竜たちの夢16
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 荊州は土地が豊かな州であり、この土地を手に入れてしまえば、かなりの物資を手に入れることができる。

だからこそ、曹操と孫策はこの土地を手に入れんと虎視眈眈と狙っているのだ。

そんな場所に劉備が居る……これは双方にとって実に難しい状況である。

 

 何せ、劉備玄徳の居る場所には北郷一刀が居る。

そこに攻め込めば、彼は容赦なくその暴力で降りかかる火の粉を払うどころか、火元そのものを消しに来るだろう。

彼の方から攻め込まないということは約束されているが、攻め込まれても無抵抗で居るという約束はされていない。

 

 詰まる所、荊州に劉備が居る間は曹操も孫策も手出しができないのだ。

ただでさえ強大な劉備の勢力は、数は一万にも満たないが、圧倒的な武力を持つ。

北郷一刀さえどうにかすれば攻略できるような軟な者達ではない……数では勝っているが、質で負けているのだ。

関羽、張飛、超雲、太史慈の一騎当千と言える武将に、諸葛亮、?統の二大軍師までもが居る已上、そう簡単には打ち崩せない。

 

 しかし、この三大勢力の睨みあいは思わぬ形で終わることとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「同盟、か」

 

 荊州に到着して一週間、漸く一段落ついた一刀達は呉からの使者の言葉に悩まされることになった。

軍議をする為、部屋に集まった劉備陣営の重臣達は、中心に居る女性を見遣りながらも顔を歪めている。

病的に白い肌と、紫がかった黒髪、更には真っ赤な眼という呉の者とは思えない容姿をしている彼女は、魯子敬と名乗った。

その名を良く知っている者はそうそう居ない。

 

 三国時代の知識を持っている一刀ですらも、魯粛に関することはあまり知らないのだ。

とてつもなく頭が切れることと、赤壁の戦いの布石となる劉備と孫権の同盟に大きく貢献したということくらいしか、彼は魯粛のことを知らない。

その同盟も既に曹操が荊州攻撃を開始してから成立したものである筈なのだから、これは余りにも速過ぎる。

一刀というイレギュラーの存在がそうさせているのかもしれない。

 

 一刀は孫権との婚約者であり、劉備も一度は孫策と同盟を結んだ関係だ。

この二人にならば孫呉は比較的安心して新たに同盟を組むことができるであろうし、実際彼らにそれを拒むつもりは無い。

あの自尊心の高い曹操を天下三分の計に組み込むには、一度徹底的にどちらが上かを示さねばならないからだ。

 

 

「魯子敬殿、その同盟の利点をお聞きしても?」

 

「言わずもがな、北から攻めて来る曹操を倒し得る戦力の確保が可能だというのが最も大きい利点です。他にも、呉との交易は内陸にあるここでは非常に貴重なものとなるでしょう」

 

「確かに塩などは海の傍でないと取れないでしょうね。呉との交易は内陸部にとって非常に重要だ」

 

「この同盟はやがて益州を飲み込んでいくであろう貴方方にとって悪いものではないでしょう」

 

「……成程」

 

 一刀は魯粛の持つ先見の明が孔明に匹敵するものであることを理解し、しかし同時にそれを生かし切れていないことを嘆く。

確かに能力そのものは孔明を脅かせる程のものだが、孔明のようにはそれを上手く扱えていないのだ。

孔明であったならば、こうもはっきりと大勢の前で余計なことを言いはしない。

己の首が飛ぶ可能性を魯粛は考慮できていないのだ。

 

 ここで彼女の首が飛べば、恐ろしい展開が待っているのは間違いない。

曹操は先ず孫呉を攻め滅ぼし、更にその力を強大なものにしてやってくる筈だ。

一刀と恋の存在がある已上、劉備に手を出すのは最大限の戦力を得た後になるのは間違いない。

その孫呉にとって最悪な未来を、彼女は余計な一言で招きよせる所だった。

 

 

「悪くない話ですね……具体的な取引などを考慮しなければなりませんが」

 

「愛紗の言う通り、悪い取引ではないと思いますぞ。とは言っても……皆同意見のようですが」

 

「そのようだな。劉備の意見は?」

 

「私は……この同盟に賛成です。魯粛さん、孫策さんに伝えてください。これから先の戦いは曹操さんを滅ぼすのではなく、共に歩み寄る為のものだ、と」

 

「!……承知しました。すぐに伝令に伝えさせます」

 

 一刀は劉備の立派な返答に頬を緩ませた。

彼女は良く分かっている……これから先起こるであろう戦いは曹操を殺す為ではなく、生かす為のものだ。

孫策達が考えているのは恐らく天下二分の計であろうが、一刀達が考えているのは三分の計である。

曹操は一番手ではなく二番手であって貰う……その方が彼女にとっても幸せだ。

 

 曹操は確かに覇王になれる資質を持っているかもしれないが、それ以上に脆さが目立つ。

彼女は元来二番手であった方がその真価を発揮できる人種なのは、恐らく間違いではない。

己を捨てきれなければ王ではあれず、己を捨てきることすらもできないのならば、王ではなくその下に居るべきである。

だからこそ、曹操もまた王に従う王となるのだ。

 

 劉備は甘いだのなんだのと言われているが、己を捨てずに王で居られる。

彼女は存在するだけで人間を変えてしまえる程の影響力を持ち、覚醒すれば王としては完成された存在となるだろう。

彼女は揺るがない……その悍ましさすら感じるであろう精神力の片鱗は、既に皆が見ている。

彼女は甘ちゃんのように見えて、しかし実は残酷で、現実的で、可能なことしかできないし、しないのだ。

 

 

「伝令?……魯粛さんが直接伝えに行くのではないのですか?」

 

「はい、私には貴方方のことをもっと良く知り、如何にして呉が貴方方と連携を取るかを考えておく必要があるのです。どうかここに滞在することをお許しください」

 

「成程、そうでしたか。北郷殿、桃香様、どうされますか?」

 

「俺は別に構わないぞ」

 

「私も構わないよ。魯粛さん、一応劉表さんの気を損ねないようにお願いしますね」

 

 苦笑しながらそういう劉備を見て、一刀と魯粛もまた思わず苦笑した。

劉表は孫策と孫堅にとっては黄祖を抱えていた敵なのだからあまり仲は良くない。

そこに世話になっている劉備の下に魯粛が来るのを受け入れてくれた劉表を不安にさせては困る。

使者に見せかけた暗殺などの危険性を孕んでいるにも関わらず、劉表は魯粛達を捨て置いたのだから。

 

 劉表はあまり目立たないように努めていたが、内政に関してはかなり良いものを持っている。

最近は体調が優れない上に、子達は頼り無いとくれば、劉表が劉備を招き入れた理由も分からなくはない。

この先どうなるかを見抜いた劉表は、荊州の州政を劉備に任せようとしているのだ。

子に家督を継がせるのではなく、劉備に託す方が未来があると判断したのは間違いない。

 

 劉表は飽く迄この荊州を治めることのみを目的とし、同時に生きがいとしていた。

徐州を治めていた陶謙もまた同じであり、天下そのものを望んではいなかったのだ。

そのような考えではいずれ飲み込まれることは分かっていたであろうに、二人はその意見を変えない。

だからこそ、一刀達の居なくなった徐州は曹操に飲み込まれた。

 

 

「勿論です。荊州で問題を起こせば、それこそ同盟が成り立ちませんから」

 

「助かります。魯粛殿のお部屋はこちらで準備しますので、ごゆっくりしていってください」

 

「ありがとうございます」

 

「魯粛殿は我々と呉の橋渡しとなるお方ですから、このくらいは当然です」

 

 スムーズに関羽が魯粛との会話を進めるのを見た一刀は、その成長ぶりに内心関心した。

関羽は良い意味で変わった……以前の彼女が持っていた傲慢さとその本質である歪みは既に克服されている。

彼女は史実の関羽よりもある意味優れた、気負わない武将になることができたのだ。

今ならば、一刀が居なくなっても彼女がこの軍を十二分に機能させてくれるだろう。

 

 人外のような強さを持っていると言われ続けた関羽も、それ以上の人外である一刀と会って己がただの人間であると気付いた。

化け物である自分の居場所を求めようとすることが間違いで、ただの人間として生きることが正しいのだと彼が教えたのだ。

化け物として生きるにはどれ程の痛みに耐えて、どれ程の痛みを与えねばならないのかを今の彼女は知っている……だから、人間として生きる道を選べた。

 

 上位種であるという傲慢さを持つには彼女は弱過ぎたし、一刀達は強過ぎた。

その傲慢さを振り払うことで、彼女は同時に化け物の居場所を求める必要もなくなり、それを完全に振り切った。

彼女がその傲慢さを捨てきれなかったのならば、勘の良い魯粛はすぐにその歪みから孫呉がつけいる隙を見つけるだろう。

しかし、今の関羽にそのような弱点はない。

 

 

