戦極甲州物語 壱巻 |
今日の月はやや欠けている。満月までもう少しというところか。
「酒があれば一献といきたいところであるが……」
そのような場所、そのような状況でないことは理解しているが、すでに10日以上も両軍何の動きもなく、ただ静かに時は過ぎていくばかり。
戦と言えば火花を散らして刃をぶつけ合い、矢や銃弾の雨の中を走り抜けて戦うことと言うのが、多くの者の認識であろう。
では城を囲み、睨み合い状態のことを戦とは呼ばないのか。
「当家の将兵の精強ぶりはようわかっていたつもりであったが……一度外から眺めてみるとまだまだわかっていなかったのがわかるというもの」
音に聞こえし甲州武田騎馬軍団。その精強ぶりは日ノ本に轟く。
しかし精強であるからこそ、戦に対する考えも直接刃を交えて激しく戦うことに傾注してしまっていた。
戦にも兵糧攻めや奇襲という方法もあり、それが戦術というものであり、
調略や罠を用いて燻り出したり力を削いだり、大軍の利を生かして圧力をかけたりというのが戦略というものであり。
これらも総じて戦の範疇なのである。
「然るに、それでこそ武田だと思ってしまうのは……私もやはり武田の人間ということか」
苦笑交じりにそう呟く。
実際にあの『最後』の時を思い出して。
あのとき、確かに自分は死に場所を得るのが武士の本懐だと思った。戦場で立派に戦って死ぬのが武士の生き様であると。
軍神との真っ向勝負を、確かに1人の武士として、武田の将として、楽しんでいた面がなかったとは言えない。
(……しかし、この意識を改めていかねばなるまい)
どうして前世では対応しなかったのかが悔やまれる。
この武田の精強ぶりが齎した負の面への対策を。
(甲州法度之次第はよくできていた。しかしながら当家に足りなかったのは……軍の規律)
当代最強と呼ばれたほどの精強さ。それゆえの驕り。
占領地における甲州兵の乱れた行動は、占領地の民の武田家への不信を招くに充分であった。
当代の武田家当主は孫子を軍略の手本としており、その旗印にも『風林火山』を採用した。
その孫子が説いているではないか。
『掠郷分衆』――すなわち、『郷を掠めるには衆を分かち』と。
解釈には諸説あれど、その中に『国を掠めるならば民衆の心を領主から引き離すこと』というものがある。
その考えに従い、武田は『三ツ者』を用いて民心離反を促すことがあるが、一方で武田の領内で武田兵の規律が悪いと、
民心は武田に傾くどころか、離れるばかり。
敵方が民心離反を図るまでもなく、自滅である。
「それゆえの甲州軍鑑であるが……まだまだ兵の遵法意識は充分ではない」
前世では武田家一門として通したが、こうして下野し、外から武田家を見ることができたのは実に僥倖であったと言えよう。
今の立場にならなければ、この武田家が持つ歪さに気づけなかったかもしれないのだ。
「兵の大半は足軽と雑兵、そして徴兵した民……民はともかく、雑兵たちはどうしても利害優先で尻が軽い。
となればある程度主家への忠義というものを弁えた牢人たちの登用に力を入れるべきか……いや、武士階級である者はただでさえ少ないからな……。
しかも牢人を登用するとなると正式に迎え入れるのだから、俸禄が雑兵よりかかる……土地は有限。金も有限。
雑兵はやはり最小限に抑えるべきだな。足軽の比率、あとは同心衆と軍役衆をさらに増やすよう提言してみるか……。
あまり同心衆と軍役衆を増やし過ぎると、年貢に影響するゆえ、その辺りの考慮はいるが……まあ、それにしても金が入り用よな。
とにもかくにも金。前世もこの世もげに儚きは金蔵の中身とは、公家の言葉で言えばまこと『をかし』なもの」
とりとめもなく思考の海に潜り、思考から漏れた呟きが森のざわめきに紛れる。
詰まるところ、軍の規律を求めることは軍の質を高めることに繋がり、それは強兵という考えに至る。
そして強兵を成すには、まず強兵を支える国造りが肝要。富国である。
それにとて課題は山積みである。開墾には先立って治水が必要であるし、商いへの投資の前に安定した貨幣制度を。
此度の戦が終わった暁には、板垣・甘利の『両職』とその辺りを詰めていかねばなるまい。
本当に……やることは多い。
