猫屋敷家の交神事情1 |
気がつくと、青年は長い廊下を歩いていた。目の前にはまだ年若い少女。小さな花の連なる簪を刺した髪を可愛らしく結い上げた少女は、帯の端を揺らしながら静かに青年の前を進んでいる。
少女の持つ行灯が、歩みに合わせて小さく揺れる。それにうっかりと捕らわれてどこかに行きそうになる意識を保たせようと、青年は思考を巡らせた。
(ここは、何処だろう?)
この廊下を歩き慣れているらしい少女とは違って、青年の歩みは時折廊下の木版を小さく軋ませる。その音に軽く身を竦めると青年は思考に沈む。
青年は己の住む館にて、交神の儀と呼ばれる、彼が属する一族にとってとても大事な儀式を受けている途中だった。身を清め、交神の儀にしか使用されないという広い部屋に通された後、そこで一人きりになり精神統一を始めた途端に意識が途絶えたのまでは覚えているのだが。
「到着致しました」
呼びかけられて意識が浮上する。あわてて少女に目線を遣ると、少女は小さくお辞儀をしてから、障子の向こう側へと声を掛けた。
「お待たせ致しました。竜旗(リュウキ)様をお連れしました」
「お入りなさいな」
成熟した女の、涼やかで深みのある声が返ってくる。
障子が開け放たれると、青年は目を見張って現れ出た光景を眺めた。
まず目を引いたのはそこに佇む一人の女だった。鮮やかな青に桜が描かれた、豪奢な刺繍の着物を着込んでおり、おおきく襟元がはだけられ、優雅な肩の線と豊かな胸の曲線が垣間見える紅の襦袢、銀糸と金色で彩られた前結びの帯など、その姿からすると女は遊女、それも最上位の太夫のように見える。しかし、それよりも特徴的なのが、その髪だった。月光を束ねたような青ざめた銀の髪を高く結い上げ、水鏡を光の束が射抜いたような、独特の髪飾りをしている。
窓辺には色鮮やかな玉が連なったものが幾つも吊り下げられ、縁を飾っている。部屋の端には鏡台、机などの使い込まれた渋い色合いの上質な家具が置かれている。隣室に繋がる障子は開け放たれ、色鮮やかな花が風に舞う様を描いた屏風が、奥にあるものを隠している。
その豪奢な光景は、青年が、かつて何度も訪れた事のある遊郭の、太夫の部屋によく似ていた。違うのは、そこに佇む佳人の容貌だけ。
当惑に目線を揺らす青年を見て、女は可笑しそうに喉を鳴らすと青年を手招いた。
「そんな所に居るのも何だろう……とりあえず座んなさいな」
おずおずと近づいてゆく青年の方に女は向き直る。
「……あの、月寒 お涼様、です、よね?」
疑いの消えない青年の言葉に、女はくつくつと笑って片袖で顔を隠した。それから、少女に小声で何かを言うと、少女は頭を下げてその場を辞した。
「交神の儀で、呼ばれた相手以外の女が来る訳ないだろう?」
青年はため息のように小さくはい、と返す。そう、青年はこの美貌の水の女神と交神して子供を成す為に、ここに遣って来たのだ。
「……儀式の途中で、眠ってしまって夢を見ているのかと、思ったのです」
儀式の途中に変な所に迷い込んだのろうか、それとも、幻なのだろうかと座った座布団を触り、上質の布の感触に手を引き込める。落ち着かない様子で目線を揺らす青年に、青銀の女は楽しげに問いかけた。
「この部屋が変と感じるのかい?」
「変、と言いますか。何故いつの間にかこんな所に居るのだろうと」
記憶にあるのと殆ど同じ部屋の様子を見渡すと、青年は女に視線を戻す。問いかけるような目線に、女は口端を歪めた。
「ここに来てるんだから、あんたは、交神の儀についてはもちろん知っているね」
青年は小さく顎を引く。青年の一族は呪いを受け、普通の人間とは子供を成す事が出来ない。そこで神々が手を差し伸べ、自分たちと交わる事で子孫を残すことが出来るようにしてくれたのだ。その為の儀式が交神の儀と呼ばれている。一族は、成人すると大方のものがこの儀式を受ける。
「交神の儀は、知っての通り神々と人間が交わる為の儀式。目的は、あんたたちの一族に子供を授ける事」
話をしながら女は優雅な仕草で傍らの煙草盆を引き寄せ煙管に火を点す。
「今回、神々は、限られた時間の中であんた達の一族に確実に子供を授ける為に、交神の儀を行う場所を用意する事にした。それがここ。ここは、神々の住む世界ではない。あんたの家の交神の間でもない、異なる世界。あんたの家の交神の間は、門みたいなものさ」
