リビング・デッド
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 一様な凹凸が広がる壁紙。レースのカーテン。化粧板で組まれたテーブル。合成繊維

の絨毯。それらは全て白という色彩に属するもので、色でありながら居間の無機質さを

助長する。私はそれまで使っていたコンロの火を止めて今日のメインであるステーキを

皿に移し、それを持ってその部屋に足を踏み入れた。焼けた肉の立てる音が無音だった

空間を破壊し、新しい状態を構成していく。それが始まるとほぼ同時に部屋のオブジェ

と化していた無機物も目を覚まし、静かに声を上げた。

「ランチですか」

 そうよ、と私は頷いた。彼、そこにいる顔が箱型のロボットはそれを聞くと離散的な

微笑みを浮かべ、そうですか、とでも言うように私からフォーカスを逸らし、俯いてし

まう。だが私は彼のこの表情が気に入っている。何もかも悟っているような、哀憐にも

似たものを感じることのできる深みがある。私はいつでも変わらないその表情からニュ

アンスを無理やり読み取り、余計な思考が入らない内に微笑み返した。

「さあ、座って」

 彼はどうせ座る必要もないのだろうが、私はそれを促す。彼が人間と同様の食事が取

れなくとも、私と共にある以上は限りなく人間的に扱う、そう決めているのだ。白い食

卓セットに、同時に座る。私はなるべく音を立てないように、彼はカチャリと可愛い音

を立てながら、それをした。

 今日は特別メニューだ。いや、ステーキという料理が特別なものをはらんでいる訳で

はない。それがどのようなステーキであるのかが重要なのである。

「ねえ、わかるかしら」

 彼はギシギシと、私の機嫌を伺うようにしながらこちらを見た。モニターに写る表情

は動きはしないものの、電子的なものと割り切ってしまうには少々惜しく感じるほど人

間的な一瞬を捉えており、その表情が持つ悲哀を余すことなく私に伝えてくる。私はそ

の平面的な顔を、しばらく見つめた。

 今日のステーキはレアに仕上げてある。彼にはそこに気付いて欲しいのだ。切らなく

ても流れ出る肉汁。それとはまた違うワインの色彩も、白い皿を赤く飾るのに一役買っ

ていた。そんな一枚のステーキを私は彼に見せ付けている。我ながらよくこんなことが

できたものだと思う。彼のルーツを刺激する、血の赤、肉の赤。そういった歪みが皿を

伝わってこの部屋の無機質を破壊していく。この一皿はそれだけの意味をもつものなの

だ。

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「僕は、元殺人犯なんです」

 元、と言うには少し語弊があるように感じた。なぜなら彼は殺人の記憶を実際に持っ

ているからである。もう少し詳しく言えば、彼は人を殺し、その肉を食べた。だが、そ

の名残は微塵も残されていない。彼の体は人を殺してなどいないのだから。

 そう、彼は人間であった。そして今はロボットである。彼をそう変えたのは、彼が犯

した法の力であった。死刑を宣告された囚人は、準備が整い次第ロボットに意識を移さ

れ、釈放される。ある程度の監視は付くようだが、基本的には自由だ。だが、その自由

とはあくまでロボットの範疇でのみ許されるものである。アイザック・アシモフのロボ

ット三原則に基づき完全制御された機械式の体は、人に対して害をなすことを決して許

さない。また、メンテナンスされ続ける限り死ぬこともない。殺すこともできない、死

ぬこともできない、「死を奪う刑」なのだと、偉そうに反り返った法律学者は言ってい

た。

 彼が私のところへ送られてきたとき、私はそのリアルな表情に悪寒を覚えずにはいら

れなかった。まるで人が箱の中に入っているだけのようでありながら、そこからは何の

気配も感じられない。あるのは深い悲しみを溶かしたディスプレイと無機質なオートマ

トンだけで、その異常性がしばらく受け入れられなかったのだ。

「何も、しませんから」

 あなたが望むなら、と彼は言う。その通り、彼は何もしなかった。しかし、私の声が

跳ね返るだけの壁にはならずにいたかったようで、時には彼から声が飛び出し、逐一そ

れに驚きながらも、私は彼と会話した。その内に彼の生い立ちや顔以外の容姿、果ては

犯行に及んだ動機やその最中の感覚というようなことも彼は話した。私にとって犯行の

一部始終はあまり意味を成さない。彼がそれを話したがったこと、それを悲しんでいる

ことが、重要なのだ。そこが彼に対する好奇心の源である。人を殺して食べるという、

ある意味で人間の究極とも言える行為をしたのに、彼は微塵も崩れずに自身を省みてい

る。そこが彼の異常性であり、言うなれば長所であるのだと、私は思う。

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「僕のために、お肉を我慢して貰っていたのはわかるんです」

