叶うなら、その身に多くのやさしい時間がありますように(幻水4) |
群島の夏は暑い。それでも人々が耐えられるのは、そこに海があり、沖つ風が熱を浚うからだ。
とりわけこのオベル王国では、潮の香りのするそれが段々畑の駆け上がり駆け下り汗に濡れた人の身を癒す。風通しの良い造りの家々は、島の特性を良く生かしている。それでもたまにはぴったりと風が留まる時間があって、この時も立ち往生している空気が日差しを無防備に受け止めては坂道を往く人々から水分を絞り上げていた。
とんとんとんという裏手の崖を行く足音は、昼間の喧騒に飲まれて誰の耳にも届かない。側を飛び回る虫だけが、じじじと羽を震わせて応えている。男は天高く在る太陽に僅かばかり口元を緩め、それから前に向き直った。
──夏だ、と、思う。
人通りの少ない海岸沿いの道から街の方へと下ってゆくと、徐々に活気のある声が大きくなってくる。時折思い出したように振り返る人の視線の間を抜けた。ひと時だけ途切れる会話の合間に紛れ込むのは、波のささやく優しい気配だ。活発さと長閑さが交互に訪れるさざめきの中を、なお進み。賑やかな中にあってなお、浮世離れしたような静寂をまとう建屋が目の前にあるのを確認すると、裏手に回りやはり静かに扉をくぐった。
「どうもこんにちは、ユウ先生」
予告のない来訪者に奥にいた人物……ユウが振り返る。残念ながら屋内は薄暗く、開け放たれた扉から差し込む光で尋ねてきた人物の輪郭ははっきりしない。だが忘れようも無い声色で、この建物の主人は、訪問者の名を言い当てた。
「──クロウ君」
かつての英雄の名を呼び、眩しさに目を細めながらドアが閉められるのを待つ。もとの仄明るい空間に戻ったのを確かめて、調子は悪くないかと、医者という己の職業に違わぬ問いをかけた。
「はい。先生もお変わりなく」
一本調子に応えた先方は、慎重な足取りのようでいて、しかし一片の気負いもなくユウの座る数歩手前まで近付くと、ひたりと歩みを止める。見上げて観察してみれば、屋外の日差しを浴び焼けた肌はいかにも健康的で、その先端にある爪も一切歪みなく揃っている。医師が検分する間中青い瞳がじっと見つめていたが、その眼球にも疲労や病に因る翳りは見られない。
「見たところ、確かに具合は悪くなさそうですね。どうぞ」
側にあった椅子を勧めると、青年は軽く頭を下げて腰掛けた。そしておもむろに手にしていた荷袋を取り出し、中にあるものを一つ一つ丁寧に並べてゆく。言葉は無い。淡々と、どこまでも淡々と。
机いっぱいに広げられたものは、医師としての自分が彼に示して調達してきてもらったものだ。つまりほぼ全てが、病気や怪我の治療に用いられる素材である。
「今日はこれで全部ですか?」
「そうです」
ユウは、青年が少ない文句で返しながら袋を畳む様を一瞥する。そこからすぐに材料群へと視線を戻し、改めて検分しながら感嘆の息をこぼしてしまった。
中には、伴う危険により入手困難とされているものや、ユウ自身でさえ探索すべき当てが分からないものも平然と混じっている。感心するしかない成果は彼だからこそ、というべきなのだろう。これだけのものを、あれほどの短期間で正確に集められるのは。本人は涼しい顔をしているが、これは大変なことなのだ。その価値を、どれだけ自覚しているものか。
──これでまた、多くの命が救ことができるのである。
「じゃあ少し休憩したら始めましょう。いいですか?」
「はい、お願いします」
「お茶でもいれましょう。折角だから、この薬草と同じものを煎じてみますか。疲労によく効くんですよ」
彼は頷くことで応じて、そのまま立ち上がる。手伝おうという意志を見せる青年を拒むことはせずに、湯を沸かす準備を始めた。
何時のことだったか。青年に医学を習いたいと持ちかけられ、以来幾度となくこんな訪問を受けている。その間隔はまちまちで、十日あまりで再び顔を出すこともあれば、数カ月経っても消息が知れぬこともある。そんな調子だから、病院の混雑具合によっては彼につき合えないのだが、根気よく自分に暇が出来るのを待つことがほとんどである。それならば事前に連絡を寄越せばいいようなものだが、彼から便りらしきものをもらったことは一度もなかった。