「正直に言うと、驚きました。この様子ではこの勢力はそう簡単には揺るぎそうにありませんね」

 

「揺らぐ?……何か、悪い噂でも聞きましたか」

 

「その通りです。巷では、北郷一刀が曹操と裏で手を組んで荊州を手にしようとしている、という噂が静かに広がっています」

 

「ほぉ……面白い。離間の計か。曹操も面白いものを仕掛けて来てくれる。これは、こちらも全力で応えて良いのかな?」

 

「一刀さん、程々にね。やり過ぎちゃうと曹操さんが怒って攻めて来るのが早まるから」

 

 魯粛の言葉に、劉備の重臣達は誰一人動じることなく、一刀の言葉に苦笑する。

そんな光景を内心では異常だと思いながらも、魯粛はこの勢力が何故少数でここまで強大になったのかを理解した。

劉備と北郷一刀は揺るがない……根も葉もない噂に憤慨する処か、それを一笑したのだ。

あり得ないということが分かっているかのような、ある種の不気味な確信すら二人は抱いている。

 

 魯粛は異常だ。その恐ろしいまでの先見の明は劉備達を敵とすれば孫呉に未来がないことを既に見抜いていた。

しかし、その原因は曹操に攻め滅ぼされてしまうというものであって、劉備達にそのようなことはできないとある種確信していたのだ。

そんな彼女の甘い考えをあざ笑うかのように、劉備達はその強固さを示した。

 

 信頼などという言葉が軽く思える程のその強固さは、孫呉にとっても脅威になり得る。

この強固な首脳を迎えてしまった人民達は、孫策達よりも劉備達に統治して貰うことを望むだろう。

事務能力云々の才能に恵まれた者はいくらでも居る……しかし、劉備のように居るだけでここまで皆を強固にする人間は恐らくこの大陸に一人も居ない。

 

 魯粛は、天下二分の計が成り立たないであろうことを実感し、孫呉の未来が既に劉備達の手に握られていることを悟った。

 

 

「魯粛殿、その噂を詳しくお聞きしても?」

 

「はい。以前徐州で曹巨高殿を陶謙殿の部下の暴走からお救いになった際、曹操からの密書を受け取った、というものです」

 

「成程。巨高殿と出会った時か。では――俺に喧嘩を売った代償として、そこに居た二人の内片方を貰うとしよう」

 

「北郷殿、そのようなことが可能なのですか?」

 

「できるとも。そうだな……梅花、孔明、あの曹操の自慢の軍師達を翻弄してやる気はないか?」

 

 ニヤリと笑う一刀に、数瞬考える素振りを見せながらも、静かに孔明と荀攸は頷いた。

二人は一刀の言葉を聞いてすぐさま幾通りもの策を考え、更にそれを磨き上げていく。

大陸でも有数の頭脳を持つ彼女達にとって、いずれ程cや郭嘉、荀ケはぶつからねばならない相手だ。

彼の誘いに乗ることで、心強い味方と共に曹操の首脳達に挑むことができる。

だからこそ、彼女達は迷わず頷いた。

 

 ここで曹操達の出鼻を挫くことができれば、戦局はかなり楽になる。

そればかりではない……精神的な負荷までも曹操達に負わせることで、冷静さを欠かせることすら可能だ。

曹操を完全に屈服させるには、戦だけでなく他の部分でも圧倒してやれば良い。

そして、孔明達にはそれができるのだ。

 

 

「朝敵と言われるかもしれませんが、それでも宜しいのですか?」

 

「朝敵、か。残念ながら、曹操に敵対した時点でそうなるのは明確だ。向こうもそうなった方が攻めやすいだろう?」

 

「……北郷殿は、本当に優秀なお方なのですね」

 

「いえ、そこに居る諸葛孔明、?士元や荀公達には叶いません。これは経験が為せる業です」

 

 魯粛は北郷一刀という存在の異常性を漸く理解した。

主である劉備と対等な立場に居て、それを周りの者達は責めない上に大部分の者が受け入れているのだ。

劉備本人に至ってはそれが自然であるかのように見える……これを異常と言わずに何と言えば良い?

この陣営はあまりにも異常で、強固で、もはやこの世のものではない程だ。

 

 北郷一刀という暴風と、それに耐え得る風車である劉備が居るこの陣営は、揺るがない。

共に同じものを目指す同志であることも、共に歩んできた時間も、これ程のものを形成できる程ではない筈だ。

頭で考えても永遠に分からないであろう……ただ、何か不思議な力がそうさせているのは魯粛にも分かる。

 

 

「そうですか……本当に、ここは優秀なお方が多い。呉からすれば羨ましい限りです」

 

「ふふ、これからももっと増えるでしょうな。荊州でも桃香様の評判は大変宜しいですから」

 

「おお、それはまた……私達もその恩恵にあやかりたいものです」

 

「呉も孫策殿達の名の下に多くの者達が集っているのではありませんか?」

 

「確かにそうですが、ここまでのものではありません」

 

 孫策の下に集う者が少ない訳ではないし、集った者達は実際有能だ。

しかし、その量は劉備の下に集った者達と比べるとやはり差が出てしまう。

軍師の面では殆ど同等であるのだろうが、やはり武将の数も質も劉備のそれには叶わない。

北郷一刀と呂布が居る時点でその戦力は既に呉のそれを上回っていると考えて良いだろう。

 

 孫策達は北郷一刀、呂布をそれぞれ数万に値する戦力だと評価したが、魯粛はそうは思っていない。

双方共に十万にすら匹敵する武将であり、彼らが居るだけで実に二十万に匹敵する戦力となる、というのが彼女の考えだ。

武将は居るだけで味方に力を与え、敵に恐怖を植え付けるものだが、この二人は最たる例である。

味方は絶対的な安心感を得て、敵が敗北は必至だと思い込んでしまう。

 

 それがいかに危険なものであるかは、虎牢関での戦いが証明している。

呂布の敗北が董卓軍にどれだけの絶望感を与えたかはまだ多くの諸侯達の記憶に残っている筈だ。

一人で一軍を打倒せる程の力を持つ者であるが故に負けは許されない……しかし、負けなければその力は圧倒的だ。

下手をすれば王以上に味方を鼓舞することが可能であるのは、間違いない。

 

 この陣営は規格外だ―――それこそ、天が味方しているかのように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 曹操はその眼を細めて、伝令の報告を聞いていた。

荊州に居る北郷一刀と劉備を離間させる為の策は今現在進行中であるが、まだ反応は無いようだ。

この策が成功すれば、北郷一刀を手中に収め、覇王として足りないものを得ることができる。

その為に彼女はこの策を許可したのだ。

 

 

「まるで動じていないとはね……風、桂花、向こうはどう動くと思う?」

 

「先ずは噂を払拭する為に動くでしょうね〜。その対応に追われている内に次の段階に移らせて貰います」

 

「風の言う通り、先ずは噂をどうにかしようとする筈です。劉備にとっては非常に由々しき問題ですから」

 

「そうよね。先ずはそうなる筈……」

 

 劉備にとって北郷一刀は関羽、張飛と並ぶ重臣である。

その重臣に根も葉もないとはいえ、謀反の噂がたつのならば、それをどうにかしようとするのが自然であろう。

曹操の見る限り、彼女は王としての器を持ちはするものの、やはり甘い。

強かさを持ってはいるものの、何も知らずに反董卓連合に参加するなど、詰めが甘いのだ。

 

 根本的な部分では甘い劉備だからこそ、今回の策は意味をなす。

北郷一刀がどれだけの影響力を持っているのかは定かではないが、少なくとも劉備には及ばない筈だ。

彼は飽く迄武人であり、臣下であり、主である劉備よりも求心力があってはならない。

劉備に遠慮をして力を抑えているのならば、それを自分の下で存分に発揮させてやれば良い―――曹操はそう考えていた。

 

 

「馬騰達の方はどうなっているのかしら?」

 

「あちらはこのまま行けば、お互いに潰し合って自滅してくれそうですね〜。馬超さんだけでは涼州は守り切れませんから、一ヶ月もすれば決着がつくと思いますよ〜」

 

「幽州に関しても、公孫賛には逃げられたものの、無事手中に収めることができましたので、後は涼州と烏丸に気を付けるだけです。烏丸に関しては今現在動きが無いのが気になりますが」

 

「確かに、異民族は今の処不気味なくらい静かね。余裕があるのなら、北伐を行うことにしましょう。その際には、稟に全権を預けるわ」

 

「御意。既にこの頭の中で策は整えてあります。準備を進めておきましょう」

 

 稟――郭嘉の応えに曹操は思わず微笑んだ。

神算を行う郭嘉は、単純に軍略という一点に限れば大陸で最高の頭脳の持ち主である。

こういう言い方はあまり良くないが、彼女の才能は乱世でこそ強く光輝くのだ。

平時における政策に関しては、かなり上位の能力を持ってはいるものの、荀ケや程cには敵わない。

彼女は戦場を彼女の思い通りに動かしている時、最も輝く。

 

