避暑地の惑星 |
リーシャの夏休みは、十三の年にはじまった。その夏に『ニコラ兄さま』がやってきたからだ。次の夏にベッドで空を飛び、それからずっと長い夏休みを過ごしている。
庭の白樺にからめたツル薔薇が二度めの盛りの花をひろげていた。古い園芸品種だというその薔薇は、蕾は薄紅(うすくれない)で、ほどけたばかりの花弁は蜂蜜色、しまいには真っ白になる。二階のリーシャの部屋の窓の高さまで届き、苦手な朝にひとつの楽しみを与えてくれていた。昼を過ぎると、蜂蜜色は褪せてしまうので、早起きしては窓を開けた。
その日リーシャは、冷たいレモネードを飲んでいた。思い出すたび、すこし酸っぱい気持ちになるのは、きっとそのせいだ。ストローでかき混ぜると、グラスの中の氷が涼しい音を響かせた。
玄関に車の音を聞きつけて大好きなパパを迎えに飛び出した。
「パパも今日から夏休みね」
抱きついて、はしゃいで甘えて、リーシャはそのあとようやっと車の向こうに眼鏡のせいたかのっぽさんを見つけた。
◇
この夏も、ちいさなニコラがやってくる。 わたしは白いワンピースでスペースポートまで迎えにいく。銀の髪に水色のリボンをつけて。あのこがわたしを見つけられるように。
だけど、今年はこっそり隠しておいた。サンダルのかかとに結んだ。
昨夜あのこから夢がとんできた。
「リーシャ、あした着くよ。僕はやっと君の背を追い越せたかもしれない」
もうそんなに大きくなったかしらと、わたしはあのこの夢をつかまえてみた。茶色い癖毛は前と同じ、それでも随分ひょろりとして見える。つかまえた夢にふれて、隣にならんでみた。目の高さがおなじくらいだ。夢の中のわたしは、かかとの高い靴をはいている。
「大きくなったのは、本当みたい。でもこれはあなたの夢だから、逢ってみないとわからないわ」
「もし同じか、追い越していたら」
夢の中だというのに小さな咳払いをした。
「そしたら、僕の名前を呼んでほしい、約束だよ」
勝手に約束をとりきめて、夢は帰った。すこしむしゃくしゃしたので、ちいさな意地悪をしてやろうとそのとき決めた。今年はリボンを隠してしまおう。
はじめてこの惑星にきたとき、あのこはわたしを見つけられなかった。だから、目の前まで跳んでいってあげた。スペースポートでの跳躍が許可されているのは、この惑星にだって何人もいない。するとあのこはとても驚いて、そしてとても喜んでくれた。わたしはとうにトリプルSだったし、あのこはとてもちいさかったから、手を引いて舞い上がってみせてあげた。はじめての浮遊に目を輝かせて「鳥みたいだ」とつぶやいた。
「きちんと訓練すれば、あなただって出来るようになるわよ」
すると、違う、と言ったのだ。
「リーシャ、あなた、白い鳥みたいだ」
すこしくらいはいい気分だったので、次の年、迎えに行ったとき幻影を見せてあげた。わたしの背に真白な翼。
その次の年、あのこはヴィデオフォンでなく夢を送ってきた。リーシャ、逢いにいくよ、と。そうして毎年やってくるようになった。
◇
ちいさなスペースポートは今日も混み合っている。ここは避暑地の惑星だから、旅行客が絶えない。この惑星は海ばかり。わずかな島のどこにでも、いつも気持ちのいい風が吹く。その涼を求めてやってくる人がある。
そしてここは能力者の住処。異能の者が、訓練のため、保護のため、隔離のために集められている。だからここに行き交うのは、物好きな旅行客と、認定を受けた囚われ人だ。
「リーシャ、今年もお出迎え?」
おなじ訓練施設に通うアイダが駆け寄ってきた。わたしはとうに訓練を終え、アシスタントで通っているだけだ。だからクラスメートとしてわたしに接するのは、間違っている。今だって、アイダは駆け寄ってきた。まだ跳ぶことができない。そんなアイダがわたしを『リーシャ』と呼び捨てる。わたしは十四の姿のままだから、それはアイダに限らないから、彼女ひとりを不愉快だと感じるのは、理屈に合わない。
それでもアイダは嫌い。初めてあったときすこし妹に似ているといい、そのあともお姉さん気取りでいる。だからアイダは嫌い。