じりじりと火が揺れ、次第に薬缶の中身がしゅしゅしゅと鳴き始める。部屋の向こう側で、病人の誰かが咳をするのが聞こえた。病院の主な施設と私室とはきちんと仕切られているけれども、それでもかなり響くものだなと、医者の男は思い出したように考えた。気がついてしまえば背後からは様々な息遣いが感じられる。隣に立つ男の呼吸も、また。
「クロウ君、湯飲みを取ってください」
求めに反応し勝手知ったる、といった風情で湯飲みを取り出しテーブルに二組並べる。更に薬缶に手を添え残りを引き受けようとするので、さすがに固辞して来訪者をもてなすことに専念した。
「さて、どこから始めましょうか」
腰を落ち着け、茶を一口含む。いまひとたび机の上を見渡して、まずは根っこのようなものを摘みあげた。
この『講義』では、持ち込まれた品々の効能や妙薬の調合方法について手解きをするのが習慣だ。そう、これらは薬剤であると同時に学習の為のサンプルでもあり、また『講師』に供する授業料でもあるのだ。一方は貴重な薬の材料を得、一方は医療の知識を得る。双方にとって損が無い話なのだから、ユウは初めこの話を持ちかけられた時、戸惑いはしたものの断ることをしなかった。それがこうして長く続いていることが、良いのか悪いのか判断はつかない。……いや、悪いということはないのだろうが。
しばらくの講義の後、往診から帰ってきた助手のキャリーも交えて実際に調合を行う。それが済めばユウが入院中の患者の容態を診る様子を見学し、手伝いもする。彼は覚えが早く、そして勤勉だった。
戸外では地面を跳び、這う虫の活動の音がひっきりなしに聞こえている。全てを終えて落ち着く頃には日はどっぷり暮れていて、外部からもたらされる明かりから、内部から発するランプへと切り替わっていた。
「みなさん一日お疲れ様でした。さて、今日はどうしますか?」
三人で簡単な夕食をすませ、落ちついたところでユウは切り出す。といってもこういう場合、青年は必ず院に泊まっていくので彼に向けた問いではない。安堵した雰囲気で食後の余韻に浸っていたキャリーが、小さな卓に両手を揃えて乗せて向かいに座る男を見やった。
「私はこれで失礼します。先生もクロウ様も、ご無理をなさらないでくださいね」
そそくさと席を立って、薬の入った鞄や他の細々とした手荷物をまとめ始める。青年が落ち着いたまま茶を味わい、その隣でユウは彼女に型通りの、しかし気遣いのこもった呼びかけをした。
「そうですね、ありがとう。ではキャリー君、暗いですから帰り道に気をつけて」
「あ、はい!」
反射的に、キャリーはぺこりと二人へ向けて丁寧にお辞儀をする。続いて踵を返そうとしたのだが、隙無く立ち上がった青年に視界を塞がれる。進路を阻んだ男の方はというと、或る種抑揚がないともいえる口調で用件を告げた。
「送ります」
身長差によって若干壁のようになった所為で、彼女は一歩たじろいだ。見上げた間近な距離に男の顔容があって、その思いの外整った造作につい呆けてしまう。が、ややあって我に帰り慌てて首を振った。
「い、いえ!そんなご迷惑をおかけするわけにはっ……」
しかして、男はそれ以上言わず言わせず、助手の手にしていた荷物を自然な動作で受け持った。無言でありながら雄弁とでも言うべきか、数歩前に歩み出て彼女が追いつくのを待つので、キャリーは面映げに俯いてありがとうございますと言うしかなかった。
一連のやり取りを眺めていたユウは、一旦勝手口まで出て二人が並んで遠ざかってゆくのを見送り、すぐに室内へと引き返した。そうして昼間と同じ茶の入った湯飲みを手のひらで包みながら、青年がこの場に戻るのをゆっくりと待つことにした。
──あの戦争が終わってからは、もう十年以上の時が経つ。だから、あの時軍主と呼ばれていた少年は、歳を数えれば既に二十も後半、あるいは三十路すぎとなっているはずである。……はずである、と表現せざるを得ないのは、彼の外見が一向に歳を重ねたようには見えないからだ。
当時、医師の立場から少年を救うことができないかと、罰の紋章についてもいくらか調べたことがあった。その結果知った事実──真の紋章を宿すと、宿主は不老になるのだという。そのために成熟の一歩手前で時を止めた身体は、本当の歳に比べ瑞々しく不釣合いで、しかし元々の彼の持つ落ち着いた貫禄のある雰囲気を考えると、ようやく実年齢が追いついてきたようでもある。
