Little prayer(1)Ewhoit 後編
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第六章 祖は、誰の人形たるや?

 

 

 

 <In the dream phase 3>

 

 僕は――ひとりぼっちだった。

「よくやったぞ……Pf値の改良に成功したことがこれで実感できる。能力の上乗せがさらに可能で、こうなれば適正次第で能力の昇華もできるかもしれない! ……次は塩化ベンゼンジルコニウムとの配合比も考えてみるか……ぶつぶつ」

 僕には父が居た。

 父は、研究所の所長だ。

 お母さんは、知らない。

 いつも僕は、父にベッドに寝かされて、眠たくもないのに薬で眠らされて、

 その間に、僕の頭は父にぐちゃぐちゃと混ぜられているみたいだった。

 ある時は起きた途端に、どこのどんな場所からでも視界に映るものははっきり見えるくらい目が良くなったり、起きたら勝手にベッドを壊したりしていたこともあった。

 父はそれを、「能力の安定化が進んでいない、ある一定の能力に固定するためにはどうすればいいんだか……」とまた、ぶつぶつ言っていた。

 ある日、それが叶った。

 僕がベッドから降りて少し歩くと、びゅうびゅうと、部屋の中なのに気の狂った妖精がダンスを踊っているみたいに、風が吹き荒れた。

 父は、少しびびりながらでも、満足そうに割れたメガネを拾い上げて、小躍りしていた。

 その頃に、僕はきっとフラウ、と名付けられたんだと思う。

 次に起きても、その次の日も。

 僕の周りには風の妖精がついていた。

 風の楼、を意のままに操れる。

 だから――風楼(フラウ)。

 それから父はもっと、もっともっと、狂っていったんだと思う。

 僕みたいに、子供をたくさんどこからか連れて来て、

 みんなみんな、頭の中をぐるりぐるりと混ぜていた。

 父に一度だけ聞いたことがある。

 ナノマシン、というやつと、他にも色々と入れている。僕にも、同じものを入れているんだよ、と。

 その他の子供たちも、次に起きるたびに、僕と同じような、狂った妖精を連れるようになった。

 最初に起きた黒い髪の、黒い肌の子。この子は、触るとびりびり痺れる、そんな妖精を持っていた。

 次の子は、見たものをなんでも一瞬で、全部覚えてしまう子だった。そんな妖精を連れていたんだと思う。

 他にも、自由に飛べる子だとか、嘘ばかりしゃべる子も居た。

 父は、もっともっともーっと、狂っていった。

 そのうち、怖い子が増えた。

 あんまり怖いから、思い出したくない。

 子供たちはやがて、父の言いつけで、研究室の外に出ることが多くなった。

 半分くらい、帰ってこなかった。

 帰ってきた子も、血だらけだったり、すごい怪我だったり。

 僕も、いつか行くんだろうな、と思っていた。

 その予想は、1カ月で当たった。

 父が何をしようとしているのか、分からなかったけど。

 最初は、「この金持ち、ムカつくからちょっと家ぶっこわしてこい」だった気がする。

 怒られるのが怖いので、僕は目には見えない風楼の妖精と一緒に、そいつの家に行った。ちょっと妖精を踊らせるだけで、家まるごと吹き飛んでしまった。ちょっとやりすぎたかと思ったけれど、父は大満足だった。

 父から狂ったお仕事を言いつけられるたびに、風楼の妖精は、色んなことを覚えていく。

 色んなところから風を集めて、渦にして、物を壊す。

 そこらへんでふよふよ流れている風を、一瞬で僕の物にして、えい、って前に突き出すだけで、大人だってイチコロだった。

 風に乗って飛べた。

 デンシャよりも速く走れた。

 僕は父の狂いに、従い続けた。

 僕は一人だった。

 初めて人間を殺した日から一年くらいかな。

 父は偉くなって、僕なんかには構ってくれなくなった。部下の人から伝言を聞いて、父に逆らう人の治める街に、僕は行くことになった。

 そいつだけを殺せば良かったから、仕事は簡単だ。窓際に立っているそいつを、外から暴風の妖精が吹き飛ばして、そいつは五階から落ちて死んだ。ものの5分で終わった。

 やることが無くなった僕は、街を歩く。

 だけどこの街は裕福だ。『一人』なやつなんて居なかった。僕と同じくらいの子供は、みんな遊んでいるし、とにかく幸せそうな……そんな人間しか見なくて、僕は胸くそが悪くなっていたんだと思う。

 ところが、一人だけ――違う子を見つけた。

 その子は、周りとは全く見た目も存在も異なっていて、目立っていた。すぐに目に止まった。

 真っ白な肌。

 輝く銀の髪。

 僕よりも年はもっと低いはず。きっと、学校に入るか入らないか、それくらいだと思う。

 そんなうっとりしてしまうくらいに綺麗な彼女はしかし、この街の人からは……それは物凄く忌まわしきものだと、思われていたらしい。

 彼女が歩く道に、誰も近寄らない。誰も彼女に話かけるものなど居ない。

 投げかけられるのは言葉じゃなく、石だ。子供も大人も。

 彼女は学校に通っていた。

 靴を片方無くして、顔に傷を作って、家に帰っていった。

 さすがに家では一人じゃないだろうと、こっそり家を覗いてみた。

「もうやめて……お父さん……!」

「軽々しくお父さんなんて呼ぶなッ! 血も繋がっていないくせに!」

 ひょろひょろで眼鏡をかけた、神経質そうな男が、彼女の服を掴んで殴り、蹴倒し、倒れた彼女の上に圧し掛かって、言葉で罵倒していた。

「お前が……ッ! お前なんかが居るからいつまでも俺は会社で上の地位に就けない! 今日は俺よりも5つも下の奴がついに部長になりやがった! この俺がまだ係長なのにだ! 社長はお前の事を知っている。そのせいでロクな仕事も貰えないんだよ!」

