戦極甲州物語 肆巻 |
自室に勘助と昌景を迎え入れた信繁。2人が入ると、廊下に座っている小姓に声をかけた。
「佐五よ。見張りを頼むぞ」
「はい、信繁様」
まだ元服を迎えてもいない、10を1つ超えたばかりの小姓。武家に生まれてはいても、その身分は武家としては最下級。本来なら武田一門の信繁の小姓などできる立場ではない。
だが信繁が『左五』と呼ぶこの少年こそ、前世で信繁が死ぬその寸前まで直衛を務めた山寺佐五左ェ門である。
彼をそばに置いたのは完全に信繁の独断であったが、この世でも彼は信繁に忠実で、信繁は身分を超えて弟のような感覚すら抱いていた。
この世においては信玄も信廉も信龍も妹。弟という存在が懐かしく思うせいかもしれないと信繁は苦笑混じりに思っていた。
左五が両手で静かに襖を閉めていく。閉じる前に廊下の左右を見やって人気がないことを確認した上で。
完全に閉まると、信繁は室内へ向き直る。
「さて……用向きを聞きたい」
勘助と昌景の2人が立ったままなので、信繁は執務のための机を脇にどかしてから座った。
それから手で小さく促すと、2人も一礼して静かに座す。
「……武田家の今後についてでございます」
少し遠回しな言い方を選んだのか、それとも一拍置こうとしたようだ。
そう読み、信繁は袖の中に手を突っ込んで腕を組み、そして目を閉じて少し考え込むような仕草を見せた。
「武田家の今後についてとはまたずいぶんと大きい話。それは話す相手が違うのでは?」
勘助と昌景。
これが板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌あたりの重臣級となるとまた違ってくるが、
勘助は信繁が見つけて登用した男であり、その風采もあって信虎からは嫌われ、その身は信玄付きの近習衆でしかない。
そして昌景も飯富虎昌という四名臣の1人の甥とは言え、まだ若く、重臣として扱われてはいない。
正直、この話をしに来る者としては半端な組み合わせと言わざるを得ない。
(いや、あながちそうでもないか……)
勘助も昌景もそれなりの立場ではあるが、影響力はまださほどではない。
正式な軍議の席に出られる立場であるのは、この3人の中では信繁のみ。
つまり、例えこの密議がばれたところで、信繁が2人を呼んで国政について意見交換していました、で済むかもしれない。
信方達ではそうはいくまい。そういうことなのかもしれない。
「信繁様でなければなりませぬ」
「……その方ら、謀反でも起こすつもりか?」
それに信繁に対して、という条件が付けば彼らはそれほど間違った組み合わせでもない。
それでも話が話。
信繁は内容が内容であるがために彼らの真意をまずは知らなくてはならず、事の重大性を考えれば彼らの覚悟の程を見極めねばならない。
時の世は乱世。下剋上の世。
勘助と昌景に限って……と思うが、信繁自身が2人を買っているからこその贔屓目であることは否定できないのだから。
「信繁様、これを」
「ん? 何だ、これは…………署名か」
勘助が懐から出した書状には、横につらつらと1人ずつ名前が書かれ、その下には赤い印――指紋があるところを見るに血判かもしれない。
横田備中守高松。
小幡山城守虎盛。
原美濃守虎胤。
秋山新左衛門信任。
多田淡路守満頼。
錚々たる面々の名が記されている。
だが勘助や昌景の名はなく、全ての名を確認してから、これが『重臣』に位置付けられている将のみの署名であることが推測できた。
より砕いて言うなら、軍議に出られる者、というところか。
勘助や昌景は軍議に出ることを許された身ではない。信繁と信玄は一門ゆえにすでに軍議にも出られる身であるが。
信廉と信龍はまだ出られない。
信廉は恐ろしいほどに信玄と似ている――よくよく見ればわずかな違いはあるが――し、年齢も同じなのだが、信玄の才覚と器量に比べるとどうしても見劣りし、軍議に出ることは許されていない。
信玄が出られるのは偏に信虎の信玄への期待の表れと言えよう。
(……ふむ)
信繁は顎に手をやりながら、じっと黙ってこちらを見ている勘助と昌景の意図を探りつつ、書面に目を向け続ける。
さて、署名で注目すべきは横田高松・小幡虎盛・原虎胤・多田満頼。山本勘助を含めて甲陽五名臣と後年並び称される将たちだ。
その全員が署名しているというのは大きな意味を持つ。
しかし。
「板垣殿・甘利殿・上原殿、そして我が傅役を務める虎昌殿が署名していないな」
「…………」
慣例的に、武田家中においては甲陽五名臣以上の、そして武田家最重臣級であると位置づけられているのが四名臣である。
その証拠とでも言うべきか、彼ら4人はいずれも名誉とされている傅役を務めている。
信繁には飯富虎昌、信玄には板垣信方、信廉には上原昌辰、そして信龍には甘利虎泰。
基本的に男には男を、女には女を、というのが習わしなので、信繁には虎昌と虎泰のどちらを充てるかで信虎も迷ったようだが、
結局今の形に落ち着き、そして信玄と信廉には女性である信方と昌辰が任ぜられた。
信龍に男である虎泰が当てられたのは……まあ、致し方あるまい。それに決して文句の出る人事ではない。
残り物には福があるというが、甘利虎泰ほどの人物。残り物と称するには、彼はあまりに有能過ぎる。
「この4人がいずれも名を連ねていないというのでは、この署名の意味も少々……いや、かなり下がるのは否定できまい」
