或るアウフ・ラウフの一日
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「――ッ! フェイの分からず屋っ!」

 ギルドホール全体に鳴り響く程にリルカのその叫び声は大きかった。

 だがそれを受けても――怒りに顔を紅潮させ肩を小さく震わせているリルカを前にしても、その執事であるフェイはいつもの冷静沈着さをまるで崩すことなく、わざとらしく大きく「やれやれ」とため息を吐くだけだった。

「分からず屋で結構です。そんな事より――」

「っ!」

 フェイが言葉を紡ぎ切るよりも早く、リルカは激しく詰め寄ってそのフェイの言葉を断ち切った。リルカの表情は歯を食いしばり、今にも先程と同じかそれ以上の叫びを吐きだしそうなものだった。

「っ、そんな事って! そんな事ってどういう事よ!」

「……埒が明きませんね」

 それでも、フェイは静かにそう言うと一歩後ろに下がりリルカとの距離を保つ。

「仕事の話は後に致しましょう。お嬢様、しばらく頭を冷やしてきてください」

 そしてそう続けると最後に溜息を零し、リルカに背を向ける。

 カツ、カツと小気味いいほどの足音を残し去っていくフェイを、リルカは唇を噛み締めて見送るしかできなかった。

「……フェイの、分からず屋…………ばか」

 リルカは口の中で、小さくひとりごちる。

 いつも零している言葉。本人に対してもストレートに言う事さえある言葉。

 それでも、今日はその言葉がどこか心に痛かった。

 まるで、そう吐き出しでもしなければ、泣いてしまいそうにもなっていたから。

「リルカさん……」

 そんなリルカに、落ち着いた声がかかった。聞き慣れた声。でも、その色にはいつもとは違う、自分を心配するものが含まれているとリルカは感じ取れた。

「アルタさん……だいじょぶ。フェイとの喧嘩なんて、いつものことだし」

 相手――アルタへと向き直り、何でもないように言う。でもそれが強がりだと、リルカ自身分かっていた。それがアルタにも伝わったのか、

「今日のフェイさんは、ちょっと女の子の気持ちが分からなさすぎですね〜。本当に、分からず屋さんです」

 そんな風に、優しい言葉をリルカへとかける。

「本当。流石のフェイさんでも、ちょっと今日のはきついかなぁ。ま、でも、そんなフェイさんもいいけどね」

 続けて、リルカにとってはもう一つの聞き慣れた声が飛ぶ。視線をずらせば、リルカへ決して視線を向けようとしないニールの横顔が目に入った。

「ニールちゃん……」

 友人の心配りに、リルカは胸が暖かくなる。つっけんどんな態度でも、それがニールなりの優しさなのだと知っているからだ。

「な、なによリルカちゃんっ。わ、わたしは別にフェイさんにプレゼントあげれなくて残念だなんて思ってないんだから」

 ニールはそう言って、更に視線を遠くへと外す。その横顔はどこか朱がさしていた。

「しかし、当のフェイさんに何が欲しいのか聞くのが早いと思いましたが、答えてくれないどころか相手にもされない、というのはどうしましょう」

「……」

 アルタがおっとりと言う。

 ニールやアルタが言う様に、今日このような状況へ陥ったのは、三人がいつもお世話になっているフェイへ何かプレゼントをしようと考えたことが原因だった。

「ねー、アルタさん、リルカちゃん、どうするの?」

「うー……」

 正直に言ってしまえば、リルカは初めからあまり乗り気ではなかった。

「どうせフェイの事だから、『お嬢様が立派になることが一番のプレゼントです。ので、半人前のお嬢様は次の仕事をさっさとこなしてください』とか言うにきまってるもん」

 三人での話し合いの中、真っ先にリルカはそう言った。そのくらいに、フェイの反応は予想がついており、そんな反応を見るぐらいなら初めからやらない方がましだと考えていた。

 それでも、アルタやニールに押し切られ、結局三人での合同のプレゼントにしようという話になっていた。「それならいいでしょう」とアルタに優しく言われては断れなかったのだった。

 しかし、プレゼントをするのなら何がいいのか、三人は考えても分からなかった。

 正直に言ってしまえば、長い付き合いであるリルカにしてみてもフェイの趣味嗜好は分かっていない。むしろ、その趣味嗜好そのものがあるのかどうかすら疑問に思うほど、フェイは昔から仕事か、自分をおちょくってばかりだと考えていた。

