とある旅人の道中日誌【完結】
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[とある旅人の道中日誌]

 

 

 

「…しまった」

 

宿での夕食を終え、ゆったりとした団欒の時間。

三度笠を被り縞模様の合羽を着た少年が突然ぽつりと呟いた。

日は暮れかけ、部屋のなかはやんわりと暗くなってきている。

少年は、まだ明るいうちに荷物の整頓をしておこうと、少し前からごそごそと荷物をいじっていたらしく、目の前にはたくさんの野球札と小さな財布が置いてあった。

そんな少年の突然の呟きを聞きつけて、緑の着物を着流した青年が少々慌てたように声をかける。

 

「…どうした?野球札でも盗られたか?」

 

机で頬杖をついて微睡んでいたためか、青年の声には若干の戸惑いの色が浮かんでいる。

そんな青年の声に驚いて、道着を着た総髪の女性も慌ててきょろきょろとあたりを見渡した。

柱に寄りかかっていた彼女は、軽く眠っていたのだろうか。少しぼんやりとしたまま目をこする。

 

女性の視線の先には、少しうなだれた少年の姿。ふたりは慌てて少年の傍に近寄り、後ろから覗き込んだ。

少年の手元に広がる野球札を眺め、ふたりは不思議そうな顔を作る。

別段、おかしな所はみあたらない。

 

 

巷で大流行りの野球カードゲーム、野球札。

野球札を持つ人は札侍と呼ばれ、老若男女問わず対戦にあけくれていた。

しかし野球札は『野球札での勝負で負けると、自身が札にされてしまう』そんな困った性質を併せ持っていた。

 

そのため、野球札が強い人には誰も逆らえない。

悪さを咎めると、野球札の勝負にもちこまれ、勝てぬ場合は札にされてしまう。

札侍に逆らった時も、札侍の機嫌を損ねた時も。

『野球札が強い』

それだけで何をしても許される世の中となってしまった。

 

札にされても死にはしないが、身動きもとれず言葉も発せない。

ただただ囚われの身となり、毎日を札として生きるしかなくなってしまう。

 

そんな世を直すため、少年はふたりの仲間を伴って旅に出た。

ショーグンから命を受け、半ば自主的に、全国をまわる世直しの旅に。

 

そんな世直しの旅の途中。ここはエドのとある一角。

宿屋や茶店の他に、見世物小屋が建ち並ぶ賑やかな場所。

道中賑やかさに惹かれ、あちらこちらの見世店へむやみやたらと寄ってしまい、気がつくと日は暮れ、あたりは薄暗くなってしまった。

整備された街道とはいえ、夜に歩みを進めることは危険をともない効率も悪い。

やむなしと三人は宿をとり、少しばかり足を止めることとなった。

 

 

昼間の華やかさが嘘のような、滑らかな闇に包まれて宿屋の周りは静けさを保っていた。

少し手元も見えにくくなり、急いで青年は行灯に火を点ける。

灯りをつけたからといって、真昼のように明るくなるわけではない。

行灯の油の量を確認し、少し継ぎ足す。これでしばらくは灯りが切れることはない。

青年は少し考え、小皿を手にとり油を注ぎ芯を浸して火を点けた。

小さな灯りを手に持って、油を零さないように慎重に運び、机の上にとんと置く。

これで明るさがまちまちの部屋にいるより、幾分か全体が薄ぼんやりと明るくなった。

 

ろうそくは高価で、その割にはそれほど明るくならず、行灯は安価だがなおさら暗い。

通常は灯りをつけるのもそこそこに、暗くなったら眠ってしまうのが常識であった。

夜中に起きていてもなんの得にもなりはしない。夜に動くは馬鹿か阿呆、もしくは化け物と相場が決まっている。

どこぞの忍や密偵でさえも、夜中にふらふらと動きはしない。

 

ぼんやりとした薄明かりのなか、ふたりの仲間に顔を向けながら、少年は困った顔をして、こう、言った。

 

「路銀が尽きた」

 

ぽつりと、しかし、はっきりと。

その言葉を聞き、ふたりの仲間は一瞬呆け、ひとりは怒鳴り、ひとりは静かに目を瞑る。

怒鳴ったのは緑の着物を着た青年。馬っ鹿野郎、と少年を軽くひっぱたく。

 

「ここの支払いどうすんだ!」

 

「それくらいはあるよ。でも…」

 

怒鳴られ少々怯みながらも少年は言葉を返し、それ以上は無い、と口調を淀ませる。

そんな少年を見て、青年は眉を下げ、どうしようかと頭を抱えた。

そんなふたりの会話を聞いて、静かに目を伏せていた総髪の女性が、少年に話しかける。

 

「…1両も残らないのですか?」

 

「…」

 

そう問われた少年は、彼女から目を逸らして俯いた。

少年の挙動をみて、彼女も困ったように眉を下げる。

 

誰からともなく三人全員で、重い重いため息をついた。

 

しばらくの間、外も中も音がせず、静寂に包まれていた。

そんな空気を打ち破ったのは先ほど怒鳴った青年だった。

少しばかり呆れたように、少しばかりため息まじりに、少年に声をぶつける。

 

「…そもそも、お前が無駄に札を買うからいけないんだろうが」

 

「だって、店を覗いたら『新』の文字が燦然と輝いていたから」

 

「無駄に新しい札全部買うんじゃねぇよ…」

 

青年がごくまっとうな発言をすると、少年は伏せていた顔をあげ、青年の目を見据えながら大きな声で叫んだ。

 

「だってコンプしたいんだよ手元に全部置いときたいんだよ揃えたいんだよ並べたいんだよ図鑑を埋めたいんだよ!」

 

「…お前…」

 

己の願望をひと息で吐き出した少年に物凄い剣幕で睨まれて、青年は心の底から呆れた顔をしながら、再度重いため息をついた。

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少年はむやみやたらと新しい札を買い、図鑑が埋まるのをみてはにこりと笑う。

人一倍収集癖があるのだろう、暇さえあれば札を眺めていた。

 

ショーグンに「悪い札侍を退治してきてくれ」と言われても、少年はひと月の間エドから出ず、ただ黙々と青年の道場で野球札の練習をし続けた。

その理由が「野球札の試合でもっと強くなりたい」などではなく、「練習で勝ったら新しい札くれた」というだけだったから恐ろしい。

少年は、青年から新しい札を根こそぎ奪うまで、道場に通うことをやめなかった。

 

