空色の瞳・中編
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    隔離

 

 少年の黒い瞳が再び開かれた時、その瞳に最初に映ったものは、中空に浮かぶ大きな赤いリボンだった。

 視線を巡らすと、小さな部屋の中でセレイアス機長が腕を組んだまま、斜めに浮かんでいた。その表情は、帽子のひさしに隠れて見えなかった。

「機長さん、目が覚めたみたいよ……」

 フワフワと、栗色の髪とリボンをたなびかせて、少女は空色の瞳でコータを一瞥すると、ぶっきらぼうにそう言った。

 帽子を被り直すと、セレイアスはその茶色の瞳で、コータの顔を覗き込んだ。

「具合いはどうだ、君、えっと……」

「コータです。コータ・ヤマシタ……」

 そう答えて身を起こそうとした黒髪の少年は、自分が極低重量に慣れていないことを思い知らされた。

 コータの体が一回転したところで、機長は軽く手を差し伸べてその体を支えてくれた。彼は、コータがカレット家の名を出すのを避けたことには、気付かぬフリをした。

「機内用の磁力ブーツも、ここでは役立たずみたいだな。君、そのコータ・ヤマシタ君は、無重力訓練は受けていないんだね?」

 機内用のブーツというのは、大気圏外航空機に乗り込んだ時に、全員が履き替えた靴だった。

 国際規定で、大気圏外で活動する場合、すべて同じ規格の磁力ブーツを使用することになっていた。これで、軌道基地や月面でも、規格に合っている床でさえあれば、誰でもが同じように歩くことが可能だった。

 この部屋は、その磁力ブーツが作用するように作られていなかった。

「コータで構いませんよ、機長さん」

 そう言いながら、コータは機長の質問に全身で答えていた。

 黒い瞳を丸くさせながら、少年の体は面白いように何度も回転した。

「宇宙に出て月面に行こうっていうのに、初歩の無重力訓練も受けていないなんて最低よ。さァ、機長さん約束よ!マリコを助けに行きましょう!!」

 見事なバランス感覚で、その小さな体の姿勢を保ちながら、ジェシカはセレイアスに言った。

 その瞳と同じ茶色の顎髭を撫でながら、この場で唯一の大人は困った顔をした。

「それなんだがねぇ、ジェシカ。とりあえず、この、えっとコータ君の目が覚めるのを待っていたんだが、いったい、どうやってミス・マリコを助けようっていうんだい?だいたい、ここがコンロンのどこにあたるのか、まるでわからないじゃないか?」

 それは、生意気な少女の言葉を否定するというよりは、考えの足りない学生に説明を求める教師のような口調だった。

 この会話で、コータはようやく、何が起こって、自分がこんなところにいるのかを思い出した。しかしさすがに彼も、今度は大声を上げて狼狽えるということはなかった。

 どうやら自分が気を失っている間に、茶色い瞳の機長と空色の瞳の少女の間に、それなりの議論があったらしい。黒い瞳の少年は、その場は黙って二人のやり取りを見守ることにした。彼のこういう態度も、それまでの成長環境から、自然に身に付いたものだった。

 機長の言葉を、まるでバカにしたように少女は言い返した。

「ここが無重力、まァ正確には極低重量だけど、だということは大体の位置が予想できるでしょう?」

 生意気な少女の言葉に、かなり歳の離れた男性は首をかしげるしかなかった。

 ジェシカはじれったそうに口を尖らせると、言葉を続けた。

「回転運動で重力を発生させているコンロンで、重力が弱い場所は中心部じゃない?そして、コントロール・タワーのダスト・シュターで放り出されたということは、その端だと考えていいんじゃないの?」

 ダスト・シュターというのは、彼らをコントロール・タワーから排出した、落し穴の通称だった。

 緊急時の脱出装置も兼ねている、この強制排除の仕掛を宇宙技術者達は皮肉を込めて、ダスト・シュターと呼んでいた。そのダスト・シュターの基本構造を、この空色の瞳の少女はいとも簡単に説明してみせた。

 その理解が正しいのかどうか、帽子のひさしで表情を隠しながら、この場で唯一の大人は忙しく考えていた。

 年端も行かない女の子は、そんな大人の悩みなどに、構っている暇はないようだった。

「ダスト・シュターの役目から考えて、危険から最も遠いところに通じていると考えるべきでしょう?コンロンの場合、コントロール・タワーが中心軸の先頭にあるのなら、その最も安全な場所は、中心軸の反対側じゃないの!?」

 その尻上がりの語尾は、自分の言うことを理解できない大人に対する非難の調子が、明らかにこもっていた。

 責任ある大人の立場にいるセレイアスとは異なり、コータはジェシカの言葉を苦労なく認めることができた。そもそも、このコンロンという軌道基地は、見かけの大きさはともかく、まだ作り初めでほとんどの部分が建設途中だった。

 スペース・クラフトで外から見た時も、大きな扇状のプレートが何枚か広がり、ちょうど壊れた傘のような姿をしていた。その壊れた傘の柄の部分に当たるのが、この基地を貫く中心軸だった。壊れた傘そのままに、その柄の部分もまた途中から砕けるように、内部の構造物を剥き出しにしていた。

 その建設途中の中心軸末端に、ダスト・シュターの先が伸びているという生意気な少女の判断は、どうやら正しいようにコータには思われた。

「なるほど、お嬢ちゃん、いやジェシカちゃんだったね。君の言う通りだとして、どうやってミス・マリコを助け出すと言うのかね?」

 決して嫌味な口調ではなかったが、機長のその口調は、少女に対する挑戦と受け取られたようだった。

 それまで実にバランス良く、空中を大きな赤いリボンと栗色の髪を揺らして漂っていたジェシカは、弾みをつけて大胆に回転した。ちょうど、自分の頭が機長の頭と同じ位置で、それも逆さまの状態で向かい合うように、少女はピタリと体を止めた。

「まったく!アンタみたいな人が、スペース・クラフトのパイロットなんて信じられない!これじゃ、全自動コントロールにするのも当然だわッ!!」

 自分の顔と同じ高さで、しかも逆さに浮かびながら睨みつける少女の視線に、機長は苦笑するしかなかった。

 セレイアスとしては決して悪気があった訳ではないので、この大きく歳の離れた女の子の抗議に、あえて逆らうつもりはなかった。一流の宇宙パイロットを自負する男性は、穏やかに帽子を取ると頭を下げた。

