戦極甲州物語 拾玖巻 |
騎乗での戦いというのは思いのほか不便だ。馬を御しながら戦わねばならないので、どうしても手綱に片手を取られがち。槍持ちの場合、槍の重量やその取扱い上、どうしても片手では戦いづらいため、戦闘では手綱から手を離すことも多いが、そうすると馬を御するのは足しかない。一方で刀の場合は片手でも取り扱えるので片手は馬の制御に回せる。どちらを選ぶかは騎兵の在り方による。
「ふっ!」
「せえっ!」
火花を散らして刀と槍が交錯し合う。時に防御を抜けて相手の頭へ。時に攻撃を打ち落として。
雷光を模したギザギザの槍を突き込む。相手は手綱から手を離した。直後、馬の首と彼の胴体の間を槍が素通り。そのまま薙いでくれる!……と槍を握り込んだ途端、相手は槍を掴んで防いできた。なかなか勘が鋭い。
だがそれがどうした。なればそのまま振り抜くまで! 馬から叩き落としてやるぞ!
瞬時に息を吸い込んで振り抜こうと――して。綱成は目を瞠った。
槍が、動かない。
綱成は目だけを槍から相手へと向ける。するとそこには相当の力を入れて力んでいる相手の顔。だというのに。綱成の視線に気づくと、彼は不敵に笑ってきた。
(こいつ、まだ笑う余裕が……!)
己が内より湧き上がるものに綱成が唾を飲む。その間にも相手は刀を振り上げて。
咄嗟に綱成は槍から右手を離し、刀に伸ばした。抜刀! 振り下ろされた刀を迎え撃つ。金属をぶつけ合う音と衝撃。
互い片手。馬に乗っているため、腕力のぶつけ合いにも近い。
(くっ……! 思いのほか力が、あるな……!)
『甲山の猛虎』が傅役を務めただけはあるということか。綱成は相手の体勢を崩そうと槍を引くが、相手も同じ考えか拮抗し、思い通りにはいかない。馬が動き、その場で回転する。その馬上で2人は刀を打ち合う。薙ぎ、打ち下ろし、叩き落とす。払い、流し、突き返す。時に槍を捻って相手の注意を逸らし、今こそと振り抜こうとしたら足蹴にされて妨げられ。
「うおっ!?」
落馬しそうな勢いに咄嗟に掴んだ槍に力を入れて支えようとして――そこで相手は槍を手放してきたではないか。支えを求めた槍はあっけなく解放され、今度こそ綱成は体勢を崩した。綱成の体重が傾き、馬もその勢いによろよろと揺れる。
「綱成殿、覚悟!」
咄嗟に手綱を掴んだはいい。だが刀が手から滑り落ちた。槍は――間に合わない。視界に振り下ろされる刀が映る。
「なんの!」
「っ!?」
足に力を入れ、綱成は左に落馬しそうな姿勢のままで――槍を、手綱を手放し、空いた両手を思い切り打ち合わせる!
両掌の間に、迫る刃を見事に挟んで。
白羽取り。さすがにこれには驚いたのか、相手の動きが止まった。綱成とてこの姿勢はつらく、今にも落馬しそう。
だから綱成はむしろ落馬の勢いを使い、体重をかけてそのまま相手の刀を引いた。
「なっ……!」
「せえやっ!」
馬ごと引き寄せられた相手。馬が接触しそうな至近距離。綱成はお返しだとばかりに彼の体に蹴りをかました。
避けることができず、まともに胸にくらう相手。綱成の逆側に落馬しかけ、それを必死に耐えている。馬が咄嗟に足を踏ん張らせ、首を落とすことで手綱を引き、相手の支えになろうとしている。
一方、綱成はそのまま落馬。受け身を取り、それでも土の固さに背中が痛みを訴える中を無視してすぐに体を起こした。そばに落ちている槍を拾い、次に刀を――
「させるか!」
拾おうとして、ふと視界が暗くなる。綱成は見上げることなく、咄嗟に刀を諦めて体を横に投げた。足が僅かにかすった感覚。そして砂煙を上げて倒れ込んできた――綱成の馬。苦しそうに呻いており、その首を原因となった相手へと向けていて、綱成もまた馬が見る方向を見上げた。すると敵の馬の睨みにも怯えることなく、むしろ誇らしげに雄叫びを上げる敵将の馬。どうやら馬を体当たりさせて綱成の馬を倒したようだ。
さらにもう体勢を立て直した相手が切っ先をこちらに向けて引いていて。
迷わない。刀を手放し、突きを逃れる。そのまま綱成は距離を取った。馬に乗り直しはしない。むしろ馬に乗って勝てる相手ではない。それを痛感した。
綱成は槍を構え、馬上の相手と相対する。周囲に戦う敵味方の喧騒が、思い出したように耳に入ってくる。いや、ずっと耳に入っていたが、まるで意識が向かなかっただけ。どうやらすっかりこの男との戦いに集中してしまっていたらしい。戦っている最中も冷静に、周囲からの攻撃にも気を配らねばならない。ここは戦場。どこから矢や鉄砲で狙われるかもわからないのに。
「……正直、ここまでとは思わなかったぞ。武田信繁」
「そちらこそ。地黄八幡の名は見掛け倒しではないこと、しかと理解させてもらった」
気づいているだろうか。信繁は薄く笑っていた。酷薄な笑みではない。どこか楽しげ。そして綱成の中に疼くものをさらに刺激させてくれる不敵さを湛えた挑発的な色。
ああ、この生意気な男を黙らせたい。思いっきり叩きのめし、力の限りを尽くして。向かってくる大軍を蹴散らすのも何だかとても堪らないが、1人の男を、強敵1人を薙ぎ払い、地を舐めさせるのもいいかもしれない。生憎とその経験はないからどんな感覚かはわからない。関東の覇者を目指す上で必ずぶつかるであろう、鬼として恐れられる常陸の佐竹義重。いずれ相見えればそれも確かめられるだろうと思っていた。だからこれは予想外。思いにもかけぬ、絶好の好機。いいだろう、天に感謝すらしよう。
「戦場こそ己が存在を示す場……そう言いたげな顔だな、綱成殿。聞いていたより随分と優男に見えたものだが、今の貴公は野に放たれた手に負えぬ猪といった風情ぞ」
優男とは言ってくれる。意識して言っているのかいないのか。挑発のつもりか否か……いや、どちらでもいいと綱成は捨ておいた。どちらにせよ今はその言葉に乗ってやろう。
「その言葉、そっくり返そう。総大将の身でありながら我一番と乗り込み、その猪をも蹴散らさんとする……涼しげな顔をしておきながら、直に相見えてみれば噂に聞く荒々しき武田そのもの。その様、暴れ馬が如し。そのくせ謀までこなすのだから、俺以上にタチが悪い」
