雨とゲームとアルコール |
「あれっ、秀吉、まだ残ってたの?」
教室へ戻った僕を迎えてくれたのは、クラスメイトであり、友達でもある木下秀吉の姿だった。
「明久か。うむ、お主にちと頼みがあっての。待っておったのじゃ」
「そっか、じゃあ随分と待たせちゃったね」
観察処分者として首に縄付けられている僕は、今日もいつものように先生からの呼び出しを受けて、雑用の手伝いをさせられていたのだった。教室には西日が差し始め、残っているのも今や秀吉ひとりだけだ。
「構わぬよ。こちらの都合で待たせてもらったのじゃからな」
そう言って、やわらかく微笑む秀吉。そのかんばせは、僕と同じ男だとは思えないほど整って可愛らしく、見ているだけで、先生に酷使された体の疲労も吹き飛んでしまうようだった。
「明久。なにをじっとワシの顔を見ておるのじゃ?」
秀吉が、不思議そうにまばたきを繰り返す。
「いや、なんでもないよ。とりあえず、歩きながら話そうか」
「そうじゃの。下校時刻も差し迫っておることじゃし」
教室の鍵を閉め、職員室に返却してから、僕と秀吉は、連れだって校舎を出た。
外は思ったよりも暗く、見上げてみれば、沈みゆく夕日を追い掛けるようにして、灰色の分厚い雲が広がっていた。いかにも降ってきそうな雲行きだけど、この空模様なら、家に帰り着くくらいまでは降り出さないだろう。
「それで秀吉、頼みってのは?」
僕と並んで歩きつつ、一緒になって空を見上げていた秀吉が、思い出したというように僕を見る。
「明久。お主、ゲームに詳しいじゃろう?」
「えっ、ゲーム?」
秀吉の口からそんな単語が出てくるなんて意外だ。
彼は今時の若者にしては珍しく、ハイテク機器の類には、まったくと言っていいほど関心を示さない。ゲーム機も例外ではないのである。
「うむ。実は今度の演目で、ゲームが好きな人物を演じることになっての」
なるほど、そういう理由か。
演劇の練習へ打ち込むあまりに成績を大きく下げてしまっている秀吉のことだ、普段は興味のない事柄であっても、演じる上で必要とあれば、調べずにいられないのだろう。
「それで僕の出番というわけだね」
「そういうことじゃ。頼めるかのう?」
「それはもちろん構わないけど、でも雄二やムッツリーニもそれなりに詳しいよ?」
僕は先生に捕まってしまったので、そのとき雄二に先に帰っていいと言っておいたのだ。雄二なら、そのことを秀吉やムッツリーニにも伝えてくれただろう。なら、そのふたりに教えを請えば、わざわざ僕を待たなくてもよかったはずなのだ。にもかかわらず、秀吉は僕を待ってくれていた。これはつまり、雄二やムッツリーニではなく、僕を選ぶ理由があったということに他ならない。その理由が何なのか、僕は瞬時に理解した。秀吉の、僕に対する好意のアピールに違いない!
「そうか、そうだったんだね秀吉」
「なんじゃ明久、なぜわしの手を握るのじゃ?」
困惑したように眉根を寄せて僕を見る秀吉。どうやら違ったようだ。
「ごめん、なんでもないよ」
「そうか、ならいいのじゃが。……ムッツリーニは何やら忙しいらしくてな。明久が連れて行かれたあと、すぐに帰ってしまったのじゃ」
ムッツリーニが忙しい? ああ、そういえば、最近注文が多くなってきて、さばくのが大変だって言っていた気がする。手伝おうかって提案してみたら、「…………お得意様に手伝わせるなんて、プライドが許さない」なんて言いつつ、ニヒルに微笑んでいたっけ。かといって、プロ意識の高い彼のこと、納品日を遅らせるような真似もしないだろう。ならばそのために、今日は帰宅を急いだというわけか。
「でも、じゃあ雄二は? 今日は用事あるとか、特に言ってなかったけど」
「雄二は、その、霧島にな……」
「そうか。霧島さん、か……」
その一言で、僕はすべてを察した。
察してしまった。
雄二の幼馴染みで、彼の婚約者でもある霧島翔子さん。雄二をものにするためになら、彼女はどんな手でも迷わず使う。たとえ暴力でも。
判まで押した婚姻届が、彼女の家に厳重に保管してあったりもする。雄二が十八歳の誕生日を迎えると同時に、恐らくあれは提出されるのだろう。
雄二。キミという友達がいたことを、僕らは永久に忘れないよ。
「島田や姫路は、ゲームには詳しくないようじゃしのう」
たしかに、あのふたりのゲームの知識は、秀吉とも大差ないだろう。
「それで僕に、白羽の矢が立てられたというわけだね」
「その通りじゃ。それにしても明久、そんな難しい言葉をよく知っておったのう」
「僕はそこまでバカじゃないよ……」
「ああっ、すまぬ、そうではないのじゃ! 明久の口から耳慣れぬ言葉が出てきたゆえ、つい口をすべらせてしまったのじゃ!」
「つまり本音ってことじゃないか!」
悪意のないのがわかる分、余計に胸に突き刺さるよ!
「まあ、そんなことはどうでもいいとしてじゃな」
どうでもいいって言われた。
「付き合ってもらうのが明久で、結果的にはよかったのかもしれんのう」
付き合うのが僕でよかった? どうしてだろう?