「申し訳ない。お嬢さん、わかるように説明してくれるかな?」

 機長に対して逆さまの姿勢のまま、ジェシカは栗色の髪を軽く振るようにしながら、敬意のかけらもない態度で答えた。

「ダスト・シュターが緊急脱出の手段で、しかもここが建設中の建物のいちばん端だとしたら、いったいそこには何が用意してあると思うの?」

 この時コータは何が根拠だったのか、その相手を軽蔑し切った態度の少女の表情を、その態度とは正反対に可愛いと思った。

 同時に、珍しくとっさに自分の頭に浮かんだ言葉を、口に出していた。

「シャトルだ!」

 言った瞬間、コータ自身はしまったと思った。

 彼はどんな場合でも、自分は目立たない誰かに保護される、か弱い立場にいるように心がけていた。

 祖父の権力に怯え、心のままに生きる両親を見くびる大人達の視線は、少年にとって決して居心地の良いものではなかった。特に、その瞳と髪の色が祖父とも、その祖父の愛する母とも違うことが、彼を極端なまでに臆病にさせていた。

 人間、ことに大人というものは、相手が自分よりか弱い保護すべき対象に見えると、自然と強気になることができる。相手を強気にさえさせておけば、自分がそれ以上注目されることも、不本意に目の仇にされることもない。

 権力者の孫として、複雑な人間関係と、感情の渦巻く中で育って来た少年にとって、それは幼い頃から身に付けた処世術だった。彼にとって不運だったのは、可愛がってくれる祖父さえも、自分の外見に対しては決して素直に、満足してはいないという事実だった。

 そんなコータにとって、思わず口を突いてしまったとしても、それは珍しいとも言える積極的な発言だった。だからこそ彼は言った後で、猛烈に後悔していた。

「へーッ、君、わかっているじゃん!」

 意外なほど素直に、少女はその空色の瞳を大きくして、少年を見直すような表情をした。

 大人である機長も、決して安易な同調ではなく、自然な表情で納得したように頷いた。

「そうか、シャトルの貨物室か!」

 セレイアスは、冷静にその茶色の瞳で、自分達が閉じ込められた部屋を見渡した。

 確かにそこは、スペース・シャトルと呼ばれた旧型の小型宇宙船の、貨物室を構成するコンテナに似ていた。

 シャトルというのは、名前のいわれ通り、そもそもは地上と大気圏外を往復する機体だった。スペース・クラフトが実用化した現在では、当然その大気圏外を往復する機能は無意味になっていた。しかし、小回りの効く小型の機体そのものは、現在でも軌道上の作業に重宝していた。

 何よりも、緊急時には大気圏内への帰還が可能だいうことが、軌道作業関係者に安心感を与えて好評だった。そのシャトルが、緊急脱出用の機体としてダスト・シューターの末端に用意されていることは、大いに考えられることだった。

「どうりで、空調から何から、生命維持機能が整っているはずだ。これなら、収容した人間をそのまま地上に運ぶことも可能だ。コントロール・タワーへの不法侵入者が危険人物であった場合でも、乗務員や他の人間は直接手を触れずに、地上に送還できる。良く考えたものだ……」

 部屋の周囲の壁を直接指で触って、その感触からそこがシャトルのコンテナだという確信を深めたセレイアスは、独り言のように呟いた。

 この中で唯一、宇宙船を動かす資格と技術を持つはずの大人としては、ジェシカでなくとも不安を覚えるような態度だった。困ったことのように首を振りながら、少女は体の位置を入れ換えると、皮肉を込めて機長に尋ねた。

「もちろん、運転できるんでしょうね?機長さん……」

 セレイアスは、この少女の悪意のこもった言葉に、再び苦笑するしかなかった。

 だが、決してこの歳の離れた女の子に、感情的に反発するようなことはなかった。これまでの自分の態度から、相手の信用をずいぶん失っていることを、彼もそれなりに自覚はしていた。

「そりゃ、操縦席に座って燃料があれば、問題は無いと思うよ。でも、このままでは無理だ……」

 機長の言葉に、再び少女は機嫌を悪くしたようだった。

 そんな幼い子供の、空色の瞳の変化にセレイアスも容易に気付いた。

「こいつは、外部から完全に隔離されたコンテナだ。内部からは開かない。まぁ、場合によっては犯罪者を収容する可能性もある訳だから、当然と言えば当然なんだが……」

 機長の言葉に、一番落胆したのは恐らくコータだっただろう。

 彼は、自分の不用意な発言以降、とりわけ黙って成行きを見守っていた。ただ、これがシャトルであるならば、脱出のチャンスがあるという期待に、正直なところ胸は膨らんでいた。

 それが、あえなく否定された。その落胆の表情は、本人が自制していたつもりでも、しっかり外に現われていたらしい。

「そんなの当然でしょう!それを何とかするのが、大人の役割じゃない!早くしないと、マリコの身に何が起こるかわからないわ!!」

 正論と言うには、余りにも正直に過ぎる意見だった。

 少女の言葉に、セレイアスは困った顔をしながらも、最も短絡的な事実を認めない訳には行かなかった。

 コータは、この状況で絶望という言葉を知らない、自分よりも年下の女の子の積極性と知性に、秘かな憧れすら感じていた。これだけ積極的に、自分の知識や感性を利用できたらと、少年は心の中でやや不毛な自責の念に捕らわれていた。

「ミス・マリコのことはともかく、このシャトルをどうにかするということには、大いに賛成だな……」

 呟くように言いながら、セレイアス機長はその茶色の瞳に真剣な光を浮かべて、もう一度周囲の壁を入念に点検し始めた。

 空色の瞳の少女も、赤い大きなリボンを揺らしながら、何かないかと周りを見渡していた。

 黒い瞳の少年だけが何をしていいのかわからず、ただボンヤリとその場に漂いながら、二人の動作を眺めていた。

「そこ、邪魔よッ!」

 少女の情け容赦の無い言葉が、少年の繊細な精神の内側を、荒々しく踏みつけた。

 ここまで、大人以上の洞察力と知識を持つことを見せつけたジェシカだったが、コータの心の内までは理解が及ばないようだった。自分の目の前を大きな赤いリボンが、押し退けるように横切るのを、少年の黒い瞳は悲し気に映していた。

