Spring-Breath-Memory〜南風の街〜 〜II〜 |
渡り廊下で私は貴方に相談を受けました。
『好きな人がいる、だけど自分がその人と付き合うと色々問題があるのだけど、それでもこの想いは止められない』と。
私は言いました。
『そもそも、何で付き合える前提で話してんの? あんたとあの人が付き合えるわけないじゃない』
酷かったと思います。けれど、けれど……
親友を裏切ってでも、私はあの人と一緒になりたかったんです。
「おっかえり〜ん」
「……あ、ただいま」
学生証を通さないと入れないセキュリティのしっかりした門をくぐり抜け、何十段もの階段をかつかつかつかつと昇り(エレベーターは故障中だ、こればっかりはしょうがない)、銀色に輝くドアノブに手をかけ明度MAXの純白の扉を開くとゆるい挨拶が帰って来た。実家と同じ市にある高校とは言え全寮制が義務づけられているので、弥生はこうして同級生と相部屋を使用している。
ちなみに貴重品は各人に鍵付きの棚などが与えられているのでさほど問題はない。家具などはお金を出し合い共用で使うことも出来るので便利だ。この寮を利用するのは基本的にいいとこの子女だし、自分もその例外にはもれないのだけれど、弥生は必要以上にお金を使いたくなかった。
人は金持ちであることを自覚した瞬間貧民以下に落ち込む事を彼女は知っている。驕りはとても賤しいのだと幼い頃より教えられてきた。
「ま〜たサボってたんだって? 自習とはいえボイコットしちゃだめだよ、そう言うの厳しいんだからうち」
「マコ……別に自習だからサボったわけじゃないよ。むしろ授業でも私は出て行ったんだから」
「自慢にならないよ、それ。」
彼女は天地 麻子(アマチ マコ)、弥生と同じ吹奏楽部に所属し、楽器はトランペットを担当している。どんな逆境においても自ら道を切り開く、そんな子だ。軽いけど根は真面目、堅いのに妙な所で規律を守れない自分と正反対な人間だと弥生は重々自覚している。まあこんな二人だけれど、何やかんやでウマの合う素敵な友人同士だ。
「今日ね、物凄く失礼な人に会ってさ」
「失礼な人?」
「うん……とりあえず細かい所は端折るけど、濡らされてブラとパンツを見られた」
「それはその端折った部分が九分九厘弥生に非があるような気がするよ……」
取り込んだ洗濯物を淡々と畳みこむ弥生の背中を呆れ顔で流し見る麻子だった。この手の話はもう頻繁に、頻繁すぎるほど耳にするので麻子はもう何と言うか軽く同調してストレスを受け流すようにしている。それにしても……
「……ええと、知らない人?」
「何か、うちのクラスの担任なんだってさ。新任の匂いがした。あらかた昨日の始業式に遅刻したのかもしれない」
「それは違った時に失礼すぎやしないかな……ん〜、でもその先生と毎日顔合わせるんでしょ? 大変じゃない?」
「そうなんだよな〜……」
なんだ、楽しそうじゃん……親友の綻ぶ顔を、麻子はにやけながら頬杖をついて見つめるのだった。
「……と、自己紹介はこれくらいにしてだ」
次の日、俺は担当するクラスの生徒の前で挨拶をし、名前を黒板にテンプレ宜しく書いた。改めて初見さんは読めないよな〜って漢字で、正直言ってそれは分かってるからこのざわつきも多少は許容してやる。ちなみに俺の名前を最初から読めた人はいません、ちゃんと『こう言う大人になって欲しい』と言う願いが込められているだけタチが悪い。例えるならそうさな、『ghoti』をフィッシュと読ませるような、いや何でもない。
俺は手早く黒板に書いた名前をささっと消し、ホームルームをこなしていく。丁度一限は物理生物、物理は俺の担当だったので、生物選択者を生物室に移動させ物理選択者を指定の順番に並び直させた。
「今日は最初の授業と言うことで、去年一年間習ってきた事の復習用のテストをします」
えー、なんだよー、ありえねー……と方々からヤジが飛んでくる。そんなことくらい予想していたさ。ただこれを一喝して強引にまとめたいわけではない。それは生徒達の性格をある程度でも理解していない今やるべきではない。
