【TB・虎兎】禁断の木の実は一番おいしい Forbidden fruit is sweetest 5【腐向】 |
5
時間は少し遡る。
虎徹たちがホテルで重い表情で顔をつき合わせていたころ、バーナビーは一人離れて不愉快な思いを強いられていた。
酷く揺れている。
磯と錆の混じった独特の臭いが鼻について、無意識にバーナビーの眉根が寄った。
「う…うぅ……ッ」
「うるさい」
足元で呻く体格のいい男を蹴りつけて黙らせ、バーナビーは苛々と辺りを見回す。
ここは船の中だ。
臭いとあたりの様子から、かなり古いものだとわかる。明かりは小さなライトが一つで、バーナビーが転がされていた狭い小部屋はどうやら船倉らしい。
窓もなく、様々なものが入った木箱が積み上げられ、船が大きく揺れるたびに崩れそうで、船酔いしそうなバーナビーの気を皮肉にもそらしてくれていた。
手ごろな高さの木箱にどっかりと腰掛けたバーナビーの前には、三人の男が転がっている。
いずれも荒くれそのものの容姿で、腕力に自信はあったようだが、いかんせん自惚れが強すぎた。
一人目はバーナビーの様子を見に来ただけで不幸にも蹴り倒され、二人目と三人目は暇つぶしを兼ねて端正なバーナビーの容姿に目をつけ、二人がかりで不埒な真似をしようと襲い掛かって来たところを膝蹴りと回し蹴りで沈めた。
手加減はしなかったので骨折だけでは済まないだろうが、そういった輩に容赦してやるつもりはこれっぽっちもない。
「つ…!」
大きく傾いた身体が、背中から木箱にぶつかる。
その痛みにまた怒りを増幅させながら、バーナビーはこの船の中で気づいてからのことを考えた。
まず臭いと揺れで意識を取り戻し、起き上がろうとして後ろ手に縛られていたことと、猿轡を噛まされていたことがわかった。
後ろ手に縛られた腕がずいぶん痺れていて、バーナビーは身体を起こすにも一苦労だったのだ。
あげく、そのあとは続けて得体の知れない荒くれにあんな真似をされては、機嫌も悪くなって当然だろう。
(まあ、猿轡を外してくれたことだけは有難かったか)
ヒーローの悲鳴を聞くチャンスだ。下卑た表情でそう言った男の手がやけにゆっくりと猿轡を外し、息が掛かるほど至近距離になった時のおぞましさは当分忘れられそうにない。
もう一人の男はバーナビーのベルトに手を掛けていた。
だから、殺すかも知れない危険も忘れて現在の状況に相成ったのである。
足を踏ん張っても堪えきれないほど揺れは激しい。だんだん気分が悪くなってきたところで、厚い鉄扉の向こうに気配を感じて声を掛けた。
「開いてますよ」
驚いた表情で入ってきたのは、バーナビーを捕らえたあの灰色の短髪の、長身痩躯の男だった。
「遅いと思ったら、お楽しみ…ってわけにゃ行かなかったようだな」
「部下だか仲間だか知りませんが、ずいぶん躾がなってませんね」
「それはすまないことをした。……生きてはいるようだな? 残念だ。こいつらを殺していたら、その場で通報してヒーロー資格を剥奪できたものを」
「いつまで生きているかについては保障できませんよ。僕としても不本意な行為を強いる輩に手加減する気はありませんから」
敢えてふてぶてしい笑みを浮かべてねめつけると、初めて男の表情が変わる。
前動作もなく迫られて殴りかかられたが、バーナビーは素早く跳んでかわし、腕を使えないまでも応戦の体勢を整えた。
風圧を感じるほどの拳だ。当たっていれば相当の怪我を負っただろうが、バーナビーの目にはたいしたものには映らなかった。
(虎徹さんの方が倍は速い)
拳を武器とするワイルドタイガーの戦いを誰よりも間近で見てきたのだ。距離の測り方はもちろん、対処法も頭に入っている。
「……ふん、生意気なガキだ。あとで命乞いするなよ?」
鼻を鳴らして挑発してくる男を、バーナビーはただ冷たい目で見返した。表情に変化はなく、まるで聞こえていないように相手には見えたかもしれない。
だが、本当になんの感情も湧かなかったのだ。
そんなバーナビーをどう思ったか、男は舌打ちして情けない様で転がる仲間を引きずって出て行く。手当てをするつもりか、それとも荒れた海に捨てるのか、バーナビーはなんの興味も持たなかった。
「……貴方なら止めたでしょうね」
ふっと笑ったのは、極悪な犯罪者でさえ救命しようと動く虎徹を思い出したからだ。
しかし、バーナビーにはそんな慈悲はない。
犯罪者はいつでも平凡に暮らす善良な人々の生活を、時には命まで奪う。そんな輩がいざ死に掛けて助けを求めてきたからと言って、どうして応えてやらなくてはならないのか――。
それでこそヒーローだと言うなら、虎徹の言葉を借りて言えば「クソ喰らえ」だ。それがバーナビーの本音だった。
(ジェイクは、僕の両親を殺した)
哀れっぽい声で命乞いされた時、心を焼き尽くして身体まで失うのではないかと思うほどの怒りがバーナビーを塗りつぶした。
だが、冷静に自分を見つめる虎徹の目を見て、その衝動を落ち着かせることができたのだ。
復讐は遂げたい。だが、同じ人殺しになっては、両親に合わせる顔がない。なによりこの手を血で汚したその瞬間に、二人と同じ場所に行く資格を奪われると思ったのだ。
(……神様なんて信じてもいないくせに)
また船が大きく揺れて、バーナビーはもう踏ん張る気もなく無様に転がった。
近くでガラガラと派手な音を立てて木箱が落ちる。ころころと足元に転がってきたのは、手のひらより二回りほど大きなガラスの浮き球だった。荒い縄が掛けられている上、ロープの上に落ちたので無事だったらしい。
本来は海に浮かんでいるはずの浮き球が、物置の床の上をあちらこちらに転がっているさまは、なんだか滑稽に見えた。
行き場を失ったその姿がなんだか自分に重なって、バーナビーはゆるゆると首を振る。
船が停まったのは、バーナビーが本格的に船酔いになる前に揺れに馴れて、壁にもたれたままうとうとできるようになってからだった。
唐突に鉄扉が開き、またあの男が現れたのだ。
「おい、出ろ!」
「………手洗いはないのか?」
「その手に乗るか。したけりゃ垂れ流せ。俺は困らん」
尊大な言い草に眉根を寄せるが、それ以上のことは言わずに立ち上がる。
いつの間にか揺れはずいぶん収まっているようだった。
「どこへ連れて行かれるのか、気にならないのか?」
黙ってうしろをついて歩くと、からかうような表情で男が訊く。しかしバーナビーは眉一つ動かさず、黙殺を決め込んだ。
