ワルプルギスの夜を越え 6・伽藍に咲いた魂の花
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 澄んだ夜の空は切り取った影絵のごとく、遠く山の峰まで良く見せていた

藍色に深く沈む夜の空に月明かりがある事を、これ程心強いものだと自分の胸を抱くほどに思ったのはあの日以来

焼け出されたあの時以来だとヨハンナは呆然と思いうかべていた

たった2日の出来事。夜にするなら一夜を超えた翌日に自分達の家長はこの世から居なくなってしまった

アルマの死

 

「どうしてですか…私、祈ったのに」

 

 ヨハンナは羊小屋を出た庭先の切り株を背に、力なくもたれかかり肌寒い空気を指で感じながらストールを深く巻いた中で声を殺して泣いていた。手には両親唯一の形見である小さな十字架を持ちこみ上げる思いを整理出来ぬまま震えて

やっと泣けたというところだった

それ程に昼間にあった事を心に押し込めていた

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 今日の朝、日が昇って数刻の頃にナナ達は城に帰ってきた

予想外の早さだったが故に一向の帰路が最悪の結果であった事も城内に渦巻く形で伝わっていた

 

「狼の群れに襲われ、アルマが食い殺された」

「共をした者達が何人か行方知れず」

 

 教会の仕事をしていたナナの元に話が届いたのは昼過ぎ、急ぎ走って広場に到着したのは羊小屋のメンツの中では一番最後だった。

仲間達の様子からも良く無い事が、本当の事であったと知るのは一目瞭然の状態だった

ロミーはシグリに抱き留められる形で泣き叫び、エラは唇を噛んで様子を見ていた

 

「なんでお前が死ななかったんだ!!そのために着いていったんだろうに!!」

 

 細身のラルフが自分のマントを投げ捨てる程の勢いで、罵倒と共に足を奮い蹴倒していた相手はナナだった

一人前の男の身からすれば、肩身も細く力仕事などしたことのない青びょうたんなラルフだが、身の丈をみればナナよりずっと大きな男が、遠慮無く小さなナナを蹴倒し殴り続ける姿にヨハンナは思わず走り寄ろうとしたが、その勢いはエラに止められた

強く掴まれた手を振り払おうとしたが、今度は蹴倒されて

 

「黙ってろ」

 

 尖った目に釘を刺された

それでも仲間を思うヨハンナは止まってなどいられなかったが、その勢いを体ごと抱き留めたのはシグリだった

「ダメ……ダメだよ……」

エラの目はただきつくつり上がっていたわけではなかった

握られた拳は震え、きつく唇を噛んでいた。目の周りを引きつらせ痙攣させる怒りの振動を必死で押さえている姿を下から仰ぎ見るヨハンナにシグリは言った

 

「今はダメ……エラだって我慢してるんだから……」

 

小麦の入った小さな袋のようにうずくまり、額を石畳に打ち付けた状態で伏せたナナの口には血が溢れていた

石に着く赤い泡を引っ張り回すように、ラルフと近習の若者達がナナを打ちのめしていた

 

「すいま……せん、私が……至らなくて……」

 

頭を下げ低く唸るように許しを請う小さなナナに容赦はなく

頭を石つぶてを蹴るように何度も蹴倒し、転がるたびに腹を蹴り、顔を上げて謝ろうとするその顔を拳で殴り倒した

 

「顔を上げるな!!魔女の卵が……お前はアルマの代わりに死ぬのが仕事だろうに!!何普通に帰ってきてるんだよ!!」

 

言うだけでも十分に非道な行為であるにも関わらず、円座でそれを見る町の人達も口々にナナを罵っていた

 

「アルマが狼に食われるなんて、ナナが手引きしたのよ」

 

 信じられない言葉だった

根も葉もない話にヨハンナの心の色は真っ赤になっていた

ナナがどれほどアルマを慕っていたかは十分過ぎる程に知っている

小屋の中で分け隔て無く家長として世話をするアルマもまた、城の外で働くナナの事を心の底から大切にしていた

だから放牧からの帰りが遅れたナナを心配して夜の城壁まで物見にまで行っていた

二人はどちらも互いを大切に思い合っていたし、ナナは教会の羊を預かる仕事までしてきているのに……こんな言われ方に、こんな酷い目に合わされるのが許せなかった

 

「離して!!シグリ!!あんまりだよ、こんなのってないよ」

 

自分をがっちりとつかまえた顔は目をつぶったまま首を何度も否と振る

 

「ダメ…ダメなの…我慢して、冬を越せなくなっちゃうよ…」

 

瞼の間にに涙を滲ませたシグリの懇願に、ヨハンナも首をふった

「そんな…だからって…」

冬を越せない、そう言われれば大きくは出られない孤児達

いくら教会に奉仕をしている者達とはいえ、町での立場は末席で、地を這う仕事で食いつないでいるのが現状

町の人達との仲を悪化させれば…そんな事があったら教会からも厳罰を受けかねない

ただのじゃれ合いならばとっくに仲裁に入っているエラが、拳で自分の胸を打つように我慢をしている理由はそれでしかない

 

「でも…」

 

ヨハンナの目に涙が浮かぶ

どうして自分達の仲間を護る事もできない

シグリに押さえられた体をほどこうとした力が抜けていく、シグリとヨハンナのやり取りにさえ恐怖を感じたのか震え無き続けるロミー

顔を押さえ、小さくしゃくりをあげて

 

「こわいよ…こわいよアルマ…」

 

 末の子の涙、シグリに押さえられていたヨハンナは慌ててロミーを抱きしめた

怖い

それが本当の気持ちだった

ナナが激しく暴行される事に心は刺され、掻き回される不安の渦を作っていた

この渦は収まることをしらず、一歩先の闇への坩堝を作っているのではという寒気を感じさせていた

同じように、今まで自分達の生活を支え矢面に立っていた家長を亡くしてしまったという不安

ロミーにとって母とも慕ったアルマはもういない

暖かな手で、自分達の背を支えてくれた大きな姉は帰らぬ人となってしまった

なのに

愛した家族がいなくなってしまうという当然の悲しみを町の人達は踏みにじっていた

 

「私…どうしたらいいの」

 

 涙に溶けてしまいそうなロミーの言葉に返す答えがないヨハンナは、強くただ強く小さな妹を抱きしめた

石畳を赤く塗るナナの血が、枯れていく季節の中で不自然な色を広げ羊小屋の孤児達は、大切だった母を失い冬の野原に投げ出されたように、喧噪広がる広場の中で呆然とした昼下がりだった

