〔AR〕その16
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『――ご報告ありがとうございます。直ちに対策を行いますので、今しばらくお待ちください』

 一日ほど置いてから、そのようなメッセージが古明地さとりのアカウントに届いた。さとりの報告は受理されたようだったが、それ以上のことは示されなかった。

「……まぁ、追加で何か訊ねられるよりかはいいかしら」

 時刻はやはり深夜。地霊殿の住人は、さとり以外の誰もが寝静まっている。さとりは自室でバイオネットの印刷物を眠たそうに眺めていた。

 幻影は、あれ以降出現することはなかった。時間が経つにつれて、さとりは、あれはやはり見間違いなのではないか……と思うようになってきた。信用できるかは置いておくとしても、運営側から返信が来たのも、それを後押しする。

 こいしやペットたちにもそれとなく聞いてみたが、異変を訴えるような話はとんと耳にしなかった。よってさとりは、ここに至って、その件について思索することをやめた。

 運営側のメッセージを後ろに回し、他の印刷物にも目を通す。こいしは再び命蓮寺に長期間の合宿へ赴いており、何をやっているかを手紙で伝えてきた。数週間後に人里で秋祭りが開かれ、命蓮寺は奉仕活動として祭りの準備の手伝いをしているという。

 守矢神社からも手紙が届いており、空が常温核融合実験でゆで卵を作れるようになって有頂天になった話が書かれていた。

 半ば業務連絡的なメッセージを読み終えたところで、さとりは『Surplus R』アカウントに届いていた手紙の方を読む。こちらも、一日ほど置いて、『Initial A』から返信が届いていた。

「この前出した作品の感想がもう書かれてる……短編とは言え、この人本当に読むの早いわねぇ」

 手紙の前半は、作品を出した次の手紙では定番となった『Initial A』の大感想大会でかなりの紙面が割かれており、さとりは未だに気恥ずかしさが馴れない。

(前略)

>さて、今回はRさんにお伺いしたいことがあります。

>先日のことです。私の知人に、お芝居を見せる芸人さんがいるのですが、その方は次に行う劇の脚本作りに悩んでおられます。そこで、私は僭越ながらも、Rさんの小説を芝居にしてみるのはどうか、と提案いたしました。

>しかし芸人さんの方から、芝居化に際して執筆者の許可は大丈夫なのか、というご指摘を頂き、その場は一旦保留と言うことになりました。

>そこでお伺いしたいのですが、Rさんとしては、ご自身の小説を現在発表されているのとは異なる形態にされることについて、どうお思いでしょうか。芝居化の際、諸々の都合上、話の子細が変更になる可能性が高くなります故……

「……え?」

 思いも寄らぬ話に、さとりの目は点となった。

(私の作品を……芝居化? 随分と奇特な発想ね……)

 そう、さとりにとっては本当に埒外の発想だった。さとりは、自分の作品が文字媒体として読まれる以外の形を、想像したことなどない。

 さとりは、本当に趣味のために、時間を潰すために、今の今までただひたすら書き続けてきた。

 言ってしまえば、さとりは自分の書き連ね続けてきた文字の山に、一切価値を見いだしたことなどなかった。『頼れるアルフレッド』のような特別な事情を持った作品であっても、書き終えたものに執着はない。彼女には、物語を思い描き、執筆する、その行為のみがあればよかった。

 ……しかし、今はその心境の変化がないといえば嘘になる。バイオネットに作品を公開することで、さとりは自分の作品を見せる楽しみを、読まれる楽しみを、ようやく知り始めた。

 自分の作品を読んで貰うということは、自分を分かって貰うひとつの手法なのではないか?

「……っ」

 さとりは、ブンブンと頭を振るう。飛躍しすぎた思考を、強引に止めた。

 閑話休題。とりあえず『Initial A』は、『Surplus R』に対して、小説の芝居化の許可を求めている。それに関しての是非はどうか?

「別に、構いはしないわね」

 心境の変化は確かに去来しているが、作品そのものに対する執着のなさは、変わっていない。過去、ついうっかり書きためた小説の紙の束を、廃品回収か何かに放出してしまい、作品を流失させた経験があるものの、さとりはそれに対して一切の後悔はなかった。

 さとりは自身の作品に名前を残さない。個人の特定をされる可能性は低く、実際迷惑を被ったこともなかった。

 余談ではあるが、こいしをはじめとする地霊殿の住人が、バイオネットに公開されている『Surplus R』の小説を見ても、それがさとりの創作物であると思い当たることはないだろう。

