Der Tag der O"ffnung |
世界は、しんと静まり返っていて、外気に直接触れている剥き出しの頬がちりちりと痛むくらいに澄み切っていた。
見上げれば、どんよりとした灰色の雲が立ちこめる中に、その分厚い雲の隙間からところどころ刺す光は無機質で動くもののない死んだ街を所々浮かび上がらせる。一部に霞がかかったようにぼんやりと、一部はそこだけを切り取って強調したかのようにくっきりと。灰色と、白。それ以外の色彩は地上には存在していない。灰色と白の隙間にある黄金に思える黄昏の光だけが、この世界に許された色彩だった。
それは特に美しい光景には見えなかったけれども、ちょっとした物音にすら警戒しなければならなくて空気は相変わらず緊張しすぎてぷっつり切れてしまう糸のように張詰めている。季節は確か夏のような気もするがそんな感覚などはとっくになくしていたし、目の前にはしんしんと白いものが降っている。音もなく降り積もるそれは触ったところで冷たくはないし剥き出しの肌に触れて溶ける事もない。ただ、白くて雪のように見えるからヨナはそれを雪だという。夏なのに雪が降るのはおかしいけれどきれいだ、とヨナは微笑みながら言った。俺もそう思う、と答えて小さな頭を撫でて温もりを確認した。
少なくともヨナはまだこうして雪を見てそれをきれいだと言うことができる、ということを確かめるために、少しばかり熱っぽい小さなその身体を、世界の全てから守るように、きつく腕の中に抱きしめた。
そうして、雪などと決して言えない、かつての名残などどこにもない、ただの白いさらさらとした塩――慈悲などひとつもない世界の意志を突きつけているそれが緩やかに振り続ける瓦礫の町を、どこに向かうわけでもなく、歩き続けていた。
娘の、ヨナの体温だけが、冷え切り静まり返る世界の中で、たったひとつの拠り所だった。
かつて日本という名のあった、今はその名の意味など殆どない、完膚なきまでに破壊し尽くされた大地の上、夥しい死体と瓦礫の上に作られたかりそめの薄汚れたスラム。そこが、俺たち親子のかけがえのない住まいだった。俺たちは貧しかった。誰もが分け隔てなく貧しくて、不満と無気力と絶望をありのままに垂れ流していた。
だから、世の中に無数に存在していた不幸の中では、ヨナが共に生きているという意味で俺はまだそこまで不幸ではなかったが貧しかった。糧を得るまっとうな手段などもろくになくて、それでもなんとかヨナだけは生延びさせねばならなかった。
ヨナは生まれつき病弱だった。どんなに高価な薬を使おうにも、そもそも治る見込みなどはない。原因も、わからない。ヨナが生まれた時に告げられた無慈悲な一言は、この子供は命を細く永らえさせるのも困難、ということだけ。原因も正体もわからない。ただ、白塩化症候群とはまた別の、もっと現実的でわかりやすい不幸だった。妻は、ヨナを産んで直ぐに死んだ。ヨナを産んだ直後に、白塩化症候群が発生して、全身が真っ白になって、妻は死んだ。そういう要素がヨナの病弱さの原因かどうかは、わからずじまいだった―ヨナを取り上げた医師もまた、既に白くさらさらとしたものになり空に舞った。
実際ヨナは病がちで、こうしてこの年まで生延びているだけで或いは幸福なのかもしれないが、俺にはそうは思えなかった。
ただでさえ正体のわからない病に怯えなければならない俺たちの世界で、さらにもう一つの不幸を背負ってしまった娘。ヨナは生まれてから一度も贅沢などしたことなどはないが、娘は自分を不幸などとは一度も言わない子だった。いつでも笑顔だった。他の子供たちのように駆け回る事もできなくて、長い時間歩く事すらもままならない。少しでも無理をすれば咳き込んでしまい、苦しい思いをする。が、ヨナは決して不幸という顔はしなかった。
ある日、白い雪の紛い物――かつては人であったものが多く舞う鉛色の空が地面に重くのしかかるような日に、連中はやってきた。
人好きのするような物腰の中年女や、若い女性。ほぼ全員が女性で構成され、幾人かの気弱そうな青年が含まれたその集団は、曰くボランティア団体らしかった。何でも、身体が不自由だったり病気を持っていたりする人間を保護して回っているのだという。彼らの背後にはあるものの存在を疑うよりは、彼らの目的が俺には不可解だった。だが、ヨナの病を癒せるなどと、言う。その言葉だけが痛烈に俺の意識を揺さぶる。
俺の表情の変化を見て、その中年女は痛ましげな眼をヨナに向け、「大丈夫よ、お嬢さん」とやさしげに呟いて微笑んで、言葉を続けた。曰く、自分たちは国の出先機関であり、白塩化症候群の研究解明の傍ら、そこから得た知識でもって現存する病理の治療を目的とした医療ボランティアなのだと言う。そういうものがあったことは小耳に挟んでいたから、俺は頷いた。彼女は続けた。この区画は特に貧しい人間が多く、思うように治療を受けられない人間が多い。自分たちは少しでも、その為に役立ちたいのだと。強い眼差しで断言する彼女は、嘘をいっているようには見えなかった。娘は生まれつき病弱なのだ、と言うと、彼女はきっと治療方法はある、よしんば根本的な治療は無理でも、症状を和らげることはできるかもしれないと言った。
病弱な娘も、健康な身体になれる、苦しまないで済むようになる――その可能性を示唆された瞬間、俺の人生に始めて希望というものが垣間見えた。
こんな世界でも、希望という言葉が存在すると知った瞬間だった。
そして、その唯一の希望の前に、他の一切は無意味となった。
娘の病を治せる、などという。人並みに生活する事が、この不幸な娘に可能なのだという。
その連中の言葉をそのまま信じる理由はなかった、その人の心を安堵させるような笑みや物腰も少しは信じるに値するという判断には通じていたかもしれない、