「とことん可愛げがないな」
べつに可愛いと思われる必要はないし、むしろその方が厄介な事態になることは最初に学習済みだ。
(20トン…には足りないか。中型の貨物船だな。僕のいた船倉が一番下だ。上った階段は一つ。かなりの嵐に見舞われていたけど、この規模でひっくり返されないところを見ると姿勢制御システムは良いものを積んでいるはずだ。壁の見取り図は外されている。一般的な商業用としては使われていないと見るべきか……)
ここで目隠しをされないのは、この船の内部を見られても困らないということだろうとバーナビーはあたりをつけた。
恐らくここで下ろすつもりなのだろう。
「この先は見せねえぜ」
「………」
やはり、そう来たか。
男が手下を呼び、バーナビーにアイマスクをつけさせる。そのまま腕を掴んで歩かれて、何度も転びそうになった。
手すりがあるので転落は免れたが狭いタラップを下ろされてどうやら陸に降りたことはわかったが、すっかり揺れに身体が馴れてしまって対応できなかったのである。
目が使えないので、残った感覚で現状の把握に使えるのは聴覚と嗅覚、触感だけだ。
サリのどこかには違いないが、匂いも喧騒もまったく種類が違う。どちらかと言うとバーナビーには不快な類で、周りにいる人間の気配も多く、まるで見世物にされているような不快感があった。
「乗れ」
押し込まれたのは、車のシートである。後ろで縛られたままの手に破れて中身が飛び出したシートが触れ、ずいぶん古いものだとわかった。
思ったとおり、乗り心地も悪く、タバコの匂いが染み付いている。
不快感に眉をひそめていっそう固く口を閉ざし、バーナビーは体感する自動車の速度と身体の傾き具合で船から下ろされてからの自分の移動距離と方角を探った。
(あまりスピードは出してない……。喧騒もそのままだ。入り組んだ町の中? いや、それにしては急ブレーキがない。カーブは緩いものが多いな)
町には町の匂いがある。しかし窓が締め切られている上、タバコの匂いが充満していては探りようがなかった。
それに目を閉じていると、時間がゆっくりと感じるものだ。
バーナビーにとっては一時間以上の道のりだったが、実際には長くても体感時間の三分の二程度だろうとあたりをつける。
「予定が変わったが、無事に客人をお連れした」
「………誰だ?」
「バーナビー・ブルックスJr.だ」
「あのバーナビーか!?」
車のドアが開けられ、先に下りた男と出迎えたらしい男の会話が耳に入った。
自分の名が知られていることはべつに驚くことではない。だから黙って待っていると、ずかずかと近づいてくる気配のあとで野太い手が無遠慮にバーナビーの顔を掴み、とっさに蹴りつけて身を引く。
「さすが、活きがいいな」
したたかな手応えはあったはずが、大して痛みを訴えるでもない男の声音に、バーナビーは驚いたが表情は動かさなかった。
「遊ぶなよ。そいつのせいで間抜けの一人は玉無し、もう一人は肝臓破裂で病院送りだ」
「そのぐらいの方が壊れねえだろ。…けど、よくヒーローを捕まえられたな」
「予定外もいいところだ。まあ、こっちとしちゃ元が取れるなら誰でもいい。こいつもヒーローなんだから哀れな子羊を見捨てねえだろ」
自分の意思を無視されて繰り広げられる会話は甚だ不愉快だ。しかし、ここで異を唱えても意味はない。
バーナビーは唇を引き結んで先ほど蹴りつけた野太い手の男に腕を掴まれ、ずるずると建物内へ連れ込まれた。
「よいせ」
「お、下ろせッ!」
「暴れんな。あんたの脚は厄介なんでな」
足元の感触を確かめる間もなく分厚く筋肉で盛り上がった肩に担がれ、バーナビーはそのまま勢いよくどこかへ運ばれた。
「ほらよ」
そして突然固い床の上に投げ出され、なんとか頭を守って丸くなる。
周囲の気配を探る前にアイマスクが取られ、眩しさにしばらくの間バーナビーは目を開けることができなかった。
「言っておくが、NEXTの力を使って逃げようと思うなよ。理由はわかってるな? それに、こっちには人質がいるんだ」
「一応確認のために訊いておくが、僕にとって価値のある人質なのか?」
ようやく腕のロープも解かれ、低い声で問いかけてやる。
ヒーローであるバーナビーの答えが意外だったのだろう。アントニオを凌ぐ筋肉質の男の荒い作りの顔にふてぶてしい笑みが浮かび、豪快に笑い出した。
ひとしきり笑ってから「面白い」と頷き、狭い部屋を見回して続ける。
「すぐにお呼びが掛かるだろうよ。お待ちかねの便所も着替えもある。好きにしてな」
「断ると言ったら?」
「ここで死ぬだけだ」
口調は軽いが、本気だろう。そう言って背中を向けた男にそれ以上のことはなにも言わず、バーナビーはまだ痺れの残る腕を押さえて立ち上がった。
小さく狭いベッドと窓際にへばりつくように置かれた一人分のテーブルセット、それからユニットバスだけの小さな部屋だった。
ワンルームではなく、映画でしか見たことのないような安ホテルの一室といった感じだ。
「……ホテルには鉄格子はないな」
窓は小さく、その上十字に掛けられた鉄格子は太く頑丈で、古い施設だというのにやけに手が込んでいる。叩いた壁はかなり丈夫なコンクリートだ。ハンドレットパワーを使っても一撃で蹴破ることはできないだろう。
手洗いからはし尿の匂いが漂ってきて、バーナビーは眉をひそめながらドアを開けた。
やはり、窓はない。錆色だが水が流れることを確認して用を足し、使われた形跡のないシャワーを手にとってしげしげと眺める。
突然こんなところに連れてこられたせいか、どうも映画のセットの中にいるようで実感が湧かないのだ。
「これ、お湯は出るのか?」
カランをひねっても、出るのはやはり錆色の水だ。しかも勢いが弱く、お湯になる前に面倒になりそうだと考えてようやく透明になった水を止める。
シャンプーや石鹸の類も見当たらず、そんなことを真剣に不愉快に思う自分にバーナビーは少し笑ってしまった。
「……心配してるかな」
ぽつりと呟いた心に浮かぶのは、一回り年上の相棒である男の顔である。
この島についてから、少し顔色が悪いというだけでしきりに心配していたぐらいだ。
今頃は大騒ぎして顰蹙を買っているのではないかと思うと、なんだか笑ってしまった。
同時に、離れて少し落ち着いた。
虎徹のそばは居心地が良い。……良すぎて見失いそうなものもあるのだ。