気づいているだろうか。名乗りを上げた当初の凛々しく頼もしい若武者といった雰囲気を纏っていたというのに、その口は今にも舌舐めずりする蛇を連想しそうなほどに不気味な笑みを浮かべていることを。それでいて目は純粋でまっすぐ。まるで顔の上下で人格が異なっているかのようだ。
暴れ馬と称されたことに、信繁は別段不快感を抱くことはなかった。むしろ褒め言葉ではないか。どこまで行こうと、結局は信繁も甲州武士であり、荒々しさは甲州武士の専売特許。父を追い出し、家督を強引に譲り受けた暴君としてはいい箔が付いたというもの。
「ふふ。我が父を追い出して武田の家を手に入れる。暴君の息子は暴君。今更タチが悪いと言われたところでどうと言うでもない」
「なるほど、道理だな」
綱成が槍を持ち直して低く身構えた。飛びかからんが如き構えに、信繁も手綱を動かして愛馬に伝え、愛馬はいつも通り信繁の意思を汲み取って数歩後ろに下がった。愛馬が一歩進めば、おそらく綱成の一挙手一投足の間合い。雷光を模したと思われる特徴的な形の刃を持つ槍。槍の主要な攻撃方法である突きにおよそ向いていない形状だが、反面、こと引っかける点においては長けていると見える。信繁は刀を向けるフリをしつつ、刀身を視界に入れる。予想通り、刃がところどころで刃こぼれしている。名刀というほどではないが、それでも武田家の嫡男の持つ刀として鍛えられた一品である。にもかかわらずこの状態ということは、あの槍はなかなかに厄介だ。槍を受け止めたところで、あのギザギザに引っかけて引いたり回したりするだけでこちらの武器は各所をズタズタにされていく。
(まるで嬲り殺されるかのようだな……人は見かけによらぬものだ)
最初の優男という印象に騙されていたらその瞬間にやられていたかもしれない。
信繁は1つ、唾を飲み込んだ。心臓が強く鼓動しているのを感じつつ、これほどの高揚感はいつぶりだろうかとふと思った。前世の記憶を残しながら現世に生を受けてすでに20年近く。そう思うと、前世最後の戦いとなった川中島の戦いで上杉政虎と刃を交えてからそれだけ経つのかと感慨深くなると同時に、あのときの高揚感を否応なく思い出す。そう、今の高揚感はあの時の高揚感と似ている。この20年、またいくつかの戦を経験したが、高揚の程度は今の比ではなかった。虎昌との稽古も楽しいのだが、あれは生死とは別。あくまでも稽古。
だが今は違う。命をかけた武士と武士の勝負。体は火照り、じっとしていても心臓が激しく鼓動し、精神はなお一層高められ、それと共に感覚は鋭敏化する。銃声が鳴り響く前に鼻は火薬の匂いを嗅ぎ取り、目は綱成のさらに後ろにいる兵が弓を引いてこちらを狙っているのを捉え、耳は背後から近づく騎馬の蹄を聞き取り、舌は頬を伝う汗のしょっぱさを感じ、肌は戦場に宿る鬼気迫る空気を全身で知覚させる。
発砲音! 間断なくさらに数発!
信繁を狙っていた弓兵が仰け反って倒れる。信繁を追い越して武田騎馬隊が今こそその突進力を見よとばかりに突っ込み、北条兵は綱成を守れと雄叫びを上げる将を筆頭に真っ向から立ち向かう。
「勇壮な兵だな。将が勇猛果敢であると兵もまた然り。綱成殿、貴公は実に頼もしい家臣たちをお持ちのようだ」
「お互い様だ。そして共に、それでも我が兵こそが上であると信じている。違うか?」
「相違ない。そしてそれを証明せんがためにも、私は貴公を退けて甲斐の地を、民を、武田の家と家臣たちを守る」
「いい気概だ。敵ながら殺すには惜しい。とは言え、降伏を促したところで無駄なのだろうな」
「降伏させたいのなら、私を倒した上で説得に乗り出すことだ」
「これは異なことを。お前を倒せばむしろお前の家臣たちはそれこそ怒りに任せて最後の一兵に至るまで戦いをやめないだろうに」
綱成がチラリと視線を動かした。信繁もそれはわかっているから動かない。
「御館様!」
「信繁様!」
虎昌が、佐五が、武田兵たちが、信繁の左右を固めた。
幾人かの兵と佐五は綱成の気迫に飲まれかけるものの、そこは信繁が「如何にも。彼らこそ、私の誇る武田家臣団ゆえ」と力強く言うことで、ある者は声を上げて名乗り、ある者は強く地を踏みしめて耐えた。
綱成はそれを見て笑った。1人1人の顔を見て、本当に楽しそうに。なまじ整った顔をしているだけに、その笑みは不気味に過ぎる。
「ほほう。般若のような顔をしよる。若いながらくぐった死線はすでに一級といったところかのう。御館様、駄目元でお願い申すが、この若いの、わしに任せてはもらえぬものかのう?」
「ふふ。虎昌殿、残念ながら譲れぬ。代わりと言ってはなんだが、虎昌殿の相手はきっちりといるようだぞ?」
綱成の元にも北条の将兵が集まり、彼のそばを固め始める。「八幡の加護は我らにあり!」「綱成様の名に泥を塗る真似は許されぬぞ!」と雄叫びを上げて武田兵の勢いをここで押し止めんとばかりに退かぬ姿勢を見せる。
そしてその中から1人の将が綱成の横に馬を寄せた。随分とこけた顔をしてひょろりと長い体躯をしている。手足の長さは生まれついてのものか、その細い体躯と相まって一層長く異様にさえ見えた。
「代わりとはまた虚仮にされたもんだぎゃあ。見かけによらず口の悪い男だべや」
「多目殿、油断するな」
多目――多目元忠か。
信繁は生前の記憶を掘り起こし、この男が地黄八幡に並ぶ北条の精鋭、黒を率いる多目元忠であると気づいた。
「わしの相手は妖怪か? う〜む、わしも多くの者と戦こうてきたが、よもや人外を相手にする時がこようとはのう」
「くっくっ……この主君あってこの家臣ありってさあ。人外、大いに結構ぜよ。如何に『甲山の猛虎』であろうとも、人外の化物は手に負えぬということが証明されるだけだあ」
「化物風情が言いおるわ。この飯富虎昌、化物だろうが怯みはせぬ! ここは1つ、化物退治と洒落こもうぞ!」
「躾の悪い獣だっちゃ。この多目元忠が食ろうてやるぜよ! 不細工な虎なぞ、食う気にはなれねえけんどもな!」
「この精悍な男を捕まえて不細工とは、見る目がない奴じゃ! ふん、まあ化物にわしの男気の何たるかなぞ、理解できようはずもないがの」
「自画自賛もたいがいにしなんせ、この脳なしめ!」