あるいは、夢物語かもしれない。
だが、その夢物語が、具体的に、目の前に提示されて、可能性はあるのだ、と、示されて、しまえば。
俺は、突如訪れた、予想外の、抗いがたい希望に、縋った。
こんな世の中には奇跡や希望など存在しない事を、充分に知っていたが、それでも一度も不幸だなどといわず、健気に笑顔を絶やさないヨナのために出来る事があるのなら。
娘が苦しまないで済むのなら。
幼い娘が死の絶望に向かうのではなく、生きるという希望を得る事が、出来るのなら。
それに、その組織の名を俺は知っていた。娘が産まれた時に例の医師が口にしていた。或いはそこに行く事が出来れば、娘の身体は健康体になりえる、そういう事を、俺は唐突に思い出していた。記憶の奥底、絶望の繰り返しの末に(そもそも多額な金銭が必要だとあの医師は言った、その時点で俺は手段として望むことは不可能だと考えていた)泥濘に沈んでいた記憶が、鮮烈な印象とともに息を吹き返したのだ。
不安げに見上げられた幼い娘の問いかける瞳に、俺は微笑んで頷いた。驚くように小さな手が縋るのへ、万感の思いを込めて握り返し、俺は参加者の列へと娘とともに並んだ。
白いものはいっそう風に舞い、世界の終焉のような景色の中を縦横無尽に弄んでいた。
参加した人間は数えきれないくらい大勢いた。ヨナのように病を抱えている或いは身体に何らかの欠陥を持つものが多かった。子供も若者も、年寄りもいた。ありとあらゆる世代の、病や欠陥を抱えている人間が殆ど集っているように見えた。あのスラムにいた医者は法外な値段を俺たちにふっかけるだけだった、だから病でもそのままにする者が多かったのだ。
沢山の参加者は大きなトレイラーに詰め込まれて、厳重に警備されながらどこかへ連れて行かれた。が、用意されたトレイラーはすぐさま人々で一杯になり、俺たちは後から来たトラックの荷台に詰め込まれ、その上から無造作に毛布とシートを被せられた――行く先を伏せるための仕業だということはすぐに分かった。希望を得ることができるのならば、どこでもいいと思っていた。
集められた際に俺たちを取り囲んでいた、ボランティア団体とは無縁そうな明らかに軍隊に思える連中のことも、特に考えなかった。
連れて行かれたのは、どことも知れない廃材が転々と積み上げられている空き地に立てられているバラック小屋が幾つか立ち並ぶ区画だった。それでも、有刺鉄線でくくられている敷地は相当広いのだが、廃屋などもあるからあまり広くは感じられない。その、中央にぽっかりとある窪地に次々と到着した参加者は集められた。
まずは、各々の状態を把握するという名目の健康診断が行われた。五体満足でろくに病気のない俺はここで初めて不審に思われたのだが、娘は一人では行動することもままならないという情況を告げ、ヨナの診察が終わると、診察していた職員は溜息を尽きながら頷いた。
一通りの健康診断を終えてから、何人かのグループに分けられてそれぞれ割り振られたバラック小屋へと連れて行かれた。
いかにもありあわせで作ったような外観のそこは中も印象に違わず粗雑なつくりで、裸電球が二つほど、そう広くもない屋内を照らし出している――ここに辿り着いた時、既に日は落ちていた。小屋に入る前に、首から名札を下げた白衣の男から黒い本を手渡された。開いてみるが、特に何か記されているわけでもない。日記にでもしろということか。「これは?」いぶかしげに問うと、男はちらりと一瞥をこちらにくれてから「とりあえず、携帯していてください」ただ一言だけ、だが疑問を挟む余地を許さぬ語気で告げた。俺はヨナの分と二冊を、自分で持つことにした。
小屋の中は隙間風が入り込み肌寒い――もっとも、この世界に温かく快適な場所など、もう存在はしていないのだが。理由はわからないが、空はいつでもよどみ、太陽の光は遮られ、地上はいつだって薄暗い沼の底みたいな場所になっている。それは俺たちが住んでいたスラムもここも同様、いや、それこそ世界中が同様だった。
ごわごわとぶあついだけのオーバーコートを、胸元できゅっと合わせてヨナが体を縮こまらせる。「ここ、寒いね…」集められたのは、片手で足りるほどだった。部屋の中には最低限度の家具らしきものはあった、が、だからといって人数分のベッドが用意されているわけではなかった。部屋の片隅に無造作に重ねられた毛布、それから水道と給湯器に清掃用具を入れているロッカー。それが、この小屋の中にある全部だった。
ここにいるのは、ひどくやせこけた老人、人相の悪いずんぐりと小柄な中年男、溜息ばかりつく女だ。まだ若いその女が大げさに溜息をつき、さも億劫そうに立ち上がり蛇口をひねると、申し訳程度の水が出てくる。が、女は水が出てきた瞬間に疲れきった顔を顰めて、溜息ではなく鼻息を荒げた。「とてもじゃないけれど飲めそうもないわ。これなら、スラムの地下水のほうがマシ」破棄捨てるようにいい、忌々しげに鼻を鳴らしながら蛇口を閉めて、その場に腰を下ろした。女の行動を(他に特にすることも、やりたいこともないので)眺めていた一同が、それぞれに思うが侭の反応を示して、それきり興味を失ったというように自分のポジションに納まった。皆、疲れていた。最後の希望に縋り、悪路を揺られてやってきたどこか圧迫感のある白い壁に四方を囲まれるだけの部屋に閉じ込められて、外界から完全に遮断されて、不安にならないわけもなかった。その日は、誰も特に何かを言うわけでもなく、互いに語り合うでもなく、消灯と共に泥に沈むように眠りについた。
眠りが遮られるような異様な物音に眼を覚ましたのは、夜中だった。