「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることの なしと思えば」
古き世に日ノ本の中枢に在って、全ての栄華を手にしたとされる男が詠んだという。
その歌を、満月にはわずかに足りない、欠けた月を見上げながら口にしてみる。途端に失笑してしまった。
「……ともしきや 先達眺めし 満つ月よ 我が眼には 欠けしばかりか」
一句読んでみる。
読んでからしばらく余韻を楽しもうなどと雅を演じてみたが……何とも他を羨んでばかりの俗なもので、風情というものがなく、
雅とはかけ離れていて、それこそ『をかし』なものであった。
慣れぬことはすべきではないと思うばかりだ。
「羨ましきは先人の見上げた満月の如く満ち足りた身よ。私も少しはそんな身になってみたいものである……そんなところですか?」
ふと背後から声がかけられた。
静かで、しかし聞き逃すことなど許さないような威厳のある声。
この山間の、木々が生い茂る中にあっては、その静謐さが増し、
まだまだ年若いがゆえの高い声質は、この場所のせいか神聖ささえ湛えているかのようで。
ただ少しばかり、その声には皮肉気な色が籠っていた。そう、まるでからかって楽しんでいるような。
声と同じく静かな気配と、僅かな足音。
「ふふ……何とも情けない歌ですね。仮にも武田の軍師とあろう者が」
嫌なところを見られたものである。
この分ではしばらくこの恥事で色々と遊ばれそうだ。ああ、その光景が容易く思い描けてしまうではないか。
ただただ今後を憂い、ため息を漏らす。
「お館様。このような陣より離れた場所に1人で来られるというのは、あまりに不用心では?」
「心配せずともよい。勘助の『三ツ者』たちが周囲を常に警戒しています。それに、何かあれば幸村が控えていますし」
「それでも家臣たちの心労は増えてしまいます。やはりご自重なさるがよろしいかと存じ上げますが」
「ほう。君主たる私に口答えですか?」
「時に諫言するのが臣下たる者の義務であり、軍師の役割でございますれば」
「相変わらず舌のよく回る口ですね」
脇を通り過ぎていく気配。
視線を動かせば、そこには自分の肩ほどまでの身長で、長い髪を靡かせ、装飾用の布を用いて耳のそばで一房の髪をくくっており、
同じく赤を基調とした甲冑を着込み、腰には左右に4本の刀――正確に言えば小太刀を差した君主の姿があった。
どうも獅子の前立ては外しているらしい。前髪が正面からの風に舞っている。
それを抑えるように髪に手をやる『少女』。
「だいたい不用心を私に説くのならば、颯馬こそ不用心が過ぎるのでは?」
「手前は少しばかり武の覚えがありますがゆえ」
「いくら武に覚えがあろうと、この夜の暗闇の中、突然襲われでもしたらさすがに危ういでしょうに」
「『三ツ者』や幸村が控えているのでしょう?」
「それは先ほど私が言ったことですね。それを理由とするなら、私がここにいて何か問題でも?」
「お館様が陣中を離れるというのは、軍師が陣中を離れるのとはわけが違うかと」
「……ああ言えばこう言う……」
少女の声はだんだんと早口に、そして不愉快そうに低くなってきていた。
それはわかっているが、だからこそやめられない。
普段は相手を完全に言い負かすほどの、情に左右されない話術を持っている彼女であるが、
その彼女が情によって話した場合、これを言い負かす屁理屈の類は負けない自信があった。
こういうところは長じた年齢の利点というものであろうか。人間、長く生きれば生きるほど、小賢しい知恵はつくものである。
そして今回も彼女は颯馬の屁理屈に頭を抱えてため息を吐く。
「失礼しました、お館様」
「……そう言いながら全然失礼だと思ってないでしょう――」
彼女は少々苛立たしげに、素早く振り向きながら半眼で睨んできて。
「――兄上」
そう呼んだ。
「……陣中より離れているとは言え、その呼び方はまずくないか?」
「言ったでしょう? 勘助の『三ツ者』と幸村、と。問題ないではありませんか」
「いや、山本殿と幸村はいいが、『三ツ者』たちにはばれていいわけではないだろう」
「ちゃんとばれないように小声でしょう」
「お館様。この世には読唇術というものが――」
「兄上!」
「小声でもなくなったな」
「〜〜〜〜!」