いつでもヒーローとして迷わず立っている背中が、今は遠い。
(今の僕に、貴方の背中を預かる資格はありませんよ……)
素直に少し休みたいと言えば良かったと初めて思った。
けれど、そう言ってしまったら最後、もう自分は二度とヒーローとして戦うことはできなかっただろうとも。
守って欲しいときに、ヒーローは守ってくれなかった。そばに来てくれなかった。
忘れたはずの幼かったころの感情が、このごろやけに心に湧き上がる。
(同じ思いをさせたくないって思ってたはずなのに)
助けを求める人の声から、いつしか耳を塞ぎたくなった理由はなんだったのだろう。
今のバーナビーには、それさえ思い出せなかった。
「虎徹さん……。捜さないでください」
消えそうな声で、バーナビーは呟いた。
きっとその願いは届かないだろう。
確信に近い気持ちで、バーナビーにはいつか虎徹が自分を捕まえに来るという思いがあった。
だからこれだけ落ち着いていられるということも。
だが、しおらしく助けを待っているだけというのは性に合わない。
いつの間にか裸足になっていて汚れた足を眺めて立ち上がると、バーナビーはやっと感覚を取り戻してきた腕を軽く揉みながらベッドに座った。
ドアの外から足音が近づいてくる。初めて聞く足音だ。
「出ろ!」
思ったとおり、乱暴にドアを開けて顔を見せたのは、今時レトロな黒服とサングラスを身に着けた「いかにも」な男だった。
さっきの大男とは大違いだ。
(あの二人はさしずめ用心棒ってところか……。この男も銃は持ってるけど)
ジャケットの肩の部分の不自然な膨らみを確かめて、バーナビーはおとなしく立ち上がる。
神殿で自分を捕らえた男と先ほどの大男に比べれば隙だらけだったが、あえて抵抗せずにうしろについて歩き、案内されたのはやけに奥まった部屋だった。
そこだけ浮いている頑丈な鋼鉄製の扉が、この奥にいるのが特別な人物なのだとバーナビーに推測させる。
(こんなどん詰まりの場所に部屋を構えるなんてただの間抜けか、それともこの建物自体が簡単に見つからない場所にあるのか、追えない逃げ道を用意できているのか…見ものだな)
冷静になるとだんだん自分の置かれた理不尽な状況に思い当たって、腹の底からふつふつと獰猛な感情が湧いてくるのを押さえられなかった。
「例のヒーローを連れて来ました!」
「入れ」
廃屋に近い雰囲気の建物には不釣合いな重々しい音を立てて扉が開き、バーナビーの視界に入ったのは下品としか言いようのない派手できらびやかな部屋だった。
壁には立派な角を持った鹿の首や虎の首、像の牙が並び、床には巨大な虎の毛皮が敷かれている。
こめかみが引きつる思いで一気に重くなった足を動かし、バーナビーはなんとか悪趣味な部屋に踏み込んだ。
中にいたのはSPと思しき黒服の男が二人、傭兵らしき鋭い目をした男が一人、そして縛られて転がされた若い男と、一目でこの部屋の主と知れる男がまるで玉座のように設えられた椅子に座っていた。
(なにかに似て……あ。ニューイヤーに虎徹さんが写メで見せてくれたカガミモチだ)
人間の身体でまさか体現できるとはと半ば感心しながら、バーナビーは太りすぎて首を失った中華風の衣装を着た男をしみじみと見る。
「おお、おまえがあの有名なバーナビー・ブルックスJr.か。なるほど。男にしては美しい」
「………」
「貴様ッ! ラオ様に対して失礼な!」
声ばかり大きな黒服に肩を小突かれたことに腹を立て、殺気のこもった目で睨みつけると、一歩身を引いた男の手がすぐさま肩口のホルダーに伸びる。
「やめよ」
だが、それを止めたのはラオと呼ばれたこの家の主だった。
「部下が失礼をしたそうだな。本当はおまえではない者をここに呼ぶつもりだったのだが」
「……誰のことだ?」
尊大な態度を崩さずに問いかけると、転がされていた傷だらけの男がなにやら必死に訴えてくる。
しかし、猿轡がかけられていてバーナビーにはなにも通じなかった。
「なに、アントニオ・ロペスという男だよ。知っているだろう?」
虎徹の親友、ロックバイソンの本名だ。バーナビーは眉根を寄せただけでなにも答えず、ただ冷たい声で言った。
「それで?」
「それで……とは?」
「生かしてわざわざ僕をここまで連れてきたんだ。なにもなければさっさと殺して捨てるなりしてるでしょう? 理由を訊いてるんです」
ゆったりと腰に手を当てて確かめるように太ったラオの顔を見ると、さも愉快そうに笑い出した。柔らかそうに揺れる肉を見ているだけで胸焼けしそうだ。
「わざわざ殺さずとも、おまえほどの容姿であれば使い道も多い。どうだ? わしの愛人になるというのは?」
「人類の全てを見捨てることになっても断ります」
「さすがはヒーロー、冗談の内容もスケールが大きいのう!」
大口を開けて笑われると、金で縁取られた歯が派手に見える。
やけに疲れた気分になって、バーナビーは苦しげに呻く男に歩み寄った。
「ここでこの男を連れて逃げることは叶わぬよ。借金を返してもらわねばな」
「借金…?」
「そう。この男はわしに300万シュテルンドルを借りて、未だに返さんのだ。こうなってはなんとしても回収せねばなるまい。肉体労働者で内臓を売ることもできぬとなったら、持っている者から返してもらわなくてはな?」
「300万……」
個人が借りられる額とは思えない。驚いて転がされた男を見ると、目に涙を溜めて必死に首を横に振っていた。
借りたのは事実かも知れない。だが、利子が法外だったか、何らかの詐欺を働いたか、おそらくどちらかだろうとバーナビーは考えた。
「……アントニオさんの代わりに僕が捕まったのだから、僕に払えと?」
「そういうことだ」
それならば、簡単な話だ。
バーナビーの持つ遺産は相当の額だが、さすがに300万シュテルンドルには及ばない。
それでもこの場で支払うだけなら方法があった。
「なんと?」
捕まったときに財布が無事だったのが幸いだ。尻ポケットの財布から黒いカードを取り出して、ぽんとラオの前に投げてやる。
脂肪の重みで細くなった目が見開かれた。バーナビーの所有するカードはブラックカードだ。使用金額に上限はない。
とはいえ、今回の金額になると一度に返すことは難しいだろうが、自力で返済する自信もあった。
「その程度の額なら、おまえたちならそのカードでなんとかできるだろう。それで用が終わるなら、この人と僕を解放しろ」