突然どすん、という重たい破壊音が聞こえて、何かが崩れる音と、呻き声が聞こえて意識が一気に覚醒したのだ。暗がりに、目を凝らす。濡そぼったようなねっとりとしたつめたい闇の中、蠢くものがたしかにそこにある。腕の中の娘に、その高い体温に縋るように、抱きしめた。部屋に居た全員が、既に覚醒したのか、もぞもぞと動いている。誰かが慌てて部屋の照明のスイッチを入れる。
煌々と無機質なあかりに照らし出されたそれは、実に異様な光景だった。
最初は何が起きているのか、よくわからなかった。頭が把握しようとしなかったのだ。
壁に寄り添うようにして奇妙な声、歯軋りのような音をしきりに立てながら(俺が感じた異様な物音の正体だ)うずくまっていた老人が、突然その場に立ち上がりわけのわからない言葉を吐き出した。
とても、人間が発しているとは思えない恐ろしい奇声にヨナは怯えた。大丈夫だ、という気休めの言葉をなんとかかけて、小さな体を覆うように抱く。俺たちが距離をとりながら見守る中、老人はわけのわからない空気を裂くような言葉を四方八方に喚き散らし、唐突に壁に拳を、頭を、身体をぶつけだした。粗末な建物はそれだけで軋み、悲鳴をあげる
鈍い音。軋む音。ぐちゃりと潰れる音。空気の中に据えた臭いが飛び散る。
飛沫―咆哮、奇声―咆哮―叫び―笑い声。乾いた音。笑い声。潰れる、壊れる、音。
おおよそ、形容し難い惨劇が、目の前で起きていた。女は舌打ちしながら水道の側に無造作に置かれていたアルミ製のトレイのようなものを手にした。中年男はどこから持ち出したのか、ひしゃげた棒状のものを持ち、じっと老人であったものを睨んでいる。俺はヨナを庇い、その凄惨な光景から幼い心を守らんと必死だった。
が、耳にこびり付く笑い声だけは如何ともしがたかった。耳を、心を苛む酷い音は少しずつ理性を苛む。俺は娘を抱え込み、耳を塞ぐように囁いてきつく腕で抱きしめた。
老人であった身体の周囲に、唐突に空中から浮かび上がる真っ黒い禍々しい文字が現れた。呻るような音を立てながら、それは老人を取り囲むようにまとわりつき、老人の身体の中に吸い込まれてゆく。その度に老人は悲鳴のような笑い声を上げて、全身を痙攣させながら黒い液体を吐き出し、振りまいた――血のように見えなくもないが、それは高濃度のタールのようにドス黒くそして粘着質だった。
老人は、酷い音と共に壁に何度も打ち付け続けて骨まで見えている拳をさらに壁へと埋め込むように押付けて笑う。何が可笑しいのか分からない程に、腹の底から壊れたような笑い声を発する。笑っているのに、なぜか俺にはそれが悲鳴のように聞こえた。
老人は汚物を撒き散らすような酷い声でゲラゲラと品のない嗤い方をしながら、こちらの行動を眼で追っている―まるで、愉しんでいるようにも見えた。
そこに、既に俺たちが見知った老いた姿は既にない。あるのは、見たこともない真っ黒に蠢くバケモノの姿だ。
じわじわと距離を詰めつつあった中年男が、一歩踏み出す。女が溜息をついて、こちらを――正確にはヨナを一瞥し、首を縦に振る。小さく囁いた口の動きは「その子を離すな」と言っていた。
中年男がゆっくりと、その外見からは想像が出来ぬ程な殺気を発しながら老人の方へと向かう。それを認めた老人の口から飛び出てくるものは声ではなく、軋んだ耳障りな音。何かが呻く、地面の底から蠢く音が同時にする。
その細い枯れ枝のような身体はびっしりと黒くおぞましい紋様に覆われて、それに喰らい尽くされて行くように明滅している。老人であった異形は、不気味な音を立てながら黒いものに覆われ身体の輪郭は既に失われ、所々にはまたたくおぞましい光のような、模様。ずっとそれを見ていると気分が悪くなり、俺は素早く瞬きを繰り返した――見たくはないと強く感じているのに、なぜかそれから目を離せなかったのだ。ヨナを抱く腕にだけ、力を込めた。腕の中の小さな身体が少しだけもぞりと動いて、縋り付くように巻き付いていた腕が震えていた。「大丈夫だ」何が大丈夫なのかもわからず、娘に囁く。
かつて、知っていたもの――だが、今は既に何であるかわからないものへ、最初に行動を起こしたのは溜息女だった。振りかざした腕から放たれたトレイは、違うことなく老人であったものの首らしき部位へと命中する。
ぎひっ、蛙がつぶれたような無様な音が漏れる。続けざま躊躇う事なく中年男が、振りかざしたひしゃげた―鉄パイプを、その顔面部分に、口元へ、叩き付ける。ぐしゃりとひしゃげるような音と共に、声ではない声が部屋に響く。
びしゃりと音を立てて空中を汚す血飛沫、どちらのものともいえない液体が散々に飛び散り、中年男がほぼ同様に顔をしかめる。それでも、中年男は間髪入れずに一撃を更に、叩き込む。明確な殺意を伴う金属が、黒く変じた異形を叩き潰す。潰し、潰し、破壊する。だが、それでも動きを止めることなく、異形は中年男に覆いかぶさるように大きく膨れ上がった。中年男は飛び退る。が、その足元を黒い無数の文字列の一端が掠める。中年男は、それだけで足を捕われ、転倒する。尚も襲い掛かる黒。俺が動こうとした、その時だ。
「ちっくしょう!」叫んだのは、女だった。女は、いつの間にか真っ黒い背表紙の――部屋に入るときに手渡されたものだ――を手に、何度も罵詈雑言を繰り出す。「何なんだっ、何だっていうんだっ、これは一体どういうことなんだ!!」彼女は髪を振り乱し、書物を乱暴に振りかざし、怒りを、怯えを、混乱をあらわに叫ぶ。その様子に異形がぐるりと体の向きを変えた。
「ふざっけるなーーーっ!」女が、咆哮するのと同時に、破壊音が襲ってくる。とっさに、俺はヨナを床に押し付けその上に覆いかぶさった。中年男は手傷を追いながらも、なんとか退避したようだ。女が何かを叫んでいるが、その叫びが徐々に濁ってくる。ギチギチと耳障りな――老人が変じた時と、同じような、不気味な音が同時になる。視界が真っ白に、爆発する。
