戦極甲州物語 拾巻
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 恵林寺の歴史は鎌倉時代より始まる。

 臨済宗の高僧、夢想礎石を招いて開山され、甲斐における臨済宗の中心となった寺である。応仁の乱が及ぼした日ノ本全土への影響甚だしく、恵林寺もまた応仁の乱による被害を受けて荒廃した。

 武田氏代々は恵林寺への復興にそれほど関心を持っていなかった。甲斐は長らく独立した小領主たちによる内乱状態にあり、守護の武田氏は甲斐統一が最優先にあり、国内で浄土宗と日蓮宗の宗旨争いもあったことで仏教への関わりは避けたかったという事情もある。信虎の代になって甲斐統一が成し遂げられてからも信虎は宗教への関心が薄く、むしろ寺社勢力が民衆を扇動して一揆を起こさないかと睨みを利かせておくほどであったため、恵林寺の復興など望めようはずもなく、ただ朽ち果てるだけ。近年、信玄が出家したことと信繁による寺社政策が功を奏し、武田家による寺社への対応も比較的軟化したが、恵林寺にその手はまだ届いていなかった。

 

「…………」

 

 臨済宗は禅宗の1つであり、他宗派より戒律や修行が厳しいとされる。それゆえに質実剛健を理想とした武士たちに気に入られ、信繁もまた臨済宗の教えを是として禅もよくこなした。

 恵林寺は前世において浄土宗に帰依して出家した信玄を以ってして特に大事にされた寺だ。武田氏の菩提寺ともなった。できることなら信繁も死後は恵林寺へと弔ってもらいたかったものだが、川中島にて死した身ゆえに自身の亡骸が恵林寺に弔われた可能性は低いだろうと思っていた。せめて二度目の生を受けたこの世においてはここに葬られたいと思い、恵林寺の復興は是非とも果たしたかったのだが……叶わぬままに終わるかもしれない。

 

「……恵林寺に幽閉されるとは、幸運なのか皮肉なのか、どちらであろうな」

 

 信繁は静かに呟きながら少しだけ閉じていた目を開いた。

 夕刻よりずっと禅を行って精神統一をしていたため、目が暗闇に慣れていたようだ。すぐに室内の荒れ様がしっかりと捉えられた。

 骨組みがあらゆるところで折れ、ボロボロに破れた障子の戸、その隙間から漏れ入る月の光だけが明かりだ。天井には蜘蛛の巣があちこちに見られ、信繁が座す畳は火災の際の名残か黒い煤が纏わりついており、歪んでしまったのか傾きもある。何者かが荒らしたように畳は折り重なっていたり破れていたりと、かつての面影など微塵もない。

 かつては神聖な場であった寺も、神聖であったがゆえに荒廃すれば独特の不浄な空気を醸し出す。仏教においては天国と地獄は表裏一体のように描かれることもあるが、この寺の在り様もまたそれに通じるところがあるのかもしれない。御仏の御加護を受け、御仏に近づかんと自身を清く正しく導く……そんな神聖なる場を荒らした人間に加護は与えられない。仏に見放された寺は地獄へと落ちる。その結果が恵林寺の今の姿ということではないだろうか。

 

「むう……さすがに痛むな」

 

 後ろ手に縛られながらも信繁は正座で禅の姿勢を取っていたのだが、時折突き刺さるような痛みが走り、長い間正座でいたこともあって、足の痛みは耐え難かった。おもむろに足を崩し、胡坐をかく。手は縛られているが、足は縛られていないのが幸いだった。

 

――――『申し訳ありません、信繁様……』

 

 申し訳なさそうな兵たちのせめてもの情けなのだろう。主君の命に背くことはできないながらも、信繁を捕えることに拒否感のある兵たちの心情を察し、信繁は逃げる気も起きなかった。今自分が逃げたら兵たちがどんな目に遭わされるかは想像に容易い。もし信繁の捕縛を虎泰や信方、昌辰たち重臣の誰かが担っていたとしたら、その責任を取らされるかもしれない。

 

 

 

 それでは、わざわざこんな時のために用意しておいた偽の連名状の意味がない。

 

 

 

 信虎に計画がばれないとは限らない。そのときのための対策を立てておくのは当然のことだ。

 その1つが連名状の存在だ。

 あれが信虎の目に入れば、たちまち名を記した重臣の首が飛ぶことだろう。厳しい刑は免れまい。成功すれば武田家の団結力を示すものとなるであろうが、失敗すればたちまち武田家の力を削ぎ落としてしまいかねない諸刃の剣とも言える連名状の存在は、何としても死守せねばならなかった。

 

(左五よ。何とか逃げおおせてくれ……!)

 

 信繁が捕まったのは鷹狩りと称した郡内の小山田との秘密会談から帰ってきた後、直ちに中山・笹尾の両砦へと向かおうと甲府を発ったときのことであった。韮崎の辺りで信虎の命を受けた兵に拘束され、こうして恵林寺へと連行された。

 このとき、左五は甲府に戻ってきたところで虎泰の屋敷へと書状を持って行かせていたため、信繁と共に捕まることはなかった。

 信繁はこういう場合に備え、左五にある命を言い渡しておいたのだ。

 

――――連名状を偽の連名状とすり替え、本物の連名状を持って直ちに穴山殿の所へ行け。

 

 穴山氏の当主、穴山信友はここしばらく態度を硬化させて軍議などにも出席しない、消極的抗議の姿勢を取っていた。信繁が計画に加わり、信友も正式に参画したが、信繁は信友には引き続きその方針を継続するよう申し伝えていたのだ。いきなり軍議の場に出るようになれば、それこそ信虎に不審を抱かせかねないからと。如何に信虎であろうと、一門の扱いであり、甲斐では小山田氏と並んで有力な国人衆である穴山氏をそう簡単に敵に回すことはできない。穴山氏は今川氏との関係も深く、甲駿間の外交には穴山氏が仲介及び武田側代表を務めることも多い。今川氏との外交を考えれば尚更慎重にいかざるをえないと、こうした種々の要素を勘案した上での判断だった。