 曹操は人材に関する執着心が強く、それを最も上手く扱えるのが自分だという自信がある。

だからこそ、彼女は劉備の下で主に遠慮して力を存分に揮えない北郷一刀を手に入れたい。

思う存分に力を揮わせ、その覇王としての資質から多くを学んで完全な覇王になる為にも、彼は必要だ。

己を捨て去り、完全に覇王になってこそ、彼女はずっと抱えていた苦しみから解放される

 

 

「呉の動きはどう?」

 

「細作さんの報告では、今の処特に目立った動きは無いみたいですね〜」

 

「暫くの間は内部を纏めることに注力した方が良いでしょう。内部をしっかりと纏めなければ、いざという時に大きな痛手を被ります」

 

「桂花の言う通り、今は内政に集中するのが最善です。足場が不安定では簡単に崩されてしまいます」

 

 三人の言う通り、今は内政に集中するのが最善であり、最優先だ。

これから先に待ち受けるのは大陸の覇権を争う処か、ほぼ完全に勝敗を分けるに等しい大決戦である。

その為にも先ずは地盤を固めて、内側から崩壊しないようにしなければならない。

曹操孟徳がその命を懸けてまで追い求めた夢が大成するか否かが、そこで決まるのだ。

 

 その為にも、彼女は覇王であらねばならない。

最後の一歩である完全な己からの脱却を為してこそ、彼女はその境地に至ることができる。

そして、その一歩を踏み出す為には今のままでは駄目だ……だから、北郷一刀を使う。

最後の一歩を踏み出す為に、その先にあるものをしかとその眼で焼き付けるのだ。

 

 

「そうね。そうしましょう」

 

「華琳様、早速――「失礼します!」何用かしら? 大切な軍議を中断させてまで伝えるべきことなの?」

 

「はい! 先日眼を覚ました張遼様が夏候惇様と決闘をしようとなされています!」

 

「なんですって!? 霞が!?」

 

「……病み上がりに春蘭と戦おうだなんて、無謀だわ。華琳様、すぐに止めるべきです」

 

 苦い表情のまま告げる荀ケに、曹操は静かに頷いた。

張遼は先日意識を取り戻したばかりで、その際も血を吐いていたのだ。

血を吐くということは、かなりの重体どころかもういつ死ぬかすらも分からない程の状態であろう。

それにも拘わらず、曹操配下最強の武人である夏候惇に戦いを挑むのは無謀と言わざるを得ない。

 

 互いが万全な状態でも、夏候惇の方が一段優れているのは否めない。

張遼の攻撃は速さに関しては絶大的だが、重さは超一流と言うには足りず、どうしても夏候惇や関羽と比べると見劣りする。

その足りない重さは、重体であれば尚更夏候惇にとっては羽のようなものでしかないだろう。

今の張遼を夏候惇と戦わせる訳には行かない。

 

 

「まったく……本当に悩みが絶えないわね。稟、貴方も来なさい。霞がどういう状態かを見ておくと良いわ」

 

「御意」

 

「桂花と風はこのまま離間の計などの最後の詰めについて話し合っていて頂戴」

 

「「御意」」

 

 曹操は郭嘉を伴って、すぐさま調練場へと向かった。

北方の異民族である烏丸をどうにかするのならば、張遼の騎馬隊の存在は必要不可欠だ。

今張遼がどういう状態にあるかで、南方の劉備達と戦うのが先か、北方の憂いを振り払うのが先かが決まる。

張遼の状態が曹操の想像程度に悪いのならば、南方攻略までは休ませる必要があるし、そうでなくとも暫くの間は戦わせる訳には行かない。

 

 北郷一刀と一対一で戦って生き延びたという点では張遼の名は強い意味を持つかもしれない。

しかし、その真実は完全に手加減された状態での一方的な蹂躙であり、彼女は生き延びたのではなく“生かされた”に過ぎないのだ。

その事実は曹操配下でも二番手に位置するであろう張遼すらも赤子同然であるという、圧倒的な力の差を曹操達に突き付ける。

 

 彼の前では夏候惇すらも赤子の様に扱われ、その生死は彼の思うままであろう。

呂布も含めて、それ程の規格外の化け物が劉備の下には二人も居るのだ……万全な状態で挑めども、勝てるかどうかは分からない。

そんな状態で、大切な戦力である張遼に無駄な負荷をかけてしまうのはナンセンスだ。

夏候惇と一騎打ちなどをしている暇があるならば、休ませなければならない。

 

 

「稟、先程言っていた北伐だけど、その際には霞も戦力に計算しているのかしら?」

 

「勿論です。張遼隊の機動力無しでは騎馬民族である烏丸をどうこうはできません。今現在の霞の状態でいつ頃それが可能になるかは変わりますが」

 

「あの傷の深さだと暫くの間は動けない筈なのに、本当に無茶をしてくれるわ。安静にしていても完治には二ヶ月近くかかると医者が言っていたけれど、余計に伸びてしまいそうね」

 

「確かに……あの重傷で生きているのは、ある意味奇跡でしょうね。単純に手加減されただけなのかもしれませんが――」

 

「あそこまでの重傷を負わせて手加減しているというのは考えられない、かしら? その点に関しては、信じられるわよ……あの男は。何せ、手加減しなければ肉片しか残らないんだもの」

 

 北郷一刀がその氣刃で以て二万の黄巾党を一瞬で屠ったのは、黄巾党本隊の討伐に参加していた者の間では有名な話だ。

肉体が跡形もなく弾け飛び、卸されていくというグロテスクな光景は遠目に見ても忘れられるものではない。

かく言う曹操も、あの殺戮の光景は脳裏にこびり付いている。

 

 それ程の圧倒的な暴力を持つ者が、張遼一人に深手を負わせる程度しかしなかったならば、それは明らかに手加減をしていると言える。

その気になれば、張遼は肉塊になって帰ってきたかもしれないのだから、恐ろしいことこの上ない。

張遼を生かしたのは、曹操との関係を悪化させない為なのか、それとも気まぐれなのかは定かではないし、余り期待はしない方が良いだろう。

 

 化け物に人間の道理は通用しないものだ。

 

 

「黄巾族本隊の討伐の際の話ですか? 私はその光景を実際に見たことはありませんが、相当惨い光景だったそうですね」

 

「そうね……あれは凄まじいの一言に尽きるわ。あれ程の殺戮を行える者を相手にして重傷で済んだということは、手加減されたということよ」

 

「成程……人外と言われるのも分かります」

 

「その人外を倒さねば天下は取れないのだから、まさしく最後の試練ね」

 

 北郷一刀は今の処劉備を王としようとしている。

曹操はこのままでは彼を倒さねばこの大陸の覇者にはなれない……どの勢力よりも恐ろしい存在である彼を、だ。

もしも離間の計が成功すればその不安も解消され、彼女は覇王に必要な最後の一歩を安心して踏み出せるだろう。

しかし、恐らくそうはならない……そんな予感が彼女にはあった。

 

 

「さて……誰かが止めに入っていると良いのだけれど」

 

「秋蘭様あたりが止めてくれているのでは?」

 

「二人共頑固だから、場合によっては秋蘭でも手に余るでしょう」

 

 夏候淵は夏候惇のストッパー的な役割を担ってくれているが、彼女にも限界はある。

夏候惇と比べれば彼女の武は幾分か見劣りする已上、彼女の言葉で制御できなければ止めることは叶わない。

遠距離においては他の追随を許さない彼女だが、近距離戦では夏候惇や張遼には及ぶべくもない。

頭に血が上ってしまった夏候惇を止めるのは至難の業だろう。

 

 恐らくは張遼は夏候惇を挑発して決闘する形に持ち込んだ筈だ。

夏候惇は割り切れる人種ではあるが、重体の味方と刃を交えることを躊躇わない者ではない。

己がいかに強大な力を持つかを理解できない程バカではないのだから、手加減くらいはしてくれる筈だが、それでも危険だ。

張遼の傷はまだ完全に塞がっていない筈なのだから、激しい運動をするだけでも致死の可能性が生じる。

 

調練場の入り口に来た所で、曹操は声を張り上げる準備をした。

 

すぐさま二人の戦いを中止させる為にも、その準備をして中へと入った彼女であったが――不意にその中の光景の異質さに気付き、声を張り上げることも忘れてしまう。

 

 

「これはいったい……?」

 

「! 華琳様、申し訳ありません。姉者を止めることができませんでした」

 

「秋蘭、それについて貴方を責めはしないわ。それよりも――この状況はいったい何なの?」

 

「……私もこの状況の説明に関しては答える術を持ち合わせておりません」

 

「そう……そうよね。こんなこと……こんなことが、ある筈が無いわ」

 

 曹操は夏候淵の言葉を受け止めながらも、思わず呟いた。

彼女がここに来るまでに想像したのは、張遼が一方的に夏候惇に押されている光景か、激しい運動で傷口が開いている張遼の姿だったのだ。

飽く迄この勝負を決めるのは夏候惇であり、張遼にはその術など無い筈である。

しかし、彼女が今見ているのは―――張遼に圧倒されている夏候惇の姿だった。

 