一度身柄が自由になれば、捕まえる自信はある。
それゆえに毅然とした態度で告げると、ラオがカードを部下に拾わせて笑い出した。
「これはこれは…! さすがはシュテルンビルトの英雄と言うべきかも知れぬ。良かろう。これは担保として預かろう」
「……なんだと?」
「もともと現金で返させるつもりはなかったと言っているのだ」
「貴様…!!」
「おっと、あれを見よ」
顔色を変えたバーナビーが一歩詰め寄るが、ラオは部下に指示して分厚いカーテンを開けさせ、寂れた港町風の外を太い指で指した。
離れた上空を舞っているのは二羽のラフィリアだ。窓の外に立つあの長身痩躯の男の腕が上がり、乾いた音を立てて二羽のラフィリアが一度に海に墜ちた。
「な…!」
もちろん腕に仕込んだ大口径の銃ではない。男の手に握られていたのは、旧式の銃だ。距離を考えれば凄まじいとしか言いようのない腕をしている。
「同じだけの腕を持った者が、おまえの仲間に銃口を向けていると言ったらどうする?」
「そんな馬鹿なことが…!」
「ない、と言い切れるか? 気配も感じぬような距離から、やつらは正確に頭をぶち抜くぞ?」
「…………」
バーナビーの喉が鳴った。動揺を顔に出すのは未熟な証だ。
そう思っていたが、ラオの言葉に決定的に顔色を変えてしまう。
「そうそう、顎に特徴的なヒゲを持つ男が、おまえのことで警察とやりあったそうだな」
身体が動いた。したり、と笑ったラオを睨みつけても後の祭りだ。
「………僕になにをさせたい?」
バーナビーがなんとか搾り出した虚勢だとはっきりとわかる声に、ラオの表情が勝ち誇ったものになる。
「おまえが我らに従うのであれば良し、さもなくば…わかるな?」
「だから、なにをさせたいのかと訊いている!」
「それは明日のお楽しみだ。今宵はおまえがここに来る原因となったその男とせいぜい親睦を深めて待つのだな。ただし、体調は万全とせよ」
「出ろ!」
またしても黒服に腕を捕まれ、細い目の用心棒らしき男に扉を開けられて廊下に追い出される。
元の部屋に帰されてからも、まるで悪夢の続きを見ているようだとバーナビーは顔を覆って深いため息をついた。
だが、いつまでもそうしてはいられない。同じように床に転がされた男が苦しげになにかを言おうとしていることに気がついて、バーナビーはのろのろと傍らに膝をついて男の猿轡と戒めを解いてやった。
「あ…あぁ、すみません…!」
「一体、なにがあったのですか? 300万シュテルンドルなんて借金、作ろうと思っても個人ではそう簡単には作れないでしょう?」
「は、はい。おれ…騙されてしまって」
そう力なく言って涙ぐんだ痩せた男に、バーナビーは少し考えてポケットに入れていたハンカチを貸した。
「僕があちこち転がったせいで少し汚れていますが、まだ使っていませんから」
「そんな、おれなんかに親切に……」
「貴方はアントニオさんの友人ですね? 貴方に会いに来たと伺っています」
「兄貴が…」
「ええ。違うのですか?」
首をかしげて問い掛けると、痩せた男はむせび泣いてハンカチに顔を埋め、しばらくそのまま嗚咽を漏らした。
バーナビーはこんな時に自分がどうすれば良いのかわからない。ただ、気の毒な様子のアントニオの友人に同情し、そっと骨ばった肩を摩ってやる。
「し…失礼しました。俺はロベルト、アントニオの兄貴とは中学からの付き合いで、……ヒーローなのも知っています。実は俺の娘が病気になって手術代が必要になったときに、紹介された金貸しがあいつで……」
「怪しいと思わなかったのですか?」
「出てきたのはもっと普通の、信用できそうな人だったんです!」
なるほど。ラオも自分の風体がいかにも怪しいことはわかっているわけだ。
妙なところで感心して、バーナビーは手酷い暴行を受けたらしいロベルトの身体を診た。
「とりあえずこちらへ横になってください。辛いですか?」
「い、いえ」
軽い身体を横抱きに抱えてベッドに下ろし、慎重に上着を脱がせて色の濃い痣が浮かぶ腹部を触診する。
「く…!」
「腹部がだいぶ固い。内臓が心配です。食欲はありますか? 便通がおかしいといったようなことは?」
「それは…特に。いや、最後に食ったのは昨夜なんで、バーナビーさんに会えてちょっと気が緩んだかな? はは、ちょっと空いてきました」
「そうですか。でも、今日は控えた方がいいと思います。できたらすぐに病院に行って欲しいのですが」
「いえ、これでも昔は兄貴とつるんでいろいろあったんだ。身体を使う仕事をしてますし、そんなにヤワじゃないですよ」
ロベルトは痩せているが、筋肉がないわけではない。だが、バーナビーの知識では骨折や打ち身、捻挫の手当てや症状は診られても、内臓まではわからない。
アントニオの友人と聞いてなんとか無事に帰したい気持ちにはなったが、不安な思いをしてるだろうロベルトのために、いつもの社交的な表情を作るだけで精一杯だった。
「バーナビーさん…すみません。あのカードは、なんとかして取り戻しますから」
「貴方が気にする必要はありませんよ。僕が自分で渡したんです。……ここに来るまでの間に取り上げられなかったのは幸運なくらいだ」
「いえッ! 兄貴のヒーロー仲間は、俺にとっても大事な人だ! 絶対におれは…いててッ」
「興奮しないでください。さあ、とりあえず横に……。水は…洗面所のは心配だな」
バーナビー自身も喉が渇いたが、とてもじゃないがここの水道の水を飲む勇気はなかった。水に当たりでもしたら、いざ逃げ出す機会を見つけても動けないという事態になりかねない。
どうしたものかと考えたところで再び扉がノックされ、ラフィリアを撃ち殺した長身痩躯の男が入ってきた。
「ラオ殿が飯を出せとよ。そいつの分はないから、食わせてやりたけりゃ自分を分けるんだな」
「……その水は?」
「本島でも売ってるミネラルウォーターだよ。未開封だ。それでも疑うなら勝手に捨てろ」
「………」
「なんだ?」
「べつに。抵抗もできない鳥を平気で殺す恥知らずの顔を見ていただけだ」
バーナビーは特別あの鳥に愛情があったわけではないが、それでも無抵抗な命を手に掛ける者を赦すことはできない。
一際厳しい目で睨みつけると、男は一瞬黙り、肩をすくめて乱暴な手つきで食事と水の乗ったトレイをテーブルに下ろした。
「あれがそういうモンに見えるなら、あんたが素直な坊やだということだ」