青年が新しい札を渡さなくなると、少し悲しそうな顔をしつつ少年は「トカイドー行く」と、ようやく重い腰をあげた。

「これから毎日のように野球札の勝負があるぞ、だからデッキ構築はしっかりと、複数のデッキを作れ」と青年が忠告しても、少年は聞く耳を持たない。

「絵が好き」というだけで札をデッキに組み込み、同じ札を複数組み込んだりはしなかった。

「だって、試合中でもいろんな札をみたいじゃないか」と微笑みながら札をデッキに突っ込んでいく。

 

(…あれで、勝率高いのが解せない)

 

青年は目を閉じ、ふうと息を吐き出した。

眼下に広がる、路銀と引き換えに手に入れた、たくさんの野球札。

青年が「仕方ない、少し野球札売れ」と少年に言うと「嫌」と首を横に振られてしまう。

 

「なんでだ?『伝令』の札が無駄に大量にあるじゃねーか」

 

「…人から貰ったものを、簡単には売りたくない」

 

青年から目を逸らしつつ、少年はそう呟く。

少年が大量に持つ『伝令』の札は、全て青年から貰ったものだった。

練習に勝っても負けても「次はこれを使ってみろ」と青年が笑いながら手渡した札。

「可愛い絵柄だね」と少年も笑い、喜んでデッキに入れていた。

渡したら喜ばれたのと、数枚もっていたこともあって、青年自身も事あるごとに快く譲っていた。

元々自分が渡したものを「売りたくない」と言われてしまった青年は少しばかり困ってしまい、とりあえず少年の頭を再度ひっぱたく。

痛そうに自分の頭を撫でる少年を尻目に、青年は広がる野球札を片付け、もうひとりの仲間を傍に呼んだ。

三人で話し合おうと車座になって座りこむ。

よっつの眼に見つめられ、少年は落ち込んだ声を出した。

 

「ごめんなさい」

 

少年が、無計画に買ったのは事実だからと申し訳なさそうな顔でふたりの仲間に謝罪した。

やってしまったものは仕方がない、とふたりの仲間は少年を責めない。

金の管理や札の管理を少年だけに任せていたのも原因のひとつ。

買って後悔しているならば幾らでも責められようが、少年は微塵も後悔の素振りをみせていない。

『買わなきゃよかった』とひとことでも呟けば容赦なく売りにいけるものの、現状少年は「売る」と言う単語を聞いただけで泣き出しそうにみえる。

『なんとかするから、なんでもするから、札は売らないで』と縋ってだだをこねそうだ。

 

どうにもこの少年は世間に疎く、基本的な生活や決まり事を知らない。

土地勘は若干あるものの「あ、ここがそうなのか。少し違う世界とはいえ、あまり変わらないんだな」と不思議なことを言う。

たまに土地名を聞き「ここ、こんなだったのか。あっちでも昔は何もなかったのかな」と興味深そうに辺りを見渡していた。

まるで、その地によく似た場所の『未来』の姿を知っているかのように。

 

そんな少年に「責任とって稼いでこい」などと言えば、本当に何をするかわからない。

「稼げ」と言えば責任を感じて、少年はなりふり構わず働くだろう。

しかし必死になればなるほど、まわりは見えなくなってしまう。

運が悪ければ、誰かに騙され、どこか知らない地に連れて行かれ、おそらく行方知れずとなってしまうだろう。

それは駄目だ、と少々遠い目をしながら、青年は軽く息を吐き出しつつ天井を仰いだ。

 

旅を始める前、仲間のふたりは『少年に協力する』と約束した。

三人は血縁者でもなく、師弟でもない。ついこの間出逢ったばかりの赤の他人。

ならば約束など反故にしてしまえばいい。

 

しかし、様々な地域から様々な人が様々な理由で訪れるこのエドの街。

そこに住んでいた仲間のふたりは、困っていたら助け合い、支援しあうのが当然だった。

道に迷えば導いて、疲れたときは休める場所を教え、物を落とせば迷わず拾い上げ渡してやる。

それが至極当然で、当たり前の日常を送っていた。

 

ただ当たり前のことをしていただけだったが、旅をしはじめ『支援される側』に回ってみて、改めて実感した。

 

人とはあたたかいものなのだと。

 

そうでない人も確かにいる。が、それ以上にあたたかい人が多いのだと。

「もうすぐ茶店があるぞ」と何度言われただろうか。「分けてやるよ」と水や食べ物を何度貰っただろうか。「危ないから気をつけて」と何度声をかけてもらっただろうか。

にこやかに笑顔で『頑張れ』と。以前自分が行ったように、当然のように返される。

 

『困っていたら助け合う』この地には、この国にはそんな精神が宿っているのだろう。

青年たちにとって、少年は恩人でもあった。

困っていたときに助けてくれた。

ならば自分たちも助けなくては。お互いに助け合わなくては。

 

そう、ふたりの仲間は考えてしょんぼりと落ち込む少年に目を向けた。

普段は快活な少年ではあるものの、札のこととなると人が変わる。

いつもとは真逆の状態になっている少年に、少しばかり笑ったものの、そんな場合じゃないと青年は頭を掻いた。

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頭を掻きつつ、青年はどうしたものかと思案する。

このあたりのことはよくわからなかった。

確かに住み慣れたエドではあるが、エドという地はとてつもなく広い。知らぬ土地などいくらでもある。

 

外の国には、グレートクインやパラボルト、アカエリスタ王国など様々な国があるが、そのどの国の主要都市よりもヒノモト国の主要都市は広かった。

世界一の大きさをもつヒノモト国の主要都市、それがエドだ。

土地の大きさ、訪れる人や住んでいる人の数、それらは外の国に負けない、この国の誇れる部分だった。

とはいえそれは、住人たちの預かり知らぬ所ではあるが。

 

エドに長年住んでいた青年でさえも、このあたりには遊びに来る以外あまり訪れない。

土地勘はあるものの、見世の位置を知っているくらいで、それ以外のことは何も知らなかった。

 

金策としては野球人形を納品したり、野球札での勝負にて、賞金をせしめるという方法がある。

が、野球人形を作るにもパーツが足らず、札勝負をしようにも、このあたりには札侍自体があまりいない。

見つけたとしても、札侍はここに遊びにきているためか「今はちょっと」と断られてしまうだろう。

真剣勝負ならば断れない。が、戯れに試合をするだけならば、野球札を賭けて試合するならば、『遊び』や『手合わせ』の一種となる。

断っても問題ない。

 

