戦極甲州物語 参巻 |
躑躅ヶ崎館はその名の通り、邸内に躑躅の花が咲く。
その躑躅を見るたびに、信繁は1つの思い出を脳裏に蘇らせていた。
まだ幼い頃、父や母と共に館内を散策していたときのことだ。
躑躅ヶ崎館ができてそれなりに時間も経っていたのだが、
それでも躑躅の花が咲く時期にはこうして館内を散策するのが1つの習慣のようになっていて、信繁も信玄もそれを楽しみにしていた。
ただ母はともかく、父は戦から帰ってきて、その戦果も芳しくなかったために表情はお世辞にもその場に合っていたとは言い難かったが。
父は館から見える山々に目を向けていた。
躑躅ヶ崎館は甲府の山々がよく見えるように作られており、それは敵がどこから攻め入ろうとも一目でわかるようにするためだ。
父としては敵がいつ来るか心配でならないのだろう。
だが信繁も信玄もそれには構わなかった。
信繁にしてみれば父の気持ちもわからないではないが、
母や信玄の笑顔を見ていると父の苦い表情につられて難しい顔をしているのがもったいなく思えてならなかったのだ。
――『兄上!』
――『ん?』
――『ど、どうぞ……!』
――『……躑躅の花?』
信玄が差し出した一輪の躑躅の花。
見慣れた躑躅ではあったが……その花はとても美しく見えた。
それはきっと、その花を渡す信玄が満面の笑みを浮かべていたからではないだろうか。
実の妹であるとわかっていても、信玄は実に可愛らしい。時が経てば甲州一の美女になるであろうと思わせるほどに。
それは兄としての贔屓目もあるだろうが、しかし信繁は見惚れてしまった。
「実の妹に見惚れる兄というのもどうなのであろうな」
当時を思い出しながら信繁は館を歩く。
躑躅の花は今年も館を彩るように咲き乱れていた。その様を思い起こしながら信繁は苦笑を浮かべていた。
だがその笑みもすぐに消えてしまう。後に残るのは苦々しい表情だけ。
「山県殿・馬場殿に続き、工藤殿まで誅殺されるとは……」
足を止めて顔を俯かせる。握りしめた拳はとうに白くなっているほどである。
脳裏に工藤虎豊の血染めの顔が思い出される。折角の良い記憶も、信玄の笑顔も、今はそれに簡単に塗り潰されてしまう。
最後の言葉は届いたであろう。せめて虎豊が最後に僅かに笑ったような気がするのは、信繁の思い過ごしであろうか。
「なぜ私は止めきれなかった……! 3人が殺されることを知っておきながら、なぜ……!」
近くの柱に拳を打ち据える。
広大な躑躅ヶ崎館を支える頑丈な柱はそのくらいで揺らぐことはない。信繁の拳の方が痺れるだけである。
それが余計に腹立たしい。所詮お前には何もできないのだと言われているようで。
――所詮お前1人では、歴史という大きな流れには対抗できないのだと。
釜無川や御勅使川の氾濫に、幾度も甲斐の民と武田は脅かされたように。
大きな流れの前に、人1人の力など無力に過ぎないのだろうか。
山県虎清。
馬場虎貞。
工藤虎豊。
全員、武田家において宿将と言うべき重鎮だ。その名に『虎』の字がある通り、全員が全員、信虎に名を与えられるほどの。
それが、全員。全員である。
信虎によって殺されてしまった。
前世においても、この3人は信虎によって殺されている。
それを知っているからこそ、信繁が何の手も打たないはずはなかった。だが結果は……現状である。
「……歴史は4人(・・)が生き残ることを許さぬと言うのか! 武田にはどうあっても父上を追放するという道しか残さぬと……そう言うのか!」
だが信繁の打った手は確かに上手くいっていたのだ。
虎豊の死は、前世においては駿河への出兵に対して虎豊が内藤虎資と共に直諫したことに信虎が怒ったためだ。
だから信繁は駿河への出兵を信虎が言い出す前に、何とか信虎を説得して今川方との和平を図った。
おかげで今川への出兵は未然に防げた。だが……すべてうまくは運べなかった。
その今川での家督争いによる敗者たちが助けを求めてきた……それを信虎は受け入れず、全員に切腹を申し付け、
虎豊はそれを止めたことで怒りを買って殺されてしまった。
このようなこと、前世ではなかったことである。
一方で山県虎清、馬場虎貞に至っては前世の通りであった。身内である家臣を殺したことに対して諌めようとしたのだ。
もちろん信繁は両者を事前に止めたのだが……
――『山県殿、馬場殿! どうか、どうか今少し待ってくれ! この一件に関しては私の方から父上に何とか思い留まってもらうゆえ……!』
――『信繁様。我らの身を慮って頂けること、まこと恐悦至極にございます。なれど、此度の件は我らも引き下がる気はござらん』
――『左様。信繁様ばかりに任せていては、我らは家臣としての責を果たしているとは申せませぬ』
2人は家臣としての義務というものを弁えている名将であった。
であるがゆえに、信繁の説得もこの2人には通用しなかった。
信繁は止めたのだ。だから信繁が責任を感じる必要はないし、きっと両将も信繁に恨みなど抱いてはいないだろう。
しかし止めきれなかったことは事実。
そして信繁は、そのとき実力行使に及べば止めたものを、そうしなかったのだ。
「……できるわけがない」