 結局考えても考えても答えは出ず、最終的に三人が辿り着いたのが『フェイの欲しいものを聞く』ということだったのだ。

「少しは、こっちの気持ちを考えてくれたって、いいのに」

 ギルドホールの隅に置かれた休憩スペースに陣を取って、リルカはそんな言葉を漏らした。

 元より大した答えは期待していなかったのだ。少なくとも、リルカ自身が予想したようなセリフが帰ってくるのだろう、と。そして事実、似たような言葉が返ってきてはいた。

 ただ。

 ただ一言。リルカはその中の一言に、一瞬で頭に血が昇ってしまった。

「……そんな事、って。ひどいよ。フェイの、ばか」

 先程のやり取りを思い返し、呟く。既に怒りは冷めている。代わりに、『そんな事』と言われたことが悲しく、心を重くしていた。

「り、リルカちゃんってそんな、えーと、うじうじするタイプだったっけー。ま、リルカちゃんがプレゼントあげないって言っても、わたしはあげるけどねっ」

 ふとリルカはその声に視線を上げる。ニールのほんの少しだけ気恥ずかしそうな顔が目に入った。

「ええ、そうですね。リルカさん、いいんですかこのままで」

「ニールちゃん、アルタさん……」

 目の前の二人の仲間に、リルカは上目遣いで視線を送る。

 フェイへプレゼントをすることは不本意だった。それでも、ああ言われてしまっては、このまま終わるのは――

「――いや」

 リルカは小さく、それでもはっきりと告げた。

「別に、フェイになんてプレゼントあげなくてもいいけど、いいけど……やだ。あたしが――みんながプレゼントあげるって言ったことを『そんな事』って言われたのはやだ。やだ、やだ、ぜったい、やだ。でも、あんななったフェイは、絶対あたしの言う事なんて、聞かないもん。無理、だよ……」

 子供の様に、語彙力もなく駄々をこねる様に言うリルカへアルタは優しく微笑む。

「ふふ。では無理なら、無理を通しましょう」

「……ぅえ?」

「あんなことを言うフェイさんにはプレゼントを無理やり押し付けましょう」

「……え、えええっ!? で、でもでも」

「大丈夫ですよー。いくらフェイさんでも、プレゼントを実際に用意してしまえば受け取らざるを得ません。ですよね、ニールちゃん」

 ぐるり、とアルタが隣のニールへと視線を向ける。ぴょこん、とその頭の大きな耳が揺れた。

「え……あ、そ、そうね! 折角用意したんだから受け取ってよね! って言って、む、無理やり……?」

 ニールのしどろもどろな回答でも、アルタは満足そうに頷く。

「と、言うわけです。どうしますか、リルカさん」

 真っ直ぐなアルタの視線に射抜かれ、リルカは唇を一度、ぎゅっと噛み締めた。

 そこにあるのは、決意。そして、小さな反抗。

「…………うん」

 そして小さく、自分を納得させるように頷いた。

「うんっ! フェイなんて、もう知らない……んだからっ!」

 

 

2/

 

 

「で、そう思ったのはいいけど、結局何をやるか分からなくてアタシの所に聞きに来たってわけね」

 ギルドハウスの或る一室で、朗々とした女性の落ち着いた声が響いた。窓側の椅子へ逆向きに腰を下ろし、背もたれ越しに彼女は座っていた。

 大きく肩とへそを出した露出の高い恰好が目を引く、美しい女性だった。

「う、うん。クーリィさんなら、フェイの好みを知ってるかな、って思って」

 その女性に向き合って、リルカは微かに申し訳なさそうに言った。

 今、リルカたち三人が訪れているのは、ギルドでも古参に位置するメンバーの一人である、グラディエーターの戦士、クーリィ・バーラムの部屋だ。

 部屋の主であるクーリィは、申し訳なさそうに上目遣いで見つめてくるリルカを見て「ははは」と笑った。

「別に、アタシだってフェイの好みなんて分かんないけどね。しっかしまぁ、アンタってやっぱり姉さんの娘だよ」

 クーリィは言って、整った顔を破顔させる。そして「くくく」と含み笑いをすると、堪えきれなかったのか、大きな声を上げて笑い出した。

 姉さん、というのはリルカの母親であるリータのことである。だが、特別にリルカとこのクーリィに血縁上の繋がりがあるわけではない。

 リータ達が過去に仕事――冒険を行っていたのはリルカが生まれるより前のこと。時間に直せば二十年近く昔の事である。

 クーリィはリータと共にいくつもの冒険を行っていた。その当時のパーティでは、彼女は最年少だった。冒険を始めた頃だと、リータは今のリルカと変わらない歳で、クーリィはそれより四つは幼かった。

 そんなパーティに居て、クーリィはリータの事を姉のように慕い、そして実際に『姉さん』と呼んでいたのだ。それは今になっても変わることのない、彼女たちの絆である。幼い頃、それこそクーリィが共に旅していた時よりも早くに、母親と離れることになったリルカとしては、過去の母親の思い出を聞くことは、知らない母親の事を知ることが出来て嬉かった。

「お母さんの話はいいからっ。フェイの事で何か思い当たることとかない?」

「そうは言われてもねぇ」

 視線だけを天井に這わせ、クーリィは「あの堅物の好物なんてあんのかねぇ」と言う。

「まぁ、あいつならこう言うんじゃないの? 『リル……』じゃなくて『お嬢様が一人前になることが一番のプレゼントですよ』って」

「うー。それ、もう終わったよ」

「ありゃそうか。分かってるならよろしい」

 そう言って、さも面白そうにクーリィは笑った。

「もうっ、真面目に聞いてるんだから、真面目に答えてよね! クーリィおばさん!」

「おば……なんだって?」

「だから、クーリィおばさん。あたしのお母さんを『姉さん』って呼ぶんだったら、あたしにとってはおばさんみたいなものでしょ。それに三十路越えたんだし」

「おっとリル。それは言っちゃあいけないことだよ? あんた、フェイより先にアタシから躾を受けたいようだね。姉さんには『生意気言うようだったら好きなようにしちゃってね☆』って言われてるんだよねー」