鈍い、軋む、潰れる――耳障りな音、重なる怒号、破壊音。ばらばらと砕け散る音と、衝撃が襲ってきて、体にぐっと力を込めた。何かが身体にぶつかってきたように小さな痛みを無数に感じた。
それは、実際どれくらいの時間の出来事だったのか。音と視界の爆発に耳が聴力を一瞬失い、取り戻すと、急速に静寂が俺たちを包んだ。ぽっかりと開いてしまった壁からは、容赦なく寒風が入り込んできて、呆然とその場に佇む俺たちを苛む。
ぜえぜえとした、荒い息。声にならない声、誰かが唾をごくりと呑み込んだ音が明瞭に響く、居心地の悪い静寂。
どういうことだ。
問いを発する事は出来なかった。だが、頭は叫んでいた。繰り返し、叫んでいた。どういうことなんだ。
「ゲシュタルト化したんだ…」ぼそり、と呟く声に身体を起こす。そこにぽつねんと立ち尽くしていたのは中年男だった。直前までの風貌が嘘のように、最初の胡散臭い印象だけを纏い、やるせなさげに首を竦める。「本を使い、ゲシュタルト化する…そういう噂話は聞いたことがあってね」
ヨナが無事なことを確認し、不安そうな顔の頬を両手で包み込み、その目を一度見詰めてから頷く。「ヨナ、大丈夫だよ」「ああ、とうさんも大丈夫だ」単純な互いの無事の確認を済ませてから、俺は視線を中年男に向けた。娘の、それ以上の問いに答えられる自身もなかった。
その、中年男が視線を向ける先、黒い塊のようになってしまったモノ。無気味に明滅する光を発し、やがて、ゆっくりと、空気の中に溶け込んでゆくように、霧散した――かつて人であった名残を、凄惨な血の海という残滓を留めた、ままに。
「使う?」問うと、中年男は頷く。そういえば、女はどうしたのか。そういう俺の意図をおそらくは察したのか、中年男は更に別の箇所を一瞥した。見れば、似たような――もっと質量を感じる黒い文字の塊がやはり赤黒くぶちまけられた血の上をうぞうぞとうごめき、その血溜まりの中に吸い込まれるようにして、やがて、消えていった。言葉ではない耳障りな小さな音を残しながら。
「使うんだよ。具体的にどういうふうにするかは、わからん。或いは持ってみたらわかるのかもしれんがな」中年男は無精髭の下で笑いながら懐を探る。「…そういえば、煙草は取り上げられてたんだったっけな」独りごちて、軽く首をすくめた。
「ゲシュタルト化は、救済ではないというのか」俺が知っていることは、ゲシュタルト化―魂と肉体を分離させるらしい―すれば、今全人類を脅かしている白塩化症候群が発症せずにすむということだけだ。最も、魂を抜き出した肉体の維持管理に金銭がかかりすぎることから、俺たちのような人間には縁のない話だった。
「ゲシュタルト化は当局が発表しているほど万能じゃない。いや、それどころか欠陥だらけなんだ。そんな技術が本当に確立されているとしたら、どうして崩壊体がいなくならないと思う?」それまでうっそりと暗がりに溶け込むような存在感だった中年男が、突然鋭利な切っ先を垣間見せるナイフのような眼差しを全てに向けた。何かに挑む前の、決死の表情にも見える。
その言葉は非常に衝撃的だったが、混乱した頭ではろくろく言葉の意味が理解できなかった。ヨナが怯えたようにすがり付いてくる。「大丈夫だ」何が大丈夫なのかもわからずに、けれどそのぬくもりさえあれば兎に角大丈夫なのだと言うように、俺は娘の背中をゆっくりとさすりながら、中年男の言葉に耳を傾けていた。
「ゲシュタルト化すれば、確かに白塩化症候群に感染はしなくて済む。だが、ゲシュタルト化した人間は遠からず発狂し、凶暴化し、人を襲う…見ただろう、あれが、崩壊体ってやつだ」中年男は老人と女死体があった場所――床に残る赤黒い血痕以外その存在を証明するもののない箇所を睨み、深い地底の底から這い上がってくるような声で呟いた。確かに、視界が弾ける直前に見た、あの光景――黒と、白と、赤が明滅し凶暴な音の重奏と衝撃、筆舌に尽くし難いとはまさにああしたことを言うのだ。たとえば、想像できる限界の更に上を行くような光景を目の当たりにした時。そう、俺は見ていた。見えていない、ふりをしていただけだ。女の側から巨大な真っ黒い――崩壊体と呼ばれたあの化け物が可愛らしく見える巨大な「腕」が生えて、所々真紅の明滅を繰り返しながら、その「腕」が振るわれ――老人であったものは、叩き潰された。
ひと時の、重たすぎる沈黙が落ちる。
「あんた、何者だ」最もな質問が口をついてでた。
「…名乗るような人間でもない。ともかく、実態がある程度わかったしこれも手に入った、俺はこんな場所からはトンズラさせてもらおう」言うや否や中年男は大きくぽっかりと開いた壁から外へと出てゆく。
「……おとうさん……ヨナ、ここ、こわいよ……」
震える娘の声に、俺ははっとなった。ヨナは、見上げる瞳に涙を浮かべてじっと俺を見詰める。ヨナをここにおいていてはいけない。幼い、この娘を、こんな場所にいさせてはいけない。
「娘を、こんな場所には置いておけん」ヨナを抱え、慌ててその背中を追う。足音に気付いた中年男が驚いたように振り返って、次いでヨナを見て、心得たように口端を上げ、頷く。「好きにしろ」
俺たちは廃材や廃屋の影に隠れながら、出口へと向かった――中年男の歩みは揺ぎ無く、見回りの警備員の目をうまく盗みながら一定の方角に向かっていた。俺がその事を問うと、「知らない場所じゃないからな」とだけ言った。