「甘利殿と上原殿は前向きに考慮すると返事を頂いたのだがな……」
昌景が目を閉じ、眉を寄せて顔を顰めた。どうしてだという不満でも抱いているようだ。
その顔は、先日虎豊が殺された場で虎泰が浮かべていた渋面と被るものがあった。
口惜しい、と言いたげな顔だ。
その顔から、信繁は四名臣たちにも伺いを立てているのは間違いないことは確信した。
(父上がこれを知っている様子はない。だとすれば、虎昌殿たちも密告するつもりはないと見るべきか)
信虎のこと。
これを知れば家中の粛清も充分にあり得る。信繁を疎んじている信虎ならば尚の事いい機会だと。
虎昌たちもそれを危惧しているのかもしれない。
これ以上信虎が誅殺でもすれば、希少な人材がまたいなくなる。そして甲斐国での信虎の、ひいては武田家への反感を高めかねないと。
四名臣たちとしては、勘助や昌景たちへの配慮よりも懸念の方が強いのかもしれない。
だからこの一事だけで四名臣たちも味方であるとは考えない方がいいだろう。
そして信繁は項垂れる昌景には悪いと思いながらも、表情は厳しいままではっきりと指摘する。
「それだけではない。この血判状にはもう1つ欠点がある」
小山田・穴山両氏の名がない。
「甲斐を治めるにあたって、両氏の存在はなかんずく無視できない」
「けだし。さすがは信繁様でございます」
小山田氏は関東でも有数の豪族。
御坂山塊を境界線とした場合、甲斐西方の甲府盆地を中心とした地方を「国中」、富士山麓地方を「郡内」と称し、小山田氏は後者の郡内で武田家に匹敵する勢力を誇り、以前から度々武田家と衝突してきた。最終的に和睦し、信虎の妹が嫁いだことで武田家臣団に名を連ねているが、実質は臣従と言うより同盟関係に近い。
一方の穴山氏は武田家の庶流にあたるが、一度は今川方に属して信虎と刃を交えたこともあり、武田家にとって信頼できる有力な一門が欲しかったという理由もあって、信虎の次女である南松院が嫁いだ。しかし最近の信虎の行動に対し、穴山氏は態度を硬化させている家臣のうちの1人となっている。
「小山田氏の当主信有様は静観するおつもりのようで」
「静観と言うより、わしには虎視眈眈というふうに見えたぞ」
「口を慎むように」
小さく昌景が頭を下げる。その顔に宿る不満は相変わらず取り払われていないが。
だが信繁もそれ以上は咎めなかった。
彼の不満は偏に武田家への忠誠心が為せること。あの父の言動を前に、それでも忠義を尽くしてくれる昌景を武田一門として嬉しく思うのだから。
「穴山氏の当主信友殿の反応は如何様であった?」
「は。信友様はさすが賢明で、武田一門の誰も名を列していないのでは、旗頭がいない状態も同然と」
「そうか。信友殿とて一門扱いであろうに。自らが旗頭になるつもりはないということか」
「御館様への忠義もありましょう。しかし信友様も最近の御館様の言動に少なからざる懸念を抱いておられるのは確かでございます」
態度を硬化させていることがまさにその表れと言えよう。
直接諫言しても手討ちにされるのなら、間接的に抗議しようということだ。賢明な信友らしいと信繁は頷く。
家臣団の中で目下の懸念は小山田氏。そう考えていいだろう。
「話を戻しますが……信繁様。謀反を起こす心づもりであれば、わざわざこのようなものを揃え、ましてや信繁様にお見せなどいたしませぬ」
「あくまで武田家のためと?」
「左様」
「そのために私を利用するというのか?」
わかっている、だいたいの用向きなど。
だがわかっていても、それをこうして話を進めようというのならば、それがどれほどのものかを測らずにはいられない。
「利用という言葉のすべてを否定すること、手前にはできませぬ。
軍師は義や情より、理にて動くもの。このままでは武田家のためにならぬ。そう考えればこそのお話でございます」
勘助はきっちりわかっているようだ。こちらが試していることなど。
瞳を逸らすことも僅かに揺らすこともなく、信繁の視線を真っ向から受け止めていた。
――『謀神』毛利元就を相手にしたことのある勘助に、この程度の威嚇など何の意味も成さない。
それを察し、信繁は勘助からずっと黙り込んでいる昌景の方へと視線を移した。
「…………」
昌景はやはり何も言わない。だが見返してくる目はとても強く、伊達や酔狂でいるわけではないと主張していた。
勘助はともかく、昌景との付き合いは長い。おそらく家臣団の中では傅役である飯富虎昌と同じくらいに。
昌景は虎昌の甥であり、今は飯富の姓を得ている。信繁と昌景は、虎昌が信繁の傅役を務めた関係で出会い、3つ年上の昌景は信繁にとっていい兄貴分であった。そんな関係上、そして前世の記憶もあり、昌景は信繁が武田家中で最も信頼している家臣だ。昌景もまた信繁のいい兄として在り、そして臣下として、信繁を良く支えている。
だからこそ、昌景の視線を見て試すようなことは必要なしと悟ったのだ。
「話を続けよ」
信繁がそう言うと、勘助と昌景は一度互いに視線を交わし、頷き合った。
そして勘助が1つ咳払いをして切り出す。
「信虎様の行い、すでに甲斐国中に伝わっております。
山県・馬場・工藤・内藤の4家の領内では信虎様に対する不信が高まっており、穴山氏を始め国人衆らの中には武田家への態度を硬化する者も」
「……当然のことであろうな」
元々甲斐国は国人衆らの独立意識が強い。