「どういう意味だ?」
低い声で問い掛けても、それ以上の答えは返らない。鍵も掛けずに出た背中を見送って、バーナビーはいらいらした気分で椅子を引いてようやく腰を下ろす。
「バーナビーさん……ここから逃げるのは、考え直した方がいいです」
「なぜです? 馬鹿正直に明日までこんなところにいなくても、貴方一人ぐらい連れて逃げてみせますよ」
「そうじゃなくて、この島じゃNEXT能力は使えないんですよ」
「………え?」
早速逃走経路を考えていたのだが、表情でわかったらしい。ロベルトが遠慮がちに教えてくれた情報に、バーナビーは顔を上げた。
「そのう、NEXT能力を発動したら、電気ショックを受けたみたいに酷いことになるそうで」
「……それは装置ですか?」
「え? ええ、そうらしいですが、詳しいことはなんとも」
「一度喰らいました。発動した瞬間、心臓にショックが来ます。……続けて受ければ、死ぬでしょうね」
「そ、そんな、他人事みたいな!」
ロベルトは慌てるが、今のバーナビーには正直他人事のような感覚しかない。
ただ、虎徹たちに見張りがついていると言われた以上、知っていて彼らを犠牲にしてまで逃げたいとは思わないだけで。
「だから一人が楽なのに……」
「バーナビーさん?」
「なんでもありません。パンとハムだけですが、もし食べられそうなら半分どうぞ。ただし、まずは水を飲んで具合を見てからですよ」
「いいんですか?」
「あいにく僕はこんな時に一人で食べられるような神経は持ち合わせていません」
苦笑して答えると、ロベルトはようやく水と食事に手を伸ばした。
落ち着いてからロベルトに聞かされたのは、ここがどうやらサリの第七島だということと、夜中に踏み込んで人質にしてやろうと考えたラオが本宅に移っているはずだということ。
つまりここは使い捨てのアジトのようなもので、仮に失っても痛くも痒くもないということだった。
どうやら同じような状況に置かれた者を、逃がさないように監視するための場所ということらしい。
ロベルトは本人の話どおり意外に丈夫で、夜になっても熱を出すこともなくしっかりと眠ってくれた。
これで心配が一つ減り、バーナビーのまぶたも重くなる。
(虎徹さんが自分に張り付くあいつらの気配を察してくれたら……)
ぼんやりとそこまで考えて、ゆっくりと首を振った。
あの男のことだ。恐らく同じような状況になって捕まるのがオチだろう。
とりあえず今のバーナビーが一番にしなくてはならないのは、闇雲に逃げ出すのではなく、アントニオの友人を無事に生還させることだ。
ロベルトにベッドを譲ったので自分は床に座り、一日ですっかり汚れてしまった足を眺めながら、バーナビーは長い夜を過ごした。
翌日、いつの間にか眠っていたらしい。扉の前に人の気配を感じて立ち上がると、昨日とは違う黒服の男が入ってきた。
「いよいよ仕事だぜ。ヒーローさんよ」
「………」
「バーナビーさん!」
「大丈夫です」
一体なにをさせられるのかはわからないが、心は平静だ。心配するロベルトに笑顔を見せて部屋を出ると、今度は昨日ラオに会った部屋とは反対側に連れて行かれた。
「風呂に入って、着替えろ。近視らしいが、レンズの度数はわかるか?」
「………ええ」
訊かれるまま答えて、放り込まれるように狭いが不潔ではないバスルームに入る。人一人がやっとの脱衣所で服を脱ぐ時には、半ばやけくそになっていた。
そこに置かれたいかにも高級そうだが匂いのきついシャンプーやボディソープをふんだんに使って身体を洗い、入浴剤でこってりとしたお湯の溜まった湯船につかって行儀悪く脚を投げ出す。
「……ラオをうっかり殺すにしても、ロベルトさんだけは逃がさないとな……」
ぼそりと呟いた自分の台詞の物騒さは、バーナビーの意識に上っていなかった。
そして黒服に急かされて上がり、置かれていたタオルで身体を拭くと、「着替えだ」と扉の隙間から入れられたカゴの中身を初めて見る。
ごく薄い生地のTバックの黒い下着をまず掴んだ時には屈辱で手が震えたが、それよりも気になったのはやけに身体に沿うぴったりとした黒とビビッドなピンクのスーツの方だ。
もちろん、正装のスーツではない。ヒーローであるバーナビーにはある意味とても馴染みのある手触りである。
「どこかで…見たな………」
自分の記憶と照会してはじき出されたのは、黒と青のヒーロースーツだ。
色は違う。しかし、非常によく似たデザインで、裸で出て来いと言われた方が、まだ精神的な衝撃はましだったのではないかと思った。
「おい! 早くしろ!!」
しかし、ここでためらっていては裸にこんな怪しげな下着一枚のところに踏み込まれる。意を決してバーナビーは派手だが頼りないヒーロースーツになんとか着替えた。
着心地は悪くないが、どこもかしこもぴったりと張り付いて、とにかく落ち着かない。
ただ虎徹の着ていたものよりは黒の面積が多い分だけましな気もするが、もしもこれであのマスクまで被れと言われたらその場で断る自信があった。
「おお、急ごしらえにしてはサイズが合っているな」
「……この生地にサイズもなにもないと思いますが」
「よし、ラオ様がお待ちだ。着いて来い」
マントは虎徹のものよりも長く、ネイサンのものを思い出す。触れてみるとスーツとは違う素材で、しばらく考えてバーナビーはそれが自分の本来のヒーロースーツのアンダーウェアとよく似た素材であることに気がついた。
(ちょっとした弾や炎ならこれだけでなんとかなりそうだな。肩や足回りの動きは悪くない。ただブーツはもう少し強度が欲しいな。キックが持ち技なんだから)
今度はラオの部屋に入り、玉座を動かす。壁と同化する色だが、よく見るとレバーが見えた。
黒服がそれを握って倒し、近くでなにか重いものが動く音がする。
「隠し通路?」
「そうだ。会場までのな」
「会場…?」
次に動かしたのは壁際の棚だ。そこからぽっかりと口を開けた暗い道が見えていた。
バーナビーの身長では少し頭がつかえそうな高さだ。心持屈んで少し進むと、奥に光が見える。そこにあったのは四人乗りのトロッコだった。
まるで遊園地のアトラクションのようで、バーナビーは海よりも深いため息をついて洗いたての巻き毛をかき上げる。
「こういうのが好きな人が捕まってたら面倒はなかったでしょうね。これだって喜んで着そうだし。……あぁ、でもどうせ僕が捜しに来る羽目になるか」
