ヘルメッ

ト内にも、『ジュール連邦』内を網羅するネットワークの情報は、受信されてきており、それはリ

アルタイムで更新される。

 

 同時にバイクの速度計やエンジンの回転数、電力残量や、詳細なデータまでも表示されてい

て、バイクに乗るために、ヘルメットは欠かすことが出来ないツールなのだ。

 

 そもそも、こんな高性能のバイクに乗れる高校生など、『ジュール連邦』にはアリエルくらいし

かいないかもしれない。

 

 雨はどんどん激しくアリエルへと叩きつけていた。今までも酷い雨に出会ったことはあったア

リエルだったが、今日は何か違う気がする。

 

 どんどん強くなってきているのだ。今では夕立と同じぐらいの勢いでアリエルへと雨はぶつか

ってきていた。

 

 これはちょっと、一休みしないといけないな、とアリエルは思う。ライダースジャケットはその素

材のお陰で防水性に優れていたけれども、あまり雨水に濡らすつもりは無かった。

 

 しかしバイクを止めたとき、アリエルは周囲を見回した。

 

 《ボルベルブイリ》の街の様子が様変わりしていたのだ。

 

 ここは、どこだろう? 見覚えの無い所へと彼女はやってきていたのだ。雨が激しく降ってい

るせいか、通りには人の姿がほとんど見られない。雨のせいで迷ってしまい、いつもとは違う場

所に来てしまったのか? アリエルは周囲を見回す。

 

 雨に打たれるまま、どこに駆け込んだら良いのだろうと周囲を見回すアリエル。すぐにヘルメ

ットの操作盤を操作して、ナビを起動させようとした。

 

 しかしその時、突然雨が濁流のようになって、アリエルへと襲い掛かってきた。

 

 いきなりアリエルへと襲い掛かってきた濁流のような雨。それはもはや雨と言うものではなく、

さながら津波のようなものだった。

 

 アリエルはどうすることもできず、その濁流に体を呑み込まれてしまい、バイクと共に、何メー

トルも道路を流された。

 

 一体、何が襲い掛かってきたのか。初め、アリエルは理解することが出来なかった。

 

 あまりに突然に、あまりに勢いのある水に襲い掛かられたのだ。

 

 アリエルは身を起こそうとしたが、突然、もの凄い圧力に襲い掛かられ、しかも溺れそうにさ

えなった。気絶しそうにさえなった体を起こし、周囲を探る。

 

 バイク。バイクはどこだろう。

 

 幸いな事に、バイクはアリエルのすぐ側にあった。頭がパニック状態になりながらも、とりあえ

ずアリエルは安心する。

 

 しかしバイクもびしょ濡れだったし、雨はどんどん彼女へと襲い掛かってきていた。路面にた

たきつける雨の音は、夕立ちと言えるものではない、もっと激しい何か、だった。

 

 こんな激しい雨に遭遇したことの無いアリエルは、かなり慌てていた。大雪は降る事はあって

も、雨はそんなに降らないこの街に住むアリエルは、半ばパニックに襲われる。

 

 早くどこかの建物に避難しなくてはならない。しかしそんな彼女を追い討ちするかのように、

再び、濁流のような水の流れが襲い掛かってきたのだ。

 

 その濁流へと背中を向け、襲い掛かってくる水を防ごうとするアリエル。しっかりと倒れたバイ

クのハンドルを握り、衝撃に備える。

 

 道路をまるで流れの早い川のように流れてきた濁流は、再び彼女へと襲い掛かってきてい

た。

 

 ただただ身でその濁流を受けるしかない。体を丸めてしっかりとバイクのハンドルを握ってい

たアリエルだったが、再び濁流によって体を流されてしまっていた。

 

 今度は、意識を失いそうになる事は無かったが、路面へと投げ出されていた。まるで石つぶ

てか何かのように彼女の体へと降り注ぐ雨。

 

 バイクのハンドルを握ったまま路面に倒れていたアリエルは、素早く身を起こした。

 

「何なの!何なの!これは一体!」

 

 ヘルメットをしたままのアリエルの声はくぐもっていて、さらに彼女のパニック状態になったか

のような声は雨音によってかき消されていた。

 