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「姉さん…」

 

 止められない涙で月を見ていたヨハンナに声を掛けたのはハンスだった

足下がおぼつかないのか、木戸に手をかけて悲しく眉をしかめた顔をのぞかせた

姉とは対照的な黒髪のせいか、いつも以上に白く浮いてみえるハンスの顔にも苦悶があった

切り株の隣に腰を下ろすと

 

「やっと寝たよロミー…泣くのも疲れるんだね」

 

 昼間の喧噪

ロミーは、半分気が狂ってしまったかのように泣き叫んでいた

まだ歳は一桁、物心つく前に両親を失ったロミーにとってアルマは大切な母だった

その母が死んで、体さえ戻らぬ無残な最後を聞くだけでも普通ではいられない中で、ナナへの暴行を見続けてしまった

小さな心がどれ程締め上げられのかは想像がつくものだった

ずっと抱きしめていたヨハンナ、食事の仕度をいつもどおりにして代わりをしにきたシグリ

二人の姉に抱きしめられてもロミーは泣き止まなかった

そのままハンスの足下に伏して無き続けたロミーを、ハンスは風を引かないようにベッドへ入れて来たと告げた。

 

 ヨハンナは何も言わず自分の纏っていたストールをハンスの首に回して労をねぎらうと、風に吹かれて解れた金色の髪を手で押さえ、遠い小屋までの道を見た

 

「エラの帰りが遅いから…心配でしょ」

 

 小屋に帰ってからエラはすぐに教父様の元に走っていた

このまま家長がいないままで年を越す事はできない、家長のいない家では市場での仕事さえ保証されないから死活問題だった。

エラはアルマと同じ歳だったが今まで家長にならなかった。理由は片耳が無いという事*1

見てくれの致命傷は髪で隠すなどして補えるが、知っている者達は禁忌とするが故に今まで家長にはなれなかった

だが、なれなかった事に対してアルマを嫌ったりした事はなく。アルマこそ優秀な家長であると認め市場での仕事に精を出してきた

 

 本来ならば誰か欠損のない者を協議で選び出したいが、今はそんな事を言っていられない。最早アルマも居なければ、リーリエの帰還もおよそ望めない

北の方に現れる狼の話は、件の卵泥棒の時から聞いていた事

この上、アルマを亡くし、共に出た町人の何人かもが怪我をしているのだから、たかが孤児の家長にリーリエを呼び戻すことを急ごうと教父様が考えてくださるとは思えなかった

北の方の修道院は、冬に備えて篭もりの仕度をしている辺境だ。

事を荒立てるより狼が去るのを待つという選択もある

むしろ、近づく祭りに備え不吉な雰囲気を払拭したいと教父様は願う事だろう

 

ならば今しか出来ない事もある

 

 歳からいけば羊小屋の次の家長にはエラしかいない、この騒がしい時ならば祭りの近い時ならば、教父様も面倒な事をいちいち審議したりはしない。たとえ欠損者であっても今なら通りそうだとエラは考えて、一気に事をかたづけて終わなければならないという使命感で出かけていたが、帰りは予想以上に遅れていた。

 

「心配だね…心配だ」

 

 姉の横に座ったハンスはただ繰り返した

陽は落ちてすっかり暗くなったあたりを見ながら、ヨハンナは弟と顔を合わさないように涙を拭うと感情を抑えて話しかけた

 

「きっと大丈夫だよ。エラは強いから……私も、もっとがんばるから、がんばって年を越そう。ハンスはロミーを励ましてあげて」

アルマの死から、すぐにそんな行動がとれるエラは強い。自分の弱さを実感したように悲しく言う

 

「わかってるよ。…でも悔しいよ、僕はなんの役にも立てない、こんな時なのに…こんな時だからこそ一番役に立ちたいのに…」

 

 弟の震える手から顔を見上げたが、ハンスは歯を食いしばっていた

与えられる優しさに心を破裂させそうな程熱いのか、白い息を一杯に吐き出す

まだ姉より身丈も低く細く痩せた色白な弟は首筋に苦悶の筋を滾らせているのを見せて

自分が男でありながら姉や女身で支え合う仲間に頼り切りである事が嫌で仕方なかったと吐露した

 

初めて羊小屋に来た頃に良く呟いた台詞だったが、ある時を境に言わなくなった言葉を蒸し返すように言い捨てると、声を荒げた

 

「僕はみんなの役に立てなくていつもイライラしていて、なのにアルマはいつも優しくしてくれて、ナナは僕に進むべき道までしめしてくれたのに……今でも何もできないのが、こんなに辛いなんて、僕がアルマと代われたらよかったのに、僕がナナの代わりに殴られれば……そのぐらいの役には立ったのに!!」

 

 姉の前で涙を見せたくないのか必死に月を見上げる肩が揺れる

ハンスは自分の存在がどんなものなのか良く知っていた

町の人にヨハンナのお荷物、役立たずの男と陰口ではなく、聞こえる言葉で言われている事も知っていた

だからこそ憤りで自分を、暗闇に投げ出そうという勢いだったが、弟の背中を姉は両手でつかまえた

今にも死へ走って言ってしまいそうな肩を

 

「ハンス!!ダメよ。こんな時だからこそ体を厭って…春までに元気になってくれたら…それでいいの」

 

自分では押さえていたハズの感情は闇夜の深さに滲んでいた

ヨハンナの声は震え、押さえられない涙がこぼれていた

「姉さん…ごめん」

「違うの…」

 

自分のふがいなさで姉を泣かせたと思ったハンスの謝罪をヨハンナは違うと首を横に振り

 

「辛いわ…すごく辛い。アルマが居なくなってしまったなんて信じられない。ナナにあんな事を言う町の人達を信じられない…ハンス、体はすぐに良くならなくてもいい、居なくならないで欲しいの、無理をして貴方まで居なくなってしまったら……姉さん耐えられない…」

 

 ヨハンナの碧い瞳から水の滴はとめどなく落ちた

優しかったアルマが、本当に一日にして居なくなってしまった

狼避けに同行したとされるナナは、今日から町の中で寝られない…町の外の小屋に追いやられてしまった

羊小屋に住んでいた仲間が一度に二人もいなくなったという寂しさは、ヨハンナだけで受け止められるものじゃなかった

この上、弟ハンスが無理をして……それが元で居なくなってしまうような事があればと思えば思う程に辛い

弟の手だけをしっかりと握った、弱く震える振動を止められないままに

だが姉の耐える姿を見れば弟ハンスの思いは余計募るばかりだ

自分の存在自体を恨めしいと言い出しそうな程

 