 地霊殿の住人は、さとりが小説を書いていることを知ってはいるが、それをまともに読んでいる者(あるいは、読める者)はいない。妹のこいしでさえもだ。

 さらにさとりは用意周到に、公開した小説の原稿を鍵付きの引き出しに封印しているため、それが住人の目に触れることはない。地霊殿の住人から身元がばれる可能性は、こいしという不安要素を考慮しても、非常に低いといえる。

 正直に言って、さとりは、今現在バイオネット上に公開されている作品群を、勝手に改変されたり、名義を偽造して許可なく出版物にされたりしても、腹を立てることはないだろうと思っている。自分の作品に価値を見いだしていないため、そんなことをする者もいないだろうという考えであった。

「というわけで、向こう方が後ろめたい思いをしないためにも、許可を出しておきましょう」

 善は急げ、というわけではないが、さとりは手紙の返信をすぐに書き出すため、手紙の続きを読みだした。

 『Initial A』の手紙は、芝居の話の後に、今から数週間後、秋祭りが控えているという話で締めくくられていた。

「Aさんの住んでいるところでも秋祭りが……やはり、Aさんは人里かその周辺にお住まいなのかしら」

 過去のやりとりから、さとりは『Initial A』が地上の人里に住む人間ではないか、と考えていた。『Initial A』の方から住処を伝えてきたことはないが、匂わせる材料はいくつもあった。はからずも、今回の手紙で、そのことがほぼ実証されたといってもよい。

「こいしが命蓮寺のメンバーとして人里に赴くことを考えると……何かの拍子に出会う可能性もあるかぁ……」

 一瞬、こちらの素性が暴露される危惧がよぎったが、考えすぎだとさとりは思い直した。。こいしがさとりのやっていることに気づく材料は皆無に等しいし、今は命蓮寺の奉仕活動の方が興味の対象を占めているはずだ。

 また思考が逸れてきた。ひとまず、優先するべきは芝居化の許可であろう。手紙を読み終え、さとりはメモ書きの紙に筆を落として手紙の返信を考え始めた。

「うーん、でもちょっと残念ねぇ」

 返信の言葉を用意しながら、さとりは誰かに語るようにひとりごちる。

「仮に本当にお芝居になったら、どんな風になるのかしら。流石にそれはバイオネットでは見れないものねぇ」

 さとりの想像の中で、こいしとお燐と空が、手作りの舞台セットでままごとのような芝居を行う様が、微笑ましく思い浮かべられた。

 

「……というわけで、どの作品を使っても構わないとのことです」

 人里のカフェ。数日前にあったときと同じように、阿求とアリスは話をしていた。

「そう、わざわざ悪いわね。私もあれから色々考えたけど、次第に貴方の提案の方が魅力的に思えてきてね。許可が出たのであれば、その線でやることにするわ」

「わぁ、それはめでたいです!」

「まるで、本人のように喜ぶのね」

 苦笑するように、アリス。実際、阿求の表情の明るさといったら、太陽の妖精もかくやといったくらいに眩しい。

「いやー、これを機会にもっと先生の作品の素晴らしさが広まることを期待しちゃいますねー」

「そう言われると、作品選定も少し気を使わないといけないかしら」

「あ、いえいえ。アリスさんが良いと思われるものが一番ではないでしょうか。ちなみに、今のところアリスさんは何を人形劇にする予定ですか?」

「そうね……この前紹介されたものの中では、一番新しいやつがちょうどいいと思ってる。簡単に構成も考えているのよ」

「最新のものというと、『頼れるアルフレッド』ですね。確かに、あの作品は犬が主人公で、動物がたくさん出ますので、子供も安心して見られますね」

 阿求の物言いはやや含みがあるが、これは『Surplus R』の作品の中に、時折凄まじく暗泥、陰鬱な傾向のものが存在しているためである。ともすれば、トラウマになりかねないほど強烈な作品が紛れており、阿求もその点は考慮して、周囲に勧めている。

 作風の広さも魅力ではあるのだが、流石に全ての作品を手放しで勧められるタイプではない。『Surplus R』はそういう作家なのだ。

「そうね。でもあの作品は、決して愛らしい動物の描写だけじゃないわ。主人公の犬を軸にして、周囲の登場キャラクター達が色々と考え、行動する様子が良いと思うの。作品のタイトルは、きっとそれを踏まえているのね」

「そうですそうです! 最初は主人公がみんなに頼りにされる話かなってタイトルに印象づけられますけど、読んでる内にあれ? そうじゃない? と思わせて、終わりの方になってタイトルの本当の意味が理解できるという……これは大人でも見応え十分だと思うんですよ」