 この雨は、明らかに正常な雨ではない。何かがおかしい。そうだ。こんな雨、この《ボルベル

ブイリ》で今までに起こった事は無い。あまりに雨が激しすぎる。

 

 周囲を見回したアリエル。この通りには不思議なことに、アリエル一人しかいない。さっきの

濁流で、通りにいた者は皆流されていってしまったのだろうか? 立ち並ぶ建物も、突然の雨

に、雨戸を閉めてしまっている。

 

 周囲を見回し、状況を確認するような間もなく、再びアリエルに向って、濁流が迫ってきてい

た。

 

 この濁流が何故起きているのか、にわか雨だけで、果たしてこんなに激しい濁流が発生する

のか、それはアリエルには分からなかった。

 

 しかしながら、今度もまた同じように濁流に打たれるわけにはいかなかった。あの水に何度も

襲い掛かられるようなことがあったら、多分、その衝撃で自分は気を失ってしまうだろう。

 

 濁流から逃れるべく、アリエルは最速でバイクのエンジンを再び回転させ、建物の方へと逃

れようとした。直後、大きな音を立てて濁流が通りを呑み込んでいく。アリエルは、半分押し倒

されそうになりながら、建物の一つへと、バイクごと突入していった。

 

 どこかのアパートらしい。数度の濁流と、突然降り出した雨によって、建物内部に至るまでび

しょ濡れだった。

 

 アリエル自体も相当に濡れてしまっていた。ヘルメットを脱ぐと、その内部に至るまで、まるで

水中に潜ったかのように濡れているという事が分かる。

 

 しかし不思議だった。何でこんなに激しい雨が起こり、しかも濁流が自分に襲い掛かってきた

りしたのだろう。

 

 しかもこの濁流、まるで自分に対して襲い掛かってきたようだった。何かに操られたかのよう

にして…、

 

 と、アリエルは自分の背後、建物の内部から気配を感じ、素早く振り返った。

 

 そこには、真っ黒なレインコートを着た何者かが立っていた。フードを目深く被っている姿と、

黒いレインコートが相まって、まるで死神のような姿をした者。大柄な体格からして、男だろう。

 

 アリエルは思わず警戒した。

 

「だ、誰!」

 

 しかしレインコートの男は、

 

「大人しく気を失っていれば、痛い目に遭わずにすんだものを」

 

 と、恐ろしげな声を放ち、アリエルへと接近してくる。

 

 そしてアリエルに向って手をかざして来た。

 

 すると、男の背後から、どこからとも無く、通りでアリエルに向って襲い掛かってきたような濁

流が発生した。

 

 突然起こった濁流。それも建物の中で起こった濁流だった。一体何故、建物の中でこんな濁

流が起こるのかも分からない。

 

 アリエルはどうする事もできないまま、その濁流に襲い掛かられるがまま、バイクから振り落

とされた上に、建物から飛び出し、路面へと投げ出された。

 

 彼女は悲鳴を上げていたが、それすらも、激しい豪雨によってかき消されてしまう。

 

 建物の中から、まるで溢れ出すように出てきた濁流が彼女を飲み込んだ。外の通りはまるで

川のように水で溢れ、更にそこへと豪雨が降り注いでくる。

 

 多量の水はすぐに下水に引いていく事は無く、しばらく通りを川のようにして留まる。

 

 アリエルは、そんな水の中へと沈んでいたが、すぐに上体を起こして激しく咳き込んだ。

 

「何、一体、何で、こんな」

 

 彼女は感じていた。体が、鞭で叩かれたかのように痛い。もの凄い水圧が、彼女の体に叩き

付けられてきていたのだ。無理も無い。

 

 だが目の前に迫って来る、黒いレインコートの男は、再び濁流をけしかけてきそうだった。

 

 大柄なその男は、アリエルを見下ろし、まるで死神のようにそこへと立ちはだかっている。

 

「あなたは、一体、誰?誰よッ!」

 

 アリエルは叫んだが、相手の男にそれは聞えたのだろうか? 男の方は、再び、アリエルの

方へと手をかざし、何かをけしかけて来ようとしていた。

 

 何故、この男が、濁流をアリエルへとけしかけられのか? それもまるで自分の体の一部とし

て、水を思いのままに操っているようにも彼女には見えた。

 

 そもそもアリエルには、自分が襲われる身の覚えも無かった。

 

 そうだ。もしかしたら、バイクに積んだままの、あの荷物が原因なのか。

 

 もしかしたら、あれが原因で私は襲われているのではないのだろうか?

