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朱鴉更紗
web公開特別番外編
公開処刑は少女に見せるな
(1)まひるの夜の夢
――月が出ていた。
あたしは片側の髪をゴムで束ね直しながら線路に沿って歩いてゆく。
「にんにく、にんにく」
口ではあの呪文を唱えている。
お母さんから教わった、ものを探すときに唱えるあの呪文……。
遠くにぼんやりコンビニの明かりが見える。裸足のまま歩いているから、小石が足の裏を突いて痛い。
「毎晩、精がでるねぇ、サンドリヨン」
コンビニの前で太った少年がガムを噛みながら、語りかけてくる。
「……サンドリヨン?」
あたしはその言葉をもごもごと口のなかで反芻した。
「靴も穿かずにどこ行くの?」
彼はのっぺりとした顔で哂(わら)う。
――カンカンカンカン。
警笛が鳴り響き、真横を貨物列車が突風を伴いながら通過していった。
◆
「お湯持ってきたよ」
眼を開けると、はとこのカエデがぬるま湯でたぷたぷに満たされた洗面器を持って立っていた。
「んぁ、ありがとぉ。用意がいいね……」
あたしは内股をもぞもぞやりながら返事をする。
「毎朝のことだもんね。よくそれで風邪をひかないのかが不思議」
「口のなかが鐙(あぶみ)を噛まされたみたいに気持ちが悪い」
「鐙なんか見たこともないくせに……」
身体中が痛む。玄関で寝ていたせいだ。だらしなく、カエデに足を突き出す。
「足、洗って」
「へ?」
「そこまで用意してくれたんなら、足まで洗って」
カエデはしばらく戸惑っていたようだけど、なんだか妙にリアルな音をだして生唾を呑み、あたしのパジャマのズボンを臑のあたりまで上げて、ちゃぷちゃぷとぬるま湯につけた。
「わあ! 本当に洗いだした!」
「足ぐらい、いつだって洗ってあげるよ」
「……なんだか悪いねぇ」
さすがに罪悪感が胸を掠め、欠伸を噛み殺しながらいう。
「だって、逆らうと、まあちゃんは叩くから」
「恐怖政治かよ!」
あたしは無意識に足の先でカエデの顎を蹴り飛ばしていた。
洗面器が引っくり返った。
カエデはうちに居候している春子おばさんの子で、あたしと同じ中学一年生だ。
調停離婚だかなんだかで、母子ともども転がり込んできた。
顔は悪くないし、馬鹿でもないんだけど、いつもオドオドしているので、弟扱いにしてあげている。でも、本人はあたしを妹扱いしているみたい。
「さて、カエデも蹴ったところで着替えるか」
「なんという傍若無人な……」
飛び散ったぬるま湯を雑巾で拭いている彼の苦労をねぎらいつつ、あたしは階段を登って自室へと向かった。
最近、朝、目覚めると常に玄関で寝ていて、足は泥まみれである。
夢遊病のようだ。
最初のうちはびっくらこいたが、こう毎晩続くと、さすがに慣れてきた。
……と、そんなことを考えていたら、書斎の方から素っ頓狂なうめき声が響く。
「寒暖差で歓談さ、おっとそりゃ、怪談さ」
なんだそりゃ、と思い、扉の隙間を覗いてみると、広辞苑を高く掲げ、朝からくるくる回っている美女の姿が……。そういえば、広辞苑が十年振りに改訂になったと昨夜、この女はめしを喰いながらウキウキして話していた。
家計が苦しいはずなのに、まさかまた新たに買ったのか?
「階段で会談さ。カカカカカ、カニ喰ったさ」
間違いないようだ。「カ」行をやたら引いてバカ笑いしている。
広辞苑が出るたびに読破しているこの女は谷村珠恵といって、悲しいことに、あたしの実母である。
女子校時代に谷村紫苑の名で文壇デビューし、「天才美少女作家」として一世を風靡したが、今は全然、売れてない。原稿料や印税よりも大学講師のアルバイト収入の方が多いぐらいだ。
「今でも顔は綺麗なんだけどな」
あたしはだらしないジャージ姿で踊る母を一瞥すると、嘆息し、それから自室で制服に着替えて階段を降りた。
「と、ともえさん! 毎晩、とらふぐなんて無理ですよ!」
玄関でつっかけに履き替えたとき、仏間の方からカエデと誰かがいい争う声がした。
「無理は承知じゃ! 祟るぞ! わらべ!」
また仏壇と何やら喋っている。
カエデと話している声は小学生ぐらいの女の子の声だった。
「すぐそうやって脅す! ともえさんみたいな人を現代だとなんていうかご存知ですか¥」
「な、なんというのじゃ?」
「ニート」
「がああん!!! 意味はわからんが、たまらん響きじゃ!」
「仕事も勉強もしないで、ごろごろして。とらふぐばかり食べている人をニートと呼ぶんです」
「わらわはニートか? でも、夕方にはお相撲を観るという大事な日課が……」
「それもニート」
「がああん」
そのやりとりを耳にしながら、あたしは玄関で溜め息をついていた。
「いいヤツなんだけど……朝から仏壇と喋っているのはどうなんだ?」
あの仏壇は三円十二銭で骨董屋から我が家に買い取られた、いわくつきの代物である。
……なんでも、悪霊が取り憑いているんだとか。
うちは母屋と離れに分かれている。母屋の方にはあたしと母親が、離れの方には祖母と春子おばさんとカエデが、それぞれ寝起きしているが、食事は主に離れでとっている。
離れのキッチンに行くと、チャコおばあちゃんが朝食を作ってくれていた。
祖母は車椅子に座りながらも器用に味噌汁をお椀によそる。それを春子おばさんが眠たげな目つきで運んでいた。
「おはよう、まひるちゃん」
「おはようございます。おばさま」
やはり、春子おばさんは家族というよりお客さんという意識があるのか、あたしは猫をかぶってしまう。
「カエデさんはまだですか?」
チャコおばあちゃんは車椅子の車輪を回しながら、食卓につくあたしに向かっていった。
「……仏壇と喋ってたわよ」
そういうと、祖母はこれといって関心を示さなかったが、春子おばさんはヒステリックに髪を掻きむしった。
「あの子、ここに来てから変よ!」
「まあまあ。珠恵だって子供の頃は、よく仏壇と喋っていたじゃありませんか」
「おばあちゃん。お母さんと一緒にするのはいくらなんでもカエデが可哀想」
「そうよ! 珠恵は残念というか、毒が脳まで回っているっていうか、もう手遅れなんだから!」
「ん? わたしのなにが残念なのだ?」
春子おばさんが気焔をあげているところに、運悪くお母さんが勝手口から広辞苑を抱えて入ってきた。彼女は慌てて取り繕う。
「珠恵のことじゃないわよ。カエデのこと」
「ふうん……カエデのことか。あれは確かにそうだな」
「え?」
食卓を囲んでいた全員がお母さんの方を見た。
「どうやら、見えて(・・・)いる(・・)のは本当みたいだぞ」
そういって、母は口元に妖しげな笑みを湛える。
カエデは我が家に来てからというもの、「幽霊が見える」と毎晩、騒いでいるのだ。
Aへ続く
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