 でもあんまりじゃありませんか、とでも言いそうな、そんな声色が出ていたような気

がした。実際は合成音声なのだが。

 そうだ、これは裏切りなのだ。彼は、私を信じてここまでコミュニケーションを取っ

てきた。なのに、私はそれを裏切って、酷いことをしようとしている。いや、既にして

いるのだ。彼が肉に対して過敏になっているだなんて、正直思っていない。ただ私が成

り行きで肉を避けていたのが、いつの間にか彼に対して危害を加えることはないという

証に摩り替わっていただけである。そして私はそれを壊した。空間のひび割れからジュ

クジュクと誰のものでもない体液がにじみ、絨毯を悲しみで濡らしていく。その感触を、

私は確かに感じた。

「ねえ」

 私は呼びかける。無機質な表情の限界点が見たいのかもしれない。彼の視線の焦点を、

私から逸らさせたくないのかもしれない。とにかく、私は何かを求めた。

「このお肉、食べなくてもいいって思ってるわ」

 傷はしばらくふさがれないかもしれないという事。それを彼に伝える。彼は、首の角

度を変えることで拒絶の意思を示した。だが私はやめない。傷の中へと手を入れ、無機

質でない彼のそのままを感じたいと思う衝動は、既に私の理解の範疇を超えて肥大化し、

意識を押しつぶしていた。予想ができない。彼が私をどう思うかなど、想像できるはず

もない。できないから、私はそれを体験したがる。本能が、好奇心が、人間の原罪が、

私をその領域へと歩ませていくのだ。

 皿の肉は、人肌くらいの温度になっているはずだった。開いていた肉の繊維と繊維の

間、いわゆるサシの部分が熱収縮し、さっきより小さく感じる。肉の奥からにじみ出た

肉汁は、より暗い赤色に変化していた。私はフォークとナイフを取り、ゆっくりと押し

つぶすようにして一口大のピースを切り出した。肉汁が垂れている。一番脂身の多いと

ころから切り出したから、そのほとんどが白いものであった。

「いらない部分が、おいしいのよね」

 うっとりと、彼と肉を見つめながら言う。人間の精神で言えば、エゴのような部分が

これにあたるのであろうか。彼が全く反応しないのを確認してから、私はフォークを口

へ運んだ。ゆっくりと咀嚼していく。過剰な脂を、僅かな肉汁を、揉みだすようにしな

がら、それを味わっていく。と言ってもほとんど脂の風味で一杯なのだが、そこには確

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かに肉の味や、香り付けのワイン、スパイスなどの味が感じられた。かつて彼が食べた

人肉の味を想像する。それが半分だけわかったような気になり、私は身悶えた。

 彼は動かないが、私は食を進めていく。肉の塊を切り出し、口に運ぶ。時に大ぶりに

切ってかぶりついたり、小さく切り刻んで肉汁が出るのを眺めたりした。しかし食器以

外は極力汚さず、きれいに食べるように心がけた。そうしないと、自分の汚れそのもの

も食べることになりそうで少し怖かったからである。そうやってこの部屋から異質な肉

塊が消えてなくなるまで、たっぷり三十分はかかったと思う。

 

 皿を舐めようかと考えていると、不意に彼が口を開いた。

「ひとつだけ、僕からあなたに教えてあげましょう」

 彼のディスプレイには、悲観に加えて諦観が混ざったような、新しい顔が映し出され

ている。

「人間は、求めることをやめることで、美しくなるんです」

 平坦な声が、淡々と告げていく。

「でも求めなくなるなんて不可能なんですよね」

 鼻息がマイクにかかったようなノイズが聞こえた。画面が一瞬消えてから切り替わり、

そこには薄笑いを浮かべた冷たい表情が現れる。

「だから、人間だったころの記憶があるロボットは、精神的に究極だと思うんですよ」

 死なない。死ねない。だから、生きようとする必要もない。どこかへ向かおうとする

力が全て失われたとき、時間と言う概念は消え去り、原点だけが残るのだ。彼は既に、

人間の根源と言える領域にいるのかもしれない。座標で表される世界は、彼をどのよう

に評価するのだろうか。

 彼は自分の求める究極を見極め、それを実現し、二度と求めようとすることを許され

なくなった。「望む、求める」という人間の本質を奪われた彼は人間ではなく、また無

機質にもなりきれないのでロボットでもない。そのちょうど中間に立って、全てを見渡

しているのだった。

 そして彼は付け足すように、悲しそうに合成された声で、こう言った。

「もしあなたがここまで来たいのなら、僕はそれを止めないです」

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 彼は、何も喋らなくなった。無論、日常会話などは滞りなかったが、そこに彼の意思

は介在していないのが肌で感じられた。彼が充電スポットから離れて、元に戻るだけの

日々に、私は自らの内に虚無を溜め込まずにはいられなかった。

 私には、わからない。彼を物理的に壊せばいいのか、それとも私が死刑になるべきな

のか。いや、そもそも彼がそこにいる時点で、私は求めることをやめられないのである。

それから私がどれだけ溜息をついても、それをきっかけにして黒く塗りつぶされた平面

に光が宿ることは、二度となかった。

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