武田家は彼ら国人衆らを配下に収めているが、彼らの棟梁という立場ではない。
国人衆らにとって武田家とは、与しておけば色々と有利であるという考えによる部分が大きく、自身らに害になると判断すれば敵対することも多い。
虎昌ですら一度信虎に対して反旗を翻したことがあるのだ。
甲斐における有力国人衆である小山田氏に至っては、もはや言うまでもない。
小山田氏と共に甲斐国で大きな国人衆と言えば穴山氏であり、武田家庶流として河内地方を領しているが、自立領主として大きな力を持っており、賢明な当主信友ゆえにすぐに謀反を起こすことはないとしても、このままの状態が長引けば武田家に反旗を翻す可能性はやはり否定できない。
「それだけではございませぬ。ここ最近、信虎様はまるで憑かれたように出兵を繰り返しておられます。兵も民も疲弊し、士気も盛り上がらず、始めから負け戦とわかりきった状態。このままでは信繁様や信玄様の配慮にも限界が訪れます。そうなれば国人衆の反乱の前に一揆が起こるやもしれませぬ」
「甲斐が内乱状態になれば、信濃の村上や小笠原、諏訪、木曽……奴らも間違いなく動いてくる。武田は内に外に敵を抱えかねん」
ようやく口を開いた昌景だが、そこにいつも弟をからかうかの如き色はない。
別人のように重く、昌景自身がその重さに耐えているように見えるほどだった。
「信玄の配慮か……それは信玄が出家したことだろうか?」
「然り」
「なるほど。そこまでは思い至らなんだな、私では」
『私では』を強調する。
勘助も昌景もその意味を察しているだろうか。いや、察しているだろうと信繁は半ば確信を持っていた。
「信玄のこと、けだしその通りなのであろうな。まったく……よくできた妹よ」
信玄が出家した理由と言えば、やはり信繁と信玄の家督争いを防ぐためというのが第一にあった。
だが勘助に指摘されることで、ようやく信繁は信玄の深慮が己の考えた以上のことであることを悟る。
信繁が甲斐の民を思って為している行動は、同時に甲斐の民の不満を抑えるためのものでもある。
信虎に直訴して徳政令を出してもらったのもそのためだ。
だが徳政令では完全に不満を抑えられない。特に徳政令により利益を失った者は。
その中に寺社がある。この時代、仏教を中心に神道や、最近では切支丹勢力も含め、宗教は大きな力を持つ。
民の生活にも深く浸透しており、寺社や民の不満が結託すれば一揆という形で領主に刃向かってくる。
信繁はそこにまで配慮が及んでいなかった。正確に言えばそこまで手を回す余裕がなかったと言うべきか。
それを、信玄は言わずとも察していたということだろう。
「信玄が出家することで寺社の不満は信玄を通して父上に伝えられ、信玄が寺に通うことで寺社としては領主の娘を預かっているという利を得られる。寺社勢力の不満を抑えるにはうってつけよな」
「それだけではございませぬ」
「寺社は民の生活と深く関わっていることで、民の声を直に聞く機会に溢れたところ。それに寺社は檀家を持っておるゆえ、その土地の有力者と関係を持っておるし、そこに住む民を記録しておる」
「情報を武田家に持ち帰り、今後の方策の糧としようとしているわけか」
思い返せば信繁の政務の手伝いを信玄は良く買って出ていたが、彼女の出す意見は参考になった。
先立つもの――金や人材が不足している中でも信繁の施策が微々たるものでも成果を挙げていたのは、民の声を直に聞いていた信玄ならではの意見あってのことなのかもしれない。
民の望んでいることがわかっているのだ。それを参考にして出した施策ほど民の受けがよいものもないだろう。
「ふむ。信玄ならば確かにそこまで考えていてもおかしくはないが……ある意味それは寺社勢力に己が身を差し出す行為に等しい。詰まるところ、人質……果たして信玄の自尊心がそれを許すのかどうかが常々疑問であったのだが……」
「…………」
人質など今の世では何ら珍しいものではない。
主家が属国となった国の領主から人質を取って謀反を防ごうとするのは常套手段。
政略結婚も言ってしまえば人質を送ることであるし、要はどれだけ忠誠を誓っているか、どれだけ信用しているかを示すための証なのだ。
人質となる者の立場が公的で、高い地位・重要な立場にあればあるほど人質としての価値は高い。
その理に従うなら、信玄の価値は確かに高い。長子信繁に次ぐ次子。
女子であろうと当主となれるこの世ならば、信玄は信繁に何かあれば家督が自動的に回ってくるのだ。
戦乱の世。いつ死ぬかなどわからない。次子など、家督が回ってくる可能性は多分にある。
信玄がそれを自覚していないとは思わない。むしろ自覚しているからこその行動であろう。
ただ、信玄はやや性格に難がある。
まず非常に負けず嫌い。
これは一概に難とは言えないが、武田一門としての誇りが関わってくるとまずい。
相手に侮られまいと、その話術を以って相手を伏せにかかる。その能力を以って、相手を下しにかかる。
そして自らの能力を凡人とはいかないまでも、普通と思っている点も問題で、『普通』の能力しか持たぬ、自身を下すこともできない者が武田を侮るなど片腹痛い……そう嘲るのだ。
もちろん、嘲りを顔に出す真似はしないが。
その信玄が、信虎や信繁に御家のためと命じられたのならばともかく、自ら人質になるなど簡単に認めはしないはず。
「――山本殿。貴殿の仕業か?」
「御意」
