戦極甲州物語 膝巻
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 紙に筆を走らせる。

 本人は達筆とは思っていないが、第三者から見れば目を惹かれる整った字体である。迷いなく素早く引かれた直線は乱れなく、曲線はゆったりと、撥ねは勢いよく、点はどんとした存在感がある。一言で言い表すならば、老成。筆の名手と称される者たちの字と比べれば色々と指摘される点はあれども、その字は1つの熟練された形を持っていた。

 時折筆に墨を付けつつ、無言のままで彼は最後まで書を書き上げた。そして最後の一字を書き終えると、物音1つ発さずに筆を置き、書を最初から見直していく。誤字脱字がないか、文章的におかしいところはないか、推敲を重ねる。

 この書は公文書の類だ。ここから発した時点で効力を持ち、相手の手に渡ればそのまま相手の権利を証明するものである。武田家の政務における最高職である『職』が認めることは、武田家が認めるも同義。ゆえに解釈が幾らでもあるような文章ではならず、抽象的な文言を入れればそれすなわち悪用される要因となる。誤字脱字も場合によってはとんでもないことになりかねない。それゆえに推敲は重ねに重ねねばならず、間違いがあれば最初から書き直すことになる労よりも、彼にとってはよほど気を遣う作業だ。書き直すだけで済むならその方が断然いいくらいに。

 

「…………うむ」

 

 微動だにせずに目だけで文章を追っていたが、最後まで読み終わると1つ声に出して頷く。

 そして彼は袖を少しだけ捲りながら筆を取り直し、その先に墨を付けて、書に最後の一筆を入れる。それまでより書く速度は遅く、字の一文字一文字に力を込めて。

 

――甘利備前守虎泰

 

 そう記し、その下に印を押す。

 完成した書に満足げに一息つきつつ、筆を置き、静かに手を叩いて。

 

「誰ぞ。誰ぞおるか?」

「――はっ、ここに」

 

 障子が開き、小姓が1人顔を覗かせた。

 小姓は老将より祐筆にその書を3枚ほど複製するように伝えよと申しつけられ、厳かに書を受け取った。小姓は大事にその書を折り畳み、一度それを掲げて老将に礼をしてから襖を閉じ、廊下を足早に擦り歩く音を残して向かっていった。

 とりあえず一仕事を終えた老将は再び静かな空間となった部屋にて、小気味よい音を鳴らせつつ首や肩を解す。しかしその顔は顰めっ面だ。

 

「……歳かのう」

 

 口にせずとも老将も自身が老いていることなど百も承知の上。しかし彼も男。まだまだ前線に立つ覚悟はあるし、御家のために命を捨てる腹括りなど当の昔に終えている。

 だがこの体は、確実に衰えていく。どんなに鍛えても、どんなに励んでも、どんなに気張っても。その度に自身の老いを痛感させられる。それが歯痒くてならない。この程度の激務、若い頃にはそれこそ1人ででも片づけてきたというのに、今では信方や信繁の力もないと片づけられないときている。愚痴が零れるのも致し方ない。とは言え、愚痴自体が最近はとみに多くなったこともまた事実。老将は無意識に出てきた愚痴に溜息を吐かずにはいられなかった。そして今度は溜息に対して機嫌を損ねるのである。堂々巡りであった。

 

「甘利虎泰も老いたものよ。この程度で根を上げてしまうとは……」

 

 

 

 

 

 そう、この老将こそ、武田家を政治・軍事・経済など各方面にて支える智将にして、戦においては『甲山の猛虎』飯富虎昌と並ぶ猛将、甘利虎泰である。

 

 

 

 

 

 武田家きっての軍略家でもあり、諸国を見て回った勘助をして感嘆させる智謀を見せ、信繁や信玄ら武田一門にも軍略の何たるかを教えた。武田四名臣の1人であり、四名臣の中でもその存在感は未だに衰えず、何かと虎昌・信方・昌辰にも指示を仰がれるほどである。武田家宿老中の宿老と言えよう。

 

「いかんいかん。こういうときは気分転換でもして――」

「甘利様、ご在室で?」

 

 すると障子に1人の影が映り、その人物から声がかけられた。透き通る……という若さはないものの、落ち着きを持った声だった。虎泰をして機嫌の悪さを宥めてくれる効果があるような。虎泰の経験則上、こういう声を持つのはある程度の歳を重ねた女性だけだ。妙齢、という言葉が適当だろうか。もちろん歳を重ねればいいわけではない。そこに至るまでの年月を感じさせる落ち着きゆえに。

 

「甘利様?」

 

 ついついそんな持論に耽ってしまい、返答を求めている影からさらに声がかかった。虎泰はまたもや歳を感じさせるが如き自らの無意識の行動にどうにもならんなとある種開き直りつつ、入室を許可した。

 襖を開き、1人の女性が小さく会釈をして入ってくる。後頭部にて長い髪を束ねてまとめ、弓道の装備にも似た胸当てを付けている。着物も弓道着のような簡素なもので、洒落っ気というものはまるで見られない。だがそんなものは必要ないほど、彼女の楚々とした動きには目を惹かれ、何より彼女の美顔はいつ見ても感嘆の息が漏れる。何やらいい匂いがすると思ったら、彼女の手には小さな盆。そこには2つの湯呑と茶請けの羊羹が。しかも虎泰が好物とする栗羊羹である。ついついそこに目を向けてしまう老将に、彼女は気付いて小さく笑った。その笑い方も口に手をやってと品があり、どこか噂で聞く花の都における公家の如く。

 

「お疲れでございましょう?」

「上原殿。ここは我が屋敷。そのようなこと、我が家の者に任せればよいものを」

「私がしたかっただけのこと。お気になさらず」

「いやはや、上原殿の気の利きようにはほとほと感心いたす」

「恐れ入りますわ」

 

 虎泰は虎昌や信方にも厳しいのだが、そんな虎泰をして褒め一辺倒になることが多いのが、この女性――四名臣が1人、上原昌辰である。

 もちろん、贔屓しているというのではなく、彼女の行動が褒められるものだからである。別に虎泰とて怒ってばかりではないのだ。

 そんな昌辰は机を挟んで虎泰の対面に座り、虎泰が机上の書や硯、筆を脇に仕舞うのを見て、そこを軽く拭いてから茶と羊羹を置いた。その仕草もまた、いちいち年季を感じさせる。将などしているよりも、主人に代わって家を守る奥方の鑑のようである。虎泰はそれが1人の将である昌辰に失礼とは理解しつつもそう思ってしまう。