 

「とは言え、巻き込ませたことはまこと申し訳ない、虎昌殿」

『お気に召さるな、若』

 

 壁を隔てた隣室に捕縛・拘束されている虎昌からの返事。こんな状況にあるにもかかわらず、彼の声は平素と何ら変わらない。肝が据わっているのか、すでに諦めの境地にあるのか……そこは考えるまでもなく前者だと信繁もわかるが、さすがに信繁はそうもいかなかった。

 

 

 

 

 

 虎昌は、偽の連名状にも信繁と共に名を連ねていた。

 

 

 

 

 

 信繁1人の名前だけで、あとは誰かもわからない名前を列挙しても真実味に足りない。それでは偽物であると気づかれる可能性が大きい。疑う余地もないとまではいかずとも、相応に本物と信じさせるだけの説得力を持たせなくてはならない。

 そう考えた場合、虎昌の名はうってつけだったのだ。

 何しろ虎昌は信繁の傅役だ。共犯者としてはこの上ない人物だろう。おまけに虎昌は武田四名臣の1人に数えられる重臣中の重臣。他の重臣が何人も名を連ねる以上の意味がある。

 それでも信繁は虎昌や昌景、勘助を外したかったのだが、彼らはさすがに信繁に近しいだけあって鋭く、信繁の意思に反してその名を自ら記した。

 

『傅役は同時に最も近いところに在って運命を共にする者でござる。言うたはずじゃ。何かあればわしは若を必ずお守りすると。若を守り、若を盛り立てるがわしの務め。むしろ巻き込まれなんだらわしは飛んできて若に拳骨を食らわせましたぞ』

「そうか……それは命拾いしたな」

『まっことその通りじゃ。だっはっはっはっは!』

 

 虎昌の豪快な笑い声に、壁がビリビリと震えている。何だか漆喰の壁がところどころで床に破片を落としている気がしないでもない。声で寺を破壊するつもりではなかろうなと本気で心配したくなる信繁。そんなことを考えてしまう自分に気づき、この状況に似つかわしくない心配事だなと苦笑せずにいられなかった。

 

 そして次の瞬間には、苦笑は自嘲へと変わるのである……。

 

「――くっ……なんだ、この有り様は……!」

 

 無様に捕えられている自分が情けなさすぎる。

 どうしてばれたのか……内通者の存在、監視といろいろと考えられるが現状において重要なのはそんなことではない。前世においてはああも完璧に隠し通し、速やかに信虎追放を成し遂げた『兄上』に対し、自分は何と手際が悪いのか。隠すどころか、信虎が計画を察した素振りにも気づかず、自分の方が捕えられてしまうとは何たる恥態。何たる失態。何たる醜態か!

 これが武田信玄と武田信繁の能力の差ということなのだろうか。だとすればどれだけその差は開いているのか。前世において武田信繁は武田信玄からいったい何を学んできたのか。

 拳を叩きつけたい衝動に駆られる……が、手を縛られている身ではそれも叶わず。項垂れ、唇を噛み締める。それぐらいしかなかった。地団太踏むことはできないこともないが……それはあまりにみっともない。これ以上の醜態は晒せなかった。いや、もはや五十歩百歩かもしれないが。自身への嘲りは信繁に舌打ちをさせる。後悔と自戒の念へと変わっていく。

 

『若、諦めるは早すぎでござらんか?』

 

 まるでそれを読み取ったように、虎昌が割り入ってくる。信繁は壁へと顔を向けた。壁の先にいる虎昌を見抜くように。

 

『わしも手こそ縛られておりますが、足は縛られてはござらん。見張りすら近くにはおらん。これはすなわち、逃げろと言うておるに等しきことでござる』

「…………」

『すべての兵がどうかはわからぬが、途中から増えた兵の中に何人か見覚えのある顔がござった。おそらく、老の兵じゃ』

「甘利殿……!」

 

 武田家宿老中の宿老。武田四名臣の1人にして、同じ四名臣の虎昌・信方・昌辰よりも存在感があり、武田家内外に武田の最重臣と認知されている老将。

 その老将が密かに訴えている証であると、虎昌は言う。

 信繁は老将の配慮を思い、歯ぎしりした。

 これはただの配慮だけではない。信繁はしっかりとそれを理解していた。

 

 

 

 これは老将が死を覚悟し、身を投げうってまでしての配慮なのだと。

 

 

 

『やはり老は偽の連名状のことを察したのでござろうな。いや、さすがじゃ。老を出し抜くことは若でも無理でござったか』

「…………!」

 

 気づいてもおかしくはないだろう。

 何せ信繁が計画の中枢にいたことは間違いないとして、なのに虎泰たちは御咎めがない。虎泰たちがこれを訝しがらぬわけがないことは信繁とて予想していたことだが……それでも虎泰のこの覚悟の配慮までは見抜けなかった。

 2人を逃がせば、見張りの兵は信虎の勘気を被るだろう。そうなれば兵たちの上官たる虎泰も当然責任は免れない。虎泰のことだ、逃がしたのは自分の指示だと言い、兵に罪はないと訴え、自身の命を差し出すだろう。

 これ以上、武田の力を削ぐわけにはいかない。だからこその信繁の策であった。しかし虎泰は信繁と虎昌こそを生かそうとした。共にお互いこそが武田のために必要だと思ったがために。

 信繁はままならぬ世に怒り、虎泰の覚悟と自身へ向けてくれた忠義に涙せずにはいられなかった。

 

『若……老の覚悟を無駄にしてはなりませぬ』

「…………」

 

 信繁は迷った。

 確かに虎泰の覚悟を無駄にするわけにはいかない。しかし本当に虎泰を失ってまでこの計画は遂行すべきなのか。誅殺される家臣たちを見て、これ以上武田家の力を削ぐわけにいかないと思ったことが立ちあがった切欠の1つなのに、この計画が武田家最大の功労者とも言うべき老将を失わせては意味がないではないか。

 何より信玄を武田家当主にするための前段階としての信虎追放計画。ここで信繁が老将の命を犠牲にしてしまえば、それは信虎のやって来たことと何ら変わらない。それでは周囲の理解など得られないだろうし、諸将の計画からの離反を招いてしまいかねない。そうなれば甲斐を二分しての内乱だ。信濃の村上たちや近隣の勢力などの侵攻も間違いなくあるだろう。そうなれば武田は力が削がれるどころか滅亡ということにもなりえる。

 

(……その切欠を、私が作り出すことになるのか……!)