勘助が小さく首を垂れる。それは許しを請うているのではない。事実を事実と答えているだけだ。
不遜にも見える態度。こういうところが多くの家で士官を断られた理由かもしれない。
だが勘助のそうしたところは前世で知っているし、そうとわかって信繁は召し抱えた。いちいち怒鳴りはしない。
それでも信玄を利用したような行動はやはり信繁にはやや許せず、少しばかり語調が強くなるのは抑えられなかった。
「理由を聞こう」
「下々の者と接することで、信玄様の見識を広めることが1つ。信玄様のお望みを叶えるための手段であると思いましたのが1つ」
「信玄の望みとは?」
「兄上のお手伝いがしたいのだそうだ」
「…………」
ここにきて初めて、昌景がからかいを口にした。意地悪な笑みを浮かべ、声を押し殺している。
信繁は努めて昌景を視界から外して無視することに。
「何よりは信玄様に武田家を『外』から見て頂くためでございます」
外。つまりは第三者として、ということだろう。
「某、信繁様に召し抱えて頂く前は諸国を放浪しておりました。そうすることで得たものもございます」
「御家に仕えていてはわからぬものがある。そういうことか?」
「然り」
視線をしかと勘助に合わせる。
勘助はその視線を正面から受けていた。そこに動揺している色はない。
少し固い表情なれど、勘助の場合、常がそのような顔なので無理に無表情を決め込もうとする方こそぼろが出てしまいかねずというところか。
「しかしながら信玄の配慮も虚しく、民心は武田より離れるばかりか」
「期待があった分、民の落胆もより大きいものとなったのやもしれませぬ」
昌景は口惜しいとかすれた声で吐き捨てたが、その一方で勘助は淡々としていた。
その風采もさることながら、勘助のこのどこか第三者としての、他人のような雰囲気にも、多くの士官先が彼を受け入れなかった理由なのかもしれない。
だが信繁はそれでこそと受け入れていた。
客観的に考えよとはよく言われるが、本当に自身の立場を思考から除去して第三者的にものを見るのは実に難しい。その点、実際に『外』を体験するのは確かに効果的かもしれない。
武田家随一の軍略家たる甘利虎泰との違い。武田の『内』と『外』の件は、ここでも通用する。
武田家に染まっていないからこそ、勘助は武田贔屓の視線にならず、客観的な立場に自らを置くことができるのだ。
……と、いうのは信繁もわかっている。だが。それだけでないことくらい、わからない信?ではない。
「父上に対する信玄の思慕を切り崩すつもりか、山本殿?」
「…………」
ここにきて信繁は勘助を初めて睨みつけた。試そうというのではなく、本気で不快だと示すために。
勘助は頭を垂れるだけで否定はしない。
信玄は信虎を父として慕っている。それはそうだろう。信繁とは違って、信虎は信玄を愛したのだから。
だから信玄は信繁とは違って、信虎を追放しようなどと考えていないし、信虎はきっと立ち戻ってくれると信じている。
それを勘助は『甘い』とし、家の外から信虎と今の武田家を見せて教えようというのだ。
情も過ぎれば仇となる、と。
前世の武田信玄ならばその必要はなかった。
前世では信玄こそが信虎に疎まれ、それゆえに信玄は信虎を父子の情を捨てて考えることができた。
だが現世ではそうはいかない。
愛情を持って見てくれる父を、どうして嫌えと言えよう。
「…………」「…………」
しばしお互いに言葉を発さず。張り詰めた空気が一触即発の危険を漂わせる。
ここで相争っても致し方ない。信虎の行いがために揺らぐ武田家と甲斐をどうにかしたいと願いながら相争っていては本末転倒。
そうとわかっていても、両者ともに引き下がらなかった。
信繁とて勘助の軍師としての立場はわかるが、心優しい信玄の考えをまるでこちらの思惑に誘導するかの如き言動は許し置けるものではない。
勘助は相変わらず頭を垂れたまま。それが『不満ならこの首を落として頂いて結構』と言っているかのようで。
それもできず、さりとてこちらから許すこともできず……そこで横から昌景が入ってきたのは僥倖と言うべきか。
「信繁様。勘助の言を不快に思うは道理。しかし信玄様がそれを理解しておられなかったわけではない。
この提案、板垣殿もそばにおられた上でのことで、板垣殿も勘助に苦言を呈された」
「昌景殿。それは重要ではない」
鋭い信玄のことである。信方がおらずとも勘助の提案の真意も察していたかもしれない。
だがこの際、それは重要ではないのである。信繁にとっては。
信玄が理解していようがいまいが、納得していようがいまいが、結果としてこちらの思惑通りに信玄を動かしたという事実が捨て置けないのだ。
昌景は口を噤んだ。乗り出していた身を下げ、口を引き結ぶ。
「恐れながら」
それでもまたの無言の応酬とはならなかった。勘助が頭を垂れたままで口を開いた。
「信繁様はご自分のお立場を理解されておいでであると某は見ておりますが、如何に?」
「……父上が私を疎んじておられることは理解している」
「その理由も?」
「勘助! 言葉が過ぎるぞ!」
「よい、昌景殿」
「信繁様、だが……!」
「よいのだ」
もうわかっている話。今更落ち込みはしない。
悲しいと思わないわけではないが……悲嘆に暮れるだけの段階など、当の昔に越えている。
膝を立てて勘助を止めようとする昌景を制し、信繁は続けた。