アイダの背からのぞきこむ顔があった。アイダは眉も睫も濃く、豊かな黒髪をしている。わたしと同じくらいの背のその女の子は、アイダによく似たはっきりした顔立ちで、なにより悪いことに、その髪は無理やり染めた(脱色した?)らしく、傷んでいる。
「はじめまして、イルマといいます。おね、違う、姉に話を聞いてから、ずっと憧れていたんです。会えて光栄です」
「まあ、ありがとう、嬉しいわ」
空々しい返事に作り笑いを浮かべた。
「今日、お隣の息子さんが遊びに来るの、あなたと同じくらいの歳だと思うわ。毎年ここにきて詳しいから、案内してもらったら?」
「そうね、イルマは喜ぶでしょうね。彼、間違いなく女の子に人気がありそうだから。でも、リーシャの王子様よ」
「あら、ずっと、年下だもの」
そうして、幾分勿体つける。
「わたしはあなたのお姉さんより、ずっとずっとお姉さんなのだもの、ね」
『リーシャ、見つけた』
スペースポートに黄色いボートがはいってきた。着陸する前にあのこは声を送ってきた。
「あなたの王子様、あの船だったかしら」
「そうよ。今年は『かくれんぼ』をするの」
あのこには悪いけれど、咄嗟に嘘をついてその場を離れようと決めた。
『かくれんぼだね、わかった、きっと見つけて見せるよ』
『見つけられるかしら』
アイダには、この声も聞こえないらしい。わたしはとうに愛想笑いに飽きていた。
『違うんだよ、リーシャ、僕の声の精度があがったんだ。もう内緒話ができるよ』
ふうん、と返事をする。
『じゃ、アイダはあなたより出気が悪いってわけね。わざわざここまで来て正規の訓練をうけたっていうのに』
あのこがくすくす笑うのがわかった。
『リーシャはずいぶんと手厳しいね』
『いいのよ、大人じゃないんだから』
『ずるいところだけ、大人だね』
わたしは思考をぴたりと閉ざした。
◇
「ほら、背を追い越していただろう」
それは、不思議な声だった。たしかに記憶の中のあのこの声なのに、去年とまるで違う声だ。そして、送られてきた夢より、ずっと背が高かった。夢はわたしの記憶から姿をさがして現れる。願うものをのせて訪れる。
立ち上がって並んでみるまでもなかった。
「そうね、それにすぐに見つけられたのね」
「うん。リーシャが意地悪してリボンを隠しても、ポートの隣のホテルのラウンジでレモネードを飲んでいても」
「どっちが意地悪かしら」
「ご機嫌ななめだね」
笑って、向かいの席に腰を下ろした。
「大丈夫、リーシャのほうがきれいだよ」
「背が伸びたからって、生意気な口を利かないで。子供のくせに」
ひとくちすすったレモネードは甘すぎた。かくれんぼなのよ、と咄嗟についた嘘さえも、アイダには見抜けなかった。いや増す苛立ちに、勢いでガムシロップを全部注いでしまったのだ。ほんのすこしでよかったのに。
とはいえ、悪いことをした。ポートを出るほど意地悪するつもりはなかった。捕まえておいたから、見失う心配はなかったけれど、勝手にかくれんぼをはじめてしまったことくらい、きちんと謝るつもりだった。
突然ませたことを言うものだから、謝り損ねてしまった。誰に教わったというのだろう、ニコラ兄さまはそんなひとではなかった。
「お待たせしました」
コーヒーが運ばれてきた。ミルクも砂糖も入れず、香りを楽しんでいる。その姿は懐かしい面影に重なった。
――似ていて当たり前だ
「大人のふりしてコーヒーなんか飲んで。背が伸びなくなってもしらないんだから」
「でも、伸びたじゃないか。パパの真似してみたら、おいしかった。今年、突然背が伸びはじめたんだ。ときどき膝がいたかったくらい。パパもママも背が高いから、心配はしてなかったけど、伸びすぎても困るなあって」
「別にコーヒーを飲んだからって背が伸びるのがとまるってものでもないわよ」
「言ってることがさっきと食い違うね。それに、『あなた』じゃなくて『ニコラ』だよ」
「あなたが勝手に決めただけじゃない」
「でも、ポートの外で見つけられたんだから、ご褒美で」
