思い悩む青年とその恋人の話。 |
嵌木床で素朴な趣きのアトリエがありました。
アトリエの主はひょろりとした美丈夫な青年で、
画家を生業としておりましたが、
今は見る影も無いほど精彩を欠いて憔悴しきった面持ちでした。
青年はつい去年に師の元を離れてアトリエを持つことを許されたばかり
でしたが、いざひとりイーゼルに向かっても、
ろくすっぽ心にものが浮かばない処か、写生さえ気が乗らなくなり、
しまいには思い悩みすぎて患ってしまうといった有様でした。
青年は今まで描いたものと、人の描くものを見比べる度に、
底の見えないどろりとした闇に飲まれるような、
あがらいようの無い絶望の淵に立たされる思いでおりました。
「嗚呼、嗚呼、
俺の描く絵は、どうしてこうなんだ
いやまったく、どうしてこうなんだ
中身が薄くて、まるで技術だけをひけらかす様な下品さといったら
お師匠さまのところにいた時分じゃ、こんな風じゃなかったのに、
やっと少し名前が売れて、念願にしていたアトリエを構えた途端
まるっきり駄目に思えて仕方が無い
世の中には素晴らしいもんがいくらだってあるっていうのに、
俺の心と言えば、どうしてこう薄っぺらなんだろう
どうして俺は心に浮かぶ、幸せだとか、不幸せだとか、教訓だとか、夢だとか、
そういった、つまり、人生の何もかもをすっかり描きたいのに、
どうしてこうなんだ
どうして思ったとおりに描けないんだ」
そうして青年が今にも干からびてしまいそうな様子でイーゼルの前に座っておりましたが、
とうとう数歩歩いたところで倒れてしまいました。
ところでこの青年にはエレンという恋仲の女性があり、
エレンは日毎に弱る愛する人を、心底憐れんでおりました。
ある日菓子パンと上等のぶどう酒をこさえて青年のアトリエを訪れたところ、
なんと青年が冷たくなって倒れているではありませんか。
エレンが吃驚仰天して青年を抱き起こしますと、
青年は何とかゆっくり目を覚ましました。
「嗚呼、あなた、お気づきになって本当に良かった
あたしったらあなたが死んだのかと思った途端に、目の前が真っ暗になったのよ
後生だから、きちんとお休みなっていてくださいまし」
青年はエレンを仰ぐと優しく言いました。
「エレン、俺は浅はかで才能が無いばっかりか、本当に、まるで駄目な絵しか描けないんだよ
幾ら描いても描いても、いやむしろ描いた分だけ虚しくなっちまうんだよ
俺はどうしたら良いんだろう
ねえ、俺の愛するランブイエ
俺が描きたいのは、世の中にあるけれど無いもんでね
つまり、心の中を描きたいんだよ
詩歌のように雄弁に語る絵が描きたいんだよ
でもそれには、俺の心じゃ薄っぺらくて、そういったもののほんの一欠けらだって、
描けっこないんだよ
だけどねエレン、俺はもう、そういったものを描くことにしか興味がないもんでね
エレン、聡明な君なら、どうするかな」
エレンはつい今しがた休んでと申しましたのに、とくすくす笑いながら
青年に横になれる場所を突貫で誂えました。
青年はそうしていつでも傍にいてくれるエレンを見ると、
どんなに参っていても心がぽっと華やぐのを感じて嬉しくなり、
またそんなエレンに気をもませる自分を深く恥じました。
「エレン、この気持ちなんだよ
君が俺にくれる、この、深緑に陽が差すような、
この素晴らしい気持ちを、俺は何としても絵にしてみたいんだ
わかってくれるかい」
「まあ、あなたったら」
青年の独白を聞くと、エレンは思わず頬をばら色に染めました。
「あたしはあなたを誰より良く知ってますし、神様がお慈悲深い事も知ってますのよ
あなたの心配も、苦悩も、誠実さも、きっと絵にして昇華できましょう
大切なのは、焦らずに愛をもっている事ですわ
愛は忍耐強く情け深いものですもの
あたしはあなたを心から愛して信じておりますよ」
「嗚呼、エレン
君が画家で、俺が妻ならどんなに世の中巧くいったか」
青年はそう呟くと、すうと眠りに落ちていきました。
安らかに規則正しい寝息を立てているのを聞くと、エレンはここ最近で一番安心して
抜き足差し足でアトリエを後にしました。
夜中、青年がふと目を覚ましアトリエを見渡すと、
見慣れたイーゼルの前に一人の少女が立っておりました。
初め青年は、エレンかと思い名前を呼ぼうとしましたが、
どうやらもっとずっと幼い出で立ちでしたので、尚の事驚いて
さっと起き上がって少女に駆け寄りました。