「でも……姉さん、僕は……僕は役に立ちたいよ、こんな体じゃなきゃ……いつだったてみんなを助けたいんだ」

「ハンス、そんな事……今は言わないで……」

 

唇を噛み、拳を地に打ち付ける弟を窘める。何を口にしていいのかお互いの間に沈黙の痛みだけが続く静寂に、エラの声がかかった

 

「早く寝るんだ、明日も早いんだぞ」

 

 軒戸をくぐり足音もなく帰った裏の顔は霞んでいて

短く刈り込んだ髪は少しだけ風に揺れ、普段隠している欠けた耳だけが月明かりにはっきりと見える

 

「エラ……」

 

 ヨハンナはハンスとの会話に対する申し訳無い気持ちと、帰って来たエラの姿に安堵で落ち着いた返事をした

今日この日、少なくなった仲間がまた一人帰らないなどという事がなかったのを素直に喜んだ

 

「良かった無事に帰って来てくれて」

「町の中だ、無事に決まっている」

 

 ヨハンナの柔らかい声に対してエラは角のある声で返したが

それは弱っている所を見ないようにする虚勢と手に取るようにわかる、顔には疲れが、蜘蛛の巣のかかったように沈んだ目が見える

金髪の下にある額に浮かぶ苦悶の亀裂、エラが羊小屋の仲間達のために苦労を買った傷

 

「明日も市場にいく、ヨハンナも明日も教会の仕事にいくんだ。何も変わらない、いつものように働くんだ。早く部屋に戻れ」

 

 変わらないという事が示すのは、エラが羊小屋の家長として任ぜられたという証でもあった

叱責にも近い声に押され木戸を戻った二人と入れ違いでシグリがエラを待っていた

手を大きめだがボロで穴あきのストールを持って小さな笑みで、ヨハンナとハンスを送るとエラと顔を合わせて頷く

 

「お帰り、エラ。無事で何よりだよ??、楽にして」

 

 迎えにる手を広げたシグリの胸にエラは真っ直ぐ、まるで引き寄せられるように進み顔を埋めた

ヨハンナは部屋に入る手前で少しだけ、それを見ていた

エラはシグリの胸の中で泣いていた。声を挙げずただ小さく蹲っていくようにしてシグリにしがみついて、開けられた木戸のまん前で崩れるように座り込んで

今日、羊小屋を瓦解させて終わないように、一日を耐えて戦ったエラは、今やっと声を殺して泣いている

 

 アルマとリーリエ、同じぐらい長い付き合いの友達を失ったエラが、辛くないなどありえない……怒って耐えて、ヨハンナ押さえ、ロミーを押さえ、教父様の前に立ち、自分達が明日を生きるための責任を果たしてくれた事実にヨハンナの胸は痛んだ

みんなが辛くて、こんなにも苦しんでいる事に

胸に輝く銀の十字架を握って祈るしかできない自分を責めた

 

「マリア様……どうか……私に強くしていられる力を下さい……お願いです」

 

恵まれぬ自分達の前にある苦難を、どう切り開けばいいのか。

ヨハンナは眠らなかった、眠らずに仲間を護る生き方を考え続けて朝を迎えた。

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 開けた翌日、朝の礼拝は長かった。

 

祭壇に立ち、岩のように硬く感じる顎を何度も大きく開いて説法をする教父様

田舎町ながらも、大きなグラス・マレライとカリオン塔を持つこの町にとって年の瀬は最後のかき入れ時だ。

大きな町ならいざしらず、静寂と自分達だけの特別な休暇を楽しみたい、貴族や諸侯、行商人達が落とす小金は町の大切な収入源だ

狼騒ぎぐらいで手放したくないという、商工会(ギルド)*2からの要請もあったのだろう

黒い礼服に、鉄扉を思わせる厳つい装飾の表紙を持つ聖書を片手に教父は告げていた

 

「信心高き皆様がここに居て下さる事で町は護られています。どうかマリア様への愛を信じてゆっくりとした時を過ごしてください。無用に粟立つ事こそ、皆々様の信仰心が試されているというもの、そのような事無きように、堂々とした姿でマリア様、ひいては主なる神に信仰心をお示し下さい」

 

 高い天井にまで響く野太く重い声の説法に、逗留している者達は速やかに十字を切り、何事もなかったかのように拝礼後のサロンへと解散していった

 

 冷たい水を抱えた手を真っ赤にして終わるのを待っていたヨハンナは、参加者にラルフの両親や兄がいるのを確認し理解した

みんな祝祭が近づく今、近くに起こった災厄を振り払いたい気持ちで参加しているのだと、だからもうアルマの事などなかった事になってしまったのだと

暗く沈み俯いたまま姿でイルザの元にいた

 

「……アルマは死んだの?」

 

 黒いフードをかぶり唇だけを覗かせたイルザは、外の景色を見たまま床を磨くヨハンナに聞いた

声の質から、アルマの死に対して懐疑的であるがわかったからヨハンナは普通に答えた

 

「はい……手だけしか残ってなかったそうで……」

 

小さく、自分の喉を絞める悲しみを抑えて

 

「どうしたらいいですか……町には魔女が」

「アルマは狼に食われたの?」

「そう聞いています、突然の嵐だったそうで……それに紛れた群れをなした狼に襲われたそうで…」

 

 ヨハンナは本気で恐怖を感じていた。イルザが求めている問いの意味を理解している余裕がなかった

昨日の今日では深慮ある考えが浮かぶはずもないままだった

町の中央にある教会の裏側、歪んだ別世界に魔女が生まれようとしている事実を知った。

迫る恐怖の前で助け手だったアルマが死に、今日を生きるためにも困難な状態

めまぐるしい苦行の渦の中にいた

 

「……アルマがいない今の状態では……あの魔女は倒せないわ」

 

 窓枠の木縁に腰を寄せ、自分に哀願する青い眼にイルザはため息を零した

 

「この町には…他にはいないのよね……聖処女は」

「いませんよ、わからないけど、イルザさんじゃ倒せないんですか?あんなに強かったのに」

 