「ごめんなさい……ごめんなさい……!」

 父親と思われるその男は、彼女がぼろぼろと泣いて助けを請うとしてもなお、殴るのをやめなかった。

 やがて殴り疲れたのか、男は部屋から去って行く。倒れたまま涙を流し動かない彼女に、化粧の濃い女が、何かの乗った皿を持って近寄る。さっきの光景は、見て見ぬふりをしていたようだ。

「コラさっさと起きな! あんたみたいな疫病神を養ってやってるだけでも感謝するんだね。まったく姉さんもとんでもない娘を産んでくれたもんだよ! これで養育費を相続してなきゃ、あんたなんかすぐ捨ててたよ。あの人はいつまでたっても偉くならないし、わたしゃ街で日蔭者さ。いいかい、これを食べたらすぐ自分の部屋にお行き!」

「……ありがとう、ございます」

 彼女に与えられた皿には、小さなパンが1きれと、さいころくらいの大きさのチーズ。スプーンに一口分のミルクが添えられていた。

 部屋に椅子と机はあるけれど、彼女はそれを使わなかった。地面に、犬や猫みたいに四つん這いになって、食事を進める。後ろには女が眼を光らせていて、机を使おうものなら許しはしない、と……憎いものを見つめる目で彼女を睨んでいた。

 例え彼女が小さくても、あの量ならすぐに食べ終わる。皿をどこかへ持って行って、部屋から出て行った。

 ずっと窓から見ていた僕は、心の奥深くに何か変なものが芽生えたのを感じた。彼女のことが気になって仕方が無かった。

 どうせ仕事はすぐに済んだんだ。ちょっとくらい遅くなっても、父は怒らない。

 いやもう……僕がどこかへ行ったって、どうでもいいのかもしれない。

 彼女は二階に行ったようだった。屋根部分の割れた窓から、光る銀色が見えたから。

 僕は一計を案じることにした。

 小さな石に、メモを書いた紙を括りつけて。

 投げた石は、妖精に運んで貰う。うまく窓の中に入った。

 それから少し時間が経って。

 ひょこ、っと彼女が顔を出した。

 けれどなぜだろう。

 僕は途端に恥ずかしくなって、隠れてしまった。

 彼女の見つめる視界には、誰も居ない。

 顔が引っ込んだ。

 僕はもう一度だけ、メモを託した石を風の妖精に任せて。

 その街を離れた。

『僕も一人ぼっちなんだ』

『明日も来てみるよ』

 

 僕はその日から、彼女に会うことを目的にしたように、狂った仕事のあと、街に通った。

 彼女は相変わらず、一人だったけれど。

 ただ一回だけ、彼女がメモを見る顔が見えて――その時少し笑っていたのが、僕の何かを変えた、そんな気がしたんだ。

 毎日、街に行く。

 虐げられる彼女を救うことができたら、どれだけ良いことか。

 そう思った。

 けど、

 僕は――子供だ。

 殴られているのを止めたところで、そのあとどうすればいいのかを知らない。

 ただ、少しずつ笑顔が戻り始めると共に彼女の肌には傷がどんどんどんどん、増えていって……そのうち彼女は学校に行かなくなった。

 メモは受け取ってくれるけれど、一日中怒号と泣き声が聞こえる。

 

 ついに僕は、父に生まれて初めてのお願いごとをした。

『あの街を壊すって前に言ってたこと、僕に任せてくれませんか』

 父は、あの街がとても嫌いらしかった。

 だから仕事もとても多かった。

 けど、街一個はあまりにも多すぎて……父はずっと手をこまねいていた。

 それで、僕は父に言ったんだ。

『全部、壊させてください』と――

 

 父は両手を挙げて喜んでくれた。

 僕の力を限界まで引き上げた。いじられるのは好きじゃないけど、彼女を救えるためなら、なんだってよかった。

 

 そして、起こる。

 あの夢の出来ごとが。

 

 僕は街を飲み込んだ。

 僕の妖精が、街を包んだ。

 彼女の父と母が出掛けて居る時に、

 彼女の居る家だけを残すように、

 風を。

 竜巻を。

 楼のように織り組んで。

 風に消えて襲った。刺した。討った。

 

 風が収まった時には、僕と彼女しか居ない。

 衝動的だったから、僕は彼女を街から解放するだけのつもりだった。彼女を押しこめる街という名の檻を壊して。

 だけど彼女は僕についてきた。

 子供だった僕にはどうしようもなかったけれど……彼女を守るためにいっそう、父に言われる狂った仕事を全部、完璧にこなした。

 彼女はきっとそれを知っていたんだと思う。いつだって血まみれだったし、血の臭い、銃の火薬の臭いが分からないわけがない。

 僕が傷ついた時には怒っていた。普段はおっとりとしている彼女だけど、意外と意地っ張りで気が強い所もあった。

 壊した街には小さな街が隣り合っていて、貧しい人らが集落を作っていた。彼らは彼女を痛みつけたりはしなかったし、彼女をそこに住まわせることにした。仕事が終わったら、僕はそこに帰ることにしていたんだ。

 壊した街には新しく住み始める金持ちの人がまた街を作ったけれど、逆にその人達が捨てていく余った食べ物なんかは、この小さな街の人々にとってすごく助かっていた。

 

 僕は、一人じゃなくなった。二人を知った。

 

 幸せはいつまでも続くわけじゃないことも知ることになった。

 

 家に帰ると、彼女の姿が無い。

 近所の住人に聞いた。怖そうな人間が、何人か来ていた、と。

 

 探したけれど、見つからない。

 僕は途方に暮れながら、父の元に戻った。

 そこで目を疑った。

 なんで彼女が、父の隣に居る?