どうでもいいけど、意外と男女比が変わらないんだな〜と感心する。大学時代は理学部の物理学科なんて男女比10:1くらいでも女性陣が多いと言わせるような場所なのだけれど。物理で飯を食って来た自分としては物理に興味を持ってくれる女子高生が多いと言うのは嬉しい。
「問題自体は全て基本的な内容です。解けた人から持ってきて下さい、時間内なら何度持ってきても良いです。分からないところは聞きに来て下さい」
「先生」
生徒から手が挙がる。弥生だった。すっとした、身体に一本垂線でも引かれているのではないかと思うくらいほれぼれとする姿勢に少し見惚れるも、白々しく名簿を見る振りをして名前を呼んだ。明らかに睨まれたが。
「……南」
「それってテストじゃないんじゃないですか? 一発で満点の人も、10回だしてやっと満点になる人も同じなのは不公平じゃないですか」
「俺は試験を全て成績に結び付けることはしないつもりだ。今回は抜き打ちだ、基本的に試験は準備して受ける物だから、一度も授業をしていない俺が俺自身の意見で作った試験を解かせるのはフェアじゃない。分かるな?」
「……無意味な、ただのコミュニケーションですか?」
「違うな」
俺は生徒に背を向け黒板に分かりやすく図を書く。大半の生徒がメモってくれるのが嬉しい。それだけに、生半可な板書は出来ない。
「この授業の成績は宿題の提出状況と学期ごとの試験の点数でつける。そして頑張る生徒は間違いなくいい成績が残るのは保証する」
ただし宿題は理解が見られるまで再提出させること、他人の回答を真似た者には同じ種類の問題を追加で出すと言うことを明示し、分からない場合はいつでも質問に来いと指示した。
「今回の全員の出来を見て、授業の進行のやり方、宿題の難易度や量を考える。じゃあ始めてくれ」
俺が大学で塾のバイトをしていた頃からやっているやり方だ。まず問題を解かせる。そして間違っている所を理解してもらい、本当に理解したのなら解けるはずの問題を解かせる。
一度理解できた内容なら忘れてもすぐに思い出せる。忘れて思い出し手を繰り返しているうちにかならずそれは忘れないようになる。
俺は外の桜が風に舞う様子を適当に目でおいながら生徒を待った。
「先生」
「ん、どうしt」
「出来ました」
弥生だった。試験開始から20分経っていない。息をするように問題を解かなければ辿りつけないタイムだ。別にタイムアタックをするつもりではなかったのだけど。
何となく嫌な予感がして赤ペンのキャップを外す。ボールペンでは無く水性のマジックペンだった。そして嫌な予感はえてして的中する。キュッと一閃、キュッ、キュッと○二つ。そして最後にキュッと切り上げる。
「……満点だ」
「それで……そうなった場合私はどうしたらいいんでしょうか?」
「……追加で持ってきてる、これを解いてくれ」
成程、先輩の教師陣がのきなみ太刀打ちできなそうな対応をしていた理由が分かった気がした。準備していなかったわけではないのでよかったが、これで時間稼ぎできるだろうか。
手渡したプリント2枚を冷淡に受け取ると彼女は席に戻る。机に着いた途端に目の色が変わる弥生に少々辟易しながらも、果敢に問題を解き続ける教え子たちを見渡し心の中で応援するのだった。
結局一回目の授業は終了した。みんな良くできた子だ。時間内に解き終わらなかった生徒はほんの数名で、その生徒達ももう少し時間があれば終わるだろう。
みんなそこそこしっかり出来る子達だった……一人を除いて。
(南、弥生か……)
南 弥生……彼女は、彼女だけは別格というか、理の範疇の外に居る気がした。それでいて、いかにも普通なのだ、あの子は。普通でない事を彼女は普通にやってのける。それが彼女の普通であるように。
仲良くなる、ならないではない。そう言う次元の話では無く。彼女と言う人間は、俺なんかでは永遠に理解できないような気がした。
「先生は吹奏楽の経験があるそうじゃないですか」
「あ、はい……」
放課後、次の授業で使う教材を職員室でまとめていると不意に声をかけられた。振り返ると、大柄で快活な中年の教師が立っていた。知らない顔では無い、正直な所一度会っている。