 

「北の勇、最上の家にも氏家定直なる者がおると聞く。その者、実によう気が付き、備え怠らず、人が望む1つ2つ先のことまでも配慮が行き届いておるそうじゃ。最上の氏家の名が聞こえておって、何故武田の上原と世には広がらぬのかのう……」

「もったいなきお言葉」

 

 何がもったいないものか。そう虎泰は言いたい。

 この昌辰を一言で示すなら、まことに『もったいない』であろう。

 彼女の謙虚さは長所であるが、同時に欠点でもある。この気づきの良さは戦場でも幾度も発揮され、特に守戦において昌辰は他の将より優れていた。相手の手を読み、先んじて対応してしまうことでその手を潰してしまう。

 ところがこの昌辰、武田四名臣に数えられながら、しばしば他家からは無視されがちなのだ。飯富虎昌・板垣信方・甘利虎泰までは答えられても、もう1人が出てこないというふうに。地味な活躍、というのが原因なのかもしれない。確かに武略一辺倒の信虎の配下にあって、虎昌・信方・虎泰は猛将としても知られているが、昌辰は猛将とは確かに言い難い。守戦に優れているという点からも、攻撃こそに比重を置きがちな甲州武田騎馬軍団においては目立ち難かろう。しかしそれを差し引いても、昌辰は手広く手掛け、文化人としても技量に溢れている。実際、武人というより文化人としての能力が高い信廉の傅役としてはこの上ない適役であったし、信廉の能力が向上しているのも昌辰によるものが大きいだろう。

 

「最近の若い衆は見る目がなっとらん。飯富殿も板垣殿も然り」

「そうですか? あの2人はなかなかの目を持つようになったと思いますが」

「いやいや、まだまだ」

 

 虎泰は厳然と答えながら羊羹を口に運んだ。

 無愛想に咀嚼する虎泰を見ながら、昌辰は厳しいことですねと答えながらも、内心では律儀な人だと笑いを堪えていた。

 虎泰が本当に認めていないのなら、そんな相手に『殿』を付けて呼びはしない。彼は年上だろうと年下だろうと認めているのならばきちんと敬称を付ける。公はもちろんのこと、私の場であっても。

 

「板垣殿は優秀じゃが、少々それを鼻にかける節があるからの」

 

 昔から才能に恵まれていたわけではないが、信方は向上心に満ち溢れ、人より何倍も努力して自らを高めてきた。勉学でも武術でも。だから自らが苦労して身に付けてきた技術や知識に自信を持ち、確かな実績に裏打ちされてもいる。だがそれゆえか、自らに勝る者には絶対の敬意を示す反面、自らに劣る者に対して遠慮のないところがあった。完璧を求める人間は往々にして神経質な部分があるが、信方もその例に漏れず、しばしば感情的になる。そうしたところに端を発する諍いがかつては絶えず、虎泰も昌辰も何度も仲裁したことがある。

 

「飯富殿とは犬猿の仲でしたわね」

 

 そんな信方が変わる切欠が、虎昌の存在であった。

 虎昌は御世辞にも才覚があったとは言えない。信方とは違い、自らは学が低いことを自覚していたが、それならばせめて武では負けぬと勉学より武の修練にばかり力を入れていた。万能性と言える信方に対し、虎昌は完全な一能特化型。武断派として武力だけで成り上がり、何かと腕力で解決しようとする悪癖はあったものの、目下・同格・目上の者を問わず、呆れられながらも隠し事のできない開けっ広げなところが良かったのか頼りにされた。

 信方と虎昌。

 性格的にも能力的にも正反対な2人は、見事に何につけても反発し合った。

 信方は虎昌に武の腕は敵わない。それが気に食わない信方は、必死に武の腕を磨いたが、負けじと虎昌もさらに修練を重ねた。一方で勉学では虎昌はどう足掻いても信方には敵わなかったが、虎昌は「わしは難しいことはわからん。故に任せた!」と開き直ってしまい、「ふ、ふざけるな、貴様!」と信方を怒らせることはしょっちゅうのことである。

 そんな関係は今も変わっていない。信方も虎昌も相変わらずだが、しかし2人は何より互いを信頼し合っているように虎泰と昌辰には見えた。どのような心変わりがあったのか――あっても互いに認めてはいない気はするが――知らないが、信方は理性を働かせて感情を抑えることを覚え、虎昌は難しいことは信方に任せればよいと言う。

 

――『あのケダモノは何を言っても無駄ですので。感情的になっても疲れるだけだと悟ったに過ぎません』

――『いつも涼しげで嫌な顔をしておりますからな。難題でも吹っかければわしにいちいち構ってくることもござらんであろう? はっはっは!』

 

 互い、そんなことを言っているが、その真意や如何にというところであろうか。

 何にせよ虎泰にしても昌辰にしても手のかかる問題児である。

 

「しかし飯富殿も板垣殿も、信繁様と信玄様をあのように立派に育てられました」

「けだし。それは認めぬわけにはいくまいて」

 

 楊枝を皿に置き直し、湯呑を手にしながら虎泰は幾分柔らかい表情を浮かべた。それだけ信繁と信玄のことについて彼らを育て上げた功績を称えているのであろう。

 

「まあ、もう少し2人とも落ち着きと素直さを持って頂きたいものですが」

「むしろ今一番必要なものじゃろうな」

 

 昌辰は笑い、虎泰は苦々しげに語った。

 それも仕方ないというものだ。

 虎昌と信方の仲は悪くない……いや、本人たちは嫌い合っているつもりなのだろうが、喧嘩するほど仲がいいとはまさにあの2人のことだと武田家中では専らの認識だ。大は政治や軍事の問題から、小はちょっとした仕草についてまで。2人は何かと言い争う。それが決して抜刀して斬り合うといった危険なところにまではいかないからいいとしても、もう少し穏便にできないものであろうか。

 虎泰も昌辰も認める、信繁と信玄を育て上げた2人であるが、特にその件に関すると絶対に譲らない。

 

――『貴様が信玄様を推すとはな。何かと力尽くな貴様も、ようやく信玄様の素晴らしさが理解できたと見える』

――『黙れ、信方。わしは信玄様を推しはするが、信繁様を見捨てたわけではない。信繁様が相応しいと思えばわしはそうするわい』

――『何だ、早くも言い訳か。男ともあろうものが情けない』

――『……チクチクと嫌らしい奴じゃ。ま、別によいがの。素直なお主など見ても気味が悪いだけじゃ。せめて信玄様にうつさぬようにしてくれい』

――『……何か言ったか、このケダモノが』

――『おお、言ったわい。悔しければ少しは女子らしいところを見せてみい』

――『くっ……! この鈍感が!』

――『お主に鈍感などと言われとうないわ、行き遅れめが!』

――『言ってはならないことを言ったな、貴様!』

――『ふん。どうせならわしがもらってやってもよいぞ? この虎昌、行き遅れの1人2人養える器量くらいはあるつもりよ』

――『……自意識過剰の醜男が』

――『お主、この精悍なわしの顔を前にして醜男と言うか! 何と可愛くない女じゃ!』

 

 一言。これは子供の喧嘩か?

