戦極甲州物語
[全1ページ]

 このままでは持たない。

 それは音に聞こえた武田家と武田家臣団であろうがなかろうがわかることであろう。

 

「ご注進!」

 

 陣の幕を払って飛び込んでくる足軽。彼はそのまま滑り込むように座り込んだ。

 相当走ってきたからか、しばらくは声にならずに激しく呼吸している。

 早う申せ、とは言えない。言う暇すらない。

 もはやこんな報告はひっきりなしの状態なのだ。彼が呼吸を整えようとしている間にも次から次に報告がやってくる。

 1人ではすべての報告に対応しきれず、そばの家臣たちが走り回り、内容を少しでも整理して優先順位の高い報告から告げてくれる。

 

「敵の騎馬隊が鶴翼陣を突破! 後方、魚鱗陣に移行中の穴山勢に遅れが!」

「魚鱗の陣形への移行は遅々として進んでおらぬということか……まあ、無理もないが」

「申し上げます! 小笠原勢が敵に押されています! 援護の要請が!」

「ぬう、そちらはしばし待て……穴山勢の後詰めには信廉が控えていたな?」

「は、はい」

「穴山勢の前にはあの山県勢がいるのだ。敵も運よく通り抜けた一部に過ぎんはず。

 その程度のこともわからぬ穴山殿ではない。冷静であれば対処できるであろう」

「お館様よりの伝令!」

 

 そこに他の伝令役たちを押しのけて割り込んでくる別の兵士。その背には百足が描かれた旗。

 武田家の使番衆だけが背負うことのできる旗である。

 もちろん、主君からの伝令とあれば最優先。文句を言う者はいない。皆が揃ってそちらへと視線をやった。

 

「穴山隊には後詰めの逍揺軒信廉様に支援させるゆえ、そちは前線維持にのみ傾注せよとのこと!」

「相わかった。兄上がそう仰るのであれば従うまで」

 

 怒号の中を銃声が散発的に轟く。

 正直、この乱戦の最中で銃は有効とは言い難かろう。

 敵ならば放置しておいてもいいが、味方だとしたら無駄玉を打つなと言い置きたいところ。

 

「小笠原勢の方だが……山県殿はどうしている?」

「は、敵将柿崎景家と思われる敵部隊と交戦中! とても援護を出せる状態では……!」

「いくら山県殿とは言えど、彼の猛将相手では他の援護などできぬか……」

「山県殿はこちらの援護に回ると、先ほど使番が――」

「ならぬ! 山県勢で防げなければ柿崎勢を防げる部隊は後詰めにはおらぬ! 山県殿には柿崎の撃退と左翼の維持に集中するように申せ!」

「で、では小笠原勢への援護は? こ、後方の原様に援護を要請しますか?」

「……いや、それもならぬ」

 

 一度はそれもよしかと思ったが、すぐに思い直す。

 原昌胤は陣馬奉行。常に本陣の隣に陣を張っている重要な部隊だ。

 要するに――彼が前線に出てきてしまえば、本陣が手薄になってしまう。

 武田の優秀な諜報集団である『三ツ者』からの情報では、この激戦の前、上杉軍から一部の部隊が離脱したという。

 まさか逃げたとは思えない。

 上杉軍が陣取っていた妻女山がある方へと離脱したというから、

 もしかすると妻女山がすでにもぬけの殻であることに気づいて急ぎ山を下りているであろう武田軍別働隊を足止めするためかもしれない。

 その可能性が一番高いと思っている。

 が、実はこれが千曲川を通って迂回し、こちらの左翼側面か後方から本陣を急襲するつもりかもしれない。

 こちらが先に別働隊を使ったのだ。向こうがそれをしない道理はない。

 その場合、本陣を守るのはまさに原勢の役目。ここで彼の部隊を前進させるわけにはいかない。

 

――ウワアアアアアアアアアア……!

 

 一際怒号が、喊声が、大きく場を揺らす。一瞬、その場の皆々が揃って前線へと顔を向けた。

 旗本たちの中には恐怖か動揺か、手にした刀や槍を構える者までいる。

 何かの合図か。それとも味方の奮起の証か。

 どちらにせよ、問題はそれがますます近づいてきているということ。

 時折、あてずっぽうで放たれたのか、それとも狙って放たれたのか、矢が陣幕の中にまで飛んでくるほどにまで。

 

「危のうございます、お下がりを」

 

 配下の老将がそばに寄ってくるが、無言でそれを制する。

 

「兄上はどこまで下がられた?」

「……は。落合まで。周囲を浅利殿・跡部殿・逍遙軒信廉様が固めておられます」

 

 こちらが下がるつもりなどないということを察したからか、老将はそれ以上を言わず、ただ質問にだけ答えた。

 いつも心労をかけてすまないと思う。けれど今はそれについては無言で通した。

 

(落合……千曲川と犀川の合流地点。千曲川と犀川を後方に据えれば、例え別働隊に後背を突かれても対応できよう)

 

 渡河してこようとしても、騎馬だろうと足軽だろうと水に足を取られて進撃は鈍る。突進も。

 そこを狙い撃てばいい。

 懸念があるとすれば、川を背にする以上、こちらも渡河して後退することが難しいということ。

 渡河しようとすれば後退速度はどうしても鈍る。

 だが渡河してまで後退の必要はないと考えている。

 如何に敵の数が勝っているとは言え、それはあくまで現在の武田軍本隊と上杉軍の比較の話。

 武田軍別働隊1万2千が合流すれば武田軍本隊8千と合わせて2万。対して上杉軍は1万3千。

 加えて位置的に妻女山から戻ってくる別働隊は必然的に上杉軍の右側面を強襲する形になる。

 そうなれば本隊と共に挟撃が可能だ。一気に形勢は逆転する。

 

(川を背にすればまさに背水の陣。浮足立った我が軍将兵らに、今一度喝を入れるにも丁度よかろう……さすが兄上。よく考えておられる)

 

 まだ武田の総大将は冷静であるということ。なら大丈夫だ。

 そう、要は……要は今この時を、凌げばいい。凌いで見せればいい……!

