幽世を視る女と人の恩人の話。
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霧が立ち込めた森の中に、小さいながらも可愛らしい家があって

そこには妙齢の女が一人で暮らしておりました。

女には夫が有りましたが、不運にも若くして亡くなっており、

そういう時代だから仕方がなかったと、女はよく零しておりました。

女はとても小さな足をしていましたので、

ひばりの骨を混ぜて作った木靴をいつも履いておりました。

 

女はぼんやりと誰ともなしに言いました。

「こんな時代にいやしい身分に生まれたって、良いことなんてありゃしない

 いくら天に気に入られたって、生きてるうちは何にもなりゃしない

 あの人だってもう何処を探したっていない

 あたしはなんて不幸なめぐりだろう」

 

ある日曜に女が庭の垣根にある薔薇の手入れをしていると、

枝切り鋏を垣根の向こう側へ落としてしまいました。

ぐるりと回ってとりに行くのも面倒だったので、

女は垣根に顔と腕を突っ込んで拾おうとしました。

すると不思議なことに、垣根の向こう側は真っ白と真っ黒の光で輝いておりました。

これはどうしたことかと、女はさらに身体ごと乗り出して、

とうとう垣根を越えてしまいました。

 

そこには、女が今まで見たことの無い、奇妙な人々がおりましたが

女はそれらが全て死人と悪魔であるとすぐにわかりました。

 

一人の悪魔が、女を見つけるといいました。

「ほほう、こりゃあ何て珍しい

 垣根を越えた人の子など、数十年ぶりに見た」

女はおそるおそる尋ねました。

「もしやここは幽世なのかい

 うちの庭先はいつからこうも様変わりしたのかい」

 

悪魔はそれを聞くなり、大声で笑い飛ばしました。

「するとあんたは、何も知らないで、本当の偶然に、

 こっち側に来てしまったというのか

 これはなんて傑作だ

 いいか女よ、垣根の向こうには昔っからあの世があるのさ

 魔女になった奴らがあの世の奴を見れるのは、その目がいつでも垣根を越えてるせいだがな

 だけどな、無理に超えようったって、そりゃあ無理な事で

 それなりの素養のある奴が、なんとかしてやっと来るくらいだ

 今までおれたち悪魔や死人は、そうして垣根を越えようと無理して

 悲惨な目にあった奴らをごまんと見てきた

 ところがそれがな、たまーにな、何かの拍子にひょいと越えちまうやつもいる

 だがそんなのは悪魔の一生でさえお目に掛かれれば幸運なもんさ」

 

女は一体何の話をされているのか、ほとんど解っておりませんでした。

それもそのはずです。

女だって昼は働いて、夜は祈りを捧げて、日曜日には礼拝に通う、

そんなごく普通の人間だったので、そんな話を耳にすることさえ

今の今までありませんでした。

しかし女には、訳はわからないものの、気になることがありました。

「ときに悪魔よ、お前さんはあたしの大事な夫は知らないかい

 ここには死人もわんさかいるんだろう

 短い茶髪に、ひげの無い、緑色の目をしたやつなんだがねぇ」

 

「ううむ、気の毒だがそれだけじゃあわからねえな

 いずれにしたって、死んで行き着く先には地獄か天かのどっちかだろうがなあ」

悪魔はふむふむと考え込むとそう言いました。

女はとても残念そうにしておりましたが、そうしていても仕方ないので

帰ることにしました。

 

「あたしはもう帰るよ、こうしていたら日が暮れちまう

 庭の手入れが出来るのは休みの日だけだからね」

ところが女が元いた場所に戻ろうと再び垣根をくぐった時、

運悪く片方の目を薔薇の棘で引っ掻いてしまいました。

女は憎憎しげに、本当にどこまでもついていない等と舌打ちしながら

血まみれの目を開けました。

 

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女が目を開けると、そこには何の変哲も無い庭先に、

先ほどまで話をしていた悪魔が立っているのが見えました。

しばらく驚いていましたが、それに気が付いた悪魔の方が、

今度は驚く羽目になりました。

 

「ややあ、これは本当にたまげた」

悪魔は暢気に言いますが、女は目は痛いわ、悪魔が庭先にいるわで、

まともに口も利けません。

 

女はそこら中の至る所に潜む悪魔や、妖精や、死人に、目の怪我も相俟って

三日三晩はたっぷりとうなされて、げっそりと痩せこけてしまいましたが、

次第に楽しくなってきました。

まるで今まで心にずっしりと溜まっていた埃が、ごっそりと取り払われた様に

女はとてもすがすがしい気持ちでした。

それを悪魔は言いました。

「そりゃあ女よ、不幸なんてものの概ねはそいつの心の質なんだ

 あんたが変われば不幸の規だって変わるさ

 今やあんたは、いっぱしの魔女さ

 例えあんたが認めなかろうが、周りは誰も魔女だと言うだろうさ

 魔女の心は人の常識なんてものに囚われない

 魔女は人であって人じゃない

 魔女はどこまでも自由に世間を見聞きしてこそだ

 人間だった頃と、同じように感じたり、まして悲しむはずもあるまい」

 

「それじゃあ魔女になったあたしはもう、あの人とは会えないのかい」

女は不服だといわんばかりに尋ねました。

「そうさな、そりゃあ解らんな」

悪魔は素直に、そう答えました。

「もしどうしても会いたいなら、辛いことをそっくり捨てて努力をしたらいいさ

 そうしたらひょっとすると会えるかもしれん

 いずれにせよ今のあんたは人じゃなく魔女だ

 そんなら、魔女の生き方をした方がずっと良いにきまってる」

 

それから女は、今までの下働きの仕事を辞めると

森の中の自分の家にひっこんでひっそりと暮らすようになりました。

愚痴を零すのも、めそめそと泣く事もしなくなりました。

その代わりに毎日、まず読み書きを覚えていくと、

こんどは本を読み、草木を知り、様々な言語を学びました。

そうしていつか夫を自分の元へ呼び戻すことが、女の生甲斐になりました。

 

また悪魔は女にこうもいいました。

「おれたちの世界より、人の生きてるこっちの世界の方が遥かに夢があるのは解るな

 あっちの世界じゃ、どいつも目が死んだ体たらくどもばかりだ

 そんなんなもんだから、悪魔も天使もこの世界にちょっかいを出すんだ

 夢があるってことはつまりな、それだけ喜びも悲しみも多いってことさ

 魔女になった女よ、お前は楽しむべきだ

 どうせ何処にも永遠はないのだから、泣くより笑う方が良いに決まってる」

 

女はそれっきり、その悪魔と会うことはありませんでした。

後に女は悪魔を人の恩人呼び、次々訪れるお弟子さんたちに話して聞かせました。

 

 

説明
魔女の娘さんの育ての母親が、どうして魔女になったかの経緯です。
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