 張遼の飛竜偃月刀が不可視とも言える程の速度で夏候惇の七星餓狼を弾き、夏候惇を得物ごと吹き飛ばす。

今までの張遼には足りなかった筈の重さが、今目の前で夏候惇を圧倒している。

単純な力においては曹操配下最強の夏候惇が、純粋な力であの張遼に押し負けているのだ。

このような光景を見ても、それが現実などと信じられる筈が無い。

 

 

「霞が、春蘭を圧倒するなんて……あり得ないわ。万全でも不可能なのに、手負いの状態でどうやって!?」

 

「私もそう思っていましたが、どうやら霞は手負いではないようです。傷口も完全に治癒していたと言っていました」

 

「まだあれから一週間よ? 完治するのに二ヶ月以上かかると言われたのに……」

 

「兵の報告では北郷一刀に何かをされた、とありましたが……それが原因でしょうか?」

 

「……そうかもしれないわね。あの人外に触れたことで、何かが変わってしまったのかもしれないわ」

 

 息一つ乱さずに夏候惇の攻撃をいなし、それ以上の重さで反撃をする張遼は異常だ。

夏候惇は既に息も絶え絶えで、受けるのも攻めるのも必死だというのに、張遼は明らかに余裕を残している。

以前の彼女ならばこうなる筈もなく、立場は逆であったに違いない。

張遼は常に二番手であって、一番にはなれなかった筈だ。

 

 それがどうだ?……蓋を開けてみれば、夏候惇を圧倒している。

曹操には想像もできなかったこの光景は異様で、そこに北郷一刀の影がちらつく。

人外である彼が影に居るのは間違いない……妖の類と言われても信じられてしまう程の異形ならば、可能だ。

あの真紅の瞳を見れば、彼が普通でないのはすぐに分かる。

 

 だから、張遼が夏候惇の得物を弾き飛ばした瞬間、曹操は動いた。

 

 

「そこまでよ!」

 

「か、華琳様!?」

 

「! 華琳やないか。どないしたん?」

 

「霞、暫くの間は安静にしていろと言ったわよね? 何故こんなことを?」

 

「聞いても信じてくれへんやろうけど、もう完治したんよ」

 

 曹操の登場に驚く夏候惇とは対照的に、張遼はやけに冷静だった。

重傷を負った人間にしては、不気味な程に血色の良い顔で、彼女は傷が完治したとのたまったのだ。

曹操はそんな彼女を見て、思わず溜息をつきたくなった。

あれ程の傷がたった一週間で完治するなどあり得ないし、もしもそうだとしたら、張遼は既に人間の範疇を超えている。

 

 

「ばかなことを言わないで。たった一週間で完治なんて不可能よ。二ヶ月で完治すれば良い方だったのだから」

 

「こんだけ動いても傷口が開かん時点で気付いて欲しいんやけどな。春蘭も、うちが手負いだとは感じんかったやろ?」

 

「ん? ああ、確かにそうだな。華琳様、霞は手負い処かいつもの万全以上に強かったです。結果も――見ての通りでしたし」

 

「春蘭、結果的には傷口も開いていないから良かったけれど、何故一騎打ちを受けたの? 霞が重体だったことは貴方も分かっていたでしょう?」

 

「うっ……申し訳ありません。これはただの言い訳ですが、霞は本当に傷口が完全に塞がっているのです。完治どころか、以前よりも元気になっていましたし」

 

 張遼はともかく、夏候惇までもが張遼が完治していたと言えば、それは偽りではない。

夏候惇は曹操に嘘はつかないし、こういった大事に際しては曹操の為にも無茶はしないものだ。

張遼が危険な状態であったのに決闘をすることそのものが、張遼が既に復活した証であろう。

それが頭で分かっても、曹操は不気味さを感じずには居られない。

 

 北郷一刀と呂布が人外であるのは、もはや周知の事実とも言える。

彼らは単騎で数万を蹂躙し、殺戮することが可能なだけの力があり、それを既に実証した。

その人外の領域に張遼までもが半歩踏み込んだ……そう考えても差し支えない程の状況だ。

一週間という時間は、胸に空いた握り拳大の穴を塞ぐには短過ぎる。

本当にそれが可能であったのならば、もはや彼女は人間ではない。

 

 

「霞……貴方、いったい北郷に何をされたの?」

 

「華琳も知っての通り、ここにどでかいのを一発貰ったんよ。でも、全然痛くなかった上に、大切なものを思い出せたから、実を言うと感謝しとるんや」

 

「大切なもの?……何か掴めたの?」

 

「そう。うちが一番大切にしていた筈なのに、忘れてしまっていたこと……思い出させてくれたんよ、一刀が」

 

「……そう」

 

 嬉しそうに語る張遼の姿に、声音に、曹操は今までの彼女とは大きく異なる点を感じた。

まず敵である北郷一刀を名で呼んだことが気になるが、真名でもない名ならばこれは不自然ではない。

しかし、彼女が今まで彼をそう呼んだことは一度も無かった。

そして、最も曹操にとって衝撃的であったのは、彼のことを話す際の彼女が女の顔をしていたことだ。

 

 張遼と北郷一刀が裏で繋がっていたという情報はどの細作からも入って来ていない。

更に言えば、今回張遼が豫洲を横切った劉備達を追撃した際も、彼女が北郷と繋がる機会は無かったと報告を受けている。

その報告が虚実であったという報告も、部隊の中に潜んでいた者達からは無かった。

買収された可能性もあるにはあるが、そう簡単に買収されるような者ではそもそも潜ませられない。

 

 ならば可能性は一つしかない……張遼の片想い、という奴だ。

曹操はそういうものを否定するつもりは無いが、敵側に居る人外にそのような想いを抱くことそのものが間違っている。

仲間に引き込めればそれで良いが、それが叶わないのならば殺すしかない。

殺しても死んでくれるかも分からない未知の存在に恐怖こそすれ、想いを抱くなど断じてあってはならない。

 

 

「いや〜、でも胸のど真ん中に傷をつけられたのは責任取って貰わんとあかんな〜」

 

「責任って……貴方ねぇ……」

 

「絶対にとっ捕まえて頷かせたる……そのままウェディング一直線や」

 

「うぇでぃ?……なんですって?」

 

「にひひ、こっちの話や」

 

 にやにやと笑いながら聞き慣れない言葉を紡ぐ張遼に少しばかり引きながらも、曹操は溜息をついた。

幾分か雰囲気が変わってしまったような錯覚を抱くが、どうやら張遼は曹操の良く知る彼女のままのようだ。

その眼はいつも見ている眼とは違う形をしているようにも見えるが、恐らく勘違いだろう。

 

 北郷一刀が張遼に何をしたのかは、曹操には分からない。

この異常な回復力に彼が関わっていることは確かなのだろうが、今は喜ぶことしかできない。

どのような副作用があるのかを考えるだけで曹操は頭が重くなるのを感じるが、今は張遼の復活を喜ぶべきだ。

あの北郷一刀と戦った張遼が生き延びたことで、少なくとも軍全体に恐怖が伝搬するのは防げたのだから。

 

 一騎当千の武将は確かに居るだけで味方を鼓舞し、敵を恐怖に陥れる。

しかし、もしもその武将が敗れたのならば、味方は恐怖に押し潰され、敵は逆に勢いづく。

今回張遼が北郷一刀に圧倒されて深手を負って戻ってきたのは正にこれに当て嵌まり、あのまま死んでいれば軍の士気は下落していただろう。

夏候惇に次ぐ強者であった張遼が手も足も出なければ、兵達は夏候惇の武に縋るしかない。

そして、夏候惇が敗れた瞬間、軍は形を成さずに崩壊することとなるのだ。

 

 そうなることを防げたという点では、この張遼の復帰は非常に有難いものに違いない。

 

 

「はぁ……何はともあれ、無事で良かったわ。すぐにでも調練に戻れるかしら?」

 

「問題ないで。寧ろ体を動かしたくてウズウズしとるくらいや」

 

「そう。なら、張遼隊の調練を急いで頂戴。北伐を行う為にも、貴方の部隊の力が必要なのよ」

 

「北伐と言うと……烏丸かいな。ええけど、北伐にはどれくらい人員を割くん?」

 

「精々一万、といった処ね。殆どは張遼隊で構成されることになるわ」

 

 烏丸は匈奴とのゴタゴタなどもあり、張遼隊の機動力、攻撃力ならば一万も戦力があれば一ヶ月間で従えることが可能だろう。

烏丸の騎馬の技術は、今後待ち構えている対戦の際に必ず必要になるものだ。

騎馬の技術を向上させれば、機動力、攻撃力だけでなく生存力も飛躍的に高まる。

今後強敵と戦う際にこの生存力がものを言うのは間違いない。

 

 機動力は攻めだけでなく守りにも使えるものだというのを曹操は熟知している。

機動力が高ければ高い程、奇襲や撤退はより円滑に進み、結果的に被害も疲労も最小限で済む。

増してや、この先に控えている相手は大陸二強の北郷一刀と呂布の二人が居る劉備・孫策軍だ。

生存力が低ければ、そのままあの嵐に飲み込まれて死ぬだけで、何も掴めない。

 

 

「一万か……良いで。一週間で全部終わらせて来たるわ」

 

「一週間で? それはいくらなんでも無理だと思うわよ?」

 

「ふふ……まぁ見といてや。すぐに終わらせて帰ってくるで」

 

「あの……霞? 何も今から行けとは言っていないわよ?」

 

「分かっとるよ。一週間で準備して、一週間で終わらせてくるから、見とき」

 

 屈託の無い笑顔で恐ろしいことをのたまう張遼に、曹操は混乱せざるを得ない。

烏丸をたった一週間で降すことなどできる筈が無いし、それができてしまうのならば曹操は張遼の待遇を改めなければならないだろう。

曹魏最強である夏候惇ですらも一ヶ月はかかる筈の北伐を一週間で終えるのならば、今の待遇では足りないのだ。

それこそ、大将軍に抜擢するくらいの功績ではなかろうか?