口汚い応酬が始まるが、武田兵も北条兵もそこに茶々を入れる者はいなかった。むしろ互いの将の悪乗りに乗って囃し立て、自分こそが討ち取る、いや我こそが、と大いに戦意を高めるばかりだ。しかし決して虎昌と元忠だけが原因ではない。彼らの中央で、互いの総大将もまた互いを強く意識して睨み合っている。
彼らの周囲ではまだ多くの将兵たちが戦いを繰り広げている。その中で張り詰めた空気を醸し出す一団。そこだけが台風の目のように静まっているが、応酬される殺気はどこよりもずば抜けていて――引き延ばされた緊張の糸は、ついに耐えられぬように……切れた。
「我に続け!」
「勝った勝ったあ!」
信繁と綱成の言葉によって。
信繁が、虎昌が、武田兵が。
綱成が、元忠が、北条兵が。
互いの首を取らんと喊声を上げて衝突する。
「しゃっ!」
元忠の太刀が突きだされる。虎昌もまた槍を薙いでこれを打ち落とす。払われた太刀は、しかし円を描いて今度は上から。鞭のようなしなやかさ、そこから放たれるさらに早く鋭い連撃を、虎昌は槍を頭上に掲げて受け止めた。
「野太刀とはのう。ひょろっちい形と見せかけてまた大きな武器を振り回しおる」
「形に騙される愚かな輩が多うてこっちとしては楽でいいとよ。おんしのような馬鹿は特に騙されやすい」
「確かにわしは馬鹿じゃが……馬鹿ゆえに怪力だけはあってのう!」
野太刀本来の重さと遠心力による勢いは虎昌の槍に痛撃を与えたものの、虎昌の腕を震わせるものとまではいかず。槍を一度引いて押し出すことで、元忠の刀を弾き返す。だが元忠はさらに腕を回し、背中にまわした腕を今度は突きだしてきた! 虎昌は槍を立てた、が、槍の柄で突きを止めるのは至難の業で、刃は槍の柄を削り、僅かに軌道を曲げながらも虎昌の顔面へ――
「っ!」
首がおかしくなりそうなくらいの勢いで虎昌は顔を左に動かして躱す。右頬に痛み。かすった。
元忠が不敵な笑みを浮かべる。細長い顔のせいか、その口元に浮かぶ笑みは蛇のように不気味だ。虎昌でさえ生理的に悪寒を抱くほどで。
「調子に乗るでないわ!」
それでも悪寒は悪寒。恐怖とは違う!
槍で弾くもまた回転して別方向から襲いかかる野太刀を、虎昌は槍を握り潰さんほどに強く握りしめて――
「何度弾こうが流そうが、この野太刀からは逃げられへんわ!」
「――たわけ!」
上方からの攻撃を、虎昌は横薙ぎで豪快に弾く。
長く柔らかい体を用いて全身で振るい、弾かれてもまたその勢いすら乗せて繰り出す――それが元忠の戦い方。虎昌の行動はただの繰り返しに見えた。
「ぐぬ……!」
だが眉を顰めたのは元忠だった。
弾かれた槍をまた腕を返し、回し、また繰り出せばいいだけ……なのに、その腕が戻らない!
腕どころか軸とする胴体すらも引っ張られるほどの怪力は利用するどころか元忠自身を吹き飛ばそうとして。
「おんし……!」
「わしの力を利用するにもおぬしは地力が足りておらぬわ!」
そして虎昌は槍を両手で持ち上げ、振りかぶって……もはや斬るのではなく、殴り殺すつもりで振り下ろす!
槍が元忠の馬の脳天をかち割り、そのまま元忠をも巻き込まんとするも、元忠はかろうじて馬から身を投げてやり過ごす。地を転がる元忠を追って虎昌は馬から飛び降りる。槍を頭上で一回し。逆さにして地に向け、突き立てる! 地面に放射状にひびが入る一撃を、元忠は身を逸らしてこれまた躱した。
「気持ち悪いくらいに柔らかい体じゃのう。蛇かミミズを相手にしているようじゃ」
虎昌は突き刺さった槍を抜き、柄尻を叩きつけながら鼻息をついた。その背後に倒れる元忠の馬のせいか、北条兵は自らの姿を重ねてか、武器を向けはするものの前に出ることはできなかった。ギロリと虎昌が視線を向ければ、その方向の北条兵たちが後ろに下がる。
「……やってくれるでねえか、おんし。兵たちの前で地を転がり回る羽目になっちまったべや」
「ふん、よいではないか。蛇もミミズも地を這う生き物じゃ。馬に乗っておる方がおかしいわい」
「その蛇が貴様を丸飲みにしてやるぜよ。さっきは豪快にやられちまったが、馬から降りれば踏ん張りもきくかんのう」
「懲りん奴じゃな。なれば今度は兵たちの頭上を飛んでいくがよいわ」
虎昌が頭上で槍を振り回す。風が四方に生じ、周囲からの横槍を許さぬとでもいうかのように、虎昌と元忠の周囲に砂煙が立ち込めていき。
「さあさあさあ! 続きといこうではないか、ひょろいの!」
「このやろ、いちいち言動がいげすかねごど! 黙らかいてやろやないかい!」
両軍の兵士たちに言わせれば猛獣と化物。2人の争いは砂煙を吹き払い、罵り合い、それはそれは雅とはかけ離れた激しい戦であった。
一方でその豪快さに比べれば、両軍の大将同士の戦はこじんまりとしていた。もちろん隣で行われている戦いに比べればの話で、繰り出される剣劇ははるかにこちらの方が激しかった。
信繁は騎乗したままで綱成と戦う。綱成は騎兵よりも歩兵としての性格が強く、槍の一撃一撃の重さは地に足を付けて踏ん張りがきく分、先ほど以上だった。その上、特徴的な雷光を模したような刃。刀が折れないことに信繁の意識はかなり割かれてしまう。さらに槍は刀と違って長さと手数の多さで勝る。突きに優れた槍だが、槍の両端を使った円運動で繰り出せば刀が斬り返すより早く次の一撃が放てる。次々と間断なく攻撃を加える綱成に対し、信繁は馬上で綱成の槍を払い、流し、受け続ける。
「上手いな、武田信繁! 何だか気分がより昂ぶってきた……だが受けてばかり躱してばかりでは俺を退かせることなどできはしないぞ! もっと抵抗してみろ!」
そう言いながらも近づける気などまるでなさそうな綱成。突き、薙ぎ、引き斬り。じわじわと信繁を後退させる。たまに反撃がきても今は地に足をつけているのだから踏ん張りは利くし、馬を制御する必要もない。反撃はむしろ攻撃の好機であり、綱成は反撃こそを狙っていた。さりとて反撃を行う隙すらも与えず、綱成は押して押して押しまくって。汗が頬を伝い、綱成は舌でそれを舐め取った。
「勝った勝った! 俺が勝った!」
「……なるほど。わかっていてもけだし頭にくるものがあるな」
綱成の口癖は有名だ。そう言って味方を鼓舞し、相手を怯ませ、また挑発する。わかりやすい挑発、されどこうして刃を交わしているとついついこめかみがひくつく。
――ならば見せてやろう。武田の、武田信繁の『人馬一体』を!