「ぶつぶつ言ってないで、乗れ!」
怒鳴られてむっと唇を尖らせながら座ると、低い駆動音を立ててトロッコが動き出した。あたりの様子から、どうやらここが炭鉱だったらしいと考える。
(枝分かれした道が多い……。ここで地図を持たずに逃げるのは命取りだな)
しかし、目指す目的地に向けてしっかりライトが点いているので不安はなかった。緩やかな高低差が落ち着かないが、バーナビーとしてもそれほど不快な気分にはならない。
どんどん遠ざかる入り口を振り返り、バーナビーは何気ない口調を装って訊いた。
「おまえたちは、鮫の研究もしてるのか?」
「なんだと?」
「鮫だ。先日、遺体が上がった」
「………ああ、その話のことは知っている」
反応が鈍い。当事者ではないが、なにも知らないわけではなさそうだ。そうあたりをつけて姿勢を正し、ドライヤーもコームも使えなかったことで、ふわふわとまとわりつく巻き毛をうっとうしくかき上げて続ける。
「サリの本島を覆う網に綻びはないのに、死体だけがあんな場所にあったら疑ってくれと言わんばかりですね」
「それは同感だが、あまり探るような真似はせんことだ。長生きできんぞ」
「………ウロボロスか?」
「なんのことだ?」
「なんでもない」
鮫騒動については黒、ウロボロスについては白――。そう判断して、バーナビーはトロッコに肘をついて物憂げに木材で補強されず、むき出しの土に変わってきた壁を眺めた。
深い場所なのだろう。気温が高くなってきた。
こんな場所では薄くても全身を包み込んだスーツは苦痛だが、文句を言っても仕方がないのでおとなしく運ばれる。
(あと残ってるのは、人身売買と…臓器の抜き取り? 僕自身が囮みたいなものかな……)
この男は組織の末端の一人に過ぎない。下手につついて面倒なことになるのは避けるべきだろう。
そう考えてスーツの首元を直していると、ようやく目的地に着いたらしかった。
まるで地下鉄のホームだ。身軽に飛び降りると、黒服ではなくて係員らしき若い男が伸びをしながら近づいてきた。
「はい、IDを確認ー」
「持ってません」
「は? あ? …え!?」
「だから、持ってません」
腕を組んで堂々と答えると、胡散臭そうな顔でバーナビーを見上げた若い男が後ずさり、遅れて歩いてきた黒服になにやら言われておとなしく頭を下げる。
「ど、どうぞ……」
「いいんですか?」
「や、いいですいいです。ハイ」
ずいぶんいい加減なセキュリティだ。そう思いながら黒服のあとについて歩くと、奥に見えていたカードチェッカーのある鋼鉄製の扉が開き、少し広い場所に出た。
足元もしっかりとした石造りで、天井も高い。
だが、バーナビーが入ったとたん、シュテルンビルトのスラムに来たのかと勘違いしそうな風体の男が十人、鋭い目で睨みつけてきた。
「ラオ様が貴様の実力を知りたいと仰せだ」
「……それで?」
「もちろん能力は使えない。この十人と戦って勝てたら、認めていただける」
「べつに認めてもらわなくてもいいですけど」
不機嫌に吐き捨てて肩をすくめたバーナビーに数人が早速気色ばむが、バーナビーは気にせずに腕を組んで黒服の男を睨んだ。
「視力のハンデはともかく、貴様の場合その顔も商売道具だったな」
「そうみたいですね」
「おい、ゴーグルは!?」
「出来ています」
にやついた黒服に声を掛けられて出てきたのは、いかにも下っ端らしい若造である。出っ歯の若造が大事そうに持ってきたのは、スクリーングラス型のゴーグルだった。ご丁寧にバーナビーのヒーロースーツのような耳までついている。
「こ…この上、それをつけろと?」
「似合うんじゃないか?」
うれしくはない。だが、虎徹の旧スーツのマスクよりはマシなはずだ。
頬を引きつらせながらも腹を決めて装着してみると、不安定だった視界がいきなりクリアになった。急ごしらえにしてはきちんと合わせたものだと妙なところで感心する。
だがピンク色のクリア素材の耳の部分はただの飾りだったようで、いくら触ってもなにも起こらなかった。
実用性がないならこんな「耳」はからかいの種になるだけだ。
「可愛いじゃん、ウサギちゃん?」
「よせよ。英雄が泣いたらどうするんだ」
案の定、バーナビーを囲むいかにも後ろ暗い生き方をしていそうな連中が囁きだし、バーナビーはうんざりと十人の中心に立った。
「能力を使わずに…ですね? 時間制限は?」
「ない。くれぐれも顔に怪我をするな。俺たちはラオ様に従って別室のモニターで見る。すでに宣伝費用が掛かってるんだ。仕事をしろよ、ヒーロー?」
うるさい。口の中だけで吐き捨てて、黒服と心配そうな若造がさらに奥の扉に消えるのを待つ。
開始の合図もなかった。
まず声も立てずに後ろにいた男がバーナビーに向けてナイフを突き出し、軽く避けて肘の関節を握って脚払いを掛けて投げる。
「うお…ッ」
「いてえッ!」
投げた先は、連携してバーナビーを左右から挟み撃ちにしようとしていた兄弟らしき二人組だ。派手な音を立てて転がったが、人数が多いので手加減は出来ない。
「くそッ、ちょこまかと!」
今度は三人だ。逃げ道を塞ぐつもりで突進してきたのだろうが、能力を発動しなくてもバーナビーのジャンプ力は常人を遥かに凌ぐ。彼らが見たのは翻るマントだけだった。
正面からぶつかる三人の向こう側に着地し、そこで待ち伏せしていた男の拳を軽く受け流して急所に膝を入れ、なんとか体勢を整えようとした三人まとめて得意の蹴りでなぎ払う。
残ったのは慎重な三人だ。じりじりと距離を詰める顔に汗が浮かび、人数を頼りにしても無駄だと悟った表情には殺気が満ちていた。
「来ないんですか?」
膠着状態は面倒だ。マントを払って声を掛けると、挑発に乗った一人が投げナイフを振りかざし、身構えた隙を逃すまいと二人目が背中から羽交い絞めにしてくる。バーナビーはあえてかわさなかった。
体格と体重差は瞬時に判断できる。背負い投げの要領で後ろの男を正面に投げ飛ばし、ナイフは音を立てて投げられた男の臀部に刺さった。
「な…ッ」
もう一度ナイフを取りに手を動かした時にはバーナビーが正面に迫り、胸倉を掴んで壁に叩きつけている。
あっさりと脳震盪を起こして気を失った男を引きずったまま、バーナビーは残った最後の一人に向き直った。
「てめえ…ヒーローのくせに…!」
「そういう貴方は高みの見物でギャラが貰えるんですか? ずいぶん楽な仕事ですね」