 

 

「……稟、貴方の意見を聞かせて頂戴」

 

「どの程度の力なのかは未知数ですが、春蘭様を降せる武と今までの霞の機動力を考慮すれば、恐らく三週間もあれば」

 

「三週間、ね。では、三週間丁度の兵糧を用意させるわ」

 

「あ〜……うちは一週「三週間分持って行きなさい」……やから「三週間分」……了解や」

 

「霞、早速北伐について話し合いませんか? 場合によっては更なる短縮も可能かもしれませんし」

 

「おっ、流石は稟やな! ええで!」

 

 確かに短く済むのならばそれに越したことは無い……故に、曹操は溜息と共に二人を咎めるのを諦めた。

ぽかんとした表情で二人を見ている夏候惇に思わず苦笑すると、曹操はそのまま二人が去っていくのを見送る。

今はまだ外のことで急がずとも良い……ただひたすらに内部を纏めることに集中するのが最優先だ。

 

 北伐は郭嘉・張遼に任せて、内政と西涼、荊州での離間の計は程cと荀ケに任せれば良い。

曹操がすべきことは、内部を纏める上で揺るがないことである。

彼女が揺らげば、その動揺は下へも伝わり、最終的に末端の者達にまで不安が広がってしまう。

今はただ切磋琢磨して待つしかない。

 

 

「春蘭、何を呆けているの? すぐに調練を再開しなさい。私達の主力は貴方の軍よ」

 

「っ! 申し訳ありません、華琳様! すぐに再開します!!」

 

「そう……分かれば良いのよ。頼むわよ、春蘭、秋蘭」

 

「「御意」」

 

「絶対に勝つわよ」

 

 軍の強化は夏候惇、夏侯淵が担い、それに楽進達が続く形が望ましいだろう。

既にいくつもの戦場を経験した楽進、李典、于禁ではあるが、その実力はまだまだ一騎当千には程遠い。

彼女達の力を底上げしなければ、次の戦は非常に苦しいものとなる。

力のある夏候惇、夏侯淵にばかり負担が行ってしまうのは良くないことだ。

 

 次の戦で全てが決するのは明らかであり、曹操もここまで早期に雌雄を決する時が来るとは思っていなかった。

彼女の予想では、五年あれば何とか大陸の半分を治めることができるかもしれない、程度だったのだ。

それが、気付けば黄巾の乱から一年もしない内に大陸北部の殆どを手中に収めることになり、後半年もすれば大陸の覇権が決する。

 

 これは異常だ……余りにも不合理過ぎる。

ゆっくりと風が吹いて時代は流れていく筈なのに、誰かがそれを嵐のような激しい流れに変えているのだ。

元来ならば十年以上の年月が必要なことを、たったの一年で終わらせようとしている流れは強大だ。

きっとその流れは、ずっと前から裏でこの大陸の時代の流れを加速させていたに違いない。

 

 

「劉備にも、孫策にも―――北郷一刀にも」

 

 歴史とは、回り続ける風車のようなもので、それを回す風はまさしく時間である。

この風は不定期に加速し、時に停滞し、様々なものを運んでは、時代の流れを制御している。

激動の時代はこの風が大量のものを一度に運んでくる時代であり、その一部のものだけが風車の一部となれるのだ。

 

 そう……多くのものはそうやって風車にこびりついていき、歴史の一部となる。

それが普通で、皆そうやって生きて、生を全うしていくものだ。

しかし、中には風車になろうとする者が居て、風車になりつつある者が居て、風車を支える土台になろうとする者が居る。

それこそが俗に言う英雄であり、偉人であり、歴史を変えた者達だ。

 

 そして今、風は嵐へと変わり、既に崩れ去った風車を破壊し、新たな風車を回し始めている。

その余りにも速過ぎ、強過ぎる風が吹き続ける中でも力強く回り続ける風車を求めている。

劉備玄徳、曹操孟徳、孫策伯符の三人の内の誰がその風車となれるかはまだ誰にも分からない。

しかし、これだけは分かる―――次の戦でそれは決まり、残った風車だけが風を受けることを許されるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 劉備達が劉表の下に身を寄せて既に二週間が経過した。

 

涼州を除く北方全てを手中に収めた曹操と最も近い南陽郡に属する新野県に配置された一刀達は、曹操がどう動くかを注視しながらも先の為に様々なことを決めている。

滞在している魯粛とも話し合いながら、雌雄を決する戦場たる赤壁までどうやって後退していくかを決定していくのは、中々に難しいものだ。

 

荊州を捨てることになれば、それはそのまま劉表に恩を返せないことになってしまう。

勿論、史実通りに劉表が病死し、子の劉jが後を継いで曹操に降服すれば、劉備は何の迷いも無く荊州を捨てられる。

問題は史実通りに事が進まない場合の時であり、そのことを一刀達は再三話し合った。

しかし、この杞憂は史実通りに劉表が病死する可能性が高いことから、あまり考えなくて良い。

 

 一刀は一度だけ劉表と会見したが、劉表には既に病の前兆が現れていたのだ。

勿論まだ自覚症状は出ておらず、暫くの間は政務などにも支障を来たさない程度のものだが、後一月もすれば一変するだろう。

気付いた時に言及するような親切なことを彼はするつもりはないし、彼は劉備の為ならば悪者になっても構わない。

彼女が王になるまでは、彼が導くと約束したのだ。

 

 

「僕達にいったい何の用? 下らない用だったら帰るわよ?」

 

「へぅ……詠ちゃん、そういう言い方は良くないよ」

 

「北郷、月様に詠まで呼んでいったい何の話をするのだ?」

 

「まぁ、慌てるな。今から話す」

 

 現在一刀は一室に賈?、董卓、華雄の三名を集めていた。

先の反董卓連合の裏で秘密裏に賈?と董卓を確保していた甲斐あって、彼女達はこれから手札として扱える。

彼は、彼女達が裏切れば容赦なく切り捨てるつもりでいるが、少なくとも華雄と董卓に関してはそれはない。

あるとすれば、董卓に天下を取らせようとしていた賈?のみだが……裏切るようならばその程度のことだ。

 

 

「董仲穎、賈文和、華雄。お前達にはこれから劉備の配下として働いて貰う」

 

「……僕達は一応お尋ね者の筈なんだけど?」

 

「劉協陛下はお前達に罪は無いと公言されている。今更気に病むな。それに――気に病む権利はお前達には無いだろう」

 

「貴方ねぇ……それが人にものを頼む言い方?」

 

「信頼だの友情だのを信じないお前の為にこうしているだけだ。賈文和」

 

 一刀は董卓、華雄に対してのみならばもっと砕けた言い方をするし、そこまで攻撃的なことを言うつもりは無い。

賈?に対してここまで鋭い言い方をするのは、単純に彼女を気楽に動かせる為だ。

彼女は袁紹からの使者を悉く狩り続けたという前例があり、信頼だの友情だのではなく、純粋に損得で動かした方が良い。

そういったものを身内のものしか信じない賈?にはちょうど良いだろう。

 

 不信感の強い彼女を上手く御するのは中々に面倒と思われがちだが、彼女のようなタイプの方が案外動かしやすいものだ。

孫策や孫堅のように身内以外には厳しく、敵との戦いの中で情に流されて見逃すことはまず無い。

信頼できずとも、信用できれば彼女は動くし、その程度の関係に留まった方が楽なのだ。

家族のように接してやるつもりは一刀には毛頭ない。

 

 

「っ……それは僕への当て付けなの?」

 

「違う。ただお前はこの方がやり易いと思っただけだ」

 

「裏切るかもしれないわよ? 反董卓連合の件で劉備を暗殺しちゃうかも」

 