はっ、そうか! やっぱり秀吉は、僕に好意を寄せているんだ!
さりげなく、『付き合う』なんて言っているし!
「やっぱりそうだったんだね、秀吉。安心してよ、僕も同じ気持ちだから」
「なにをニヤニヤしておるのじゃ、明久。いささか気持ち悪いぞ」
訝しむような視線と共に、秀吉が言う。その表情にはあまやかさのかけらもない。やっぱり違ったようだ。
「ごめん、なんでもないよ。それより、僕でよかったっていうのは?」
「ん? ああ、ワシらのなかで、明久が一番ゲームに詳しいじゃろう。なにせ何度没収されても学校へゲーム機を持ってくるくらいじゃしな」
「ふふん、大丈夫さ。最近はちゃんと警戒してるから、そう簡単に没収されたりはしないよ」
「持ってくるのをやめるという選択肢はないのじゃな……まあともかく」
呆れ顔から一転、真面目な表情に切り替わる。
「一番詳しいお主からなら、一番適切な知識を授けてもらえるじゃろうからな」
そして秀吉は、たおやかに微笑んだ。男子の制服を着ているにもかかわらず、彼の笑顔は女性のそれにしか見えなくて、僕は思わずドキッとしてしまう。視界が狭まって、秀吉の微笑み以外のものが姿を消していく。「目を奪われる」とは、きっとこういうことを言うのだろう。僕は激しく鼓動する胸元を押さえながら、無理矢理引きはがすようにして前を向いた。
「そ、それで、どうしようか。ゲーム屋にでも寄ってみる?」
「いや、ゲーム機は持っておるのじゃ。先日の持ち物検査で没収されてしもうたが、近日中に返ってくるはずじゃ」
「そういえばそうだったね」
新学期早々の抜き打ち持ち物検査によって、僕たち生徒は大きな痛手を強いられることとなった。秀吉もまた、その被害者のひとりだったのだ。
「じゃあ今日は、僕の持ってるゲーム機でも見せようか」
「そうじゃの。そうしてもらえると助かる」
「了解。それじゃ、帰り着くまでにゲーム業界の現在について、ざっと説明しておこうかな」
「お、おお。なにやら専門的な話になってきたのう。お手柔らかに頼むぞい」
「任せてよ。ライトゲーマー相手にコアな話題なんて持ち出さないからさ。じゃあまず、最近のゲーム業界では──」
詳しくない人でも理解しやすいように、言葉を選びつつ話す。それを秀吉は、真面目な表情で、時折相槌を打ちながら聞いてくれる。これだけ真剣に聞いてもらえると、こちらとしても話し甲斐があるなあ。なんて思っていると、頬になにかが触れる感覚があった。
「どうしたのじゃ、明久?」
突然黙った僕に、不思議そうな表情をよこす秀吉。
「えっと、今なにか……あ、雨か」
考えるまでもなく、頬に触れたものの正体は判明した。見上げてみれば、灰色の雲が空一面を覆っていて、雨が降り出し始めていたのだ。
「あちゃー、間に合わなかったか。どうする秀吉、走る?」
「そうじゃな。本降りになる前に、走るとしようかの」
「了解!」
言うと同時に僕らは駆けだした。
息を切らせながら、マンションのロビーへ駆け込む。
「はあっ、はあっ、こんなに急に降り出すなんて思ってなかったよ」
「ふうっ、存外に濡れてしもうたのう」
雨足は思ったよりも強く、僕も秀吉も、頭から靴の中までびしょ濡れになってしまった。濡れた制服や髪を気にしながら、僕の家へと向かう。ポケットをまさぐるのももどかしく、鍵を開けて扉を引いた。
「よかった、姉さんはいないみたいだ」
玄関を見て、姉さんの不在を確認する。
「なんじゃ、姉君がいると困ることでもあるのか?」
「そりゃ困るさ。だって女の子を連れ込んだりしようものなら、あの姉さんがただで済ませてくれるわけがないから」
体罰なら我慢のしようもあるけど、社会的に殺されるのは耐えられない。
「待つのじゃ明久、ワシは男じゃぞ! いったい何度言ったらわかってくれるのじゃ!」
両の手を握り締めて力強く訴えてくる秀吉。普段の悠然とした表情もいいけど、こうやって必死になっている姿も可愛いなあ。
「なにをニヤニヤ笑っておるのじゃ! さてはお主、ワシの話を聞いておらぬな!?」
「大丈夫だよ秀吉。秀吉の可愛さは、ちゃんとよくわかっているからさ」
「全然わかっておらぬではないかー!!」
「そんなことよりほら、いつまでもこんな格好をしてたら風邪ひいちゃうよ」
「ぐぬぬ、口惜しいが、今は濡れた体を何とかする方が先決じゃな」
秀吉は演劇部員だから、風邪をひいて喉をやられてしまうと部活動に支障が出る。のみならず、Fクラスのみんなが、いや二年生の男子全員、いやいや文月学園の全男子生徒が、秀吉の容態を案じて勉強が手につかなくなってしまう。もちろん僕も。
見た目に反して僕や雄二並に頑丈な体をしているとはいえ、用心するに越したことはないだろう。
濡れた靴下を玄関で脱ぎ捨てた僕らは、居間を通って浴室へ向かう。もともと家族全員で住む予定だったので、僕の家はふたりで住むにも随分広い。こんな広い部屋に、少し前までひとりで住んでいたのだから、我ながら贅沢な話だと思う。