「私がやっていることが不愉快なのだろう。それは然り。父上のやること為すことに異議を申し立てているからな」
第一の理由ではない。これは所詮、後からついてきた理由に過ぎない。
気に入らない人物が口を挟んできたら鬱陶しいと感じるのは、人間誰しも思うことであろう。
気に入らない。そう思われている第一の理由は、何より――
「何より、父上が後継者に据えたいのは信玄であろう」
昌景が信繁から顔を逸らした。苦々しい顔である。それは本来、信繁が浮かべるものであろうに。
そのおかしさに、信繁は内心で笑わずにはいられなかった。
が、しかし。
対して勘助はまったく動じなかった。むしろ何かに確信したかのように、一際眼光強く、信繁を射抜く。
「信繁様は武田家当主におなりになる覚悟はありや?」
そうはっきりと疑問をぶつけてきた。信繁が少し面食らって言葉を失くしてしまうほどに。
まるで責めているようにも聞こえる。
その真っ直ぐな、不躾とも取れる問いに、昌景もしばし呆気に取られたようで発すべき言葉を忘れたようだった。
この質問、下手に答えることはできない。
信繁が信虎に疎んじられていることは、もはや武田家中の大勢が知ること。
そして信虎が真に跡継ぎに指名したいのは信玄。
であるにも関わらず、信繁が武田家当主になる覚悟があると答えれば、それは信虎との明確な対立を意味する。
それはそのまま、今まで避けてきた最悪の事態を覚悟しなければならぬということ。
かと言って当主になる覚悟はないなどと言ってしまえば、武田一門として、そして嫡子として、あまりに情けない。
長子がこれでは、傅役である虎昌は責任を取らされることも避けられないであろう。
目の前にいる昌景にとって虎昌は叔父。信繁にとっても虎昌は忠臣。彼の傅役としての忠を無視するわけにもいかない。
考えが鬩ぎ合い、結局信繁は答えられないままだった。
2人の様子に、勘助は構うことなくそのまま言葉を続ける。
「某、以前より不思議に思うておりました。
信繁様、御身は類稀なる智勇を備えておられながら、それを自覚されておられながら、なぜか前へ出ようとなされませぬ。
家臣を大事にし、信じる家臣に仕事を任せて手柄を上手く分散させ、戦でも諸将や兵をお気遣いなされる」
「…………」
「もちろん、手前もそれを否定は致しませぬ。家臣を重用するは、大きな家を支えていく上で肝要でございますれば。
されど今の世は下剋上。ただ優しいだけの将では、家臣に侮られかねませぬ。
特にこの甲斐国は独立意識の強い国人衆が多く、これを従えるには彼らが認める『強き将』であることが殊更求められると愚考いたします」
「信有殿が署名しなかったのは私の性向に原因があるということか」
勘助の言を、信繁は腕を袖に入れて組んだまま、目を閉じて聞いていた。
勘助の言うことに間違いは……ない。
確かに信繁は前へ出ようとはしていない。
それは信虎に疎んじられているからで、専らあまり信虎を刺激しないようにするためであった。
それが小山田信有の態度に繋がっている可能性は高い。
信虎の気性の強さは、独立意識の強い甲斐の国人衆をまとめることに一役買っているのであり、その信虎に慣れた国人衆たちにしてみれば、信繁の優しさが弱さと受け取られても何ら不思議なことではないのだ。信虎に辟易してきた国人衆たちの中で野心がある者ならば、次の当主が優れた信玄より見劣りする信繁を当主にさせ、その上で反旗を翻すという方策を練るであろうことは想像に難くない。
しかしながら、信繁はどこか無意識のうちに前に出過ぎることを避けてはいなかっただろうかと、ふと疑問を持った。
(……やはり私は、将としての器はあっても、当主としての器はない)
その答えは至って簡単なこと。信玄との話の時も思ったことだ。
信繁は武田信玄という主君に忠誠を誓い、弟として兄を支えることに特化してきた。
『武田の副将』。
前世において生涯を信繁が貫いた立場であり、役割であり、在り方であった。
例え現世の信玄が無能であったとしても、信繁は信玄を支えることに注力したかもしれない。
武田信繁という魂に刻まれた姿は、世が変わっても、いい意味でも悪い意味でも健在であるということか。
勘助は、それを的確に見抜いていた。
副将としてなら信繁は非常に優れている。だが当主としては物足りない。その原因は在り方にあると。
「某の登用に関しても疑問がございました。
信繁様がどこで某如きのことをお知りになったのかは存じませぬが、わざわざ駿河にて今川家への士官を断られるや否やのお誘いでございました。
にも拘らず、信繁様が命じられたのは信玄様のお傍にお仕えすること。なにゆえ、信玄様でございましょうか?」
「信玄では不満か?」
「いえ、光栄でございます」
即答だった。そして勘助は今の立場すらももったいないと思っているようだ。
牢人でしかなかった身が、北条や今川など、数々の家に士官を断られてきた身が、いきなりあれほど優れた将器の持ち主に仕えられたのだ。
これをもったいないと言わずして済ませることができようか。
しかし疑問は晴れない。なぜ駿河にまで使者を放ってまで勘助を呼び寄せた信繁が仕える主ではないのか。
「逆にお聞きしとうござる。信繁様にとって某はそばに置くには不服でございまするか?」
「不服を抱くようなら、信玄に仕えよなどとは言わぬ」
「そうでございましょうな。某より優れた者がいても、信繁様は信玄様に仕えよと言うのでしょう」