「もしもそうするつもりならば、俺はお前の人格を破壊して使うだけだ。俺が欲しいのはお前の能力であって、お前の人格は有っても無くても変わらん」

 

「人格を破壊?……そんなことができる筈――っ!?」

 

「お望みならば、今ここでそうしても良い。あっという間にお前の中身を書き換えてやろう」

 

 賈?は一刀の真紅の瞳の中に何か恐ろしいものを見て、慌てて目を逸らした。

その判断が正しかったことを遠回しに告げながらも、彼は自嘲するように笑う。

竜は人間を狂わせるのが得意だ……その恐ろしい程に密度の濃い氣に中てられた人間は容易く発狂するくらいに。

人が人の形を保てなくなる程にその氣は強大で、純粋なのだ。

 

 人間はその氣に中てられるだけで、心を洗い流されてしまう。

心の汚れを洗い流すのではなく、心そのものを洗い“流す”という所業は、まさしく悪行だ。

精神を崩壊させるのではなく、完全に真っ白にし、そこに新たなものを埋め込めば、それはもはや人形と同じである。

それを竜はできてしまうし、一刀は場合によってはそれを躊躇なく行う。

 

 これはまさしく悪鬼の如き所業であり、死後は未来永劫地獄で苦しむと言われても仕方ない。

それ程に残酷で、命を、心を弄ぶ行為なのだと知っていても、一刀は躊躇わない。

彼は人間ではなく竜だ……人間にはできない覚悟も、彼にはできる。

死後どんなに罵られても、何千何万の謗りを受けても、彼は劉備を王とし、この大陸に百年の安寧を齎せればそれで良い。

 

 

「北郷、詠をからかうのはそこまでにしてくれないか? それよりも、私達の所属がどうなるのか詳細を知りたい」

 

「確かに華雄の言う通り、このままでは話が進まないか。華雄には関羽、張飛と同じように将に、董卓と賈?には劉備の補佐について貰うつもりだ」

 

「……いや、待て待て。月様は妥当かもしれんが、私にいきなり一軍を任せても良いのか? それに、詠は今劉備暗殺を仄めかしただろう?」

 

「華雄は武も将としての統率力も問題ない上に、恩がある俺を裏切ることはない。その点では問題ないだろう。賈文和に関しては……すぐに分かる」

 

「そ、そうか……そこまで言われると気恥ずかしいな」

 

 実際華雄という将は頭に血が上らなければ聡明で、様々な状況に対応が可能だ。

太史慈――知華の報告では、恐らくは関羽、張飛と同等の武を持つであろう孫文台相手に彼女の介入無しならば勝っていたのだから、その力は折り紙つきであろう。

単純な力のみでなく技も併せ持ち、統率力も高いのならば、将としては申し分ない。

我を忘れない限りは実に物分りが良いのも一刀には有難い。

 

 賈?に関しては、劉備暗殺を仄めかしていたが、それは無理だ。

彼女の傍には常に誰か一人将を配置しているし、大部分の時間は愛紗が居る。

竜である愛紗は一刀と同じく氣で以て全てを察知し、まさしく絶対防御を敷くことが可能だ。

更に言えば、劉備は一対一の状況ならばまず殺されない。

それをその身で実感すれば、賈?も諦めるだろう。

 

 

「華雄、董仲穎、賈文和、異存は無いか?」

 

「私はありません……元より貴方に助けられた命です。貴方のお好きに使ってください」

 

「私も無い。月様達への風当たりも悪く無さそうだしな」

 

「……二人がそう言うのなら、僕も構わないわ」

 

「そうか。では明日軽く打ち合わせをして貰おう。朝に使いをやる」

 

 賈?は渋々といった様子ではあるが、同意した。

この同意の裏に何があるのかを一刀は良く知っているし、その程度飲み込む度量はある。

彼女が何を考えているかは手に取るように分かるが、それはとても愚かなことだ。

彼の予想では、それを達成した瞬間に彼女の居場所は大陸からなくなる。

人材に執心している曹操ですらも手元には置きたくなくなるのは容易に想像できてしまうのだ。

 

 しかし、一刀はそれを賈?に教えてやりはしない。

まず成功しないことは分かり切っているし、成功してしまえば彼女は終わりだ。

その事実を突き付けるのは彼の役目ではない……故に、彼はここではそれについて言及しない。

劉備が”何”なのかを知ってしまえば、彼女は打ちのめされることになるだろう。

その時そのまま潰れるか、そこから何かを見出せるかは分からないが、後者であることを彼は願っている。

 

 

「今日はこれで解散だ。後は自由にしてくれ」

 

「分かった。さぁ、月様、詠先に外に。私は北郷と話したいことがありますので」

 

「分かりました。また後で」

 

「また後でね」

 

 真紅の眼を細めながら、一刀は三人に軽く出口を示した。

彼の行動に苦笑しながらも、すぐさま華雄が董卓と賈?に先に外に出るように勧め、そのまま彼を見遣る。

その少しばかりの非難と申し訳なさを多大に含んだ目は、とても澄んでいる。

武将には酷くくすんだ眼をしている者と、澄んだ目をしている二通りの人間が居るが、彼女は後者のようだ。

 

 

「北郷、詠のことを気にしてくれているのは分かるが、何故直接言ってやらない?」

 

「直接言えば確かに彼女はそれを頭で理解するだろう。しかし、それでは心には響かないものだ。だから、心に直接響かせてくれる者に任せることにした」

 

「……お前以上に人の心を理解している者など居るのか? 私にはそうは思えん。お前は態と指摘しなかった――そうだろう?」

 

「……さてな。俺には何のことか分からん」

 

「お前という奴は……そうやって閉じこもっていては多くの者に誤解されるだけだぞ」

 

「構わないさ……否、そうでなくては困る」

 

 北郷一刀はいずれ劉備達の下から去ることを決めた竜だ。

彼は既に十二分に風車を回したし、今の風車ならば嵐で無理やり回し続ける必要は無い。

後はその風車を蝕もうとするものや、破壊しようとするものを歴史の裏で狩り続ければ良いだけで、彼の表での役割は終わりつつある。

次の大戦である赤壁の戦いが、彼が劉備玄徳配下の北郷一刀として戦う最後の戦となるだろう。

 

 少しずつ彼は存在感を薄めて、多くの役職から手を引きながら、静かに舞台裏へと向かっている。

軍師としての役割は孔明が、武人としての役割は関羽がそのまま彼の後釜として台頭しつつあり、後半年で彼はフェードアウトするのだ。

半年もすれば彼は竜としても死を迎えるだろうし、裏側で平和の為に暴風であり続けることも叶わない。

しかし、その為に思春を捨てて劉備を逆鱗とすることなど、彼にはできなかった。

 

 だから、北郷一刀は半年後に死に、彼の意思を継いだ愛紗と恋が代わりに暴風となるのだ。

彼程鋭くは無いが、平和を不用意に乱して富を築こうとする悪意を根こそぎ洗い流す洪水は確かに生まれる。

彼自身がなるのと比べれば幾分か見劣りはするものの、その威力は絶大的だ。

彼が死んでも、彼の意思は死なない。

 

 彼の意思は、既に愛紗達に受け継がれているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 劉備玄徳はその不思議な魅力以外の点では凡人であると思われがちだが、それは違う。

いつも皆が見ている彼女はただの夢見がちな者かもしれないが、その実誰よりも彼女は現実的だ。

政務をする彼女の姿を見ればすぐに分かる……あの天然そうな表情のままで、彼女は無駄な仕事を捨てる。

ただの悪戯で送られてくるものや、他国の細作が放った偽の情報を彼女はすぐさま見分けて、彼女を本当に必要としている仕事以外は捨ててしまう。

 

 正確には捨てるのではなく、分類というのが正しいかもしれない。

実は、彼女の御眼鏡に叶わなかったものはすぐさま孔明達が解析し、細作を送り込む指針にされているのだ。

劉備というフィルターにかけられて引っかからなかったものは、すぐさま下流で孔明達に解析され、あっという間に追跡が始まる。

この追跡が成功し、黒であった場合は晴れて地獄からやってきた黒馬に乗った化け物に襲われ、消えていく。

 

 それらを全て知った上で、劉備はその感性のままに取捨選択していく。

少しの恐怖も、迷いも、痛みも、涙も見せずに悪意を持つ者を間接的に死に追い込んでいく。

どれ程悪意に満ちた人間でも、話し合いでどうにかなるのならば彼女はそうしたいだろう。

しかし、運命の皮肉か、彼女の余りにも優秀過ぎる篩い分けから零れ落ちた者達は、話が通じない者ばかりだ。

 

 

「ふぅ……これで終わり、と」

 

「お疲れ様です、劉備様」

 

「司馬懿さんも、手伝ってくれてありがとう。私も司馬懿さんみたいに仕事が早いと良いんだけど、そうもいかないみたい」

 

「劉備様、心配せずとも貴方は既に一国の主に相応しい力量をお持ちです。ご安心ください。一刀様も、随分とお褒めになられていましたよ?」

 