なんてことを思い返しつつ、浴室の手前にある脱衣所に着く。備え付けの棚を探って、中にある物を取り出した。
「タオルタオル……っと、ほい秀吉」
「かたじけない。む、明久は濡れた体を拭かぬのか?」
「そんなことはないけど、ここで一緒にってわけにもいかないから、僕はちょっと席を外すよ」
「言いたいことは山ほどあるが、まあよい。すまぬが明久、ついでに着替えを用意してはもらえんじゃろうか」
「ああ、そうだね。服も水浸しだし、いっそ着替えてしまった方がいいかな。ちょっと待ってて」
秀吉の頼みを受けて、頭を拭きつつ自室を目指す。と。
「姉さんの服を借りた方がいいのかな?」
「明久! ワシはお主の服の方がありがたいぞ!」
脱衣所の方から即座に秀吉の声が響いてくる。ぼそっと一言つぶやいただけなのに、よく聞こえたなあ。
自室のタンスをあさって、白いシャツとベージュの綿パンを取り出す。何の特徴もない着合わせだけど、秀吉はスタイルがいいから、これでも映えるくらいだろう。ついでに僕も、手早く着替えを済ませておく。
タオルを手ぬぐいのように首にかけ、着替えを持って脱衣所へ戻る。そこでは上になにも着ていない秀吉が、タオルで体をぬぐっていた。
「ちょっと秀吉、なんて格好してるのさ!」
仲の良い友達であるとはいえ、男の目の前で素肌をさらしてしまうなんて、あまりにも危機感に欠けている。正直に言えば僕も見ていたいけど、でもこういうことはきちんとしておかないと。
「突っ込まぬぞ、ワシは絶対に突っ込まぬからな」
水滴をまとった白くやわらかそうな肌を隠そうともせず、秀吉がやや不機嫌そうに言う。眉を下げた上目遣いのその表情は、彼にしては珍しいものであり、いつまでも見ていたい気分になる。けれど、言うべきことはちゃんと言っておかなければ。ええと──
「そりゃ突っ込むのは、どちらかといえば僕の役目だろうけど」
「なんてことを言うのじゃ明久! お主はワシが受けであるとでも言いたいのか!?」
どうやら言葉の選択を間違えたみたいだ。
「えっ、ということは、秀吉が、攻めるの?」
秀吉が、僕を?
想像してみる。僕を攻めている秀吉の姿を。
普段可愛らしくておとなしい秀吉が、あんな物を装備して、こんなことやそんなことをするというのか。
「それはさすがに、いきなりレベルが高すぎると思うんだ……」
「明久。言っておくがお主の今している想像は、ワシに対してものすごく失礼であるうえに、思いっきり間違っておるからな」
それはそうだ。大切な友人を性的な想像に使ってしまうなんて、失礼以外の何物でもない。人として間違っていると言われても仕方がないだろう。
「そうだよね。ごめん秀吉、今度からは布団の中でだけにしておくよ」
「もう突っ込まぬぞ、絶対じゃぞ……」
半目になって何事かをつぶやく秀吉。僕はなにか気に障るようなことを言ってしまったのだろうか。
「ともかく、はいこれ。サイズは多分、大丈夫だとは思うけど」
「おお、わざわざすまぬ。助かるわい」
タオルを片手に、もう片方の手で服を受け取る秀吉。上半身は依然裸のままだから、目のやり場にとても困る。
「それじゃ、僕は居間にいるから」
「うむ。あと、例の物をよろしく頼むぞい」
例の物?
ああ、ゲーム機か。雨に濡れたりとかいろいろあったせいで、秀吉を連れてきた本来の目的を忘れてしまうところだった。
「任せてよ。じゃ、用意してくるね」
そう言って、脱衣所を後にした。そのまま自分の部屋へ向かおうとして、ふと喉の渇きを覚えた。そういえば、ここまで全力疾走してきたんだっけ。
ひとまず台所へ足を向ける。今月は水道代を払うことができたから、水なら問題なく出せるけど、お客さんである秀吉に対しては、もうちょっとましなものを出してあげたいところだ。僕は冷蔵庫の扉を引いて、中を確認してみる。姉さんのおかげでまともな食材も随分増えたけど、飲み物に関してはどうだろうか。
「牛乳……と、あとはオレンジジュースか」
案の定と言うべきか、たいした物は置かれていない。とはいえ、少し前まで冷蔵庫の中には消臭剤しか入っておらず、冷凍庫には霜がついているだけだったのだ。水を止められた時期がたびたびあったので、氷の作り置きすらないという有様だったのである。それを考えれば、いくらかの食材があって、飲み物が入っている現状は、天国だとも言えるだろう。
「秀吉ぃ、オレンジジュースでいいかなー?」
「ああ、構わんぞーい」
脱衣所で着替えている秀吉に呼び掛け、了承を得る。僕はコップに水を汲んで、それぞれを左右の手に持って自室へ向かう。それにしてもこのオレンジジュース、どこかで見たような気がするなあ。
ジュースの缶と水のコップをテーブルに置いて、さっそく棚をあさりにかかる。レクチャーするゲーム機については目星をつけてあるので、あとは実機を使って講習するだけだ。ソフトは、ライトユーザー向けのわかりやすい物がいいだろう。
ゲーム機とソフトを引っぱり出して、テーブルの上に並べたところで秀吉がやってきた。