「ちょ、ちょっと〜。じょ、冗談だってー。あはは、クーリィお姉さんには冗談が通じないんだなー。あはは」

 椅子の脇に立てかけられた剣を掴んだクーリィを、咄嗟にリルカは言葉で押しとどめる。

 クーリィの『躾』は冗談ではないのだ。リータのいない間、フェイと一緒にリルカを教育していたのはこのクーリィで、それは主に野外活動的な部分でのものが多かった。

「魔法使いでも体力が必要! 姉さんだって、というか姉さんは魔法がピーキーだったから体力をつけてた!」

 と言って、ラインの町中をオリエンテーリングと称して走らされたのは、今ではリルカの中で消し去りたい思い出になっている。

「それはさておき。クーリィさん、本当にフェイさんの好みなどご存じないのですかぁ?」

 リルカの後ろに立って状況を眺めていたアルタがようやく口を開いた。

「んー。まぁ本当に『これだっ!』ってのは思い当たらないねー」

「好きな食べ物なんかもでしょうか?」

「ぶっちゃけ、あいつが何か食ってるところとか見た覚えがないんだよね。いや、マジで。フェイって何食って生きてんの? 霞? 仙人?」

 何の話か分からず、アルタはきょとんと首を傾げる。もちろん、それを聞いていたリルカやニールも話が分からなかったようで顔を見合わせるだけだった。

「っと。勢い付きすぎちゃった。うーん、ほんとーに考えても何も思いつかないね」

「そうですかぁ……」

「ってかさ、リル」

「え?」

 懐かしいクーリィの呼び方に、リルカは少し意表を突かれる。

「別に何をやってもいいんじゃないの?」

「でも、フェイさんが欲しくないものだったら、迷惑じゃ……」

 そう答えたのはリルカではなく、ニール。

「だからさ、その前提からめんどくさいっての」

 言って、クーリィは椅子をバランスよく一本足でくるりと回転させ、リルカたちへ向いて座る体勢へと移ると、足を組みその上で頬杖を付いて三人を見据える。

 その一連の動作に、リルカたちはまるで叱られる前の子供の様な緊張を覚えた。ギルドでもトップクラスの歴戦の冒険者。そのどこか気圧されそうになる雰囲気を感じ取っていたのだ。

「まずさ、リル。あんたはどうしてフェイにプレゼントをしようと思ったのさ」

「えと、それはアルタさんとニールちゃんから、誘われて……」

 ふうん、とクーリィは頬杖を付いたまま相槌を打った。

「じゃあ、そこの二人」

 びくり、と呼ばれた二人が背筋を張る。幼い頃から慣れ親しんでいるリルカと違って、まだギルドに入ってから日の浅い二人はクーリィの威圧に完全に緊張を覚えていた。

「二人はどうしてそうしようと思ったの?」

「そ、それはフェイさんに日頃のお礼をって」

 たどたどしくニールが答える。

「それだけ?」

「え、ええ、ええと。も、もしかしたらそれでフェイさんが私の事気に入ってくれたらなぁ……とか」

「……ふむ。正直でよろしい」

 もう一度、クーリィはふうん、と喉を鳴らす。リルカにはその様子がどこか獲物を前にした猛獣の様にも見えた。

「わたしもだいたいそうです。フェイさんにはいろいろといつもお世話になっていますので〜」

 いつもとは変わらない口調でアルタは答える。だが、話を振られる前に答えたことや、頭の上にぴょこんと立つ大きな耳が小さく丸まっていることから、委縮していることが窺えた。

「なるほど、なるほど」

 そう言って、クーリィは目を閉じると大きく頷いた。そして、目を開き、リルカへと再び視線を戻す。

「リル。あんたはそういう気持ちとか何もなくて、ただこの二人に誘われたからってプレゼントをしようと思ったの?」

「……あ……ぅ」

「別にそれだけだったら、止めといた方がいい。そんなことでプレゼント貰っても、フェイは決して喜ばないだろうからね。でも、違うんだろ?」

「……」

 リルカは押し黙ってしまう。

 乗り気ではなかった。とは言え、嫌々ながらやっていたわけでは決してない。

「あんたがフェイに怒ったってことはさ、フェイが受け取ってくれない、ってことに怒ったんだろ? それは少なからず、他の二人と同じようにフェイに何かプレゼントしたい、って気持ちがあったってことだろ?」

「……ぅん」

 その通りだ。本当に、その通りだ。

 自分の発案ではなくても。自分の本心からあふれ出た想いでなくても。

 仲間に同意するぐらいには、そう思っていた。フェイに、何かプレゼントしたいと思ってしまっていた。それがどのくらいの大きさなのかは分からなくても、確実に、その想いはリルカ自身の胸に感じていた。