プルプルと体を震わせ、拳が固く握りしめられている。
少々やり過ぎたか。
早々に降参すべく、両手をかざした。
「いや、調子に乗り過ぎた。謝る。すまない――」
そして、『お館様』ではなく、『兄上』と呼ばれた場合に相応しい彼女への呼び名を口にする。
「――信玄」
と。
するとようやくその名を呼んでくれたかとばかりに、少女は――信玄は腰に手を当てて頷いた。
その頬に赤みがさしているように見えるのは……気のせいだろうか。
「そ、それでいいのです。どうして兄上はこう、いつも『お館様』と呼ぶ方が普通になっているのですか?」
「いや、咄嗟の場合に『信玄』と呼んでしまわないためにも、『お館様』の方で慣らしておかねばまずかろう」
「……むう」
理屈はわかっているはずなのだ。わかっているからこその、この不満気な顔なのだろう。
理屈だの論理だの道理だの、そういうことに関して信玄に物を申す立場ではない。
確かに兄ではあるが……君主としての器も才も、明らかにこの信玄の方が上なのだから。
にも関わらず、兄上と呼んでもらえるのは、偏に信玄が無条件に慕ってくれていることに尽きる。
「ですが兄上は昔からそうです。まだ父上が存命で私が家督を継いでもいない時期から、私のことを時折そう呼ぶことがありました」
「む……いや、それは、父上同様にお前の方が当主に相応しいと思っていたことがあってだな」
その話を出される度に、内心誤魔化すのが大変だと焦る気持ちが浮かぶ。
相手の心を見抜く力を年々高めてきている信玄だからこそ、下手な誤魔化しなど通用しないのだから。
特に信玄は兄である自分のことについては幼少の頃より鋭い。
そこまで自分はわかりやすい人間なのだろうかと思い悩むことが多々あるのも、信玄のこの鋭さが何よりの理由だった。
軍師が他人に考えをそう易々と見抜かれてしまっては話にならないのだから。
「おまけに、なぜか私のことを兄上と呼ぶことまでありましたね?」
「ぐ……」
「つまり、兄上にとって私は女子の魅力などないばかりか男にすら見えるほどで、
おまけに父上よりもお館様と呼ばれるに値するほど老成してしまっていると言いたいわけですか」
「……信玄、そろそろ勘弁してくれ」
「おやおや、先ほどの回りの良い舌はどうしました?」
ようやく信玄が意地悪そうではあるものの笑みを浮かべ始めた。お返しができて満足というところか。
からかったのにからかい返されたことがそこまで悔しかったのだろうか。
まあ、我が妹ながら負けず嫌いなところがあるのは当の昔からわかっていたことではあるが。
(ああ、そういうところは『兄上』と変わっておられんな)
颯馬は苦笑を浮かべながら、意地悪な笑みではなく、本当に楽しそうな、年相応の満面の笑みを浮かべ始めた信玄を見下ろしながら思った。
かつての兄は、さすがに男ゆえこのような可愛らしい笑みではなく、精悍な笑みばかりが記憶にあるが、
彼女のように負けず嫌いなところがあり、上杉政虎のこともずっと『長尾景虎』と呼んで通していた。
武田家に劣る越後守護代でしかなかった長尾家出身の政虎が、武田家より家格が上である上杉家の名跡を継ぐことを認めたくなかったからだ。
(異なる世に在っても、魂は同じ……そういうことなのやもしれぬな)
その証拠に、武田信玄という名を持つこの少女は、颯馬が知る同名の『兄上』と同じく、卓越した知略・統率力・政治力を持っている。
体格こそさすがに『兄上』には大きく見劣りするものの、風格は『兄上』に勝るとも劣らず、
家臣団からの信頼に至っては『兄上』以上ではないかとも思う。
(しかし何という巡り合わせ……よもやもう一度武田信繁としての生を送り、あろうことか前世の記憶がこうもしっかり残っているとは)
そう、天城颯馬――本名『武田典厩信繁』は、一度死んでいながら、再び同じ人間として生を受けていた。
最初こそこれはただの思い込みや夢ではないのかと思った。
だが記憶に残る情景はあまりに鮮明で、染みついていた武芸が幼少の頃にはすでに表に現れ、
知識面においても傅役であった飯富虎昌を驚かせたものだった。
学んだのではない。もはや最初から知っていたことだったのだ。
それを以って、信繁はこれがただの思い込みや夢などではなく、本当に前世の記憶や経験なのだと納得するに至った。