以前、侍たちが刀を使って行った真剣勝負。それの代わりとなったのが野球札だった。

侍たちは刀を置いて、野球札を持った。それだけの事。

つまるところ、刀での勝負と基本の規律は変わらない。

 

青年は困ったように息を吐き出した。

この地は完全に娯楽の街。野球札を持ち出すこ自体が、無粋とされかねなかった。

 

ここらは娯楽のために作られ育った、エドのなかでも特殊な粋と人情と変わり者の街。

この地は夜に出歩く馬鹿もいる、が『化け物』はいない。

見世には手足が異様に長い者、人間離れした動きができる者、少しばかり人とは違ったちからを持つ者らはいるものの『彼ら』は少し奇特なただの『人間』だ。

「自分は他の人とは違うから」と嘆くばかりで、他人に助けてもらうのを今か今かと待ちわびる、そんな自分勝手な『化け物』に生きる価値など毛ほどもない。

逆に、自ら『生きたい』と、奇異の目で見られるのも構わず、見世で笑い人々を楽しませようとする、彼らのどこが『化け物』なのか。

『人間』として自ら動いた『彼ら』を突き放すことなく受け入れる。この地はそんな穏やかな賑やかな場所。

 

そんな毛色を持つこの街には、幕府がわざわざ大金をかけて作り上げた娯楽施設がある。それがこの街を特殊としうる証拠だろう。

 

青年がふいにそう呟くやいなや、今まで静かにしていた女性が表情を急に明るくさせ嬉しそうな声を出す。

 

「そんな場所があるのですか、ならばそこで働きましょう!国が作った娯楽施設ならば大きいのでは?日雇いの仕事があるかもしれません!」

 

「…え?」

 

思いもしなかったことを提案されて、青年は思考が完全に停止した。

そんな青年をみて、女性は顔を曇らせる。

 

「…働くには研修や勉強が必要な厳しい場所なのですか…?」

 

「あ、そんな感じの大きい娯楽施設なら知ってる。海の近くにある夢の国。…そこ、ネズミとかいないか?」

 

女性の言葉に反応して、少年も会話に混じり青年に問う。

青年は「え?あ、ああまあ厳しいなうん勉強は必要みたいだな、あ?夢の国?ああ確かに夢の国みたいなもんか。そりゃ鼠くらいならいくらでもいるだろうが」とされた質問にだけ答えた。

若干目が泳ぎ、戸惑っている様子だ。

 

そんな青年の態度を不思議に思いながらも「明日朝一番でそこにいってみましょう」と女性と少年は笑いながら提案した。

その提案を聞いてようやく青年は我に返り、驚いたような、困ったような声を漏らす。

 

「あ、や、待っ……おま、お前ら本当に、知らないのか?」

 

このあたりにある、とても有名なとても特殊な娯楽施設のことを、と青年はふたりに問い、その場所の名を口にした。

その名を聞いても、ふたりはきょとんとしたまま「知らない」と声を揃えるばかり。

 

「なんか地味な名前だな」

 

「元々『葦』が生い茂る『原っぱ』だった場所に建てたんだ。で『葦』は『悪し』ともとれるから、縁起が悪いってんで逆の意味の言葉を当てはめて…ってそれはどうでもいい!」

 

律儀に地名の由来を教えたものの、「知らないけどとりあえず行ってみる」と決意しきったふたりをみて、青年は心の底から困りきってしまった。

このふたりが一度決めたことを覆すとは思えない。

ふたりとも、妙に真面目で妙に頑固な奴だということを、短い付き合いだが青年は十二分に理解している。

しかし、体格はいいが時たま妙に子供っぽい少年と、誠実厳格世間知らずな女性を『あの場所』に連れて行くのは気がひける。

 

戸惑っている青年をよそに、「明日のために早く寝よう」と決め込んだふたりは早々に就寝の支度をはじめた。

このまま流れに身を任せては、何も知らない女子供をあそこに連れて行かねばならなくなる。

慌てて青年は「ちょっと待った!」と声を荒らげた。

 

突然の青年の大声に、ふたりは身体をびくりと反応させ青年の方に顔を向ける。

そんなふたりの驚いたような顔をみて、青年は一瞬ぴたりと止まってしまう。

思わず大声をあげたものの、あの場所について一から説明するのは難しく、また気恥ずかしい。

「えぇと、その」と言葉を淀ませながら、青年は思考を勢いよく回転させる。

 

そして、少しばかり混乱しながら、ごちゃごちゃした頭で考えついた、おかしな事を口走った。

 

「そ、そこに行けるか働けるかの、試験をしてやるよ」

 

と。

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試験、と聞いてふたりは顔を呆けさせる。

働くならともかく、行くにも資質が必要なのか、と疑問に思い、その旨を青年に問いかけた。

しかし青年は「ああ必要だ」とそっぽを向き、詳しく説明してくれない。

 

「いいか?俺が客でお前らが従業員だと仮定するぞ」

 

そう言って青年は、ふたりを布団の前に座らせ、そのまま有無を言わさず『試験』を開始した。

明日の朝にでもつまもうと、買っておいた団子をふたりの前に置き、保存食も飲料もとんとんとんと並べていく。

目の前に並べられていく、たくさんの食料を不思議そうな顔で見つめながらふたりは青年に「食べていいの?」と問いかけた。

 

「いや、駄目だ」

 

「団子だけでも」

 

「駄目だ。…団子も保存食も飲み物も絶対食うなよ?」

 

青年の返答を聞き、じゃあなんで目の前に並べたんだ、と少年は怪訝な顔をし、お団子…、と女性は切なそうな顔になる。

そんなふたりを完全に無視して、青年は「芸者呼んだり派手にするのは無理だからなぁ…」と呟いて、荷物の中から数冊の書物を取り出した。

 

「今から俺がこれを読む。が、一切反応するな。食うな飲むなこっち見るな声を出すな反応するな。無表情と無視を決め込め」

 

わかったな?と青年は凄み、その迫力に負けて少年と女性は慌てて頷く。

ふたりが承諾したことを確認した青年はふたりの前に座り、一冊を手にとり声を出して穏やかに読み始めた。

 

昔々の物語。世界をくるりと回って、大冒険したとある水夫のお話。

遠い国の物語。実際あったかはわからない、事実であるとは限らない、書物としてはお粗末なお話。

長い長い物語。ひとりのなんの変哲もないただの人間のお話。

 