「すまんのう明久、服まで借りてしもうて。しかしおかげで人心地つけたわい」
「どういたしまして。ジュースはこれね」
「ありがたくいただこう。服はちゃんと洗って返すでの」
「そのままでも別に構わないのに。むしろその方がありがたいくらいだよ」
「……ちゃんと、念入りに、洗って返すぞい」
残念だ。
「それより明久は、水でよいのか?」
缶のプルタブに指をかけながら、秀吉が問うてくる。
「水と塩だけの生活が続いたせいか、これが一番馴染むようになっちゃって。ほかの飲み物があっても、つい水を選んじゃうんだよね」
「苦労しておるのう……」
憐れむように言われてしまう。どうやら心配させてしまったようだ。砂糖も食べてるから問題はないって、ちゃんと伝えるべきだったかな。などと思いつつ、コップの水をぐいっとあおった。一息に半分ほどを流し込んで、コップを置く。
「ふう、意外と喉が渇いてたみたい」
「ぷはあ、じゃのう」
一拍置いて、再び缶を傾ける秀吉を目で追う。白く、すっと通った首筋には、余計な出っぱりなど影も形もなく、本当に女の子の体にしか見えない。これで僕と同じ男だというのだから、神さまの気まぐれとデザインセンスには恐れ入らずにいられない。
「ふうぅ、このオレンジジュース、少し変わった味じゃがうまいのう」
着替えて体温が上がったせいだろうか、頬を若干赤くした秀吉が言う。
「どんな味なの?」
「うむ、少しばかり苦いが、この苦みが癖になる感じじゃ」
えっ、苦い? オレンジジュースなのに?
もしかして安物だったんだろうか。だとしたら悪いことをしてしまったけれど、当の秀吉はおいしいと喜んでくれているから、これはこれでよかったのかも。
「なんだか少し、暑いのう」
「えっ、そう?」
エアコンは入れていないけど、気温は高くも低くもない。雨が降っているせいで湿度こそ高くなっているけれど、暑いというほどには感じなかった。
「うむ、暑い。どれ、脱ぐとしようかの」
缶をテーブルに置いた秀吉が、シャツのボタンにおもむろに手をかけ、上から順に外していく。
「ちょっ、なにやってんの秀吉!」
慌てて止めにかかるものの、服の合わせ目を僕から遠ざけるようにして避けられてしまった。
「暑いから脱ぐ。なにかおかしなことがあるかの?」
「大ありだよ! 秀吉に脱がれたら、僕が困っちゃうよ!」
むむ、と秀吉の表情が、明らかに不機嫌の色へと染まった。数多の修羅場をくぐり抜けてきた僕の直感が、この状況はまずいと警告を発し始める。
秀吉が立ち上がろうとして、ふらついた。反射的に伸ばしかけた僕の手を制して、おぼつかない足取りで歩み寄ってくる。
「明久。お主とワシは、同じ男じゃろう」
どすん、と膝をついて、僕の目の前に、秀吉が。
思わずびっくりして身を仰け反らせ、後ろに手を突こうとして、しそこなった。
「あ痛っ!」
後頭部と背中をしたたかに打って悶絶する。だがこの程度、僕にとっては蚊に刺されたほどにも感じない。瞬時に回復し、目を開く。するとそこには、僕を見下ろす秀吉の顔が、意外なほど近くにあった。
すっと左、そして右。早くも遅くもなく、路傍の小石を拾うかのような何気なさで、僕の顔の横に手が突かれる。
「秀、吉?」
「のう、明久。ワシとお主は、同じ男であるはずじゃ。違うか」
普段の秀吉とは一線を画す、圧倒的とも言える気迫に、僕はただ見返すことしかできない。
「なのにお主ときたら、ワシをまるで女扱い。そりゃあ、自分の見た目が男らしさに欠けることくらい、ワシにだってわかっておる。しかしじゃな、こうも何度も女扱いされては、ワシの男としての矜持は傷付きまくりなのじゃ」
「や、だって秀吉は──」
「お主の答えは聞いておらーん!!」
想像を絶する大喝に、耳がきーんとなる。さすがは演劇部のホープ、すさまじいまでの声量だ。思わず顔をしかめて視線をそむけた先に、テーブル上のジュースの缶があった。缶のラベルには、こう書かれている。『オトナのオレンジジュース』と。
「ああっ! あれはたしか、前に姫路さんが間違って飲んでたお酒じゃないか!」
道理で見覚えがあると思ったよ! ちくしょう姉さんめ、なんて物を冷蔵庫に置いているんだ。はっ、もしや、あれを使って僕を酔わせようなどと考えていたのでは……?
恐ろしい想像に行き当たり、身を震わせる僕だったが、それも長くは続かなかった。
「なにをわけのわからぬことをごちゃごちゃと。いいから聞くのじゃ、明久。
なんじゃ、おかしな顔をして、聞いておるのかお主。ほれこっちを向かぬか。
なに、顔が近いから恥ずかしいじゃと?
たわけー! そんなこと言うなら事あるごとに女装させられるワシの方がよっぽど恥ずかしいわー!
ほれいいからこっち向け、大体じゃな、お主は男心というものがまるでわかっておらん。お主の女心のわからなさは右に出る者がないじゃろうが、よもや男心までわからぬとは思うてなかったわ。
なんじゃと? 男心はわかるつもりじゃと?