 だからこそ、その想いを『そんな事』としてしか受け取ってくれなかったからこそ、悲しくて、頭にきて、それでも悲しくて、諦めきれなくて、どうにかしたいと思ったのだ。

「じゃあさ、もうやることなんて決まってるだろ」

「でも、何がいいか分かんなくて……」

「だーかーら。そういうんじゃないの。いいかい、リル?」

「……うん」

 リルカは素直に返事をした。

「あんたがさ、フェイに何かあげたいって気持ちが、まず大事なんじゃないかい?」

 クーリィは強い芯の通った、それでいて優しい声で言う。

「だったら、別に何をやるかなんかで迷う必要はないだろ? あんたのその気持ちを、フェイに伝えれさえすればいいんだから」

「でもでも……フェイの好みじゃないのだったら、」

「なーに。いいのいいの、そんなのは。これが私の気持ち、受け取って! ぐらいで。それとも何かい? リルのフェイにプレゼントを渡したいって気持ちは、物によって変わるのかい? あいつの嫌いな物を敢えて選ぶのなら別だけど、そんなことはしないだろ?」

「……うん」

「だろ。じゃあ、そういうことさ。あんたがね、そういう気持ちを込めて、フェイの事を考えて選んだものが、フェイに気持ちを伝えるのに十分すぎるぐらいに十分なものなのさ。そんなものを、アタシは決めれないよ。決めれるのは、渡す本人ぐらいじゃないかい」

 リルカはもう何も言わずに、ただ頷いた。反論なんて、出来るはずもなかった。

 初めから選択肢はない。

 あったのだとすれば、『プレゼントをするかしないか』の時だけだ。

 『プレゼントをする』と決めた瞬間に、もう決めていた。

 フェイに何かをプレゼントしたいという想いがあったのだと、気付いていた。

「よし、じゃあリル。次は何をすればいいか、アタシが言うまでもないね」

「……うん!」

 力強い頷き。リルカの眼差しはクーリィの目を真っ直ぐに貫く。それにクーリィも満足げに頷くと、柔らかい笑みを溢した。

「ニールちゃん、アルタさん」

 リルカは振り返り、仲間をそれぞれに見やる。二人はそれぞれにクーリィと同じように頷き、笑って応える。

「行こっ!」

「「うん」」

 三人はそう言って、クーリィの部屋を飛び出した。もう迷うことはないと、その背中が謳っていた。

 

    *   *   *

 

「――――っぷ、ははは、あはははは!」

 三人が去って、部屋の主は堪えきれず、笑い声を漏らした。

 とても大きな声だった。心の底から可笑しそうに、腹を抱えてクーリィは笑った。

 ひとしきり笑うと、クーリィはその笑みを微かに残したまま、窓の外を見た。窓の向こうには、どこまでも続く、青い空が広がっている。かつて旅したときに仲間と見たものと同じ蒼穹に、クーリィは懐かしい顔を思い浮かべる、。

「まったく、姉さん。リルはあんたに似すぎだよ」

 クーリィは窓の向こうにいる誰かへと言う。勿論返事が無い事なんてわかっている。それでも、言わずにはいられないほどにクーリィの心は愉快だった。

「リルも、姉さんも、不器用だね。ほんと」

 呟きは溶ける様に部屋の静寂に消えていく。

「悩む必要なんて、無いってのにさ。ったく、リルのやるものだったらなんだってフェイは喜ぶにきまってるだろうってのに。ほんと、馬鹿だよ」

 そう言って、クーリィは再びおかしそうに笑った。

「あーあ。姉さん、早く帰ってきなよ。リルはこんなに成長したよ」

 

 

3/

 

 

 大きく息を吸う。そして、大きく息を吐く。

 見慣れた扉を前にして、リルカはこれまでに感じたことのない緊張を覚えていた。

 目の前にあるのはギルドホール内の執務室。ギルドマスターだったリルカの祖父が、そして今のギルドマスターであるリルカ自身が仕事で使用する部屋だ。もっとも、そのリルカがこうして部屋の外にいることから分かる様に、リルカがこの部屋で仕事をすることはほとんどないと言っても過言ではない。リルカはまだ書類等の仕事に慣れていないからだ。

「――――」

 ごくり、と息を呑む。

 そう。この先にいるのは、リルカの代わりに仕事を行っているフェイなのだ。

 扉を前にしてリルカは今朝の会話を思い出すと、喉の奥に苦いものが込み上げてくるのを感じた。

 フェイと喧嘩をすることは決して少なくない。むしろ、軽い言い合いであればほぼ毎日と言っても差し支えはない程だ。そのほとんどがリルカの行動をフェイが注意することから始まる。そしてその結末としてはリルカがフェイに言いくるめられて終結する。

「……うー」

 でも、今日は違う。

「フェイ、怒ってる、かな……」

「怒ってるかもしれませんねぇ〜」

「あ、アルタさん〜……」

 背後からかけられた声にリルカは涙目になる。

「まぁ、でもそりゃそうよね。フェイさんがお仕事の話をしようとしたのをぶった切って、プレゼントの話をしだしたんだから。で、あんな感じだったし」

「ニールちゃんまで……ううぅ……」

 涙目どころか、リルカはもう完全に泣きそうになっていた。このまま回れ右して自分の部屋に帰ってベッドに潜り込みたい程だった。一眠りして、明日の朝になればきっとフェイともいつも通りに話せる。それが、今まで通りの喧嘩の後処理だ。