謝り損ねて損をした。わたしはあらためて背筋を伸ばし、ひとつちいさな呼吸をする。
「こんにちは、ちいさなニコラ。わたしはリーシャ、どうぞよろしく」
芝居がかった挨拶をしてみせる。
「もう、ちいさくないだろう。いまは僕がニコラで、パパがおおきなニコラだ」
そう、ニコラ兄さまは自分の息子に同じ名前をつけた。夏休みにパパが前触れもなく連れてきた眼鏡のせいたかのっぽさん。論文が書き上がっても休みのたびやってきたお客様。
「ボートでトマス老から聞いたよ、はじめに僕が会いたいって申し込んだときのこと。窓ガラスを割ったんだって?」
滅多に旅行などしないトマス老と乗り合わせるなんて運が悪い。
「窓ガラスだけですんでよかったわ」
「だからリーシャはサヤマ博士とトマス老には素直なんだ」
「失礼ね、そうやって意地悪を言われなければ、わたしは素直なのよ」
「さっきは、ずいぶんいらいらしてたけど? そんなに気に入らなかったの?」
「当たり前でしょう。どうしてアイダがわたしを子ども扱いするのよ。それに妹に似てるなんて嘘ばっかり。なあに、あれ。髪を伸ばすなら、手入れぐらいすればいいのよ。あんなに傷んだ髪、久しぶりに見たわ」
「精一杯、リーシャを真似ているんだよ。いじらしいじゃない。『白い鳥のリーシャ』ってちょっと有名だからね、特にその銀の髪」
「サヤマ博士から聞いてるわ。あなたに見せた幻影がこぼれていたんでしょう。それは半分あなたのせいよ。あんまり絞り込んでしまったら、あなたが受け取れなかったのだもの。でも、すこし感謝してるの。そうでもなければ、きっと今頃わたしモルモットよ」
「モルモットにされるのがいやで、この惑星を出て行こうとしないわけ? 疑り深いね」
「ずっと子ども扱いされていて御覧なさい。あなただって大人なんて信用できなくなるんだから」
「じゃ、大人になればいい。うわっ」
ミルクを全部、コーヒーシュガーをみっつ、ニコラのコーヒーカップに入れてあげた。
「そういうあなたも、まだまだ背が伸びるだろうし、すこしやせすぎよ」
どうして、わたしの成長は止まってしまったのだろう。ニコラ兄さまに失恋したのが原因なら、こうしてちいさなニコラと話したりできないはずだ。
「やっぱりリーシャは子供っぽいよ。クラスの女の子だってこんなことしないよ」
「ふーんだ、その前に、できないでしょう」
「それが『ずっとずっとお姉さん』の言うことかなあ。はじめて会った頃のリーシャはもうすこしやさしかったよ」
「あなたが生意気になったのよ」
「そうかなあ。会うたびリーシャはわがままになってる気がする。まあ、でも悪い気はしないんだ。自分が大人になったみたいで」
「だから、それを生意気だっていうのよ」
わたしはコーヒーにはミルクをたっぷり。トウガラシは苦手。でもレモネードはすこし酸っぱいのが好き。そしていまだにシフォンケーキを膨らませることができない。
「捕まりそうになったら『跳んで』逃げればいいじゃないか」
「そうして、ずっと逃げ回るの? いやよ」
「じゃあ、どうして叔父さんと叔母さんに会おうとしないの? 呼ぼうと思えばいつだって専用シャトル使用の許可がおりるよ」
「会いたくないんじゃないわ、会えないのよ。こんなこと、言わせないで頂戴」
レモネードの氷がひとつ、鋭い音を立てて砕け、弾けとんだ。だれにもあたることはなかったけれど、その物音に気づいて辺りをみまわす人があった。グラスにもひとすじひびがはいった。
「あなた、大人になったつもりでしょうけど、話題の選択に配慮が足りないわ」
「あなたじゃなくて、ニコラ。サヤマ博士に許可を得ているんだ。リーシャはそろそろ正面から向き合ってもいい頃だって」
「サヤマ博士でも、間違うことがあるのね」
「おじさんもおばさんも、リーシャに会いたがってるよ」
「わたしだって会いたいわ。でも怖いのよ」
「会えないほうがずっと辛いよ、リーシャ」
「解ったようなこといわないで」
「おばさんの金の髪は、色が薄くなって、いまのリーシャにすこし似てる」
「聞きたくない」