そう、できるわけがないのだ。
武士として、家臣として、忠義の士として。
苛烈な信虎の気性を知りながら、それでも命を懸けて主君を諌めようという士を、同じ武士として、どうして止められようか。
彼らをあれ以上止めることは、彼らの矜持を汚すことである。
彼らを死なせたくない。それは信繁にとって彼らがそれだけの名将だからだ。
そして彼らを名将として敬意を持っているからこそ……その矜持を汚すなど、信繁にはできなかった。
信繁にできることは、今は亡き彼ら忠臣の魂を丁重に弔うだけである。
せめて、前世で殺されるはずである最後の1人、内藤虎資だけでも守れるように。
だが。
歴史はまたも信繁を陥れた。
「……内藤殿が討死とは……!」
その報が入ったのはまさに突然。
再び信虎が信濃に対して侵攻したのだが、その際に思わぬ反撃を食らい、先陣を命じられた内藤虎資が討死したのだ。
兵も民も疲弊を訴える中での出兵……これもまた前世ではなかったこと。
山県虎清・馬場虎貞のときに止めようとし、工藤虎豊と内藤虎資の死を防ごうとした信繁を嘲笑うように。
確かに虎資の死は戦死。信虎が直接手を下したわけではない。
しかし此度の出兵は兵も民も疲弊を訴える中でのこと。民や臣下の声を顧みようともしない信虎が彼を殺した――そう信繁には思えてならない。
「もはや……もはや本当に……前世のようにせねばならぬと、そう言うのか……」
信虎の追放。
信繁にとってそれは避けたい事態であった。
前世では家臣や領民に支持されたが、実は他国からは実の父を追い出した不義・不忠として信玄は非難されたのだ。
それが理由で信濃の領民にも不信を抱かれ、信濃攻略に手をこまねき、
さらには義を重視したあの上杉政虎に、武田信玄を絶対に相容れぬ敵として認識させてしまった。
そして甲相駿三国同盟においても、この事実は今川義元や北条氏康たちに武田信玄は裏切り者としての側面があると植えつけたことだろう。
信繁はかつての『兄上』を心から信頼し、尊敬していた。だからこそ、その誤解は実に悔しくてたまらないもので。
――『気にするでない、信繁。事実は事実。清濁併せて飲み込むのだ。我らの目的は天下統一。大事の前の小事と心得よ』
『兄上』は豪気に笑い飛ばしていたけれど。
現世の信玄に、再びそのような評価が下されることは絶対に避けたい。
「『兄上』。やはり私は『兄上』ほど寛容にはなれませぬ……私はあの子に、そのような評価を下されとうないのです」
今一度、春先には躑躅の花を咲かせる躑躅ヶ崎館の庭先に目をやる。
そしてその躑躅の花を、少しばかり頬を赤くしながらも満面の笑顔で差し出してくれた心優しい妹の姿を重ねて、
信繁は深く息を吸い込みながら自身に強く言い聞かせるように呟いた。
「歴史にせめてもの感謝をするとすれば、やはり私を此度は兄として、長子として生まれさせてくれたことか」
空を仰ぐ。
憎らしいほどに透ける青空である。雲1つない。天はどれだけひん曲がった性根をしているのだろうか。
「――兄上」
いつの間にか天を睨んでしまっていた信繁の耳に、その暗い気持ちを払拭するような心地よい音色の声が届く。
やや驚いて顔を向ければ、そこには信玄が立っていた。
いつものように白地の着物に、赤地の袴。神社にでも行けば巫女たちが来ていそうな、それでいて実に簡素な服。
信玄は華美を嫌う。それでいて質実剛健。
そういうところも『兄上』と被り、信繁もまた華美を好まぬことから、実によいことだと思っていた。
「信玄か。どうかしたか?」
「……何を、お考えになっていたのですか?」
「大したことではない」
「嘘です」
これはまた思い切り切って捨てられたものだと、信繁はその痛快さに笑みを浮かべてしまう。
武田信玄に隠し事はできない。
前世でも現世でも同じ。本当にこの子は『兄上』の生まれ変わりではないかとさえ思う。
一方で信玄は突然笑い出した兄に対して不満を隠そうとせず、「兄上!」と声を荒げた。
「茶化さないでください! 私に兄上のことでわからぬことがあるとお思いですか!」
「まあ、お前に隠し事ができぬのはいい加減理解しているが、それでも兄として言えぬこともあるのだ。察してくれ」
「…………」
下手に隠さず、何かあることは認める。しかし話すことはない。そこまで信繁の口も軽くはない。
納得は……到底できないだろう。信玄は無言で信繁を睨んでいた。
だが同時に信繁が絶対に喋ってくれないことも、敏いがゆえに察していることだろう。
だから信繁もこれ以上追及を避けるため……追及させることを許さぬため、話を強引に変えるのである。
「しかし信玄。お前の察しの良さは仏門に帰依してからというもの、さらに敏くなったな。もう悟りが開けたか?」
「…………かように容易く悟りが開ければ苦労はありません」
「で、あろうな」
話をすり替えられたことなど、信玄にわからぬはずもなし。されど信玄も追及はしてこなかった。
……かなり不満げな低い声色で、そっぽを向きながらであったけれど。
「しかし悟りのための修行と武田の政務の手伝いの両立はきつかろう?」
「そこまで弱くはありません。信方も補佐してくれますので」