納得した理由は他にもある。
(とは言え、前世と現世も全く同じではない。女子たちの地位がこれほどまで高いのも然り、なれどそれ以上に、性別の変わっている者もいるとは)
前世では女性が戦場に立つことすら珍しく、総大将や当主を務めることなど、まずなかった。
ところが現世では信玄は女性で、兄弟の関係も逆転していた。そして信廉や信龍も女性。
さらには板垣信方・原虎胤・小山田昌辰・春日虎綱・小幡昌盛などの家臣団にまで名前はそのままなのに女性がいるではないか。
信方は信玄の傅役を務め、しかも『職』にまで就いている。
加えて、信繁の記憶が正しければ、この時期武田家にいなかった者まで家臣になっている。
いい例が、今も会話に出てきた真田幸村であろう。しかも女性である。
真田幸隆・信綱親子は信繁も知っているが、幸村など知らず、さらに言えば彼女は元服時に信繁の名を譲り受けている。
『信繁様ほど武田家のために身を捨てて尽くされた方の名を、是非わが娘に頂きたいのです』
『さ、真田信繁と申します! 天城颯馬……いえ、武田典厩信繁様! 頂いたこの名に恥じぬ働きをお約束します! 何卒よろしくお願いいたします!』
ずいぶんと持ち上げられてしまっているようだが……。
納得した理由というのは、当初、女性の地位が高いことにこの上ない違和感を覚えていたことなのだ。
周囲は別に男女の地位が同格なのは普通という態度なのに、1人だけそれをおかしいと思ってしまう。
ただの思い込みや夢のせいで違和感を覚えるほどのことになるだろうか。
生まれた頃より当たり前とされた常識の中で育ちながら違和感を覚える……普通ではないと。
とは言え、全く同じとはいかないまでも、しかし歴史は信繁が知る歴史と変わらない部分も多い。
この現世に生きて20年以上。いい加減に慣れてきた部分も多い。
受け入れてしまえば……もちろん受け入れるのは一筋縄ではいかなかったものの、この記憶や経験も使いどころさえ間違えなければ役に立つ。
そう……今のように。
信繁は視線を正面の、切り立った崖の上に建つ城へと向ける。
その城、名を砥石城という。
「……兄上?」
「――ん?」
「どうかなさいましたか? 随分と怖い顔をされておられますが……」
手に持つ軍配で顔を隠して少しばかり遠慮気味に話しかけてくる信玄。
彼女が遠慮気味に、というのも珍しい話だが、逆に言えば彼女がそうするほど自分は怖い顔をしていたということだろう。
「……いや。なかなかに手強い城だと思うてな」
「ええ。無理に攻めてもこちらの被害が増すばかりでしょうね」
それほど大きな城ではない。この北信濃の地に根を張る豪族で、武田と同じく源氏の血を引く村上家の出城の1つだ。
だがこの城は村上家にとって防衛の拠点であり、この城を落とすことは北信濃攻略において必須条件であった。
それは前世でも現世でも変わらない。
そして信繁にとって、この城ほど苦みの走る記憶など、他に数えるほどしかない。
あとあるとすれば、上田原や川中島くらいか。
「…………」
砥石崩れ。
前世にてこの城を攻めた折、武田軍は甲陽五名臣の1人である横田高松を初め、1000名以上の兵を失った。
そして付けられた名が『砥石崩れ』である。
あくまで、前世では。
この前に起きた『上田原合戦』と合わせ、村上家との戦は武田家にとって苦戦を強いられた戦なのである。
だからこそ、それを知るからこそ、信繁は苦虫を噛み潰したかの如き顔を浮かべてしまったのだ。
(上田原、そして続くこの砥石城だけで武田軍は歴戦の名将と多くの兵たちを失った……『兄上』の驕りはそれで完全になくなり、
それ以後はまさに『兄上』の快進撃が続いたが……あの敗戦がなければ、せめて敗れても名将たちが生き残っていれば……)
その後の武田の進撃はより順調になったことだろう。
板垣信方、甘利虎泰……特にこの2人を失ったことは武田家にとって大きな損害だった。
武田家における政治の最高職にあたる『職』にあった2人が同時に失われたがために、少なからず内政に支障をもたらしたし、
指揮統率の観点からも、甲斐の有力国人衆である板垣と甘利の両当主を失わせたことで、両家の武田家への不信を招いた。
確かに兄信玄の驕りはそれで払えたが、代償としては大きすぎたと信繁は思っている。