 むしろ子供の方がもっとましな喧嘩をするのではないだろうか。虎泰も昌辰も言葉なく呆れるばかりである。仲裁する気も起きない。もう向こうで勝手にやってくれと言いたい気分である。

 この2人に比べると、信繁と信玄の方が精神的に大人であるのではないかと思えてしまうのも致し方のないことだろう。

 

「しかし信繁様も信玄様も、傅役の影響を受けているところもありますね」

「果たしてそれは良いことなのか悪いことなのか……」

「甲乙付け難いですわ」

「まったくじゃ。はっはっは」

 

 信玄は信方に似て、はっきりと物を言うし、特に気を許した相手には容赦のないところがある。さらに言えば恥ずかしがり屋な一面もあり、高圧的な態度でそれを隠そうとしては後に悔いたり失敗したと嘆いたり……正直になれない性格だ。

 信繁はどちらかと言えば大人しく、周囲の状況を鑑みて人より前にあまり出ようとしない面があるが、その気になれば一転して虎昌のように突き進んでいくところがある。

 虎泰と昌辰は傅役に似たのか、それとも生来のものなのか、どちらにしても参ったものだと笑い合った。

 

「それにしても……信繁様も動かれましたね」

「……うむ」

 

 空になった湯呑を置き、虎泰はしばし盆に置いた湯呑を見下ろし続ける。

 

 

 

 

 

 信繁が、信虎を当主の座から追い落とすことを決めた。

 

 

 

 

 

 信繁は立場を明確にしていなかった虎泰たち四名臣のうち、虎昌を先んじて説得し、信玄を推挙するという形を整えてから虎泰たちに会いにきた。

 信繁が自ら家督を譲るという形が成り、虎泰たちも信繁の判断に敬意を表しつつ、自らも信玄推挙に賛同した。

 四名臣が揃って信玄を推すということになり、これまで態度を渋っていた重臣たちも一部を除いて信玄擁立の立場を取り始めた。

 

「信繁様の御英断にはまことお見それいたしましたが……信繁様にそのような判断をさせてしまった我が身の至らなさが情けなくも思います」

「…………」

 

 虎泰も昌辰の意見には同感だった。

 もっと自分たちがしっかりしていれば、信虎の武略一辺倒を、あの気性を、どうにかできたのではないか。その思いはどうしてもなくならない。今更そんなたら・れば話などに意味はないとわかってはいても、まるで信繁1人に決断を任せたような形になってしまったことは、四名臣として恥じるべきことだと。

 

「信玄様の器量と才覚にばかり目を奪われておったが、信繁様はわしらが思うておったより、はるかに大きな方であったのう」

 

 信繁にも器量と才覚がないわけではない。それは幼少の頃より重臣ならば誰もが気づいていたことだ。

 だが信繁はそれを抑えている節があり、自身は表に出ず、信虎の気性の荒さもあり、家臣たちには頼りないひ弱さとして映るところがあった。

 だから信繁が信玄に家督を譲るつもりであることを明かされたときも、虎泰・昌辰・信方は称賛と同時に疑いも持った。当主として相応しくないだの、信玄の方が相応しいだの、武田家のため甲斐のためという立派な言葉に隠れているが、信繁には誇りというものがないのかと。長子としての、武田一門としての、自尊心や誇りというものが。そうしたものに固執し、当主の座を譲らない狭量な人間もいるが、逆にそうしたものが一切なく、ただ逃げるような卑屈な人間もいる。綺麗な言葉に隠して、その実はそうした卑小な心づもりであるのなら、この決断も英断ではない。

 と、そう思っていた。

 が。そんな疑問は、すぐに晴れた。それどころか虎泰たちは逆に頭を垂れてしまうことになる。

 

 

 

 

 

 武田による天下への号令。

 

 

 

 

 

 信繁が覇気と共に発した言葉は、虎泰たちにとっては別に珍しくもない『天下』という言葉ながら、甲斐一国の事情やせいぜいがその周辺のことばかりに目がいっていた虎泰たちにとってあまりに大きな話であった。

 

――『諸将が疑いを持つのは至極当然のことであろう。どうしてもというのであれば、私が一旦は当主となり、この武田を関東甲信越に覇を唱える家としてから信玄に家督を譲ってもいい』

 

 信繁のこれまでの政務の内容が国内の充実に向けられていることからして、信繁が決して天下のことばかりに志向されているわけではなく、足下の状況を理解し、まず何をしなければならないのかが明確に理解できていることは疑いようもない。それは虎泰たちとて同じ事であった。要所となるは、そこで留まっているか、天下という大願を抱いて先をも見据えているかの違い。この差はあまりに大きかった。

 

――『だがそれではいざその時になって家督争いの内紛が大きくなる。関東甲信越に跨る家の家督となれば、現状よりも複雑で、より解決困難なものとなろう。それだけではない。関東甲信越を制覇する間も、武田は常に家督争いの懸念を抱えていくことになってしまう。それでは問題の先送りをしているようなものであって、それこそ愚行であろう』

 

 今できることは、今のうちにやる。武田のためを真に思うのであれば、今ここでやるべきは信繁が自身の誇りや自尊心のために問題を先送りにして当主になることではない。

 そして信繁には決して誇りや自尊心がないわけではない。関東甲信越に覇を唱えるくらいならば自分でもできると言い放ったのだ。その程度でいいのならばわざわざ信玄に家督を譲渡するまでもない。だが信玄にならばそれ以上に日ノ本全土を治めることさえもできるからこそ、敢えて渡すのだと。