「ふふ、そうなの。一刀さんも、時々だけど褒めてくれてね……それがとても嬉しいの」

 

 今日もまた、大量に送られてきた仕事の中から腐敗をフィルターにかけ、排除する作業を劉備は終えた。

常人ならば発狂してしまうかもしれないこの作業を、しかし彼女は弱音一つ上げずにこなす。

麻痺している訳ではない。苦しくない訳ではない。悲しくない訳ではない。感情を放棄している訳でも無い。

それでも彼女は選ぶ……この強さこそが竜に守られる逆鱗たるに相応しい力強さだ。

 

 感情を殺さずして、麻痺せずして、残酷な決断を彼女は下せる。

痛みも謗りも罵倒も、全てを受け入れて、それでも止まらない風車に彼女はなった。

既に人間の領域を半分脱している彼女は、王としては誰よりも相応しい存在であり、しかし人間性を失っていない。

己を殺さずして律し、鼓舞し、慈しむことが可能な王へと彼女は遷移しているのだ。

 

 

「一刀様はそういったことには昔から敏感でした。しっかりと褒め、叱り、礼を言うのです」

 

「その一刀さんが賈?さんを私に任せたのは、そういうことなのかな?」

 

「はい、そういうことなのだと思います。劉備様に残された数少ない試練の一つでしょう」

 

「私自身の力だけで賈?さんを納得させなきゃいけないんだね……うん、分かった。今から賈?さんを呼んできて貰っても良いかな?」

 

「実は先程呼んでおきました。私はこれで失礼しますので、一対一で存分に話し合ってください」

 

 一刀が望んだ王の姿に劉備は着実に近づいている。

彼女は人間性を失わないままに王に必要な光を備え、まさしく人間にとっての理想の一つに限りなく近い存在だ。

曹操や孫策とは違い、人間性の方面において完璧に近い存在に彼女はなっている。

彼女が覚醒すればする程に、一刀の存在意義は薄れていき、表舞台から去る準備が進んでいく。

 

 まるで物語の中の王のようではあるが、彼女は間違いなく人間の領域を半歩超えている。

劉備玄徳という一人の人間は、竜に選ばれた真の逆鱗であり、人間の頂点に立つことを許された数少ない人間の一人だ。

かつて漢を建国した劉邦のように、竜の逆鱗は新たな王として歴史を変える。

嵐の中でも壊されずに回り続けた風車は、新たな歴史を担っていくのだ。

 

 

「失礼するわ」

 

「どうぞ。久しぶりだね、賈?さん」

 

「劉備……分かっているとは思うけれど、僕達を下の置くことの危険性は理解しているわよね?」

 

「董卓さん達の悪評はもう払拭されているから大丈夫だよ。それに、私達が拒否したら董卓さん達には行く宛が無いでしょう?」

 

「うっ……その通りよ。何処に行っても僕達は腫物扱いされるだろうし、はっきり言って八方塞がり」

 

 賈?はその眼を細めながらも、劉備が思いの外鋭いことを言っていることを奇妙に思う。

彼女が知っている劉備玄徳は、甘い理想を抱いている甘ちゃんといった伝聞のものでしかなく、ここまでしっかりとした者だとは露程も思っていなかったのだ。

それが実際に相対してみると分かってしまう……劉備は彼女とはまるで違う領域に君臨している存在なのだと。

 

 賈?は董卓を王にしたいと願っていたし、董卓の王としての器を考慮すれば不可能ではないと確信していた。

しかし、今目の前に居る劉備を前にしてはその確信は脆く崩れ去ってしまう。

浅葱色の瞳の奥に見えるのは、一人の人間には到底背負いきれない何かであり、それを劉備は苦にもしていないのだ。

優しさだけではなく、力も、決意も、劉備の前では比べることは叶わない。

 

 

「だから、本当なら董卓さん達には選択肢は無いに等しいの。けど、それでも選ばなくちゃ。自分で選ばないと、言い訳しちゃうから」

 

「……ここで良いように使われるか、他の諸侯の刺客に怯えながら細々と生きるかを自分で選べ、と?」

 

「良いように使われる……そう思うのなら、きっと賈?さんは今までそうやってきたんだろうね。でも、違うよ。私達は、皆が皆意見をぶつけ合って前に進んでいくから」

 

「っ……そうよ。僕は今までそうやって月を守ってきた。でも、それの何が悪いの?」

 

「悪くなんかないよ。力があれば、心が分かるのなら、それでも生き残れるから。でも、賈?さんにはそんな力も無かったし、心も分からなかった。賈?さん達が今ここに居るのは一刀さんが助けてくれたからであって、賈?さん達の力じゃない。その事実からは、逃げられないよ」

 

 劉備の浅葱色の瞳には少しの同情も、非難も無い。

ただ、目の前に居る賈?のみをそこに映して、穏やかな笑みを浮かべているのだ。

賈?には、それが余りにも薄気味悪く見え、同時に恐怖を抱いてしまう。

その感覚が何処か北郷一刀の圧倒的存在感に似ていて、彼女は怖かった。

まるで眼の前に居る劉備は人の形をした人ではない何かのようで、恐ろしかったのだ。

 

 

「なら、あの北郷に媚びろとでも言うの? 身も心も捧げろとでも?」

 

「一刀さんはそんなもの望まないよ。そんな代替の効く存在なんて、あの人にとっては塵芥のようなものだから」

 

「なら、どうすれば良いの!? 僕達からこれ以上何を奪うつもりなのか教えてよ!?」

 

「賈?さん。私達が欲しいのは、その頭脳と、それを扱う心なの。賈?さんが嫌なら、無理強いはしないから」

 

「嘘だ!! そうやってお前達は僕達を弄んでいるだけでしょう!!」

 

 賈?は疑い深く、信じることのリスクを誰よりも知っているが故に恐れる。

彼女達に政治的な利用価値など無いことは、彼女自身が最も良く分かっているのだ。

だから、彼女は北郷一刀の手の者に助けられた際、そのまま手籠めにされるのかと思っていた。

疲れ切っていた彼女には、その未来しか見えていなかったのだ。

 

 しかし、現実はまるで異なり、この陣営の者達は皆彼女達に良くしてくれている。

それは、今までずっと他者を疑い続けながら生きてきた賈?にとって、救いにも似たものだった。

彼らを信じられたらどんなに良かっただろう?助けてくれた異形に礼を言えたならば、どんなに楽だっただろう?

だが、彼女には―――それができなかった。

 

 だから、賈?は苦しみ続けなければならない。

信じて裏切られるのが怖いから、裏切られる前に裏切ることでその心を保とうとしてしまう。

そんな自分が嫌だから、彼女は心を閉ざしてしまうしかなかった。

時代の流れに翻弄される己の無力さを悔やみ、弄ぶ者達を憎み、救ってくれる者までも彼女は憎んだ。

だから、あの戦が始まった。

 

 だから、彼女の苦しみは絶えない。

 

 

「賈?さん……その痛みが分かるなんて軽々しく言うつもりは無いけれど、これだけは言わせて。貴方は―――信じたくはないの?」

 

「――――信じたくない訳が無いじゃない!! 僕だって信じたい!! 疑わなくて良いようになりたい!! でも……でも、どうすれば良いのか分からないのよ!!」

 

「なら、信じれば良いと思うよ。信じれば相手も信じてくれる。人は鏡だから―――疑えば疑われる。でも、ここの皆は疑われても信じることができるから」

 

「鏡……そう、か。結局同じ穴のムジナだったという訳ね。私が疑っていることを皆知っていたんだ……私が疑うから、皆離れていったんだ」

 

「賈?さん、分かってくれたみたいで何よ――」

 

 自嘲するように言葉を紡ぐ賈?に、劉備はほんの少しの安堵を抱きながらも、次の言葉を紡ごうとしたが、それは思わぬものに遮られた。

賈?が突然胸元から短剣を取り出して切りかかってきたのだ。

どう見ても武人の一閃には及ばぬ、余りにも未熟なその一撃は、劉備の眼にはスローモーションのように見える。

 

 恐怖と怒りと羨望と嫉妬が入り混じった目を見開いた賈?は、本当に必死だ。

いかに劉備が人間離れしているかを知ってしまったが故に、己を見失わない為に、凶行に走ったのだろう。

ほんの少ししか関係の無かった者に己の根底まで言い当てられて、畏れない者など居ない。

彼女の反応はある意味至極当然のことだ。

 

 

「―――ごめんなさい」

 

「――!? うっ!?」

 

 だから、劉備は笑顔のままで、襲われた者が至極当然にするように、反撃した。

彼女はすぐさま賈?の短剣を持つ腕の手首を掴んで、その体をそのまま勢いに任せて床に叩きつける。

その際に手の力が緩んだのを見逃さず、短剣を取り上げて部屋の隅に放り投げるのも忘れない。

背中を強打して荒い息をしながらもぽろぽろと涙を流し始めた賈?を見ながら、劉備は言葉を再び紡いだ。

 