信繁は腹目掛けて突き込まれた槍を刀で僅かに軌道を逸らすことで躱す。躱しきれずに鎧に傷をつけられるも、信繁は構わず刀を回して槍を弾き上げ、防御から反撃へと連携して刃を振り下ろす。
「甘い!」
空いた顔面へと向かう刀身は、しかし槍の柄尻にて受けられた。弾き上げられた槍を返すまでもなく、綱成はそのままの勢いで槍を半回転させて逆の柄尻を振り上げてきたのだ。しかもそのまま信繁の刀を回転の勢いで弾き上げ、さらに回転。一回転してきた槍の穂先が信繁を襲う!
下方からの振り上げ。胴体真っ二つの軌道。
が、その一撃はむなしく空を切った。
「ちっ!」
綱成の視界から消えたように動いた信繁の影を追い、綱成は左へと顔を向ける。そこには唸る馬を方向転換させる信繁の姿。馬が咄嗟に反応して信繁を救ったらしい。
「利口な馬に救われたな。だが次はない!」
「それはどうであろうな!」
馬が僅かに体を屈めた――と綱成が認識した瞬間、馬が突撃! その素早さ、綱成にはその姿が巨大化したように見えるほどだった。それほど速く距離を詰められる。
「ならば馬を先に潰すまで!」
先に馬を潰されたのだ。お返しだとばかりに綱成は屈んで回避すると同時に馬の脚を斬断すべく地にスレスレの薙ぎを放つ。
馬が、吠えた。
跳躍。
「なっ!?」
馬が反応して回避。それ自体には綱成も驚かない。利口な馬なのはわかっていたことだ。
そうではなく、跳躍する馬から身を乗り出して刀を振るう信繁に対して。
馬は跳躍しているというのに、信繁は大きく右側に落馬しそうなほど乗り出している。馬が跳躍し、綱成が屈んでいるとなれば、馬上から刀を届かせるにはそうでもせねばならないだろうが、そんな不安定な乗り方をすればたちまち姿勢を崩して落馬するかもしれないのに。
綱成は防御が間に合わず、咄嗟に背を逸らして後ろに倒れ込む。耳のそばを刀が通り過ぎる、ぴゅん、という音。
信繁の馬が着地する背後で、綱成は背中から倒れ込んだ。そのはずみで右肩の肩当てが外れる。
「かすったか……!」
「はあっ!」
「っ!?」
後ろを見る猶予すらない。綱成はただ本能に従って横に身を転がした。
何かの打撃音。一拍置いて何かが地を転がっていく音。
見てみれば……異様に歪んださっきの肩当て。その中心に蹄の跡。悪寒を背中に感じつつ、綱成は信繁へと振り向く。
信繁の馬が両の後ろ足を地に強く叩きつけている。ブルルと唸る馬は綱成を見ていた。馬の表情などそう見分けもつかないものだが、綱成には彼が外したかと悪態をついているようにも見えた。そしてその馬に――信繁の姿はない。
「安心するは早かろう、綱成殿!」
目を剥いた。馬に意識が向いた僅かな時に、信繁は綱成の視界の外からこちらに突進してきていた。隠しようのない驚愕と戸惑いが綱成の目に現れる。
綱成にそんな目をさせた信繁は、もう綱成へと刀を振り下ろしているところで。
「なめるなっ!」
刀と槍が火花を散らす。
起き上がるよりも、綱成は再び地に背中から倒れ込んで刀を受け止めた。そのまま体重を乗せて押し込む信繁に、綱成はそれまでの笑みなど消し、必死で押し返す。
「我が『人馬一体』、かろうじてとは言えここまで防ぎ、躱しきるとはまこと驚嘆の一語に尽きる。現世でこれを防いだは四天王と虎胤くらいだったのだがな……ぬうううう……!」
「ぐ、おお……! 武田の騎馬隊は精強なれど、突撃しか能のないものと思い込んでいたぞ……!」
「大陸に伝わるかの飛将軍や美髯公が愛馬とした赤兎馬ほどではなくとも、我が馬も我が意をよく汲み取る。武田を侮ったが運の尽き。上杉如きと同格に見るのは間違いであったな」
「認めざるをえないな……だが武田信繁。自身が有利な状況にあるからと勝利を確信するのは早計だな!」
信繁が反応して口を噤み、一気に体重を乗せてきた。が、時遅し。
綱成は槍を押しこんで信繁の刀を滑らせ、鍔に柄を押し当てる。鍔が防いだとはいえ、手元への衝撃だ。それが信繁の押し込みを僅かに緩ませた。
これを見逃す綱成ではない。
「戦に絶対などない!」
右手を押し上げ、槍を斜めに。力を入れていた信繁の刀は傾いた槍の上を滑っていく。
「くっ!」
崩れる体勢を防ごうと咄嗟に右足を前に出す信繁だが、そこを綱成は逆側から蹴り抜く。背中にまともに食らい、たまらず信繁はたたらを踏み、その間に綱成は槍を支えに立ち上がった。槍を返し、背中まで引き込んで! 振り返る信繁もまた刀を振りかぶって――!