とんがり帽子に紫色の外套をさらりと纏った風情でした。
「お兄さんは画家でいらして?」
見た目から受ける印象よりずっとはっきりと大人っぽい発音をする少女に、
青年の方がたどたどしいく頷くのに精一杯でした。
「わたし、画家って好きよ
世界にあるのもを題材にしてるのに、
その絵ときたら、まるで現実ではないのですもの」
「お嬢さんは、絵に造詣があるのかい」
「少しだけよ
たくさん見たから、少しだけね」
少女は照れたような、申し訳ないとでも言うような調子で応えました。
「たくさん見たのに、少しだけなのかい」
「ええ、そう、結局そんなものなの
わたしのお母様が仰るにはね、どんなにたくさん見聞きしても、
ほんとに理解できるのはそのうちの小指分くらいしか、
ときにはそれすら受け取るのは難しいのですって
あなたの絵、ずっと見てたけれど、ほんとに素敵よ
幸せと不幸せが同居してるでしょう」
少女はちらりとイーゼルに掛かっている絵を見遣りました。
少女が称賛したそれは、青年が倒れる直前まで描いていた渾身の一枚でした。
青年は喉を詰まらせながら少女に問いました。
「お嬢さんには、これが、このただの婦人の絵が、そう見えるのかい
そんな風に、見えるのかい」
「まあ画家さん、ただの、だなんて自分を賤しめる言い方は
わたしに聞かせないで下さいな
それにこの絵の真実は、それだけじゃないでしょう
わたしまだまだ未熟者だから、今は少ししかわからなくてごめんなさいね」
青年はただ頷くばっかりで、何も言えやしません。
いつのまにか床に崩れ落ちて項垂れていた青年が、ようやく立ち直って見ますと、
不思議な事に先ほどまで居た少女は、今や影すら見つかりません。
ですが青年は、晴々した心地でもう一度絵と向かい合いました。
「まあ、あなた、今日は随分楽しそうね
お加減も、宜しいんじゃなくて?」
「嗚呼エレン、愛しいランブイエ
わかった気がしてきたんだよ
いや、少しだけどね
この間、小さな子供が尋ねてきてね
それがまあ何とも不思議尽くしだったんだが、その子はなんと、
この俺の絵を素敵だと言ったんだ」
「それはそれは、ようございましたわね
あたしにも、そのお話は聞かして下さるのかしら」
「そうだね、そりゃもちろん、お茶でも飲みながらゆっくり話そうじゃないか
でもその前にエレンには、この絵を見てもらえないかな
あと少しで完成なんだけれどね」
青年が言うが早いか、イーゼルの向きをくるりと変えてその絵をエレンに見せると、
エレンはその可憐な顔が沸騰するかと思うほど、みるみる真っ赤になるのが
自分でもはっきりとわかりました。
それから青年に飛びつくと、世にも幸せそうにエレンは言いました。
「あたし、今ほど嬉しい事ってないわ
あなたの絵はやっぱり、何より素敵で、嗚呼、とても言い尽くせないわ」
アトリエの窓越しには、年端も行かない少女の姿が
二人のいきさつを見守っておりました。
少女は傍らに控える翼を持った猫に尋ねました。
「あの画家さんは、何か変われたのかしら」
「それは、吾らには知り様が無い処だが、でも、あの様子ならきっと大丈夫だとも
どんなことでも、どんなときでも、万事首尾よくなんて事は有り得んのさ
魔女の娘さんが、彼の画家の絵から受けた感銘は、きっと彼が、
一番強くあの絵に込めた心だったのだろうからね
きっと救われたのだろう
ときに愛というものは、非情な我慢を強いるし、残酷な死刑執行になりうる反面、
往々にしてそれは報われるべき尊いものなのだよ
そして芸術とはいつの時代も、そういったものでしか成り立たんのだよ
だからこそ、そこには業火の苦しみが影のように付き纏うのさ」
翼を持った猫はがさがさの濁声でごろごろ鳴きました。
「ときに魔女の娘さん
どうしてあんな嘘をついたのかね」
魔女の娘さんと呼ばれた少女はふふっと、年相応な笑い方をすると、
なんだか嬉しそうにしながらまたどこかへと歩いて行きました。
それから一年後の秋には、
小麦が美しい片田舎のある教会にて、画家の青年とそのパトロンの娘との婚礼が
たいへん盛大に執り行われたそうです。
説明 | ||
画家の青年がスランプに陥ってしまったお話です。わたしの中でとても気に入っているお話ですので良かったら読んでやってください^^* | ||
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