「でも、そういうわけにはいかないですよね」

 表情を読まれたのか、心を読まれたのか、アルタはそうぴしゃりと言い切った。

「……うん」

 リルカの視線は自ずと自分の右手へと向いていた。そこにはラッピングされた小箱が握られている。

 小さな、リルカの手に収まる程度の箱。でも、それなのにずしりと、体ごと地面へ縛り付けるかのような重さがある。

 重いのは、心だ。気が重い。足取りが重い。

 実際にやるべきことなんて分かっている。簡単なことだ。この軽い小さな箱を、いつも小生意気な執事に突き付けるだけのことだ。もし拒否されたとしても押しつけて投げつけて出てくればいいだけの事。でも、それがとてつもなく重く心を縛る。

 だから、なのか。なんて、リルカはふと思う。

 当たり前で、簡単なこと。だから難しい。照れ臭くて、恥ずかしくて、気後れする。

「うー。もう、フェイのくせにぃ」

 なんでこんなに考えないといけないの、と扉を蹴りたくなる。代わりに、ほんの少しだけ、小箱を強く握る。

「リルカさん」

「アルタさん……」

「クーリィさんも言ってたじゃないですか。想いを伝えるだけですよ。あ、想いを伝えるから気が重いんでしょうかぁ?」

「アルタさん、それ、ちょっといいセリフっぽいけど何だかオヤジギャグだよ……」

 静かにニールがぼそりと言う。アルタはいつもの様に「おほほ」と笑う。

「リルカさん。重いのは、想いがそれだけ強いからですよ。リルカさんが、それだけフェイさんにプレゼントを渡すべきだと、想っているということです。だから、悪い事なんかじゃないですよ」

 ずしり、と未だに小箱は右手と心を重く縛り付けていた。でも、アルタのその言葉は、それを僅かに緩めていく。

「兎に角。わたしたちはリルカさんにお任せいたします。リルカさんのいいと思うタイミングで、行けばいいと思いますよぉ」

「……うん、ありがと、アルタさん」

 リルカは大きく息を吐く。そして、大きく吸うと、また大きく吐く。

 目の前には見慣れた扉。右手には持ち慣れない小さな箱。

 でも、後ろには頼りになる仲間。

「……もー。行くしかないじゃん!」

 ぎゅっと、左手を握りしめる。そして振り上げると、そのまま、扉へと叩き付けた。

 

     ◆

 

 扉を開けた途端に、懐かしい香りが訪れる。インクと、どこか柔らかい風の匂い。

「――フェイ、入るよ」

 ぎぃ、と閉まる扉を背にし部屋へ体を半身入れて、ようやくリルカはそう声を放った。

「それは入る前に言うものですよ、お嬢様」

 冷静で、落ち着いた声。考えるまでもなく、リルカにはそれが誰の声なのか分かる。

「ぅ……じゃ、じゃあ、入ったよ」

「それも意味はあまりないですよ」

「べ、別にいいの!」

 口を尖らせ、リルカは執務机で作業を行うフェイを正面に見据えた。一瞬、机の上から視線を外したフェイと目が合う。

「……あう」

 その雰囲気に気圧される。

 

 ――いや、違う。

 

 頭を過ぎった考えを一瞬で払い飛ばす。

 フェイは何も変わっていない。いつもと変わらず、執務室に来たリルカを対応しているだけだ。ましてやリルカを威圧などしてすらいない。例え怒っていたとしても、そんな事を、それこそ『そんな事』を表に出すことは有り得ない。リルカは自分自身が勝手に気圧されて逃げているだけだ、と分かっている。

「あの、フェイ」

 一度強く唇をぎゅっと噛むと、リルカは口を開いた。その視線を真っ直ぐに正面へ向けて。

 止まってはいけない。でなければ、ここまで来た意味が無くなってしまう。

 リルカは後ろ手にやった右手に、そしてそこに握られた小箱を、最後に後ろに立つ二人の仲間を思う。

「――どうかされましたか、お嬢様」

 変わらない、いつもと同じフェイの問いかけ。それに答えず、リルカは代わりに足を踏み出した。

 他の部屋と比べて多少余裕があるとはいえ、執務室は決して広くはない。だが、リルカにとってフェイの元に辿り着くまでの距離は、まるで永遠のように長く感じた。

「……」

 部屋の中に沈黙が訪れる。一歩、また一歩と踏み出すリルカの足音だけが部屋には満ちている。

「……フェイ」

 長い長い時間をかけてリルカはフェイの前に立つと、そう呼びかける。フェイは音もなく、立ち上がる。

「――なんでしょうか」

 静かな声が部屋に響いた。その声色は、怒っているのでも、威圧しているのでもなく、自分の言葉を待っているのだとリルカは何となくだが思った。それは、いつものフェイだ。内容の如何を問わず、それを予想していてもいなくとも、フェイはいつもリルカの言葉を待っている。ちゃんと待ってくれている。