 この時、どこかに押え込んでいた少年の感情が、微かに揺らめいた。

「マリコは、犯人達の仲間だったんじゃないか?そんな人のことを、心配する必要はないと思うけどな……」

 コータにとっては、珍しいというより信じられないほど、悪意に満ちた言葉だった。

 しかも彼はその言葉を、最後まで言い終えることができなかった。

 振り返りざま、実に器用に、遠心力を利用して少女の手が、少年の頬を打った。小気味の良い音と共に、二人の体は、少女の手が振り回されたの同じ力で、左右に弾け飛んだ。

 栗色の髪が大きく波打つと、少女はきれいに体を反転させて、両足で壁を蹴り、自分の体のバランスを取った。黒い髪の少年は、何の備えもしていなかったので、真っ直ぐに壁に向かった。

 もし、とっさにセレイアスが、壁との間に入ってコータの体を支えなければ、壁との衝突は少年にかなりの痛みを感じさせたはずだ。

「バカなこと言わないで!マリコが、あんなヤツらの仲間のはずはないわ!だいたい、マリコがアンドロイドだなんて、本気で信じているんじゃないでしょうね!?」

 大きな赤いリボンと、栗色の髪が激しく揺れて、少女の純粋な怒りを正直に表わしていた。

 基本的に、ほとんど誰からも叩かれたという経験がない少年は、少女の手が自分の頬に与えた痛みに、しばし呆然としていた。

「だが、あのジョウガと名乗るヤツは、そう言ったよ。君の父上の使命だと……」

 それは、少年の体をかばった機長の言葉だった。

 彼はコータのダメージが、精神的なもの以外には大したことがないことを確かめて、静かにジェシカの方へ向き直っていた。

 空色の瞳に怒りを込めて、少女は正面から機長を見つめた。

「それこそ、大バカよ!お父様の計画なら、どうしてアタシが、こんなところに弾き出されるのよ?常識的に考えれば、わかるじゃない!?」

 言われてみれば、確かにその通りだった。

 スペース・ポートの検査で、マリコがアンドロイドだと見破ることはできなかったとしても、自分の娘を他の人質と同じに扱う首謀者がいるだろうか?機長やコータと共に、ここにジェシカがいること自体、この計画がゴドワナ教授のものだというには、大きな疑問があった。

「なるほど、すべてはミス・マリコを取り返してからという訳か……」

 そう言いながら、機長はその茶色の瞳に穏やかな光を浮かべて、少年の黒い瞳を見つめた。

 コータはその瞳の意味するところを理解して、恥ずかしさの余り思わず視線を逸せた。

「いくら、非常事態だからって、八つ当りはいけないよ。良く知らない人の悪口や、無責任な非難もね……」

 コータには、自分に向かってその大人が何を言いたいのか、良くわかっていた。

わかっていながらも、微かに頷くのが精一杯だった。彼としても、自分のこんな感情の興奮は、初めての体験だった。どうしていいのかわからないというのが、正直なところだった。

 少年の素直な反応に、セレイアスはとりあえず満足すると、振り返ってもう一人の当事者を見つめた。

 栗色の髪をたなびかせた少女は、自分が間違ったことをしたと思ってはいなかった。この訳知り顔の大人が、何か自分に非があるようなことを言って来たなら、即座に反論してやろうと身構えていた。

 本人も気付いていないようだったが、やはり年上の男の子を叩いたということで、少し興奮していたのか、少女の頬にはやや赤味が差していた。

「さてと、そんなに恐い顔をしないで、とにかくみんなで、ここを脱出する方法を考えようじゃないか?」

 優しい表情でそう言う機長の顔に、敵意は感じられなかった。

 どうやらこの大人は、公平という言葉を知っているらしい。ジェシカの年に似合わぬ思考力は、相手の年齢にふさわしい経験に、一応の敬意を払うべきだと判断していた。

「何とか、初めて意見が一致したみたいね……」

 少女のその言葉が、自分に向けられていることを理解できないほど、コータは自分が間抜けだとは思いたくなかった。

 これが、この生意気な年下の女性の、彼女なりの和解の表わし方なのだろう。それがわかっていても、なかなか自分が叩かれたという事実は、無視できるものではなかった。

 かなり長い時間をかけて、と言っても実際には数秒間だったのだろう。黒い髪の少年は、相手にその少し赤く腫れた横顔を向けたまま、微かにその髪を上下させた。

「よーしッ!それじゃ、とにかくここから脱出する方法を捜すんだ!」

 少年の肩を、軽く叩くように部屋の中空に押し出すと、機長はかなり意識して元気よくそう言った。

 少女は、再びその厳しい視線を、人ではなく部屋の壁や機材に向けた。少年は押し出された勢いのまま、漂うように流れると、少女の傍らを通り過ぎた。

「マリコさんが、悪い人のハズはない。ゴメンよ……」

 これでも黒髪の少年としては、必死に自分の持つ感情の興奮を押えた挙げ句に、ささやくように声を絞り出した結果だった。

 それに対する栗色の髪の少女の反応は、余りにも単純で、明快だった。ジェシカは、振り向きもせずに言った。

「当然でしょう!」

 残念ながらコータにはそれ以上、彼女に話しかける言葉はなかった。

 それからしばらくの間、忙しそうに部屋のあちこちを調べる二人から遠ざかって、黒い瞳の少年は部屋の中を漂っていた。

 特に二人から無視されているとは思わなかったが、自分にできることがあるとも思えなかった。彼にできることは、二人の邪魔にならない位置に、自分の体を移動することぐらいだった。

 だから、それを発見したのは、ほんの偶然に過ぎなかった。

 未だに体重移動のままならないコータは、機長から遠ざかろうとした弾みに、部屋の隅にあった四角い突起物に思い切り尻をぶつけた。痛みに顔をしかめた彼は、その突起物がわずかに動いたように思った。