こうして改めて考えてみると、随分と奇妙なものである。そもそも、不老という状態がまともではないのだ。
物思いに耽っていたせいであろう。突然背後でぎしっとドアを引かれたのに気付いて、ユウはぎくりと肩を震わせた。
「戻りました」
彼の一言と同時に、急に遠く岸壁で波が割れる遠音や一日中聞こえている咳などが塊りになって押し寄せてくる。数度目をしばたかせ、意識が現実に引き戻されるのを感じ取りながらほうと息を吐いた。この小さな動揺には気付かなかったのか、あるいは気付きながらも捨て置くことにしたのか。青年がこの日最初に来た時の、扉をくぐる姿に差異があるとするなら、昼間と違って彼の顔がよく見えるということくらいだろうか。
彼はテーブルの前で一度立ち止まって、律儀にユウが促すのを待ってから席に着いた。途端に辺りに沈黙が落ちて、それまで考えていたのが目の前の人物の事であったせいか、とても居心地の悪い気分になる。何か話題にできることはないかと探して周囲に気を散らせてみるものの、あるのは日常としか表現できない風景ばかりだ。
潮っ気の混じる消毒液の匂い、暗がりを映しだす炎の揺らめき、海風にさらわれていく熱、時間を間違えて鳴く鶏とそれに応じて吠える犬。全てが同じで……毎日と異なるものは眼前に一つ増えた息遣いだけだ。
「──何か」
平坦な声音がまたも現実を連れてくる。いつの間にか正面に合った人物ばかりをを凝視してしまっていたらしく、僅かに窺う素振りの瞳がこちらを捉えていた。ユウは不躾な真似をしてしまったことに慌て、話せることはないかと話題を探す。だが先の内容を引きずってか、口からこぼれたのは結局彼に関する話題だった。
「そうだ。噂ですけど、聞きましたよ。アドリアンヌ君のところにも通っているそうだね」
英雄が、鍛冶仕事を習いにきている。こんな話を、本当はアドリアンヌから直接聞いたのだが、何故か自分でも分からぬまま遠回しな言い方をしてしまった。相手はというと、傍にあった自分の湯飲みを取り上げて喉を潤し、何のことはないと言わんばかりに頷く。
「ええ」
確かに誤魔化すことに意味はないけれど、青年は否定しないのだなと思う。もちろん多くを学ぼうとする姿勢は見上げたものだ。しかし、ユウは胸の辺りを得体の知れないざわざわとしたものが這い回るのを感じていた。
「君は──…」
争乱の始まりと共に成長を止め、時を経てなお変わらぬ若さを晒す身体。それと同じように……身を惜しまず、知識と技とを貪り、高みへ高みへと歩み続ける様は、どこか『あの時』に似ていて怖かった。働き過ぎ、努力し過ぎる身を心配したことは数え切れないほど、そして憂慮は今にもつながっている。戦争はとうの昔に終わったのに、まるで彼だけ取り残されているような──彼にとってはまだ戦いは終わりを告げていないのではないかと錯覚さえしてしまうほどの、何かへ打ち込まんとする情熱が、狂気じみてこわいのだ。
そしてもし自分の想像する通りに、彼が争いの妄執に囚われたままなのだとしたら、それはひどく哀れなことにも思えた。何故なら、群島を救った英雄はきっと十年以上もの間戦争の犠牲者となったままなのだから。
「そんなに頑張らなくてもいいだろう?君は、もう……」
医者という立場が、こう考える要因なのかもしれない。真の英雄は既に、群島にある素晴らしい命の輝きを守りきった。終戦と共に数多の功績を捨て、同時に背に負ったものを降ろしたはずだ。だからもう立ち止まっていいのだと、自分だけを大切にしてもいいのだと。血塗れた記憶に縛られ続ける謂れは無いのだと、思ってしまうのは。
想いを吐露しかけた時、先に続く台詞を遮るように青年はゆるく微笑んだ。
「先生」
それ以上物を言わせぬ微笑。彼は英雄の名を捨てたつもりでいるのかもしれないけれど、彼の持つ雰囲気はどうあっても上に立つ者の『それ』で。ああこれは、まるで、かの戦争の時のような。
「僕は、単純に鍛冶を習いたいわけでも、医術を学びたいわけでもありません。──ユウ先生」
男は語を区切り、一つ瞬きをする。灯火が彼の海色の瞳孔の奥でうねり揺れる。
「『それ』が出来るうちに。あなたから、あなたがこの世界に残すものを受け取っておきたい。そう思っているんです」