 イルザの拒否は聞きたくない答えだったし、アルマ以外にいるかなど知りようもない事

にじり寄るヨハンナの問いにイルザは顔を隠し背中で答えた

 

「私が倒せたのはただの使い魔よ。魔女はあんなものじゃないわ」

「だったら、私を聖処女にしてください」

 

 一人では無理だからアルマの帰りを待つ事にした

それがイルザの選択だったのを聞いていた。一人で無理、頼みのアルマがいない今、助けとなる聖処女が必要ならば……

昨日の夜それを考えていたヨハンナはイルザの手を引き掃除の道具を入れる部屋に連れ込んだ

急な発言に驚きの目を見せた相手と、真剣に話しをするために普段ならやらないような行動を起こしていた

ドアを閉め、自分の背で通せんぼうをすると、言葉を無くしているイルザに

 

「私は、私は処女です。産まれてから今日まで不要な事で男性に身を触れさせた事は一度もありません。マリア様の御前に誓う事ができます。私は、私の信心を誓う事ができます!!」

 

 まだどうやって聖処女に選ばれるのかは解らなかったが、アルマの条件で選ばれたのを考えるに大切であるだろう条項を必死の目で告げた

信心を問うための条項を告げた青い眼にイルザは首をふった

 

「そういう事ではないけれど……聖処女になるには……ええ、それでいいのだけど」

条件について不備はないと言いつつも

「でも、ダメよ。貴女じゃ…」

「私でも成れるんですね、教えてくださいどうしたらいいんですか?他に何をしたら私は聖処女と認められるのですか!!」

 

 ヨハンナは必死だった

昨日アルマが居なくなってしまった事で現実的な生活において羊小屋の困窮は避けられなくなった

そして自分達はこの町以外の何処にも行けない身*3なのに町に魔女という魔が巣くっており、それを討伐する術がないという事

放って置いても魔女は災厄を呼ぶ……

これ以上災厄が続けば、今度は町の人がナナを殺してしまうかもしれない。

今ある不安を厄払いの見せしめとして*4

何もかもが不安で、考えが渦巻きに呑まれ纏められてはいなかったが、とにかく目の前にある不安、もっとも普通の身では対処できないだろう危険を取り除くには聖処女になるしかないという答えだけを朝を迎えるまで考え出していた

 

「落ち着いて」

 

 迫る体を両手で止めると、イルザは顔をだけを近づけた

 

「いい、良く聞いて。聖処女になるという事は…生涯を捧げるという事なのよ。尼になる以上に辛い事なのよ。それでもいいの、貴女の一生は誰とも歩めなくなるのよ」

「アルマは…アルマは私達のためにそうしてくれてたんですよね。だったら私もその道を選びます」

 

 涙に暮れ腫れた顔を、イルザの翠の目と付き合わせる

水の瞳は涙で満たされていたが、遠き炎を宿らせた決意の光を失っていなかった

イルザの肘に手を寄せて、深くお辞儀する

 

「お願いです、私を聖処女に…」

「ヨハンナ…待って、私だけで出来る事ではないのよ」

 

 頭を深く沈め頼み込むヨハンナの前でイルザは首を動かし何を探したが

「こんな時にはいないのね…」

小さく聞こえないように舌打ちした

 

 ヨハンナの申し出に付いては突発的ではあったがイルザにとっても助け船だった

主である婦人は狼を恐れて逗留を切り上げるのではと願ったが…その気はないと告げられていた

旦那様が心配なさるのではと、勧めてみたいが婦人の答えに背筋を凍らせたばかりだった

 

「あんただけ生き残って…娘の事を思ってくれたのはあんた姉とその友達だけなの?あんたは尼になって見守りたいと…そのためにここに来たのに、帰ろうだなんて」

 

 一人だけ生き残った

悔しさで奥歯をかみ砕きそうになったが、ここで主に見放されるわけにもいかない

尼になるにも後ろ盾が無けれ修道院にも入れない*5

 

 主は帰らない

魔女は後二日もあれば産まれてしまう

共闘者だったアルマは死んでしまった

 

選べる道は少ない

魔女は目を覚ませば必ず聖処女を狙う

戦いは避けられない

ヨハンナが聖処女になれば…

自分が生きるための算段だって必要だったが……

 

「ヨハンナ、もう一度考えて。聖処女なるために貴女は一生を差し出せるのか。一生を差し出すに適う願いがあるのか。大事な事だから、よく考えて、それからでも遅くないでしょ」

 

 何度か自分本位の意識を切り離そうと首をふってヨハンナをそっと離した

自分が生きるためにも助けが必要だが…聖処女になるのは……

ヨハンナは良い逆らわなかった。イルザの目を見て思いとどまった

この選択が、重い十字架になる。慎重な吟味を必要している。

イルザがその道を通って目の前にいる事を理解し、もう一度深くお辞儀をすると奉仕に戻って行った

今日一日を足早く動かねばならない中で。

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 城塞の外は干し藁をまとめ上げたスタックがいくつも転がっている。

収穫が終わった麦の残り香達は金色の山と積まれ凸凹の奇妙な風景を、城外を脈々と作っていた。

ここは山に囲まれた中にある盆地の中央に作られた町。

周囲を囲む山の峰は西に向かう側が一番険しく、そのおかげで主要街道からは外れた場所となったが、外れてしまった事で何度も戦火を逃れにれたという幸福もあった。

東の方に行く側には、川が流れている。

山に囲まれた中から町に入る川の水は、都市部あるような濁った水ではない*6、石清水を十分に味わう事ができる。

ただ農耕に使うほど豊富ではないため、麦の生産も町人の年次の蓄えぐらいにしかならず

それ故にここ何年か教会と商工会の尽力の元、流通に力を入れていた

 

 寒風が砂煙をつくる路肩でナナは独りで石取りをしていた。

灌漑設備である水路に落ちる石、流通を生命線としたこの町に今年最後の荷入れをする馬車が落とす石をどかす仕事は大変な作業だった。

同時に馬が落とす、馬糞の処理などもして歩いていた。

 

 雪こそまだ降ってこないが、風には冬の刃物が乗り喉を枯らす。

身を切る寒さの中で、水路の石取りをするため靴を脱ぎ素足で水の中を歩く。

足は冷たさにあてられ真っ白をとおりこし、青ざめ紫からさらに先の黒ずむほどに痛んでいた。

 

「アルマの代わりに町を護ろうとは思わないの?」

 