どの口が、どーのーくーちーが、それを言うのじゃ!」
「いひゃいいひゃい、くひひっはらないへー!」
口の形が変わってしまう!
どうやら秀吉は、姫路さんと一緒でお酒にとても弱いらしい。既にすっかりできあがってしまっている。何気にひどいことを言われているし、反論したいところではあったけれど、下手にすると倍のお説教が返ってきてしまうので、ここはおとなしく聞いているしかなさそうだ。
「聞いておるのか明久!」
「はっはいぃ! 聞いてます聞いてます!」
「返事は一回じゃ! 本当にお主ときたら、まったくもう」
「あっ、秀吉ちょっと待って、そこに体重かけないで」
「お主の答えは聞いておらんと言っておるじゃろう!」
「いやいや、いやいやいや、そうじゃなくて、そこは本当にだめなんだって」
「いいからこっち向け、ワシの目を見て話を──む、なんじゃこの硬いのは」
「あーっ! だからだめって言ったのにー!」
「お、お主まさか……」
「見ないで! そんな目で僕を見ないで!」
「さすがのワシも、これにはドン引きじゃぞ……」
「いやーっ!!」
両手で顔を隠す僕に向かって、呆れたような秀吉の声が降ってくる。だって仕方ないじゃない、男の子なんだもん!
もう僕、お婿にいけないよ……
「どうやらお主は、心の底からワシを女扱いしておるようじゃの」
ため息交じりに淡々と声を繋げる秀吉を、指の隙間から見上げる。夕闇に沈む部屋の中に、白いシャツの前をはだけ、僕に跨る秀吉の姿がある。頬は上気し息は荒く、瞳は潤んで熱っぽく僕を見下ろしている。その姿はなんというか、その、とてもエッチに見えた。
そんな秀吉の顔が、間近に迫ってくる。
「ちょっ、ちょっと!」
「いいから黙るのじゃ」
慌てる僕の唇に、指が押し当てられる。秀吉の、指が。
視線を正面へ向ければ、そこには鼻のぶつかりそうな距離に、秀吉の顔がある。何気なく吐かれた息が、僕の肌をすべって部屋の空気に溶け込んでいく。オレンジとアルコールの匂いがした。
知らず喉が鳴る。
「明久。顔が赤いぞ」
そりゃあそうだ。こんな近くにまで迫られて、赤くならない方がおかしい。
「心の臓も、随分と頑張っておるようじゃの」
言われて初めて気がついた。鼓動の強さも、早さもおかしいことに。考えれば当たり前、こんな状況で動悸が早くならないわけがない。でも、それを秀吉に指摘されたことが、とても恥ずかしく感じられた。
「目を閉じるな、明久」
無理だ。こんな状況、目を開けてなんていられない。
と、唇に当てられた指がふっと離れ、あれっと思う間もなく頬を撫でた。おぼえず息が漏れ、小さく悲鳴のような声をあげると共に、目を見開いてしまう。そこには。
「そのまま開いておれ」
秀吉の、瞳が。
捕らわれる。
拒絶できない。
魅入られたかのように、ただ見返すばかり。
「お主があくまでワシを女扱いするというのなら──」
ささやくように、語りかけるように。
「──いいじゃろう、それに応えてやろうではないか」
諭すようにそう言って、秀吉は僕のおとがいに指をかけた。
「ただいま戻りました。アキくん、帰ってきてますね」
体が跳ねるとは、こういうことを言うのだろう。誇張でも何でもなく、10cmばかりは浮いたように思う。
「ねっ、ねねねね姉さん!?」
「はい、姉さんです。アキくん、雨に降られて大変だったのはこの靴下を見ればわかりますが、玄関に脱ぎ散らかしたままというのは感心しませんね」
「ちょっと待って、それには事情が、というかしばらくそっちにいてくれないかな!」
こんな状態を姉さんに見られたら、僕は明日の朝日を見られない!
「アキくん? お友達が来ているのですか?」
「いやっ、誰も来てな秀吉ぃ!?」
この場にいたって僕に抱きついてくる秀吉。なに、何なの、どういうことなの!?
そうかわかったぞ、さては秀吉、姉さんに僕を殺らせる気だな……!