 

 策を以ってしてだろうと武力を以ってしてだろうと信虎を追放すると決意した。

 だがどこかで楽観視していたのかもしれない。前世で成功したことだから今度も上手くいくだろうと。

 愚かなことだと信繁は自身を蔑む。すでに4将の死を止められなかった身で、何を馬鹿なことを考えていたのだろうかと。

 例え計画がばれても信繁は自身が最悪切腹を申し付けられたところでそれはそれで構わないと思っていた。そうなれば信玄が自動的に当主になるだけであるし、ある意味ではそちらの方が穏便に済むだろう。ただそれでは信玄が信虎を追放することになるかもしれないし、もしかしたら信玄がそうする前に武田家が滅びるかもしれない。その懸念があるからこそこうして信繁が立ち上がったわけであるが、そんなことを考えていたことが覚悟の甘さを生んだのかもしれない。

 これを帳消しにすることはできないだろう。ならばせめて少しでもこの失態を拭うことこそが償いになるかもしれない。

 ここで信繁も死んでしまったら、何のために虎泰は命を散らすことになるのか。それこそ無駄死にではないか。

 

「己の不覚悟が招いたこの事態……すべて受け入れ、生き恥を晒してでもやるしかないか」

『この虎昌、最後まで若について参りますぞ』

「ああ、頼もしい限りだ、虎昌殿」

 

 隣室で虎昌が立ち上がったらしい音がした。信繁も首を動かし、何か縄を切れるものはないかと探す。生憎と刀はさすがに奪われているし、虎泰の兵とてあからさまに道具まで用意しておくわけにはいかない。信虎配下の兵に気づかれないようにしていてくれるだけでも御の字だ。暗い部屋の中を見回っていると、鋭く尖った木の枝が見つかった。寺が焼けたときに落ちてきたのか、天井の梁の一部であったもののようだ。信繁はそれを何とか拾い、根気よくやるしかないかと嘆息しながら動かし難い手で必死に切っていく。

 

「――!」

「――」

 

 しばし汗を垂らしながら信繁が悪戦苦闘していると、おもむろに外が騒がしくなったことに気が付く。

 馬の鳴き声が重なり、人の足音が忙しなく絶え間なく聞こえてくる。

 

『……増員でござるかな?』

「今更さらに兵を送ってくる理由がわからぬが……」

 

 信繁の救出を企む者がいないとは決して言えない。だがそれなら最初からそう警戒しているはずだ。信虎も無能ではないし、むしろ躑躅ヶ崎館の立地からしても警戒心は人一倍強いのだから、その辺りは抜かりないと見ていいだろう。恵林寺は廃れた寺ではあるが、近くには躑躅ヶ崎館に移るまで武田の本拠地であった川口の館がある。ある意味、武田の御膝元。しっかり場所は選んでいるところも、信虎が警戒している証左だろう。もしかすると廃寺を選んで信繁救出が容易いようにみせかけ、企む者を誘い出す魂胆かもしれない。叛意を持つ者を炙り出そうというわけだ。

 とは言え、外の騒がしさは戦のそれとは違う。剣戟音も聞こえないし、怒号や悲鳴もない。ただ見張りの兵が交代しているだけの話なのだろうか。

 

『ふんっ……ぐぬっ!……ええい、解けん』

「虎昌殿、待て。少し様子を見よう」

『ぬう……昌景、勘助がおればのう。早く戻って来ぬか、あやつら』

 

 信繁は壁に体をくっつけ、手元を見られないようにする。一見すれば柱に縛り付けられているようにも見えることだろう。

 さもあらん、やがて廊下を足早に進んでくる気配が複数。

 そして慌て気味に呼びかけている声――それを聞き、信繁は目を閉じた。

 

(ここで会うとは……これも父上の差し金か)

 

 皮肉の利いていることだと、信繁は笑うしかない。その笑顔を浮かべたまま、信繁は訪れた者たちを迎える。

 

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 恵林寺に来たのは初めてのことだった。

 かつての武田の本拠であった川口の館には何度か訪れたことがあり、途中で離れた場所から寺を見たことはあるが、実際に訪れることはなかった。

 こうして訪れると、恵林寺の荒廃ぶりはひどく、門は今にも朽ちて崩れそうだとはっきりと見て取れる。壁や柱は多くが黒く焦げた跡を晒しており、よくこんな状態で今だ寺を支えているものだと驚いてしまう。

 だが信玄にその余裕はないようで、彼女は寺の様子などに見向きもせず、馬から降りてすぐに寺の中へと入っていく。慌てる1人の兵を無言で押しのけると、他の兵たちはそれを見てただ道を譲るしかできなかった。護衛としてついてきた教来石景政という名の、変な馬の被り物をした女子が渋るのを無視して門外に待たせ、信虎配下の兵が案内を申し出ても信玄は必要ないと突っ返すだけ。

 

「お待ちください。謀反人が信玄様に襲い掛かりでもしたら……!」

「謀反人の1人はあの?甲山の猛虎?でございます! どうか兵をお連れになってください!」

 