 スタックの影になる道を這い、水路から足を上げたナナの前には、白さがまぶしい毛並みのキュゥべえが大きな尻尾を振って座っていた。

暖かな毛並みを見るにナナは口元をへの字に歪ませるが、すぐに舌を出して唇を舐めた。

前日に殴られ蹴られた傷が顔にもたくさん残っていた。唇は何カ所も切れ、口を開くだけで血の味わいをぶり返す。

 

「ふん、私は町を護りたいなんて思ってない」

 

 町を護りたいのは、町に住んでこその思い。

追い立てられ懲罰を受けている自分に程遠い義心だと、舐めた血を水路に吐く。

嫌悪の仕草を遺憾なく見せるナナの前でキュゥべえは動じる様子もなく、真っ赤な目を持つ首を右に傾げる。

 

「東の修道院が今は一番危険だけど、山の魔女はいずれ町に来るよ、きっと……もっと大きくなって」

 

 ナナは深く被った帽子の下で顔を振る、茶色の髪を揺らしてうんざりと息を吐いて

 

「その時は町で祈ってる連中の信心が試されるだけさ、マリア様は微笑んで魔女を追い払ってくれるさ」

 

 自分の境遇をせせら笑っているだろうマリア様。そのぐらいナナから遠い聖人の力を信じる町人達

こんなに町から遠い自分にマリアの力を欲しくないかと問答するキュゥべえを鼻で笑った。

 

「町なんかどうだっていいよ。壊れたら私と一緒に石拾いでもすりゃいいさ」

「そうなのかい?でも、町には仲間がいるでしょ、魔女が来ても放っておくの?」

 

 嘲りの口調に動じる事ないキュゥべえは真っ直ぐに聞いた

雪を割る春の芽と良いイメージとは寒さでひび割れた踵を見ながらナナは少し黙って考えると

 

「アルマが勝てなかったのに……私に何ができるの、無理だよ……やっぱり無理……あんな死に方……」

 

 キュゥべえの横に腰を下ろし、白い息を吐いて俯いた。

思い出しても無残な最後だった、美しかったアルマの……形も残らない最後。

強かっのに……今までどんな魔女に対しても自信を持って戦っていたのに……

色々な悔恨で頭を揺らしながら、手を振った。

 

「町に来たら……その時は仲間だけ連れて逃げるよ。それが一番だ」

 

 投げやりな問答の後、少しの呵責で白い使者を払おうと手を挙げたが、顔を上げたナナの隣にキュゥべえの姿はなかった。

 

「なんだよ……言い逃げかよ、耳毛ウサギの野郎……」

 

 急に居なくなった相手は気配もなかった。

ナナは少し落胆した。

ここでは話をする相手もいない、風の音だけが大きく小さく干し藁の山を揺らす下で流れる水を見て背中を丸め込んだ。

体中に残る打撲の後と、壊れた自分の唇を手で触れる

 

「聖処女になって、町を護ったら……なんか変わるのかよ!!答えろよ!!」

 

 赤い唾を吐いて怒鳴った。

 

「ナナ……いるの?」

 

 キュゥべえの声はしなかったが、別の声がスタックの表側からした。

聞き覚えのある声

 

「ヨハンナ?何してるのこんなところで!!」

 

 包みを抱き、驚きに目を開いているヨハンナをナナは勢いよく藁の山に引っ張り込み

「誰かに見られたらどうするの?危ないでしょ!!」

相手の口を押さえて叱った

引っ張られるまま藁の山に体をめり込ませたヨハンナの目が瞬きをして、ふさがれていた口の奥から

「痛い……藁……」と、小さく返事した

 

「痛い、ああ藁ね」

 相手が望みどおり声を小さくして答えてくれたので手を口から離す。

身丈だけならヨハンナより頭一つ小さいナナだが、力はけっこう強かった。

その手に引かれ藁に埋まったヨハンナは、フードの中に入った草を払いながら

 

「藁って柔らかくないんだね……いつもエラは平気で寝てるからもっとふんわりしてるのかと思ってた……」

「まだ刈り取って二月(ふたつき)ぐらいだし、芯があって硬いからね。あとエラは丈夫なの、メキメキ入ってくしね」

 

 羊小屋に、同じような境遇で暮らしていても寝床にベッドがあったヨハンナには初めての体験だったのかまだ硬い藁に触れながら感心する。

 

「ダメね、私まだ甘えてたって事だね。エラはベッドを作ってくれたのに、私は藁で寝る大変さも知らなかったなんて」

少し肩を落とし髪を覆っといたフードを取って払う

 

「そんな事より、こんなところにきたらダメだよヨハンナ。町のやつらに見られたら大変な事になるよ」

 

 世間話をしようとしていた相手の流れをナナは断ち切ると、昨日の今日、町の人に災厄を世飛瀬混んだと罵倒され、町の中に居られなくなった者のところに出かけてくるなんてあまりにも常識がないと叱ったが

ヨハンナは聞き流して、包みを開くと

 

「ナナ、木の実を煎ってきたの……昨日から食べてないでしょ」

 

 自分より小さな体のナナ。

ナナは羊小屋ではロミーの次ぐらいの小さいし、痩せている。

子供の頃から食べられない日が多かったと自分で言うぐらい気は強いが、怪我まで背負った友達を心配しない訳にはいかないと袋の木の実を入れて持って来たのだ。

教会での奉仕を昼前に済ませてきたのはそのためでもあった。

 

「何か食べないと」

「……大丈夫だよ、イナゴもいるしカエルや蛇だっている。まだまだ食べられるものなんていっぱい落ちてるんだから」

思い浮かばない食料の名前にまゆを顰める顔にナナは釘をさした

 

「とにかく早く帰りな。みんなに迷惑がかかるような事はしないで、私の事なんか放っておけばいいんだよ」

 それは相手に対する思いやりでナナの口から出た言葉だった。

魔女の卵と忌み嫌われる自分の元にヨハンナがこれば、教会で働く立場を悪くするだろうという気持ちだったが、返事は反発だった。

 

「嫌だよ、放っておくなんて出来ないよ。ナナは私の大切な友達なんだよ。私とハンスを羊小屋に置いてくれた命の恩人なんだよ」

 

 強く前に踏み出したヨハンナに驚きながら、ナナはあの日、姉弟を小屋に迎え入れた日の事を思い出していた。

 