「武田信繁ええええ!」
「北条綱成ええええ!」
痛烈な激突音。刃同士が渾身の一撃で以ってぶつかり合い――砕けた。
破片が両者の頬を裂き、衝撃が手の骨を軋ませる。それでも振り向いた両者であったが、互いの動きに一瞬止まり、同時に後ろに飛び退いていた。
言葉を交わす余裕はない。思い出したかのように体が痛み、息が大きく乱れる。意識しなかっただけで、両者ともに落馬したり蹴り合ったりと続けたのだ。この体で踏み込んでも決定的な一撃は叩きこめなかったろうし、逆にやられていたかもしれない。信繁は刀こそ折れたが脇差があり、綱成も槍はまだ使えないこともないが刃が折れ、刀も先ほど取り落としたまま。互いに得物も決定的なものにはなりえない。咄嗟のこととはいえ、飛び退いたのは正しい判断だった。
「……はあ、はあ……!」
「ふー……ふー……!」
それでも両者共に、隙あらばという姿勢は崩さなかった。
「御館様!」
彼らの意識は周囲には向けられていない。狙うとすれば絶好というしかない。なのに周囲の兵たちは介入できなかった。この2人の間にどうして割り入れようか、割り入った途端に自分が真っ二つに斬断されそう……兵たちは互いの将の圧に完全に飲み込まれていたが、それでも満頼が割り入ることができたのは一軍の将であるからだろうか。
「……多田か。邪魔立ては許さんぞ」
「御館様、どうか冷静に……! 北条軍の立ち直りが思った以上に早うございます。このままやり合っても数に劣る我が方の不利!」
「たわけ! 目の前に敵将が素っ首掲げておるのだぞ。その首級さえ上げればよい!」
「御館様!」
多田……おそらくは多田満頼だろうと綱成が推測した女武将は、殺気だった信繁の体を掴んで引き戻している。
綱成はそれを見て先の防戦や策を用いた奇襲を企図した将の姿かと一瞬不可解な思いに囚われるも、すぐにこれは好機だと思い直した。むしろこれは丁度良かったのかもしれない。相手が殺気だって冷静さを失っていると、逆にこっちは冷静になれるものだ。
「信繁様!」
「御館様!」
「ええい、放せ! 放さぬか!」
「御館様を守って引き上げよ! 全軍、撤退じゃ! 急げい!」
満頼に代わって虎昌が信繁を抑え込み、強引に馬に乗せる。そのまま虎昌が尻を叩くと、馬は一鳴きして一目散に山の方へと走っていく。
追おうとする北条兵を威嚇しつつ、虎昌と満頼もまた後退。それに従い、『赤備え』であろう真っ赤な甲冑に身を包む虎昌の兵たちも背を見せ、彼らが引き上げたとなれば、と武田兵たちもこぞって引いていく。
「綱成殿!」
「わかっている! 追え! 武田が逃げ出したぞ! 追うんだ! 代えの馬をこれへ!」
北条兵が綱成の代わりの馬を引いて来て、綱成はすぐさま跨り、元忠以下配下の兵を引き連れて追撃に移る。銅鑼を鳴らさせ、勢いを示し、未だ退かずに戦う武田兵を威嚇し、北条兵を鼓舞する。
「多数の利を生かせ! 囲い込んで討ち取れ!」
武田兵の誰かが卑怯と叫ぶが、生憎と綱成は一対一に拘る性格ではない。そもそもにして北条はそういうしがらみに囚われない家柄であり、策を用いることも効果的であると考える。だから代わりに綱成はその武田兵を自らの槍で貫いた。そんなに一対一に拘りたいのなら自分が相手になってやるから来いと言わんばかりに。これを見て1人で踊りかかれる武田兵はおらず、背を向けて一目散に御坂山へと退き始め、綱成は矢を射かけ、騎馬隊に踏み荒らさせ、歩兵にとどめをかけさせる。
銃声が連続で木霊した。
進撃する北条兵が幾人かその餌食になり、砂煙を立てて倒れてこんでいく。
木の上に誰がが居る。細い体躯のその兵が持っているのは弓。どうやらその下に鉄砲隊がいるらしい。撤退支援に乗り出してきたというところだろうと踏み、恐れるに足らずと綱成は突撃を強行した。今は押す時。そう数のない鉄砲、さらに弾込めには時間がかかる。射程も実のところは弓とそう大差はないし、むしろ弓にさえ劣るという話もある。
「ちっ!」
刀を掲げて兵を鼓舞する綱成を、突然の矢が襲う。左右を見て兵に広く声を伝えようとしていたため、前を向いた途端に視界に入った矢を払うのはほとんど反射で全力だった。正確にこちらの額を狙った一矢。さすがの綱成も冷や汗を隠せず、それを放った相手と睨みつける。木の上の、さっきの兵。よくよく見れば……首のあたりで結わえた尻尾のような髪を背中に流す、年若い女兵士ではないか。
「――鉄砲隊! あの兵を退かせろ! 構え!」
大した腕前だと思った。だが綱成が驚いたのはそこではない。よく見続けていれば、彼女は追撃を指揮する各隊の頭となる者を狙って射かけているのだ。戦場をよく見ている。馬鹿は高い所に登りたがると言うが、彼女の目にそれは該当しないらしい。
また1人、額に矢を受けて落命する。
「狙えぇ!」
綱成の命を受け、火縄銃を構える足軽たちが地に膝を付けて狙い始める。
「放てええええ!」
綱成の咆哮をかき消す射撃音が轟き、鼻を突く火薬の匂いが一帯に充満する。弾丸は女兵士の立つ枝を砕き、そばの葉を散り散りにし、大木に穴をあけていく。彼女は直前に気付いたか、木に体を隠した。
「今だ! 突っ込めぇ!」
綱成は先頭を切って進む。鉄砲の銃弾に馬が悲鳴を上げて倒れ込むも、飛び降りて今度は自らの足で。矢を打ち落とし、槍兵を薙ぎ倒し、時に蹴り敷いて。勝った勝ったと叫んで。
その勢いに武田兵が怖気づく。鉄砲を持つ兵が我先にと退き始め、弓兵たちもそれに続き、そうなれば後方からの援護を失った武田兵は北条兵のいい獲物だ。だが綱成は彼らなど眼中にない。狙いはただ1人。自分を地に倒してくれた武田信繁ただ1人!