――――『勝ち過ぎもまた禍根を残すものにて候』
前世でも現世でも同じことを言っていた人物の言葉を思い出し、信繁は小さく笑った。
それに気づいたらしい信玄が訝しげな視線を向けてくる。
「しかしお前がこのような策を採用してくれるとは思わなんだぞ。また強攻を命じられるかとハラハラしていたものでな」
「……馬鹿にされておられますか?」
「ふふ……前回の上田原合戦が思いのほか効いたようだな」
「言わないでください……あれは私の人生最大の失敗です。だからこその、今回の策の採用なのです」
「慢心がなくなったのなら言うことはない。それがわかってくれたのなら、上田原にて命を懸けた甲斐もあったというもの」
「な、何度もそのように嫌味たらしく言わずともよいでしょう!」
「命を懸けたのだ。このくらいは言わせてもらわねば割に合わぬ」
こちらを見上げて睨みつけてくる信玄に、肩を竦めながら憮然と言い放つ。
かつての『兄上』もそうだったが、この信玄もまた、これまでの武田の連戦連勝ぶりから驕っていた部分があった。
前世では上田原で板垣信方・甘利虎泰ら宿将を失ってしまい、『兄上』は気を引き締めることになった。
何とかこちらでは宿将たちを失うことなく信玄に驕りを自覚してもらおうと、昔からいろいろやってきたのだが、
家を離れていた間に、どうもぶり返してきてしまったようで。
だからこそ思い出していたのだ、先の言葉を。
(まあ、上田原には間に合わなんだが、せめてこの砥石城攻めには間に合うたのだ。山本殿の言に則るならば、これでよいのかもしれぬな)
十全とはいかないまでも、少なくとも五分は達成できたであろう。
いや、板垣・甘利両将が生きているのだから、七分と言っても言い過ぎではあるまい。
それくらいに信繁は両将を評価していた。
(これもそれも、この世では前世と違い、山本殿がすでにおられたということが大きい)
――――『まずは六分、欲を申さば七分の勝利を以って良しとすべし』
連戦連勝による己が能力への過信。
説得しようにも信玄の好戦的な性格や巧みな話術、他人を馬鹿にする傾向、素直に他人の言動を受け入れられない悪癖……それらが邪魔をして、
過信を取り払うのはなかなかに苦労したものだ。
上田原では敗退してしまったものの、板垣・甘利両将を始めとした名将を失わず、兵への損害を最小限に食い止められたのは、
やはり前世の頃にはまだいなかった名将の存在や、前世以上に家臣団が精強であるがゆえのことであろう。
「にしても、驕りや油断は決してならぬと幼少の頃より口を酸っぽうして説いてきたというに……」
「ま、まだ言いますか……私とてわかっていたのです。ですが、その……あ、兄上が悪いのです!」
「責任転嫁にも程があろう」
「兄上は何もわかっておられません。良かれと思ってなされたのかもしれませんが、私がどんな思いで……!」
「姉上は驕っていたのではありませんよ、兄上」
そこで背中から再び声がかかる。
それは正面にいる信玄と全く同じ声。それでいて信玄よりも声に儚さのようなものがあった。
振り向けば、2人の少女が近づいてくる。
1人は炊き出しなどを行う下女のような格好をし、顔を隠すように布を被っている。
1人はそんな彼女の手を引いて元気に手を振る、より小柄な体に大きな虎の毛皮を羽織っていた。
「姉上は兄上にいいところを見せたかったのです。兄上がいない間に成長したご自分を、兄上にお見せしたかっただけなのですよ」
「の、信廉! 何を言って……!」
「うんうん、出陣の前の夜に『必ず兄上を驚かせてみせます!』って意気込んでた!」
「信龍! 貴女も黙ってなさい!」
「え〜、何で?」
「何でも何もありません! 貴女は口が軽すぎるのです!」
「あいはああああ! あ、あへうへ! いはい!(あいたああああ! あ、姉上! 痛い!)」
顔を赤くした信玄がツカツカと早足で虎の毛皮を羽織った少女に近づき、問答無用で頬を両側に引っ張った。
かなり力が入っているようだ。少女の頬の伸び方が尋常ではない。
というかよく伸びるな、と変なところで感心する。
「信龍も信龍ですが、姉上も姉上。そして兄上も兄上です」
「む?」
もう1人の下女の格好をした少女は、近づいてくるときょろきょろと周囲を見回した後、静かに布を少しだけ上げた。