 兄を謀反人呼ばわりされ、確かにその嫌疑をかけられているとは言え、まるで確定したように言われて信廉は後ろをついてくる兵たちに向き直って一言物申そうとした。

 が、それには及ばなかった。

 

「下がりなさい」

 

 先頭を歩く信玄が立ち止まり、顔を向けて睨み上げたのだ。その声に抑揚はなく、普段怒っていても高く静かで厳かな色はない。吐き捨てるが如く、そしてこの姉にはこんな声を出すこともできるのかと信廉でさえ初めて聞くほどに怒りに満ちた低さ。そして綺麗な瞳が湛える優美さはなりを潜ませ、急角度でつり上がる眉も相まって剣呑な雰囲気を放っていた。月明かりしか光源のない廃寺という状況が、信玄の顔に陰影を作り、それがより不気味さと恐ろしさを与えている。

 向けられたわけではない信廉でさえ喉を鳴らしたほどだ。すでに躑躅ヶ崎館で信玄の覇気にやられて気絶した信龍は身を震わせ、覇気を浴びせられた兵たちは一瞬で言葉を詰まらせた。

 

 

「し、しかし……!」

「――下がれ!」

「は、ははあっ!」

 

 兵たちはその場に跪いて頭を下げ、すぐに踵を返してつんのめりながらも戻っていく。脱兎の如くとは斯くの如しを言うのだろうか。

 信玄は口を開けて息をし、その目は苦しげに歪んでいた。肩を怒らせ、拳を震わせて。ややあってその口が閉じる。唇が噛み締められる。舌打ちにも似た息を吐き、信玄は再び着込んだ甲冑に4本の小太刀の重みなどないかのように歩みを進める。

 それを追おうとした信廉だったが、よろけて倒れかける。咄嗟に柱を掴んで耐えたものの……そこで自身の足が力なく震えていることに気づいた。

 

「…………」

 

 耐えたつもりであったが……それでもあの覇気に当てられて信廉の身は力が抜ける一歩手前であった。

 もはや信玄は特定の誰かに覇気をぶつけることさえもできず、ただ垂れ流している。それを浴び続けたとあっては、相当の胆力でもない限り立ち続けることはできない。信廉も信龍も武田一門。その誇りと自尊心がこれ以上倒れることを許さなかったというところか。鎧を着込んでいたらどうなったかはわからないが。

 

「……姉上」

「……大丈夫です。信龍は大丈夫ですか?」

「少し気持ち悪いけど……ノブタツも大丈夫だぞ」

 

 そうですかと返しながら信廉は信龍の頭を撫でた。そして震える足を叱咤して、小さくなる背中を追いかける。

 信玄は迷いなく歩を進め、寺の奥へと向かっていく。案内もないのに。

 しかし信廉が不思議に思うことはない。昔から信玄はこうなのだ。

 幼少の頃、よく鬼役の者が隠れた者を探すという遊びをやったが、信玄は一度として見つけられなかったことがない。特に信繁のこととなるとどこに彼が隠れようと探し当てた。その理由を聞いても信玄は何となくわかるのですとしか答えてはくれなかったが、その際に信繁が無言のうちに頷きながら信玄の頭を撫でていたのを、とても印象的に覚えている。

 今ならわかる気がする。信玄はそんな幼少の頃から、すでに覇気というものを感じることができたのだと。信繁はそれに気づいていたのではないだろうかと。信繁もかなりの覇気を持っている。少なくとも信廉や信龍以上。だからこそ逆に信玄は信繁を探し当てることができたのかもしれない。

 覇気を隠している状態ですらそれなのだ。隠してもいないのであれば、信玄が信繁の居場所を察せないなどありえない。

 

「……兄上」

 

 信玄の足が止まった。

 朽ち果てた部屋の1つ。入り口に立って部屋の中に目をやる信玄が突きを背にする形となる部屋。

 そこに、柱を背にして後ろ手に縛られて座っている信繁がいた。

 

「……信玄か。信廉と信龍もいるのだな」

 

 信繁は目を閉じたままでそう言った。目を閉じていても信廉と信龍のことを察しているようだ。

 言い当てられたことを、やはり信廉も信龍も驚きなどしない。信繁も覇気の使い手であることなどわかっていたことだから。

 むしろ2人の疑問は信繁の浮かべる表情にこそあった。

 

「兄上……?」

「なんで……笑ってるのだ?」

 

 あまりに穏やかに。すべてを受け入れているように。

 信繁は、笑っているのだ。

 それが信廉にはわからない。そして……否が応にも不安にさせる。嫌な予感を抱かせる。

 

 

 

 すなわち――信繁は死を覚悟しているのだと。

 

 

 

 確かに。

 確かに信玄たちは信虎に命じられて来た。信繁を斬れと。

 信繁はもはやそれを言わずとも察しているのだろうか。実の父がこの自分を斬れと、同じく子である信玄たちに命じたのだと。そんな非情なことを察してなお、受け入れているのだろうか。

 そう思うと信廉は沸々と怒りが湧き上がるのを感じた。当たり前だ。

 こっちは兄と慕い、目標だと敬ってきた信繁が捕まったというだけで困惑し混乱しているというのに、あろうことか謀反を企てただの斬れだのと言われてもう何が何だかわからない状態だというのに、当の本人は全てを受け入れているかの如く笑っているのだ。これで怒るなという方が無理からぬこと。叫びたい。飛びついて胸倉掴んで。それを堪えながら、しかしなぜ堪えなければならないのかと心は訴え、信廉はその訴えに異論を挟むことなくその通りに動こうとした。

 

「――姉上?」

 

 それを、信玄が制した。

 信玄は信廉をその場に押し留めると、自身が一歩前に出る。

 

「兄上が謀反を企んでいるとのこと、父上より聞きました」

 