 父は言った。

「やぁ……フラウ。随分と好き勝手なことをしていたようだなぁ。もっとも、私は彼女に大変満足したから、特別にお前を許してやろうと思うが」

「え、えっと……彼女は」

「あぁ。お話するかい? 大切な大切な彼女だものな。さぁさ、早く話してあげなさい」

 彼女は変わらず白い肌で、輝く銀色の髪を身に纏っていた。ただ一つ、澱んだ瞳を除いて。

「シュカ?」

「…………はい」

「どうしてここに居るの?」

「マスターにお呼ばれしたので」

「……そういうことらしいよ、フラウ?」

 父が、シュカの肩に手を置く。

 明らかに、彼女は彼女じゃなくなっていた。

「分かりやすいように説明してあげよう。簡単に言って、フラウ。お前と同じにしてあげたんだよ」

「…………は」

 それは、彼女が僕と同じように、

 頭を混ぜられて、

 狂ってしまった、ということ、だ。

 父に詰め寄った。

 彼女を元に戻す方法は?

 フラウがもっと私の為に働けば彼女は元に戻るかも知れないよ?

 働いた。

 彼女を取り戻すために。

 奪った。

 殺した。

 狂った。

 彼女はいつまでたっても、父のものだった。

 

 僕はついに父に反抗した。生まれて初めてのことだ。

 それに立ちふさがったのは、彼女だった。

 彼女は僕よりも強かった。

 いや、それ以上に。

 僕は彼女を傷つけることなんて、できやしなかったんだ。

 

 敗北。

 僕はまた、一人になってしまうのか。

 ううん、もう何もない。全てを失った。

 ならもう終わりでいいじゃないか。

 

 海に飛び込んだ。

 

 ***

 

 目を覚ますと、視界の端がほんのり濡れていた。

 頭の下にはもう堅い土の感触は無い。それなりに厚みのある布切れが敷いてあり、お世辞にも良い材質とは言えないベッド、すなわち俺は何度も寝泊まりした場所に、仰向けに寝転んでいた。

「目を覚ましましたか?」

 静かに落ち着き払った声がした。

 体を起こすと、暗闇から赤い光がこちらを見ていた……セトナさんだ。

「…………」

「全部、思い出しましたね?」

 なんで――とは思わなかった。この人はそういう能力のリトルプレイヤーだ、夢が覗かれても不思議ではないし、というか今はそんなこと、どうだってよかった。

 ただの夢じゃない。

 はっきりと、自分がリトルプレイヤーであると、そう決定づけられた夢で。

 そして、俺が昏倒する前に攫われた少女……シュカが、俺の長年忘れていた夢の中の女の子。

 失った全てを想い出す鍵――そのもの、だった。

「ええ。俺が誰なのか、シュカがどういう存在なのかも」

 今まで見てきたループする夢は、核心だけをぼかした、1つだけピースの欠けたパズルだったのだ。その最後のピースが大きすぎて、俺は自分にとって大事なことが、今の今まで見えていなかった。分かっていなかった。

 知るのが遅すぎた結果、俺は一番大切なものを目の前で連れ去られたのだ。

「……くそっ」

 自分は一体、何をしていたのか。

 全ての記憶を捨てて海に飛び入り、『無』になった。騎士学校に入った。

 騎士団を目指した。リトルプレイヤーを敵とする教育を受けた。

 それが、やるべきこととはまったく、真逆のことだったんだ。

 助けを求めていた彼女を救いに行く、父や、この世の不条理から救い出すことが、俺の使命のようなものだったのに、すっかり忘れた俺は、しかもシュカを見つけてもなお、思い出すことは無かった。

 どれだけ彼女がこの数年の間、傷ついた? 傷つけられた?

 そして現在もなお、虐げられようとしている。

「助けに行くつもり、なんですよね?」

「もちろんですよ」

 セトナさんの問いに、俺は即答した。

 シュカを攫ったのは大将だ。今思い出しても悔しさが滲む。俺の命を人質に、シュカは大将について行くことを選ばせられた。

 何故大将が加担しているのか――リトルプレイヤー討伐が目標なら、ここにはシュカだけじゃない。セトナさん、ミャーちゃんも居る。シュカだけを連れて行くことの説明になってない。

 なら、父の『機関』と大将が、裏で繋がっている可能性の方が、まだあった。

 ということは……追うべきは騎士団ではなく機関の方だ。そこにシュカが居る。

「あとは場所か――」

 昔居たことがあるとはいえ、場所は変わっているかもしれないし、そもそも元の位置も記憶があやふやだった。

 黙ったまま俺をじっと見つめていたセトナさんは、ふっと目線を下に落とすと、なにやらごそごそと懐を探って、一枚の紙を取り出した。

「こんなものが倒れているフラウさんの近くに落ちていましたよ」

「……?」

 紙を受け取る。四つ折りを開くと、それは少し茶色がかった地図だった。そのある部分に、赤い点が加えられている。

「私が、倒れているフラウさんに気付いた時には既にシュカは居ませんでした。その間、私がこの付近に張っている『結界』に入り込んだ気配はシュカと、フラウさん。それに男が一人と――フランさん。フラウさんを除いた三人のうち誰か一人が落としたものと思われますが」

「? ちょっと待ってください。そういや……フランは? 確か俺と一緒に寝ていたはず」

「『結界』によればフランさんはシュカ、男の人と一緒に気配を消しています。つまりは、共に捕虜にされたか、あるいは……最初からシュカを連れて行く為に男と連携していたか、のどちらか」