「待て、武田信繁! 武田の総大将が敵に後ろを見せるのか!」
背を見せて退く赤い甲冑を、綱成は見失うものかとひたすらに追い続ける。
追われる信繁は最初こそ慌ててなどいなかった。さっきの血気盛んな言動もこれまた策。正直なところ、綱成との戦いに策など忘れて酔いしれそうであったが、さすがに総大将として戦の、それもこの場に留まらない全体に影響を及ぼすほどの戦の趨勢を忘れるほど愚かではない。
「多田、どうなっている!? なぜ左翼の兵がまだ戻らぬのだ!?」
だが信繁が忘れていなくても、他の者が戦の熱にやられてしまっていた。
「浅利は!? 跡部は何をしている!?」
「それが、思うように撤退が進まず、両将とも未だここには……」
「多田、情報を司るおぬしが曖昧な答えを返すとはらしくもない。はっきり申すがよい」
「…………」
虎昌の言に満頼は眉を顰めたが、信繁の無言の問いかけにややあって答えを返す。
「……突出しすぎたか、退くことをよしとせぬおつもりかもしれません」
「愚か者!」
決して満頼に怒鳴ったわけではないが、今は彼女を気遣うだけの余裕は信繁にもなかった。
視線を向ける。戦場の左側、武田の旗、そして浅利と跡部両将の旗が、北条の旗に囲まれ始めている光景。
援軍を出してやりたいが、数で劣る武田にそれが出来る余裕などあるわけがなく、そんなことをすればかえって兵を損なうだけだ。先ほどまでの山の中腹での戦いとは違う。ここは麓で、地の利を生かした戦いはもうできない。
「信繁様、敵が……北条が迫ってきています!」
「くっ……!」
佐五が一歩退いて信繁を見上げる。彼らの目に、迫る北条の旗印が映る。その先頭を突き進んでくる黄色。その目は真っ直ぐに信繁を捉えている。
「信繁様……ご決断を」
「若――いや、御館様。わしは御館様の決断に従うまで。何ならわしがあの2人を連れ戻して参っても――」
「無駄死になど許さぬ……!」
「……失礼仕った」
如何に虎昌とは言えども、1人で向かうなど無謀以外の何者でもない。これ以上の犠牲を増やしていったい何になるというのか。
これは策。最初から決まっていた策だ。従わなかったのは浅利と跡部。彼らを見捨てたところで信繁の責任とは言い難く、武田の勝利のためには、勝手な考えから当初の命令に従わずに多くの兵をも巻き込んだ2将は切り捨てるが適当。生きていたところで、どのみち当主の命に従わずに多大な被害を齎し、戦の趨勢を混乱させた罪は重く、最悪切腹すら覚悟せねばならないだろう。
だが。
しかし、である。
浅利も跡部も、後年必ず武田家において必要となる将。例え前世とはすでに歴史が変わり始めているとは言え、1つの歴史としての前世を鑑みるに、現世で浅利と跡部が武田家に必要ではないということにはならない。そうなる可能性もあるが、そうだとは誰が言い切れようか。
(ここぞというときに展開を見誤るとは。先の奇襲の失敗と言い、此度の浅利と跡部と言い、私も腑抜けに腑抜けている……特に此度の浅利と跡部の突出を想定できなんだとは、何と度し難いことか……!)
浅利と跡部の失態は、そのまま武田が持つ気性の欠点を具現化したものに他ならない。
荒々しく猛々しい武田の気性は勇猛果敢であると同時に、軍の規律面で問題を孕んでおり、戦場においても単身突出し、策よりも真正面からの力押しに拘る欠点を持っている。
信繁の策はよく出来ていた。それは武田の宿将たる甘利虎泰や虎昌を始めとした四名臣が認めるものであり、勘助も異論を申し出なかったのだから、そこは多少なりとも自惚れてもいいかもしれない。が、問題は武田軍の策への対応力という点である。武田は今まで武田信虎の指揮の下、戦術戦略よりも力を何より優先してきた。今回の武田の戦い方は従来の武田とはまるで異なり、対極的と評してもいいものであるが、武田軍がその策に対応しきれるものではなかったのだ。
全軍が個々の戦術に沿った行動をするに足るだけの練度がなく、1つの戦略に沿って時には攻め、時には守り、時には猛り、時には黙る……時には退くという行動を為すに足る意識がない。
『武田信玄』もそれを為すには長い時間をかけた。『武田信玄』自身が手痛い敗北を経験し、幾度の試みを失敗して苦汁を舐めながら、甲州法度次第を始めとした法を制定して武田軍に限らず武田領内そのものの規律向上を図り、日々の訓練と幾度の実戦を通して力による勝利と策による勝利を両立できる練度を上げて策への下地を醸成し、そうして家臣団の意識を徐々に変えていき……。
そうしてようやく、名将『武田信玄』が生まれ、これを支えるに足る『武田家臣団』が完成され、これを擁する精強なる『武田軍』が日ノ本にその名を知らしめるに至ったのだ。
甲州武田騎馬軍団という言葉は確かに信繁自身よく使った言葉だが、騎馬軍団など武田が持つ力の1つであり、象徴に過ぎない。ましてや鉄砲という兵器の伝来は騎馬の持つ突進力を脅かすに至り、時代は騎馬軍団を擁するだけで足るような簡単な世ではなかったのだから。
「……再び生を得て20年近くもまともに指揮を取らず、実戦からも遠のいた。信玄こそが相応しいと知らしめるために表に出ずに日陰に徹したことが仇となったか」
「御館様?」
「…………」
武田の気性についてはよくよく知っていたはずだと言うのに。目の前で兄信玄がどれだけ苦心し、心を砕いていたかを見ていたはずだと言うのに。
忘れていた、では済まされない。先の信虎に計画を見抜かれていたこともそうだ。それは信繁自身の中にあった甘さが原因であるが、これはまた甘さとは別のところ。
忘却と衰え。
前世での質の高い主君や家臣団、醸成された空気の中に身を置いて常に副将として在りし頃よりすでに20年近く。現世に生を受けてからも思考を働かせ、鍛錬を怠らなかったが、実戦から遠のき、政務にしても一線で活躍していたわけではない者は、どうしても勘が鈍ってしまう。訓練と実戦は違うものであり、政治にしても同じこと。ましてやあまり表に出ずに信玄を立てようとしてきた信繁はとかく自身を抑えがちにあったのだから、村上義清や上杉政虎、北条氏康や今川義元など、そうそうたる面々と時に策略を用い、時に交渉し、時に刃を交え続けてきたことで鍛え維持されてきたその勘に衰えや鈍りが現れるのは必然というものであろう。