老人の崩壊体――その言い方で多分正しい、俺も何度か中年男が言う話は耳にしていた、ただし、そもそもゲシュタルト化自体が自分たち家族とは無縁だろうと思っていたからそう関心がなかっただけだ――が破壊した壁の向こう側は、運よく通路だった。俺たちが詰められていた部屋と同様に真っ白な、不気味な清潔感を張り詰めたように保つ通路は、どこまでも続いているようだった。自分たちの息遣いと足音だけがやたらと響き、その都度にヨナが怯えたように身を竦ませるものだから、ヨナは背負っていくことにした。ヨナは満足に走ることも出来ないし、その方が都合はいい。
先頭を行く中年男は見事に足音も、気配ですら消している。堅気の人間ではないだろう。が、今は心強かった。「こっちだ」ついてくる俺たちに囁き、時折身を隠せと命じる。監視カメラでもあるのかと思ったが、そういうわけではないようだ。その事を口にすると「ここにはそんな大層な代物はない。そもそも、そんなに大層な場所でもないんだよ」中年男のどこか哀れむような笑みの意味はわからなかったが、その言葉は少しばかりの安堵を俺たちにもたらした。そうでなくともこの寒風と空腹だ。荷物の携帯は許されなくて、手持ちの食料はオーバーコートのポケットに隠しこんだチョコレートといくつかのビスケット――ヨナのためのものしかない。空腹を堪え、俺はとにかくこの脱出行に集中することにした。
それにしても、いくらこの男が心得ているとはいえ、敷地内の空気は相変わらず滞っている。ああした崩壊体による破壊が日常茶飯事なのか――すれば、この敷地内の廃屋や廃材も説明がつく。ならば、俺たちは、ゲシュタルト化することを、目的として集められたのだろうか。確かに、ゲシュタルト化すれば白塩化症候群からは逃れられる。崩壊体になりさえしなければ――そこで、俺は腑に落ちた。「もしかして、俺たちは実験か何かに使われているのか?」ふと生じた疑問を丸められた背中に問うと、その背がぴくりと動いた。ややあって、ぐるりと振り向いた笑みは、敷地内の薄闇の中実に不敵に見える。「ほう。あんたは意外と察しがいいな」その言葉を、俺は肯定と受け取った。
「さて、そろそろお出ましだ」中年男は表情を締めて告げる。「いいか、逃げ延びたけりゃ兎に角走れ。走るしかない」
ヨナは途中から背負っていた――走り回ることが困難なヨナを連れてゆくのなら、それが最善の手段だった。
ヨナを背負い、ひたすらに走った。目の前をゆく小さな丸まった背中を目指して駆けた。なるほど、男の言う通り、そこから先は廃材や駐車してある車などはまばらで、そのかわり警備員は多い。身を隠すほどの暗がりがないほど、今までとはうってかわって照明に照らされ、見れば有刺鉄線がぐるりと囲んでいる――間違いなく、敷地の外側だ。泥濘のような地面を蹴る足に、力が篭る。「しっかりつかまれ」ヨナに囁くと、応じるようにぎゅっと肩をつかむ手に力が篭る。
「奔れっ!」頬をはたかれるような男の怒声、続けて大勢の声。「被検体が逃げた!」「追えっ、逃がすな!一体でも多く集めよという命令だ!」「それよりも、あれを持ち逃げされちゃ敵わん!」言葉と、ばちゃばちゃと泥を跳ね上げる音、耳を切り裂くような寒風の泣き声のような音が混じり、背後から襲い掛かってくる。敷地自体は出口に向かい徐々に狭くなり、車であれば二台すれ違うのがやっとという幅だ。有刺鉄線の向こう側は廃墟のビル群が立ち並び、つまるところ逃げるには前方を突破するしかない。中年男の足は、緩まない。
連中は銃は持ってはいないようだ―それに安堵するのも束の間、有刺鉄線の切れ目がいよいよというところまで来て。五人ほどの警備員が目の前に立ちふさがる――うち、三人は銃を持ち、一人は銃身の長いライフルのようなものを持っている。中央に立ちはだかるリーダーらしき男(明らかに衣服が異なる)が、ギロリと俺たち逃亡者を睨んだ。「おい」それでも尚走るスピードを落とさない男にたまらず叫ぶ。「大丈夫だ、俺たちは大事な実験体だ、少なくとも殺すことはない」少なくとも、殺すことは。つまり、攻撃はされるということだ。「クソッ」
「いいから走れ!あいつらは所詮素人だ、兎に角、走れ!」中年男は一瞥をくれながら叫び、鉄パイプを振りかざす。「そりゃああぁっ!」
威嚇のための発砲が、男の足元の地面に当たり泥を跳ね上げる。泥を蹴り上げて走る。男はパイプをめっぽう振り回し、我武者羅に叫んでいた。
俺はひたすら逃げることを考えつつも、片手でヨナを抱えてもう片手には途中で拾った水道管の残骸を握り締める。風に、雨のようなものが混じりだして顔に当たる。手に、力が篭る。「おとうさん…」「ヨナ、伏せているんだ」ぎゅっと寄せられた身体が熱っぽい、早くここを突破しなければ。
ぱぁん、とカン高い音が弾け、びしゃりと泥濘が抉られる。小さな背中がぐっと低く腰をおとし、まるで突撃する獣のような勢いを作る。俺もそれに倣い、前傾の姿勢になりながら水道管を右腕でめっぽ振り回した。最短距離。発砲。叫び声。足音。泥、水、雨、風、怒号、呻き声。ヨナを身体の前に庇うように抱え、支えながら駆ける。腕を振り回す。つめたい雨、向かい風。何かが、弾ける、砕ける、飛び散る、空気が破裂する、はねる、音、音、音の洪水が耳を塞ぐ。
抱えたヨナのことだけを考えた。身近にある少し雑な幼い呼吸のことだけを、考えた。ぐっと左腕に力を込める。そこに、重たさは確かにある。ヨナ、落ちるんじゃない。だいじょうぶ、ヨナはちゃんとつかまってるから。囁く小さな声が、雑多な音の奔流の中で届く。視界が狭くなる。右腕は振り回しすぎて感覚がおかしい。時折何かにぶつかる感触だけが衝撃として伝わってくる。思考はしなかった。目の前の小さな背中はまだ駆け続けてる、それに続く。光が瞼を焼く。突っ込め。何かの声。もう少しだ。ぜぇぜぇと荒い息は誰のものなのか。叫び声。再び、破裂するような音。「いけっ」その、声。命令されたように身体がびくりと反応する。走れと脳が身体に指令を出す。泥と水をたっぷり含み重たくなったズボンやブーツを蹴り上げるように足を動かす。身体を何かが掠めた。右手の水道管を前方に放る。そしてヨナを両手で抱え込み、俺は叫んでいた。