 そのとき、信繁の脇に控えていた虎昌のこれ以上ないくらいの満足そうな、誇りに思っている表情は実に印象的だった。庇うことも後押しすることもない。ただ黙してそこに座していた。今更自分が何を言うことがあろう……そう告げているかのようで。虎泰は彼を見ながら、嫉妬さえ覚えたほどだった。自分も信繁を育てていたら、あんな顔を浮かべることができたかもしれないと思うと、男として嫉妬を抱かずにはいられなかった。ここに年上だの宿老中の宿老で立場が上だの、そんな要素は何ら意味を持たない。ただ男として、虎泰は虎昌に嫉妬したのだ。年甲斐もないとは思うけれど。

 

――『信繁様の御意向、この虎泰も承知いたしました。ただ最後にもう1つだけお聞きしとうございます』

――『何だろうか?』

――『そう思われるのであれば、何故今すぐにでも名を辞し、身をお隠しにはなられませぬ?』

 

 信繁が動けば、信繁が信虎を追い出せば、信繁に対する領民や家臣たちの親愛の情は増すだろう。信繁についていくと思う者たちは、決して少なくはないだろう。信玄に家督を譲る上で、それは少々厄介なものになりかねない。信繁がそれを理解していないとは虎泰も思っていなかったが、敢えて虎泰は質した。すると信繁は当然の疑問だなと呟きつつ、僅かに目を閉じて頷き……

 

――『今、私が名を辞し、出奔し、身を隠すことは容易い。そうなれば父上も信玄に家督を譲ると大っぴらにできるのだし、信玄も覚悟を決めざるをえなくなるだろう。けだし、それが一番よい手立てなのかもしれぬ。穏便に進ませることができるのやもしれぬ。しかし私にはそうは思えぬ』

 

 信繁はそこで口を噤んだのだが、その表情は実に苦々しげだった。どうしてそんな表情を浮かべるのか、虎泰たちにはわからなかったが。

 

「信玄様をお思いになる信繁様……兄妹の絆とでも申しましょうか。それを見た気がいたします」

「うむ……長らく戦に明け暮れ、軍略と称した騙し合いを重ねたわしらには、少々眩しすぎたわ」

 

 本当に、と昌辰は静かに頷いた。

 信繁がすぐに出奔しない理由は実に簡単なことで、しかし容易にはできないことだった。

 

――『信玄は利口だ。利口ゆえ、諸将ら全員が父上より自分を望んでいると知れば、自らを押し殺して父上を追い出すだろう。言葉や態度はきついが、あれは根が心優しいからな』

 

 真に武田を思うがゆえに、信玄は家督争いを避けて出家した。それからも信繁を支えたいと言って、自らが人質のような身であることも受け入れて情報を取ってきては信繁の政務の助けとしてくれた。甲斐を思い、そしてあんな父でもまだ立ち直ってくれると信じているところがある。

 

 

 

 

 

――『あれに、そんな不憫な真似はさせられん』

 

 

 

 

 

 信繁が出奔すれば、心優しい信玄は必死に押し隠しつつも悲しむことだろう。後にそれは憎悪や怒りに変わるかもしれない。心優しい信玄に不憫な思いをさせるというのに、その上、父を追い出した不義不忠の徒と言われかねない真似をさせようなどと、信繁にはそんなことはできなかった。誰が不義不忠と罵りましょうと信方が床を叩いて声を荒げても、信繁は冷静に信方を見下ろして答えた。武田の、甲斐の領民や家臣たちはそう思わないかもしれない。信虎の恐怖を知る者、信虎によって苦しめられた者にとっては喜ばしいものとなるかもしれない。

 しかし、他国にとってはそうではない。

 特に離れれば離れるほど、伝聞というものは簡潔になる。信玄が信虎を追い出した。ただその一点に批判が向くことだろう。詳しいことなど知らないくせに、ただその一点だけを糾弾するのだ。そして伝聞に尾ひれはつきものである。信玄こそが非道の徒なのだと言われることもありうるだろう。

 理詰めで考えれば、今後その事実は信玄が進撃する上で必ず障害となってしまうだろう。統治する上で民心は無視できない。自身の君主が父を追い出した不義不忠の輩であると知って、忠義を誓える者がいるだろうか。そしてその点を以って、民心離反を促す敵もいることだろう。信玄は生涯、そんな無体な目に晒されなければならないことになってしまう。

 

 

 

 だからこそ、その役目は、信繁自身が負う。

 

 

 

 どのみち私は出奔するのだからと。

 そう笑って言った信繁に、虎泰たちは頭を垂れずにはいられなかった。

 

 

 

――何と聡明な方なのだろう。

――何と家思いの方なのだろう。

――何と妹思いの方なのだろう。

 

 

 

――我らはこれほどの方を、犠牲にしなくてはならないのか……!

 

 

 

 虎泰も昌辰も信方も、虎昌でさえも。この戦国の理不尽な世を恨まずにはいられなかったほどだ。

 

「私どもとて仮にも武田の四名臣と称される者。あれを見てこのままではいられません」

「当然じゃ。この虎泰、老いた身なれど、今一度老骨に鞭打って尽くすまでよ」

 

 先ほどまでの老いへの鬱屈した思いなどどこ吹く風か。虎泰は立ち上がり、しっかりした足取りで廊下に歩き進んだ。

 甘利邸は他より簡素な造りであり、庭もさして広いものではない。だが主君の居館である躑躅ヶ崎館を真似て、躑躅が多く植え込まれており、春先には一斉に甘利邸の庭を白く染め上げる。今は夏も過ぎ始めた時期。残暑厳しき頃。躑躅は残念ながら咲いてはいない。だが虎泰の目には幼い頃によく信龍の様子を見に来た信繁や信玄、信廉たちが、4人揃って躑躅の花が咲き乱れるこの庭で遊んでいる光景が蘇っていた。皆とても優れていて、武田の未来は明るいものだと信じていたのが懐かしい。

 

「大将殿」

 

 するとそこで右側からやって来た男から声がかけられた。虎泰のそばまで来ると膝をつき頭を下げる。

 

「横田殿か。何かあったか?」

 