「そうか。そうだったな。板垣殿がいるのだから、そこまで案じる必要もなかったか」
「……あ、兄上が案じてくださるのは大変嬉しいのですが……」
「ん? 何か言うたか?」
「い、いえ、何でも!」
顔を大仰に横に振る信玄をやや訝しげに観察しながらも、信繁はとりあえず深くは聞かないでおいた。
下手に聞いていたらさっきのことをまた掘り起こされそうだ。
「さりとて仏門に帰依か……私もいっそ出家してみるか」
「何を言っているのですか」
信玄が本気で呆れたように、ため息をつきながら突っ込んでくれる。
「兄上は甲斐源氏の名流、武田家の嫡子なのですよ? 武田をお継ぎになられる方が出家などと冗談が過ぎます」
実にその通りである。
だがその言葉に信繁は何も返さなかった。返せなかった。
お前の方が当主に相応しいと言いたい。
しかしそのようなこと、仏門にまで入った信玄に容易く言えるものか。
信玄が仏門に帰依したこと。
それは信玄が『兄上』と同じく、聡明であるがゆえのことであると言える。
家督争いは、例え当人に当主の座につく意思があろうとなかろうと関係なく起きてしまうものである。
それを未然に防ぐために、武家でも公家でも、嫡子以外の子供は仏門に入れてしまうということはもはや日ノ本における慣例であった。
信玄は自ら仏門に入ってしまったのだ。
すべては敬愛する兄と相続争いなどしたくないから。
だがそれが、信虎と信繁の確執に繋がろうとは、信玄も考えなかったのだろう。
(あの時の父上は目に見えて愕然としていたからな)
信玄の器量と才覚を何より愛した信虎。
それゆえに信玄もまた信虎を父として好いており、父と兄を共に大切に思っているからこそ、その判断は苦渋の決断でもあったろう。
信虎を取るか、信繁を取るか。
結果として信玄の選択は信虎にとって予想外のものだった。
信玄としては、例え仏門に入ろうとも御家を支えることはできると思ってのことなのだろうが、
信玄を後継者に据えたいのであろう信虎からすれば、信玄の選択は愕然とするものに違いなかった。
そうして信虎は信繁の存在を忌むようになった。
ただでさえ虎豊たちの件で信虎に意見したり、幼くして前世の知識と経験を持つことを利用して政務を行ったりで、
領民や家臣たちから信虎を上回る評価さえ得られているのだ。
もちろん信繁もわかっているし、あまり評価が上がり過ぎないように、ある程度家臣たちの裁量に任せるなどして手柄を分散させたが、
それも今となっては信虎にとって余裕の表れかとでも思われているのかもしれない。
(母上。貴女の教養への熱意、そしてその教養を私たちにも与えてくれたことには感謝しておりますが……こればかりは裏目に出てしまいました)
聞いていますかと問うてくる信玄に、ああ、とだけ返しながら信繁は信玄から顔を逸らして再び庭先を眺める。
信繁と信玄の母、大井の方は、実に教養深い知識人であり、信繁と信玄の教育にもこの時代の基準からしてかなり高度な教育の機会を与えた。
そして信玄は、特に大陸の兵法家である孫武の教えに深く共感し、同時に孔子の儒教にも造詣が深かった。
『長幼の序』。
儒教においては基本的な事柄である。
これがまずかった。
孔子や孟子を批判するつもりはないが……信繁はこれに関してだけは彼の先達に文句を言いたい。
信玄は長幼の序を重視するあまり、ただでさえ慕っていることも相まって、信繁を立てようとしてしまったのだ。
だが仏門に帰依したからと言って、相続が絶対に出来ないかと言えばそうでもない。
還俗さえすれば家督を継ぐことは可能である。
前世でも上杉政虎、旧名長尾景虎は還俗し、兄である長尾晴景と家督を争い、晴景を下して長尾家を継いだのだ。
「信玄。仮に、だが」
「はい」
「仮に、父上がお前を跡継ぎに指名したらどうする?」
「ありえません」
これまた気持ちいいくらいの断定だった。ここに信虎がいればどうなったことだろう。
信玄は自らの能力を理解していない。むしろそれが普通と思っているところさえある。
自らがどれだけ優れているのか、理解していないのだ。
ある意味、それは信繁自身にも責任がある。
(……驕りを抱かぬように謙虚さを説いたつもりが、行き過ぎたのだろうか)
前世のことを思い出す。否が応にも思い起こされる上田原合戦。
あの時ほど『信玄』の驕りが全面に出てしまった戦はない。
あの繰り返しを何としても避けたいがゆえ、信繁は信玄に対して機会がある毎に言い含めたもの。
それが裏目に出てしまったらしい。
何事も過ぎたるは及ばざるが如し。
信繁はそれだけ自分にとって上田原合戦や砥石崩れの敗戦が心理的な傷になっているのだと、自分でも改めて認識したほどだ。
「ありえぬ、か」
「だいたい兄上の方がすでに結果を出しておられるではないですか。少なくとも内政においては父上に勝るのではないかと私は思います」
「……ふふ」
「何がおかしいのですか?」
「いや、皮肉なものだと思うてな」
「む。私が兄上を褒めると皮肉になるのですか?」
「いや、そういう意味ではないのだが……」
信玄が知るはずもない。