「まさか! だってあいつは俺と長い間同室で……俺を裏切るなんてことは」

「それすらも、最初から仕組まれていたのではありませんか?」

「そんな、そんなことはあり得ないっ!」

 感情のまま、セトナさんに掴みかかろうとしていた。

 それを軽く受け流し、あくまでも淡々と……セトナさんは俺を諭した。

「ともかく今はそんなことどうでもいいんです。フランさんが敵にしろ味方にしろ……シュカと一緒に居るのでしょう。そう、ここに」

 地図の指さされた所には、大きな施設を示す記号と赤い目印が書いてあった。周りは樹海になっていて、その近くには騎士団の本部が描かれている。すなわち、騎士団領。

 この街から目印の場所まではかなり遠い。歩いて行けば一日は絶対に掛かる。他の移動手段を使おうにも、山岳地帯が邪魔をしている。山越えをするしかないから、飛んでいけなければ大きく時間をロスしてしまうだろう。すぐにでも行きたい俺にとって、背中のちょうど手の届かない場所にあるような、そんな歯がゆさを感じた。

「仕方ないけど、走って行くしか」

 部屋の脇にあるバッグを引っ掴み、ドアへ向かおうとする。ところがセトナさんに手を掴まれ、それを遮られた。

「待ちなさい。とりあえず、一度座って」

「でも、時間が」

 セトナさんの瞳がすうっと細められて、鋭い視線に変わった。

「……自惚れるのもいい加減にしてください。貴方は今、シュカを救いに行くあたかもヒーローのような感覚に陥っているのかもしれませんが……力の無いヒーローショーなど興ざめも良い所、小説や物語の中で保証されているような、100%の勝利なんて現実ではありえないんですよ?」

「俺はリトルプレイヤーとしての記憶を思い出しました。この能力があれば、大将だって倒せる」

 夢の中でも、幼少期の俺は短い時間で街を潰すほどの力を持ってしていた。それを使えれば、大将だって倒せるんじゃないか。

 そんな俺の希望的観測を、セトナさんはため息一つで打ち崩す。

「まだ頭が寝ているんじゃありませんか? 確かに、フラウさんの持つ能力は強大です。でも、正しく能力を理解していなければ、意味が無いんですよ。シュカも私も、一朝一夕で身に着けたわけではありません」

「でもっ、昔の俺はちゃんと扱えて」

「では今ここで使ってみてください」

 有無を言わせない怒気を静かにはらんでいて、仕方なく狭い部屋に向かい合うことになった。

 あんまり建て付けの良くない小屋だから壊れないか心配に思いながら、記憶の底から浮かび上がる、かつて使っていた『風楼』を呼び起こす。

 風の動きが、か細く伸びた白い線となって目に見える。これを妖精と形容するのはいくら子供とはいえあんまりだ……と思いつつ、その白い線に命令を下す。もっと速く、もっと疾く進め!

 ――ところが、昔ならこれで暴風を巻き起こしていたのに、風達は動こうとしない。部屋の中は隙間風しか吹かない……何度『風楼』が命じても、変化は無かった。

「やっぱり、思った通りになりましたね」

 思いきり失望を込めた言葉が突き刺さった。ヤケになって何度も繰り返したが、数分後に無駄だと、思い知らされた。

「あの、セトナさん……」

 弱々しくも問いかけると、セトナさんは腕を組んでそっぽを向くと、

「言ったでしょう。一朝一夕で身につくものでは無いんです。昔の栄光を一部分だけ切り取ってさも何十年も輝いていたかのように言うのは愚かな大人のすることです。ただ、私もシュカを放ってはおけないですしね、フラウさんの力がそれなりに戻るお手伝いはしてあげますが、どうしますか?」

 ドきつい視線を窓に向けながら言われた冷たい言葉。しかしその直後、

「――べ、別にフラウさんの為ってわけではないんですからね? 勘違いしないで下さい。私が今までシュカを一人占めできていたのに、フラウさんが現れてからシュカは私の家に来てくれなくなって……全部フラウさんのせいなんですから」

 照れ隠しのようにそう拗ねたセトナさんは不謹慎ながら可愛く思えた。

 大切なものを奪還するための『風楼』を再び使えるように、俺はセトナさんに笑顔で応えた。

 

 

 時間は無い。シュカが今この時、どんな目に合っているのかも分からない。

 だけど今のままでは、能力の使えない、鋼の棒きれと鋼の弾丸を出すおもちゃを振り回すことしかできない俺じゃ、大将を倒すことはできない。

 つまりは、短時間で能力を使えるようになる必要があった。

 セトナさんの後ろを追って外に出ると、月がてっぺんに登ってから少し傾いたところだった。あれからどれだけ経ったのは正確には分からないけれど、少なくとも数時間は経過している。

 なるだけ急ごうと、あくせく準備をしていると逆にセトナさんに怒られた。

 強力な能力は不安定と隣り合わせで、誰しもが簡単に使えるようになるわけじゃない、元々扱っていたとはいえ、焦ればもっと時間がかかる、と言われた。

 ただその代わり、なにも歩いて行く以外にももっと速く行ける方法があるらしい。その方法の準備ができるまでの間は集中して教えを受けることになった。

 

 まずは、能力を使う前の基礎知識。

 リトルプレイヤーは全て、脳に組み込まれたナノマシンを原動力に、自らの脳細胞を媒介にしてその能力を発現させる。

 セトナさん曰く、ある程度脳内でそのイメージを組み込まないと力の射出がうまくいかないらしい。

 脳は肉体を動かす際の指令塔になる。だから、そこから出される命令として、普段『腕を前に伸ばす』『立ち上がるために足の筋肉を収縮させる』などがあるものと一緒に、たとえばセトナさんなら、『外界と自分の周りを区別する結界の網を放出する』というものを体に命令することで能力を使うんだそうだ。