ユウは、はっとして呼吸を飲み込んだ。何故なら、彼の台詞を聴いた瞬間一つの事実に突き当たったからだ。
青年は罰の紋章の強固な呪いから解き放たれ、もはや寿命で死ぬことはない。いつ死ぬとも知れず、十年前には自分達を置いていく立場であった彼は、いつの間にか正反対に置いていかれる立場になったのだ、と。
「すまなかった」
ユウは、素直に謝罪した。
……今はまだ変わらず生活をしている仲間も多かろう。だがしかし、こうしている間にも時は流れ、百年もすればヒトは寿命と呼ばれるモノによって必ず縊り殺される──彼を除いて。
かつての同胞達から独り取り残される気分とは、一体どんなものだろうか。心にどんな思いが渦巻いているかなど想像もつかないが、少なくても自分が触れていいようなものでないことだけははっきりしていた。
「無神経なことを言ってしまったね」
机の上に描かれた木目を幾ばくか辿り、しかし一呼吸置いて青年の主輪を見返す。するとそこには少しだけ首を傾けながらも、真っ直ぐに向けられる視線があった。
「──先生は、優しい。その優しさをこうして受け取ることが出来て、確かに僕は幸せなんでしょう」
何を思いついたのか、おもむろに懐を探って一枚の紙切れを取り出す。すぐ横で静かに佇むランプの覆いを外し、炎の上に紙を翳した。端から燃え広がり、灰となったそれが吹き込む潮風にはらはらと舞い上がっていく。
「例えばこんなふうに、形あるものは物でも、人でも……いつか形を失くします。だけれど、先生から受け取った知識も優しさも、この身がある限り僕の中に残ります」
間もなく指先に火の手が到達して、瞬間青年が手を離し、まだ原形を残していた塊は一気に下方へ崩れ落ちた。
「確かに、形を変えて在り続けるものもあるでしょう。いつかそれを受け取り、幸福と感じることもあるでしょう。でも、それはやはりみんなの手から直接渡されたものとは違うんです」
語る青年の目に、ひどく柔らかな色を見る。大人になりきれない面に不似合いなほどの、全身で慈しむ温度がそこにある。ユウはとっさに声をかけようとした。けれども、開かれた唇はどんな音も紡ぐことはなかった。
「だから。ユウ先生、キャリーさんやアドリアンヌさん……みんなから一つでも多くのものを受け取って、──いつまでも忘れないように」
語りが途切れる。彼の視線がふっと一時彼方に逸れて、それはまるで言葉の続きを探しているように思えた。あまりにも珍しい仕草に目を奪われたが、瞠目の瞬きの次にあったのはさっきまでの慈恵の気配だった。
「幸い、まだ僕たちには時間があります。ユウ先生もお疲れだと思いますので、もうお休みになっては」
「そうだね、そうしようか」
見間違いだったのかもしれない。ともかく、ユウは話題を打ち切ることに同意した。もちろん相手に拒否の意はどこにもなかったけれど、深く踏み込みすぎたことは自覚していたから。そうでなくとも、これ以上何か話し込むのは冗長であるだろう。後片付けを申し出るので今夜はそのままでいいと告げ、凝り固まった肩をほぐして立ち上がる。
眠りに就く前にと、空気を吸いに建屋を出た。
彼は、過去に取り憑かれてなどいなかった。たとえ身体が時を止めていても、その目はまったく逸らされずに『今』と『未来』に向けられていた。取り巻く問題がどんなに変化しようと、己に寄り添う運命のようなものにまっすぐ向き合う強さは初めて会った時から変わらぬまま。きっとあの若者は大丈夫、なのだろう。
──それでも。
移り変わる時代、時間に縫い留められた英雄。この景色は幾万の夜、幾億の朝を越えても今と同じに彼と共にあるだろうか。きっとそうならいいと思う。群島が──海が、変わらずあの青年の傍にあればいい。
自分にはただ祈ることしか出来ないけれど。せめて滅びゆく身で、願えることがあるならば。悠久を生きる彼の為に、少しでも多くの良き日々があるようにと。
闇の帳に、無数の星が永遠であるかのように瞬いていた。
説明 | ||
幻水4、6周年記念用に書いたものをテストアップロード。 群島解放戦争の10年以上後、オベルの片隅にて。 4主人公:クロウ |
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