 

「あなたの望みは、一体、何なのよッ!」

 

 アリエルは叫ぶ。あんな荷物なんてさっさとあげるから、この死神のような男には、この場か

ら消えて欲しかった。

 

 濁流に襲い掛かられるのは、想像以上に辛い事だった。一瞬、大波に呑み込まれていくか

のように溺れかかるし、何よりその圧力は、体を何メートルも背後へと押し流すほどなのだか

ら。

 

 だが、男の方は何も答えるようなことはせず、アリエルの方へと近付いてくるではないか。

 

 再び、アリエルの方へと手をかざしてくる。

 

 その時、アリエルは、この男が、どうして濁流を操れるのか、目の当たりにすることになった。

 

 空から降り注いでくる雨。それが、この男の背後で、まるで意志を持っているかのように一つ

へと固まっていく。それは蠢きながら、まるで、水道に流す水が、排水溝に流れる直前、一箇

所へと渦を巻いて集中していくかのように。男の背後で、大きな質量を生み出していたのだ。

 

 男は、それをアリエルへと向けてけしかけて来ようとする。調教師が飼いならした動物をけし

かけるかのような仕草で、水はアリエルの方へと濁流となって襲い掛かろうとする。

 

 何故、この男は、こうやって自分を痛めつけようとしているのか、アリエルには理解できなか

った。もしかしたら、自分を殺そうとしているのだろうか。そうも考えた。

 

 しかし、本気で殺そうとするならば、こんな風に雨水をけしかけてくるような真似をするだろう

か。

 

 そう。もっと直接的な方法を使って、自分を追い詰めていくはずだ。

 

 この男は目的があって、こうやって水を使って自分を追い詰めてきているに違いない。

 

 じゃあその目的は何なのだ?

 

 目の前に水が迫って来ている。おそらく、これをまともに受けるような事をしたら、気を失って

しまうかもしれない。濁流に押し流されて、反対側の通りに体をぶつけて大怪我を負うかもしれ

ない。

 

 だからアリエルは、逆にその濁流へと飛び込んで行った。

 

 目の前の男の姿が揺らぐ。その男は、濁流の向こう側にいる。もし、このまま気絶して、連れ

去られたり、大怪我を負ったりしたくなければ、目の前の男を倒すしかなかった。

 

 アリエルは濁流に正面から飛び込む。しかし、ただ飛び込んだのではない。両腕を目の前に

翳して、まるで自分の体をロケットのような姿勢にして飛び込ませたのだ。

 

 アリエルの目の前で、猛烈な勢いで迫ってくる濁流。それは彼女の上での前で、ぱっくりと2

分された。

 

 アリエルの体によって、濁流は2分される形となって、彼女の両脇を通過して行く。アリエルは

濁流の激しい勢いから、高い飛び込みのように脱出するのだった。

 

「ほう、なるほどな。お前」

 

 黒いフードを被った男がそのように呟いてくる。アリエルのすぐ側に立ったその男は、異様な

までの存在感を放っていた。

 

 彼が見下ろすアリエルは、その両腕から奇妙な物体を出していた。腕から腕の方向に突き出

すような形として、左右の腕それぞれに1枚のブレードが突き出していた。

 

 それは金属のような輝きを放ち、彼女の着ているライダースジャケットを突き破って、彼女自

身の腕と一体化していた。

説明
■前作『虚界の叙事詩』と世界を同じにしていながら、登場人物は全く新しいものとなっている、新しい物語です。
■この『レッド・メモリアル』では西側の国と、東側の国からそれぞれ展開していくという形になります。
■今回は東側の国の高校生、アリエルを取り巻く物語が展開します。

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オリジナル SF アクション レッド・メモリアル 

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