青年は語る。緩やかに、時には激しく時には静かに緩急をつけ、やんわりと物語を紡ぎ出した。

青年に「反応するな」と言われていたふたりも、青年の語り口に引き込まれ、物語が終わったころには、海の向こうの船乗りに想いをはせていた。

青年が語り終わり、ぱたんと本を閉じたのを合図に、ふたりは「面白かった」声を出し、ぱちぱちと手を叩いてしまう。

そのとたん、青年は「…ふたりとも不合格だな」と笑った。

 

「…あ…」

 

「無理だ。諦めろ」

 

若干ほっとしたように青年は言い放った。が、ふたりはまだまだ諦めない。

困った顔をしながら「そこに行くほか、稼ぐ方法が思いつかない、もう一度挑戦させてほしい」と青年に必死に頼み込む。

ふたりの懇願を聞き青年は絶句したものの、(口で説明するよりも、とことんやって諦めさせたほうが楽か)、と考えなおし、「わかった」と呟いて次の試験の準備をはじめた。

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青年が次に用意したものは、数枚の半紙と墨と筆。それをふたりに手渡し、こう言った。

 

「文を書け。…そうだな…『しばらく逢っていない男性に向けて「会いに来てくれ」と誘う』感じの恋文みたいなもんだ」

 

「…俺も?」

 

少し困ったような顔をして、少年は己を指差した。表情をみるに『男が男に恋文書くのか』と戸惑っているようだ。

 

「…………、頑張れ」

 

「……」

 

若干涙目の少年とは逆に、顔を真っ赤にしながら青年を睨む女性。そんな女性に対し、青年は「なんだよ?」と目を逸らした。

 

「試験というから何かと思えばなんですか!こ、こ、こ、恋文を書けとは!」

 

「…字の読み書きは出来るだろ?」

 

「出来ますがっ!」

 

この国は国民の識字率がおおよそ七割。大半の人が自分の名前や、簡単な漢字や平仮名くらいならば書けるし読める。

町人であっても書物くらいは読めるだろう。でないと貸本屋なり瓦版なりが、あんなに広まるわけがない。

「読めるし書けるなら早く書けよ」と青年が促すと、女性は頬を赤らめ、渡された筆を折りそうなくらいに握りしめながら大きな声で叫んだ。

 

「そもそも!恋文というものは連れ添いたい男性や恋仲となった男性もしくは恋い焦がれる男性に対し溢れる想いを伝えるものでありこんな簡単に書くなどやってはならないものでっ!」

 

いきなり始まった女性の途切れることのない演説を、男性ふたりは目を点にしながら聞くこととなってしまう。

しばらく延々と休むことなく喋っていた女性は、一通り語り終えたのか、気付くと顔を真っ赤にしながら、息も荒く押し黙っていた。

後半完全に聞き流していた青年は「…もういいか?」と呆れながらようやく口を挟み、少年はぐったりとした表情のまま動かない。

青年のひとことに反応し、女性は再度大声をあげる。

 

「ですから!」

 

「じゃあ、『出来ない』ということで不合格でいいな?」

 

「なっ…!」

 

女性は驚いた顔をして、言葉を詰まらせた。表情が困った顔に変わり、少し思案気な素振りを見せる。

何もせず不合格とは情けない、と悩んで悩んで悩み抜いた結果、女性は思い付いた事を口に出した。

 

「そ、そうです!文章というものは正解不正解が判断しにくいものですから、『試験官』どのもお手本を書かれるべきです!」

 

「え?」

 

「今は『試験官』ですよね。ならば模範解答を提示すべきです!」

 

そう女性は微笑みながら斜め上の提案をする。正論ではあるが、本心の「さっきから私たちばかり試されるのは少し腹立つ」という思いが若干透けてみえていた。

それを聞いて、男性宛ての恋文の内容に頭を抱えていた少年も、「見本をみせろ」とばかりに明るい顔を向けて賛成の意志をしめす。

二対一と多数決で負けてしまい、何かがおかしいと思いながらも青年は渋々提案を受け入れた。

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白紙の半紙を前にして、三人は頭を抱え唸りながら悩みながら、たまに悶えながら恋文を綴っていく。

少年がぷはっと息を吐き出し筆を置くのと同時に、ほかの二人も伸びをして筆を離し顔をあげた。

青年は頭を掻きつつため息を付き、女性は頬を染めながら半紙を握りしめ、少年は目をくるくるさせながら床に突っ伏した。

 

「……ううううう…。…女の子にすら書いたことなかったのにぃ…」

 

少年は床に倒れ込みながら、切なそうに呟きを漏らした。『野球ばっかりやってたから、ラブレターなんて書いたことないよ…』と半泣きになりながら愚痴をこぼす。

そんな少年に、少しばかり同情したのか可哀想に思ったのか、青年は「じゃあお前から発表するか?」と問いかけた。

 

「…うぇ」

 

「先に発表したほうが楽だろ。次の奴のが立派ならあまり印象に残らないし」

 

一番槍を提案された少年は涙目になったものの、青年の言にも一理あると考え、「はじめて書いたから変だろうけどおかしいだろうけど」と目を泳がせ真っ赤になりながら、恋文を二人に手渡した。

手渡された恋文はあまり綺麗とは言えない文字で、形も大きさも不揃いだった。

「だって、筆で字を書くなんて習字の授業かお正月くらいだよ」と少年は困った顔を向ける。

そんな少年が綴った恋文は、たどたどしくはあったものの必死な想いは読み取れるものだった。

 

『字が文が行間が汚いのを不思議に思わないでください。

最近なかなかお会いできず、伝えたい気持ちがたくさんあって手が止まらなってしまいました。

お会いできれば汚い文をお見せせずに済んだのに。

お顔を拝見したいです。今すぐ会いたいです。もうこれ以上は耐えられません。どうかお願い助けてください』

 

はじめてにしては意外と良い文章でまとめてあり、青年たちは感心する。

最後の行で力尽きたかのようにも思えるが、それだけ必死だと読み取れなくもない。

「お前本当にはじめてか?」と青年が問うと、「昔の恋文ってこんな感じかなと思って。でも無理もう無理力尽きた恥ずかしくて死ぬ」と俯きながら呟いた。

やはり力尽きたのか、と表情は見えないものの、耳まで真っ赤で俯く少年の頭をぽんと撫で、青年は視線を女性の方に流した。

「次は私なんですね」と目を泳がせながらも文を手渡す、が、女性は恋文をがっちりつかんで離さない。

 

「…離せよ。読めねーんだけど」

 