「靴も一足多いですし、どなたか来ていらっしゃるのでしょう。いったい何を──」
居間に入ってきた姉さんは、目を丸くしていた。表情に乏しい姉さんにとって、それはかなり珍しいことだったけれど、そんなことを気にしている余裕は今の僕にはなかった。
姉さんは、見開いた目を僕に向け、秀吉に向け、もう一度僕に向けてから。
にっこりと、微笑んだ。春の訪れに蕾をほどく花のように、好ましく慈愛に満ちた微笑みだった。──その目が笑っていないことを除けば。
そして携帯電話を取り出して、どこかへと掛け始める。
「はい、怪我人です、救急車の手配をお願いします」
「待って姉さん、途中のステップを飛ばしすぎだと思うんだ」
そんなに酷く折檻するつもりなのか。
「アキくん、姉さんは悲しいです。不純異性交遊は禁止だとあれほど言っているのに、それを破って家に異性を……」
「だから待ってよ姉さん、これは別にそういうんじゃなくて」
「ってあら、よく見れば秀吉くんではありませんか」
そういえば、姉さんは秀吉が男であると、以前一目で見抜いたんだっけ。どうやら今も、彼を女の子扱いはしていないみたいだ。
「しかも、寝ていますね」
えっ、と思い秀吉を見ようとして、密着しすぎてできないことに気がついた。だが言われてみれば、たしかに気持ちのよさそうな寝息が聞こえている。そうか、上から覆い被さるようにして寝てしまったから、それで僕に抱きつくような姿勢になってしまったのか。
「こんなところでふたりして、なにをやっていたんですか?」
「それはその、そうだ、そこにあるお酒を秀吉に飲ませちゃってさ、それで酔っぱらっちゃって」
「ほほう、なるほど」
「それで、こんなことに」
「そうでしたか。それは大変でしたね」
「うん、大変だったんだ」
「……」
「……」
ダッ!(僕が秀吉の下から這い出して逃げようとする音)
バッ!(それを阻止した姉さんが流れるような所作で僕の左肘を極める音)
「いだだだだ!!」
「どうしましたアキくん、突然逃げ出そうとするなんて」
「こうなる気配がしたからですあだだだ!!」
「姉さんは悲しいです。アキくんが、お酒を使って同性を籠絡しようとするような外道であり変態だったなんて」
「違う違うんですただの間違いなんですぅ!」
「そうですね。そんなことは間違っていると姉さんも思います」
「そういう意味じゃねぇぇぇ!」
「アキくんにはぼっきり反省してもらう必要があるようですね」
「外す気だよね!? このまま外す気だよね!? ってあ゛ーっ!!」
もう何度目になるかもわからない悲鳴と破砕音が、マンション中に響き渡った。
◇
「そういうことなら、ちゃんと説明してくれればよかったんです」
「姉さんが聞く耳持ってくれなかったんじゃないか……」
事情の説明を終えた僕は、左肘をさすりつつ、恨みがましい目を姉さんに向けてやる。肘は先ほど姉さんにはめてもらったので、今は少し痛い程度で済んでいる。自分の肉体の常軌を逸した頑丈さに、こういうときばかりは感謝せざるを得ない。
秀吉は、床に寝かせたままというのも可哀想だったので、今はソファーの上に寝かせている。
「そもそも、アキくんがちゃんと確認してさえいれば、お酒を飲ませるようなことにはならなかったはずです」
「それは、たしかに……」
本人が望んだならともかく、そうじゃないのに飲ませて酔わせるなんて、褒められたことではない。確認不足を槍玉に挙げられても、返せる言葉はなかった。だから僕は、素直に謝ることにする。
「ごめん、姉さん」
「アキくん、違いますよ。謝るのなら、秀吉くんにです」
「そうか、そうだよね」
ソファーを見やる。穏やかな顔で寝息をたてる、大切な友人の姿。僕が彼にお酒を飲ませたせいで、とんだ騒ぎになってしまった。責任の大部分は僕にあるはずである。秀吉が起きたら、ちゃんと謝らないと。
「さて。では姉さんは、晩御飯のお買い物に行ってきます」
そう言って立ち上がる姉さん。
「えっ、買い物なら僕が」
「アキくん。秀吉くんが起きたときに、私とふたりきりにされていたら、どう感じると思いますか?」
「命の危険を感じると思う」
「ぶちますよ?」
「あ痛ぁ! 返事の前にもうぶってるじゃん!?」
頬を抑えながら涙目で訴える。
「まったく。アキくんは救いようのないバカですが、一応秀吉くんの同級生です。一方私は、アキくんの保護者ということになっています。知らずに飲んだ秀吉くんの非は大きなものではありませんが、飲酒して眠りこけたあと、目覚めたところに保護者がいたなら、気まずい思いをしてしまうでしょう」
「あ……」
「だから、アキくんはお留守番です。では行ってきます」
そのまますたすたと歩き去って、間を置かず玄関の扉が閉じられた。
そうか。姉さんは秀吉のために、わざわざ買い物を引き受けてくれたのか。そんなことにも気付かずに、僕は秀吉に気まずい思いをさせてしまうところだった。
「ありがとう、姉さん」
聞こえるはずはないけれど、それでも言わずにはいられなかった。帰ってきたら、今度はちゃんと、面と向かって言葉にしよう。
世界は黄昏に染まりつつあり、夜闇が部屋の中にまで入り込んでくる。でも、電気をつける気にはなれなくて、僕はソファーの横にもたれるようにして座り込み、秀吉が起きるのを、薄暗い中で待ち続けた。
静かだった。聞こえるのは、マンションの前を時折通る車の音くらい。それ以外は一切の音がなく、部屋は静寂の内にあった。
時間の流れる早さは変わらないはずなのに、今だけはゆるやかであるように感じられる、そんな不思議なひととき。
「ん……」
ほんの小さな声であっても、この静けさの中では聞き逃すことはない。
「起きた?」
「明久、か」
寝ぼけまなこの同級生へ視線を送る。秀吉は眠そうに、目を何度か瞬かせた。
「ここは、明久の家じゃな。ワシは眠っておったのか」
「うん」
「そうか、世話をかけたの」