そこから現れたのは……信玄と全く同じ顔。
前世でも骨相が信玄に似ていたからと影武者を務めることはあったが、現世では骨相どころか瓜二つときている。
同じ顔だが、性格はまるで違う、穏やかでお淑やかという、まさに女子の鏡のような妹――信廉の柔和な笑みがあった。
「姉上も確かに素直ではありませんが、兄上なら妹の気持ちを汲めなくては。それが殿方の甲斐性ということにもなりましょう」
「ぬ……確かに。それはすまなんだ」
「はい。悪いところは悪いと認め、すぐに謝れることは兄上の良いところです。
これが姉上にあれば、確かに上田原の敗戦はなかったのかもしれませんね」
「むう……信廉にはなにゆえ勝てぬのだろうか?」
「ふふ、これでも武田信玄の影武者を務めているのですから、兄上くらい言い負かせずして武田信玄の影武者は務まりません」
この場で最も女子らしい女子なのだが、ただの女子でない。
軽く言っているが、確かに武田信玄の影武者として知る者ならば誰もが認めている信廉の功績。
その言葉には重みがあった。
武田信廉は僅かな者にしかその肩に乗る重責を知られていない。
表向きは父信虎亡き後に起こった争乱の際に怪我をし、その怪我が悪化して病をも患い、病弱の身となったとしているからだ。
公式には信廉は武田家の本拠地である甲府の躑躅ヶ崎館にて静養していることになっている。
僅かな人間にしか武田信廉は正しく認知されておらず、表に出ても武田信玄として振る舞わねばならない。
その重圧と寂寥、推して余りある。
信繁は無意識のうちに信玄に負けず劣らず立派なこの妹の頭に手を置いていた。
「あ、兄上? あの……」
無言のままに撫で続けていると、信廉もまた何も言わずに顔を僅かに赤くするだけでなすがままにされていた。
……何だか背後からの視線が激しく突き刺さっているのを感じるが。
「兄上――」
「兄上、ずるいぞ! ノブタツにも!」
後ろからしがみついてくる信龍。
「やれやれ。信龍よ、お前もいい加減よい年頃なのだから、少しは落ち着きというものを覚えたらどうだ?」
「うう……兄上まで姉上たちと同じことを言わなくてもいいじゃないか!」
「う〜む。甘利殿を悪く言うつもりはないが、育て方を間違うたな。信龍が男であるのなら文句などないのだが」
「兄上、さっきからひどいぞ! もう手遅れだと聞こえる!」
「…………」「…………」「…………」
「3人揃って無言で如何にも諦めろみたいな目をしないで!?」
信龍はこの中では最も武に秀ででいる。それは信繁のみならず、信玄も信廉も認めるところである。
ただ……知略という点においてはまるでからっきしなのだ。
仮にも軍略において武田随一とさえ謳われる甘利虎泰を傅役にしておきながら、なにゆえ知略面での成長が見られないのか。
深遠なる命題である。
「兄上など、『甲山の猛虎』が傅役であっただけあって、武にも秀でておられるのに」
「そして出奔されておられる間にいつの間にか軍略まで身に付けてきているのですから……少しは見習いなさい、信龍」
「信玄、信廉、その辺りにしておけ。信玄はともかく、信廉も存外辛辣だったというのは驚いたが」
「兄上、辛辣とはひどうございます!」
「言いだしたは兄上でしょう。何を今更、自分だけ信龍の味方であったように嘯いておられますか」
矛先が自分に向いてきたので、信繁は空笑いを浮かべつつ信龍の頭も撫でてやる。
……正確に言えば虎の大きな毛皮を撫でているのだが。まあ、信龍は嬉しそうなので些末なことなのだろう。
…………さっき以上に背後からの視線が痛くなった。
とにかく。
ここで同情などしても信廉は喜ぶまい。ここはただ明るく振る舞うこと。普通に接することこそ信廉が求めることのはずなのだ。
信廉の言う通り、その辺りが見抜けなければ兄として失格であろう。
「とりにしもあらず。ちなみにその武田信玄をつい今しがた言い負かしていたのだがな、信廉」
「あら。ではその兄上を言い負かした私が一番武田信玄に相応しいということでしょうか?」
「と、信廉は言っているのだが、そこのところはどうなのだ、信玄?」
「あ、兄上! それは卑怯な――」