信繁は確かに政務の一端を担っており、多くの産業の育成に関与し、今では甲斐の民から信虎以上の支持を得ている。
軍の規律にも携わり、兵たちからの信頼も厚い。
……そういうふうに、聞いている。傅役である飯富虎昌や信方、甘利虎泰たちから。
実際、彼らから政務に関して手伝いの範疇を越えて任せてもらうようになっている辺りからも、相応の信頼を持たれている自負はある。
だがそれらは、元を辿れば前世の経験によるものであり、これらの成果は皆かつての世で実証されたことばかりなのだ。
だいたい考えても見よ。
20にも満たぬ小倅が考えた政策がそこまで上手くいく方がおかしいのだ。
これは、すべて前世において武田信玄と優秀な武田家臣団が、試行錯誤をして成功させてきたもの。
信繁はそれを模倣しているに過ぎない。
だから結果と言われても、信繁は素直に喜ぶことはできなかった。
「それに出家したからと言って兄上のお傍にいることができなくなるわけでも、兄上のお手伝いができなくなるわけでもありません。
今川家の太原雪斎のように、僧侶の身であっても御家に仕えることはできます」
「私を支える、と?」
「妹が兄を支えるは至極当然のことでしょう」
それこそが儒教の教えであると言わんばかりである。
実に正論であり、道理であり、兄として嬉しく思うべきことなのであろう。
だが信繁には何とも複雑極まりない。
支える役目は本来反対なのだ。信繁が信玄を支えるのだ。支えたいのだ。
実際、信玄には信繁にはない器量と才覚がある。それは誰かを支える程度のものではなく、自らが主君となることで発揮されるものである。
これほどの器量と才覚を埋もれさせていいわけがない。
武田家のため。それはもちろんだが……信玄にとっても、その方がいいのだと信繁は思う。
まだまだあどけなさを残す信玄。10を少し超えたに過ぎない歳ゆえ、当然であろう。
にもかかわらず、周囲の状況をよく観察しており、そしてこの歳で我が身の振り方を考え、決断できたその能力。
これを見て、どうしてもったいないと思わずにいられようか。
それに、である。
武田信繁という人間は、武田信玄という主君に忠誠を誓い、弟として兄を支えることに特化してきたと言える。
これこそが普通の状態であった前世。
記憶は感情と直結する。記憶を失えば肉親であっても他人に対するそれと同じ態度で接してしまうように。
だから前世の記憶がある以上、信繁にとって自らが主君の座に収まるというのは非常に違和感があることなのだ。
「……世の中、思い通りにはいかぬものよな」
「確かにその通りではありますが、なにゆえこの会話の流れでその言葉が出てくるのかわかりかねます」
不満そうな声色で信玄もまた信繁から視線を外して庭へと向けた。
信玄は兄に対して自分の嘘偽り無き思いを口にしたにもかかわらず、信繁の反応は芳しくない。
わかってもらえないのかという気持ちもあるのだろう。
そう推測し、悪いなと思いながらも、信繁はその気持ちを口にすることはできなかった。
「兄上……昌豊は大丈夫でしょうか?」
「きっと大丈夫だ」
唐突に信玄の声から力が失われる。信繁は意味などさほどないと知りながらも答えた。
信玄もそれを真に受けはしない。それでもただそうですねと返した。
工藤昌豊。先日信虎に殺された虎豊の息子だ。
あの後、直ちに信繁は形式的に虎昌に信虎の命令通りに工藤の家を取り潰すべく兵を集めさせたが、
その間に工藤家に使者を出し、すぐに甲斐から脱出するように言い、その手引きも行った。
脱出させたのは東。北条の領地であった。
西の信濃は現在信虎が侵攻を度々行っているゆえに武田の者と知られれば危険であり、
北の長尾は現在、長尾晴景が当主になっているが、現在の越後は内乱状態であり、
そこに武田の者が来たとあってはどんな行動に出られるかわからない。
残るは南の今川と東の北条。どちらも同盟国だが、今回の事情は今川家の家督争いに端を発するもの。
今川に知られたくはないのだから、そうなるともう東の北条しか残っていなかった。
(そう、大丈夫だ。昌豊はあの内藤昌秀。武田家を支えた四名臣の1人となる男だ。必ず生きていてくれるはず)
そう信繁は信じていた。
……現世ではなかなかに突飛な性格をしてくれているが、能力は確かである。
「兄上……私は、最近父上が……怖いと、そう感じます」
「…………」
信玄の体が震えている。
やはりどんなに器量と才覚があっても、まだ精神的な部分がそれらを使いこなせるまでに至っていない。
もちろん身体的にも、まだまだ振り回されてしまう。
10を少し超えた少女にそれらすべてを求めるのは確かに酷であろう。
もちろん、この戦国乱世の世においては、その年齢で当主について国と家臣、領民たちを率いる者もいるけれど。
例えば奥州の伊達や最上。
信繁の記憶にはあまりない当主たち。少なくとも前世で現時点に該当する時期にはまだ当主ではなかったはず。
「情けないですね。甲斐源氏の名流である武田の子である私が、人目も憚らず震えてその場を辞すなど……」
「信玄、気負うことはない。人の死を前にして怯えぬ者など、そうそういるものではない」