 劉備には、賈?がこのような手段に出なければならなかった理由が分かる。

余りにも彼女が人間離れした一面を見せてしまった為に、滅ぼされることを直感したのだろう。

人間という種が滅ぼされる予感を感じたが故に、彼女は自己防衛の為に劉備に刃を向けたのだ。

その判断は間違ってはいないし、ある意味実に正しいとも言える。

 

 

劉備のような者が増えれば、その段階に踏み入ることのできない人間はひたすら劣等感を抱いて生きていくしかない。

人間よりもずっと強くて、現実的で、しかし幻想を大事にする者が居たら、人間はそれに従うことになる。

上位種とも言えるその存在は、いずれ人間を駆逐して新たな世界の支配者となるだろう。

劣っている者達は滅んでいく……それが世界の理というものだ。

 

 

「賈?さん、私のことは信じてくれなくても良いし、今のまま怖がってくれて構わないよ。でも、他の皆は私と違ってちゃんとした人間だから、怖がらないでいてあげて。お願い」

 

「どうして……ゲホッ……こんな時も他人の……心配をするのよ」

 

「私はそうやって自己満足する人間だから。どんなに偽善だと言われても、欺瞞だと言われても、これが私の持って生まれた性だから。誰でもない、私自身の為に私は皆のことを考えるの」

 

「……化け物……」

 

「化け物でも良いよ。私は皆が笑ってくれるのなら、喜んで化け物になれるから。最後に退治されることになったって、構わない」

 

 劉備のように真っ直ぐで、強い存在に皆は惹かれていく。

この乱世において王として最も相応しい存在だと感じた者達が、彼女を王にしようとするのは間違いない。

そして、そこから劉備玄徳を祖とするこの人外とも言える血が受け継がれてしまえば、いずれ人間は滅びる。

それも、彼らが人間を滅ぼすのではなく、人間が自滅していくのだ。

 

 美し過ぎるその存在達の為に、人間達は腐敗を消し去ろうとする。

今は北郷一刀がそれを調節しているが、彼が居なくなれば人間は歯止めが利かなくなり、己達すらも腐敗として消していくだろう。

そうやって、一部の狂信的な人間達が凶行に走る危うさがそこにはある。

劉備玄徳は理想に近付いた……否、近付き過ぎてしまった。

 

故に、彼女は皆の中で密かに神格化されていく。

彼女の為すこと全てが時代に合わないちぐはぐなものだというのに、彼女は皆に畏怖される。

時代錯誤も甚だしい、皆の笑顔のみを求め、野望を持たない彼女を、皆が敬い、畏れるのだ。

余りにも歪で、しかし美しい桃の花が、もうすぐ咲き誇る。

それが完全に開花した時、彼女はこの大陸の神々の末席にその名を連ねることとなるだろう。

 

 彼女こそが、北郷一刀が生み出してしまった最大の歪み―――彼の歪さの集大成なのだ。

 

 

「……なんで、そんなに強いのよ?」

 

「一刀さんが昔言ってくれたの。私は、あのひとみたいに強くなれる、って。そのお呪いがある限り、私は倒れない。倒れられないし、倒れたくない。結局は意地……なのかもね」

 

「意地、か……僕も……意地を押し通してみよう……かな」

 

「どんな意地を?」

 

「……ずっと怖かったけど、信じてみようかな、って……」

 

 溢れ出る涙を拭いもせずに、賈?は笑顔でそう言った。

彼女は漸く劉備の下にあれだけの強者達が集ったのかを理解することができた。

劉備の最大の魅力はその際限の無い器であり、強者達が密かに望んでいる居場所を彼女は与えてくれる。

散々己を化け物だと思い続けてきた者達が、自分の居場所を得られる……それが、劉備なのだ。

 

 異常なまでの包容力が齎すその安心感は、無差別に皆を包み込んでしまう。

それに安堵する者や憧れる者も居れば、異常さに恐怖して排除しようとする者も居るだろう。

劉備は己を排しようとする者にまでも優しく、甘く、歩み寄ろうとするに違いない。

だからこそ、分かり合う余地が無くなった瞬間に彼女の代わりに北郷一刀が現れる筈だ。

 

 否、そもそも彼が劉備を排除しようとする者達を放っておく筈が無い。

北郷一刀は誰よりも迅速に、確実に、この世界から腐敗を焼き尽くしていくだろう。

分かり合えないだけならば真正面からぶつかるが、腐っているのならば彼は容赦なく滅ぼす。

彼がそうすることで、劉備の敵はあっと言う間に消えて行ってしまった。

だからこそ、今彼女に対抗できるのは孫策、曹操の二人しか居ない。

 

 この強大な王の前では、賈?などまさしく道端の石ころ同然で、彼女の悩みなどちっぽけなものでしかなかった。

 

 

「それはとても良いことだと思うよ、賈?さん」

 

「詠……僕の真名は詠よ。あの人外の言う通り、劉元徳の配下になってやるわ。今度は――逃げない」

 

「ふふ……ありがとう。私の真名は桃香……これからよろしくね、詠さん」

 

「ええ、よろしく頼むわ……桃香」

 

 賈?は劉備と真名を交換することの意味を良く知っている。

彼女と真名を交換してしまえば、もう裏切ることは許されないし、裏切りの意思は無いと示すことになる。

もしも真名を交換しておきながらも私欲の為に裏切ることがあれば、真名を誰よりも重んじる白い暴風がその命を奪いに来るに違いない。

これは鎖だ……劉備玄徳と共に歩み続けることを強いる鎖なのだ。

 

 いかに他者によって違う道を進まなければならなくなっても、心は共にあることを示す絆に、この真名はなる。

その重みを理解せずして真名を交換した者は多いだろうし、これからも居るだろう。

危険なことではあるが、しかし後に彼女達は北郷一刀という人外によってその意味を悟らされる。

だからこそ、この陣営に居る者達は他の陣営に比べて真名が重い。

 

 この陣営では、真名を見知らぬ者に呼ばれたから切り殺す、ということはしない。

この陣営で最も重要なのは、北郷一刀の名を劉備と司馬懿以外が呼んではいけないことだ。

今はあの二人だけが彼の名を呼ぶことを許され、彼に真名を読んで貰える者も限られている。

北郷一刀を名で呼ぶことも、彼に真名で呼ばせることも、この陣営では非常に重い意味を持つ。

彼が未だに主である劉備を真名で呼ばないことが、その重さを物語っている。

 

 

「僕は諸葛亮達と違って甘くは無いから、手加減しないわよ。僕達が仕えるに相応しい王になりなさいよね!」

 

「うん、分かっているよ。それじゃあ、早速仕事を始めようか?」

 

「そうね。まずは月を呼んで来てからだけど」

 

「それじゃあ、私はここで待っているから董卓さんを連れてきてね」

 

 賈?はもう真名の真なる重さから逃がれることはできない。

北郷一刀の手の者に助けられた瞬間から、彼女はこうなることが決まっていたのかもしれない。

いつだって彼女は他者に翻弄され続けて、己の意思で世界を変えることなどできず、常に世界に弄ばれ続けていた。

今もそうなのかもしれない……だが、彼女はそれでも構わないと思える。

 

 今彼女が居るこの陣営ならば、彼女が欲しかった絆が得られるかもしれない。

彼女はもう今までのように董卓達との絆を失うことを恐れずに、思う存分その力を揮えるかもしれない。

その真名に込められた願いの通りに、喜びも悲しみも何もかも、その声に乗せて、その表情に浮かべて、その眼に映して、詠えるかもしれない。

 

 ここには彼女の、そして董卓の居場所があるかもしれない。

劉備玄徳の下ならば、北郷一刀という化け物に守られているこの陣営ならば、今まで必死に生き続けて見逃していた多くの物が見えてくるかもしれない。

誰かの為に在る……そんな細やかな自己実現をここでならば達成できるかもしれない。

ここならば、彼女はもう、他人を恐れずに済むかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 だから彼女はただ笑った―――あらゆる迷いを吹っ切って。

 

 

 

 

 

 

説明

この作品では一刀がチートなので、そういうのが許容できる方のみご覧ください。



久しぶりに更新。
色々と強引な展開になってるけど、これ書いたの何ヵ月前やねん……


「竜達の夢1」での説明に記述していた「途中で止まる可能性大です」という言葉が現実になりそうです。
できる限り書いてはみますが、モチベやリアルのことで難しいかもしれません。

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コメント
途中で終わっちゃうのはもったいないなぁ…(atlas039)
一刀という竜は助からないのでしょうか(アサシン)
桃香が際限なく強大なんですが・・・おい・・・おい・・・(M.N.F.)
霞も竜として覚醒しましたか。各国のパワーバランスがどう変わるのか、楽しみです。(アルヤ)
更新乙です、今更ですけど、この小説、真名の設定が重いッスね(頭翅(トーマ))
待ってました・・・それにしても、本当に桃香は恐ろしいほど聡明で強かになりましたね。(本郷 刃)
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