世界は、しんと静まり返っていて、外気に直接触れている剥き出しの頬がちりちりと痛むくらいに澄み切っていた。
あの光と音の奔流のような最中、俺たち親子とあの中年男はなんとか脱出には成功した。いい加減もう大丈夫だろう、それくらいの距離まで駆けてくると、中年男はふいに道を外れる。街まで戻るのではないかと問うと、行き先がある、とだけ告げて、振り向かず、小さな猫背は闇に姿を消した。
結局、彼が何者であったのか、何か目的はあったのだろうがそれが何であったかはわからなかった。だが、彼のお陰で俺たち親子はこうして首尾よく脱出できたことに違いはなく、消えてゆく背中に感謝の言葉を二度、告げた。それが、果たして届いたかのかどうかは、わからない。
そして歩く先は、ただひたすらの闇だった。光ある場所から遠く離れ、建物の残骸の隙間、所々大地そのものを抉ったような巨大なクレーターが現れる。かつては舗装された道路だったろうそこは、10メートル間隔ぐらいで街灯があり、その七分の一ほどは未だ無機質でつめたい灯で砕けた地面を照らし出している。
ヨナを抱えたまま、どれくらい歩いただろう。「おとうさん」小さな身体が腕の中でじれったそうに動いて、囁いた。
「ヨナ、歩けるよ。大丈夫だよ」気遣うように向けられたその顔はすっかり汚れてしまっている。汚れているのは、顔だけではなかった。
俺は一度ヨナを路上に立たせて、小さな肩を抱きながら、視線を合わせるためにしゃがみこんだ。
「家までは、まだ大分ある。ここまで来た道を、帰らなくちゃならない」
「道は、わかるの?」
「大丈夫だ、だいたいは、わかる」半分は嘘だったが、荷台に乗せられて揺られていた時間はそう長くはなかったはずだ。そして、この廃墟と化している街の中で人が生きて行ける場所は実はそう多くはない。俺たちが住んでいた場所も、そういう場所のひとつだった。
どこか不安げに瞳を揺らすヨナに、大丈夫だ、ともう一度告げる。そして、ポケットを探りビスケットを取りだした。簡易包装に包まれた小さな焼き菓子は殆ど砕けてしまっていたけれども、それを見たヨナはぱっと顔を輝かせる。「いいの?でも、おとうさんは」「とうさんは大丈夫だ。それは、ヨナが食べるんだ」「でも…」尚も何かを言おうとする娘にビスケットを渡し、ごわごわしたフードに包まれた頭に手を載せる。「いいんだ」もう一度、頷く。まだ納得しきれない、というように少し唇を尖らせるが、ヨナも頷いて、包装を壊しビスケットを口に含む。
「うん…砕けちゃってるけど、おいしいよ」
「それはよかった」
言いながら、娘を背負う。ヨナは素直に従った。「どれくらい、遠いのかな」「それほどでもないよ」「うん、おとうさんの足だもんね」ヨナが背中でクスリと小さく笑う気配がする。暗闇は、少しずつ、少しずつ薄れてきている。朝が近いのかもしれない。それは、方角をイマイチ把握しきれていないこの状況ではありがたかった――が、兎に角今は、この道路を真っ直ぐ歩いてゆくしかない。
風は大分凪いで、雨は、既に止んでいた。
うっすらと、空が明るくなってくる――といっても、相変わらず薄暗く沼の底に沈んだ沈うつな色彩は一切変わることはなく、ただほんの少しだけ明るくなる程度だった。底冷えする空気はいよいよその鋭さを内側から増幅させるように静かに身体を冷やしてゆく。その魔手につかまらぬように、決して立ち止まらぬように、重たい足を動かす。時折背中に呼びかけ、小さく応じる声或いは吐息を感じて安堵する。そうして、俺はまた辿りくべき先もよくわからぬ歩みをただ、進める。
世界は静まり返っていた。
この世界には俺たち親子だけがただ二人、取り残されたような巨大でちっぽけな孤独めいた空気を乱す風は、突き刺さるように肌に凍みる。
ただ、ひたすら、歩いた。方角はもうわからず、ただ、歩くことが生き伸びるための最善の道と信じて、歩くしかなかった。ひとところに留まるのは危険だった――時折聞こえるのは人の声ではなく、あの小屋で聞いたおぞましい声だ。幸い身を隠す場所は多く、連中に見つからぬように様子を伺えば、あそこで見たよりもずっと巨大な質量の崩壊体が徘徊している。「黒いおばけ…」「静かに。大丈夫だ、気付かれてはいない」ヨナは小さく頷いて、怯えるように身体を縮こまらせる。大丈夫、もう一度告げて、前方を睨んだ。実際、連中は俺たちには気付いていなかった。暫く徘徊した後、ふらりと姿を消した。
生きているまともな人間には、一度も会うことはなかった。この世界は人が生きてゆくには、環境は確かに過酷過ぎる。
いつの間にか風と共に舞い落ちる結晶―雪ではなく、塩と化した人間の成れの果てだ―がはらはらと落ちてきている。実際に雪ではないのに、それはひどく空気を冷やしている原因のように思える。頬を刺す風は、相変わらずつめたいのだ。
思えば俺たちが住んでいたスラムは急ごしらえではあったが壁のようなもので境界線が作られていて、そこから外には出ないようにときつく言われていた。外に出ることなど考えられなかったから、そんな事にも気付いていなかったのだ。
唐突に、道が途切れた。
鋼鉄製のフェンスと無造作に積み上げられた瓦礫の山が、道の終わりを告げている。
それは、果てのわからぬこの旅路の終息を告げる安堵と、同時に方角そのものを間違えていたのではないかというぞっとなるような絶望感を同時に覚えさせた。どっと、疲労感が全身にのしかかり、身体が鉛のように重たいと思った。