「しかし私は武田一門。もう戦場にも出られる身です。それが人の死に怯えていては示しというものが――」
「人の死に怯えぬ者は心無き者、もしくは心が冷め切った者だ。それは勇気や豪気などではない。冷酷なだけだ」
「兄上……」
「強き者というのは、人の死に怯えながらもなお立ち、味方を鼓舞する者。そうした者こそが、人の上に立つ者の資質であると私は思うている」
かつての人生、その最後に相見えた上杉政虎を思い出しながら信繁は諭した。
信虎はその点で主君としての器ではない。
人の上に立つ者として、一種の冷たさは必要になる。
優しさだけで国は救えない。守れない。ましてや天下など狙えるものではなかろう。
だが冷酷では民も臣下もついてこない。恐怖によって統治される国は、いずれ離反と叛意を招く。
古くは大陸にて殷の紂王が、そして日ノ本でも当代の幕府の第6代将軍足利義教がその型にはまるのではないか。
「私はな、信玄。破滅を招く将には、大きく4つほどあると思うている」
「お聞かせ願えますか?」
信玄は真摯に体ごと信繁を振り向き、教えを乞うように手を体の前で揃えて見上げてきた。
礼儀を知る名家の娘のようで、一方その瞳には一言も逃すまいと食い入る光が見て取れる。
前世の経験から来る信繁の考え。それが役立つのなら、惜しむべくもなし。
「愚かな将……これは言うまでもないな。愚かにもいろいろあるが、傍若無人、過信、怠惰……それらは必ず破滅を齎す。
そうよな。例を挙げるなら――」
今川氏真……と言いかけたところを寸でのところで止める。
現世において、氏真はまだ今川の家督を継いでいるわけではない。その愚かさぶりを語るにしても、現状では未来の話。
そこで信繁は少し考える。
「前代の幕府において執権であった北条高時であろうな。まあ、配下であった長崎高資も愚かであったが」
闘犬や田楽に興じ、高慢であったとされる北条高時と、その配下として権勢を強めていた長崎高資。
前者のそれは家督を相続した後も蹴鞠などに興じてばかりだった今川氏真と通じるところがある。
高時や高資は鎌倉幕府の滅亡を招き、氏真も今川家没落の決定的な理由となった。
「2つ目は利口過ぎる将。将と称するのは違うが、人の上に立つという点で同じということで、私は後醍醐天皇を挙げよう」
「南北朝時代の天皇でしたね」
「うむ。執権ら得宗専制により腐敗した鎌倉幕府を討幕したのは確かに功績であろうが……理想に執着し過ぎた。利口過ぎたのだ」
それが、名将として知られる北畠顕家や楠木正成を殺した。
この時代、楠木正成などは朝敵として扱われているが、信繁は声を大にしては言わないまでも、正成を暗君とは思っていない。
むしろ暗君は後醍醐天皇であろう。
とても勝てない戦と少し考えればわかるものを、上奏した正成の意見を蹴り、忠臣たろうとした正成は湊川にて散った。
足利尊氏ら武士たちが不満を抱いた建武の新政も、平安の時代、『延喜・天暦の治』を敷いたとされる醍醐・村上天皇の治世を理想とし、
天皇親政を進めようとするあまり、側近ばかりを重用したがゆえのこと。
武士の力を削ぎ、公家の既得権を侵害し、増税した挙句に大内裏建設計画や無計画な紙幣発行などの経済計画……。
正確に言えば愚かと利口過ぎたという2つの要素が絡んだ結果とも言える。
「3つ目は臆病な将。言うまでもあるまい。上杉憲正はまさにそれに当たる」
「彼の場合、家臣に長野業正がいたのは幸いでしたね」
「ある意味で不運だがな」
関東管領の身でありながら自身の身ばかりを考え、北条に大敗を喫した。
長野業正のおかげで山内上杉家はまだ健在ではあるが、かつての力はすでにない。
そして最後に……信繁はやや声の調子を落とした。
「強すぎる将……これが4つ目だ」
「……父上は強すぎると?」
信繁の言いたいことを察したらしく、信玄は少し悲しそうだった。
信玄にとって信虎は自分を愛してくれる父親だ。悪く言うのはやはり心が痛むのだろう。
信玄の心を推し量りながらも、信繁はゆっくりと頷いた。
強いがゆえに他を顧みず、自らの力に自信を持ち、持ち過ぎてしまう。
「信玄。強さと冷たさを履き違えるな。どちらも必要であるが、過ぎたそれは身を滅ぼす」
「……わかる気がします」
さすがにこういうときは信玄の聡明さは実に好ましい。
一から十まで言わずとも悟る。こういうあたりに、一層当主としての器量と才覚を感じるのだ。
言わばこれは諫言だ。ならば、信玄は臣下の諫言を受け入れるだけの度量があると言える。
もちろん今は信玄が慕っている兄からの言葉だからというのもあろう。けれどきっと信玄なら信繁以外の言葉だろうと耳を傾けると信繁は思う。
(板垣殿はまこと、信玄の良い傅役であってくれる)
板垣信方。
前世でも現世でも武田信玄の傅役を務め上げた将。
性別は前世と違うが、そんな差など感じないほど、彼女は信玄の心を決して人後に落ちないものへと育て上げてくれた。
尚更、虎豊を誅殺された際に信虎に物申そうとしていた勢いを止めたのは正解だったと思う。
信方まで誅殺されていたら、信玄は果たしてどうなったことか。
(精神面での問題も、板垣殿がいればきっと前世同様に問題はあるまい。信玄の心の師とも言うべき板垣殿がいれば)