「くそッ!」
ナイフを握った手も震えている。相手にするほどの価値もないが、バーナビーはそれ以上なにも言わずに男の動きを待った。
だが、男が隠し持っていたものに気づいて眉をひそめる。銃だ。
『銃の使用は禁止したはずだ!』
「うるせえッ!」
スピーカーから鋭い制止が掛かるが、男はやけくそになったように吼えて銃口をバーナビーに向けた。
使い慣れていないことが丸わかりの構え方だ。女性の護身用に使われるような小型の銃は貫通力も低く、当たり所に気をつけさえすれば即死はしない。しかし当たれば体内に弾が残って、面倒な手術を受けなくてはならなくなる。
バーナビーの判断は早かった。男に向けてまだ掴んでいた若い男を投げつけ、驚いてでたらめに発砲させた直後に壁を蹴って背後に降り、首をホールドする。
「うああッ!」
強力な握力で握り締めた手首が鈍い音を立て、ゴトリと重い音を立てて銃が足元に落ちた。
「あんなものを使って……簡単に人を殺すなんて」
声に滲む怒りを、バーナビーは隠せなかった。暴れる男の首をへし折らなかったのは、バーナビーなりに堪えたからだ。
「よし、それまでだ。おい、連れて行け」
「! い、いやだ…ッ!!」
満足そうな黒服が入ってきて、後に続いた細い目の男がバーナビーの腕から竦みあがった男を奪う。
「た、助けてくれよ! バーナビー!! ヒーローなんだろ!? まだ死にたくねえぇッ!!」
「先に殺そうとしておいて図々しい。バーナビー、ラオ様がたいそうお喜びだ。さすがは英雄だな」
「………あの男はどうするんだ? ここにいる者たちは?」
「貴様が気にするようなことじゃない。それとも、自分を殺そうとした男を助けてやりたいとでも?」
「それは………」
嫌だ。言ってはいけない本音が心にあった。
だが、慌てて首を振り、バーナビーは「頼む」と呟いて項垂れる。
バーナビーの願いに違和感を感じなかったのだろう。黒服の男がそばをうろつく先ほどの若造になにやら耳打ちし、もう一度「来い」とバーナビーを呼んだ。
「もう二度とこの界隈でごろは巻けんだろうが、十分だろう?」
「あ…ありがとう」
自分の罪悪感まで救われた。そんな気持ちで小さく礼を言うと、黒服の男が鼻を鳴らして会話を打ち切り、また鋼鉄製の扉を開けた。
現れたのは鉄製の螺旋階段だ。それほど離れていない場所から賑やかなざわめきが聞こえてくる。
黙ってあとをついて上ると、左右にやけに立派な扉が並んだ廊下に出た。もうこのあたりの造りはむき出しの土や木材はない。きちんと設計されて建てられたものだ。
「ラオ様、バーナビーをお連れしました」
「おお、よし。入れ」
上機嫌の声に誘われて中に入ったが、こんな酔狂な恰好をさせられた上、柄は悪いが素人十人に怪我をさせる羽目になったバーナビーの機嫌は斜めを通り越して直角になっている。
ゴーグルが暗い色つきで視線が見えないのをいいことに、バーナビーは昨日にもまして丸く柔らかそうに椅子の上で贅肉の形を変えるラオを睨みつけた。
「まああの程度の輩に手こずるようなら高値でどこぞの資産家にでも売るつもりだったが、さすがだ。これがなにかわかるか?」
「いえ」
相変わらず趣味の悪い装飾品に囲まれた狭い部屋には、壁一面にモニターがあった。
様々な名前の横に数字が出ていて、それが目まぐるしく変化している。
「さては賭博を知らんか。これがオッズだ。おまえの参戦で面白いことになった」
「僕の…参戦?」
「そうだとも。さて、ではおまえの仕事内容を言おう」
「はい」
「勝て」
「は?」
ずいぶん端的な一言に、バーナビーは間抜けな声で聞き返してしまった。
「能力を使わず、凶器を持った相手にも素手で勝つ。それが貴様の仕事だ」
「……いつまでですか? こんな悪趣味な遊びにいつまでも付き合わされるのは我慢なりません」
苛立ちを隠しもしないバーナビーの返事にラオの脇に控えていた側近が気色ばむが、ラオは片手を上げて黙らせ、脂っぽい顔に笑みを浮かべて答える。
「とりあえず、わしの手元からあの男の身柄を買い取るのに必要な賞金を稼ぐには、負けずにどこまで連勝できるかにかかっている。とりあえずは、十勝することだな」
「十勝……」
「さっきのごろつきどもとは違う、もと札付きの犯罪者や傭兵などの猛者揃いだ。休憩を挟まずにそれだけ勝てれば受け取る賞金額も跳ね上がるからな」
「一回ではすまないということですね」
「そうかも知れん」
無感動に答えると、バーナビーはさっさと部屋から出ようとラオに背中を向けた。
だんだん肌に馴染んできたスーツのマントが翻り、それが気障な仕草に思えてなんだか情けない気分になる。
「バーナビー、どちらにしろ、おまえの身柄はもうわしのものだ。地下試合に出場した時点でヒーローの資格も剥奪されるだろう。このままわしの駒にならんか?」
「……ヒーローではなくなった時点で、僕の殺意を阻むものがなくなることをお忘れなく」
怒った側近が突進してくる前に扉を閉め、だんだんバーナビーの物言いに慣れてきた黒服の男が笑ってこの先の扉を指した。
「試合会場はこの先だ。せいぜい気張れよ、ヒーロー」
無言で歩き出すと、厚い扉の向こうから大勢の者の気配を感じる。
(……バカンスに来たつもりが、これじゃオジサンを笑えないな……)
アントニオの友人、ロベルトはきっと今も不安な気持ちで自分の安否を気遣っているだろう。
そう思うとなんだか張り詰めていた肩の力が抜けた。
『ついに現れたーーーッ!! 王者ドンゴに対するは、なんとシュテルンビルトの英雄、バーナビー・ブルックスJr.! オリジナルのヒーロースーツで登場だーーー!!」
扉を開けた瞬間、HERO・TVのマリオを彷彿とさせるテンションの高い紹介が響き、一瞬静まり返った場内から怒涛のような歓声が沸きあがる。
、
(なんだ…ここは!?)
そこは千人を余裕で超える人々がひしめくドームだった。ビリビリと、空気だけではなくバーナビーの皮膚まで痺れたような感覚が走る。
すり鉢上に低くなった中央に大きなリングがあり、そこに立った隻眼の大男が得物らしき鎖鎌を握って呆然と自分を見上げていた。
狂ったように連呼される自分の名を、バーナビーは息を呑んでただ聞き入った。
もう、取り返しがつかない。
覚悟を決めたはずがここで揺らぐのは、弱いからだ。
(虎徹さん……貴方なら、どうしますか……!?)