 顔を上げた男は細い目つきに口髭を生やしていた。髪には白い毛が目立ち始めており、虎泰同様、もう老将と呼べる年齢になる。穏やかな性格をしているが、戦となれば虎泰配下の足軽大将を務め、敵の動きを素早く察知し、その動きによっていち早くその戦術を読みとり、常に味方陣営を勝利に導く、敵の先手を打つ戦術に優れた戦上手、合戦巧者、智謀の将である。虎泰とそう歳も変わらず、すでに虎泰配下の足軽大将どころか侍大将として虎泰と肩を並べる一軍の将となれる器量を持っているのだが、この男は虎泰の副将としての立場に在ってこそを誉れとし、その座に在り続けているという、見上げた忠義の士である。此度は虎泰より早く信玄推挙に賛同して名を連ねていた。

 

 

 

 その名、横田備中守高松と言う。

 

 

 

「信繁様より書状が届いております」

「なに? 信繁様から?」

「はっ。こちらにて候」

 

 恭しく書状を差し出してきた高松より受け取り、虎泰は早速その場で開いた。昌辰も気になるのか、静かに横へとやってくる。

 

「書状は信繁様の小姓……確か、山寺とかいう者が持って参りましたが、それが申すに先ほど郡内での『鷹狩り』よりお戻りになられたとのこと」

「今はいずこに?」

「残念ながらすぐにまた出立されたと。甲信国境の中山・笹尾の両砦へ『視察』に向かわれたようで」

「左様か……」

 

 高松の方へ向けた体を、再び虎泰は庭へと向け直した。そこには僅かに残念そうな雰囲気が漂っていた。

 もちろんそれを昌辰が察せないはずがなく、彼女は静かに虎泰の横に並びつつ、虎泰の顔を窺った。

 

「まこと遺憾ながら、1羽も得られずとのことじゃ。余所者に先を越されたやもしれぬと」

「……左様でございますか」

 

 昌辰には知られないように虎泰が肩を落としたのは一瞬であった。しかしそれでも落胆は隠しきれず、声に出てしまう。昌辰だけでなく、高松もまた難しい表情を浮かべ、顔を俯かせた。

 信繁の鷹狩りの腕のなさに、ではない。『鷹狩り』など、ただの隠語。

 

 

 

 

 

 小山田氏の懐柔は失敗。

 

 

 

 

 

 大した成果は得られなかった。いや、それだけではない。

 下手をすれば小山田氏はすでにどこかと内応している可能性すらある――それが信繁の報告だ。

 詳しいところは後で直に話を聞かねばならないのだろうけれど、結果だけで言えば幸先はよろしくない。

 

「穴山殿がこちらについてくれたことは大きいが……それを以ってしても小山田殿は変わらずか」

「小山田殿は反旗を翻すおつもりでしょうか?」

「普通に考えれば武田に刃向かったところで勝てる見込みは少ないじゃろう。が、今ならば話は別じゃ」

 

 甲斐を統一した大家。

 それだけであるのなら、小山田家がこれに反したところで甲斐の国人衆や周辺の勢力の理解は得られにくい。

 武田家は甲斐の守護。名目的には武田家には甲斐を治める権利がある。

 所詮名目形式上のことでしかないのが戦国の世なのだが、大義名分というものが戦には必要である以上、これに刃向かうには相応の理由というものがいる。

 それが、今の小山田氏にはあるということだ。

 武田家当主、武田信虎の最近の所業には守護らしからぬもの多く、民心は離れるばかり。さらに山県を始めとした亡き4将の領内でも武田家への反感は強まっており、上手く立ち回ればこれを味方に付けることもできよう。

 

「小山田殿は内部から切り崩そうと思っておられるのでしょうか?」

「あの男はそういった工作が下手じゃからの。信繁様も言うておられた」

 

――『信有殿も裏工作の1つもしないということはないだろうが……そちらはあまり心配せずともよいと思うている。信有殿は良くも悪くも武士としての在り方が根強いからな』

 

 甲州の武田軍と言えば音に聞こえた騎馬軍団を擁する精強な軍だ。

 しかしそれゆえに攻撃に比重を置いた考えにあり、これは昌辰が守戦において優れているにも関わらず、その名が四名臣の中では一番下として見られている辺りからも推察できる。また戦と言えば互いの刃を交わらせて激しく戦うことこそと思っている部分が大きく、理を以って兵を動かす兵法による駆け引きなどはあまりよしとしないところがある。信虎の気性の荒さは、甲州武士のこうしたところに原因があると言っても間違いではなかろう。

 小山田信有もまた信虎と長く争った経験を持つ甲州の武士であり、そして現在でも武田家とは臣従関係というより同盟関係に近い立場にあり、独立領主としての権利も穴山氏同様に有していることも相まって、武田家に対して強く当たってくる一面がある。

 

「とりあえず、信繁様と相談の上、先ほど4将の領内を現在任されておる遺族や一族郎党の者たちに書をしたためたところでの」

「どのような内容でございましょう?」

「うむ。山県・馬場・工藤・内藤の名跡は現在途絶えた状態じゃ。我らとしてもその名跡を失いとうはない」

「つまり、その名跡を継ぐ者を提案したということでしょうか?」

「今は信繁様とわしで仮の案としてでしかない。後ほど貴殿や飯富・板垣両将も交えて相談したい」

 

 その土地を長らく治めてきた者たちからすれば、その土地に愛着はあるし、領民たちにしても評判の良かった領主なのだ。できればその領主の一族がそのまま治める方がいい。武田家にしてもこの4将の名は大きな意味を持っており、有力な家臣を失いたくはない。

 工藤の家は長子を始め一族郎党共々関東に逃がしてある。これは帰参させればいいだけのことだ。

 問題は完全に途絶えた山県・馬場・内藤の3家。

 

「信繁様は山県の家に飯富殿の甥である昌景、内藤の家には工藤の次子である昌豊を充てるおつもりのようじゃ」

「悪くはありませんね。四名臣が1人である飯富殿の甥となれば山県家としても異論はないでしょう」

「4家はいずれも信繁様に非常に恩を感じている様子。飯富様の甥は信繁様が兄と慕う方でございますし、工藤と内藤の家は同格で交流もありましたから、その次子を受け入れるのは内藤の家としても文句はないでしょう」

 

 3人は揃っていい案だと頷く。この分ならば虎昌も信方も異論はないだろうと。

 小山田氏と4将はさほど交流が深かったわけではなく、4将は武田家に臣従し忠義を尽くしたのは誅殺された理由からしても間違いのないことだから、小山田氏の工作があったとしても4将の家が靡く可能性は少ないだろうと見越した。

 そうなると残りは馬場氏。ところがここにきて有力な継承者がない。

 