もうわかっているのだろう。いや、始めからわかっていたのだろう。
これまでの問答は、勘助にとって確認するためのものでしかなかったのだ。
試しているのはこちらではなく、勘助の方だったか。信繁はしてやられたものだと痛感した。
「信繁様は、信玄様こそ当主に相応しいと、そう思っておいででございまするか?」
「その通りだ」
だからこそ、この質問に信繁は迷うことなく答えることができた。
今更誤魔化すことに意味はない。これまでの問答がそれを物語っており、改めて表明しているにすぎないのだ。
だがしてやられてばかりの信繁ではない。
「随分と回りくどいな、山本殿。私を怒らせてしまうことはやや失態だったのでは?」
「……やもしれませぬ」
要は今の答えが聞きたいがための今までの問答。
信繁としては最初に単刀直入にとでも前置きすればよかったものをと思ったが、勘助は勘助なりに考えがあったらしい。
すなわち、信繁は聡明なのか愚者なのか。肝が据わっているのかいないのか。
信玄の力量を見抜けているのか。
見抜けていないのなら所詮そこまで。見抜けているのなら、その上で信玄に対して敵愾心や嫉妬心があるのかどうか。
あるのなら家督争いを本格的に懸念せねばならないし、ないのならばそこでさらに信繁を試さねばならない。
家督を狙う気がないのは、単に諦めているだけか、謀あってのことか。
「1つお聞きしたく」
「何だろう?」
「いつから某の意図にお気づきで?」
「これを見せられたときからだな」
そう言って信繁は膝に置いていた署名の書状を掲げて見せる。
つまりはほとんど最初からということ。すると珍しいことに、ここにきて勘助が眉を動かした。わずかに口が開く。
もしかすると驚いているのだろうか。
勘助ほどの鉄面皮の相好を崩させたことが、信繁には何だか愉快だった。
一方の昌景はと言えば、どこか誇らしげだ。まるで自分のことのよう。
それもそのはず。昌景は確かに誇らしかった。信虎以上に忠誠を誓い、支えると決めた主である信繁の深慮と聡明ぶりが証明されて。
「そんなに驚くこともないだろう。山本殿はこれを差し出した際、『これを』と言っただけで、何の署名かについては一切口にしていない」
そもそもにして『署名』であるとすら言っていない。
これは単に重臣級の名を記し、血判を押しただけのものかもしれないのだ。もっと言えば血判なのかすら怪しい。
信繁が署名かと推測して口にし、そしてそのまま話が進んだだけだ。
「まあ、さすがに私も最初からすべての意図を察していたわけではないが」
「では、どこまでお察しなのでございましょうか?」
「話の流れから、信玄に関することなのだろうというのは確信している。これに関しては2人が話しかけてきた時点で推察できた」
武田家の今後を決めるのなら、信玄はむしろいた方がいいだろう。信玄の聡明さは勘助も昌景もわかっているようだし、尚の事。
なのに信玄すら人払いで遠ざけた。つまり信玄には聞かせたくないということ。
そうなると自ずと話の内容は絞られてくる。
淡々と推察を述べる信繁を、勘助も昌景もただ黙って聞いていた。
「信玄が慕う父上のこと、信玄が身を引いた家督のこと、信玄が心配する者たちのこと……いくつか考えつく。だがこの書状を見せられたことで、大方の察しはついた」
この書状、そして記されてある名。
これが本当に署名や血判状なのか、その真偽はともかくとしても、その意図するところは明らかである。
「甘利殿と上原殿は署名に前向きとのこと。ならば四名臣で残るは虎昌殿と板垣殿。この2人の名がなく、山本殿と昌景殿も2人の態度については言及なしという時点で、私と信玄のことを指しているのは明白」
信繁と信玄の傅役。その2人の名前がないのは意図的なものが感じられるのだ。
書状が署名や血判状として真なるものであろうが偽なるものであろうが。
真なるものなら、先ほどの昌景の様子から四名臣に署名嘆願に伺っているのは間違いないだろうから、そうなると虎昌と信方も何らかの意図があって署名をしなかったのだろう。
偽なるものなら、勘助か昌景が故意に2人の名を記さなかったのだろう。
どちらにしても『意図的』であるのは疑いようがない。
「山本殿。これの真偽や如何に?」
「は。真のものにて候」
「そうか……ならば虎昌殿と板垣殿は署名を渋ったか断ったのだな」
「如何にも」
ならばもはや勘助と昌景が訪ねてきた理由をいちいち聞く必要など信繁にはなかった。
「私と信玄。家督に関わることだな」
信虎をどうにかして当主の座から下ろすこと――それがすでに前提とした話であるということになる。
「父上が武田家当主に在り続けることには反対……それが武田家臣団の総意か」
「は」
少しだけ胸が痛い。信繁は閉じた口の中で歯を食いしばった。
胸中は複雑なれど、信繁はそれをどこか他人の視線で捉え、嘲っていた。
先ほど信玄と話し、そして信玄こそが当主に相応しいと再確認したとき、同時に覚悟を決めたはず。
すなわち、計略を用いてか武力を用いてかに関わらず、信虎を武田家当主から引きずり下ろすことを。
覚悟をした身で、なお父を追い落とそうとすることに躊躇を覚えているが如き痛みを覚えている……それは実に、見苦しい。
子が父に従い、盛り立てるが『忠』であり『孝』である。武士の習いである。
裏切りは恥じるべきこと。
然れども!