 

「我が隊は鶴翼の中央を維持しつつ、左翼に展開。小笠原勢を支援せよ」

「お、お待ちください! それでは我が陣が手薄になってしまいます!」

「守るべきは何かを忘れたか? 守るべきは我が身ではない。兄上――お館様だ」

「しかし……! それでは御身があまりにも危のうございます!」

「どこにいたところで同じこと。山県殿はあの柿崎を抑えているのだ。我が隊に向かってくるは本庄美作守と長尾越前守。

 彼奴ら程度、抑えられずして山県勢の働きに応えられようか!」

 

 それに右翼はまだまだ持っている。

 右翼に展開するは諸角虎定や初鹿野忠次、そして我が武田が誇る四名臣が一、内藤昌秀だ。

 内藤勢は果敢に押し返し、敵の斉藤勢と一進一退の攻防を繰り広げているではないか。

 斉藤勢の後方にはどうやら旗指物からして直江勢や村上勢がいるが、

 千曲川と犀川の合流地点である落合近くまで下がったことで必然的に川と川の間が挟まり、前方の部隊が邪魔で後方の直江勢たちは前に出られない。

 要するに、例え兵の数で勝ろうとも、実際に戦闘をしている兵の数は双方あまり変わらないのだ。

 後退していたのは単に総大将たるお館様の安全を期すためだけではない!

 そして武田軍も現在、最前線防衛線に並ぶは武田軍副将を初め、山県昌景・内藤昌秀という武田四名臣のうちの2人を筆頭にした精鋭。

 

 

 

 

 

 そう、この身は……お館様より『武田の副将』を任された身。

 

 誰よりも尊敬し、誰よりも敬愛する、偉大なるお館様――兄上から。

 

 この信頼を、裏切ってはならない。

 

 

 

 

 

 将のその真摯な姿勢を見て、尚も抑えようとしていた老将も、他の部下も、旗本の兵たちも。

 皆、黙っていた。黙らされた。

 怖いのではない。恐ろしいのではない。

 まるで彼らもまた敬愛してやまぬお館様のような、いいや、お館様にも匹敵するその覇気に、頼もしさを感じたのだ。

 いっそ神がかっているとさえ言ってもいいかもしれない。

 しかし……それでも状況は好転してくれない。

 

「も、申し……っ……申し上げます!」

 

 また1人の使番らしき兵が飛び込んできた。

 その場の、戦場の最前線にありながら静謐なる神前の場のような空気に、その兵は呼吸を忘れたように左右を見回す。

 気にするなと声をかけ、報告を要求する。

 

「は、初鹿野忠次様……討死!」

「――何!?」

 

 それは今まさに頼りになると思っていた味方の将。それも重臣級の。

 とうとう出てしまったのだ。あまりに大きな犠牲が。

 せっかく湧き上がりかけた士気が、急速に萎んでいくのを、この場の全員が感じた。

 

「ど、どうなさいますか!?」

「ご指示を! 初鹿野様が討死とあっては、右翼にまで間隙が……!」

 

――言われずともわかっている!

 

 そんな鬱憤を、しかし何とか口を強く引き結ぶことで耐える。

 混乱する思考を落ち着かせようとする。もう何度繰り返したかわからない。

 だが急時にこそ冷静たれ。

 指揮官の動揺は全体士気にかかわる。特に今のような状態でこれ以上の士気低下は絶対に防がねばならない。

 すぐに脳裏に軍議の際に叩き込んだ布陣や地形を起こす。

 

(初鹿野勢は我が隊の右翼。我が隊の左右が揃って崩れ始めている……)

 

 最左翼に山県勢。その内側に小笠原勢。中央に我が隊。右翼内側に初鹿野勢。そして最右翼に内藤勢。

 それが今、山県勢と我が隊と内藤勢をそれぞれ引き離すように小笠原勢と初鹿野勢が崩れ始めている。

 

「実質ほぼ同じ兵力で戦っているというのに……押し負けるというのか」

 

 もちろん、実際に戦っている兵力が同じであろうと、後詰めがあるのとないのとでは気構えが違ってくる。

 後詰めがないということは休息がとれないということでもあるのだ。

 それが災いしてしまったのだろうか。

 そして二度あることは三度ある。さらに背中に矢が刺さった兵士がもんどり打って転がり込んできた。

 苦しそうに口から血を流している……もはや長くはあるまい。それでも彼は、頭を上げて起き上がろうとしながら報告する。

 

――――三枝守直様、討死。

 

 そう告げて……兵士は力尽きた。

 しばし呆然と彼を見下ろしていた諸将であったが、ややあってそのうちの1人が兵士をどかせようと近づいて。

 それを制した。

 最後まで役目を果たした兵士を抱き起こし、仰向けに寝かし、その顔についた泥を手で拭ってやる。

 

「……三枝殿まで討死とあれば、左翼の間隙も決定的なものになってしもうたか」

「報告します! 山県勢と交戦中の柿崎勢が後退しました! し、しかしながら!」

「しかし、何だ?」

 

 さらに新たな伝令。さすがにいい知らせかと思った。

 だが兵の顔は苦渋に満ちていて。

 よく見れば兵でありながら甲冑も着けていない。いや、多少の装備はあるが、非常に軽装だ。申し訳程度でしかない。

 使番衆らしき百足の旗も背負っていない……とするとこの兵は『三ツ者』だろうか。

 

「う、上杉方はどうやら車懸かりの陣で挑んできております!」

「何と、この狭い川中島でか!?」

 

 車懸かりの陣。

 それは鶴翼や魚鱗と同じく、陣形の1つである。

 先に出撃した部隊が後退し、入れ替わりに新手が出撃するという、次々に部隊ごとに攻めては退く陣形。

 一説には魚鱗の陣形を発展させたものとのことであるが。

 大将を中心に、その周囲を各部隊が円陣を組み、車輪が回転するように入れ代わり立ち代わり各部隊が攻めては退くのである。

 

「……そうか。山本殿が集めた情報にあったな」

 