わたしは拳を握り締めて立ち上がった。髪が風をはらむようにふうわりとひろがった。
「リーシャ、みんなの時間は流れているんだよ」
ぶうん、と建物が震えて唸った。ざわめきがあがる。不安げに見回す人、立ち上がる人。
「そんなことぐらい、わかってるわよ」
深い息をしながら、ゆっくりと、ゆっくりと、言葉をつむいだ。
「サヤマ博士から、許可を得たのなら、この事故の始末は、博士にお願いできるわね」
ホテルのロビーの、天井から床までひとつづきの背の高い窓ガラスが震えた。わたしが大きく息をつくと、窓ガラスに細かな亀裂がはしり、曇りガラスのように白んだ。そして粉雪が積もるように、弾けることなくその場に砕け落ちた。
リーシャ、と呼ぶニコラの声を残して、わたしは自分の部屋へと跳躍した。
◇
わたしの部屋には『壁』がある。だから、跳躍したのは部屋のドアの前までだ。
抑えきれずに力を解放してしまったので、頭のなかに霞がかかったようでぼおっとしていた。なにかが胸につかえて渦巻いていた。吐き出してはいけない、危険だから。けれど胸は苦しくて、それを吐き出したがっている。
ドアのロックを開けるまで、もうすこし。もうすこし。こうして制御できるように、ここで訓練をつんできた。いつか、パパとママのもとに帰れるように。
もどかしい。ドアのロックの解除ができない。何度もキーを押し間違えて、手が止まる。
「リーシャ」
アイダが跳んできた。
アイダは跳べないはずなのに。
「トマス老が送ってくれたの」
「うん」
そう返事をするのがやっとだった。
アイダは駆け寄ってきて、(ほら、ひとりだと跳んでこられない)わたしを抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫よ、リーシャ」
足元のおぼつかないわたしは、倒れるよりはましだから、アイダにしがみついた。
アイダがこの惑星にやってきたのは三年前。そのときもう十六になっていた。わたしよりすこし背が高いからと、見た目がすこし大人びているからと、ずっとお姉さんぶっている。もうアイダの身体はすっかり大人の女性になった。匂いたつように雰囲気が柔らかくなった。だから、アイダは嫌い。
「大丈夫だから、リーシャ」
わたしは、大嫌いなアイダにもたれかかって、すっかり気が抜けた。
「アイダなんか、大嫌いよ」
アイダはわたしの背中をぽんぽんとたたいた。まるで赤ちゃんをあやすようだ。だから、アイダは嫌い。
「わかってる。大丈夫よ、リーシャ」
ママがそうだったように、わたしのことはお見通しだ。だから、だから、アイダは嫌い。
「うん」
「おやすみ、リーシャ」
何か言いたかったのに、意識が朦朧としてきた。それはいやな感じではなかった。
◇
十三の夏にそのひとはやってきた。
玄関の先に車の音を聞きつけて、パパを迎えに飛び出し、抱きついた。
「パパも今日から夏休みね」
大好きなパパの夏休みに浮かれて、お客様を連れているのに気づかなかった。せいたかのっぽさんは、しばらく驚きに眼を見張ったままだった。失態を詫びようとした矢先、そのひとの目元が和らいだ。わたしはパパのほかに、これほど優しい眼をした男のひとを知らなかった。
「きれいな髪だね。水色のリボンがよく似合う。はじめまして、リーシャ」
お隣のクレール姉さまもサマーキャンプの引率を終えて帰ってきた。わたしはお兄さんとお姉さんとを両手に有頂天だった。散歩に行った。買物にも行った。映画館にも遊園地にも行った。
「妹や弟は要らないの?」
「だって小さな子はみんなわたしの髪を引っ張るのだもの、嫌いよ」
「きらきらしたものが好きなのよ」
クレール姉さまが笑った。
ある日のこと、ママにお使いを頼まれて家を出ると、お隣の庭先でニコラ兄さまとクレール姉さまとが語らっていた。
ただ、それだけのことだ。
ふたりとも、わたしの大好きな、優しい笑顔を浮かべていた。ただ、それだけだ。
わたしは家に戻り、ママに嘘をついた。
「ごめんなさい、ママ。頭が痛くてすこし眩暈がするの。昨日夜更かしをしすぎたみたい、お使いにいけなかったわ」