が、幸いというべきか、左手にある建物――元は、食品を売っている店だったのだろうか、ほぼ元の形を残す建物が見えたことだ。「あれは…」ヨナがか細い声で問う。「ああ。あそこには食べ物があるかもしれないし、休むには大分都合がよさそうだ」「うん…!」娘の声は弾んでいた。確かに、昨日の晩もろくに眠ってはいないし、そもそもまともな食べ物を食べてはいない。俺は多少の無理はきくが、ヨナはそうはいかなかった。元々食が細く、必要以上を欲しない。
風が吹き上げる。地上に降り積もった雪のようなものが視界を覆うようにぶわっと空へと舞い上がる。改めて見上げれば、空はすっかり闇を払っていた。
おそらく本来はそこにガラスでもはめられていたであろう、枠だけを残す入り口をくぐり、外気よりは幾分か寒さが和らぐ薄暗い内部へと侵入する。内部へと徒を進めるたびに、埃が舞った。
足跡一つない。物音一つない、静寂だ。
つまり、ここは、少なくとも今はあらゆる意味で安全な場所だ。まずはヨナを休ませなければ。
埃っぽい屋内を進み、陳列棚の隙間に、人が数人座ってもくつろげる空間を見つける。棚の裏側になっており、風もここまでは届かないのだろう。外から見える心配もない。埃をざっと払い、収まるのを待ってから背中からヨナをおろしてそこに座らせた。「おとうさん…」
「ここなら、少し休めそうだ。腹は減ってないか?眠くはないか?」
「ううん……大丈夫だよ」こくりとヨナは頷く。が、俺はそこでヨナが腕に後生大事そうに抱えているものを見て目を剥いた。「ヨナ…」
「どうかしたの?」
そうだ。あれは、俺が二人分持っていたはずだ。が、あの脱出でうやむやになって、持ってきてはいなかったはずだ。だのに、なぜ、それが…。
「ヨナ、どうしたんだ、その本は…」問うのがやっとだった。思い出したくもない光景が脳裏にまざまざと蘇る。「その…」
「これ、おとうさんの本だよね?ヨナ、ちゃんと持ってきたよ」にこにこと無邪気に微笑むヨナの手から慌ててそれを奪い、打ち捨てる。「おとうさん?」驚いたようにヨナが声をあげる。
「ヨナ、あれは大事なものなんかじゃないんだ」
「え、でも、ちゃんと持ってるようにって、ヨナ、いわれたよ」
「いいんだ。さ、兎に角、少し休もう。ここなら風も入ってこないからな」言い聞かせるように、じっと見上げてくる眼を見て呟く。そこに、不安の色はなかった。大丈夫だ。娘の瞳を見ていると、いつもそういう気持ちになれる。大丈夫だ。俺がなんとかする、だから大丈夫だ。自分に言い聞かせて、こくりと頷くヨナの頭を撫でた。
店内を歩き回ってみると、手前は兎も角として奥の方は殆ど半壊状態だった。それでも、ヨナの小さな身体を覆えるような布を見つけられたのは僥倖だった。それから、アルミ製のカップにミネラルウォーターが複数と、それらを詰めるためのザック。食料らしいものは殆どが既に盗まれており、棚の奥底に埃を被って残っている缶詰を一つ見つけただけだった。が、その消費期限のラベルはもう十年近く前のもので、持ってゆくのはやめた。代わりに、倒れた棚の奥から粉末ココアを見つけた。これは、冷えた身体を温めるにはもってこいだ。ヨナも喜ぶ。
そうして必要なものを物色し、ヨナの元へと戻った。ヨナは大人しく同じ場所で待っていた。
「大丈夫か?」
「うん」そう言いながらも、こほこほと咳き込む。…また咳が始まってしまった。無理をさえてしまい、その上寒風に晒されたのだから、当然といえば当然だ。もう少しどうにかできなかったのか。己の不甲斐なさを責めつつ「ヨナ、これを被っているんだ」苦しげに呼気を漏らす娘の丸められた背中に毛布をかけ、それから拾ってきた燃えそうな紙や木屑を集めて、床の上にまとめ、マッチで火をつけた。何度かこすると、マッチに火がつき、紙くずはあっという間に炎へと変じる。「わ、あったかい」ヨナの眼がきらきらと輝いた。
周辺に転がっている金属を組み合わせて、簡易焜炉じみたものをつくり、その上に先ほど物色してきた中にあったアルミカップを取り出して、ミネラルウォーターを注ぐ。ヨナはその様子を、時折咳き込みながらもじっと見守っていた。
やがてお湯が沸いたので、その中に粉末ココアを注ぐ。少しばかり熱いので少量のミネラルウォーターを足し、ヨナへ手渡した。「ほら、ココアが出来たぞ」
「わぁっ……」ヨナは、それをまるで宝物を見詰めるような眼差しでじいっと見入る。ほかほかと湯気が立つさまは、確かにこの、昼間ですらも凍りつくような空気の中ではとびきりの宝物のようだ。ヨナは久しぶりに満面の笑みを見せて、頬を染めている。「ほら、あまり眺めてばかりいると、冷めてしまう」
「うん、でも、ちょっと、勿体ないかな…」「そんなことはないさ」言いながら、もう一つアルミカップを出して、同じようにミネラルウォーターを注いでゆく。「とうさんの分もちゃんとあるから、安心して飲むといい」
「うん!」
今度こそ、ヨナは頷いて、コップの端に口をつけた。
何時間ほど経っただろう。ヨナは、棚の裏側で眠っている筈だ。俺は先ほど歩き回った際に見つけた、振り回すのに手ごろな鉄パイプを手に、棚に背を預け座り込んだまま、どうやら眠っていたようだ。身体が、ひどく重いしあちこち痛む。ヨナは、大丈夫だろうか。
唐突に、頭の中に声が響いた。