 失策を呪う。

 冷静を心がけ、そうであるつもりだったのに。所詮はつもりでしかなかったということか。

 車懸かり――それは越後でよく採用された陣形なのである。

 寒い冬季における合戦の際、移動し続けることで兵士の体を温める必要性から生まれたと、

 武田軍の軍師である山本勘助が『三ツ者』を使って集めてきた情報の中にあった。

 それを――思い出せなかった。

 だが今それを後悔している暇はない。早く指示を出し、対応しなければならない。

 

「望月勢に使番を走らせよ! 初鹿野勢を接収しつつ後退せよと!」

「は……? こ、後退でありますか?」

「し、しかしそれでは――」

「右翼の間隙も左翼同様に我が隊の鶴翼で埋めよ。同時に我が隊の後背に詰めている山本殿には前進を願うのだ」

 

 一時だけ耐え凌げばいい。

 すぐ後方に詰めている山本勢・望月勢・穴山勢が穴を埋めてくれる。

 それまで最前線の自隊と山県勢・内藤勢が孤立しないようにするのだ。きっと山県勢と内藤勢も状況を察して的確に動いてくれるだろう。

 

「馬を引けい!」

「――は、ははっ!」

 

 旗本の兵が引いてきた愛馬に飛び乗る。もはやこの自陣も敵の前にさらされる状態だ。

 自分を守る兵はもはや旗本のみ。

 そして自分だけ座していることなどできない。

 

「さすがは音に聞こえし上杉軍よ。その精強ぶり、実に噂に違わぬ」

 

 妻女山から下ってきてすぐに戦闘に入ったにもかかわらず、果敢に攻め立ててくる上杉の将兵。

 当代最強と呼ばれる武田騎馬軍団に対して一歩も引かず、それどころか押してくるではないか。

 彼の軍を相手に、陣で悠長に座していられるものか。

 いちいち報告を聞いているだけでは、この雷撃の如き猛撃を防ぎきれない。

 自らの目で戦場を確認し、すぐさま指示を出さねばと、陣幕の外に出る。

 薄布一枚、されどそれによって隔絶された空気は違う。

 出た途端、目に飛び込んでくる戦場。

 敵の顔がはっきりと見える。剣戟の火花、飛び交う血飛沫、耳を劈く悲鳴。

 斃れている兵の上を踏み、蹴飛ばし、時に躓き、なおその上で掴み合い、噛みつき。

 生と死が入り混じる戦場。人間の獣としての本性が現れる場。鬼気迫る様相に怖気はどうしても湧き上がる。

 だがそれを抑える。顔には出さない。それができてこそ武士。

 

「……やはり敵将もぬかりない。間隙を狙って防衛線を崩そうとしておるな」

 

 睥睨すれば、崩れた小笠原勢と初鹿野勢に戦力を集中させている。このまま突破を試みようというのだろう。

 背後に顔をやれば……後方の部隊が砂煙を上げて前進してきている。

 穴を埋めるためだろう。

 自らの後ろに控える武田の軍師の素早い状況判断と的確な指示に、改めて心強さを感じる。

 それに奮い立つ心を声に込めて叫ぶ。

 

「突破を許すな! その身を壁にしてでも押しのけよ!」

「――信繁様!」

「むっ!」

 

 誰が叫んだか。その声に前に向き直れば……やや上、自分に向かってくる矢が!

 咄嗟に刀に手を伸ばす。

 

「せえ!」

 

 が、それには及ばない。

 自らを守る旗本が槍を振るい、その矢を中ほどから叩き折った。

 

「不肖、山寺佐五左ェ門! 殿のお傍を任されております」

「ようやった。そなたの更なる働きに期待しておるぞ」

「は、ははっ!」

 

 すぐにそばを旗本たちが固め始める。

 我が殿を狙うとは何するものぞと怒鳴り、お返しをくれてやれとばかりに弓隊が矢を放つ。

 何という頼もしい部下たちか。

 最前線で、しかも鶴翼の中央という最も厳しい場所で敵の攻勢に晒される中、兵の気概は未だ衰えず。

 そんな兵たちが我が身を守ろうと動いてくれる。それは武士として指揮官として誇るべきことであろう。

 

「浮足立つな! 突破する者を追うより、間隙を埋めることを優先せよ!」

 

 間隙さえ埋まれば、突破してきた上杉兵は孤立し、そうなれば後詰めの部隊と包囲殲滅するだけだ。

 

「上杉軍とていずれ妻女山から側面を突かれかねないということはわかっているはず。つまり向こうとていつまでも時間はかけていられぬ。

 それゆえの猛攻なのであろう」

 

 自らの部隊が左右に展開し、間隙を埋めていく。

 命令通り、無理に突破を止めず、突撃の中心となっている騎馬隊の隙や通り過ぎた後を狙って割り込んで後続を断ち、

 本隊と引き離された騎馬隊が槍衾に取り囲まれて動けなくなる。

 武田の騎馬軍団が最強と言われるのは、純粋に騎馬隊の突撃力や機動力が長けているというのはある。

 幼少の頃より乗馬に慣れ親しみ、また優れた馬の育成術に長けているからこそ生まれる底力。

 だがそれだけではない。

 騎馬隊の長短を弁え、騎馬が最も活かせる状況を見極め、また作り出す戦術。

 騎馬隊とて無敵ではない。『無敵』という言葉を武田の諸将は使わない。あくまで『最強』である。

 騎馬隊の持つ欠点も同時に知り得ているからこそ、騎馬隊の扱いに長けている武田は最強の騎馬軍団を有しているのだ。

 ゆえにこそ。

 敵の騎馬隊を如何にして封じ込めるか。騎馬の弱点を突く用兵術も持ち合わせている。

 

「左右に兵を展開しすぎでは? これでは正面から挑まれたら、防ぎきれませぬ」

「我が後方には山本殿が控えている。正面から来た場合、我が隊は迎撃しながらゆるりと左右に展開する。

 できるだけ相手に押し分けられているように見せかけ、うまく先鋒を内側に誘い込むのだ」

「なるほど。そこを後詰めの山本殿と左右の我らで三方から攻め立てるのですな?」

「うむ。ただ、あまり誘い込みすぎるな? 多勢となれば止めるどころか蹴散らされかねん」

 