 照らし合わせてみると、夢の中で俺はしきりに『妖精』と言う単語を用いていた。

 それは多分、実際にそういう類のものを見たんじゃなくて、自分が思った通りに動いてくれる都合の良い能力に、そういう虚像を見ていたんだと思う。風を顕わす白い糸が、子供心にそう見えたのかもしれない。

 ただ、便利なものにはデメリットが伴う。

 特にセトナさんが念を押したのが、能力の『対価』についてだった。

 脳から発生された電気信号は、シナプスが接続されることによって駆け巡って身体中に伝達されていく。

 そこで普通の人間なら、一定以上の命令を出さないように、常に『ブレーキ』になる命令を出し続けている。自分の身体が必要以上の力を発揮して、壊れてしまわないように。

 しかしリトルプレイヤーの能力は、その命令を無視して上書きする。つまり、自分の身体を壊しながら能力を使うことになる。

 筋肉が痩せれば、食べればいい。

 骨が折れたら、安静にしておけば大半は治る。

 ところが、脳はそうはいかない。一度壊れたら、治らないこともある。

 通常の何倍もの負荷のある命令をシナプスに伝達させ、脳を破壊していく。

 それが、『対価』の姿。

 それだけを聞くと物凄く怖い話だ。が、要は使いすぎなければ大丈夫ということで、ある程度年齢が若ければ脳の修復は早い……一部の損傷だけなら修復は可能で、度を過ぎて一度に壊しすぎるのだけが、絶対に気をつけなければいけないことだった。

 言われたことを全部覚えて、俺が能力を出せるようになるまで、たぶん二時間ほど掛かったと思う。

 

「少しだけではありますが自分のものにできたようですね」

「……なんとか」

 何回も能力の放出をセトナさんに手伝って貰い、頭の端が軽く軋む感覚を覚えながら汗を拭う頃、地平線の向こうでオレンジ色が見えていた。

 もう、夜明けだ。

「正直言ってまだまだ力不足と言わざるを得ませんが、まぁタイミングがタイミングですしこんなものでしょう。あの子もそろそろ帰ってくる頃あいだと思うんですが……」

 地から這いあがって来る陽の方を見つめつつ、セトナさんは眩しそうに目を細めながら呟いた。

「例の、移動手段についてですか?」

「ええ。走って行くより百倍は速いので……うまく手なずければ、ですが」

 それはどんな機械なんだろう……そういう物を作ることのできるリトルプレイヤーが居るのか、なんて想像を膨らませていると、そのセトナさんが見ている方角から、陽をバックに小さな黒い影がぽつんと現れた。

「ん……?」

 段々とその影は大きくなり、こちらへ真っすぐ向かってきた。羽ばたく両翼が、離れていてもシルエットとしてよく分かる。

「鳥、か?」

 体部分よりも相当翼が大きい。鳥だとすれば大鷲か、怪鳥の類か――

 バサーッ!

 あっという間に接近したそれは、まだその一帯だけが夜のように真っ黒な羽根をはためかせ散らしながら着地し、そして喋った。

「朝早くから呼びだすなんてセトナは鬼狐でち。いくらカラスが明星の主と言えど、この扱いはあんまりでち……ふー」

 変にクセのある語尾を使いながら、少ししゃがれた、およそ老婆と言われれば納得するくらいの声でそう漏らした黒翼の物体は、ぶるぶる身体を震わせて、大きな――俺の身長はゆうに超えている黒翼を小さく収めた。おかげで、その本体が露わになる。

 声からは理解しがたい、翼の半分くらいしか背丈の無い幼い黒髪の女の子が、翼から姿を現した。

「緊急事態だから仕方なかったのです。貴方だってシュカが危険な目に遭うのは黙って見ていられないでしょう? それと、悪口についてはあとで説教しますから」

「にょ!? それは勘弁するでち! 必殺・とりあえずそこらへんの通行人を壁にする、でち!」

「うお!?」

 セトナさんに、ツンと睨まれた黒髪幼女はそんなことをのたまったかと思えば、目で追えないくらいのスピードで俺の背中に周りこみ、勝手にセトナさんの視線の盾にして隠れた。にもかかわらず、そいつは顔を半分だけ出して、

「む……? そういえば、お前誰でち。通行人かと思いきや、なんとなしに女狐と親しそうな間柄のよーな感じがしないでもないでちが。今は盾として使うてやるが、正体によってはずばばーんと爆発させてやろうではぁあ痛っ!」イラッときたので額にチョップ。