「いえ、あの、あの、あの、…よ、読まずに読んでくださいっ!」

 

青年に向かって必死に叫んだ女性に驚いて、青年はおろか少年も顔を上げ不思議そうな表情を向ける。

『読まずに読め』とはどういう意味だろうか、とふたりがきょとんとしていると、慌てたように少し困った顔をしながら女性は「あ、ぅ、えと、えーと。…こ、声に出さずに読んでください…」と真っ赤になりながら言い直した。

あぁはいはい、とふたりは苦笑しながら女性がようやく手を離した恋文を読みはじめる。

 

『まことにまことにあなた様と出会ってから、わたしはあなた様の姿が忘れられません。

あなた様の光のようなお姿をまぶたの裏に焼き付けて、夢の中でもお会いしとうございます。

近頃はもう会えないのかとため息を吐き外を見つめ続ける毎日。

嘘からもまことの事が飛び出ると申します。

なればひとこと、「会いに行く」と仰っていただければ、わたしは我が名の通りだと、あなた様を信じることが出来るのです』

 

真面目な女性らしい、きっちりとした恋文で、彼女の誠実さがほんのりと伝わってくるような文。

来てくれることを連絡をしてくれることを信じるという、一途な気持ちがにじみ出ていた。

 

「かつ、…自分の名前を使ったのか。凄いな」

 

「いえあの、…あの、…漢字は違いますが音は同じなので…」

 

駄目でしたか?と若干眉を下げた女性に対し、いや普通に凄ぇ、と感心したような顔をする青年。

名前も印象に残るし使い方もいいな、と青年は女性の頭を軽く撫でた。

 

「ふたりとも意外に上手いな。……あー、…まぁいい上出来だ」

 

『合格』にしちまうのは駄目だがな、と青年は思ったものの、初々しい恋文を必死に書いたふたりを誉めたい気持ちになってしまった。

「俺も甘いな」と青年は頬を掻いて笑う。

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青年の『上出来だ』という言葉を聞いて、ふたりはようやく弾けるような笑顔をみせる。

そしてふたりはにこにこと笑いながら、青年に対し声を揃えてこう言った。

 

「書いた恋文みせて!」

 

「ちっ」

 

誉めた拍子に忘れてくれないだろうかという、少しばかりの淡い期待はあっさりと崩れ去った。

青年の舌打ちを聞きつけ、「自分たちのを読んだくせに、己のは見せないつもりか」と軽く睨みつけながら頬を膨らませるふたり。

そんなふたりから若干の剣呑さを感じとり、渋々青年は自分の書いた恋文を突き出した。

 

『あなたと過ごした一瞬一瞬を思い出し、私はあなたの為に用意した香を焚いております。

焚いた香は十も超え、さらに十も焚いたでしょうか、箱が二つ空となってしまいました。

あなたがいつ来られても良いように、減った香を五箱ほど買い足そうとお願いしたところ、十日も待たされてしまいます。

最近ようやく私の元に届き、ほっと胸をなで下ろしましたが、その時に買い出しを頼んだ子が一本の鬼灯を差し出して、私の部屋へと頂きました。

喜んで窓辺の見える箇所に生けております。

しかし、あなたならばそんなものがなくとも私の部屋に辿り着けますよね。

気高い志を持つ士のあなたとは、いつか数合わせをして同じ時を過ごしたく思っております。

そのため私はあなたを想い筆をとった次第です』

 

ふたりは青年の恋文を、じっくりと、何度も何度も読み返す。

そこまでじっくり読まれるのは少しばかり気恥ずかしい、と青年は視線を明後日の方向にむけて黙り込んだ。

 

(そもそも恋文なんて、当人以外の奴に見せるもんじゃねーよなぁ)

 

自分の事は棚に上げ、青年はぼやく。読まれても反応すらないというものは結構心にくるものがあるなぁ、と居心地の悪さは最高潮に達していた。

そんな青年に、少年が問いかける。

 

「ねぇ、この『数合わせ』って何?わざわざ勉強しにこい、ってこと?」

 

「ん…?ああ、違う。それは助言だよ『文に書いてある数字を足せ』って意味だ」

 

「…えっ?」

 

青年に言われて、ふたりは慌てて青年の恋文を見直した。各所に散りばめられた数字に気付いて、指を折り数字を足し始める。

「ここと、ここと、これと…」と呟く音が小さく響く。簡単な足し算、答えは直ぐに導き出せた。

 

「四十?」

 

「はずれ」

 

青年はそう言って、文の一文字に指を置く。置かれた先には『士』の文字。

その字は『文字』だと認識していたふたりは青年不思議そうな顔を向ける。

 

「これは『十一』なんだよ。『十』と『一』が組み合わさってできてるだろ?」

 

「あ…」

 

つまり足すと『五十一』、そう答えはでたもののその数字に何の意味があるのかの理解は出来ない。

青年は洒落を説明している気分に陥り、目だけそっぽを向きながら言いにくそうに解説をした。

 

「あー…『五十一』は普通『十』を略して表記するから『五一』。書き文字だと濁点をおとすから『ご』は『こ』。『いち』は『い』と読めるから…」

 

「つまり、『こい』?来いって意味か」

 

「同時に『恋』もな。…一種の言葉遊びだ」

 

呆けたような顔を見せるふたりにそう説明し、青年は頬を掻く。「ついでに」と前置きして文に書かれた『鬼灯』の文字を指差した。

 

「鬼灯ってのは縁起物でな。『魂を導くための灯り』の象徴だ。形が提灯みたいだろ?先祖が帰ってくるときの道標なんだ」

 

「道標?あ、だから次の行が…」

 

「『あなたを導くための提灯を飾ったけど、わざわざそんなことしなくても来てくれるよね?』となる」

 

青年の説明を聞き、少年は「一枚の半紙にいくつ謎かけを仕込んでるんだ」と呆気にとられつつも感心する。

それとは反対に、女性は不思議そうな顔を向け青年に問いかけた。

 

「…でも、確か鬼灯の花言葉は『偽り』とか『頼りない』とか『欺瞞』とか…。あまり良くないものでは?」

 

「花言葉ってのは多様性があるからな。…恋文に使うならその植物の縁起物としての面か、性質を利用するのが普通だ。まあ、まともな奴なら花言葉は使わないな」

 