だからこそ、信方を決して死なせたくはない。
改めてそう思うと、先ほどまで虎豊たちの死に気落ちしていた自分こそが情けなくなってくる。
「うむ。気落ちしている場合ではないな」
「……兄上、やはり背負い込まれていたのですね。先ほど考えていたこともきっとそんなことだろうとは思っていましたけれど」
「はは、許せ。この兄もまだまだなのだ」
そう、まだまだ。
自分の弱気を戒め、改めて空を見上げる。
先ほどはその抜けるような青空が憎々しげに思えたのに、不思議なもので……今は自らの進もうとする道が照らされているようだった。
気持ち1つでここまで変わるものなのだろうか。
「信玄。今の武田家なら、天下を狙えると思うか?」
信玄はしばしの間、驚いたように信繁の顔を見上げていた。
不思議に思って見返すと、信玄は我に返ったように慌てて言葉を並べ立てた。
「ごめんなさい。兄上が天下などと仰るなんて思いにもよらなかったものですから」
「ふむ。まあ、覇気という面では『兄上』には叶わなんだが、私も乱世に生まれた男。天下への野心がないわけではないぞ?」
「……兄上はいったい誰を指して兄上と仰っておられるのですか?」
「それはもちろん、武田信玄…………いや、うむ。私が兄上と言えば源四郎殿であろう。はっはっは」
「…………」
また間違えてしまった。
信玄を兄上と呼ぶ。それは一種間違えてはいないのだが、しかし今ここでこの妹を相手に口にすべきではないことである。
信玄はいつものことともうわかっている。なぜかこの兄は自分を兄上と呼ぶことがあるのだ。その理由はいつもはぐらかされるときている。
いつかその真意を質してやろうと信玄が思っていることなど、信繁には知る由もないのだが。
「と、とりにしもあらず。信玄はどう思う?」
「……はあ。その前に、兄上はどう思っていらっしゃるのか、訊いてもよろしいですか?」
人に聞くならまず自分から言え。
丁寧な言葉遣いではあるが、信玄の言葉の裏には鋭利な棘が隠れているのを、信繁はひしひしと感じ取る。
また怒らせてしまったと自省する信繁である。
「私は現状のままで天下などとても無理なことだと思うている」
「同感ですね」
「またあっさりとお前は……」
父上に聞かれでもしたらどうなることかと自分は戦々恐々としているというのに。そう信繁は呆れて言葉を無くしてしまう。
だが信玄はさっきのお返しと言わんかの如く、知りませんと素っ気ない。
「父上のすべてが間違っているなどとは申しません。
ですが父上のやり方では遠からず武田の力は衰えてしまう……いえ、甲斐の力が、という方が適切でしょうか」
「そうだな。武田の力が衰えるだけではすまぬ。甲斐の民、甲斐の土地もが衰えてしまう」
大木とて地に根を張らねば生きてはいけない。
武田という木もまた例外ではなく、甲斐という地に根ざしたものであり、甲斐の地が痩せ衰えてしまえば武田という木もまた枯れ果てよう。
間違ってはならない。
武田無くして甲斐は成り立たないのではない。甲斐なくして武田は成り立たないのだ。
武田の家、武田の名、武田の国……どんなに大きくなろうとも、その木を生かす地が痩せ衰えてしまえば、木は生きられぬのだ。
「武田を強くならしめるに必要なこと。今の武田に必要なことは、内治の充実。甲斐の国力を増強することです」
信繁は信玄の意見に深く頷く。その顔には薄く笑みが浮かんでいた。
先ほど芳しい反応が返ってこなかったこともあり、信玄は僅かに機嫌を良くしながら、兄が見上げる空を同じように振り仰ぐ。
「父上は甲斐を統一しましたが、長らく続いた内乱で武田も甲斐も疲弊しています。
父上は甲斐の外に領土を広げ、それを以って国力を上げようとしているようですが……今の武田に甲斐の外を治める力はありません」
「武力で国を奪うことはできても、治めることはできぬからな」
武田の領土がどれだけ増えようとも、地力がなければ、治める力がなければ、結局すぐに奪われるか放棄するしかなくなる。
新しい土地を治めるには、現状の領土を治めてなお余りある力がなければ。
軍事行動は大量の人・物・金を消費する。占領地を完全に『自国』に組み込むにも時間がいる。
占領した状態のままでは完全に統治できているとは言えず、国力は増えるどころか衰えるのである。
なぜなら新たに領土に加えたところからは、人も物も金もすぐには入ってこないのだから。
占領状態では治安を維持するための兵がいるし、検地しなければ税も設定できないし、
住んでいる人間の数や集落の場所を把握しなければ年貢も入らないし徴兵もできない。
占領状態を維持するために本国から人を割いて治安維持として兵を送り込まねばならず、統治のための土台作りのために金を出さねばならず、
それらを支えるための物資がなければならず……。
本国の統治がままならない状態で他所に手を出そうなど、土台無理な話なのである。
「兄上の施策は、すべて国力の増強に向けられています。本当に甲斐の長短を弁えた施策です。ですが……芳しい結果が出ているとは言えませんね」
「……情けないがその通りだ」