「なるほど。信廉の本心が聞けて何よりです。兄上の失礼な言はとりあえず一旦忘れるとして……信廉? それは謀反と受け取ってよろしいですか?」
「あ、姉上! ち、違います! 決してそんな……!」
「いけませんね。如何に身内と言えど、信賞必罰に情を挟むべきではありません」
「うむ。厳正で非常に的確な信賞必罰こそ、武田信玄が精強な武田家臣団を作り上げられた理由ともされているからな」
「兄上!?」
「ええ、兄上の言う通りです。では信廉、謀反を企てた疑いで貴女に罰を下します」
「そんな!?」
「信龍! 信廉を連れて陣に戻りなさい! そしてしばしの間、信廉に武田信玄として振る舞わせておきなさい!」
「ええ〜、ノブタツも兄上と一緒に月見したいのに……」
「残念ながら兄上は私とこれから重要な話をしますので。命令に従わないならば……」
「は、はい、わかりました!」
「姉上、ずるいですよ! 私だって兄上と――」
「聞く耳持ちません。信龍、早く連れて行きなさい」
「は〜い」
「あ、あにうえぇぇぇぇ……!」
信玄の『氣』に当てられたか、睨まれでもしたか、信龍は震えながら早々に信廉を連れて下がっていく。
とりあえず合掌しておく信繁である。
やがて2人の姿が見えなくなると、信玄は背を向けたままで話しかけてきた。
「さて、兄上」
「どうした、信玄?」
「兄上は信廉のことになると途端に駄々甘になりますね」
「む? いや、甘やかしているつもりはないのだが。ただ信廉は影武者として窮屈な思いをしておるゆえ……」
「ほう?」
そこで信玄が振り向いた。
それだけで信繁は体が硬直してしまう。
信玄が放つ『氣』は、信繁が放つそれを圧倒する。それはかつての『兄上』と比較しても何ら遜色ないと言えよう。
もちろんさすがの信玄も今それを放とうとはしないが、仮面のような冷笑、
そして身長差から見上げているはずなのに見下ろされているかのような圧迫感が襲いかかっているのだ。
「では武田家当主として私を滅し、武田家と甲斐のために身を磨り潰す私には容赦ない言葉をかけると」
「……悪かった」
「それで済むとお思いですか? 乙女の心を傷つけ、あまつさえ片割れに対しては全く逆の優しい態度。この差は何なのでしょう?」
「……素直か素直でないかの差では?」
「何か仰いましたか?」
「いえ、何も」
「よろしい。では兄上の当主への侮辱に対する罰ですが……そうですね」
何を言われるのかと戦々恐々とする信繁である。
信玄もわかっていて冷たい態度を取ってくれるのだから。
「館に戻った後、1日、私の命令に完全服従してもらいましょうか」
「……犯した行為の程度と罰の重さが釣り合っていないと激しく思うのだが」
「何か?」
「失礼しました、お館様」
「お館様?」
「すまない、信玄」
「それでよいのです。では確かに約しましたよ、兄上?」
「……委細承知」
ホクホク顔で脇を通り過ぎて陣へと戻っていく信玄の後姿を眺めつつ、かつての自分は女子に対してここまで弱い立場であったろうかと自問する信繁。
答えは否。否であると信じたい。
とりあえず、これは現世の女子の地位が高いことに責任を押し付けておくことにする。
(にしても、ここまで長かったな……これからもまだまだ先は長いが。
前世の記憶や経験、知識があるとはいえ、この世は前世とは違う。それは忘れぬようにせねばな)
もう一度砥石城を振り返りながら、信繁は今日までの日々を思い返すのであった。
――続く――
【後書き】
序巻では史実の段階として描きましたが、今話より戦極姫の世界に入っています。
今話ではすでに史実でもあります『砥石城攻め』の最中として描いていますが、導入段階という扱いで、次話より過去の話に入っていきます。過去の話というより、次話からが拙作の軸となる時間軸になりますが。まあ、これから描いていく話が、砥石城攻めの時にはこういう結果になっていますよという意味での今話であります。
ちなみに……信繁が口にしていた歌は最初は言うまでもなく藤原道長の読んだものとされている歌です。2つ目は違いますが。私に和歌の教養などないので、そのあたりを突っ込まれると痛いなあと思いつつ。(苦笑
それではまた次回にて。
失礼いたします。
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