 なんだろう?首をかしげながらも、好奇心から無意識に、少年はその四角い箱型の突起物に手をかけた。

「うわぁッ!」

 思わず彼が小さな声を上げたのは、その突起物が思わぬ方向に、簡単に動いたからだった。

 その声が、他の二人の関心を引かないはずはなかった。

「なによ、変な声だして?」

 空色の瞳を少し細めるように、ジェシカは睨んだ。

 言葉にこそしなかったが、機長もどうしたんだ?という表情で振り返った。

「いや、あの別になんでも……」

 自分のしたことが何のか、まるでわかないまま、コータは何か悪いことをしたような気がして、そのまま四角い突起物を元に戻そうとした。

 ところが、慌てたために力が余ったのか、四角い突起物は反対側に大きく動いてしまった。

「あわぁぁッ!」

 情けない、ほとんど悲鳴のような声を上げたが、もはや元には戻らなかった。

 鈍い音がして、四角い箱型の突起物はそのまま滑るように、ほぼ九十度、完全に回転していた。

「何なのそれッ!?」

 少女の空色の瞳が、目敏くその突起物の動きに気が付いた。

 機長も、その奇妙な箱型の動きに興味を持った。

「どいてッ!」

「ぼ、僕は何も……」

 少女が少年を押し退けるのと、少年が自分の行為を誤魔化そうとするのが同時だった。

 こんな時に、誤魔化そうとした方の立場は、実に惨めだった。

運がいいのか悪いのか、コータの罰の悪い思いに気が付く者は、誰もいなかった。少女と大人の男性は、少年の罰の悪さの原因にすっかり興奮していた。

「これは、端末パネルのカバーじゃないか!?よくやったぞ、コータ!これが機体のコントロールと、連結してあれば……!!」

 振り返ると同時に、機長はコータの頭を片手で押えると、その黒髪をクシャクシャに掻き回した。

 黒い瞳の少年は、とりあえず自分のしでかしたことの結果が、悪いことに結び付かなかったことでホッとしていた。そして、乱暴に頭髪を掻き乱されることに、少し不愉快な表情ができるほど、落ち着きを取り戻すことができた。

 そんな少年の心を見透かしていたのか、それとも単なる独り言なのか、少女は彼の顔を見もしないで、意地の悪い言い方をした。

「ただの怪我の功名でしょうけど、これを見つけたのはお手柄よ。もっとも、そう簡単に、状況は変わらないでしょうけど……」

 残念ながら、彼女の意見は正しかった。

 四角い箱型の突起物は、小さなモニター画面を備えた、端末パネルのカバーだった。そうとは知らずに、コータはそのカバーのロックを外したのだ。ただ、問題はカバーを取ることではなかった。

 それから数十分というもの、セレイアス機長はカバーの下から現れた操作パネルを、必死で操作してみた。だが、何の反応も起こらなかった。

 小さなモニター画面は、灰色に沈黙したままだった。

「ダメか……やはり、パスワードが必要なんだッ!」

 機長は、大きくため息を吐くと、そのパネルに両手を打ちつけるようにして、体を宙に浮かべた。

 それと入れ替わるように、今度は空色の瞳の少女が、その操作パネルの前に立った。

 少女に場所を譲った機長は、茶色の短い顎髭を撫でながら呟いた。

「考えてみれば、当然有り得ることだ。これが、コントロール・タワーの緊急脱出装置でもある以上、その関係者がここに放り出される可能性もある訳だ。だから、関係者なら知っているはずのパスワードを内部から打ち込めば、このコンテナの扉も開くはずだ」

 返事はしなかったものの、コータにもその意見は充分に理解できた。

 どうやら、ここがシャトルのコンテナで、それも緊急脱出用の特別製であることは、間違いないようだった。もし、ここに危険人物を隔離して、地上へ強制送還するだけなら、この部屋の中に外との連絡装置は不用だった。

 このまま、外からコントロールするか、機体のコクピットにパイロットが乗り込んで、地上まで運べばことは済む。その時に、コンテナの中身の無事と安全さえ確認できれば、ワザワザ危険を侵して内部と連絡を取る必要はない。

 しかし、これが緊急脱出用のシャトルも兼ねているとなれば、話は別になる。外部からのコントロールが受けられたり、コクピットにパイロットがいるならいいが、そうでない場合も大いに有り得る。

 何しろこれは、軌道基地をコントロールしている中枢の脱出装置なのだ。基地のコントロールも不能になり、パイロットの手配も間に合わない場合だって大いに考えられた。

 そんな時に、脱出して来た関係者達だけで、機体を操作しなければならない場合もあるだろう。そうなったら、このコンテナから外に、何よりもコクピットに移動できなければならない。

 わかってみれば、コータが簡単に操作パネルを発見できたのも、当然と言えば当然だった。厳重に封印して、おいそれと利用できなくしておいたのでは、緊急時に何の役にも立たない。

 内部の人間には容易に、ただし外部の危険人物には、簡単には操作できない。そういう仕掛になっていることは、間違いなかった。

「ダメだわ。パスワードか識別コードを入力しない限り、システムが起動すらしない!」

 さすがに、紙上とはいえ宇宙工学の学位を持っているジェシカにも、沈黙した機械に生命を吹き込むことはできなかった。

 絶望のダメ押しとなるような疑問だったが、コータは先ほどから抱いている不安を、確認しないではいられなかった。

「システムが、動力が働いていないのでは?」

 もっともな疑問だったが、それはもし肯定されれば、その場にいる者にとっては死刑宣告も同じだった。

 返って来たのは、軽蔑し切った空色の瞳と、茶色い小さな瞳の苦笑だった。

「もっともな疑問だがね、コータ。もしそうなら、我々はとっくに酸欠で別の世界へ旅立っている。このコンテナの空調が作動しているということは、動力は少なくとも最低限のレベルで生きているということだ。ありがたいことにね……」

 優しい大人の口調だったが、コータはしばらく恥ずかしさで、顔が上げられなかった。

 考えてみれば、当り前の話だ。この部屋の床や壁面の発光パネルが作動しているからこそ、自分達はモノを見ることができるのだ。そんなことにも気が付かないとは、どうやら本気で自分は宇宙生活に向いていないらしい。

 黒い瞳の少年は、重さを感じない世界での自分の役立たずぶりに、今までとは異なる無力感を覚えていた。

「だから、このコントロール・パネルが死んでいるとは、考えられないのだよ。ところがこいつは、国際パイロットの認識コードも、宇宙規格の緊急コードもまるで受け付けない。昔使っていた軍事用のパスワードや、識別コードもダメだった……」

 なんとも悔しそうに、セレイアスは口にしていた。

 この時、初めて少年と少女は、この場で唯一の大人がかつて軍の関係者だったことを知った。これも、考えてみればそれほど不思議なことではなかった。

 初の民間大気圏外航路の定期便とは言っても、それを操縦する資格を持つ人間が、そうゴロゴロしているはずはなかった。軌道開発の関係者か軍事関係者、それも訓練を積んだ優秀なパイロットとなれば、自ずからその選択肢は限られている。