「いいや、僕のせいだったからね」
「明久の、せい?」
「そうだよ。僕が秀吉にお酒を飲ませちゃって。だから今まで寝ちゃってたんだよ」
「そう、じゃったのか」
「もしかして、覚えてない?」
秀吉は、眉根を寄せて考え込むような表情を見せたあと、ふうっと息をついて、かぶりを振った。
「残念じゃが。まるで覚えておらん」
言うと同時に、体を起こす。
「うっ、いつつ……」
「秀吉っ、大丈夫!?」
顔をゆがめて頭を押さえる秀吉に、思わず近寄る。
「っつう、大丈夫じゃ。ちと頭が痛んでな」
二日酔いのときに起こるという頭痛だろうか。そうだとしたら、これも僕のせいだと言えるのだ。
「秀吉。僕はキミに謝らなきゃいけない」
「謝る? なにゆえに?」
「キミにお酒を飲ませたのが、僕だからだ」
「ははあ、もしやあのオレンジジュースか。妙に苦いと思っておったら、なるほど酒じゃったとはな」
得心がいったように首肯した。
「なに、ワシ自身も気付いておらなんだことじゃ。どうせ明久、お主も知らずに出しておったのじゃろう」
「うん。でも、そうだとしても、確認はできたはずなんだ。それを怠ってしまったから、秀吉をこんな目に遭わせてしまった。だから、謝らせてほしい」
「大袈裟じゃのう。誰ならぬワシが気にしておらぬというのに」
「それでも、だよ」
「やれやれ、こういうときのお主は退くことを知らぬな、本当に」
仕方がないというように、苦笑しながら嘆息する。
「うん。──秀吉、ごめん」
そう言って、頭を下げた。
その頭が、両頬を挟まれて、引き起こされる。秀吉の手によって。
「ワシは気にしておらぬと言った。お主も謝った。ゆえに、この件はこれにて仕舞いじゃ」
にいっと笑う。秀吉らしからぬ、悪戯っ子のような笑み。それに釣られて、僕まで笑ってしまう。
そうだ。この際だから、今ここで、僕の思いを全部伝えてしまうのもいいかもしれない。秀吉とふたりきりになれる機会なんて滅多にないし、こうやって真面目な話のできる雰囲気となれば、尚更に貴重だ。
さっき、秀吉が酔っているとき言われたことに、反論したいという気持ちもある。
僕は決意を固めて、秀吉に向き直った。腰を上げて膝立ちになると、ソファーの上に半身を横たえた秀吉と、目線の高さがちょうど重なる。
「秀吉、聞いてくれ」
僕の頬を包んでいる秀吉の両手を取った。僕の気持ちが、少しでも強く伝わってほしいから。
「なっ、なんじゃ明久、急にどうした」
秀吉が、うろたえて身を引こうとする。けれど僕は、捕まえた手を離さない。握り締め、のみならず引き寄せて、迫る。
「秀吉。僕はキミが、好きなんだ」
手を握り、正面から目を見て、はっきりとそう言った。
「……はあっ!?」
「キミが女みたいだからとか、可愛らしい外見だからとかじゃなくて、僕は、秀吉が秀吉だから好きなんだ」
「待つのじゃ明久、お主、ひょっとして酔っておるのか? とんでもないことを口にしておるぞ」
「いたってしらふだよ。秀吉が男か女かなんて、僕にとっては小さなことで、気にするようなことじゃないんだ」
「いやいや、そこは気にすべきじゃろう」
困惑したように秀吉が言い、それを振り切るように僕は首を振る。
「気にしないよ。だって、秀吉が何者であっても、僕の気持ちは変わらないんだから」
視線を送り続ける。秀吉の瞳には戸惑いの色が見えるけど、でも視線を外すことはしない。言葉だけじゃなく、態度からも僕の本気を感じ取ってほしいから。
「そうは言うがの、明久。お主、姫路や島田はどうするつもりなのじゃ」
「姫路さんや美波は関係ないよ。今は、僕と秀吉の話をしているんだ」
僕がそう言うと、秀吉は目を丸くした。
「驚いた。よもやお主がそこまで言うとはのう。むむむ、これはワシも真剣にならざるを得ないのじゃろうか。いやしかし、そもそもワシは男であってじゃな……」
秀吉が、戸惑いを越えて葛藤しているような表情を見せる。無理もないだろう。突然改まってこんなことを言われて、混乱するなと言う方が無茶なのだ。
でも僕は、言ったことを後悔してはいなかった。この気持ちは、きちんと伝えるべきだと思っていたから。
「秀吉。受け入れてもらえるまで何度でも言うよ。僕にとって秀吉は、」
「わわっ、やめいっ! そのように面はゆいことを何度も──」
「大切な、友達なんだから!」
「言うものでは……ってなんじゃと?」
鳩が豆鉄砲を喰らったような表情の秀吉が少し気になったけど、僕はそのまま言葉を続ける。
「性別なんて関係ないんだ。男とか、女とか、そんなのは小さなことなんだ。僕は秀吉が秀吉だからこそ大好きで、大切な友達だと思っているんだ」
秀吉は、驚いた表情のまま、瞬きもせずに僕の言葉へ耳を傾けてくれている。真剣に聞いてくれているんだと思って、僕は嬉しくなった。
「僕が秀吉を、女の子扱いしているように見えることもあるかもしれない。でも、そうじゃないんだ。僕が見ているのは、秀吉というひとりの友達であって、その可愛さとか、女の子らしさなんかじゃないんだ。このことだけは、秀吉にわかってほしくて」
これで、言いたいことはすべて言った。あとは、秀吉の言葉を待つだけだ。
秀吉は、表情を驚きから苦々しいものへと、随分時間をかけて変えていった。おかしいな、僕はまたなにか、変な言い方をしてしまったのだろうか。
「……それは、ワシが男としての矜持やら、男心がどうのやらと言ったことへの反論かの?」
どうやらわかってくれたみたいだ。だから僕は、自信を持って頷いた。
「うん!」
すると秀吉は、盛大と言えるほどに大きなため息をついた。
「そんなことじゃろうと思っておったよ。やれやれ、姫路や島田の気持ちが嫌というほどよくわかったわい。明久のボークが、よもやこれほどまでとはのう」
秀吉が、疲れたような表情で再度ため息をつく。
どうしてここで、姫路さんや美波の名前が出てくるんだろう?