 懸念を口にしながら顔を正面に向ける。

 敵の波がさらに近づいてきている。どんなに策を用いて時間を稼いでも、着実に押し込まれているのは明白だった。

 矢が飛んでくるたびに山寺が打ち落としているが、時折、自身で払い除けねばならなくなってくるほどに。

 最前線の兵たちは勇壮なれど、やはり数という要素に押されつつある。

 実質的に戦闘中の兵が同数と言えども、あちらは代われる兵がいて、こちらにはいないという事実は変わらない。

 こちらの兵は疲弊する一方なのである。

 各所で各小隊の隊長が討死したり、耐えきれずに崩壊したりしていると報告が舞い込んでくる。

 

「槍を」

「はっ」

 

 各所に援軍を出したいが……もはや兵力的にその余裕はない。

 だからと言ってむざむざ見捨てるわけにもいかない。

 ならば。

 山寺から槍を受け取り、馬上で一振り。自らの存在を誇示するように。

 手綱を動かし、愛馬に意思を伝える。

 馬が一鳴きし、前に進み始める。山寺も馬に付けてある別の綱を持って前へ。

 整列する旗本たちが道を開ける中、その最前列にまで馬を進ませた。

 

「上杉は精強なれど、我らとて山国で鍛えられた身。例え上杉軍であろうが、我ら甲州武田騎馬軍団を破ることなどできようか!

 まだまだ戦はこれからぞ! 奮い立て! 武田菱の旗に、風林火山の旗に集いし勇壮なる兵たちよ!」

 

――――オオオオオオオオオオオオオオオオ!!

 

 槍を前へと突き出す。それを契機に、旗本たちが一斉に前に走り出した。

 そしてその先頭を、自らが務める。

 押されていた武田兵たちが、背後からの自軍の将と旗本衆が来たとあって、その勢いを取り戻す。

 

「我こそは! 甲斐及び信濃守護にして、甲州騎馬軍団を従えし武田家当主・武田信玄が弟、武田典厩信繁なり!

 我が兄の首が欲しければ、まずこの信繁の首を取ってみせい!」

 

 名乗りを上げて敵の注意を引く。

 当然、敵の刃が一斉に向かってきた。が、引くことはない。

 繰り出された槍を左手の刀で払い、槍で突き返す。

 肉を貫く生々しい感触。途端に上がる絶叫。鎧に阻まれて中途半端に刺さった槍を、非道と知りつつ体重をかけて押し込む!

 更に上がる絶叫は、しかし長続きはしなかった。『毘』の旗を背負った上杉兵は事切れ、口から血を流しながら倒れこむ。

 槍を抜こうとしたが、その暇もなく、今度は騎馬武者が。

 

「死ね! 甲斐の山猿が! 我らの故郷を荒らす侵略者が!」

 

 言葉からするにこの信濃の国人だろうか。

 槍から手を離し、突進してきた騎馬武者の槍を刀で止める。

 十文字槍だったのが逆に幸いした。枝刃の部分に刀が引っかかって勢いが削げた。

 だが殺しきれない威力が刀を押し、信繁は咄嗟に顔を横へ逸らす。そのすぐ横を、枝刃が頬を僅かに引き裂きながら通り抜ける。

 

「くっ、運のいい――!」

 

 騎馬武者が舌打ちし、槍を返そうとする。が、そうはさせじ!

 信繁は刀を咄嗟に捨て、左手を伸ばして騎馬武者の鎧を掴んで――思い切り引っ張った。

 

「ぬうん!」

「うおっ!?」

 

 騎馬武者が体勢を崩し、そのまま落馬する。

 

「信繁様! うおりゃああああああああ!」

「ぐわああああああ!?」

 

 そこを山寺が槍で思い切り心臓を突き立てる! 武者は山寺の槍を掴んで抵抗しようとしたが、それはならなかった。

 すぐに力尽き、四肢を戦場の土に投げ出して動かなくなる。

 槍で撃ち合い、刀で斬り合い……そんな、一種『雅』な戦いを将はすべきかもしれない。

 しかし命を懸けた戦場において絵巻物のような戦などしていられようか。

 そして配下の将兵たちも、その戦い様をむしろ当然のものとして、むしろ頼もしいものとして受け取った。

 

「信繁様に後れを取るな!」

「上杉など追い返せ!」

「大義は信濃守護のお館様にこそある!」

「名ばかりの関東管領如きが!」

 

 旗本は総じて精鋭で構成される。

 そんな旗本を正面からぶつけるというのは本来、避けるべき事態なのだが、今はそんなことを言ってはいられない。

 ここで抑えなければ、上杉軍は本陣まで到達してしまいかねない。

 そう信繁が懸念を抱くほど、上杉軍の攻勢は激しかった。

 信繁も最前線に留まり、迫る上杉兵を突き伏せ、斬り伏せ、ときに馬の蹄で踏み倒す。

 

「深追いするな! 逃げる兵など放っておけ! 我らは――ええい、邪魔だ!」

「ぐあっ!?」

「どけい!――我らはここに踏み止まり、別働隊の到着まで持ち堪えるのだ!」

 

 上杉兵を斬り捨てながら可能な限り声を張り上げる。この怒声や喊声の中、どれだけの兵の耳に入っているかはわからないが。

 しかし四方に声を届けようと余所見をしていたのがまずかったのかもしれない。

 顔を戻した途端、目の前に上杉の『竹に飛び雀』の旗が翻っていて。

 

「武田信繁、討ち取ったり!」

「くっ!」

 

 突き出される槍。それを避ける暇はない。

 咄嗟に差し出した腕。意図したものではないその行動が、命を救った。左腕への激痛を代償に。

 

「の、信繁様! こやつ!」

 