 まだまだ、ただの民間宇宙パイロットは少ない時代だった。

「基盤を外して、直接操作できないかしら?」

 少女の言葉に、機長は顔色を変えた。

「おいおい、それだけはやめてくれよ!コイツが、危険人物を収容する目的があるとすれば、物理的に正常でない力が加われば、どうなるか想像できるだろう?」

「やっぱり、ダメね……」

 少女と大人の男性は、二人だけにわかる深刻なため息を吐いた。

 一人、その関係から疎外された形の少年は、しばらくの間迷っていた。そしてこれ以上、二人には意見がなさそうなことを見極めた上で、恐る恐る口を開いた。

「あの、試していただきたいコードがあるのですが……」

 ジェシカの空色の瞳が怪し気に、セレイアスの小さな茶色の瞳が不思議そうに、それぞれコータの黒い瞳を見つめた。

 二人に見つめられて、コータは完全にドギマギしていた。だが、それ以上は、どちらも彼の態度を非難しようとしなかった。

 しばらくためらった後、少年は勇気を出して機長の方に体を寄せた。そして、その耳元にある記号と番号をささやいた。

 この時、あえて少女に告げなかったのは、彼がこの生意気な年下の女の子を、苦手にしている証拠だったのだろう。それに、どう見てもこの場での中心人物は、男性の大人の方に見えた。

 もし少女が、栗色の髪を揺らして抗議したなら、コータは自分の考えを主張しただろう。ただ、それが本心のすべてではないと、彼自身よく分かっているつもりだった。

 幸い、少女は別に文句を言うでもなく、少年の言葉を聞いた機長に、操作パネルの前を明け渡した。

 コータは、機長からそれがどういうコードなのかと、聞かれることを一番恐れていた。それについては、何と言われようと、実用の効果があるまでは答えるつもりはなかった。ただ、何と言い訳すればいいのかは、まるで思い付かなかった。

 そんな少年の胸の内を察してくれたのか、単に面倒なだけだったのか、セレイアスは何も言わずに聞いたコードを、正確に打ち込んだ。

 やや甲高い機械の起動音が、その場の三人を一瞬凍り付かせた。しかし、次に操作パネルのモニター部分が輝き、単純な入力待ちのメッセージを表示した瞬間、歓声が少女と大人の男性から沸き上がった。

「やった!こりゃ、いったい、どういう魔法の言葉なんだ?」

 機長は、久々に喜びにあふれた表情で、コータの方を振り向いた。

 生意気な少女は、疑惑のこもった視線を少年に向けていた。

「カレット家の識別コードです……」

コータはうつ向きながら、小さな声で言った。

 年端の行かぬ女の子と、年長の男性は顔を見合わせた。

「これは反則なんですけど、カレットの関連会社の製品は、すべてこの識別コードを受け入れるようになっているんです。もし、この機体のコントロール系のどこかにカレットの製品が使われていれば、そこは無条件にこのコードを読み込みます……」

 黒い瞳をセレイアスとジェシカから逸すと、ささやくような口調で、口ごもりながらコータは説明した。

 人生経験の長い機長は、一端開きかけた口を閉じると、帽子のひさしを目の上に下ろしてその表情を隠した。

 栗色の髪の少女は、しばらくその空色の瞳を見開いていたが、やがて激しくその大きなリボンを震わせた。

「何なのよーォッ!それはーァッ!?」

 しかし、そこから先の言葉は、細い割には意外に強い大人の男性の手によって、封じられてしまった。

 顔を上げた機長は、その茶色の瞳に優しさを浮かべて微笑んでいた。

「なるほどね、ヨーロッパを代表する企業グループの製品が、シャトルに使われていない訳はない。すると、こいつは完全に起動した訳じゃないんだ?」

 セレイアスの言葉に、工学博士の称号を持つ少女は、ようやくモニターの表示の中身に視線を移した。

 確かに、そこには回路の一部への入口が示されていたが、それはどう考えてもシャトルを操作する内容ではなかった。ジェシカの様子から、もう大丈夫と判断したのかセレイアスはその手を離した。

 少女はその空色の瞳を、細かい記号と数字を表示する画面に喰い入るように向けると、その両手を操作盤の上に置いた。

「なによこれ!システムの回路の一部に、強制的に割り込んだだけじゃない!?ここからどうやって、元のシステムを完全に作動させるっていうのよ?まったくもうーッ!!」

 一人で喚きながら、少女の指は忙しく操作盤の上を走った。

 その様子を見ながら、セレイアスは少しホッとしたのか、落ち込んだ表情をしたコータの肩を、そっと叩いた。

「噂には聞いていたが、本当にカレット家のスーパー・パスが存在するとはねェ。いったい、どれだけの人間が使えるんだい?」

 機長の言葉が、自分を気楽にするためのものだということは、さすがに黒髪の少年にもわかった。

 自分の家族の欠点でも話すように、コータはうつ向いたまま答えた。

「僕とお祖父様だけです。お母様は、自ら権利を放棄しましたから……」

「父上に与えられていないのか?まったく、カレットの会長も頑固だな。らしいと言えば、らしいが……君も、色々大変だな。でも、そんな貴重なコードを、他人に教えてしまっていいのかい?」

 それは、実にもっともな機長の感想と質問だった。

 感想に付いては、コータ自身も同じように思っていたので、悪い気はしなかった。また、質問の答えにも苦労はなかった。

「それは大丈夫です。いくら僕やお祖父様といえども、やたらには使えないようなっています。機密の保持も含めて、一度使うとそのコードは使えなくなるんです」

「ということは、コードは何種類も用意されているってことかァ!?」

 セレイアスの言葉に、コータは答えなかった。

 それ以上のことは、やはり口にしてはいけないことなのだと、少年なりに理解しているつもりだった。もっとも本当のところは、仕組みがどうなっているのかよくわからないことも、口を重くした原因にはなっていた。

 コータは、巨大企業グループを支配する一族の、それも直系の後継者という立場を、幼い頃から実感させられ続けていた。今回もまた、緊急事態で止むを得ないとはいえ、自分が一般人とは異なる権限を与えられていることを、思い知らされた。

 この黒い瞳と同じ色の髪を持つ少年には、それは決して持っていて嬉しい特権ではなかった。もし、この少年が普通よりも少しばかり鈍感な、と言うより無神経な意識の持ち主なら、こんな苦労は無かったのだろう。