「起きてこられるなら、夕食には降りていらっしゃい」
嘘はお見通しのようだった。
それでも、部屋まではかろうじてこらえ、鍵を閉めてから、泣いた。
泣いて、泣いて、―― 泣き疲れて眼にしたのは、西陽で蜂蜜色に染まったツル薔薇だ。それでもやっぱり朝の蜂蜜色とはまるで違うわ、と思ったことを覚えている。
そうして眠りに落ちたわたしは、ベッドを飛ばしたのだった。ツル薔薇といっしょに、庭の白樺の枝に揺れていた。秋には赤い実を結びさえするその薔薇にただひとつ欠けていたのは、香り。
(ほんとに、なーんにも香らないのね)
生まれてからずっとすごしてきた街を、はじめて見おろした。かわいらしい絵本のような街並みだ。教会が見えた。学校が見えた。すこしはなれた駅にはまだ照明が残っていた。
その駅の彼方の空から、ヘリコプターが近づいてきた。
◇
あれから、何度目の夏だろう。数えてしまいそうになるたび、数えないようにしている。
「ミルクティーでいいかしら」
「うん」
アールグレイの。
「アールグレイの?」
どうして目覚めたのがわかるのだろう。アイダには読めないはずだ。
「アイダ、妹さんはどうしたの? ポートに置き去り? それって酷くない?」
「ニコラ君に頼んできたわ。かえって喜んでるんじゃないかな」
やっぱり、これだから、アイダは嫌い。わたしが身体を起こして、ベッドの縁に腰掛けると、澄ました顔でミルクティーのマグを差し出した。アイダは嫌いだけど、アイダの入れてくれるミルクティーは大好きだ。
「リーシャ、いま冷蔵庫のぞいたけど、またレトルトと冷凍食品ばかりね」
「ミルクがあるじゃない」
「信じられない。あなた、本当にわたしより年上なのかしら」
「年上です。ここ三年見ていたでしょう、わたしの姿の変わらないのを」
「そうねえ。姿も変わらないし、ずっと料理が苦手なままね」
「アイダだって、ここにきたときにはすっごくへたっぴいだったじゃない。なによ、自分だけ上手になったからって」
自分ばかり、大人になったからって。
「リーシャは料理するとき、怖い顔しているものね」
「違うわ、きっとバストが立派になると料理が上手になるのよ」
アイダは「あっはっは」とも「きゃははー」ともつかない子供じみた大笑いをした。どれだけ悩んで出した推論か知りもせずに笑い飛ばすなんて、大人のすることじゃない。
ひとしきり笑い飛ばすと、アイダは笑いの余韻を残したままの真顔でわたしをじっと見つめた。ミルクティーで温まったはずのおなかの底がきゅんと冷えた。いやな予感がする。
「この夏に妹を連れてきたのはね、これが最後の機会だからなの」
わたしには予知の力はない。それでも、このあとの言葉は想像ついた。
「来月、ここを出て行くの」
これまでいったい何人からその言葉を聞いただろう。みんな、ここを出て行く。
「これ以上見込みなさそうだし、リーシャを見てたらほかにやってみたいことができた。どうやら、お姉さんぶるのが得意らしいわ」
「勝手に、出て行けば」
「ごめんね」
「どうして、謝るのよ」
「リーシャが泣いているからよ」
泣いたりなんかしていない。このしかめつらは、泣くのを我慢しているんじゃなくて、機嫌が悪いだけだ。みんなして大人ぶって、そのくせ自分勝手だから。
「出て行くものがあれば、やってくるものもあるわ。リーシャ、わたしに会いに来てね」
やっぱり、アイダは意地悪だ。
「出て行けないの、知ってるくせに」
「きっと、大丈夫よ」
◇
インターホンが鳴った。モニタを覗かなくてもわかる、扉の外にいるのはニコラだ。
でも、わたしはわかっていなかった。扉を開けても目の高さにニコラの瞳はなく、肩ごしの廊下の壁を見る羽目になった。
涼しい顔でニコラは言った。
「森を散歩しよう。リーシャの部屋でもいいけど」
「はじめに、その選択肢の根拠を教えて頂戴」
「うん。リーシャは優しいから、鳥を驚かせたり、枝を傷つけたり葉を散らすのが嫌いだ。我儘だから、ホテルのロビーのガラスを割っても自分の部屋のガラスは割らない。痛っ」