「あの、兄上……私は兄上を悪く言うつもりはないのですよ?」
「わかっている。案ずるな」
信繁はやや不安そうに見上げてくる信玄の頭を撫でた。
信繁自身、わかっていることだ。
頭の中ではこうすればああすればと構想があるし、その構想をできるところから実施してもいる。
成果も出ている。出ているのだが……微々たるものでしかなかった。
金がないのだ。物がないのだ。人がいないのだ。
施策を実施するには、それを指示し、動く人が要る。道具や材料がいる。そして人を雇い、物を仕入れる金が要る。
その全てが、不足している。
戦で人が駆り出され、金は戦費に当てられ、物も戦に必要なものが優先される。
先日の政務でも保留だの留意だのと、先延ばしのような回答しかできなかったのはそのためだ。
「察するに、兄上が渇望されておられるものは、『人』ですか?」
「なにゆえそう思う?」
内心ではその通りだと答えながら、信繁は信玄を見やる。
試すような真似をすることに罪悪感はあるが、同時に一種の期待がそこには籠められている。
「此度の虎資、先日の虎豊、そして虎清に虎貞の件を見ていれば明らかでしょう。
兄上は父上の勘気に触れればどうなるかを予想し、できうる限り彼らを守ろうとされておいででした。
彼らに限ったことではありません。兄上は初陣の頃から自身の手柄よりも諸将や兵の喪失を防ぐことに注力しておられたでしょう」
「……口にしたことがあったか?」
「ふふ、先刻申し上げましたでしょう? 私に兄上のことでわからぬことがあるとお思いですか、と」
口元を手で隠しながら不敵な笑みを向けてくる信玄。
どうやら本当に信玄に隠し事はできないらしい。信玄は冗談めかして言うが、信繁は信玄の観察眼にほとほと驚嘆するばかりだ。
自分が思っている以上に人は自分を見ている。そういうことだろうか。
「それに何よりは勘助の件があります」
「…………」
「正直、如何にして兄上が勘助ほどの軍師を見つけられたのかが不思議なのですが……きっと聞いても教えては頂けないのでしょう?」
信玄は再び空に目を向け、そのままで信繁に問いかけた。
信繁は無言だったが、信玄も確認したに過ぎず、それ以上踏み込んではこなかった。
「父はその風采を嫌って軍議に出ることを許していませんし、私のそばに置くことにも不満を持っているようですが、
勘助の軍師としての才は虎泰にも匹敵するでしょう」
武田随一の軍略家として通る甘利虎泰。
信繁は、前世の信玄は信方に人として、虎泰に将としての何たるかを教わったのだと認識している。
虎泰は勘助を以ってして感嘆させる智将にして、戦場に出れば飯富虎昌と並ぶ剛の者として鳴らす猛将。
しかし虎泰をして勘助に勝てぬところがあると信繁は思っている。
虎泰が武田の宿将であることに対し、勘助は長らく他国を渡り歩いてきた。
北条や今川に士官を断られた過去はあれど、かつては安芸の武田家に仕え、畿内・四国・山陽・山陰を遊歴し、軍法軍略を会得してきた。
虎泰は武田軍を動かすことにおいては勘助に勝るが、他国の軍の動き方、動かし方については勘助には敵わない。
言わば武田の『内』と『外』。
それぞれの事情に長けた軍師。この型の違う2人の軍略家は、必ず信玄に良い変化を齎すと信繁は考えたのだ。
(何より安芸武田家に士官中、山本殿はあの毛利元就公の戦いを目にしている。
『謀神』とさえ称される彼の名将と直に相見えた山本殿の経験は、調略を駆使する武田信玄の糧になる)
毛利元就。
昨今、急激にその名を西国に轟かせる名将。だいたいは前世同様だが、彼の名将もまた女性であるらしい。
長らく山陽・山陰を治めてきた主家である大内家を上回り、つい最近、人質となっていた嫡子隆元を取り戻し、
さらに次子元春、三子隆景が元服し、その全員が各方面に優れた将として元就を支えている。
彼女だけではない。
東国は元より、西国もまた変化目まぐるしく。
筑前や豊後にては大友家、肥前にて龍造寺家、薩摩では島津家。この3大名を中心に九国でも勢力図が変わってきている。
(大友宗麟は前世同様にキリシタンに帰依してからというもの、少々傾注ぶり甚だしいとあるが……それでも大友家が九国一の勢力を誇るは、
やはり家臣団に『雷神』立花道雪を初め、高橋紹運らがいることであろう)
同じく龍造寺家に鍋島直茂を筆頭とした四天王が。
島津家は大友家や鍋島家とは違って当主貴久自身が優秀であり、彼の娘である四姉妹がこれまた優れた武将らしい。
毛利家と同じく、一門の力が強いという勢力である。
勘助がいた安芸とその周辺は、そういった勢力が興亡を繰り広げた地。東国とはまた違った戦い方もあろう。
それを知る勘助を得るということは、信繁にとって、信玄と武田家のために絶対に手放せない案件だったのだ。
「他にも、治水に長けた技術者、養蚕技術育成のために上野や下野にも度々留学の民を選出しているとか。
兄上は施政を行う上で、まずは人を得ることを前提にしておられるとお見受けします」
「……如何にも。さすがだな、信玄」
「兄上の妹ですから」
どこか誇らしげに信玄が笑う。それを見ていると、勘助を見つけるための苦労も報われる思いだった。