「人の背中を勝手に借りといて生意気な子供だな。生憎俺にはフラウって名がある。セトナさん、この子は……」

「さっき言っていた、移動手段のことですよ。私達の仲間の一人、シアと言います」

「ふん! シア様と呼ぶでち、暴力男。わたちは映えある八咫烏のリトルプレイヤー、太陽の神の力を使えばお前なんて一瞬で骨の髄まで溶かせるでち!」

 びしっ、と指先を俺に向けて偉そうに宣言してきた。

「――とまぁ、見た目通りに面倒くさい性格ですが、性能だけはばっちりですので。安心してください」

「こりゃー! スルーするなでち!? わたちは何かの道具でちか! あらかじめ言っておくでちけど、わたちはちょっと来てみただけで、この後寝る予定でち!」

「あんまりうるさいと、こうしますよ?」

 にっこりとほほ笑みながら、セトナさんが懐から丸い、陽に反射して七色に光る鏡板を取り出してシアに翳す。途端、

「きらきらまぶしーのは嫌いでちぃいい!」

 悲鳴を上げて出していた顔を引っ込め、再び俺の後ろに隠れてしまった。なんだこいつ……。

「ほらほら〜、言うことを聞かないと〜」

 鏡板を持ったまま、じりじりと背中のシアに近づいていくセトナさん。

「く、くるなでち! ちょっと暴力男、ちゃんと盾に……」

「無駄ですよ〜? ほ〜らほら」

「わ、わぁあああ! 分かった、分かったでち、分かったからその物騒なキラキラをどっかにやるでち、セトナぁ……」

「はい〜」

 ぽーん、と鏡板が放り捨てられる。シアは、「うぅう〜……」と唸りながら、俺の背後からすごすごと出てきた。

「詳細を話すでち……。 だいたい分かるでちけど……」

「ここに居るフラウさんを乗せて、フラウさんの持っている地図の場所へ飛んでください。そこにシュカが捕らえられている可能性が高いんです。お願いできますね?」

「別に飛ぶのは問題ないでちけど……」

「あのー……飛ぶ、って? やっぱりそういうことなんですか?」

 まじまじと、シアの背中に今は折りたたまれている黒い翼を見てしまう。人が鳥のように飛ぶなんてなかなか信じられないが、リトルプレイヤーの常識で考えると、彼女はそういう能力なのだ。そして俺はシアに連れていってもらう、と……。

「ええ、シアの体が大きくないのは見れば分かりますが――」「遠まわしにチビって言うのはやめるでち」セトナさんは無視した。

「シアの翼には大人三人くらいなら余裕で乗せられるんです。たまに物資が必要な時は、こうして彼女に飛んできてもらっているんですよ。私達は人目についてはいけない存在ですからね」

「でも俺、結構重いですよ」無駄に筋肉はつけていない。

「八咫烏の力を舐めるなでち。仮にも神の加護を受けた身、人間一人背負ったくらいで音をあげるなんてひ弱な奴だけでち」

「らしいので、遠慮はしなくて大丈夫ですよ。こっそり羽根とかちぎっても」

「それとこれとは別問題でち!?」

「というのは冗談で、こうしている間に時間が過ぎていくのはまずいですから、そろそろ二人ともお願いします」

 半分くらいあなたのせいだと思います。

 

「はぁー……でも男を乗せるのはあんまり乗り気にならないでち」

 まさに発着所といったような、視界の開けた、すぐ下を見下ろすと絶壁が広がっている場所に二人立って、出発直前というところでシアがぽつりと漏らした。ちなみにセトナさんは居ない。ミャーちゃんを連れて行くわけにもいかない上、騎士団の目が届くこのスラムに一人置いてはいけないからである。

「それはどうしてだ?」

「……わたちは仮にも花の乙女でち! お、男を乗せたことなんてこれまで一度もないんでち! それにお前はさっき知ったばかりでち、そんな奴に背中を許すなんていいい一生ついていくと決めたくらいの男じゃないと……だからその、身体を許してしまったみたいで恥ずかしいじゃないでちか……」

 頬を染め、軽く俯くシア。しゃがれ声ながら本気で恥ずかしがっている様子を見ると、なんだか張りつめていた緊張が少し解れて、微笑ましい気分になった。

「はは、確かにそうだな、ごめん。こんなのが初めてで申し訳ないけど許してくれよ。緊急なんだ、その代わり、俺もこうして飛ぶのなんて初めてだから、それじゃだめか?」

「ぬぅ……ま、まぁそれなら仕方ないでち、世の中ギブアンドテイクでち」

「ありがとう、助かるよ」

 さらりと黒髪の頭を軽く撫でた。

「な、撫でるなでち! そういうことされると何かむかつくんでち! チビなわたちへの当て付けでちか!」

「そんなこと言ってないって。とにかく、頼むよ。もうあんまり時間が無いんだ」

「ふん、任せとけでち。さぁ、さっさと後ろに乗るでち! ちゃんと掴まってないと、振り落とされても知らないでちよ!」

 数えきれないくらいの小さな黒い羽根を飛ばして、大きく左右に翼が開かれる。それはまるで、これから開くステージの幕。その翼に跨って、しっかりと握りしめた。

「――よし、準備OKだ」

「うみゅ。いくでちよ……『(ミ)太陽神八咫(シクルレーヴェ)烏(ン)』!」

 

 ***

 

「っつぁ……」

「ふむ、これでも耐えるか。四年間もどこで何をしてきたのか、ちょっとは成長してくれたようで私は嬉しいよ」

「うるさい、この……変態、っ」

 ラインハルトとか言う紳士風の男に連れてこられた施設は、私がその昔に逃げだした、『機関』のものだった。ラインハルトが『機関』の回し物だってことは向こうが漏らしたことだし、分かりきっていたけれど……何年経っても、やっぱりこの空間は最悪の場所だった。

 着いてすぐに、頭に変なチューブをぶら下げられ、苦い薬を飲まされて……それで意識を失うことは無かったけれど、私が自分で封印した記憶の全てが、それで蘇ってしまった。私をこんな体にした、目の前に居る元凶。私が記憶の奥底でずっと思い描いては遠く想っていた少年『フラウ』の存在。全部。

「まったくまさかこんなに長い間検体に逃げられるとは思わなかったよ。このためだけに騎士団に私の力を潜り込ませ、あたかもリトルプレイヤーが民衆の絶対的敵対勢力と報道を通じて擦り込ませて探させたんだからなぁ……しかしそれを差し置いてもキミは必要だったということだが。四年の間、私の研究計画はまったく進捗しなかったよ」

「……それはお生憎様」

「それじゃあちょっと強度を上げてみようか」

「触る、な…………ぁあっ!」

 頭に貼りつけられたシートからバチン! とくらくらするくらい大きな電気ショックが伝わってきた。これを、何度も何度も私は受けている。もう何回目だろう。

 意識が朦朧とする中で、私の頭に浮かぶのは、逃走生活でずっと過ごしてきたセトナでも、ミャーでもシアでもなく、ずっと記憶に縋り、追っていた存在。気が利かなくて強情で、でも昔から信じていた、ただ一人の私にとっての男の子。