投げつけたフォークが床に落ちる前に『拾って』テーブルに置いた。
「痛くないでしょう、驚いただけよ。せっかくお手製のシフォンケーキを振舞おうっていうんだから、ありがたくいただきなさい」
「フォークって危険じゃないのかな、禁止されていないの」
「禁止されていても、ニコラが申告しなければ罰せられやしないもの」
まあ、いいや、とニコラは笑う。
まあ、いいわ、とわたしもご機嫌だ。
アイダに『怖い顔をしている』と指摘されたものだから、昨夜、特上の笑顔を浮かべてシフォンケーキを焼いてみた。誰かに見られたらさぞ真抜けているだろうという思いは見事に無視され、ケーキは見事に膨らんだ。
この朝一番に、手土産にして自慢すると、アイダは言ったのだ。
「これでリーシャのバストも立派になるんじゃない」
そんな軽口も、心地よく聞き流せた。それどころか、こんな言葉まで飛び出したのだ。
「イルマ、あなたにはショートカットのほうが似合うと思うわ。頭の形がいいし、毛先を遊ばせるのによさそうな髪質だもの」
驚き喜ぶ顔を見て、わたしもご機嫌だった。
「ねえニコラ、パパとママの話を聞かせて」
「素直だね」
「わたしは、素直なよいこなのよ」
はいはい、と浮かべた子供をあやすような笑顔さえ、今はすこし憎らしいと思う程度だ。
「おじさんは、この夏で大学の講義を終えたんだ。このあとずっと夏休みだよ」
もう、そんなに経っていた。サヤマ博士はそれを知っていたのだろうか。
「あとは、あなたのパパが継いだの?」
「あなたじゃなくて、ニコラ」
「ニコラ」
「うん。おじさんは、僕に数学を教えてくれるって言ってくれたんだけど。僕はこのまま、ここの住人になるんだ」
アイダの笑う顔が見えるようだった。
「それで、トマス老が迎えにいったのね」
「そういうわけ。ところでママはね、笑うとすこし目尻に皺ができるようなったけど、今でもとってもきれいなんだ」
「なによ、それ」
「だから、パパなんかやめて、僕にしなよ」
信じられない。なんだって、そういう話になるんだろう。ニコラを睨みつけると優しく笑いかけている。私がこれだけ不愉快で怒っているっていうのに、得意気に、余裕たっぷりに笑いかけている。子供のくせに。子供のくせに。子供のくせに、ばかみたい。
ケーキ皿と椅子とが、ゆらりと浮かび上がっている。
ニコラは立ち上がって、一歩わたしに近づいた。
「ね、リーシャ。僕にしなよ」
さすがに、我慢の限界。
「ニコラのばかっ」
◇
サヤマ博士にお褒めの言葉をいただいた。
「リーシャのコントロールと判断の能力は賞賛に値するね。あらゆるものを投げつけているようで危険なものは避けている。たとえば、すぐ手前にあったケーキナイフや、フォークなど。(ここでニコラがくすっと笑った)ケーキ皿から椅子、テレヴィモニタや寝室のベッドまでが移動していながら、彼に怪我をさせない程度の衝撃で抑えてある。だから」
「だから? 何ですか、サヤマ博士」
「だから、後片付けも、ひとりで出来るだろう」
部屋をめちゃめちゃにした理由を尋ねられることは、なかった。
部屋を散らかして、片付けて、さすがに疲れのだろうか。眠ろうとしても膝が痛かった。飲みなれない薬でアレルギーをおこしたのだろうか、胸が苦しくてむずがゆかった。
――パパと、ママに、会いたい
◇
この惑星をでたら、絶対、モルモットにされてしまうわ。
一晩で3センチも背が伸びてしまったのだもの。
でもそうしたら、跳んで逃げればいい。
パパとママに会いに行こう。
長かった夏休みが終わる。
(完)
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リーシャの夏休みは、十三の年にはじまった。その夏に『ニコラ兄さま』がやってきたからだ。その次の夏にベッドで空を飛び、それからずっと長い夏休みを過ごしている。 (原稿用紙で30枚) コバルト短編小説新人賞応募作品 もう一歩の作品 |
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