 どちらかというと内向的に、自分の立場に罪悪感を抱いている少年の黒い瞳を見ながら、セレイアスはつくづく人生は難しいと思った。特権階級に生まれて、それを振り回す者もいれば、それを羨む者も多い。

 しかし、その特権の持つ意味と重さを、正直に受け止めてしまう者にとっては、これはただの呪縛に過ぎない。それも、自分からそれを切るのは、ほとんど不可能という強力な呪縛だった。そういう意味では、そんな呪縛を軽がると捨て去った、この少年の母親は実に大した人物なのだろうと、セレイアスは思った。

 皮肉なことに、そういう母親から生まれたことがまた、この少年を縛り付ける別の鎖になっていたのだろう。そんな事情が容易に想像できて、茶色い顎髭の機長は、すっかりコータに同情的になっていた。

「ちょっと、そこでグチャグチャ話している人ッ!気を散らすようなこと、しないでちょうだい!」

 押えた口調ながら、ハッキリとした不快感をジェシカは口にしていた。

 怒られた形の年の離れた男性二人は、お互いに肩をすくめると、そっと少女の肩ごしにその作業の内容を覗き込んだ。

「お嬢さん……」

 モニター画面の内容を見て、思わずうわずった声を、セレイアスは上げていた。

 その言葉に、栗色の髪と赤いリボンは敏感に反応した。

「ジェシカよ!」

 その短い言葉の強さに負けて、機長は言葉を選び直した。

 軽く咳払いをすると、再び機長は少女の名を呼んだ。

「では、ジェシカちゃん……」

「ちゃんは、いらないわ!」

 振り返りもせず、少女は一言で片付けた。

 もう一度、茶色い顎髭の機長は態勢を立て直した。まさしく、三度目の正直だった。

「では、ジェシカ……」

「なーに?忙しいんだけど!」

 まったく、取り付く島が無いというか、ぶっきらぼうと言うか、可愛気が無い上に小生意気な返事だった。

 もっとも、そんなことではセレイアスの意志はくじけなかった。

「ジェシカ、君が今やっているのはそれは、俗に言うところの、その……システム破りじゃないのか?」

 なるべく相手の機嫌を損ねないように、慎重に言葉を選んだつもりだったが、結果はあまり変わりばえがしなかった。

 言った後で、機長は相手の気分を悪くしたのではないかと懸念して、不安気な表情で少女の背中を見つめた。しかし、それらはすべて、この場で唯一の大人である彼の、思い過ごしでしか無かった。

 空色の瞳を、余り大きくない操作盤のモニター画面に向けたまま、ジェシカはあっさりと答えた。

「ええそうよ。それが、どうかしたの?」

「どうかしたのって、そんなこと、君はしょっちゅうしている訳?」

 機長の言葉に、驚きと同時に呆れと動揺が混じっていることは、コータにも容易に認められる事実だった。

 しかし、またしても工学博士の資格を持つ少女の返事は、機長の予想を裏切ってくれた。

「まさか!こんなことやるのは、初めてよ!」

「それにしては、ずいぶん手付きが鮮やかなんだが……」

 機長の心配も、無理はなかった。

 非合法な、製造メーカーによるプロテクト破りのコードを使って、これもまた非合法にコンピューター・システムに入り込もうとしている。これは、誰がどう見ても犯罪行為だった。

 だが、それに対するジェシカの回答は明快だった。

「システム工学をまともに勉強すれば、それを逆に利用してシステムに侵入する方法なんか、簡単に理解できるわ。後はそれをどれだけ実践できるかという、技術的な問題だけよ」

「君には、その技術があるってことか……」

 思わずコータは、そう呟いていた。

 初めて少女の肩が小さく動いて、その視線が後ろを振り返った。

「何か文句あるの?この緊急事態に、モラルも法律もないでしょう!?そうじゃないの、機長さん?」

 鋭く問いかけられて、セレイアスが焦らなかったと言えば嘘になる。

 彼は体の姿勢を正すと、帽子の位置を直しながら大人ぶって、重々しく口を開いた。

「まぁ、そのなんだ……確かに、緊急避難に当たる行為ではあるな……」

 ジェシカはそれ見たことかと、いかにも無駄な時間を使ったという表情で、また操作盤の方へ向き直った。

 そんな少女の態度に、もはや機長もお手上げだった。

 セレイアスにしても、宇宙パイロットとして、基本的なコンピューターの扱いには慣れていた。しかし、今のような非日常的で複雑な操作には、まるで歯が立たなかった。

 もちろんコータに至っては、もはやジェシカが何をやっているのかさえ、まるでわからない状態だった。

 この状況下で、男二人はまったくの役立たずに成り果てていた。二人は、ただ少女の邪魔にならないように、息を潜めるだけだった。

「まったくもうッ!見にくいったらありゃしない!!今時の宇宙船のクセに、モニターに平面液晶なんて使わないでよね!せめて、立体プラズマ表示ぐらいできないの!?」

 コータから見ると、ほとんど理不尽としか思えない言葉で罵りながら、ジェシカは叩き付けるように操作盤に指を走らせた。

 少女の上げる理不尽な罵声と、その度に揺れる栗色の髪と赤いリボンを、二人の男性は不安気な視線で見守っていた。そんな男二人の視線に気付いているのかいないのか、少女は何度も同じことを繰り返した。