それに気が回らなかったこと自体が衰えや鈍りの何よりの証左であり、その結果がこの有様というわけだ。
「御館様、北条綱成を誘い出すことには成功しておりますが、両将が遅れている今、両将を待って罠を発動させても効果のほどは期待できません」
「身捨てよと、そう申すか、多田?」
「このままでは全滅にてございます。どうしてもと申されるのであれば、私めが残りますゆえ、御館様はこの場よりお引きください」
「できると思うてか?」
「……御館様。お気持ちはありがたく存じます。なれどこれは全軍の情報を司る私の失態。浅利・跡部両将との連携に齟齬を生じさせた罪は重うございます。我が身の汚点は我が身をかけて晴らす所存」
「ここで浅利に跡部、そして多田――お前まで失ってしまえば、それこそ武田の力は大きく減衰する」
信繁は馬を止め、振り向かせた。諦めたかと追ってくる綱成の顔に不敵な笑みが浮かんだのがありありと見てとれた。その綱成をさらに追う北条軍。浅利・跡部が指揮する兵がいない今、綱成本隊の数はそれだけですでに信繁たちの数を上回る。綱成本隊とその他の部隊を隔絶させるこの罠も、前提がすでに崩れてしまっては意味を為さない。
「虎昌殿」
「……御意」
振り向くこともなくかけた声に、虎昌は静かに答えた。そして周囲の兵に下がるように指示し、槍を持つ手を高く掲げて。
「浅利! 跡部!」
この戦場でその叫びが聞こえているかどうかなどわからない。それでも信繁は叫んだ。
視界の両端で、武田兵たちが動いている。その手には、燃える松明。彼らは着陣した際に罠を用意するために切り倒した木の切り株に近づき、腰を落とし、そして火を当てる。
途端、切り株は大きな炎に包まれる。
さらに、炎はまるで地を這う蛇の如く急速に地を走り、逆の方からも同じように向かってくる炎とぶつかった。
「なにっ!?」
立ち上る炎は瞬く間に周囲の木に燃え移り、さらに木は最初から倒れやすいように根元を斧で削られていたため、兵士たちが数人がかりで蹴ることで容易に倒れ始める。火が付いた木は倒れて火の粉をまき散らし、それがさらに草を燃やし、土を焦がし、さらにさらに広がり、高く高く燃え盛る。
さしもの綱成もこれには止まらざるを得ない。さらに背後から追ってきた北条軍もまた然り。
「武田信繁! 貴様、味方を見捨てるばかりか、この一帯を焦土と化す気か!」
「…………」
綱成が初めて信繁に対して嫌悪と侮蔑を含んだ怒りの形相で吠えた。だが信繁は揺らがず、彼に対してはただ無言で視線を一度向けるのみ。すぐにその目は取り残された浅利や跡部らの旗へと向けられる。
「武田家当主として命じる!――『死ぬことは許さぬ』!」
武士にとって死に場所を得られることは本望であり、信繁も前世でまさに死に場所を得て死んだ。それを奪うかの如き命令は彼らにとっての侮辱かもしれない。
だがそれでも、信繁は命じた。
なぜならここは彼らの死に場所ではないからだ。武士ならば、死ぬべき場所でない所で死ぬことは恥。恥を晒すことは武士として許されない。それを思い出させるために、信繁は酷と知ってそれでも命じる。
「生きて戻り、此度の企図を完遂するがお前たち武田家臣団の責務であろう! それを果たさぬままに死ぬことが本望だと言うのであれば、それこそ勘違いも甚だしき不忠と知るがよい!」
「おぬしら! これは若の、御館様のご命令なるぞ! ぬしらの命をかけて叶えてみせい!」
それこそが武田家臣団の在るべき姿であると、虎昌も続いた。炎を挟み、戦場の熱に揺れ、戦意の満ちる喊声で満たされる御坂山の地に、2人の声が響き渡る。
「浅利! 跡部!」
その間に満頼が手を振り、兵たちを反転させて御坂山を登らせ、撤退を進める。信繁と虎昌は動かず、佐五と『赤備え』だけはその場に残り、最後まで2人を待って。
「躑躅ヶ崎館にて待つ!」
御坂の山の麓に、信繁の叫びが響く。それもすぐに戦の熱と喊声の間に消え失せてしまうけれど。
信繁は一度だけ綱成と視線を交わし……
「行くぞ!」
馬を返し、御坂山を登っていく。
甲州擾乱・御坂山合戦。
武田信繁率いる武田軍本隊500と北条綱成率いる北条軍別働隊3000の三刻半に及ぶ合戦は、武田信繁が敗走するという形で北条軍に軍配が上がる。
武田軍はこの戦で浅利・跡部の両将が北条軍に捕縛され、逃げ延びた信繁勢も僅かに200足らず。しかしながら、北条軍の被害はその3倍から4倍とも言われ、これが後に甲州擾乱での北条軍の優勢ぶりに陰りを齎したとされる。
信繁の撤退については、味方を見捨てて逃げたとも、山火事を起こしかねない事態を招いてでも自らが助かることを優先したとも噂されるが、後世、これは北条軍と風魔衆による民心離反を促すための情報工作であったことが、綱成が岩殿城を包囲中の義姉氏康へと送ったとされる書に記されている。六倍の兵力とこれを率いる若くしてすでに猛将である綱成の意外な苦戦は、彼の若いがゆえの油断や驕りがあったという説が強いが、これを以って武田信繁という人物評を見直すべきとする意見もある。
その理由は、先の書の最後に記された内容にある。当時、母に対する尊敬の念が強くて敵を侮りがち――より精確には男に対してだが――であった氏康に対し、綱成が強く戒め、忠告したものだ。
『よくよくわからぬ男にて候。勇敢なりや臆病なりや、清廉なりや狡猾なりや、聡明なりや愚鈍なりや、総じて名将なりや愚将なりや。此度の我と我が隊の悪戦、省みては詰まる所、彼の者の本性を見極めるに至れなんだことにありと解する。まことわからぬ男にて、ゆえに油断ならぬ者也。義姉上に置かれましては、重々油断召されませぬよう、この綱成、その一言を強く申し上げたく一筆認めた次第にて候。武田信繁と彼の者が率いる武田軍、我らが知る武田とはまるで別物と心に留め置かれますよう。彼の者の本性、未だ見えぬ我なれど、刃を合わせ、言の葉を交わし、見えてきたものもあり申す。重ねて申し上げる――――武田典厩信繁。油断ならぬ、強敵也』
――続く――
【後書き】
あれ? 歴史モノのはずがバトルものになってんじゃ?