「信繁様が両砦へ向かわれたのはそのあたりもあるのではないかとわしは思うのじゃがな」

「中山・笹尾の両砦と言えば……確か精鋭の武川衆と津金衆がおりましたね」

「はっ。中山砦には武川衆、笹尾砦には津金衆の一派である小尾衆が常駐しております」

 

 武川衆や津金衆は武田家に属している在地の武士団だ。その土地のことに関しては武田家の中でも特に知り尽くしており、武田家はこうした武士団を編入し、主に国境防衛の任に当てている。武川衆や津金衆は九一色衆・大村衆・御岳衆・西之海衆などと並んで精鋭とされる武士団である。小尾衆は高松の言う通り、津金衆の一派であり、これもまた精鋭であった。

 

「信繁様も考えましたね。国境防衛の任に当たる彼らはいずれも精強揃い。彼らを味方に付ければ靡く者も多いでしょう」

「仰る通りかと。信濃の輩どもも常に甲斐を狙っておりますし、此度の企図によっては奴らも乗じて動くのはまず間違いないでしょうしな。彼らに防備を固めてもらう必要もあるでしょう」

「穴山殿がこちらに付いたこともあり、九一色衆と西之海衆も我らに付いた。甲駿国境もとりあえずは一段落と見てよかろう」

 

 信虎の当主追放は可能な限り穏便かつ迅速に、というのが信繁や虎泰たち全員の総意である。武田の内輪揉めが長引けばそれだけ甲斐は混乱し、近隣勢力の侵攻を許してしまいかねないのだから。

 特に信濃は信虎の代以前から甲斐と勢力圏を巡って争い続けてきた。小笠原・村上・木曽・諏訪・高遠・笠原……甲斐に一度混乱あれば、その牙を剥けてくることは想像に難くない。

 また此度の企図に関して、駿河の今川、相模の北条も信用しない方針で考えていた。今川義元・北条氏康共に年齢は信繁と並ぶかそれ以上。信玄ともなれば一番下だ。突然の当主交代劇となる今回、この2人がこれまで通りに武田との同盟を続けるかは確約できない。特に北条に関しては信繁が注意を払うよう虎泰たちに強く申し付けていた。

 相駿間にあった同盟関係が壊れて今川と北条が争うことになった『河東の乱』が起きたのは、武田と今川の間で同盟が結ばれたことに端を発する。それまで今川と北条は親密な関係にあって、共に武田を攻撃していたからだ。突然今川が武田と和睦して同盟を結んだことにより、北条は相駿間の同盟は破綻したとみなし、駿河へ攻め入ったのが河東の乱の始まり。今では武田と北条も和睦したが、北条には今でも武田への根強い不信感があるはずなのだ。

 

「殊に今回の小山田氏の動向と北条を結びつけた場合、警戒せずにはいられぬとのお言葉であった」

「なるほど……郡内の小山田氏は甲相の国境に接していますからね」

 

 甲相国境の防衛も小山田氏の任の1つ。それで過去に北条と幾度か戦っており、一度小山田氏は北条に敗北していることもある。北条軍が甲斐に攻め寄せ、国境付近で小山田氏がこれを迎撃したが敗退し、かなりの損害を出している。

 

「加えて信虎様は小山田氏の郡内での支配力を下げるため、経済的な圧迫をかけ続けていらっしゃる。小山田氏としては武田を見限り、北条方につくことも視野にいれておるのかもしれませぬな」

「これは原因となるかどうかわかりませんが、小山田氏は桓武平氏の家柄。甲斐源氏の武田家に対して臣従することに拒否感はどうしても拭えないのかもしれませんね」

 

 源氏と平氏の争いは決して終わっているわけではない。今更源平合戦とはいかないが、源氏と平氏の敵対意識は今だ根強い。ないとは言い切れないのがこの世の常だった。

 それに北条は河越城の合戦に大勝利してからというもの、その勢いは衰えることがない。その勢いに乗ろうと小山田氏が考えないとは限らない。

 

「とりあえず郡内の抑えが必要なので、私が向かうようにと信繁様の書状にありますね」

「多くの兵が割けぬ中じゃ。守戦に長けているとは言え、上原殿には重い荷となるやもしれぬが……」

「心配はご無用ですわ。これでも武田四名臣が1人。如何に歴戦の小山田殿と言えど、容易く後れを取るつもりはございません」

 

 昌辰は袖で口元を隠しながら笑った。実に優雅な笑みであるが……どこか冷えたところがある。虎泰にさえ戦慄を感じさせるのだ。さすがは武田四名臣の1人と言うべきであろうか。しかしその戦慄を、虎泰は高松とは違って笑い飛ばした。虎泰に戦慄は感じさせても、退かせるまでには至らず。老いても甘利虎泰は剛の者。それを知らしめる一幕であった。

 

「ところで馬場家の件に話を戻しますが、武川衆か津金衆あたりから継承者を取ろうと?」

「武川衆は甲斐源氏一条家に祖を持つ武士団じゃ。青木家や教来石家あたりから継承者を出してもらえれば心強い」

「しかし一条家もその名跡は……」

 

 一条家は同じく甲斐源氏の血を引く武田家と密接な繋がりがあり、祖は同じ武田なのだ。

 遠い武田一門としての血を引いており、その支族として派生した武川衆を構成する教来石家や牧原家から継承者を迎えることは、同じく源氏の血を引く馬場氏にとっても悪くないだろう。ただ問題がある。一条の家は武田家との繋がりが古くまで遡らねばならず、一門として扱うには不適切と見なされる程度に離れてしまっている。これを解決しないことには馬場氏としては源氏の血を引いているとは言っても、馬場氏は摂津源氏、一条氏は甲斐源氏で、納得できないところがあるかもしれない。

 昌辰の指摘に、虎泰もわかっていると答えつつ腕を組んだ。その顔は苦々しげな顔。どこか納得がいかないとでも言うかのようで、昌辰も高松も顔を見合わせて首を傾げた。

 

「……信繁様は一条氏の名跡を信龍様に継がせたいとお考えのようじゃ」

「なんと」

 

 一条氏の名跡を信龍に継がせることで、一条氏を武田氏の一族とし、こうすることで馬場の家を納得させようというのだ。それだけではなく、信繁は信廉と信龍が家督争いの種になりえることも視野に入れており、これはその対処策の一環でもあるらしい。だからと言って信龍を生半な家にやるつもりはない。信龍も信繁にとっては大事な妹なのである。ぞんざいに扱うつもりはないということなのだろう。