 右側で上杉兵と戦っていた山寺が気づき、彼は回り込む手間すら惜しんでしゃがみこみ、

 信繁の騎乗する馬の下から槍を突き込み、上杉兵の足を狙った。

 思いもかけない下からの攻撃に上杉兵は全く気付かず、唐突な痛みに膝を折りながら悲鳴を上げた。

 そこを信繁が無事な右手で槍を上杉兵の脳天に突き刺す。上杉兵は声帯でもやられたか、今度は悲鳴1つ上げずに倒れ伏した。

 

「信繁様、ご無事で!?」

「問題ない……腕一本やられただけに過ぎぬ」

 

 山寺が申し訳ございませんと謝るも、信繁は謝る暇があったら上杉兵を倒せと返した。

 腕に刺さったままの槍を抜き、その痛みに歯を食いしばり……しかし無理矢理に苦痛の表情を引っ込める。

 深い呼吸を何度もしながら平然とした表情を浮かべる。ただのやせ我慢ではあるが。

 左手に力が入らない。せいぜい手綱を引っかけておくくらいが関の山。

 やむなく右手で槍を持ち、もう一度深呼吸をしながら周囲を確認する。

 両軍は完全に入り乱れ、信繁の背後もすでに乱戦状態だった。

 深追いはしていない。敵軍の奥深くに突撃したわけでもない。だとすれば、敵の侵攻は確実に進んでいるということ。

 

(……乱戦状態?)

 

 そこで気づいた。

 すぐに左右を確認する。

 上杉軍が果敢に何度も突撃を重ね、抑えようとする武田軍を押している。

 間隙を埋めようとする武田軍と、間隙をより広げ、そこを突破口としようとしている上杉軍。

 その状況は先ほどと変わっていないように見えるのだが。

 ふと旗指物が目に入った。そして気づく。先ほどまでと変わっていた。

 本庄美作守と長尾越前守ではない。それは――『三盛亀甲花菱』と『丸上文字』。

 

「直江と村上か……!」

 

 上杉政虎にとって長尾景虎時代からの宿将である直江信綱と、武田によって北信濃を追われた村上義清。

 上杉きっての猛将・柿崎景家と並ぶほどの名将が左右の間隙への突撃に参加していた。

 さすがの武田軍もこの名将たちの猛攻には数の差もあって抑えきれず、間隙はさらに広がり始めていた。

 幸いなのは、鶴翼の最左翼と最右翼に展開している山県勢と内藤勢のおかげで、何とか武田本陣への突入を許すほどの勢いではないことだ。

 

「上杉め、間隙から細々と兵を入れていくだけで本陣を突けるつもりか?」

 

 だとすれば武田をあまりにも馬鹿にしている……と言うべきだろうけれど、信繁はすぐにそれを否定した。

 かの軍神が、そんなつまらない手で来るはずがない。

 ただでさえ時間の勝負とわかりきった状態であり、時間が経てば経つほど不利になるのは上杉軍なのだから。

 

「信繁様! 使番が妙なことを!」

「妙なこと?」

「はい。間隙より突入してきた敵兵ですが、お館様の本陣に向かっていくのではなく、むしろその場に留まっているとのことで」

 

 顔を巡らせて確認しようとするが、さすがにそこまでは見えなかった。

 だが確かに、後方にいる山本勢は戦闘に及んでこそすれ、せいぜい信繁の部隊が撃ち漏らした敵を掃討している程度。

 

「上杉の目的は間隙から兵を突入させることではないのか……?」

 

 わざわざ直江や村上のような名将まで繰り出しているのに。

 そこまで考えて、信繁は唐突に嫌な予感に背筋を震わせた。

 いや、待て……と。

 

――なぜ時間が惜しいとわかっていながら、こんな悠長な戦法を上杉軍は採用したのか?

 

 千曲川と犀川に挟まれた狭い場所であり、一斉に全軍突撃とはいかないから。

 上杉軍が得意とする陣形だから。

 次々と新手を繰り出して武田軍将兵の士気低下を図ったから。

 いろいろな理由が考えられ、実際そうなのだろうと思っていた。

 だがそれが違っていたら?

 

(実際、左右に兵力を展開させた我が隊は、兵力を集中してぶつけられれば長くは持ち堪えられぬ。

 にもかかわらず、上杉軍は我が隊に攻撃は仕掛けても、間隙を突いている部隊ほどの突破力を有さぬ兵ばかり……)

 

 もちろん、弱点を補完するために、後詰めの山本勢に助力を願っているのだけれど。

 

「政虎公……いったい何を考えておられ――」

 

 信繁が前方、見えないがその先にいるはずの上杉本隊――政虎を見据えるようにして零した直後。

 

「ぬ……!?」

 

 前方に展開している敵部隊が、突然左右に分かれ始めた。

 まるで門を開くかの如く、見事なまでに統率された動き。

 

「いよいよ間隙に向けて全軍を当てるつもりか……!」

「の、信繁様、敵が後退していきます!」

「なに……?」

 

 信繁の部隊と交戦していた上杉兵たちが一目散に引いていく。

 深追いするなと伝えられていた武田兵はそれを追おうとはしなかったが、敵の意図するところがわからなくて呆然としたという面もあろう。

 やがてその兵たちも左右に分かれる動きに従い、その中に紛れていき……。

 

 

 

 

 

「――しまった……!」

 

 

 

 

 

 信繁はここにきて初めて、己の失策を呪った。

 

「兵を戻せ! 左右に展開した兵を戻すのだ!」

「い、如何なされました、殿?」

 

 老将が驚いてそばにやってくるが、信繁は周囲の兵に次々に指示を飛ばす。

 使番でなくとも誰でもいいから他の各将へ伝令に走らせる。

 

「兄上と山本殿には一番に知らせよ! 敵は最初から中央突破が目的であったと!」

「何と!?」

「密集陣形を組めい! 敵の突撃を防ぐ楯となるのだ!」

 

 指示を飛ばす間も、上杉軍は左右に開き、その奥にあったものが明らかになっていく。

 車懸かりの陣は本隊を円陣で囲っている。

 その円陣の前方が左右に分かれれば、当然本隊が出てくるわけで。

 そう、今信繁たちの前には、今までまったく戦闘に参加していない、無傷の上杉軍本隊が現れたのだ。

 すなわち、上杉政虎率いる本隊が。

 