 商家の子供だったヨハンナとハンス。上流階級である貴族の贅沢を知らず、下層階級である農民の貧しさも知らなかったけど、普通で幸せな家族のいた家から焼け出された日。

町の人達は火事を止め、延焼を防ぐ事に手一杯で、その後に残された子供達の事なんか誰も気にも留めなかった

 

「お願いです!!私が働きますから、ハンスと私を使ってください」

 

 働かなければ生きられないという困窮の中、ヨハンナはハンスを連れて助けを求めていた。

だが、大人達は誰一人として色よい返事をしなかった。

ヨハンナだけならば、引く手もあったのだが病弱で顔色を悪くしてついて回る弟ハンスの世話をする事に難色をしめし、ヨハンナだけならばと、非情な答えしか返ってこなかった。

だがそれは両親を失ったばかりのヨハンナには出来るハズもない事だった。

この世に残されたたった一人の親族を置いてなど、どこにもいけない、このまま冬を越えられずに死ぬしかないと諦めていた時だった。

 

「二人ともおいでよ」

 

 市場でボロぞうきんのような服を着て働いていたナナは手を伸ばして言った。

家長だったアルマに相談したわけではなかった。ただ突然手を伸ばしヨハンナとハンスの手を引いた。

 

「私ね、うれしかったよ。すごく、ナナが手を引いてくれなかったら、リーリエやアルマにもエラやシグリにも、ロミーにも会えなかったし生きてさえいられなかった。ナナが助けてくけたんだよ。憶えてる?ナナ、リーリエとアルマに私の事をどうやって紹介したか」

 

「憶えてるよ……」

 あの日、羊小屋の仲間が増えた日。

 

「私の友達。今日から一緒に暮らすからよろしく!!」

 

 ナナは羊小屋の中で唖然としている仲間達にそういってヨハンナとハンスを紹介した。

リーリエは大きく首を傾げ、アルマは参ったという顔をしていた。

だけど最初の一言が大きかったのだろう

 

「ナナの友達なら仕方ないわね」

 

 苦笑いを見せる家長の一言に、誰も嫌な顔をせず二人を迎え入れた。

 

「私はどんな目で見られたって平気だよ。大切な友達のために出来る事をするだけ」

 

 普段はそんな事を口にしない、言わなくてもわかってる事を確認して話すヨハンナの顔をナナは見つめた

どこか急を要し、何か重荷を背負ってしまっているように前のめりになっている肩に手を置くと

 

「よーくわかった。だけど気持ちだけでいいから……私といる所をみられたら悪い事が起こるよ、まだ日が浅いからあいつら(町の人)は、私を殴りにくるんだ」

 

 掴まれた肩の間にある顔が「何で?」と傾ぐ。

ナナのひび割れた口は卑屈に歪むと続けた。

 

「災厄が起こるとしばらくの間は必ず来るんだ。自分達が安心するためにね。あいつらは自分より惨めな者がいないと不安だから。私のようなのがいて、酷い目に合っているのを見て幸せを感じて、災厄を払うんだ。不幸は身近にあってやっと自分の幸せを感じられるってヤツさ。だから危んだよ」

 

 驚きの原理にヨハンナを首をふり、金色の髪を乱して否定した。

 

「どうしてそんな事をするの?そんなの良く無いよ、罰せられる事なんかないのに、それで幸せだとか、だから殴るなんてマリア様が許さないよ」

「そんな事ない、そういう仕組みなんだ、マリア様がそれを許してるんだ」

「マリア様はそんな事許さないよ!!」

 

 諦めた声でヨハンナをたしなめ、ため息を落とす。

 

「いつもの事なんだ、もう成れたし平気だから心配しないで。殴られても引かせる方法を私は知ってるから。酷い事をされたときは必ず笑うんだ。泣くとあいつらはもっと酷い事をしにくるからね。笑えば気味悪がってこなくなる」

 

 両手を開いて口を笑わす顔にヨハンナは繰り返し否定と首を振る。

 

「そんなの許せないよ。教父様に言うわ、どうしてナナにこんな酷い事をするのって、間違ってる!!マリア様は絶対に許さない!!」

「そうマリア様は私を許さないよ。私は魔女の卵だもの」

 

 声を荒げてしまったヨハンナの前でナナは静かにと口に手を当てて迫る。

このまま熱弁をふるわれても、自分の運命は変わらないという諦観からナナは行動に出た。

 

「ヨハンナは私の顔を見たことがないんだよね」

 

 語る唇はきつく自分を律して動いた。覚悟のいる会話に空気の冷たさをより実感する。

突然の言葉に息を呑み、ヨハンナは見た事はないと静かに頷いた。

隠している何かがある事はわかっていたが、前髪の下に隠された顔は見た事がなかったし、聞く事もなかった。

片耳がないエラの事もあったし聞くのは失礼だとも考えていたからだが……

答えに困っているヨハンナにナナはもう一歩体を前に、顔を近づけると

 

「見てよ、私の……目」

 

 分厚く隠していた前髪を両手で開いて見せた。

 

「あっ……」

 

 次の瞬間ヨハンナの体は二歩引いていた。両手で口を押さえて。

ナナの左目は水晶を入れたように真っ白に輝いていた。

普通の黒目の部分がなく、白く広がったそれが黒目の外輪近くまで広がっており、右目の普通の状態とは明らかに違っていた。

 

 黒とシルバーの目。

互い違いの目が真っ直ぐにヨハンナを見ると、力を抜いて微笑んだ。

 

「怖いでしょ、気持ち悪いでしょ、魔女の目なんだよ」

 

 答えられず固まっている体から手を離すと

 

「だから、いいんだ。この目をマリア様は許さないよ。マリア様が許さないような者に酷い事をしても罰せられないよ……」

 

 クルリと背中を向けると、悲しくないよと弾んだ声で続けた。

 

「それに別に町に戻りたいなんて思ってないし。ヨハンナ、私ね……あの時助けたのは……うまくいけば私が追い出されるかなって、町からでていけるかなって考えていたの。だってさ、こんな目を持った災厄の元よりヨハンナの方が教会の役に立つでしょ。それで私はどこか遠くにいけたら良いなって……そう思ってただけなんだよ。だからヨハンナは心配なんかしなくていいんだよ。私の事なんか放っておけばいいんだよ」

 

 背中を向けたまま前髪を直す姿は小さく見えていた。

静かに離れていこうとする背中に、強くヨハンナは抱きついた。

 