「これ、フェイに」

 右手を突き付ける。そして言葉を待たず、そのままフェイの胸に押し付けた。

「……お嬢様」

「いらない、なんて言わせないからね。フェイにとっては『そんな事』なのかもしれないけど、でもね。あたし……あたしたちはね、ちゃんとフェイに何かあげたいって、思ったんだよ。それでも、フェイが受け取ってくれないってことは、あたしたちのそんな気持ちをいらない、必要ないって、いうこと、だよ」

 だから受け取って、とリルカは再度強くプレゼントの小箱をフェイの胸に押しやる。

「わたしたちからもお願いします。フェイさんに喜んでほしいからって、一生懸命に選んだんですよぉ」

「うん。そうだよ。フェイさんにはいっつもお世話になってるからね」

 アルタとニールも続ける。リルカはそんな二人の援護を背後に受けながらも、次第に視線を落としていっていた。恥ずかしくて、逃げ出したくて、フェイの表情を窺うことはできなかった。できれば、少しぐらいは、困った顔をしてくれていればと、ほんの少し思ったりした。

「……」

「……」

「……――ありがとうございます」

 長い沈黙を破ったのは、フェイのそんな声。リルカは前に投げ出した手に、何かが触れるのを感じてはっと顔を上げた。フェイの手は優しく、リルカの右手に添えられている。フェイの手袋越しに伝わる、微かな体温にどきりと、リルカの心臓が拍を打つ。

「あ、フェイ……」

「――お嬢様」

「な、なに……?」

「いえ、大したことではないのですが」

「な、なになに……?」

「手を離していただけないと、受け取ることもできないのですが」

「えっ、あ、ああ。ご、ごめんっ」

 ぎゅっと強めていたことに気付き、リルカは慌てて小箱から手を離す。するり、と音もなく小箱はフェイの添えられた手に落ちて行った。

 プレゼントが完全に手を離れたのを理解して、リルカは半歩後ずさった。その刹那、リルカはフェイの顔がほんの少し――気のせいかもしれないと思うほどに微かに、綻んでいるようにも見えた。

「開けてもよろしいでしょうか?」

「あ、う、うんっ!」

 いいよね、とリルカは後ろの二人にも同意を求めて振り返る。二人もそれぞれに頷いて応える。

 フェイは丁寧な手つきで小箱の包装を剥がしていく。やがて、包装の下から綺麗な木の箱が顔を出した。かたり、と音を立ててフェイは箱を開いた。

「……これは、」

「あの、えっとね。何がいいかって、いろいろみんなで考えたんだけど、結局思いつかなくて……」

「見て回っていた時に、リルカさんが見つけたんですよ」

 フェイは箱から中身を取り出す。それは、綺麗に折りたたまれた一本の細長い布だった。えんじ色の鮮やかさが美しい。肌触りの良さそうな生地は、それだけで一つの芸術品の様にも思える。

「ネクタイ、ですか」

「……うん。見たときにね、フェイのことを思い出して、似合うかな、って」

「では、失礼して」

 そう一言、小箱をいったん机の上に置くと、フェイはしゅるりと首のネクタイを解いていく。あっという間にただの布へと戻ったそれをフェイは自らの左腕に掛け、代わりに新たなネクタイを身に着けていく。その流麗な動作に、リルカだけでなくその場にいた三人は全員息を呑んでしまっていた。

「――似合いますでしょうか」

 鏡を見ることなく文句のつけようのない程に美しく結ばれたネクタイを、フェイは甲を下にした右手で指し示す。

「すっごい似合うよフェイさん!」

「ええ、誠にその通りですわ」

「ありがとうございます。して、お嬢様からの感想はないのでしょうか」

「……」

 リルカは何も言えなかった。ただただ、単純に何も言えなかった。

 フェイに似合うだろうと、ただただ、そのくらいに思っていたから。

 こんなに、似合うとは思っていなかったから。

 そして、自分の選んだものが、フェイの身に着けて貰っているから。

「ふむ。沈黙は時には何よりも雄弁に語ると申しますが、お嬢様のそれは如何様な意味を持っているのでしょうか。人の心を読むことのできない私には、判別がつきませんね」

「……あ、えと、その」

「何でしょうか。もう頂いたものですので、返せと言われても返しませんよ」

「そ、そんなこと、言わないよ」

 似合っている、と一言言えれば良かった。でも、それは難しい。簡単だから難しい。今日はつくづくそれを思い知らされる。

「ふむ。なら良かったです。ありがとうございます、お嬢様」

「あ……」

 すとん、とリルカの心に何かが落ちる。ほっと、安心したような、そうでないような。はっきりとしない気持ち。でも、どこかすっきりとはする気持ち。

「そういえば」

 そんな時、アルタがふいに声を上げた。みんなの視線がアルタへと向く。

「そういえば、わたしたちやることがあるんでした。ね、ニールちゃん」

「え、ええっ?」

「ということですので、ニールちゃん、行きましょう」

 頭に疑問符を浮かべるリルカとニールを無視して、アルタはニールの手を引いてドアへと向かう。

「ちょっと、アルタさん。わたし、聞いてない」

「ええ。それもそのはずです。わたしとニールちゃんが頼まれたお仕事ですので。ということですので、リルカさんはもう少しフェイさんとお話していらしてください」

 そう言うが早いか、アルタはそのまま部屋を後にした。最後までニールは何の事だか理解をしていなかった。

「ふふ。あの子もなかなか底が見えないものですね」

「え?」

「いえ、こちらの話ですよ」

 その言葉にリルカは首を傾げる。一体なんなのか、みんなの行動が全く分からなかった。

「……」

「――」

 部屋に沈黙が訪れる。『沈黙は何よりも雄弁に語る』とフェイは言ったが、この場合の沈黙は何を語るのだろうか。どうするべきか、何かいうべきかと考えてつつ、リルカはそんな事を考えていた。