「間隙を突いたのは兵を送り込むためではない。中央突破をするにあたり、横合いからの攻撃を防ぎ、とにかく前方に一点集中するためだ」

 

 中央一点突破。

 何という単純な正攻法。

 しかしそれを上杉政虎という軍神は巧みに隠し、今ここで敢行するつもりなのだ。

 一点突破は敵の最も弱い部分を狙って行うことが基本だ。

 だが問題はそれで終わるわけではない。

 将ならば一点突破後のことや、もしもの場合の退路を考えておかなくてはならない。

 一点を突破した場合、横合いからの攻撃にさらされることは当然だし、

 突破後に突き崩した部隊が立ち直り、後方を塞がれてしまえば、包囲殲滅の憂き目に遭ってしまう。

 それを防ぐために、まず上杉軍は最前線の鶴翼陣に穴を開けることにしたのだ。

 

「なぜ今まで思い至らなかったのか……柿崎景家がわざわざ最左翼を攻撃する理由を」

 

 柿崎景家は上杉軍きっての猛将。突破を図るなら、彼こそを中心に置くべきである。

 にもかかわらず景家は左翼を攻めた。

 今ならわかる。

 景家の投入は防衛線に穴を開けることであり、景家の投入された左翼は確かに穴が開いた。

 そしてそこから直江勢が突入し、武田軍の左翼と中央の間に入り込むことで双方の部隊を遮断。

 続いて浮足立つ武田軍の隙をついて右翼側にも穴を開け、そこに武田への復讐に燃える村上が突入。武田軍の右翼と中央も遮断する。

 こうすることで中央突破時に左右からの攻撃を直江勢と村上勢が防ぎ、さらに包囲されることを防げるという寸法だ。

 

「まるで攻城戦……城門を開き、突入するかのようだな」

 

――――オオオオオオオオオオオオオオオオ!

 

 信繁の呟きに正解だと皮肉に言わんばかりに、上杉軍から喊声が上がる。

 その声が聞こえるや否や、上杉軍の本隊が一気に前進を始めた。突っ込んでくる。

 先頭の兵があからさまに『毘』と『竹に飛び雀』の旗を大仰に立てており、武田軍将兵の動揺を誘う。

 信繁もまた、例外ではなく。わかりきった脅しに、それでも圧倒されて。

 

「――槍衾を立てい!」

 

 だからこそ、声を張り上げねばならなかった。

 それで抑え込めるとは思えなくても……抑えねばならなかった。

 これを通してはならない。通せば、もはやこの勢いは止められない。そう思う。そしてその直感に信繁は何の疑念も持たない。

 先ほどはわざと後退して三方から攻めるなどと言ったが……これはそんな策が通用する相手ではない。

 ここで突破を少しでも許せば、その勢いを利用してますます食い込んでくる。

 将兵たちが自らに視線を向けてくるのがわかる。信繁は迫り来る上杉軍から目を離しはしなかったが。

 余所見をするなとは敢えて言うまい。

 

「恐れるなとは言わぬ! 我らは人の身! 死への恐怖を感じるは必定であろう!」

 

 未だ血が流れる左手を頬へと伸ばす。震える腕は、痛みゆえか恐怖ゆえか。

 兵たちには信繁の言葉もあって、もしや信繁様も恐怖を覚えているのかと思ったことだろう。

 信繁は腕同様、血を流す頬を親指で拭い、血が付いたその指を逆の頬に擦り付ける。

 

「我こそは武田典厩信繁である! いずれ日ノ本を従える武田家一門として、私は決して退かぬ!」

 

 その所作に、その言葉に、槍を掲げる将の姿に、兵たちが喉を鳴らす。

 最前線の、その中央に布陣し、最も攻勢を受けている立場でありながら尚引かぬ将。

 彼の将は冷静。熱くなりながらも冷静である。

 静かなる智将かと思えば、猛き勇将でもあるのだ。

 例え軍神であろうとも、その身を引かせるには能わず。

 括目せよ。彼の者こそ、武田の真の副将なり。

 

「死に怯えるのは致し方なし。だが毘沙門天の名に怖気づくな! 政虎公と言えども人の身であることに変わりはない!

 槍で突けば、矢で射れば死ぬ。何も変わらぬ! ただ政虎公はその恐怖を抑え込める強き心を持っているだけだ!

 それならば! 我にもあり! そして日ノ本にその名を轟かせる甲州武田騎馬軍団の一員たる諸君らにも、ないはずがない!」

 

 猛然と蹄が地面を蹴り立てて地を震わせ、怒涛の喊声が空気を震わせる。

 軍神に率いられた上杉軍本隊は、こちらなど眼中にも入れていないのだろう。

 彼らの目にあるのは信繁たちの後方にいる武田信玄のみ。

 ならば!

 その目に、否応なく映してくれようではないか!

 武田典厩信繁を!

 

「攻めよ! 攻め立てるのだ! そこに政虎公が、総大将がいるぞ! 向こうからその首を持ってきてくれているぞ!

 その首を取り、我が甲州武田騎馬軍団こそが日ノ本最強であることを証明してやれい!」

 

――――オオオオオオオオオオオオオオオオ!