 

「信繁様は懸念を抱いておられてな。信龍様は何かと信繁様・信玄様・信廉様のようになろうとされる。目標にするのは良いが、自分たちを絶対視するようなことでは問題じゃと」

「ふうむ……つまり、信繁様は信龍様と少し距離を置くべきと?」

「信龍様が一条を名乗るようになっても武田の一門であることに変わりはないしの。一家の長ともなれば少しは落ち着きも身に付くのではないかと仰っておられたわ」

 

 大事な妹だが、それゆえに甘やかしてよいわけではない。一門であるがこそ、厳しく当たらねばならぬ時もある。心を鬼にするということか。

 

「大将殿は反対ですか?」

「反対というわけではないのじゃ。ただのう……信龍様はまだ一条の家を継ぐのはのう……」

 

 虎泰は自分が傅役を務める信龍を決して低く見てはいないのだが、信龍はその素行がいいとは決して言えず、現状で一条氏に養子に出して一条氏の不評を買いでもしたら……と思うと心中穏やかではいられない。老婆心と言えばそうかもしれないが、虎泰はどうしても信龍をまだ手元から離す気にはなれなかった。まだまだ教えられていないこともある。中途半端な状態で傅役の任を終わらせたくはない。

 ……娘や孫を手放したくはないというような、年相応の爺としての心情も実のところあるのだが。

 もちろん、昌辰が如き鋭い女性の前ではそのありがちな心情など筒抜けである。何度も咳払いをして笑いを誤魔化そうとする昌辰を、高松は訝しく思いながら見ていた。

 

「ふふ……コホン。では信廉様は?」

「む? ああ、うむ。信廉様はかなり複雑な存在じゃ。あの通り、信玄様に瓜二つと言ってよいほど似通っておられるからのう」

 

 下手に他家の養子にでも出せば、その存在を使ってよからぬことを企む輩がいないとも限らない。今のところどこかに養子に出すようなつもりは信繁にはないようだ。

 

「とりあえず馬場の家の問題は残るが、とにもかくにも信繁様が戻って来られぬうちはわしらでとやかく言うても詮無いことじゃ。信繁様が上手くやってこられることを祈るばかりじゃな」

 

 問題は他にもある。できることからやっていかなくてはならないのだ。そう長く時があるわけでもないのだから。

 

「そう言えば板垣様と飯富様は如何なさっておられるので?」

「飯富殿には甲上国境防衛の任に当たっておる大村衆と御岳衆の説得を任せておる」

「首尾の方は?」

「問題あるまい。大村衆も御岳衆も飯富殿とは縁があるでの」

 

 虎昌がかつて信虎に反旗を翻した際、御岳に籠もったわけだが、このときに大村衆や御岳衆も動いている。虎昌が信虎に帰参を許された場で、虎昌は自身の命はいらないが、代わりに彼らは助けてくれと助命を請うたと言う。虎昌が助けられたのは、大村衆や御岳衆を今後の武田家の戦力とする上でも合理的であったこともあるのかもしれない。

 大村衆と御岳衆が味方に付けば上野の山内上杉氏への抑えになる。彼の家は北条氏に押され、世に広まった『河越夜戦』において、約10倍の兵力差で優位な立場でありながら北条軍に大敗を喫した。

 

――『河越夜戦は現世でも起きたか……前世より時期が早すぎる。しかしそれもやむなしか……何せ早雲公が今も当主を務め、氏綱公と氏康公は姉弟ときたものだ。3公のうち1人でも難敵であると言うに、3人揃って健在とはな。こちらも兄弟逆転やら見た目瓜二つやらと相違甚だしいが、向こうはそれ以上とも言えような』

 

 とりあえず河越夜戦のことを聞いた信繁の呟きには虎泰もよくわからないことだらけだが、信繁が北条氏を特に警戒していることはよく伝わってきた。

 対して上杉氏の脅威性は低いと考えているらしい。ただそれでも向こうは関東管領であり、名将長野業正もいる。警戒しておくに越したことはない。

 上杉氏との関係は良好とも険悪とも言えない。北条氏と和睦したことで上杉氏との関係は悪化したと見られているが、北条氏との和睦は同盟と言うほどの繋がりはない。一時的な休戦状態と言った方が適当だ。河越夜戦から僅かに数年。上杉当主である憲政は河越夜戦のせいですっかり臆病風に吹かれているとの専らの噂。関東の諸大名も関東管領の名ももはや形だけでしかないと見限り始めているとも聞く。こんな時勢で、上杉氏としても武田家まで敵に回そうとは早々考えないだろう。

 

「板垣殿には……信玄様への働きかけじゃな。こればかりは信繁様と板垣殿にしかできぬことであろう」

「信玄様は、やはりまだ……?」

 

 高松の問いに、虎泰は重々しく頷いた。

 信玄は今だ、武田家当主となることに承諾しておらず、そして肝心の信虎追放に関しては話すらできていない状態だった。

 信繁が説得を試みようとしているが、武田家の次期当主は信繁こそをと固く信じているらしく、信虎の追放に至っては話せる雰囲気でもないらしい。殊更信玄はこれらの話題になると機嫌を悪くし、信方が相手であってもその話術と覇気を如何なく発揮して喋らせることさえしないのだという。信方にこれ以上の役目を与えず、職としての仕事も今は虎泰がそのほとんどを肩代わりしているのも、信方にはとにかく信玄の方に集中してほしいからだ。

 

「信玄様が一番の難敵よのう……」

「事と次第によっては、信繁様と我ら重臣一同で揃っていかねばならないかもしれませんね……」

 

 信玄が何故そこまで話すらも聞かないのか。

 虎泰はそれを、信玄はすでに状況をすべて理解しているからではないかとこの頃は思うようになった。

 信玄は元々信繁に強い憧れと思慕の念を持っており、信繁こそを目標にしてきたような節がある。だから今では自分が信繁を上回る器量と才覚を有していながらも、半ば思い込みの自己暗示のような状態で、信繁を立てようとしているのではないか。また信虎を見てもまだ立ち戻ってくれると信じているのも、同じような理由からではないか。

 もしそうだとすれば……信玄には悪いが、かなり大がかりな衝撃を与えるでもしなければならないかもしれない。それこそ、後に切腹を申し付けられるかもしれないほどのお諫めを。虎泰はそのためにこの命を投げ出すもやむなしと、そう決めていた。どうせ老いた命だ。自分より若かった4将が忠義に殉じたというのに、このような老いぼれが続かずして何とするか。これ以上若い命を散らせるよりはよほど合理的ではないか。