「無為に時間を過ごすのも勿体無いですね」

 フェイはそう言うと、一歩後ろに下がり、来客用のソファーを手で指し示す。

「お茶でも淹れましょう。お座りなって下さい」

「う、うん」

 言われるがまま、リルカはソファーへと腰を下ろす。ややあって、かちゃかちゃとカップを用意する音と、こぽこぽとお茶を入れる音が耳に届いてくる。同時に、香しい紅茶の匂いも次第に部屋に満ちてくる。その音と匂いに、リルカはどこか安心感を覚えさせられる。

「お待たせいたしました。ただ、申し訳ありません。今日はお茶請けの用意をしていませんでした」

 かちゃり、とローテーブルに芳しい匂いと湯気を立てるティーセットが置かれる。透き通る、まるで宝石の様な琥珀色の紅茶。幼い頃から飲んでいる、慣れ親しんだ紅茶。

「その代わりといってはなんですが――」

 フェイはまるで砂糖のように甘く、優しげに言うと、

「少し、お話を致しましょう。お嬢様の口に、いえ、この場合は耳に、というべきなのでしょうか。ともあれ、好みに合えばよろしいのですが」

 まるで、物語の語り部の様に、静かにそう告げた。

 

    ◇

 

「それは遥か遠く悠久の彼方。過ぎ去りし時に埋もれた塵芥。そんなお伽噺の一つです。

 かつて、とある所に一人の子供がいました。彼は物心を覚えた頃から一人でした。

 ただただ一人。

 須らく全て。

 生きる者も、生きぬ者も。

 彼の住む場所に彼以外の存在はありませんでした。

 彼はその中で時を過ごしていました。ですが、彼は孤独ではありませんでした」

「……なんで?」

 まるで夏の夜の風の様に、秋に鳴く華麗な虫の音の様に心地良い声でフェイは語る。それが途切れた一瞬にリルカは知れず口を開いていた。

「彼は初めから一人だったからです。彼にとって一人であることが全てだったのです。孤独という状態そのものを、知らなかったのです。孤独と感じることすらなかったのです。

 彼は何も疑問すら感じませんでした。己が今ある状況が如何に異質であるか気付きませんでした。そして気付かぬまま、長い時を過ごしました。

 それは永遠のように永く、そして刹那のように短い時でした。

 ただ、変わることのない時間が静かに、水の流れのように過ぎて行くだけ。

 昨日であった今日が明日になり、明日を迎えた今日が昨日へとなっていく。

 まるで閉じられた輪のように終わる事のない悠久の日々。

 然し、全てに永遠があり得ないように、生が訪れれば死を迎えるように、其の永遠にも似た永い日々はある日突然終わりを告げられました」

 フェイは一つ呼吸を置くと、虚空へと視線を送る。

「その時、彼はもう子供と呼べないほどに成長していました。

 そんな彼の元に、一人の青年が現れたのです。彼は自分以外の存在をその時初めて知りました。そして考えました。

 これは何なのだろう、と。

 これは何をするのだろう、と。

 これは何を考えるのだろう、と。

 彼の頭に、自分と異なる存在への恐怖などは全くありませんでした。あるのは純粋な好奇心だけでした。

 彼は静かに、青年を観察します。その存在を知ろうとしたのです。その呼吸を、その思考を、その体温を、その体に流れる血の一滴まで知ろうとしたのです。

 そんな彼に青年は一言告げました」

「なんて、言ったの?」

「ただ一言。『共に来ないか』と」

 フェイは静かに、はっきりと言い切った。

「彼にその意味は理解できませんでした。思考は混迷に落ちていました。

 元より彼は言葉を知りませんでした。それなのに、何故だか青年のその『言葉』は彼の元に届いたのです。それがまず彼を混乱させます。そして、その意味を理解し彼はまた混乱します。なぜ、これはそんなことを言うのだろう、と。