 

 退く者があると思ってはいたが、信繁が思った以上に自らの配下たちは精強だったらしい。

 槍を立て、一斉に上杉軍に向き直り、引かぬとばかりに構える武田兵。

 それを前に少しは効いたか。先方の騎馬隊が槍を構え直した。

 武田兵が一斉に整列して槍衾を立てているというのに、構うことなく突撃してくる上杉兵。その士気は非常に高い。

 迫る彼らは立てる土埃もあって、竜巻や大津波が迫ってきているかのようで。

 海を知らぬ内陸国の出とあっては大津波など想像のものでしかないのだけれど、

 少なくとも甲斐では度々あった釜無川や御勅使川などの氾濫による洪水は記憶にある。

 だがそれでも。

 迫るのは抗いようのない自然の猛威ではなく、あくまで人の波。止めきれないものではない。

 いや、自然の猛威ですら防ぐ堤を武田と甲斐の民は築いてきた。その武田が、甲州の兵が、上杉兵を抑えられぬなどという道理はない。

 

「来るぞ!」

 

 槍衾に上杉兵が突撃をかけた。

 上杉の騎馬武者、馬そのものにも槍が食い込み、その突撃に歯止めがかかり……しかし完全に止まるには至らない。

 倒れた騎馬の後ろから新たな騎馬武者が飛び込み、その蹄で、槍で、刀で、武田兵を踏み潰し、突き殺し、斬り伏せていく。

 そして倒れる兵の上を、別の騎馬が容赦なく踏み荒らし、さらに先へ進む。

 幾重にも並んでいた武田兵の槍衾を超え、あっという間に信繁のところへも上杉兵が到達した。

 

「信繁様はやらせんぞ!」

「雑兵め、邪魔だ!」

「武田の将とお見受けする! 覚悟!」

「なんの、温いわ!」

 

 槍を手に、攻撃を弾く。だが片手だ。何とも戦いにくい。

 しかしそこは山寺が必死に防ぐ。

 その山寺を後ろから刺そうとする上杉兵を、信繁は槍を投げてその横っ腹に突き刺すことで倒す。

 咄嗟に礼を言おうとする山寺を制し、即座に刀を抜き、さらに向かってきた上杉兵の槍を両断。尚も刀を抜いた兵に、それより早く蹴りを。

 顔面に食らった上杉兵は数歩よろけて倒れ、そこを山寺が心臓を一突き。

 しかしすぐに別の上杉兵がやってくる。

 

「ふん!」

 

 刀を口に加え、手綱を思い切り引く。

 すると愛馬が応えて両の前足を思い切り上げた。振り落とされまいと馬上で立ち、手綱を握りしめた。

 

「おおっ!?」

「なっ!?」

 

 上杉兵が揃って驚き、そして次の瞬間には愛馬の蹄に頭を踏みつけられ、地面に叩き付けられる。

 他の上杉兵が明らかに身を引いた。ならばと信繁は自身の方から愛馬を駆って近づき、その刃で斬り伏せる。

 

「武田が騎馬の扱い方、とくと見るがよいわ!」

 

 斬り込み、捻じ伏せ、蹴り倒す。馬を御し、時に体当たりさせる。

 音に聞こえし武田の駿馬。上杉の貧相な馬など恐るるに足らず。

 だが1人で無理なら2人で。2人で駄目なら3人で。上杉兵は信繁に群がってくる。

 突撃してきた2人の騎兵。信繁の左右を通り過ぎるように突撃しながら槍を揃って横薙ぎに放ってきた。

 

「ぐうっ!?」

 

 突進の勢いも相まって、とても信繁は馬上で耐えられなかった。

 刀が折れないようにするので精一杯。信繁は踏ん張りもきかず、そのまま馬から振り落とされる。

 

「ぐわっ……!」

 

 落馬の衝撃をまるで殺せず、背中全体に激痛が走る。首から落ちなかっただけマシか。

 鎧のおかげで地面の石などに傷つけられることもなかった。

 

「死ねえ!」

「その首、頂戴仕る!」

 

 立てなかった。鎧の重さが憎らしい。

 しかし信繁は体を転がすことで2本の槍の突きを躱した。そしてそのまま騎兵の乗る馬の足を切りつける。

 

「うおおっ!?」

 

 敵の馬が悲鳴を上げて倒れ込み、騎馬武者も豪快に投げ出された。

 それをいったん放置し、もう1人の騎馬武者には脇差を抜き放って投げた。

 

「ぐおっ……!」

 

 狙ったわけではないが、見事に騎馬武者の喉元に突き刺さった。

 騎馬武者は首に刺さった脇差に目を落とし、震える手をやろうとして……それも叶わず、力尽きて馬から落ちた。

 信繁はその一部始終を見てはいない。刺さった事だけを確認して刀を支えに起き上がり、落馬していた武者へと躍り掛かる。

 騎馬武者も懸命に応戦してきた。

 どうも倒れた馬に右足を挟まれて動けないようだが、それでも槍を捨てて刀を抜き、信繁に抵抗する。

 

「くそお!」

「ぬ!」

 

 数合打ち合ったときだった。

 ひらひらと揺れていた敵の馬の尾が信繁の視界を覆った。咄嗟に顔を逸らしたが、それがまずかった。

 騎馬武者が悪態と共に放った突き。それが信繁の腰に刺さったのだ。

 悲鳴は上げなかった。しかし苦悶の呻きがどうしても漏れてしまう。

 騎馬武者はそれに気を良くしたか、「は、ふはははは!」と笑いながら刀をぐりぐりと動かした。

 

「ぐううううああああ……!」

 

 おそらく浅かったがために深く捻じ込もうというのだろう。

 信繁は苦痛に閉じていた目を開き、睨みつける。すると騎馬武者の動きが僅かに止まった。恐れでもしたか。

 その好機を逃さない。

 刀を地面に突き刺し、そうして空いた右手で敵の刀の刃を掴み、刃が手に食い込むことも構わずに力を入れて腹から抜いた。

 

「ぬう……や、山寺ぁぁぁぁ!」

「お任せを! うおおおおおおお!」

 

 騎馬武者は気づいていないようだが、怒りに満ちた形相でその背後から山寺が向かってきていたのだ。

 山寺は槍を振り向いた騎馬武者の額に突き刺し、騎馬武者は驚いた形相のままで事切れた。

 

「の、信繁様! しっかりなさいませ!」

 

 山寺に肩を借りつつ、信繁は周囲を見回す。

 今の突撃により、武田兵の槍衾はほとんど壊滅状態だった。同時に上杉の突撃兵たちも。

 凌ぎきった。

 が、これで終わりではないだろう。

 今のは第一波。まだまだ来る。

 

――オオオオオオオオオオオオオオオオ!