俺のものでもない。ヨナでもない。さっきの中年男でもなければ、崩壊体になった老人や女や、すれ違い様に体当たりをした警備員でもない。聞いたこともないのに、どこかで記憶のあるような不愉快でしっくりとこない感覚。囁くようなそれは、俺の意識に直接干渉するようにねっとりと這い寄ってきていた。まるで、敬虔な神父に悪魔が誘惑を囁くように。重たくもやついた意識を払うように顔を上げると、床の上に放置されたままの例の本が視界に入る。こんなもの。「……こんなもの…クソッ」忌々しさと苛立ちが同時に意識を覚醒させ、視界の本を怒りを込めて蹴飛ばした。が、そこで俺は異様な気配を感じた。この、耳障りな蠢くような音。聞き覚えのある。出来れば、聞きたくはない音。
「……くそ!」鉄パイプを握りなおした。こんな所まで…そう思いながらも、ここは街のように「守られた」場所ではないのだ、と頭を振る。
立ち上がると、まるでそれを待っていたかのように湧き出してくる、黒い影――崩壊体。バラック小屋や途中で見たものよりずっと大きい、人間の倍近くはあろうかという体躯。しかも、その手らしき箇所から伸びる形状は明らかに武器を模したものだ。が、その巨大さのお陰か随分と動きは鈍い。最も手近の崩壊体の、足元をめがけて鉄パイプを振り回す。形状のしがたい音と、ハンパに柔らいモノを破壊する感触――恐らく、人間はこういう感触で壊れるのかもしれない――愉快ではないことを平然と思考しながら、的としては随分と難易度が低めの巨体に、次々と鉄の一撃を加える。
痛みを感じていないのか、そのような概念がないのか――気にしてはいないのか、鉄パイプがその黒い影の肉体を抉り、潰し、破壊しても連中は殆ど怯まず攻撃ばかりを繰り出してくる。中年男の言葉が唐突に蘇った。崩壊体は、俺たち人間を襲う。それは、やつらの意志なのだろうか。魂を未だ持つ俺たちを、憎んでいるのだろうか。
飛び散る赤いものは、俺たちと同じ生暖かくて生臭い血そのものだ。
金属を叩き付けられてぐしゃりと潰れる感触は、人間の肉体そのものだ。ただ、まるで影のように黒いものが蠢いて、体表の一部を無数の明滅する光が覆っている。形そのものも、人間に近い。
風圧すら感じる大振りの――まともに食らったらひとたまりもない攻撃をかわし、攻撃を叩き込む。
だから、なんだというのだ。
もうヨナを守るのは、父親である俺しかいない。ただそれしか頭の中にはなかった。
何度もひたすら金属棒を振り回し、その生温い体液を浴びて、不気味な音に意識を苛まれながらも、ようやく現れた崩壊体を倒した。全身のダルさと不快感は限界だったが、そこれはたと気付く。ヨナ。心臓を直接鷲掴みにされたような悪寒が全身を貫く、恐怖という感覚に意識を支配され、俺は棚の裏へと駆けた。ヨナ。無事なのか。ヨナ。
「ヨナ…!!」
「おとう、さん……」けほっ、と小さな咳をしながら、果たして娘は無事であった。先ほど崩壊体の血に塗れた箇所は、何故か今は元に戻っている。お陰でヨナに余計な心配をかけずに済んだ。
その無事を確かめながら、無造作に転がるもう一冊の書物を一瞥し、もう一度決して触れるなと念を押す。ゲシュタルト化の契機は、直接触れるだけではないらしい、ということはわかっていた。だが、娘は既に触れてしまっている。もう引き金は引かれてしまったのかもしれないが、何もあえてそれを重ねることもないだろう。中年男が言った「使う」という言葉を考え、とりあえず触れていなければ問題はないと考えたのだ。
娘は素直に頷く。そこで、再び、あの音。重ねてそこから動くなと言いつけて、既に馴染んでいる鉄パイプを握り締めた。「大丈夫だ」
棚の影から出てゆくと、案の定、蠢く影。先ほどよりも多い。だが、怯む理由にはならなかった。ヨナを守らなければならないのだ。立ち向かうしかない。数は多いが、先ほどと同じ要領でやるしかない。連中の攻撃は鈍く重い。攻撃の直後は隙だらけだ。屋内の狭さがどちらに有利であるかなど、俺には判断は出来ない。
身体は限界に近い。それも、怯む理由にはならない。鉄の重さに腕が痺れてきている。それでも尚、振りかぶり叩き付ける。ぐしゃりとした感触に何も感じない。迸る赤いものにも。腸をくすぶらせるようなひしゃげた耳障りな音も。「クソッ」重さと反動を利用して、ぶんと振り回す。「畜生ッ!」怯まない。怯めない。負けられない。死ぬことなどできない。死んではいけない。ヨナ。守らなければ。大切な娘。ただ一人の肉親。大切な。「いい加減に…ッ!」風が来る。舞い込む白、つめたい空気。心臓は壊れそうな程に激しい鼓動を繰り返す。「お前らはっ!」叫びにもならない声。床を転がり、攻撃をかわす。かわした――つもりだった。
「…ガッ?!」鈍い衝撃。呼吸が、出来ない。胃の中身がせりあがってくる、気分の悪い感覚。飲み込むことすら出来ず、生暖かいものがびしゃりと床に飛び散る。軋むのは、どこなのかすらわからない。全身がバラバラになったようにまともに動かすことすら出来ず、床に身体をのたうちまわらせる。影。物音。ざわめき。死。終わり、死。ヨナ。死ぬのか。冗談じゃない。ヨナは。殺さなければ。殺す。殺す。殺す。だが無理だ。だが殺さねばならない。ぐるぐると渦を巻く黒い思考から、ふと俺は自分と同じように無様に床に転がっている黒いもの――忌々しい、あの本を、認めた。
力。
――力が、欲しくはないか。
本は囁いた。本が、囁いた。確かにそう強烈に認識した。欲しい。力。こいつらを殺せる。ヨナを守ることができる、力。欲しい。「ヨナを…」
力が、欲しい。
俺はこの時、純粋にそれを欲していた。無力な己のこの身など、必要ないと、思っていた。
説明 | ||
NieR/G、父と娘。本編前の一幕を捏造してます。最後は本編冒頭に繋がるような感じです。過去発行同人誌より、再販の予定がないのでアップしました。 | ||
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