 先ほどの兵に対するものに比べればかなり抑えた口調であったが、いろんなものを押し殺していることが明らかな声でもあった。

 信繁にこれといった反応はない。笑みを浮かべたまま、聞き入っている。さながら眠っているのではないかと錯覚するほどの穏やかさで。

 

「……否定なさらないのですね」

「否定することにどれほどの意味があろうか」

 

 無言は肯定の印。言い訳も反論もなし。

 それがより信廉の中で苛立ちを増させる。どうして否定しない。どうして弁解しない。

 否定してほしい、弁解してほしい……それが信廉の本心であることを、信廉自身もわかっていた。こんなことは嘘なのだと、兄を斬りたくなどないのだと。なにもかもわかっているというのであれば、自分たちがここに来た理由とて見当がつきそうなもの。だったら斬らせないでほしい。兄は自分たちに斬れと言うのか。信玄に止められているので思いをぶちまけることができず、信廉はもどかしさに唇を噛み締め、拳を震わせ、信繁を鋭く睨みつけることで自身を抑えつけるしかない。

 

「あの連名状は本物ということですか?」

「すべてが偽りではないとだけ言っておこう」

「……その物言い、まるで私を試しているようにも聞こえますね」

「試すつもりなどない。今更お前を試す必要などないのだからな」

 

 嘘か真か、どちらにせよ信繁の言葉はひどく挑発的だ。信廉はこれまでの信繁のことを思い起こしても、こんな兄は見たことがなかった。

 いつも優しいばかりではなかった。怒るべきときは怒り、信玄であろうが信廉であろうが信龍であろうが頭を叩かれて叱られたことはある。傅役たちにはできない真似だ。そのあたりは虎昌に影響を受けたのかもしれない。

 からかわれたことも数知れず。しかしそれも状況を弁えてのこと。今、このような場でそんな挑発的な態度を取ってきたことなど、少なくとも信廉には覚えがない。いったいこの兄は何を考えているのか、ますますわからなくなってくる。

 

「なにゆえ、謀反など?」

「……わからぬわけではあるまい。お前とて懸念を抱いていたはずだ。このままではならぬと」

「っ……」

 

 信繁の顔から笑みが消える。代わりに現れたのは信玄たちを射抜く真剣さそのものの真っ直ぐで毅然とした表情。

 信繁が見ているのは信玄だ。しかしその後ろにいる信廉も信龍も射抜かれたような気がした。いや、事実としてそうなのだろう。信繁は信廉にも信龍にも話しているのだ。

 

「父上の全てが間違っているとは思わない……私も同感だ。父上だからこそ甲斐は統一され、武田は精強となった。これは紛れもない事実」

「ならその父上を支え、盛り立てるのが子の私たちの役目ではないのですか?」

「……やってきたさ」

 

 声質が変わった。腹の底から出したように低くなった信繁の声に怒りが籠ったことを、信廉はしっかりと認識する。

 ただその怒りは信虎に向けられたものとは思えなかった。怒りが籠った声に怨嗟の色が感じられない。唇を噛み締めた苦々しい表情からは、恨みや憎しみではなく、自身の力が及ばなかったことへの悔いや嘆きが見て取れた。

 

「私なりにやってきた。治水の強化、家臣団の保護、秩序の制定、技術者の育成……だがそれらは全て父上の意には沿わなかった」

 

 方向性の違い。その一言に集約される。

 外へ視線を向ける信虎と、内へ力を入れる信繁。

 決して外へと気を向けることが悪いことではない。戦だけではなく、同盟や和睦といった外交政策でも信虎は一定の成果を上げている。外交が戦なしに甲斐を安定させることはある。

 しかしそれも武力や国力があってのこと。それらが弱いと周囲からは同盟や和睦に対して価値なしと見られる。この時代、血の繋がりや情で同盟や和睦など結ばれることはない。必ず関わる者たちには思惑というものが存在する。現在では敵対しているとは言え、元は親密であった北条と今川とて同じこと。早雲が今川とつながりがあったために親密であったが、北条は関東制覇、今川は上洛と、双方に目的があり、共に背中合わせとなることで背後の脅威を失くしたいという意図があった。そうでなければ歴史ある今川が下剋上でいきなり出てきた北条と懇意の仲になろうなどと考えないであろう。

 武力が弱いと同盟や和睦をするより従えさせた方がいいと考えられる。国力が弱いと兵力を維持できない。

 信虎は領土を拡大し、多数の家を従えさせることで国力の増強を図った。それも確かに1つの手だが、実際には国力は増強するどころか疲弊の一途を辿っている。その時点で信虎は対外的な思考から内政へと目を向けるべきだったが、信虎は外へ外へと向かうばかりで内を顧みることはなく、それを信繁が担おうとしたのだ。

 これがもし上手くいっていたらと信廉は思う。信繁の政策は上手くいっているとは言い難いが、結果が出ていないだけで、その原因も資本となる人員や物資、資金が足りていないことが大きい。そして不足しているのは偏に信虎が戦を繰り返すためだ。そもそもにして国政というものは、早々に結果が出るものではない。

 

「私のやり方が父上を支えられていなかったのは認めるしかない。しかし、支えるとはただ盲目的に従うことを言うのか?」

「…………」

 

 時には異論を以って熟考を願い、時には反論を以って考え直しを迫る。

 信廉にしてみればそれは当たり前に近かった。信繁がこの場限りの正論を言っているわけではないこともわかっていた。何しろ信繁自身が虎昌や信方、虎泰に昌辰といった家臣たちと度々相談しているのは見ていたし、虎泰たちも内々でよく協議をしていたからだ。そして信繁は信玄が外で得てきた情報を頼りにしていたし、彼の方から信玄たちに意見を求めたときも数知れず。

 

「信玄、信廉、信龍。お前たちは4将の死を、犬死だと、不忠だと言うのか?」

 