横を向いて煙管をふかし、細い煙を吐いて女は微笑う。
「向かい合う人と神の為の空間だから、この空間はここを使う神と人の影響を如実に受ける。今の場合、この光景は、あんたが今現在、心の底で留まりたいと、思った景色その物さ。寝具も、あたしのこの着物も、部屋の意匠も、ね。…細かいところが違うのは、私の存在があんたの記憶を乱しているからか、私の望みも入っているからなのか。どうだろうね……吸うかい?」
差し出した煙管を受け取り、ゆっくりとふかす。青年が煙草を吸うのは久しぶりで、思わず咽せそうになるが、その味に、かつての遊郭での記憶がはっきりと蘇った。
「少し前、客に無理を言われて困っている所を助けて、馴染んだ女性(ヒト)の仕事場なんです。ここは」
時間の蓋を押しのけて流れ出る記憶のままに説明を始めた青年の台詞に、懐かしげな響きが混じる。
鬼に襲撃されるようになり京の治安は格段に悪くなった。花街でも自衛の為に警備隊を組織していたが、鬼だけではなく人間も荒んだ世では犯罪に走り被害は絶えることがなかった。
煙管を返してから、青年は小さく呟いた。
「……好きだったんですよ。子供は作れませんけれども、彼女と私とでは流れている時間が違うと分かってはいましたけれども……」
女は瞳を伏せて頷き煙管に口を付ける。
青年の一族にはもう一つ呪いが掛かっていた。それが短命の呪い。青年の一族は皆八ヶ月で成人し、最長二年で寿命を迎える。青年の一族は成人すると外見上は老化する事が殆どなくなるが、それでも普通の人間とは生きている時間が違いすぎた。
「それでも、彼女との時間は、得難いものでした」
目の前の、造形でしか具現化し得ないような程に整った顔立ちを眺めながら、青年は呟くように言葉を紡ぐ。
「彼女にとっては、俺は、悪い奴に酷い目に遭わされそうになっているのを救った、それだけの男だったと思うんです。商売で抱かれている、それだけなのだろうなと思いながらも、…彼女の存在が、俺に取っての癒しだったんです」
かつて愛した人の優しい面影が、同じ服を纏う目の前の女に重なる。
「その女は太夫を張っていましたが、いくら何でも、見た目は貴方とは比べるべくもありませんよ。何せただの人間ですから。でも、精一杯……仕事として、もしかしたらそれ以上に尽くして、くれたんです、彼女は」
声音に僅かに悲哀の音が混じるのを聞き止め、煙草盆に灰を捨てると、煙草盆を脇に寄せつつ女は青年を見遣った。
「彼女の訃報を聞いたのは、この前討伐から戻ったばかりの時です。……彼女と出会うきっかけになった男に、殺されたという事です」
青年は、思わず何かがこみ上げそうになるのを、無意識に歯を食い縛る事で押さえた。
その時、障子の向こうから小さく誰かの声がした。女が入るように告げると、先刻部屋へと案内してくれた少女が、酒の用意を乗せた膳を掲げて入ってきた。
少女が礼をして下がると、女は猪口を手で示した。
「話を頓挫させて悪いが、酒の準備がようやく出来た。良ければ飲みながら続きを話さないかい?」
語りかける声の中に、声音を取り巻く外側に柔らかな優しいものを感じて青年は小さく頭を下げる。猪口を持つと、女が並々と酒をついでくれるのを一気に飲み干した。喉奥を通り過ぎていく火は、かつて愛した人の喪失に焼けた胸の内に染み渡り、ゆるい目眩のような感覚がじんわりと広がっていく。
女が酌をしてくれるのに甘えて、青年は暫く酒を楽しんだ。酔いが廻るにつれて悲しみは、少しずつ薄れて体の底へと沈んで行く。
「俺たちの一族が受けている呪いは、それを掛けている者がいなくなれば消えますが、失った痛みは消えない。誰かを失うのは、悲しいものです。それが身内でも、…そうではなくても」
「魂を分け与えた者達がいなくなって、悲しくない者なんて誰もいやしないさ。……彼女を殺した者はどうなったんだい?」
酒を注ぎながら、話を聞いてくれる女に続きを話そうとして、ふと青年の胸中には疑問が沸き上がった。
「ええと、話をしている途中で申し訳ないのですが、俺、こんな事をしていて良いんでしょうか」
猪口を持ったまま、自分がここへ来た重要な目的を思い起こし考え込んでしまう青年の様子に、小さく女は笑い声を立てる。