 意味を考えたことが、彼に混迷の道を更に進ませました。まるで、呼び水の様に。

 自分以外の存在がいた、という事実。そして、この場所以外が有る、という事実。

 好奇心は興味となり、いつしか彼の欲求となりました。そして、知ってしまった以上、元に戻ることなど出来ないと悟りました。彼は、孤独を知ったのです。

 決して長くない沈黙の果てに、彼は答えを出しました。

 共に行くと、応えたのです。

 青年を退け一人この場所を飛び出すことも彼にはできました。でも、彼は、彼の元に辿り着いた青年と共にこの場所を出たいと考えたのです。

 そして、彼の旅が始まったのです。今まで知ることのなかった、感じることのなかった、長い長い時を生きるという旅が」

 フェイは語りつつ目を閉じる。まるで、その瞼に情景を映し出すかのように。

「様々な場所を旅しました。

 そしてその全てで無限の発見をしました。

 知れば知るほどに、疑問が生まれ、解決すればまた新たな疑問が生まれました。

 それは彼の胸に、決して溶けることのない記憶として積み重なっていきました。

 彼は、ようやく生きることを知りました。

 彼はそれを教えてくれた青年に感謝しました。深く言葉では表せないほどの感謝でした。

 そして、青年が『家』を作ると宣言したとき、彼は決意しました。

 彼は青年に命を捧げることを、

 永遠に仕えることを決めたのです」

「それ、って」

 ふいにリルカの口から言葉が零れる。フェイはその言葉を、眼鏡の奥に隠した優しげな眼で受け止めた。

「青年の作った場所は、彼にとっても掛け替えのないものになりました。

 そこで過ごす毎日が、一日が、一分一秒が、その全てが、彼の胸にまるで宝石の様に輝く宝物として積もっていったのです。

 この世界に永遠などありません。手に入れたものもあれば、時には手を離さなければならないものも出てきます。それでも、彼にはその全てが、そして今こうして在れることが幸せでした。

 今も彼には多くの仲間がいます。可愛らしい仲間がいます。強く頼れる仲間がいます。弱く守らなければならない仲間がいます。

 そして、いつまで経っても手を焼かされる、それなのに見ていて飽きることのない、今の主人(マスター)がいます。

 もう、これ以上何かを求める必要がない程に。それ以上を強請っては、罰が当たると思う程に。彼は十分な程に贈り物を頂いているのです」

 そう言って、フェイは注意していなければ見逃してしまうほどに僅かだったが口元を緩め、緊張を解く。

「――さて、物語はここで終わりです。お口に合いましたでしょうか」

「……」

「おや、お口に召しませんでしたか? これはこれは、失礼いたしました。次はもう少し――」

「フェイ」

 リルカはフェイの言葉を遮って、口を開いた。

「それで……それで、いいの?」

「なにがでしょうか」

「……その、彼はもう、その『今』で満足してるの?」

 フェイは目を細めて、考える様子を見せる。

「――そうですね。私は彼ではないので正確に答えることが出来ませんが、満足していると思いますよ」

「……」

「どうかされましたか、お嬢様」

「……だめ、だよ」

 リルカの口から音が零れる。それは言葉ではなく、想いだ。

「そんなの、もったいないよ! もっと、もっとさ! その彼は満足してるかもしれないけど、彼に色んなものをあげたいって思ってる人だっていると思うよ! ……わたし、だったら、そう思う」

「……お嬢様」

「もし、わたしなら。わたしならっ!」

 リルカはきゅっと唇を噛む。そしてフェイをぎゅっと、睨むように視界に捉える。

「わたしが、その人の近くにいるのならっ! ううん、わたしだけじゃないよ! もし、ニールちゃんも、アルタさんも! 他のみんなも! その人に色んなものをあげたいって思うんだから! それで、いやだって言っても、もういらないって言っても、それでも……それでもっ! 無理やりにでも、あげるんだから! 無理やり、押し付けるんだから!」

「――――は、はははは」

「……っ! な、なによぅ」

 知れず涙声になっていたリルカは、鼻をすすりながら答える。それでもフェイが声を上げて笑うことを止めない。ひとしきり笑って、フェイは満足そうに天を仰いだ。

「全く、お嬢様にこうも言われるとは、その彼も大変ですね」

「ううう、どういうことよぅ」

「いえいえ。そのままの意味ですよ」

「うぅぅ……」

 リルカは唇を噛んで、上目遣いでフェイを睨む。その様子に怯む事無くフェイはいつもと変わらない冷笑を浮かべるだけだ。

「――お嬢様」

「なによぅ、フェイ」

「これを受け取ってもらえませんか」

 そう言って、フェイは腕にかけていたネクタイを取り、跪くとリルカへと掲げた。

「……え」

「これは私が先代に仕えると決めた際、先代から頂いたものです。ですが本日、今のマスターであるお嬢様より新しいものを頂戴しました。もう、今のわたしにとっては必要のないものです。ですので、お嬢様に受け取って欲しいのです」

「……フェイ」

「いけませんでしょうか?」

 リルカは自分より背の低くなったフェイへ、ぷるぷると首を振った。それに満足げにフェイは頷き、ネクタイを差し出す。リルカはゆっくりと、そのネクタイを取った。温もりの残滓がリルカの手に伝わった。

「――ありがとうございます。マイ・マスター」

 フェイの言葉は部屋に満ちて、その名残を惜しむかのように消えることはなかった。

 

 

 

 ――さて、これにてこの一幕を終了させて頂きます。

 彼女の物語、彼の物語、そして取り巻く人々の物語。

 それらはまだ、終わることはありません。

 この世界に永遠はありませんが、空に無数の星の光がある様に、永遠に近い存在はあるのですから。

 いつか、また出会うこともあるでしょう。

 その時まで御機嫌よう。

 

 

了/『或るアウフ・ラウフの一日』

   吾妻巧・GM

説明
アリアンロッドで行っているキャンペーンから、キャラクターをお借りしてSSを書いてみました。
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