渡す相手の知識によっては真逆の意味にとられるからな、と青年は笑う。

そして青年は、まあ「内容に腹を立てて来る」でも「真意を聞きに来る」でもいい、要は会いに来たくなる文ならいいんだ。と試験の真意を話した。

言われてふたりは、「そういえば試験だった」と思い出す。ただ必死に真面目に恋文考えて書いていた、と笑いながら言う。

 

「しかし、これでは『合格』ではありませんね。私たちの恋文はお手本のような域に達していませんから」

 

「…初々しくて良かったぞ?」

 

少し落ち込んだような声の女性に青年は助け舟を出す。恋文自体は悪くない、とそう伝えた。

「合格ではありませんから」と優しく微笑む女性に青年は少し罪悪感を感じたが、ふたりは「次こそは合格してみせる」と意気込み、次はなんだ?と青年に笑顔を向けた。

青年は呆気にとられて思わず固まり、(こいつら合格するまで続ける気だな?)と少しばかりため息をついた。

-8ページ-

 

まったく、と苦笑いしながら青年は次の試験を開始する。先ほど行ったように、ふたりの前に食べ物を並べ、自身はまた別の書物を手に取った。

また?と先ほどたくさんの食べ物を目の前にして、おあずけをくらったふたりは、若干悲しそうな顔をみせる。

 

「んな顔すんなよ…。今回は食っていい」

 

「本当?」

 

「ただし、一口だけだ。団子一個だけ」

 

そう言って青年は三色団子の桃色の部分を指差した。

三色団子は基本的に、上から桃・白・緑の順になっている。その一番上の桃色だけ食べていい、と青年は言う。

 

「…いっこだけ?」

 

「あとはさっきと同じだ。…ああ、一言二言なら喋って良いぞ。『お客様』ってな」

 

「…とことん他人行儀だね」

 

娯楽施設だというから、もう少しフレンドリーだと思ってた。と少年は呟いた。

ふれんどりぃ?と不可思議な単語の意味が分からず、女性が少年に聞き返すと、少年ははっとしたように言葉を探す。

しばらく悩んで、「親身になる」とか「親密」とかそんな感じだったはず、と自信なさげに説明した。

なるほど!と女性は微笑み、「確かに娯楽施設にしては余所余所しいですね」と、今度は青年に顔を向けた。

ふたりに見つめられて青年は「…二回しか会ってない相手と仲良くするか?」と目を逸らしながら答えた。

青年の返答に、納得したようなしていないような表情となるふたりを無視して、青年は書物を読もうと頁を開く。

本を開いたまま、ふたりに笑顔をみせてこう言った。

 

「じゃ、…よろしく」

 

「え? あ…。えっと、よろしくお願い致します『お客様』」

 

軽く頭を下げた青年に反応して、ふたりもぺこりと頭を下げる。

許された二回の言葉を放つ機会。それは始まるときの挨拶でひとつ消費されてしまった。

あと喋れるのはたった一回。

困った顔をみせるふたりを尻目に、青年は物語を紡ぎ始めた。

 

次の話は先ほどよりも若干後の時代の話。外の国にいた、とある騎士の物語。

こんな事があったかはわからない、もしかしたら全てなかった事かもしれない、書物としては粗雑な物語。

若干不思議な世界で、若干不思議なちからをもったひとりの人間の物語。

 

青年はその物語を、穏やかにたまに激しく時に冷たく少しからかうように、静かなよく通る声で紡ぎ出す。

青年によって流れるように語られる物語に、少年たちも微笑み驚き怒り笑いと表情をくるくる変えてしまう。

語り終わり青年が書物から顔をあげると、少年たちはふたりで今聞いた物語について語り合っており、目の前にあったはずの団子は影も形も無くなっていた。

 

「王国は酷すぎないか?あのあとも現存してるんだろ、人間を駒扱いだ」

 

「いえ、国ならばあれくらい普通かもしれません。…やりきれませんが」

 

ふたりは団子をつまみに、わいわいと物語の感想を言いあっている。青年は、目を点にしながらふたりに小さく声をかけた。

 

「…おーい…」

 

「あ」

 

ようやく青年に気付いたふたりは、へらりと笑い青年に、「面白かった、他の本は?」と聞いてきた。

「…違うだろ…」と青年が困った顔で言うと、ふたりはきょとんとした表情となり、しばらく考え、ようやく思い出したように「そういえば試験だった」と驚いたような声をだした。

結果は言わずもがな『不合格』。

喋りまくるわ団子は食うわ、良かった点が微塵も見当たらない。

 

「だって団子が俺に、今全部喰ってくれと囁いたから」

 

「お団子が、そろそろ固くなってしまうから美味しいうちに食べてと囁きました」

 

「お前ら…」

 

ふたりの言い訳を聞いて、青年はうんざりとした表情になる。自分の分の団子も容赦なく食われており、思わず青年は盛大なため息を漏らした。

このふたりに「大人しくしてろ」と言うこと事態が無謀な試みだったな、とふたりを見ながら青年は思う。

身体を動かす方が得意なふたりにとっては酷だったか、と反省しつつも、団子を食われた恨みから青年はふたりを軽くぺしんと叩いた。

-9ページ-

 

痛そうに頭をさするふたりは、「また不合格か、でも次こそは」と青年に視線を送る。

そんなふたりの視線を受け、青年は若干うんざりしながらも、少し、戸惑った。

これ以上やる気はない。

と、いうよりも、出来ない。

 

どうしようかと困った青年は、呑み屋でよく行われる賭事をふたりに仕掛けることにした。

青年はすっと移動し、湯飲みをふたつ、お猪口をひとつ持ってくる。それらをふたりの前に置き、全ての器に水を注いだ。

不思議そうな顔を向けるふたりに向かって、青年は「これで最後だ」と言葉を紡ぐ。

 

「俺がふたつの湯飲みに入った水を飲む。お前らはお猪口に入った水を飲め。 …どっちが早く飲めるか勝負だ。俺に勝てたら連れてってやる」

 

「……勝負するまでもなくないか?」

 

だって、どう考えてもお猪口の方が早いに決まっている、と少年は怪訝な顔をする。

なおかつ、二対一。少年らふたりがひとつのお猪口、青年ひとりがふたつの湯飲み。

勝負などするまでもなく、少年たちが勝つに決まっている。

 

「あ!私たちが水を飲もうとすると邪魔なさる、とか?ですか?」

 

「しない。…そうだな、こうしよう。『相手の器には手をふれてはいけない・相手の体にもふれてはいけない』」

 

「…んー…それでも、」

 