 どのくらいの時間が流れたのか、コータには何時間にも感じられる時間が過ぎた。突然のように、少女の肩の動きが止まった。

「出た……」

 その短い一言に、素早く反応したのはセレイアスだった。

 彼は、さり気なく少女と体の位置を入れ換えると、その少女が見にくいと罵ったモニター画面を見つめた。

「機長さんの言った通りみたい。回路全体にセンサーが仕掛けてあって、物理的な圧力が加わると、すべての回路を閉鎖するようになっているわ」

 そこに表示されていたのは、このシャトル全体をコントロールする回路図だった。

 ジェシカは、ついにシャトルのコンピューターを、正常に作動させることに成功したのだった。

「こいつが、コンテナとコクピットを結ぶ通路の開閉回路だ。運がいいぞ、俺達はコクピットに一番近いコンテナに居るんだ!」

「それじゃ、これを操作すればいいのね?」

 ジェシカの、さすがに明るい言葉に、しかし機長は慎重に首を振った。

「もしかしたら、何か仕掛があるかも知れない。この回路を拡大できるかい?」

「もちろんよ」

 手早く、操作盤に指を走らせたジェシカは、モニターの中に回路の拡大図を表示させた。

 その図を、機長はその茶色の瞳を細めるように、慎重に見つめた。

「どうやら、仕掛はないようだ。それじゃ二番と三番の回路を、開けてもらおうか?」

 さすがに、ことここに至って、この生意気で可愛気の無い少女にも、ためらいの表情が浮かんだ。

 一度、操作盤から両手を浮かせると、彼女はまず機長に尋ねた。

「いいの?」

 そして、その空色の瞳を、今度は真面目にコータに向けた。

 コータも、今度ばかりはその黒い瞳で、真っ直ぐに少女を見返した。

「いいのね?」

 少女の問いかけに、少年は黙って頷いた。

 それを確認して、ジェシカはもう一度セレイアスを見上げた。

 宇宙パイロットの資格を持つ、この場で唯一人の大人は、ゆっくりと頷いた。

「一番、解放……」

 微かに、一方の壁の向こうでロックの外れるような音がした。

 少女はもう一度、男性の大人を見上げた。機長は、茶色の瞳で優しく頷いた。

「二番、解放。ゲート・オープン!」

 その声から少し遅れて、一方の壁がゆっくりと横に滑り始めた。

 二人の子供は、無意識の内に唯一の大人の傍に身を寄せていた。

 開いた扉の向こうから、一瞬、冷たい空気が流れ込んで来たように感じて、コータもジェシカも思わず目を閉じた。

 しかしそれ以上は、何も起こらなかった。

「ようしッ!よくやった!!」

 そう言うと、セレイアスはジェシカの頭を、少し乱暴にクシャクシャと撫でた。

 栗色の髪を乱されて、少女は少し迷惑そうな表情をしていたが、あえて何かを言おうとはしなかった。

「さァ、二人とも、行くぞッ!」

 短い一言の後に、機長は二人の子供を抱えるようにして、素早く慎重に開いた扉をくぐり抜けた。

 恐れていた事態は、何も起こらなかった。

 そこには、コンテナと同じように空気があった。ただほんの少し、コンテナよりも温度が低いようだった。

「ゲート、閉鎖します?」

 操縦席のメイン・モニターを見て、それが正常に作動していることを確認したジェシカは、振り返るとセレイアスに尋ねた。

 大気圏外航空機の機長は、ほんの少し考えるような表情を見せたが、すぐに頷いた。

「そうだな、閉めてくれ」

 少女の指が、操縦席のボタンの一つを押した。

 開いた時と同じように、背後の扉は静かにゆっくりと閉まった。

 それを見ていたコータは、セレイアスの顔を見上げた。

「余分な空気が、コンテナに流れるのは防いだ方がいい。温度や湿度管理で、空調装置にも負担がかかるだろうし……」

 少年の黒い瞳の視線に、なぜ扉を閉めたのかという疑問を感じたのか機長は、穏やかな口調でそう言った。

 専門家であるセレイアスにそう言われた以上、コータとしてそれで納得するしかなかった。

 彼は、大人しく二人が並ぶ操縦席の後ろにある補助席に腰掛けると、ベルトで自分の体を固定した。この場での自分の立場を、彼なりに理解した自然な動作だった。

 そんな少年の様子を、茶色い瞳を細めるようにして、セレイアスは気付かれないように横目で見つめていた。

「こいつはテントウムシだな……」

 視線を正面に戻した機長の独り言を、少女は聞き逃さなかった。

 不思議そうな視線が、ジェシカの空色の瞳から伸びていた。

「テントウムシって?」

「初期のシャトルのことさ。こいつは小さくてエンジン出力も弱いが、小回りが効く上に耐久性がいい。なるほどな、これなら緊急脱出用にはもってこいかもしれない」

 セレイアスは一人で納得しながら、忙しく操作パネルの上に指を走らせていた。

 ジェシカは、そんな機長の説明を聞いているのかいないのか、返事もしないで、各回路の状況を表示する目の前のモニターを見つめていた。

「とにかく、早く離脱しましょう!この機体のコントロールが起動したことは、すぐにコンロンのコントロール・タワーに知れるんじゃない?」

 栗色の髪を、たなびかせるように振り返る少女の言葉に、宇宙船を操縦する専門家は頷いた。

 改めて帽子を被り直した機長は、姿勢を正すと隣りに座る、年の離れた女の子を見つめた。

「そりゃそうだ!せっかく乗った救命艇を、いつまでも沈む船に結び付けとくバカはいない!それで、どっちに向かう?どっちと言っても、そんなに燃料がある訳じゃないがな……」

「決まっているじゃない!マリコを助けるのよッ!!」

 少女の力強い当然と言うような語調に、セレイアスはその茶色い顎髭を歪めて微笑んだ。

 そして、自分は目の前の窓の外に視線を向けた。

「そうだな、俺も自分達だけ逃げるっていうのは、気に入らないな」

 もしかすると、それは暗に自分に対する言葉かも知れない。

 二人の背中を見つめながら、コータはそんなことを思った。

 自分自身がどう思っているかどうかは別として、やはりコータは機長にとって、最重要な乗客であることは間違いない。しかも、救命用のシャトルを首尾良く操縦できるようにしたのも、コータの祖父の力のおかげと言え無くもなかった。

 もちろん、コータは自分だけの力でこれまでも、そしてこれから先も、どうにかなるなどと自惚れてはいなかった。この場の三人は、それぞれの立場で対等なのだ。

 黒い瞳の少年は、自分の立場をわきまえていた。もしかしたら、機長は彼にそれを悟らせるために、さり気なくそんな言い方をしたのかも知れない。

 とにかく、コータは自分の意志を示す必要を感じた。そして、それは彼にとって、かなりの苦痛と困難を伴う作業だった。

「機長さん達の、いいようにやって下さい……」

 二呼吸ほどの間を置いて、黒髪の少年はようやく、そう呟くように口にすると、大きくため息を吐いた。

 そんな、自分よりも年上の男の子の態度を、空色の瞳で少女は見つめていた。その瞳の色に、軽蔑と哀れみの色が混じっていると感じたのは、たぶんコータだけはなかっただろう。

 黒い瞳の少年に、その視線を弾き返すような力はなかった。自分の意志を、他者の思惑と反応を考慮せずに明らかにすること。それは、野心と下心に満ちた大人達の間で、幼い頃から育ったコータにとって、実に難しいことだった。