「あんた、面白い子だね。その話はちゃあんと後でしてあげるから、だから今は、話を続けな。大丈夫、あんたが話してくれる事、それも、ちゃんと意味のある事だから」
視線を合わせて口端を上げる相手の表情に少し怪訝な表情になりながらも、青年は話を続ける。
「死にましたよ。本当は殺して遣りたかったのですが…… その前に、鬼に食われました」
青年の瞳に暗い色が宿る。青年が愛した人を殺した男は、数日後に鬼に家を襲われて家族もろとも皆殺しになった。
「俺がその事を知ったのは、……全てが、終わってから、だったんです。葬儀も終わり遺体も埋葬され、部屋も片付けられてしまって、もう何も、彼女を示すものは残っていなかった」
猪口を置くと、青年は瞳を閉ざした。その時に味わった喪失感は、今でも深く楔として心に食い込み、ふとした折りに胸中を荒らす。
不意に、鼻腔を清涼感のある香りが掠めた。瞳を開くと白い胸元が目の中に飛び込んで来る。女が立て膝になり、体を寄せるとそっと青年を抱きしめたのだ。
常人よりも若干低い温度の、柔らかな皮膚の感触に、青年の頬に朱が差した。とっさに反応できなかったのは、邪な意図を全く感じなかった所為なのだろうなと言い訳めいた言葉が彼の頭の中を流れる。
女は緩やかに青年を拘束したまま、ゆっくりと腰を下ろす。青年も逆らわずに、彼女に抱かれたまま、膝の上に乗るかのように彼女の体にもたれ掛かった。自然と、腕が彼女の腰に掛かる。女はその体勢のまま、青年の髪に手を遣ると、静かに髪を撫で始めた。
「……辛かったんだね、坊や」
青年の髪は深い色合いの緑色をしている。青年だけではなく、彼が属する一族は皆、普通の人間とは違う色の髪や瞳、目、そして肌の色をしている。
髪を白い指先が滑っていく。さらさらと流れる河の音を思わせるような動きが、青年の心のよどみを、少しずつ薄れさせていく。ひんやりとした皮膚の中に人間の温度が混じり合い、溶け込んでいく。目眩のように、ゆらゆらと
「今は、ゆっくりと私の胸で、お休み」
何時しか眠りに落ちる前に、そんな言葉を聞いたような気がした。
目を見開くと行灯の薄明かりが視界の端に見えて、青年はそちらに視線を流した。ここは、記憶の中にある、先ほど屏風に隠れて見えなかった奥の部屋と光景が同じだったので、おそらく先ほどの部屋の隣であろう。この場所の時刻は分からないが、窓の外が津々と暗く、灯火の明度がかなり押さえられている所を見ると、そろそろ夜もかなり更けているのかも知れない。
「気がついたかい」
掛けられた声に逆の方を向く。青年は布団に寝かされており、すぐ傍らには先ほどの女がいる。青年と一緒の布団に入り、今まで上半身を起こした状態でこちらを見つめていたらしい。髪は解かれ色味のない輪郭が青銀に彩られている。いつの間にか着物は脱いだ様子で、今身に纏っているのは赤い襦袢だけのようだ。豊麗な体の曲線が薄い布地の間から見え隠れしている。思わず青年は目線を伏せてしまった。
そんな青年の様子にくすりと微笑うと、女は青年の髪に唇を寄せた。
「……あの。すいません。俺の事ばかり喋っちゃって」
くすぐったいように思えて思わず肩を竦めながら、青年は間近に迫った女の、湖の氷を思わせるような澄み渡った銀青の目を見つめる。
「気にしないで。大丈夫、先ほども言ったように、あんたに喋って貰った事は、交神の儀にも関係あるのさ」
視線に微笑み返すと、女は両肘をついて手を組み合わせその先に顎を乗せた。
「あんたは、交神の儀に何をすると思って来た?」
深みのある澄んだ冷たい声。だが、聞き慣れてきた今では、青年にとって彼女の声は、ほのかな暖かさを感じられるものとなってきていた。
「神様によって異なるとは聞いていたのですが、今回、俺の場合は… あの」
成人している男子の癖に言い淀んでしまったのは、彼の視線がちょうど優美な曲線を描く豊かな胸とうっすらと布を通して見える鎖骨に向いてしまったからだ、と青年は思いこむ事にした。少々頬に熱が籠もった気がしたが、それは無視することに決めた。
「男女の営みではないか、と予想していました」
「間違いじゃあ、ない。そういう遣り方も当然ある」
首を傾けて女は青年を見遣る。