「あとは…そうだな、『俺が一杯目の水を飲み終わって、湯飲みから手を離したらお前らが飲み始める』かな。あ、それまでお猪口に触るなよ?」

 

そのくらいいいだろ?と青年は笑う。笑う青年を見て少年は、(その程度でいいのか?)と不思議に思いながらも笑い返す。

どう考えても自分たちが絶対に勝つだろう、と。

 

「わかった」

 

「よし、じゃあ始めるぞ」

 

そう笑って青年は湯飲みに手をかける。そのまま湯飲みを口に運び、喉をならしながら、ごくごくと水を飲み始めた。

すぐに湯飲みは空となり、青年はふうと息をつく。

少年たちはそんな青年をじっと見つめて『青年が湯飲みから手を離す』のを今か今かと待っていた。

勝てる勝負だと。

自分たちがしつこく挑戦したから、青年も諦めて『勝てる勝負』を仕組んでくれたのだと。

そう思っていた。

 

飲み終わり一息ついた青年は湯飲みをひっくり返し、とん、と置いた。

お猪口を、湯飲みで完全に隠すように。

少年たちの飲むはずのお猪口は、青年の湯飲みで完全に覆われてしまった。

 

「…え?」

 

少年も女性も小さく声を漏らしてぴたっと止まった。

自分たちが飲むお猪口は、青年の湯飲みで覆われ隠され触れることが出来ない。

また、『相手の器にはさわらない』という決まり事によって、湯飲みにも触れない。

青年の予想外の行動に少年たちは混乱し、おろおろとし始めた。

 

「ちょ、ま、ど、…どうしよう!」

 

「あ、ああ!そうです『手でさわってはいけない』ならこの竹刀で湯飲みを小突いてしまえば!」

 

完全に混乱しているふたりを見ながら、青年は少し笑う。

酒場で時たま行われる、一杯の酒や少額の金を賭けたささやかないかさま。

仕掛けられる方もそれを承知で楽しむ、ひねりや頓知をきかせた遊び。

もともとは、西洋で行われていた「バーベット」と呼ばれるものだ。

 

混乱しながら竹刀を振り上げ湯飲みを叩き割ろうとしている女性を、これまた混乱しながら必死に抑える少年。

そんなふたりを楽しそうに見ながら青年は笑いながら声をかける。

 

「俺は飲み終わったぞ?」

 

「…! …ずるい…」

 

「そうか? お前ら勝負方法を決めたとき、了承したじゃねぇか」

 

なーんにも反対しなかった、と青年は少しばかり涙目で睨みつけるふたりに笑顔で返す。

『俺の勝ち』

青年はそう言って、ぐりぐりと楽しそうにふたりの頭を撫でた。

 

-10ページ-

 

むぅと悔しそうな顔を見せるふたりに青年は、

『ひとつも合格したものはない。勝負にも負けた。行くのは諦めろ』

と言い放つ。

言われて残念そうに悲しそうに青年を見つめ返すふたりだったが、ようやく諦めたのか「わかりました」と声をそろえて顔を伏せた。

 

「…諦めるけどさ、そこ、どんな場所なの?」

 

「娯楽施設にしては娯楽要素が全くありませんでしたよね?」

 

ふたりが諦めた事に安心したのか気が抜けたのか。そう問いかけるふたりに、思わず青年は今までやらせてきたことをひとつひとつ説明する。

 

 

はじめの試験は『初会』。客を目の前にしても一言も喋らず身動きもしない。視線すら合わせない。客の見定めをする。

お眼鏡にかなうように、客は芸者を呼んで派手に「自分は金持ってます。羽振り良いです」と主張する。

 

次の試験は『恋文』。飽きたのか別に女が出来たのか、しばらく会いに来ない客に対して「あなたに会いたい、あなたのために頭ひねって教養のある恋文を書きました。私のほうがいいでしょう?」と主張する。

 

次の試験は『裏を返す日』。二回目の訪問、だけどまだ二回目だから馴染まない。挨拶はするけどまだ見定める期間。ここでも客は派手に金を使わなくてはいけない。認められるように。

 

そう説明して青年は笑った。

 

「恋文はかなり先の話だがな。一回二回の相手には簡単な恋文でいいんだよ「あなたといるのは楽しかった。また来てくれたら嬉しいな」ってな感じでな」

 

まあ、一回行ったら二回目行くのは暗黙の了解だからいらないと言えばいらないが、と青年は苦笑いをする。

 

「あとはまあ、『あなたが気に入ったから、また来てくれたら次の代金は私が払う』とかだな」

 

わざわざそう言われたら、次も行きたくなるよなぁと青年は苦笑しながら頭を掻いた。

そんな青年を見て、少年は続きを促す。

促され青年は、試験としてはやらなかったが、と前置きし次に行う行為を語り出した。

 

お次は『馴染み』。三回目の訪問。ようやく客と仲良くなって、たくさん喋るしよく笑う。見送りも、以前は見世の前までだったが今日から門までふたりで歩ける。

部屋に居るときは食べて飲んで、楽しく過ごす。

そして、

 

「最終的には枕を交わす。…、……あ」

 

「え?」

 

自分の言ってしまった言葉に気付き、青年は「やばい」と表情を強ばらせる。

少年は気付いていないようだが、女性は

 

「とりゃぁぁぁああ!」

 

「うっわ!」

 

竹刀を青年に向かって振り下ろしていた。

紙一重で避ける青年。先ほどまで自分が座っていた箇所に容赦なく竹刀は叩きつけられていた。

 

「避けるなぁ!」

 

「避けなきゃ死ぬだろ!」

 

青年を見据え、ぶんぶんと竹刀を振り回す女性から逃げて避けてぎりぎりを生きる青年。

そんなふたりを横目でみながら少年は、自分の頭を抱えながら、巻き込まれないようにそっと部屋の隅に避難した。

少年が部屋の隅からふたりを確認すると、ようやく女性の竹刀は青年を捕らえ、青年は間一髪で持っていた脇差を真一文字に構えてその一撃を防いでいた。

ふたりはぎりぎりと、竹刀と脇差の鞘が押しつ押されつの攻防を続ける。

 

「危、危ねぇ!それ早くしまえ!」

 

「やかましい! 何を、何をやらせてたんですか!何するつもりだったんですか!」

 

「何もしねーよ!」

 

夜だというのに騒ぎたてるふたりを見て呆気にとられながら、少年は困った顔をしながら恐る恐る問いかけた。

 

「枕を交わすってナニ?」

 

と。

 