 我が意を得たり、と言わんばかりに、阿求は講談師めいて自らの膝を叩く。その様子を見てアリスは。

(ああ、この娘、よっぽど作品を直に語れる相手に飢えていたのね……)

 と、なんとも生温かい気分になった。アリス自身は、阿求と作品談義を行う気はないのだが、こうなるとなかなか引っ込みが付かないだろう。

 阿求はまだ作品について言葉が止まらないようだが、アリスはそれを適当に聞き流しつつ、まだ一口も食べていないケーキに、初めてフォークを入れた。

 はずだったのだが。

 フォークの先端から返ってきたのは、硬い陶器の感触と、金属が擦れる甲高い音。

「あれ?」

「お姉さん、どうしたの?」

「いえ、ここにあったケーキが……って!」

 視線を落としたアリスは、愕然とした。フォークを落とした先には、ケーキの影も形もなく、その横には、黄色いリボンをあしらった黒い帽子があった。

「アリスさんどうしまし……はうっ!?」

 アリスの声に気づいた阿求も、異変に気づいた。

 阿求から見て左側、アリスから見て右側のテーブル脇に、手づかみでむしゃむしゃとケーキを頬張る、帽子を被った少女がいた。

「こ、古明地こいし……」

「こいしさん、何してるんですか……」

「ケーキ食べてたよ」

「……そのケーキは、誰のかしら」

 アリスは片側の眦をひきつらせて、テーブルの端に顎を乗せる格好のこいしを睨む。

「誰のだろう……お皿に載ってたから食べていいのかと」

 こいしはケーキを食べ終え、口元のケーキかすを拭うこともせずに首を捻った。

「地霊殿では、よその人が座っているテーブルのものを勝手に取ってよいルールでもあって?」

 憤りと呆れが入り交じった表情で、アリスは刺々しく吐き捨てた。

「だってそこにあるものはさっさと食べないと、誰かに食べられちゃうわ」

「こいしさん、ボケてるのならそろそろやめてください。普通に窃盗です」

 阿求は、本気で言っているのだろうな、と思いつつ、こいしを窘めた。アリスは阿求の知り合いの中でも温厚な部類だが、この不作法には流石に怒らないわけがない。阿求とて、同じことをされたら黙っていない。