 それを言うのは卑怯ではないか。

 信廉は信繁から目を逸らして歯噛みするしかなかった。信龍も僅かに逡巡はしたものの、小さく首を横に振っている。そして逸らした目線の先に映った信玄の拳は……固く握りしめられていた。

 信繁が叛意を決めたのが4将の死であることは信廉にもうっすらと理解できてきた。だがあくまでもそれは最後の切欠。それまでに積もり積もった蓄積があったからこその決断。これを説得することなど果たしてできるのだろうか。信廉にはその自信がない。しかし説得できなければ信繁を斬るしかなく、そもそもにして説得すれば許されるような状況でもない。あの父が一度斬れと言ったからには、これを覆すことは到底できないだろう。覆そうとして誅殺された者が少なくとも3人はいるのだから。そして信玄の言葉でさえもはや受け入れなかった父が、自分の言葉になど耳を傾けるとは思えない。

 

「……正論で私たちを丸め込むつもりですか?」

「そのようなつもりはない。が、そう聞こえているのならばはっきりと答えよう。否、と」

 

 信玄の問いは単なる意固地のようなものでしかない。すでに意思が固まっている信繁にはそんなものは通じなかった。その証拠に信繁はまったく信玄から視線を逸らさない。信廉からは背中になっていて見えないが、信玄は揺れているように見えた。いつも泰然としている信玄だが、今のその背中は、あのとき信虎を前にして覇気を見せた信玄とはまるで違う。別人のように小さく、弱々しい。

 

「お前たちも武田の一門。私が反旗を翻せばどうあってもお前たちを巻き込んでしまうことになろう。それはすまぬと思うている。ただそれでも私はお前たちを事の矢面に立たせるつもりはなかった。こうなってしまった以上、それももはや言い訳に過ぎぬ。だが、だからと言うてここでお前たちを説得して味方につけようなどとは思わぬ」

「何故ですか?」

「……それは言えぬ。言えばお前たちの情に訴える言葉にしかならぬ可能性があるからな。否、と答えた手前、そのように聞こえることを私は望まぬ」

 

 強いて言うなればただの意地だと、信繁は少し口調を穏やかにして続けた。

 だが今の信繁の言葉で、信廉は1つだけ確信を持つことができた。すなわち――兄は自分たちのことを考えてくれていたのだと。

 父とは違った。どのように考えて信繁を斬れなどという結論に至ったのかわからないが、そこに自分たちのことを考えてくれたと思えるものはない。信玄のことを考えて信繁を邪魔だと断じたように聞こえるが、その実、信玄の気持ちなどまるで考慮されていない。それは信玄を叩いて言葉を遮ったあたりに如実に表れている。

 それでも信繁の言葉をそのままに受け取ることはできない。続く言葉が何だったのであれ、今の言葉だけでも充分に信廉たちの情に訴えるところがあるのだから。

 

「兄上」

 

 だから今度は信廉が口を開いた。信玄の後ろに隠れておらず、彼女の横に立って。

 

「兄上が私たちのことを考えてくれていたことはわかりました。ですが私たちのことを考えてくれたなら、父上に反旗を翻すことを思い留まっては頂けなかったのですか?」

「……それはできなんだ」

 

 現実に信繁は信廉たちよりも信虎への反旗を選択した。厳然たる事実だ。

 信繁は僅かに目を閉じたものの、すぐに信廉を見返してきた。

 

「このままでは武田は自壊する。武田が崩壊すればそれこそ私たちの立場からしてただでは済まないだろう。私たちだけではない。ここまでついてきてくれている家臣たちも、領民たちも、ひいては甲斐国に再び混乱と苦しみを与えることになる。私は武田家の長子。父を諌めるのも私の役目だ。だがその役目を私は果たすことができなかった。できなかったばかりに、父の暴走は武田の、そして甲斐国の限界まで達してしもうた。だからこそ、私は命をかけて止めねばならない」

「そして父上を追い出し、兄上が武田家当主となられるのですか?」

 

 父と兄。

 どちらがいいのかなど、信廉には決められなかった。父のやっていることには頷けないものは多いし、娘という立場でも信虎の行いは非道だと思う。けれどだからと言って父に反旗を翻して追い落として当主の座に就くというのも一概に正しいとは言えない。仮に信虎を暴君に位置付けたとしても、それを強引に排して当主に成り代わるのはどうなのか。

 もちろん、あの信虎を説得して隠居させるのはまず無理だろう。それは理想論でしかない。けれど強引に排して当主に成り代わることは、傍目に見れば信虎がやっていることと同じではないのか。それでは意味がない。

 結局兄も父と同じなのではないか……信廉はどうしてもそう疑ってしまう。信繁をそのように見ることは苦痛ですらあるが、父である信虎が信繁を斬れと言い、信玄を叩いて力で命令に従わせる様を見た後では、どうしても猜疑心が湧き上がってしまうのだ。元々信廉は武門の生まれでありながら文化人としての在り方が強い。力というものに忌避感とまではいかないまでもどうしても負の印象を抱いてしまう。それもまた信廉の猜疑心を助長する。

 ところがそんな疑いは意外な形で晴らされてしまうのである。

 

「私は武田家の当主に収まろうなどとは思っておらぬ」

 

 どういうことかと聞こうとして信廉は口を開きかけたものの、続く言葉は出なかった。

 なぜか、今の言葉に信玄が息を飲んだのがわかったからだ。目をやれば信玄は口元を震わせ、目は得体のしれないものを見たかのように見開かれていた。眉も痙攣したように小刻みに動いており、瞳は明らかに揺れていて。

 それは隠しようがない。信繁も信龍も気づいていた。信廉は信玄に寄り添うが、信玄は信繁を信じられないような目で見つめるだけだ。それはまるで懇願するようにも見えた。

 

「兄上。じゃあ兄上は反旗を翻しはしても父上を追い出す気はないのか?」

「信龍よ、それでは反旗を翻す意味などあるまい。それならば切腹を以って父上に訴えればよいこと」

 