それにボークって、野球でピッチャーが思わせぶりな行動をしたときに取られる反則だったはずだけど、今の話にそれが関係していたのだろうか。
「ともあれ、これではっきりしたわい。明久は男。ワシも男。そうじゃな?」
「えっ、でも秀吉は──」
「そうじゃな?」
微笑みかけつつ返事を迫る秀吉が、なぜだか無性に恐ろしく感じられて、僕は思わず首を縦に振った。
なんだろう。秀吉、怒ってる?
「さて、随分と長居してしまったの。夕餉に遅れてしまうゆえ、そろそろ帰らせてもらうぞい」
「じゃあ、そこまで送るよ」
「大丈夫じゃというに。お主が心配するようなことなぞ起こりはせぬよ」
「そうかもしれないけど、でもやっぱり心配だからさ」
「はあ、仕方ないのう。ならば頼むとしようか」
「うん」
マンションを出ると、雨はすっかり上がっていた。
見上げてみれば、空には雨雲の名残がうっすらとあるばかりで、気の早い星たちが瞬きを始めている。道理で、雨が降っているにしては部屋の中が明るかったはずだ。
ひとり納得して、秀吉の家までの道程を行く。ふたり並んで歩きながら。
そういえば、気になることがあるんだった。せっかくだから、今聞いてみよう。
「秀吉、さっき話してたときに、男としての矜持とか、男心とかって言ってたけど」
「うん? それがどうかし、た……」
秀吉が、突然言葉を止めた。
「ええと、言ってたよね?」
秀吉は、酔っていたときの記憶をなくしていたはずだ。
でも、先ほど秀吉が言っていたのは、たしか酔っている間に放った言葉だったと思う。つまり、秀吉の記憶か、僕の記憶、どちらかに間違いがあるということになる。だから本人に聞いて、確認しておきたかったのだ。
「秀吉?」
「……いや、覚えがないのう」
「本当?」
「ほ、本当じゃ」
「本当の本当に?」
「くっ、本当の本当にじゃ!」
「そうか、じゃあやっぱり僕の勘違いだったんだね」
「そ、そうじゃろう。きっとそうに違いないわい」
演劇の台本一冊を一晩で完璧に覚えてしまう秀吉と、一夜漬けさえままならない僕とでは、どちらの記憶力に信頼がおけるかは、わざわざ比べるまでもない。だから僕は、秀吉の言葉を信じることにした。
「のう、明久。その、ワシが酔っている間にしたことなんじゃが」
「うん」
「他言はしないでくれ。それと、忘れてほしい」
どうやら秀吉は、酔った間の出来事を、恥ずかしいことだと思っているようだ。まあ、たしかにすごく恥ずかしいことではあったから、人に話すなというのはわかる。でも。
「忘れるというのは、ちょっと無理かな」
「なっ、なぜじゃ!」
秀吉が、眉を逆立てて迫ってくる。意外な迫力に押されて、僕は思わず後ずさった。
「いや、だってすごく強烈だったからさ。忘れようにも忘れられないというか、夢にまで出てきそうな勢いだよ」
僕がそう言うと、秀吉は顔をりんごのように赤らめた。やっぱり、とても恥ずかしいみたいだ。
「大丈夫だよ、秀吉。今日のことは、絶対誰にも言ったりしないから。僕の胸の中だけに仕舞っておくよ」
「それが一番困るのじゃがな……」
「えっ、何か言った?」
「いいや、なんにも。まあ、結果としてはこれでよかったのかもしれんの」
「どういう意味?」
「さてのう。この辺まででいいぞい、明久」
「あ、うん」
僕は立ち止まり、秀吉はそのまま歩いていく。
五歩ほどを行ってから、秀吉はこちらへ振り返った。
「明久。今日はありがとう。目的は果たせなんだが、なかなかに楽しかった」
「あっ、そうだった。ゲーム機のこと、結局ろくに教えてあげられなかったね。なんなら今度、雄二たちと一緒にでも──」
「明日じゃ」
「えっ?」
「明日また、お邪魔するぞい」
「そうなの?」
「だめか?」
「いや、そんなことはないよ。秀吉ならいつでも歓迎だよ」
「そうか、そいつは重畳じゃ。しかし──」
たたっと軽くステップを踏んで、僕の目の前に。思わず身を仰け反らせた僕の耳元を、秀吉の吐息がくすぐった。
「酔わせて助平な真似をされるのは勘弁じゃぞ」
言うなり身を翻して駆けていく。その刹那に垣間見えたのは、小悪魔みたいに色っぽい、秀吉の微笑み。
「ちょっ、あれはわざとじゃないんだってば!」
というかむしろ、してたのは秀吉の方だよ!
とはさすがに、住宅街の一角ということもあり、あの場の記憶が秀吉にないこともあって、言うのははばかられた。
だから僕は苦笑しつつ、秀吉の後ろ姿を見えなくなるまで見送るのだった。
<了>
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