「やはりどのリトルプレイヤー達よりもすばらしい数値なのは変わらないな。実にグレイトだ。あの頃から既に優秀な脳波長を持っていたが――キミの迫害と愛情の格差、リトルプレイヤーにとって何よりも重要な要素は未だ色あせていない。本当に、アイツが持ちかえってきたキミはその昔、どんな経験をしてきたんだろうね?」

「さぁ……別にあんたに話すことは無いわ」

「口だけは随分と生意気になったようだ」

「ぁうっ!」

 はたかれた頬にジンとした痛みが走った。

「まぁいい。うまく能力とコストの維持をできるようにするにはキミのような状態にすることが現状ではベターだと言う事は分かっているんだ。言う気が無いなら、無理矢理吐かせるまでだ、昔のことも含めて全てな――おい、ラボナールかLSDを持ってこい。一番濃いやつで良い」

 奥から慇懃そうに礼をした、赤い髪の少女が出てきて、男に何かの入った袋を手渡した。乱暴に破り捨てられた袋の中からは、細く鋭い注射針と、液体の入ったアンプル。液体はおぞましい黄土色をしていた。注射針をアンプルの先に付けると、剥き出しに固定された私の腕を掴んできて、注射針の先が当てられる。

「な、何を……」

「安心したまえ。効き過ぎても死ぬことはない。ただ少し、失うものがあるかもしれんがね」

「……っ! やめ――」

 鎖に接続された腕は抵抗を伝えない。何もできず、ただ銀色の針が徐々に肌を浸食していって、アンプルのピストンが押されるのを見ることしかできなかった。

 苦痛はそれほどでもない。一方で、血液から吸収されたアンプル内の薬品が一瞬で身体を巡り、頭に到達して…………。

 

 巡る記憶。自分の中から引き出されてく。

 

 ガチャァアン!

 ガラスが割れる音。何故割れたって? 母親代わりの女が、椅子を私に投げつけたから。体には当たらなかったけど、代わりに窓が犠牲になった。破片が頭に降り注いで腕に何個か刺さった。

「またあんたのせいで私は町内会からバカにされたよ! 呪われた異人(ホワイト)を子に持つ偏狂な母親だとね!」

 この母親は本当の母じゃなかった。父も、そうだ。

 本当の母は私を産んだその翌日に亡くなったらしい。微かに思い出せるのは、お母さんは綺麗な銀色の髪をしていた。一度だけ、頭を撫でられた気がする。

 お母さんを支えるべきお父さんは、居なかった。私は、そのお母さんの、紙の上でだけ交わされた妹に、引き渡された。お母さんは実はすごい大金持ちで、その資産の半分を、私を育ててくれた人の養育費として特別に相続するって、遺書を残していた。

 新しいお母さんとお父さんは、とても厳しい人だった。

 ちょっとでも間違えると、その日は晩までご飯が貰えなかったし、二人がとても高そうなお肉を頬張る横で、私はだいたい、パンとミルクとチーズを毎日食べていた。

「私が悪いんだ。私の髪が白くて、他の人とは違うから。だからお母さんは怒られて、私も怒られるんだ」

 そう思って、何をされても我慢した。

 

 学校に入った。

 友達はできなかった。

 私の机はいつも無かったり、真っ黒に塗りつぶされていたりしたし、三日に一度、靴の片方が無くなった。ばれるとお母さんに怒られるから、そのうち学校には裸足で行くことにした。

 

 空虚。

 そんな私の生活。何も感じなくて、ただ生きているだけ。

 それは窓から飛んできた一つの石に気付いたことで、何も味のしないパンに少し塗られたバターのような、少しの、だけど新しい世界に変わった。

 

 最初はまた、誰かのいたずらなのかなーと思っていた。けど、毎日決まった時間、夕方の赤い太陽が沈んでしまうちょっと前くらいに投げ込まれる石と紙に、段々私は興味を持ち始めた。どうせ、こんなくだらない世界だ。そんな世界より、くだらないものがあるはずがない。

 

 石を投げ込んでくるのが、私よりちょっと年上くらいの男の子と分かったのが、五日目。

 七日目、男の子は働いているらしい。

 十日目、今日はご飯が食べられなかった。石の代わりに、大きなチーズの塊がメモと一緒に届いた。大事に食べた。

 十五日目。学校で嫌なことがあった。掃除用具入れに閉じ込められて、なんとか出るともう夜だった。お母さんに怒られた。部屋には石と一緒に、中に写真が挟める、小さな銀色のロケットが転がっていた。シーツを細く破って紐にして、それを首から下げることにした。

 三十日目。今日は何をしたっけ? なんだか、よく叩かれてたような気がする。メモを読む元気は無かった。

 四十九日目。その日のメモは、いつもと全然違った。明日、嵐が来るみたいなことが書いてあった。

 初めて石を貰った日から四十九回寝たその次の日、私にゴミ袋をよくぶつけてきたお隣の家も、学校も、私にいじわるをする街は、無くなってしまった。

 

 外に出て、家と家の間で膝を抱えて座る私の前に、男の子は現れた。

 あの男の子だ、ってすぐ分かった。

 どうせ、お父さんもお母さんも居ない。

 私は男の子についていくことにした。

 

 空虚な世界は、一人住人が増えて、二人になった。

 

 彼のお仕事は、忙しい。

 帰ってくるのは、夕方とたまに、暇なとき。

 よく赤い飛沫を付けて帰ってきていた。拭いたつもりをしていたけれど、意外とぶっきらぼうな彼は、顔を良く濡らしたままだった。

 