「驚いてごめん、でも怖く無いよ。だってナナはナナ、変わらない私の友達だもの」

「ヨハンナ……」

 

 手の力は、ふりほどこうとするナナの力を熱く上回っていた。

 

「町から出て行くなんて、そんな事は言わないで、誰もいなくならないで……そういうものから私が護るから、ナナも護るから」

 

 居なくならないで……

 

 アルマがこの世から消えてしまった事は二人の心に深く刻み込まれていた。

枯れ木のように葉を落とし、羊小屋から人が居なくなってしまうのは恐怖だった。

身寄りのない者達にとって、そこだけが家族であり帰るべき家なのだから、それを護りたいと二人とも同じ想いを持っていた。

ただナナは自分の事で迷惑をかけたくないから距離をとる事で護り、ヨハンナは離れようとしている傷ついた友を抱き留めて護りたかった。

 

体を寄せ背中に鼓動を伝えるように寄り添うヨハンナに、ナナはただ頷いた。

 

「ありがとう……よくわかった」と

-6ページ-

 

 

 

 

 

 

 ナナと別れたヨハンナは聖堂の前を歩いていた。

夕闇時に、聖堂に近づくのは危険だとイルザに言われていたが祈らずにはいられなかった。

仲間が皆苦しんでいる、これを打開するための力として、自分がマリア様の手となり働く覚悟をどう示したらいいのか、それを請い深く身を沈めて祈っていた。

 

「やあ、ヨハンナ。君の心は決まったかい?」

 

 頭に響く声は祭壇の上に座っていた。

漆黒のトーチに座す白い使徒、赤い眼はグラス・マレライから反射する夕日に照らされた神々しく尻尾を揺らして問うた。

 

「今日、君を見ていたよ。アルマに代わり町を護りたいという君の気持ちを良く見せてもらった。さあ言ってごらん君の願いを、今生最後の君が欲する想いを引き替えに聖処女の力を与えよう。僕が君の願いを叶えてあげる。君の覚悟にその資格を認める」

「貴方が……与えてくださるのですか」

 

 カリオン塔が一日の終わりを告げる音を、大きく響かせた時。

乱反射の夕日の園に立つヨハンナにキュゥべえは答えた。

 

「イルザに与えたように。君にも与えよう」

 

 長く伸びた耳が陽炎のように揺らめくと、祈りのために重ねていたヨハンナの胸に触れる。

 

「さあ、願いを。後悔のない想いを、聖処女への道を歩く覚悟を、僕との契約によって果たしておくれ」

 

 何重にも響く鐘の音の下ヨハンナの体は一瞬浮き、反射する光の影の中に緩やかに柔らかに落ちていった。

 

「願います。私は……」

 

 熱く燃えた意思の輝きは、重ねた腕の奥を抉り出し輝きの宝石を浮かび上がらせる。

淡く輝く赤い宝石。仲間を想う心血が結晶化した宝はゆっくりとヨハンナの手に向かう。

 

「さあ、受け取るといい。それが君の運命だ」

 

 伽藍の塔に万感の音色は響き、光り園に聖処女は誕生した。

-7ページ-

 

 

 

 

 

 

 

 

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 とあるワルプルの無駄知識(注・ここのワルプルは偽物、本物は虚淵さんちにいるハズw)

 

 注釈をいっぱい書く理由は1つ

物語の背景を知って欲しい事と、学校では習わないだろう歴史を、ついでに少しだけしってもらえたら……

「それはとっても嬉しいなって、思ってしまうのでした」www

無駄な事をぉぉぉ

 

読まなくても支障なし、でも読むと少しだけ物語に深みを与える注釈コーナー

 

 

*1 片耳が無いという事

 

 時代的なものが大きいのですが、中世に置いて不虞の者に対する扱いは実に不当なものでした。

作中のエラは市場でも程度の信任がされている者でありますが、実際は市場の老女達が言ったように「欠損者」という差別を受けていました

エラは耳が聞こえないのではなく、片耳を食われた(狼に噛まれて失った)ため、耳たぶなどがありません。

 手術など絶対になかった中世において、体の部位を欠損するとどれ程醜い怪我が残ったのか…考えなくてもわかるものですが、そういうものを中世の人達は忌み嫌いました

だから、前章のアルマも自分が色盲である事をずっとかくしていた。これは死活問題だったからです

人と違う

あるものが無い

 これに対する差別は教会の教えの影響も少なからず合った時代。

今でもあるでしょうが、この時代に貧民で女で欠損者である事は致命傷でした。

 

*2 商工会

ギルド

 

 

 中世ヨーロッパでの商工業の成り立ちは、地場産業と流通業の衝突から発展していったといえます。

元々中世の頃のドイツは連合国家、もっと小さい首長国家の集合体で、それがヨーロッパ中央の地図を何回も書き換える戦争の元にもなってました

(ちなみに現在でも集合国家です)

で、小さいながらもやっぱり城社会なんで、地場産業が地元では強力でしたが、戦争と同時に切り開かれる道によって、流通を元とする商工会ができあがると、 流される物によって地場産業だけでは太刀打ちできなくなっていき、結局商工会同士が喧嘩して色々もめて、痛いのイヤだから仲良くやれよと、ギルド(職業別 組合)を形成するに至ります

実は前章で書いたように、マリア崇拝を基本的にローマカトリックは認めていませんでしたが、黙認するようになったのもこの流通の問題が深く絡んでいました

商工業は元々に教会の保護下に形成されていたため、主とする教会の持つ聖人を自分達の守護聖人としていたからです

つまり、この小説の中ではマリア様を守護聖人として町に根を張っている商工会

ギルド

が存在るという事です

そうなると自然にマリア礼賛は大きく行われ、祭りとして祝日が制定されたりもしたのです

祭りが決まれば、人が集まります。そういう商売のうまみがあるからこそ聖人は祀られたりもした時代であり

教会が「聖商」に手を染めてしまった時代でもありました

 ちなみに狼と香辛料の設定はこの時代の商工会制度を拝借していると考えられます

ホロさんみたいな美人とだったら一緒に旅をしたいと願う今日この頃ですぅ

 

*3 この町以外の何処にも行けない身

 