その言葉を聞いた瞬間、女性は少年の方に顔を向けて真っ赤になって黙り込み、青年は言いにくそうに視線を逸らす。

青年は戸惑ったように、お前本当にわからないのか?と逆に質問し、少年は困り顔のまま「わからない」と素直に答えた。

 

「……まあ、つまり、性交」

 

「…成功?」

 

「待てなんか伝わってねぇな? あー、つまりその、契り?交合?えーと、おしべにめしべ?」

 

「……え?」

 

ようやく意味を理解した少年はピタッと動きを止め、耳を赤く染めていく。

青年は、相手すんのがふたりになったらやばいなぁ、と若干顔を青ざめ、凍り付いた。

しかし少年は女性のように殴りかかっては来ず、その場でもじもじとしはじめる。

 

「つまり、『国が大金出して作った娯楽施設』ってのは、…遊郭?」

 

「…ああそうだな。俺らはあの場所をあんまり『遊郭』とは使わないが」

 

隠語の意味は知らないのに、遊郭を知ってるとか変な奴だな、と青年は不思議に思う。

年の頃も十五となればそういう経験のひとつやふたつは当たり前だ。

この時代、一人前となるのがそのあたり。つまり普通はそれまでに経験しているのが当然なんだがな、とぼんやり思った。

経験ないとかおかしいだろ。そういう方面に興味ないんだろうか。そういう方面の奴なんだろうか。と青年は少し表情をひきつらせる。

 

「経験はないけれど、遊郭なら漫画で読んだ」と呟く少年は、そうかぁ、遊郭って国が大金出して作ったのかぁ、と熱くなった耳を押さえながら微妙な顔になっていく。

そんな少年に「国が大金出したのはあっこだけだ。地方のは違う」と青年は補足する。

そんな青年の発言を聞いて、女性は再度持っている竹刀にちからを込め始めた。

 

「だからなんでそう詳しいんですかっ!」

 

「…エドに住む健全な男にそれを聞くのか?」

 

青年は女性から視線を逸らし、ぐっと竹刀を押し返す。

「頻繁には無理だがな、あっこは高い」と呟きさらに小さい声で「花魁以外なら手軽だが」と呟いた。

小さい呟きを聞き取った女性はつい青年に問いかける。

 

「花魁?」

 

「高級な、容姿の質が高い教養もある遊女。さっきやった手順は花魁に会うための手順だ」

 

「…作法が人によって違うのですか?」

 

「違う。下級遊女は永遠に高級遊女にはなれない。下級遊女は金さえ払えば会えるしやれる」

 

さらっと説明した青年に、女性の怒りが頂点に達したのか先ほどよりも手にちからが入っていく。

「いいぃっ」っと青年の小さな悲鳴が聞こえたかと思うと、ぽかりという音が部屋に響き、「痛っ!!」という青年の声があたりに響きわたる。

 

間髪入れず、女性はもう一度竹刀を振り下ろし、青年の脳天に叩きつけた。

 

 

-11ページ-

 

 

頭にこぶを作り、軽く涙目の青年は仁王立ちする女性の前に正座をさせられていた。

 

「…そもそも『行く』とか言い始めたお前らが悪い」

 

「黙っててください」

 

女性が青年を睨みつけながら冷たく言い放つ。初めからちゃんと説明してくれれば良かったものの、と真っ赤になりながらぶつぶつ文句を言い始める。

説明したらしたで怒っただろ、と青年は言い返し、腕を組んでそっぽを向いた。

そもそも初めから『国が作った娯楽施設がある』なんで言わなきゃよかったんですよ、と女性は言い返し、その言葉を聞いた青年は、俺が悪いのか、と女性を睨みつけ始める。

ふたりが若干険悪な空気を生み出し始め、間に挟まる少年は慌てておろおろと仲裁に割って入った。

 

「もともとは、…俺が路銀使い尽くしたから、いけないんだ」

 

だから、と少年は「ダブってる野球札、売ってくるよ」と少し悲しそうな顔で笑いながらふたりに伝えた。

悪いのは俺だから喧嘩しないで、と笑う。

言い合っていたふたりは少年の方に顔を向け、少し驚いた顔をして少し困った顔をした。

 

「…お前がそれでいいなら、いいんだけどさ」

 

「本当に、いいんですか?」

 

「うん」

 

いろいろ騒がせてごめん、と少年は謝罪する。そのまま少し頬を掻き少し笑いながら、「…でもちょっと楽しかった」と呟いた。

その呟きを聞いて、女性も青年から目を逸らし、「まあ、…確かにあまりできない経験でしたけど」と少しばかり笑う。

「そうだろ?」と思わず笑った青年に、女性は「調子に乗るな」と厳しい視線を送った。

 

「次変なことしようとしたら成敗しますから!」

 

「しねーよ…」

 

困った顔でため息をつく青年を見て、少年は笑う。

笑いながら、そうだ、と少年は青年に対し、こんな提案を持ちかけた。

『夜、本を読んでくれ』

と。

 

「俺たちに阿呆なことやらせた罰」

 

「え?」

 

「それはいいですね!」

 

楽しそうに笑うふたりに対し、ぽかんと顔を呆けさせる青年。

読むのが上手いから聞いていて楽しい、と少年はにこにこと笑う。

 

「宿に泊まったときだけでいいからさ」

 

「まあ、…構わねーけど」

 

青年が承諾し、ふたりはとても喜んだ。次はどんな物語が聞けるのか、と楽しそうに話し合う。

そんなふたりに青年は、「今日はもう遅いから早く寝ろ」とばさっと布団を被せた。

 

「おやすみなさい」

 

そんなふたりの声を聞き、青年は行灯の灯りを消す。

暗くなってすぐに、ふたりの寝息が聞こえはじめ、やれやれと少し微笑みながら自分も布団に潜り込む。

 

(『本を読んでくれ』か…)

 

まぁいいか、と小さく呟き、おやすみ、と青年自身も眠りについた。

 

 

明日からまた、長い長い旅が再開される。

愉快な三人組の珍道中。今日は東に明日は西に。全国行脚ははじまったばかり。

これからいろんな土地に行き、これからいろんな人と会う。三人の旅はまだまだ続く。

そんな旅の途中の些細な話。

 

 

これから毎夜のように所持している書物を散々読まされ、ふたりに「もうそれ覚えちゃった。別のも聞きたい」と言われてしまい、青年の手持ちの金が本に変わっていきはじめるのも、些細な話。

 

 

END

 

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