しばししみじみと感じ入っていた――そのときであった。
「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」
信繁は反射的に我に返り、信玄を注視した。そう、させられた。
視線の先で、信玄は空を仰いだまま。自分の言葉を自身自身に深く浸透させているかのように、静かにそこに在った。
目が離せない。引き寄せられる。心臓が早鐘を打つ。喉が鳴る。
ただの言葉。しかし、ただ、などと言うなかれ。
その言葉こそ、『武田信玄』その人を示せるほどのものなのだから。
武田信玄が精強な家臣団を作れたことも。甲州を日ノ本の列強と並ばせる強国にできたことも。
その方針こそが根幹にあったのだから。
「……信玄、それは……?」
「和歌のつもりなのですが……駄目ですね。どうも私には和歌の才能はないようです」
一句読んだだけのつもりらしい。
しかし信玄には悪いが、信繁には風流だの雅だの、そんな問題はどうでもよかった。
今自分が見たもの聞いたものは、まさに、武田信玄の武田信玄たる所以。武田信玄の持つ器量と才覚の一端。
このとき、信玄は意図せずして、信繁に決意させた。
(やはり武田家を率いるのは、武田信玄しか……この子しかいない)
そのためならば……信虎の追放が必須であるというのならば……!
「信繁様」
かけられた声に顔を向ける。
すると廊下の先に、いつからそこにいたのか、2人の将の姿が見えた。
その姿を捉え、信繁はそれだけで彼らが何故ここにいるのかを察することができてしまった。
「勘助。昌景も。何かありましたか?」
左目に眼帯をし、額の右側には痣のように皮膚の色が変色している、中年という年齢を超えて老年という段階に入ろうかというガタイのいい男と、
一方で腕白小僧とでも言うべきか、信玄くらいの年頃に見える、刀を背負う若武者。
つい先ほど話に出てきた山本勘助と、そして信繁が源四郎と呼んだ飯富昌景であった。
2人は揃って真剣な顔をしており、いつもならからかいの1つもしてくる若武者の方も、信繁にじっと視線を向けてくるだけ。
信玄が声をかけると、2人は静かに頭を垂れた。
「……お人払いを」
「……信玄。悪いが席を外してくれるか?」
「……わかりました」
信玄は勘助と昌景、そして信繁を交互に見やり、少し不満そうにしながらも頷き、信繁に軽く頭を下げてから歩き去る。
その姿が廊下の角を曲がり、その後も足音が消えていくまで3人は黙ったままだった。
やがて足音が完全に聞こえなくなると、信繁は2人に背を向けて歩き出す。
自室へ。そこで話を聞くつもりだった。
何も言わずとも、2人の将はその後をしかとついていくのであった。
――続く――
【後書き】
虎豊が誅殺された理由として、拙作では今川家の家督争いに敗れた者たちが武田に助けを求めてきたことに対して信虎が切腹を命じ、それに反対したとしています。これは資料によってはその通りとされていますが、他にも今話に記した、内藤虎資と共に駿河出兵に反対して直諫したことで信虎に誅殺されたという説もあります。拙作では後者を前世であったこととし、歴史が変わって現世の理由になったとしています。
内藤虎資についても同じですね。彼は戦死ではなく、誅殺されたというのが史実なので。
今話で信繁が語った破滅する将の4つのパターンは、甲陽軍鑑に記されてあるとされているものです。
北条高時については、後世そのように描かれたことによるもので、実はそれほど暴君・暗君ではなかったという話もあります。
後醍醐天皇に関しては私個人の考えです。『延喜・天暦の治』はかつて善政とされていましたが、最近では脚色された面が大きいというのが通説になりつつあるようです。とは言え、戦国時代ならまだ脚色されたままが通説状態なのだろうと思いますので、その通りに執筆しました。
上杉憲正は、暗君とまでいかずとも少々情けない将かなあと。
信虎と勝頼は強すぎる将の典型として上げられると思います。今回の4つのパターンはとあるサイトに書かれていたことを参考にさせて頂いていますが、そこでも勝頼は挙げられていましたしね。ちなみに憲正や氏真もそれぞれのパターンで上がってました。
毛利家に関して、拙作では戦極姫3の設定が強いです。なので隆元・元春・隆景の3姉妹と秀包が出てきます。まだ秀包は出てきていませんが。2の猫(?)たちは出てきません。ちょっと猫はなあ……と思いましたので。それを言うと信春の被りものや昌秀(現状は昌豊)のナルシストぶりはどうすんだって話になりますが。ちなみに信春は男女どっちにしようか未だ悩み中だったりします……どっちも捨て難いいいキャラしてますから。(笑)
龍造寺家も2でいくべきか3でいくべきか……。
まあ、大友家も含めて出てくるとしてもまだまだ先の話なので、今はとりあえず保留です。
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戦極姫を基にした二次創作ものです。 4話目になります。 |
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