「それにですねこいしさん、今の貴方は在家信者とはいえ仏門に入っているんですから、あんま悪いことをしたら罰が当たりますよ。白蓮さんに知られたらどうなることやら」

「え? そうなの? 困るなぁ……白蓮さんは怒ると怖いもの。お姉ちゃんの次くらいに」

「……で?」

 アリスの声が、聞こえる度に低くなっていく。阿求がひやひやとする中、こいしはアリスの表情を数秒見て。

「あー、えーっと……ごめんなさい?」

「そこで疑問系はないでしょう」

「……もういいわ」

 馬鹿馬鹿しくなってきたのか、アリスはふんぞり返るように椅子に体を預け、紅茶を口にした。

 何ともいえない空気が場を支配する中、阿求は気を取り直してこいしに訊ねる。

「今日はまた、どうしましたか?」

「うーんとね、命蓮寺の手伝いで人里に来たんだけど、今は休憩中」

「あー、人里の秋祭りのお手伝いですね。一輪さんと雲山さんが、毎度頼りになるんですよ」

「それよ」

「?」

「貴方達、アルフレッドって言ってなかった?」

 憮然としていたアリスが、ティーカップを置いて、少し身を乗り出した。

「『頼れるアルフレッド』のこと? 丁度さっきはその話をしていたけれど……」

「そう、それ! 何で貴方達が、私の家にいたペットの話をしているのかなって」

 阿求とアリスは、思わず顔を見合わせた。

「……どういう意味? 貴方の家に、アルフレッドって名前のペットがいたの?」

「もしやそれ、ラブラドールレトリーバーという犬種の犬だったりして……」

「ええっ!? 何でそこまで知ってるの!?」

 こいしは、それまでのずっと惚けた表情から一変して、本当に心底驚いたようだった。

「十何年か前に死んじゃったんだけど……よくみんなで可愛がってたなぁ」

「え……ちょっと、待ってください」

 あまりにも突拍子もない話に、阿求は混乱してきた。アリスも、柳眉を寄せて怪訝そうな様子だった。

 二人は困惑する理由……それは、こいしが言及する地霊殿のペットの話が、『Surplus R』の『頼れるアルフレッド』の主人公と特徴が妙に一致していることだ。

 相違点があるとすれば、現実のアルフレッドはこいし曰く既にこの世には亡く、一方で小説のアルフレッドは物語の最後まで生きていることだが。

「ねぇ、一体どういうことなの?」

 こいしは、いつになく真剣な表情で、アリスと阿求に詰め寄る。しかし、二人にしても、こいしと同じような事を口走る他ない心境であった。

「んー……と、私達は『頼れるアルフレッド』っていう小説の話をしていたの。そのお話の主人公が犬で、貴方が昔飼っていたペットに何故か似ている、ということよね」

「小説? どこで読めるの?」

「バイオネット上で公開されているんですよ。今はちょっと手元にないですが、バイオネット端末を使えば、誰でも読めます」

 アリスと阿求の話を聞いて、こいしは、考えているという意思表示だろうか、フリルの付いた袖で口元を隠した。

「……ねぇ、阿求さん、だっけ」

「はい、なんでしょう」

「私、前に貴方の取材を受けたとき、お姉ちゃんのことをどれだけ話したっけ」

 阿求は幻想郷縁起での取材をこいしに行った際、地上に姿を現さないさとりについても共に訊ねていた。

 さとりの幻想郷縁起の記述は、実際に会ったことのある霊夢と魔理沙、そして関係者であるこいしと火焔猫燐から得られた情報を構築して書かれた。霊烏路空に関しては、阿求は直接取材できていない上、伝聞を聞く限り、彼女からまともな情報を引き出すことは期待できなかった。

「そうですね。縁起のさとりさんの項目の多くは、こいしさんの証言が元になってますよ。本を読んだり書いたりすることとか……」

「ストップ」

 アリスは阿求の言葉を遮り、針に糸を通す際の慎重さを思わせる調子で言う。

「短絡的な発想なんだけど、もしかして『頼れるアルフレッド』の作者って、古明地さとりなんじゃないかしら」

 突如、沈黙が去来する。他の客の話し声、通りから伝わってくる騒音さえ、初めから存在しなかったかのような無音の領域が、三人のいるテーブルを切り取る。

「え……それは……どういう……」

 呆気にとられすぎて、阿求はか細く声を絞り出した。その反応が意外すぎて、アリスの方も落ち着かなくなった。

「本当に思いつきよ。私も改訂された幻想郷縁起でさとりの項目を見たけれど、彼女は書き物をするんでしょう? その一方で、『Surplus R』が書いた小説では、地霊殿にかつていたペットに似ている犬が主人公になってる。読んでいて何となく感じたんだけど、『頼れるアルフレッド』は、どこか作者がペットを慈しむような視点で描かれていると思うの」

 そう言われて、阿求も作品を読んだときの感触を想起する。あの作品の語り口調は、いつになく柔らかかった。

「つまり、『頼れるアルフレッド』は、古明地さとりがかつて飼っていたペットを想って、それを題材にしたと考えることもできる。物語のアルフレッドが死なないのは……まぁ、願望でしょうね。だれしも、物語の中だけは現実の悲しみと無縁でいてほしいと思うだろうし」

「いや……それよりも……」

 阿求にとっては、作品の考察よりもずっと大きな事実が首をもたげてきていた。アリスの考察と類推は、自動的に一つの結論を導き出すことになる。

「『Surplus R』先生は……古明地さとりということなんですか!?」

「『Surplus R』が複数人の共同ペンネームでなければ、ね」

 声を張り上げてしまった阿求とは対照的に、アリスは、平然とした風に言った。

「勿論、状況証拠としても材料が少なすぎるし、単なる思いつきの域を出ない考えよ。ただ、ありえない話ではないと思う」

「……お姉ちゃんの部屋には、ついこの間までバイオネットの端末があったよ。今は、部屋の外に置いているけど」

 黙って話を聞いていたこいしは、どこか真剣味を帯びた顔つきで口を開いた。

「地底にも、バイオネットのサービスは行き届いていたってことね」

「ほ、ほんとですか……」

 アリスの思いつきが、いきなり仮説として補強されたことで、阿求の動揺はさらに高まった。

 古明地さとりと直接会ったことはない。その人となりは伝聞としてしか阿求は知らない。ただ、嫌われ者の集まる地底に置いて、群を抜いて嫌われた存在であるという印象が強かった。実際、直接出会い、交戦経験のある霊夢や魔理沙からは、いやらしい相手だと聞かされていた。

 火炎猫燐やこいしからの話では、身内にはとても優しいタイプのように伺えたが、それ自体はどんな種族であっても珍しいことではない。古来からの覚の伝承と相まって、阿求にとって古明地さとりは非常に厄介な妖怪であるという認識が固まっていた。

「まさか、先生が古明地さとり……?」

 つまるところ、阿求には、あの聡明で親切な『Surplus R』が、古明地さとりであるなどと、とても信じられなかった。まるで、平安貴族が意趣返しに呪術をかけられたような気分だった。