過ぎた『徳』は害悪にしかならぬ。
冷たいだけでは人はついてこないように。
優しいだけでは人に侮られるように。
世は戦国乱世。下剋上が罷り通る時代。
(さりとて、それが武士として恥ずべき行いであることを忘れてはならぬ)
どんな理由を並べ立てても、『忠』『孝』の理念を汚す行いであることを忘れてはならない。
かつて『兄上』が、理由があるとは言え、他国からは不忠者・不義の体現者と罵られながらも国を率いたように。
『兄上』は決して開き直っていたのではない。自らの人生の中で犯した『咎』として、生涯悩み苦しんでおられたと推察している。
その証として、『兄上』は『忠孝』を説く『論語』を手に取ることはなかった。自分にこれを口にする資格はないからと。
彼が出家したのは、そういう意味もあったのではないか。
『甲州法度之次第』にて、自らも法を破れば法の下に処断される対象とされたのも、自らを戒めるためではないか。
そこまで考えて……考えることをやめた。
「……すべては自己満足か」
「信繁様?」
「気にするな、昌景殿。ただ、論理で自らの行動を正当化しようとすることこそ愚かと思うただけだ」
「……そうか」
やめよう。
敬愛する『兄上』を引き合いに出してまでやることではない。自己正当化など。
自分はこれから父を裏切る。父を追い出す。
その行為を、『忠孝』に反しているがこの場合は例外である、と言いたいが如き論理の組み立てなど、それこそ醜い。
正しいと信じるならばただただ為せ。言い訳は不要。為してその結果を受け入れよ。
(切腹と命じられれば切腹する。その覚悟など、武田家一門として、武士として、当の昔に決めておるではないか)
それこそ前世から。
信繁は1つ大きく深呼吸をして……今だに胸中にて渦巻く醜さを、呼気と共に吐き出す。
「……して、山本殿」
「――ははっ」
勘助の反応は早い。返事と共に頭を垂れた。
勘助をして、そうせねばならぬと反射的に思うほどに。昌景をして喉を鳴らすほどに。
信繁は、今確かに、1人の将としての風格を漂わせていた。
口調が変わったわけではない。呼び方が変わったわけでもない。表情が消え失せたわけでもない。
ただ、気を抜けばすぐに意識を持っていかれそうな、それほどの覇気が発せられているだけだ。
それだけに過ぎないというのに。
勘助は信虎にさえ感じなかったほどの圧を感じていた。一回り以上歳を食っているというのに、その身は頬に汗を垂らしている。
「この署名の血判状は、信玄が家督を継ぐべきだとの意見の下に集ったものかな?」
「そこまでお分かりで……」
「ふふ……信玄がどれだけ優れているのかなど、私が一番よく知っていると自負している」
勘助も昌景もその言葉を否定するどころか、疑問視することもなかった。
目を閉じて小さな笑みを浮かべる信繁は、疑問を挟む余地すら感じさせないのだ。
信玄は確かに信繁以上の才覚と器量を持っている。
勘助や昌景のみならず、この書状に署名した者、しなかった者たち双方の、すなわち全家臣の総意である。
しかしながら、この信繁もまた、こうして時折有無を言わさぬ将としての才気を発するのである。
(……信玄様でなくとも、信繁様でも、武田家は間違いなく発展する……!)
信繁は将としての器はあっても当主の器はないと考えているが、勘助たちはそう思っていない。
信繁にもまた当主としての器が備わっている。きっと信玄とはまた違った武田家を作っていけるだろう。
だからこれは比較の問題だ。信繁がいいか、信玄がいいか。
家臣たちにとって、これは決して初めから一択であったわけではないのだ。
どちらも優れている。どちらも当主として申し分ない。ただ、信玄の方が上であるというだけ。
家臣たちにしても、家督争いなどで失いたくないのだ、この2人を。
2人が手に手を取って武田家を盛り立てていけば、天下統一すら夢ではない――そう思わせるだけの存在なのだ。
決してそれは不可能ではない。兄弟姉妹は必ず家督争いをするというわけではないのだ。
島津を見よ。
兄弟姉妹が手に手を取り合って家を盛り立てていく例は確かにあるのだ。
島津にできて、武田にできぬ道理はない。
「山本殿と昌景殿は何を以って信玄を推す?」
「もちろん信玄様の才覚と器量は理由としてあるのだが……」
「何よりは、信玄様の覇気を、この身で鮮烈に感じたことが決め手にてございます」
「ほう。信玄の覇気を見たのか。して、それは如何な状況だったのか?」
「皮肉にも、信繁様に関してのことでございまして」
勘助と昌景はその時を思い出す。
2人は信繁の下に来る前、信玄に家督のことについて伺いを立てたことがあった。
やはり信玄を推すには、当人の真意を知る必要がある。信繁に家督を譲るよう願っても、信玄がそれを辞すれば意味がないのだから。
だがそのとき、信玄ははっきりと、2人を睨み据えて言ったのだ。
――『控えよ、無礼者! これ以上兄上を侮辱するは許しません! 例え兄上が兄と呼ぶ昌景と、兄上が認めた勘助であろうとも!』
信玄は信繁こそが当主に相応しいと思っているからこその怒りだったのだろう。兄である信繁を慕い、信繁こそが当主になると信じているからこその。
だが皮肉にも、その覇気こそが、信玄が当主に相応しいと勘助と昌景に改めて知らしめた。
あのときはただただ平伏し、謝罪するしかなかったと、勘助と昌景は息を吐きながら語った。