 うっかり、自分の意志を明らかにしてしまえば、どんな形で利用されるかわからない。最終的には、祖父に迷惑をかけることになるだろう。黒髪の少年は、他の何よりもそれを恐れていた。

 もっとも、現在の彼の置かれている状況では、その最も恐れている事態に、地上の祖父が陥っていることは想像するまでもなかった。自分の身を案じて、あらん限りの手段を用いているだろう祖父を思って、コータは申し訳ない気持ちで一杯になっていた。

 どうやら、自分は祖父の期待には応えられそうにない。あの両親の子供なら、仕方が無いさ……きっと、祖父以外の親族関係者は、影でそうささやいているのだろう。

 そう思って落ち込んだコータは、その時脳裏に閃くモノを感じた。

 ちょっと待て!スペース・クラフトがコースを外れて、乗員乗客が行方不明になり、しかも建設中の軌道基地から作業員が全員退去している。こんな大事件になっているのに、なんでこんなに静かなんだ?

「機長さん!遠距離レーダーに何か映っていますか?」

 唐突な黒髪の少年の質問に、ちょっと驚いたようだったが、セレイアスは軽く視線をレーダー画面に走らせた。

 振り返った機長の瞳には、優しさと少しばかりの疑惑が浮かんでいた。

 セレイアスとしては、ここまで少年の年齢に不相応な引っ込み思案な性格を、感じない訳には行かなかった。その消極的な少年が、彼としてはずいぶん大きな声で、妙な質問を突然したのだから、その理由が何なのか大いに興味があった。

「レーダー範囲で、他の機体その他人工構造物の反応はないが、それがどうした?」

「おかしいとは思いませんか?キャメル・ナンバー3が、コースを外れてからもうずいぶんになります。それに、マリコさんの推測が正しければ、この基地の人達も全員がいなくなっています。これだけのことが起これば、いくら大気圏の外とはいえ、誰かが調べに来るんじゃありませんか?それに、僕のコードには緊急事態の意味が含まれています。カレットの関連企業の宇宙船が、この辺に一隻もないなんて信じられません!」

 珍しく、興奮したコータは一気にそれだけのことをしゃべった。

 疑問が後から後から湧いて来て、自分の内部で検討している余裕がなかったためだ。それも、これらの疑問がどれもこれも、考えられる最悪の事態に近かったから、余計に興奮したのだろう。

 少年の様子を、セレイアスは瞳を細めて見つめたいた。次に彼は、隣りに座る栗色の髪の少女の方を向いた。

「今まで気が付かないとは、ホント、お気楽娯楽なお坊ちゃんね!」

 少女の言葉には、遠慮とか気遣いというものが、まるでなかった。

 その言葉に、今度は少年の黒い瞳が見開く番だった。

「私達は、飛行機を乗っ取られて以降、外部との連絡を断たれているからわからないけど、今回のことがここだけの問題だとは思えないわ。あなた言う通り、建設中の軌道基地から理由はどうあれ、関係者全員が退去したら、それだけで大事件よ。普通なら、今ごろマスコミやコンロンの関係者、それに宇宙で軍は動けないから、世界警察機構あたりの調査船が、山のように集まっているはずよ」

 少女の空色の瞳が、挑戦的に少年の黒い瞳を見つめていた。

 しかし、少年には少女の挑戦を受ける用意が、まるでなかった。と言うより、なんで彼女が自分に挑戦的な視線を向けるのかも、わからなかった。

 そんな少年と少女の、奇妙な対立関係に、この場で唯一の大人はこれから先きの不安を感じて、いささか困惑していた。

「まだ、わからないみたいね?いいこと、これだけのことが同時に発生して、なおかつ、誰もその現場に現れないということは、それができないということじゃないかしら?」

 コータは、何度もその黒い瞳を瞬いた。

 彼は頭の中で、必死に少女の言葉を整理していたのだが、残念ながらそれらをまとめる発想力に、いささか弱いものがあるようだった。

「つまり、あのジョウガってオバサンは、私達だけじゃなくて他の軌道施設や機体も、乗っ取ったんじゃないかってことよ!」

 いきなり、オバサン呼ばわりされたら、あの謎の声の主もさぞかし気を悪くするだろうと、機長は心の中で忍び笑いをしていた。

 機長が、そんな表情に苦労している間に、コータはようやく相手の言うことを理解した。

「それじゃぁ、アイツは衛星軌道全体を、支配したっていうのか!?」

「そう考えても、あながち大袈裟じゃないだろうな……」

 セレイアスは、手早くシャトルをこの緊急ポートから切り離す作業を進めながら、できるだけ穏やかな口調で同意した。

 コータは、唖然とした表情で、信頼する機長の表情を見直した。

「もしそうだとすると、我々は、本気で自力脱出の方法を考えなくてはならない。外部からの援助は、ほとんど期待できない。ジェシカの言うとおり、乗員乗客を救出できるのは我々だけだろう。そう、ミス・マリコも含めて……」

 背中を向けたままの機長の言葉に、コータは返事をすることができなかった。

 だが、それならば自分の疑問はすべて解決する。もっともそれは、解決されたからと言って、ちっとも嬉しくない方向への回答だった。

 自分から見ると、ちっとも建設的な会話に思えなかったのだろう、少女が大きな赤いリボンを振るようにして割り込んだ。

「とにかく、早くここから離れないと!」

 セレイアスも、その少女の意見には同感だった。

 自分も座席に座り直した機長は、その小さな茶色の瞳に真剣な色を浮かべると、二人の子供を振り返った。

「ようしッ!やるぞ、二人ともしっかりベルトをしなさいッ!!」

 

〈『空色の瞳・後編』に続く〉

説明
澄み渡る青空の下、少年は自分が乗り込む巨大な大気圏外航空機を見上げている。少年の名はコータ。今年十五歳になる彼は、たった一人で成層圏外に出ることに、内心では不安を感じている。そんな少年の臆病な心境を、今日の澄み切った空と同じ色の瞳で、栗色の髪を大きな赤いリボンで留めた少女が見抜いていた。ジェシカという名のその少女は、生意気で可愛気の無い態度を、堂々と内気で臆病な少年に示す。2人の想いを振り払うかのように、キャメル・ナンバー3は軽快に離陸し、やがて地球の成層圏を離脱した。
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