 反旗を翻した以上、例え信虎でなくても信繁に重い罪を与えるだろう。切腹と言われても驚くようなことではない。

 初めから信虎を追い出すつもりなどないのなら、わざわざ反旗を翻して戦に持ち込むより、信繁1人が自刃して命を以っての説得という形にした方が武田の家のためにも甲斐国のためにもなる。

 

「じゃあ、武田の家は誰が継ぐのだ?」

「…………」

 

 信龍の問いに、信繁がふと視線を動かした。その視線は……信廉の予想通り、自身の横で震える姉の方へ。

 

「反旗を翻した私が、武力で父を追い出す私が当主となっても、甲斐の民はついてきてはくれぬだろう。これまでの幾度に亘る戦乱に疲弊した民ゆえ、戦を以ってなされた当主交代では、単なる武田家内の権力闘争にしか映るまい。それが……最後の切欠となる可能性とてあろう」

「最後の切欠……ですか?」

「民の蜂起。言うまでもあるまい?」

「っ……」

 

 信廉は唇を強く噛み締めた。信繁の言っていることは真に的を得ているからだ。

 実はここに到着する前、すでに甲府より一揆が起こったとの早馬の知らせを受けていたのだ。信虎は大層憤慨しており、皆殺しも辞さぬかの如き剣幕であったという。

 

「あのような父でも我らが父であることに変わりはない。その父を追い出すことは不忠でもある。その責は取らねばなるまい」

「兄上……まさか切腹されるおつもりですか!?」

「……必要とあらばやむをえまい」

「そんな!」

 

 信廉は絶句した。

 それでは信繁は事が成ろうが成るまいが死ぬつもりであったということではないか。そこまでしてでも信繁は武田家を、甲斐国を守りたかったということ。反旗を翻す、そのための覚悟のほどを、信廉はひしひしと感じた。決して権力狙いなどではない、本当に武田の家と甲斐国のためを思ってのことなのだと。先ほどまでの猜疑心など一笑に付すほどの覚悟を、信廉は感じずにはいられなかった。

 信虎のような苛烈さはないのに、黙らされる。押し付けられるような恐怖ではないのに、自然と跪きそうになる。そう、この人の前で立っていることがとても失礼でおこがましいと思ってしまうのだ。

 

「私はその場の思い付きや勢いだけで反旗を翻そうなどと思うたわけではない。結果がこれゆえ、私に過信や油断があったかもしれぬことは否定できぬ。然れども、父に弓引く――その意味するところを、私は履き違えてなどおらぬ」

 

 そうでなくば虎昌殿がついてきてくれるわけがあるまい、と信繁は続けた。すると隣室の方から当然じゃと応える声。

 度々信玄たちが不思議に思っていた信繁と虎昌の間にあるもの。それがここでも感じられた。こんな事態になっても揺らぐことのないそれは、例え兄妹の絆を以ってしても、今の揺れ動く信廉たちでは太刀打ちできるものではないことをまざまざと示してみせて。

 

「じゃ、じゃあ兄上は……最初から、信玄の姉上を――」

 

 何とか話についてきている信龍の半ば呆然とした言葉は最後まで続くことはなかった。

 

 

 

 

 

「――いい加減にしてください!」

 

 

 

 

 

 信玄が上半身ごと大きく首を横に振り、長く綺麗な髪を振り乱しながら大声を上げたのだ。

 信龍は大きく体を後退させ、信廉もまた信玄から手を放してしまう。

 

「勝手なことを……勝手なことを言わないでください! 何が覚悟ですか! 何が履き違えていないですか! 私に何も言わず、何も悟らせずにいたくせに!」

 

 落ち着かせようとした信廉の手を振り払い、信繁の方へと踏み出して。

 しかし信玄の歩みは信繁の元へまでは届かなかった。

 信繁は最初こそ驚いたように目を丸くしたものの、それも一瞬のこと。覇気を無自覚に、無作為に放つ信玄を真正面から見ていた。

 

 

 その目に、いつも信玄たち妹を見るときの温かみというものがまるでないのだ。

 

 

 怒った時も諭す時も。信繁から温かみが失われることはなかった。信虎が信玄を殴ったときのような冷たさなど決して……だからこそ、信玄も信廉も信龍も、怒られても、時に頭を叩かれても、信繁を恐れたり嫌ったりすることなく慕い続けた。信繁は自分たちのことを思って心を鬼にしたゆえのことなのだとわかるから。

 だが今はそれがない。信虎と変わらないのだ。それが信玄の足を竦ませた。

 

「……何も言わず、何も悟らせず、か」

「な、何ですか?」

 

 信繁は信玄から視線を外すと、何か考え込むように一度目を閉じた。

 ややあって信繁は俯き加減で目を開き、目だけを信玄に向けて見上げた。

 

「信玄。少し前、お前はこう言うたな。『私に兄上のことでわからぬことがあるとお思いですか』と」

「それが……それが何だと言うのですか!」

 

 腕を振るい、威嚇しようとする信玄だったが、それは信廉から見ても信龍から見ても威嚇とは映らなかった。なれば信繁にそう映るはずもなし。信繁は変わらぬ体で続けた。

 

「真に、何も悟れなんだか?」

「――っ」

 

 信玄は反射的に目を逸らした。が、すぐにその行動を呪いながら信繁に向き直る。とは言えもう遅い。

 信繁は得心したように1つ息を吐き、それがますます信玄の苛立ちを増させる。

 

「私のことならばわかるのであろう? 何も悟れなんだとは真か?」

「…………真、です」

「信玄」

「っ」

 