という疑問が無きにしも非ずな私、武田菱でございます。ここまで読んで頂いた皆様、ありがとうございます。
今回は前回の後半で信玄と信方が話していた、信繁が敗退したという経緯を描きました。
元々私がバトルものをメインに二次創作を書いてきたためか、久しく書いたバトルに何だか燃えてしまいました。戦極姫にはそういう無双キャラっぽいのもいるにはいるから悪くはないような、しかし颯馬という人物を考えるとその猛将っぷりは軍師という枠から外れすぎでは、と考えないでもないんですけどね。
あまりうまくいきすぎていても面白くないので、信繁に敗北してもらいました。後々のことを考えると、信繁の策があまりにうまくいきすぎてくれていると困るというのもありますし、今のうちから武田軍が最強みたいな在り方すると、じゃあすでに完成された武田軍は今後成長なんかないということになりますしね。物語は成長するキャラや勢力があるから面白いのであり、歴史モノのゲームというものは成長させるのが醍醐味の1つですしね。とまあ、その点で一致しますねと、言ってから気付く私ですが。
実戦と訓練は違うと本文にも書きましたが、決して訓練が無駄と言っているわけではありません。むしろ普段の訓練が実戦に表れてきますからね。そして武田軍はこれまでの方針が方針だったので、突然策を用いて狙い通りに動くということに慣れていない。意思統一や情報共有ができていない。そういうふうに将も兵も考えて動けない。つまり練度と意識の欠如。これが今後の武田軍の課題ってことになりますね。
一方で綱成も最終的には信繁の策にはまってしまっていたという状態です。あまりにわかりやすいと言えば分りやすい策にかかった綱成ですが、戦の熱にやられた人間ってこんなものだと思いますしね。熱中すると冷静さを失くすのは誰でも同じです。むしろそれがなく、冷静に策を遂行している信繁の方がおかしいと言えますけど。そのあたりは、やはり前世の記憶と経験を継いでいる転生モノの主人公ゆえの特徴でしょうか。
最後に浅利、跡部を見捨てた形になったこと。正直、殺されていても仕方ないんですが、とある考えから綱成は彼らを捕縛するに留めています。これが後にどういう結果に繋がるか、どうしてそうしたのか、それはまた今後で。
以下はコメントへの返答です。感想ありがとうございます!
>トーヤ様
口笛のところはまあ、シリアスばかりじゃ疲れるからなあ、と思って挿入したギャグです。また和らげるシーンを中心とした話を挿入したいものです。
誤字報告については本当にありがとうございます。推敲はしていますが、まだまだ見落としも多いのは欠点ですね。また誤字や表現矛盾などがあれば、どうぞお願いいたします。
>通りすがりのジーザスルージュ様
ホンットに遅くなりましたが、おめでとうございます。(笑
虎泰は旧四名臣の中でも最も好きな武将です。史実でも本当にこれからってときに信方と共に戦死したのが悔やまれます。拙作ではしっかり活躍してもらいますとも!
信玄と信廉が感じたものは、前回の後書きでも書いていますが、前世の男の信玄や信廉と同じ魂を持つ者として、という意味を持たせてあります。前世の記憶はなくても、同じ魂を持つ者として、信繁の死の気配というものに敏感になっている、というところでしょうか。深いところはいずれ。(笑
それでは失礼いたします。
説明 | ||
戦極甲州物語の20話目です。 2013/02/18 ご指摘により表現の不備を修正しました。ご指摘ありがとうございます! 修正@「わしの力を利用するにもおぬしでは役不足じゃ!」を「わしの力を利用するにもおぬしは地力が足りておらぬわ!」に修正しました。確かに「役不足」は間違いでした。「役者不足」も造語である可能性が高く、辞書などには載っていないことも多いそうです。なので「力不足」が一番いいようです。敢えて「地力」としたのは、一文の中に「ちから」が2回も続けて出てくるのが音として気に入らなかったからです。 修正A 「かの髭将軍が愛馬とした赤兎馬ほどではなくとも」を「かの飛将軍や美髯公が愛馬とした赤兎馬ほどではなくとも」に修正しました。髭将軍と言うのは関羽を示す上ではほとんど使われていないようですね。ご指摘の通り、美髯公と呼ぶのが正しいようです。赤兎馬が元は呂布の愛馬だったのは知っていましたが、拙作の信繁の性格からして、裏切りを繰り返した(書物によりますが)呂布より信義に厚いことで知られる関羽の方が信繁は好むだろうという考えから関羽の愛馬と表現していました。ただ呂布の愛馬というイメージが強いという方もおられるようなので、2人の名前を入れることにしました。 |
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コメント | ||
熱いバトルの歴史物、そんなのがあってもいいと思います。しかしザックリな計算でも500から300の損害に対して、3000から最大で1200の損害。事実は兎も角傍から見たら敗走ではなく痛み分けな結果ですよね…武田は数の差を地の利で、北条は地の不利を数で押したとはいえ4割損耗とか試合に負けて勝負を分けた、とでも言えばいいのでしょうか。個人的に、ですけど(通りすがりのジーザスルージュ) 自分は髭将軍と言えば関雲長ですけどね…美髭公(びぜんこう)とか呼ばれてましたよ?(トーヤ) あと「大陸に伝わるかの髭将軍が愛馬とした赤兎馬ほどではなくとも、」では、飛将軍(呂布)の打ち間違いなのか、美髯公(関羽)でいいのか分かりにくかったですね。赤兎馬と言えば呂布のイメージが強いですから。(シュウ) 「わしの力を利用するにもおぬしでは役不足じゃ!」ですが、本人の力量が足りないのであれば「役」不足ではなく「役者」不足ではないですか?(シュウ) お待ちしておりました。今回も熱い戦いでしたね…当時の戦いでは相手より数を揃える事が大前提ですので、数の差は如何ともし難く策も不発となれば信繁も厳しいですね。次回も楽しみにしております。(トーヤ) |
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