 幸せ。

 元々黒ずんで使いものにならなかった私の心の器に、仄かに暖かなピンク色の液体が注がれていって、黒くなってしまった部分を徐々に、洗い流していった。

 彼が、私の存在を日常の悦びにしてくれることで、彼しか居ない私にとってそれは、最高の悦びだった。メモを受け取ったあの日から、私は彼の事が好きになりつつあったけれど、一緒に生活して私は彼を、子供ながらに愛した。彼もまた、子供ながらに愛してくれた。

 

 ところがある日、

 街の外れにある私と彼の小さなトタン小屋に、何人もの大人の人が押し掛けてきた。

 彼と違って、何の力も持たない私は……蹴り破られるドアを見つめて、ただびっくりするしかできなかった。

「ここか? フラウがちょくちょく通ってるって小屋は……なんだ、埃くさいな」

「…………っ」

「お? 誰だ、嬢ちゃん」

「あれじゃないか、フラウの連れが居るって噂が他の奴らから立ってただろ」

「ほう……? 少し年下なくらいか。ま、悪いことは言わねぇ、嬢ちゃん。フラウにもし惚れてんのならやめときな。あいつは俺らのボス、室長の息子で研究対象の最先端だ。今だって人さん何人ぶっ殺してるかわかんねぇ。あいつが最近妙に研究成果を落とし始めたから室長が疑っててな、この根城は潰す予定だからよ、さっさと逃げな。黙っておけば室長も嬢ちゃんまで手出しはしねーだろ」

「……ってなこと」

「ん?」

「勝手なこと、言わないで……」

 思い切り強がって見上げた大人は、予想よりも大分大きかった。それでも、彼と離れ離れになってしまうことを恐怖した私は、その大人に向かっていった。それが不幸の始まり。

「うぉ! なんだ、どうした!」

「彼を連れていかないで!」

「いでで、お、おい……とりあえず軽く取り抑えろ! 丁重にな!」

「や、やぁあああ!」

 

 私は連れていかれた。フラウが普段、お仕事をしているという施設に。

 薬を飲んで、注射を打たれて、眠らされて、起きた時にはもう――

 私は、私の知る私じゃ、なかった。

 

 この時間が、今この時が、無くなってしまえばいいのに。

 そうすれば、嫌な時間は良い時間にはならないけど、ゼロになってくれる。

 そうして生まれた、『瞬間切断』。私が、彼と引き換えに失った、力。

 

 さらに悪いことに、私の心は、何回も何回も嫌々ながらに飲まされた薬のせいで、彼に対する愛を忘れてしまった。私は、室長という、気味の悪い男の物になってしまった。最初に彼が私を見たとき、どれだけ絶望しただろう。

 

 それから傀儡のようになってしまった私は、彼に刃を向けた。彼は私に一度も刃を向けなかった。彼は負け、去った。私に、銀色のロケットを残して。

 

 室長は去った彼のことを完全に忘れさせようとした。私はほとんどのことを忘れた。代わりにほんの少しだけ自我を取り戻して、同じく僅かな自我を持って、お腹に子を宿したリトルプレイヤー、セトナと共に施設を逃げ出した。

 

 四年。

 彼のことを忘れていた。記憶の奥底、水筒の一番下に一滴だけ残った水のような残像だけを、何度も夢に見た。

 ひたすらに人目を避けるだけの、空虚ではないけれど目的を見失った生活にまた、戻った。

 セトナという仲間、その娘のミャー、どこからかはぐれてきたシア、いずれの存在も、失った彼を取り戻すには、穴が大きすぎた。

 

 彼と再会する。偶然にも、彼は私の敵対勢力としてやってきた。

 もちろん、最初は私もあの騎士が、彼だとは露ほどにも思わない。向こうもまったく知っている風では無かった。お互い、記憶を封印して生きてきたのだから仕方ない。

 

 だからこそ、日を追うごとになつかしいあの少年の姿を、事あるごとに彼に重ね――そして、

 つい今日になって、ようやくイコールで結んだ。あまりにも気づくのが遅かった。

 空虚な日常を、彼に救われた。彼との幸福を、他者に奪われた。

 また始まった物足りない生活に、彼が帰還した。二度目は、幸せを享受する暇もなく、彼自身を奪おうとした、それには耐えられない。なら今度も、私が犠牲になれば……きっとどこかでまた、再会できるはず。

 例え私がまた忘れても。

 君は私を見つけて、そして、思い出させてくれるよね?

 

 

「――ぅ、っあ……!」

「なるほどなるほど。いやぁこれは良いものを見せて貰った。まるで子供の脳内成長に必要な情操と真逆の、起伏ある負の強烈な感情がこれほどまでに覚醒率を引き上げるとはね……。これが全てのリトルプレイヤーに合致するとすれば、実のある成果が期待できるはずだ……」

 頭が薬のせいで、溶け落ちているように思考が定まらない。目の前の男は、一体何を言っているんだろう。

「さて――それはそうと、キミにこれ以上強い負の感情を植え付ければもっと能力の引き上げは起こるのかな? 今ですら普通の人間を軽く凌駕する力を持つキミ達がもっと強くなったとしたら、それは神に匹敵するのかもしれないな……ぬふふ」

「……っ」

 ある種の絶望感だけが直感で分かる。私がこれから何をされるのか……縫い付けられそうになる、怪しい視線から想像すればキリが無い。

 唐突に、傍のモニターに警戒を表わすアラートが鳴った。意味は把握できなかったけれど、男はそれを見て、途端に不快な感情を露わにした。

「とりあえずキミにオペを施す前に、入り込んだ邪魔物を制圧する必要があるかな」

 

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C82頒布分。前→ http://www.tinami.com/view/366759
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