 決して信繁の語意に怒りや責めがあるわけではない。淡々と訊いているだけだ。失望や落胆もない。なのに信玄は拳を握りしめ、耐えるように唇を引き結んだ。

 嘘をついていることなど明らかだ。信玄とて自身の言葉が空虚であることなどわかっているだろう。それでも彼女は隠そうとする。いったい何を隠そうとしているのか、何を悟っていたのか……信廉は信玄の背中に無言で問いかける。

 信繁は何も言わない信玄を見据えていたが、信玄が頑なになれば早々簡単に解けるものではないことを察して一呼吸入れた。

 

「これも以前言うたな。現状では武田が天下を獲ることは無理だと」

「…………」

 

 今の武田に必要なのは領土拡大ではない。もちろんいずれ必要になることだが、今の最優先となる課題は内治の充実。それは家臣団たちも訴えていることであるし、信繁が実際に行ってきたことだ。信廉も信龍も、少なくとも現状の信虎の政策のままではいけないことは理解していた。むしろ父がなぜあそこまで対外政策にばかりこだわるのか、その方が疑問だ。

 

「そして父上のやり方では遠からず武田の力は衰えると」

「くっ……遠回しになさらずにはっきり言えばどうですか!」

「言わねばわからぬか?」

「わかりません! 兄上が何を仰りたいのか、私にはわかりません!」

 

 信玄が叫ぶ度に床がきしみを上げ、壁が震える。無秩序に放たれている覇気が信廉たちにも容赦なくぶつけられる。信廉も信龍も正面からこれをぶつけられればたまったものではないが、気を張っていれば何とか耐えられた。だが正面にいる信繁はそうはいくまい。それでも信繁は余裕のありそうな態度を崩さなかった。

 それは偏に信玄が動揺しているからであろう。そして信玄は頑なにわからないふりをしているからでもあるはず。

 わからないふり。

 信廉はそこにすべての原因があるように思えた。いや、それしかあるまい。信虎のやり方では武田の力は衰えると、そう信玄が考えていたのならば、なぜ信玄は信虎を盛り立てるべきではないかなどと最初に言ったのか。そうした矛盾も、そこに帰結するのではないのか。

 

「ならばはっきり言おう」

「っ!」

 

 信玄の放つ覇気が一層強くなった。まるで言わせぬとするかのように。

 しかし信繁に効果はないよう……に見えたのはハッタリなのか。よくよく見れば信繁の頬には汗が流れている。一筋程度ではあるが、それでも額には玉のような汗が滲んでいる。信繁を以ってしても、やはり信玄の覇気は強烈であり、完全に防ぎきれるものではないのだ。それを前にしながらなお余裕のあるように見せかけるとは。それともこれが信繁の覚悟が為せることなのだろうか。

 信廉が信玄に目を向けると、信玄の揺れる瞳が目に映った。信繁の静かで真っ直ぐで揺れないそれとは実に対照的。押しているのは覇気をこれでもかと放出する信玄に見えて、その実押されているのも信玄。何が信玄をそれほどまでに駆り立てているのか、信廉にはわからない。

 だがそれも、信繁の次の一言で明らかになるのである。

 

 

 

 

 

「私は、信玄こそが武田家を継ぐべきだと思うている」

 

 

 

 

 

――続く――

 

-3ページ-

 

【後書き】

 

 前回から間が開いて申し訳ありません。

 

 信繁には生き恥を晒してでもここで静かに死を選ぶより抗うことを選ばせています。

 こうなると死ぬのが怖くて抗ったようにも見えかねないので、結構悩んだところでもあるんですけどね。

 史実でもこういう場面は多かったようです。

 例えば徳川家康の本来の嫡男であった信康は、当時徳川と同盟状態にあった織田信長から切腹を申し付けられていました。家康の正妻であり、信康の実母であった築山御前が武田家と内通していたため、信康もこれに加担した疑いがかけられていたからと言われています。信康は無実を主張し、家康も信康を暗黙的に逃がそうとしたという説がありますが、信康は結局自害して果てます。決して自分は父に反旗を翻そうなどとしていないことを証明するため、潔く命を以って最後の訴えを行ったのはないかと思います。

 作中でも信繁が命を以って訴える方法があったことは口にしていますが、結果としてそうしていません。信康の場合は家康が信康を子として大事にしており、その言葉に耳を傾けることのできる人柄であったのですが、信虎の場合は信繁の言葉など聞く器量がないからです。特に拙作では信玄の言葉にすら耳を傾けませんでしたからね。

 切腹したところで通じず、それで虎泰まで失うようではまるで無意味。そうなるよりかは生き恥を晒して後世恥知らずと背中を指されることになろうとも行動すべき。と、そうすることにしました。きっと賛否両論ある決断かと思います。皆さまはどう思われるでしょうか?

 

 さて、拙作では信繁がすぐに出奔しないことで原作とはすでに物語が変わっています。

 ですが!

 原作であった信繁と信玄の和解のシーンは、武田家シナリオにおける見所というところではないかと思います。武田家シナリオが好きな方も他のシナリオが好きな方にしても、かなり印象強く残っているのではないでしょうか?

 拙作では物語の変化によってあのシーンをそのまま挿入することはできません。とは言え、あのシーンは捨て難い。ということで、できる限りあそこに似たシーンを入れたいなあと思っていた結果、ここで挟むことにしました。戦が始まると言ったのになかなか戦のシーンがこないのは申し訳ないのですが、ここを省くわけにはいきませんので。

 大事なシーンなので時間をかけていたらかけ過ぎたという始末です。しかもまだ少し続くし……早く合戦が書きたいです。

説明
戦極甲州物語の11話目です。
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コメント
更新お疲れ様です。いや、本当にここからどうなったら壱巻までに至れるのか先が気になって仕方がない。(通りすがりのジーザスルージュ)
この小説はもっと評価されていい作品。(赤トンボ)
流石のクオリティですね。心情がしっかりと伝わってくる描写だと感じました。続きを楽しみに待ってます!!(夜の荒鷲)
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