 

 その証拠に、喊声は止んでいない。猛然と迫る蹄の震動が信繁をふらつかせる。

 今度は……止めきれないか。

 

「お下がりを、信繁様! 山本様の陣まで、何とか私がご案内いたしますゆえ!」

 

 山寺が信繁の馬を引いてきた。

 しかし。

 

「そ、それは……ならぬ」

「信繁様! しかしもはや我らの隊は……!」

 

 わかっている。もはや死に体のこの体同様、信繁の隊もほぼ壊滅している。

 防ぎきることは無理だろう。

 それでも、幾許かの時間稼ぎと力の削ぎ落としなら叶うはず。

 

「信繁様! 信繁様はいずこに!」

 

 そのとき、武田の旗を背負った騎兵が近くで叫んでいた。

 山寺がこちらだと手を振り、騎兵を呼び寄せる。

 騎兵は腹を抑えて血を流す信繁を見て一瞬言葉を失ったようだが、それでも信繁が「口上は?」と問うとすぐに我に返った。

 

「や、山本様より伝令です! もう十分ゆえ下がられよ、この後は山本入道道鬼が引き受けると!」

「…………そうか」

 

 後詰めの山本勢は近くにまで前進してきている。

 だがすでに山本勢にも上杉兵は襲いかかっていることだろう。

 これで山本勢以外の後詰めもいるならいいが……敵の直江勢と村上勢が左右に展開していた後詰め部隊をも引き離しているから、

 実質これ以後の上杉の突撃をまともに阻めるのは山本勢のみ。

 上杉政虎や、きっと再び前へと出てくるであろう柿崎景家らを抑え込むのは……難しいはずだ。

 

「……山本殿に……諸将に……兄上に、伝えてくれ」

 

 山本勢まで崩れれば、もはや本陣までわずか。

 原勢や信廉勢がいるが、直江勢と村上勢とて隙あらば横から武田の中央へ攻撃しようとしているだろうから、思うように動けないはず。

 逃げて再起を図る……それも必要なことだというのはわかっている。

 だが再起を図ろうにも、それはまずこの戦を乗り越えねばならない。今逃げれば再起を図るどころか武田が敗北しかねない。

 それでは意味がない。

 それに……先ほど何と言った?

 退かぬと、自分はそう言ったのだ。その言葉に配下の兵たちは退かずについてきてくれた。

 ここで退くことは、彼らを裏切ること。

 誰1人として逃げたところをやられたのではなく、立ち向かって死んでいった兵たちの倒れ伏す様子を今一度眺め、

 信繁は痛みを必死に堪えながら馬に跨った。

 その様子に、まだ息のある兵たちがゆらりと立ち上がり、信繁を囲むようにして不敵に笑った。

 ああ……何と、頼もしい部下たちよ。

 これを見て、下がるなどできようか。

 覚悟を……決めよう。いや、最初から戦である以上覚悟などできてはいたが……やはり実際に死を実感すると改めて覚悟を決めねばならないようだ。

 信繁はそうして……笑った。

 

 

 

 

 

「我が隊は、全軍討死覚悟にて援軍は無用のこと……戦勝を、企図されよ」

 

 

 

 

 

 使番の兵はそれに何かしら返そうとしたが、信繁は彼に背を向けた。

 そして周囲の兵たちと共に、迫る上杉軍を見やる。

 

「信繁様……」

「……行け!」

「……っ、ご武運を!」

 

 使番の兵が馬を返す音を耳にしつつ、信繁は馬を居並ぶ部下たちより前へ出て、おもむろに刀を掲げた。

 

「これが最後の命令である。心して聞けい!」

 

 言うまでもないのだ、すでに。

 配下の兵たちは槍を上杉軍に向け、一歩踏み出した。それは退かぬという心の現れ。

 戦場で果敢に挑み、戦い、立派に散るのが武士の誉れ。死に場所を見つけられることは武士の本懐。

 

 

 

 

 

 武田典厩信繁――参る!

 

「全軍、突撃! 我に続けええええ!」

 

――――オオオオオオオオオオオオオオオオ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 永禄4年(1561年)9月10日。

 後の世に『第4次川中島合戦』として知られる戦の中、八幡原における野戦において、1人の将が散った。

 彼の最後の奮戦が武田信玄と武田軍を救ったとも言われ、同時に彼を追って憤死する者もまた多かった。

 敵将である上杉政虎――後の上杉謙信や、織田信長をして『武田家の真の副大将』と褒め称えられ、

 武田家中においても山県昌景をして『毎時相整う真の副将なり』と言わしめた男。

 当主であり兄でもある武田信玄の信頼厚い、彼の実弟。

 

 

 

 

 

 武田典厩信繁。

 川中島・八幡原の戦にて、上杉軍の猛攻に対して退かずに勇戦し、最後は果敢に突撃を行い……奮戦の末、壮絶に討死す。

 享年、37歳。

 

 

 

 

 

 この物語は、彼が描いた、もう1つの軌跡を描いたものである。

 

 

 

 

 

――続く――

 

 

 

 

 

【後書き】

拝読頂き、ありがとうございます。

とりあえず今回は史実の第4次川中島合戦を、独自の解釈を交えながら描きました。まずは武田信 繁が史実の人だということを明らかにするためなのですが、そのための導入が長くなりました……。

甲陽軍鑑は資料としての価値について賛否があり、いろいろとおかしな点も多いものとされています。基本的に甲陽軍鑑のシナリオに沿ったものにしていますが、今話であった上杉軍の作戦などは完全な独自解釈ですので。

説明
拙作『戦極甲州物語』を書いております『武田菱』です。
にじふぁんにて掲載して頂いていたのですが、そちらのサイトの都合により、緊急的にこちらに移転したものです。まだ正式にこちらで更新を続けるというわけではないので、正式な移転先が見つかり次第、そちらへ移るつもりでおります。その際はしっかりとご報告いたしますので。
総閲覧数 閲覧ユーザー 支援
8900 7818 9
タグ
戦極姫

武田菱さんの作品一覧

PC版
MY メニュー
ログイン
ログインするとコレクションと支援ができます。

<<戻る
携帯アクセス解析
(c)2018 - tinamini.com