訊くまでもない。自分しか助けられない者がいるなら、あの男はどんな場所にだって赴く。そして手を伸ばすに違いない。
まるで、戦場の空気だった。しかしいつでも隣にいた男はいない。
バーナビーは一人なのだ。
自分だけで戦い抜き、そしてヒーロー仲間であるアントニオの友人を救出しなければならない。
(辞めなくちゃいけないと決まってから、ヒーローの気持ちになるなんて……間の抜けた話だ)
そんな自分の心の変化に気づいて、バーナビーの口元に苦い笑みが浮かぶ。
俯いて、やっと見えた自分の心の一部を見据える。まだ迷いは残っていたが、それだけではなくなった。十分だと思った。
だが、バーナビーが立ち止まって深呼吸した時である。
『おっと!? 王者ドンゴの様子がおかしい!!』
戸惑った実況に続き、周囲の人々の歓声が徐々にどよめきに変わって行く。
驚いてリングを見たバーナビーの目に、極めて細いワイヤーが見えた。一目でそうとわかったのは、バーナビーが何度も見たことのあるものだったからだ。それがあの鎖鎌を握った屈強な男の腕に伸びている。
「その勝負、待ったァッ!!」
――まさか。
息を呑んだバーナビーの耳に飛び込んだのは、よく知っている男の声だった。
ワイヤーに引き寄せられるように、リングの中央に鍛えられた鞭のように引き締まった身体つきの長身の男が飛び降りる。
見慣れたシャツとベスト、そして頭のハンチングを抑える仕草が、あまりに久しぶりに思えて、バーナビーは今度こそ夢を見ているような気がした。
『一体この男は……んん!?』
ドンゴの太い腕からワイヤーを解き、堂々と顔を上げた男の目元は、黒いマスクで隠されていた。特徴的な顎のヒゲが少しくたびれ気味に見えるのは、バーナビーの目の錯覚に違いないと思う。
年齢を感じさせない小気味良いほどの身のこなしが、驚くほどに懐かしかった。
こんな男がこの世に二人といるはずがない。
バーナビーが相棒でいることを諦めたばかりのヒーロー、ワイルドタイガーである虎徹だった。
「なんだァ、てめえはァあ!!」
「うるせえ! おまえにアイツの相手が務まるか! いいから掛かって来い!」
ようやく事態を飲み込んだドンゴが丸太のような腕を振り上げて咆え、虎徹が姿勢を低くして構える。いつもは優しい目にある鋭い光は、バーナビーが初めて見るものだ。
「こて…おじさん! 能力を使ってはいけないッ!!」
この体格差では能力を発動するかも知れない。バーナビーは慌てて叫んだ。
鉄柱に拳の型がつくほどのドンゴの攻撃をかわした虎徹が目を丸くして振り返り、牙を見せてにやりと笑った。獰猛な表情には余裕があり、バーナビーの心配が杞憂に過ぎないことを知らせてくれる。
「沈めよ」
虎徹に比べ、ドンゴの動きは鈍い。ドンゴが振り返る前に姿勢を整えている虎徹の唇の動きを読み、バーナビーの鼓動が跳ねた。
鎖鎌は距離があれば強力な武器だが、懐に入られると使えない。遅まきながらそれに気づいたドンゴが虎徹に投げつけるも軽くかわされ、一瞬でドンゴの懐に入った虎徹の拳が分厚い筋肉に覆われたみぞおちに直撃した。
「…ッ!」
声もなく白目を剥いたドンゴ自身よりも、肉の深い部分を打ったかすかな鈍い衝撃音を聞いたバーナビーの方が、苦しい気がする。
地響きを立てて半裸の大男がリングに沈み、会場が静寂に包まれた。
虎徹は息を乱した様子もない。軽く肩を回してハンチングを取り、気障な仕草で一礼した。
『なんと…なんと、なんとッ! この場面で現れたのは英雄バーナビーとコンビを組む相棒、ワイルドタイガーだー!!』
怒涛のように返ったのは歓声だ。そして、実況の声をかき消すように「ワイルドタイガー」の名が連呼される。
笑って会場の人々に手を振る虎徹がぽかんと立ち尽くすバーナビーに向き直り、にやりと笑ったまま、挑発するようにくいくいと指で呼んだ。
小馬鹿にする仕草を見た瞬間、バーナビーの闘争心に火がつく。
リングに上がる階段を使うのももどかしく、バーナビーは太いロープを掴んでひらりとリングに飛び乗った。
「どこをほっつき歩いてんのかと心配したら…なんだ。似合うじゃねえか」
「からかわないでください。どういうつもりですか?」
「見たらわかるだろ。こんなとこで掛け試合なんかにエントリーしやがって、バレたらクビで済まねえぞ?」
「その掛け試合に飛び入りした貴方はどうなんです?」
「俺はおまえを連れ戻しに来ただけだからいいんだよ」
「人を挑発しておいてよくも……」
悩んだ分の深さだけ、気楽な表情を見るにつけてバーナビーの怒りは心頭だ。
ただ、冷静な頭の片隅でラオの言葉を思い出して慌てて首を振る。
ここで自分が帰ることを選択することはできない。距離を取り、身構えて虎徹に対峙した。
「おい、バニー?」
「貴方が僕の対戦相手を奪ったんです」
「待てよ。本気で俺とやりあうつもりか?」
「ここまで来て怖気づきましたか?」
こちらも負けずに挑発すると、ぴくりと虎徹の眉が動く。
救護班が駆け寄るのを待たず、虎徹が痙攣しているドンゴに歩み寄り、力任せにリング外に放り投げた。
『まさかこれは…タイガーVSバーナビーか!?』
実況の驚愕の叫びに案客がどっと沸き上がる。
「……このクソガキが。もうお尻ぺんぺんじゃ赦さねえぞ」
「そういうの、年寄りの冷や水と言うんですよ。オジサン」
視界の端に、頭痛を堪えるような表情のネイサンが見えた。
だが、バーナビーの視界に他人が入ったのはそこまでだ。
限界まで心臓が早鐘を打ち、見えるのは今まで一度も自分に向けられることのなかった金褐色に見える獰猛な双眼――。
ハンチングを押さえ、表情を消した虎徹から立ち上った空気と凄みに、バーナビーの毛穴がぶわっと開いていく。
「来いよ、坊主」
割れんばかりの歓声の中でも、バーナビーの耳には虎徹の声がはっきり聞こえた。
邪魔なマントを脱ぎ捨て、リング外に投げる。半歩後ろに引き、バーナビーは全身の筋肉をバネにして悠然と待つ虎徹に向かって得意の蹴りを放った。
――― to be continued.
説明 | ||
■木守ヒオの、虎兎をメインで書いてる方です。今回これ上げるの、ちょっと勇気いった…! 恥ずかしい…!! 原作ですでに書かれてる場面とか、今さら感かなーと思ったんですが、放送中から思いついて書きたかった分だから書かせてください。ぺこり。■ | ||
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TIGER&BUNNY バーナビー・ブルックスJr. 鏑木・T・虎徹 | ||
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