その様子に、信繁は2人には悪いながら、しかしそうなって当然だと得心するのである。
「にしても信玄め。自覚のなさにも程があるぞ。できた妹だが、どこか抜けているな。それは愛嬌として済ますべきか否や?」
「少々答えに悩む問いにございますな」
「信玄様の信繁様への信頼と思慕の情は、幼少の頃より変わらぬからな。いや、むしろ高まるばかりか」
勘助までもが口元を緩ませ、3人で声を上げて笑う。
すると襖を挟んだ先にいる左五の影が何やら大きく動いた。どうやら3人が笑い出したことで何事かと驚いたようだ。
信繁は1つ咳払いをし、勘助と昌景もまだ少々笑い足りなさそうながらも笑いを止めた。
「板垣殿が署名していないのは……おそらく、板垣殿が信玄の傅役であるがゆえ、署名すれば贔屓目のように思われかねないとでも考えたのではないかな」
「恐れながら申し上げれば……板垣殿もまた、信玄様を奉じたいものかと」
「虎昌殿同様、傅役を務めた上げた板垣殿だ。信玄こそを推したいのは当然であろう」
「だが四名臣が割れてしまうようでは、それこそ家督争いが本格化してしまいかねない。それゆえに中立の立場を取らざるを得ない。それが板垣殿を始め、四名臣の方々のお考えのようだ」
「賢明だろう」
きっと虎昌・信方・虎泰・昌辰の4人が必死で家督争いとなることを水面下で防いでいるのだろう。
独立意識の強い甲斐の国人衆。その中で、彼ら自身も有力な国人衆であるにもかかわらず、ただ武田家への忠義を全うしようとしてくれている。
亡くなった4将に決して引けを取らぬ忠義の士であろう。
「目下の問題は御館様のことですが、それが片付いたとして、次に問題になるは信繁様と信玄様のどちらが家督を継がれるかにございます。信玄様がお継ぎになられるつもりがあるにしてもないにしても、どちらにせよ信繁様の存在は家督争いの要因となりえます。我らがここに来た最大の理由はそこにありまする」
「聞こう」
「は。無礼千万甚だしきこと承知の上で申し上げまする……!」
「信虎様の問題はある。しかしそれが解決の目途の立った暁には……!」
勘助と昌景は、揃って下がり、そして床に額を付けて深く土下座して――
――信繁様、どうか……御身の名を辞し、姿をお隠し頂きたい。
そう、告げたのだった。
――続く――
【後書き】
ご指摘を受けておりましたが、ここしばらく重い話が続いたので、次は少し軽く読める話を挟もうかなと思います。
さりとて幕間というわけではないので、ストーリーの筋からちょっと離れて、というわけにはいきません。今話の続きでありつつ、和みのある展開を以って進めていくという形で。
武田信玄公が論語を引き合いに出すことはなかったというのは、甲陽軍鑑の品第12にある利口過ぎる大将について記された中で明かされています。拙作でも前話で破滅する将の典型として出したものですね。
今回作中にて記しましたが、私は信玄公が出家したことや論語を引き合いに出さなかったというのは、如何なる理由があれ自身の父親を追放したということに対して罪悪感を抱いていたからではないかなと思います。時折信玄公は父を追放した薄情者だとか、凋落などを用いた邪道の将とか、そういう風に捉える方もおられますが、私は清濁併せ持った人格者だったのではないかなと。まあ、甲陽軍鑑に記されている信玄像通りであるのなら、ということになりますけれど。信繁公ほどの将が忠誠を誓った相手ですからね。如何に父から冷たく扱われたとは言え、父を何とも思わずに追放して武田家当主の地位を奪った者に、信繁公が命を懸けてまで仕えたとは思い難いと思われませんでしょうか?
私は性善説より性悪説で物を見る人間ですが、それでもこの兄あってこの弟あり。この弟あってこの兄あり。信玄公と信繁公にはそんな言葉がよく似合うと絶賛してしまいますね。ホント、道徳の授業で取り上げていいんじゃないかと私は思います。(笑)
そう言えば今話あたりで気づかれた方も多いと思いますが、山県昌景に関して、拙作では信繁より3つ年上ということにしています。原作戦極姫においては信繁(颯馬)よりはるかに年上の、山本勘助と同じくらいと思われる設定のようですが、史実では昌景は信玄の3つ年上らしいので。また信繁が頼りにする人物がほしいと考えたとき、原作キャラの中で該当する人物は昌景以外に適役がいないと思えましたので。この場合、内藤昌秀も昌景から『古典厩信繁、内藤昌豊こそは毎時相整う真の副将なり』と言われる程の人物なので信繁と並ばせるに適当かと思いますが……まあ、原作であの性格ですし、現時点では昌秀は父が誅殺されて関東方面に身を隠している時期ですから。
私は構想の中で信繁の『兄貴分』と『親友』の2人を用意しましたが、その『兄貴分』が昌景ということになります。もう1人の『親友』に関しては原作キャラと関係のある人物ですが、とりあえず今はまだ出てきていません。
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戦極姫を基にした二次創作ものです。 5話目になります。 |
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戦極姫は謙信が好きだけど、シナリオは武田ルートが1番好きなんだよなぁ……。続きが楽しみです。(夜の荒鷲) | ||
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