 

「甘利様?」

「……何かな、上原殿?」

「何やら怖い顔をされておられましたので。もしや良からぬことをお考えではないか、と」

 

 鋭い女性である。虎泰は内心で驚きながらも顔には出さない。そのくらいの老獪さは持ち合わせている。

 

「信玄様より、まず先に信廉様と信龍様を説得すべきかと思うておっただけよ」

「堀から埋めていこうと?」

「そう言えば原殿は城攻めが得意じゃったのう? 任せてみるかの?」

「大将殿。さすがの?鬼美濃?と言えど、こればかりはちと無理ではないかと」

 

 虎泰でさえそんな冗談を零してしまうほど、信玄のことは難しい。問題の先送りはよろしくないとわかっているが、信玄のこととなると信繁や信方、虎泰でさえも勇み足となってしまう。

 だが為さねばならない。どうしても通らねばならぬ道である。

 信繁が戻り次第、重臣共々相談すべきかもしれない。

 

 

 

 

 

「あ、甘利様! 上原様! 横田様! い、いち、一大事に……一大事にてございます!」

 

 

 

 

 

 突然であった。

 足音も激しく、1人の家臣が廊下の先から現れた。虎泰や高松の非難の視線にも構わず、彼は激しく呼吸しながら怒鳴るように告げながら跪く。

 

「落ち着け。大将殿の前であるぞ」

「よい、横田殿」

「して、何事です?」

「は、はい……た、ただ今、御館様よりの使者が参りまして。四名臣の方々を始め、重臣一同は直ちに館へ参れとのこと」

 

 そんなことか。そう3人は思った。

 嫌な感じはする。いきなり重臣を全員招集するなど、尋常な事態ではなかろう。しかしこれを以って一大事とするには不適切であろう。ならば他に何かある。3人は家臣に続きを促した。

 そして彼の口から告げられた内容は、今度こそ虎泰・昌辰を以ってして戦慄させ、言葉を失くさせるのである。

 

 

 

 

 

――信繁様が謀反を企てたとして捕縛された由にて候!

 

 

 

 

 

-2ページ-

 

 

 

 

 

 甲斐国に、激震が走る。

 激震は混乱を呼び、混乱は思惑ある者を動かす。

 

 武田信繁。

 

 武田信玄。

 

 武田信廉。

 

 武田信龍。

 

 武田と甲斐国すべてを巻き込む風雲、急を告げる。その中心に、彼らは立つ。

 戦極の世に在りし武田の歴史が、ここより急展開を迎える。

 この事件に始まる武田と甲斐国全体を巻き込む騒乱は、4将への敬意と畏怖を以って記憶されるのである。

 

 

 

 

 

 武田信玄が戦極の世に名乗りを挙げ。

 

 

 

 武田信廉がそれまでの評価を覆させる活躍を成し。

 

 

 

 武田信龍が初陣を飾ったものとして。

 

 

 

 

 

 そして、武田信繁という武将が、ただ一度だけ、歴史の表舞台にてその名を轟かせた出来事として。

 

 

 

 

 

 人々は後に、この出来事をこう呼び習わすことになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――『甲州擾乱』と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――続く――

 

 

 

 

 

-3ページ-

【後書き】

 ……何とも思わせぶりな終わり方。我ながらこういう締め方好きだよなあと笑ってしまいます。

 こういうことすると今後のプレッシャーになるとわかってるくせに。

 ……ま、まあ、背水の陣に自分を追い込むということで!

 

 さて、今回は甘利虎泰と上原昌辰の2人を中心に話を進めました。武田四名臣と言えば原作にて登場する4人が一番に上がると思いますが、旧武田四名臣と言えば板垣・飯富・甘利・上原ですよね。上原昌辰は小山田昌辰という名の方が有名ですが、実のところ、昌辰の次男昌行の代から小山田を名乗っているという資料があり、上原昌辰と呼ぶ方が適当なようです。ちなみに作中で出てくる小山田氏とは別物らしいです。武田24将にも数えられる小山田信茂も昌辰らとは別の家の人間だそうで。小山田氏と紛らわしいので、拙作では昌辰の家は上原姓で通すつもりです。

 実は年齢的には史実だと年上から横田高松→板垣信方→甘利虎泰→飯富虎昌の順です。昌辰は生年不詳です。ですが拙作では何となく皆さんにもお察し頂けたと思いますが、虎泰→高松→昌辰→信方・虎昌という順になってます。何となく私の頭の中では虎泰が一番老将というイメージがありまして。戦極姫ではいろいろと年齢順が変わっていますから、まあこれもその影響ということにできない……こともないかなあと。(苦笑

 

 今話において史実との大きな違いは、北条に関することですね。早雲がまだ当主なのは原作に準じたことだからいいとしても、氏綱と氏康が兄妹ってのは拙作の独自設定であり、また河越夜戦がすでに起きたことというのも史実とは異なっていることです。早雲と氏康の間には史実なら氏綱が2代目当主として存在していますから。河越夜戦は信玄の代に起きたことなので、相当早いです。でも早雲がまだ存命で当主の座に在るのなら、河越城合戦もすでに起きていてもおかしくはないと思いますので。

 

武川衆は教来石信房……つまり馬場信春がかつて属していたとされています。一条家と繋がりがあるのも事実です。信龍の話と繋げやすかったので助かりましたね。

 

小山田氏は武田信虎の命令によって北条と戦って大損害を被ったり、経済的圧迫を受けていたりというのは資料にもあるそうです。小山田氏が不穏な動きを見せる理由としては充分かと思って利用しました。

 

さてこれまた原作とは異なりますが……信繁がすぐには出奔しません。考えたんですが、出奔すればすべて問題解決なんて都合が良すぎると思いますので。

とは言え、戦極姫を原作としているのですからね。いつまでも戦がないのもあれですよね。てことで、あまりダラダラやらないためにも、省くべきは省き、次話より戦が始まります。

説明
戦極甲州物語の8話目になります。
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コメント
まさかまさかの急転直下。しかし思い通りに事が運ばないのも世の常な訳で……信繁はどう切り抜けるのやら……そしてここが恐らく信玄ちゃんのターニングポイントか(通りすがりのジーザスルージュ)
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