 中世ヨーロッパにおける小型の都市集合体、首長国家では生まれた町の名前が名字にそうとうする市民階級がいました

「俺は、何々村の某だ」

冒険RPGの自己紹介文句にありかがちなコレは、その名残から取っているとも言えます

これに当てはめヨハンナの自己紹介をすると

「何々城何々教会で奉仕をするヨハンナと申します」という紹介になります

これがそのまま身分証明でもあったのです

 ヨーロッパ諸国は中近東諸国家とも陸続きの土地でした(所々に大きな川とか泉とかあって途切れたりするけど、日本海を挟むほどの距離を持った国家はなかったという事です)

当然移民が多く、人が行き来した土地でもありましたが、その時代時代で差別や区別の対象となった人達がいました

簡単にいうと、町単位で住んでいる人種が違うのが普通だったり、なので

身分証明は大きな「保険」だったわけです

知らない土地にいって何か会った時に自分を証明できるものがなかったら、階級によっては即日処刑なんてざらだった時代です

証明できなければ、流民・危険な人種として処刑です

だから、「何々村の者です」とか「何々町の者」ですとういう下層階級でも自分の住んでいる町で、自分を知る人達がいるという事が唯一の身分証明になりました

間違って捕まっても

「俺は何々村の者だ。町の者が俺を知っているから呼んでくれ」

となれば、その町に「何々さんをつかまえているが知っている者はいるか?」と呼びかけられえん罪から逃れる事もできました

 ヨハンナ達羊小屋のメンバーの今の保険の力は「教会の奉仕者」という特別な物で、よその町でも十分に通用する身分証明

孤児である彼女達にとって大きな保険なんですね、だけど逆にその名義に縛られているためどこにもいけないというのも事実でした

 教会の保護が無ければ、ただの孤児で無法者の扱いを受けてしまう…

孤児になったら社会的地位は本当にない時代のとっも辛い現実でした

 

*4 今ある厄払いの見せしめとして

 

 ルネサンス時代からヨーロッパは色々な分野で花開く事になるのですが、時代に逆行するような部分も多分にありました

特に教会を中心とした芸術文化の発展はめざましかったのですが、発展を享受し豊かになった教会が認めなかったがために廃れた技術もありました

それが医療や機械文化の方でした

特に医療は、人の中身を見るという事において禁忌とされました

Leonardo da Vinci

レオナルド・ダ・ビンチ

は、人体デッサンを極めるために安置された死体を解剖した事で教会に目をつけられました

人とは神が作った存在。故に人が人を癒すなどあり得ない事と教会は決めつけていました

人を癒すのは、神への信心のみと厳格に決めていました

 この時代、魔女狩りもありましたが教会は今以上に男社会だったので、女=魔女という禁忌は加速の一方でした

だって男社会に出産の奇跡は理解のしようがなく、ただ脅威で

同じように、本来なら理解され改善されるべき社会習慣も改善されず、信心至上主義により災いがあるのは「神に反する誰かのせい」という世迷い事がまかり通っていました

なので今回町に災いを呼んだのは鼻つまみ者、常に忌み嫌われてきたナナのせいだと言い出す者がすでに存在し、その思い込みが増長してナナが殺されてしまうのではとヨハンナ心配していたという事です

 

*5 尼になるにも後ろ盾が無けれ修道院にも入れない

 

 現在でも簡単に修道士、修道女(尼)になれるわけではありません

教会の指定する会衆に入り一定の修練期間を経て、適正や道徳心に対するテストが終へて審査され合格が出た人しかなれません

 ただ中世ではこの基準が大なり小なり崩壊してました

ちょっと前に宗教改革あったばかりだし、財貨が潤うために教会が出来たりしたから

色々あるけどぶっちゃけた話、貧民は修道者になんか入れなかったんです

何故かというと、中世では教会の地位はかなり高いものだったからです

救世軍による施しなんてかっこの良いことは言ってますが、その実貧乏人にこそ「信心しなさい、教会のために尽くしなさい、『そうすれば』報われる事でしょう」と説法していたのですから

貧乏人の農夫達が、生活が苦しいから修道僧になるとか、修道女になるとかなんてありえなかったんです

だから裕福な貴族などの後ろ盾がなければイルザのような没落騎士の娘ではシスターになんか成れなかったんですね

金なんです、こういうのは全部

教会を潤せる財力=信仰心にもなったんです

ですが修道会自体を非難しているわけではありません。修道会に入るには読み書きが出来て勤勉であり欲がないという者が多く、これらの人たちによって聖書の翻訳や古文書などの多くが現代に至れたわけですから

カトリックの歴史は長い、途中中だるみになったり腐ったりもた。そういう事です

 

*6 都市部にあるような濁った水ではない

 

 中世ヨーロッパの水事情

給水方法として川と井戸(地下水)を利用していましたが、ものすごく不衛生でした

特に町の水は雨水がもっとも衛生的だったのではと思えるほどに汚かったのです

良く……とっても綺麗なお城に綺麗な城下町っていう絵がありますが……あれはパリなどごく一部の町ではそういう景色もあったでしょうというもので、実際は屎尿を窓から無造作に捨てたり、庭先で用を足したり、下水の排出を全部川につなげてしまったりとやりたい放題だったので、かなり水は汚れ、町も汚れていました

 ぶっちゃけ、屎尿の濾過や浄水の技術が出来上がったのは19世紀にはいってからなんで、人口が増えるほどに疫病の元となったのでした

そのため水の綺麗な土地が重宝され避暑地となったのは、こういう背景もあり

静養は本当に衛生週間の改善期間だったのかもしれません

 

 

 衛生習慣……

当時の生活は好む好まざるを別に不便な時代だった事からも上から下までどの階級の人も不衛生でした

ただ上位階級になれば改善するための静養もとれたりしたので、余程に変な悪習を持たなければ病気にも耐えることができました

 

 ナナの目は、ナナの生活習慣もあるのですが先天的なものが大きく代々貧民だったがために短命で、常に病気や異常に晒されてきた結果とも言えます

病名は「白内障」

現代社会では年寄りに多い病気と考えられているものですが、当時は少なくない病気でした

そして前章で書いたように、欠損者に対して風当たりの強い世界でした

エラは耳がない、狼に食われたという原因共々恐怖にはなり得ませんでしたが

目は、余程に怖かった事だと考えられます

事実、オッドアイ(普通に目は見えるが両目が色違い)は魔女の卵と呼ばれ忌み嫌われました

現代ならそんな事もないですが、当時は本当に人と違う、欠損を持つ、これらは村八分にされる原因であり、魔を狩るとして殺されたりしたものでした

説明
所々に原作リスペクトの台詞あります!!原作大好きです!!
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