「ただ、それが全てじゃあ、ないのさ。交神の儀っていうのは、人の魂を、神の魂……もしくはそれに相応するものに繋いで和合し、その後二つに分ける作業の事なのさ。その際に神と人との魂は混じり合い、分離する時に子供を産み出す。そういう仕組みになっている」
眉を軽く上げた以外外見に見える反応はない。だが息をつめじっと語り部の横顔から眼を外さない所から、青年が真摯に話に聞き入っているのはあきらかだった。
「人ではない形の神様も多くいらっしゃるという話でしたし、方法が一つでは、不都合もあるかも知れませんね」
言葉に頷き、銀の髪を揺らして女は話を続ける。
「子供には、人ではない異物が混じってしまっているから、人間側が女性だと、胎内に戻したときに母胎を損傷するおそれがある。…神が女性側だとかなり安心なんだが、それでも生まれたばかりの子どもは、人間の子供よりも脆いから危険が多い。だから、親の違いや性別を問わずいったん神の側で子供を預かって育て、人間世界で生活できるほど成長してから、あんたたちに引き渡す事になっている」
何度も頷きながら話を聞く青年の様子に、女の瞳が細くなった。
「魂を混ぜ合わせる為には、交わる二人がお互いの事を知る必要がある。それは、肉体でも精神でも良い。知る事が出来れば、魂が混ぜ合わせられる。この空間は、そういう風に調整されている」
その言葉に青年が眼を落とし、何かを考え込むような表情になった。
「どうした?」
女が顔を覗き込むように視線を近付けると、驚いたように青年が顔を上げる。そのまま若干身を引くと、改まったように青年は上半身を半ば起こして片肘を付き、女の顔をじっと見据えた。
「俺……、もし貴方がよろしければですけれども、貴方の事が知りたいです」
青年の明るい茶の瞳がまっすぐに銀青の相貌を見つめ返す。
「今日は、昔の事を、いろいろ聞いて頂いて、俺、すごく楽になれたんです」
内心を表しているのか、息遣いが少し早くなっているのに気づいた青年は、いったん言葉を切り、息を整えてから言葉を続ける。
「だから……もし貴方に、辛いことや、悲しい事があるなら、話して欲しいし、何らかの力になりたい。俺じゃあ力不足の事もあるかも知れないですけれども、……でも」
溢れ出る言葉を上手く纏めることが出来ずに声を詰まらせる青年の様子に、女はありがとうと小さく呟き、青年に身を寄せた。
「その気持ち、とても嬉しい。感謝するわ」
どちらからともなく腕を伸ばし、二人はゆったりと抱き合った。青年の肩に顔を埋めるかのように、女は頬を擦り寄せる。
「……でもね。私は長くこの世を行きすぎて、この世に在りすぎて、人の世界から離れすぎて、貴方のように情熱的な生を、人間の心に響くことの出来るような己を持っていない。浮かぶのは私が面倒を見ている自然(こどもたち)のことばかり。それは、つまらないでしょう?」
そんな事はないと口にしかけて、青年は息を飲む。女のかいなに込められた力が、強くなったからだった。
「だから、……」
青年の背中に手を回しながら顔を起こすと、女は青年の顔を眺めて、己の唇を軽く舐める。体が密着すると、低い体温を持つ女には、青年の身体が先ほどよりも熱くなり、己の肌を浸食していくように感じられた。
「もう一つの事を、深く知りたいとは思わない?」
幾つの夜と幾つの昼とが過ぎたのか分からない程に、青年が女と濃密な時間を過ごした後。案内をしてくれた少女が、再び部屋を訪れた。
女にそろそろ刻限であると告げられ、既に身支度を調えていた青年は、女の方へと身体を向けると、深々と礼をした。
別れの言葉は既に交わし終えている。女が頷くのを見て、青年は少女が開けてくれた格子の向こう側へと身体を移動させる。
「朧なる宵果て水は分かたれど君が想いは我を巡らん……頑張ってね、坊や」
女の台詞に、唇だけでありがとうと呟くと、青年はその場を去った。
了
説明 | ||
俺の屍を越えてゆけの二時創作小説です。 月寒お涼と一族の青年のお話。 交神の儀が題材のお話なので、もしかしたらR-15かも知れません。 また、ゲーム内で分からない設定は捏造しています。 |
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