「……なんか、随分と深刻そうな顔してるけど」

 アリスは、ため息を一つついて。

「仮に、『Surplus R』がさとりだったとしても、特別害があるとは思えないけどね。それに、反証だってないことはない。まず、さとり自身が、小説を不特定多数相手に公開する気があったかどうか」

「……ちょっと前、お姉ちゃんに小説を公開してみたら、って聞いてみたけど、そういうことする気はないって」

「ふうん。じゃあ、私の思いつきは大きく崩されるわね。家族がそう言ってるなら、可能性は低いでしょう」

「は、はは、そうですよね――ちょっとしたいたずらくらいはまぁあり得るかもしれませんが」

 よもや急速に構築されかけた仮説は、一瞬にして瓦解したかのようだった。それで阿求はほっとしたのか、我しれず強ばっていた表情を和らげた。

「それにそうですよね。基本的にさとりさんは直接会わない限りは、心を読まれることもないですし、あまり気にしても仕方がないですね」

「そういうことね」

 アリスは、もはや興味をなくしたのか、紅茶のカップに手をかける。口にすると、中身は、完全に冷めてしまっていた。

 アリスは、ポットから二杯目を注ごうとするが、こいしを見て、少しだけ逡巡。そしてカップを持ったまま、もう片方の手でポットをこいしの目の前に差し出す。

「飲む?」

「え? あ、えっと――」

「お変わりを貰おうかと思ったから、遠慮しなくていいわよ。今、店員に頼んでカップを……」

「――いらない。はい、これ」

「?」

 こいしは、アリスの持つポットを少しだけ横に退けると、アリス側のテーブルの縁に、幾ばくかの小銭を置いた。

「ケーキ代。じゃあね」

 その言葉を最後に。阿求とアリスが瞬きした次の瞬間には、こいしの姿も、気配も、初めからなにもなかったかのように掻き消えた。

 阿求とアリスは、顔を見合わせるほかなかった。

「行っちゃいましたね……なんだったんでしょう」

「さぁてね。あ、一銭足りない……まぁいっか。それよかこれ、ちゃんとした浄財でしょうね」

 アリスは目の前に置き去りにされた硬貨を改める。人里で使える硬貨だが、こいしが旧地獄出身で、現在は在家信者として命蓮寺に入信しているという、変わった事情故、出所が気になる。

「なんにせよ、ちょっとしたミステリーだったわね。地霊殿の主が覆面作家? なんて、烏天狗が食いつきそうだわ」

「ははは、それはあらぬ憶測を招きそうですね」

「ま、相手が地底の住人だと、もしかしたら後込みしてノータッチを通すかもしれないけどね」

「それよりも、出来れば花果子念報に嗅ぎつかれないことを祈りたいですね。あの新聞はバイオネット版も出しているので、ネタにされると面倒そうです」

「……まぁそうね。さっきの話の真相はさておき、天狗に迂闊に記事にされたら、何も悪いことしてない『Surplus R』がただ迷惑を被るだけだし」

 そう、『Surplus R』が何者であったとしても、かの人物は、悪事を働いているわけでは決してない。

(そうだ、別に何か悪いことが起きているわけじゃない……)

 阿求は、自分に言い聞かせた。『Surplus R』が古明地さとりである可能性は置いておくとして、『Surplus R』が人間だろうと、妖怪であろうと、阿求にとって憧れの作家であることは間違いないのだ。

「……それじゃ、私も帰るわ。まだ時間があるとは言え、脚本を詰めておかないとね」

「あ、お疲れさまです。それと、何か私にできることがありましたら、遠慮なくおっしゃってください」

「そうね……じゃあ、今回の人形劇の広告でも作ってくれないかしら。貴方、絵描くの得意よね」

 幻想郷縁起に収録されている挿絵のほぼ全てが、阿求の手によるものだというのは、意外と知られていない。人物の性質などによって、阿求は七色の画風とも言えるほど多彩な絵柄で描き分けている技術は、ある意味求聞持の能力以上に特筆すべき能力と言える。

 縁起の独白などに明示してあるのだが、そこまでしっかりと読む者は、思ったより多くないのかもしれなかった。

「むむむ……未だかつてそのような依頼を受けたことはありませんが、わかりました、やってみましょう。出来たものは、バイオネットにも張り出して大丈夫ですね?」

「ええ。折角だからちょっと盛大にやりましょうか」

「ふふ、楽しくなってきましたね!」

 阿求とアリスは、どちらが言うともなしに、笑顔でハイタッチを交わした。

説明
twitterにて週間連載していた東方二次創作小説です。

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