「それでいて趣味は作曲、いやはや物理教師で居るのが勿体ないくらいですな」
「はぁ……先生は、音楽の勅使河原先生でしたよね」
「おっと、自己紹介がまだでしたな。この学園で音楽を教えている、吹奏楽部顧問の勅使河原大五郎(てしがわらだいごろう)です」
どこかの塾で塾長をしているかのような圧倒的画数のその先生は(字画数えるのめんどそうだな)手慣れた所作で名刺を取り出し机に置く。同じ物を実は持っていたりするのだが、この人が忘れているなら良いだろう。何にせよ、敵に回すと面倒そうだ、相手がどんな腹であれ(メタボは最初から分かってる)友好的にしておかなければ。
「聞いてますよ、この学園の吹奏楽部の噂は。ええと、確か全国大会で20年連続金賞だとか」
「おお、我々の事をお目にかけて頂き光栄です。しかし……納得などしてはいない」
20年連続金賞、それは称賛されるべきだ。しかし納得などしていないと言う。
窓を風が殴る。春一番と言う奴か。舞い上がる桜の花びらは百花繚乱の美しさで無く自然の暴挙を形容しているような気がした。
それくらい、心中穏やかでは無かった。自分など容赦なく薙ぎ払われてしまいそうな嵐に自分は対峙していた。
「まだうちの吹奏楽部は全国一位にはなっていない。九州にも近畿にも、関東にもまだまだ強豪校はある。私はその中でこの学園を一位にしたいのですよ」
「……………」
「うちは特待制度も取っている、楽器も定期的に一番良いモデルを揃えている。私のような立派な指導者もいる。ならば……」
〜勝てないのは、生徒の努力不足でしょうに〜
……………………
……言葉が出ない。ああ、一瞬言葉を失った。いや忘れた。自分が今までどのようにして言葉を発していたのか、それを瞬時に忘れさせられた。
こんな事を考えている男が指導者なのか。信頼はどうした、絆はどうした。自分が信じていた吹奏楽はそんなものでは無かったはずなのに。
と同時にしまったと思った。自分の意識が自分の元を離れている間自分はどんな顔をしていただろう。きっと好意的な印象を受けてはいないはずだ。どんなに胸糞悪い相手であっても、彼は上司であり古参なのだ。自分ごときが一生かかっても埋められないような圧倒的な差を持っているのだ。
「……気にいらないと見えますな」
「……申し訳ありません、よく知りもしないのに」
「正直ですな、嫌いでは無いですよ……まあ良いでしょう、今日は合奏です、一つ私どものバンドの音を聞いて行ってくれませんか?」
にべもない。まだがんがんと痛む頭をぶんぶんと振り回すと、俺はその申し出を受けた。このバンドの実力は大体分かっている。指導者が変わっておらず全国区での成績がそこまで変動していない以上、自分が昔指導に行った時とそこまで実力は変わらないだろう。
あの時感じなかった違和感を、自分は感じなければならなかった。音楽の道に足を踏み入れてから今まで、一度として認めなかったやり方がある種の完成系であるかどうかを。
音楽室は屋上に隣接した場所にあった。ドア一つ隔てた先に広大な緑色の床が広がっている。
それにしてもまあ……広すぎだろう。50人以上の吹奏楽部員がベタと壇上に残らず入っている。加えてその二倍から三倍の客員を導入出来そうな鑑賞スペース。普段は椅子を反転して授業に使っているらしいが、それにしたって多すぎだ。学年全員一度に授業出来そうである。
とか思っているとどうやら部長らしい女の子がいち早く俺に気付き、全員気をつけの後勅使河原先生(と俺)に挨拶してくれた。
「お、南じゃな……」
俺は最前列に立ったすまし顔の生徒に目をやる。彼女は一旦俺を見たそぶりを見せたが、すぐにそっぽを向いた。つんとする擬音が此処まで聞こえてくるようだ。
「さて、それじゃあ聴いていてもらえますかね……エルザ、最初から」
はい!、と歯切れのよい返事で生徒達が楽譜をめくる。リヒャルト・ワーグナー作曲の歌劇『ローエングリン』より『エルザの大聖堂への行列』、第二幕のクライマックスで名を隠した騎士ローエングリンがブラバンド公国の公女エルザ・フォン・ブラバンドと二人で聖堂へ入っていく名場面、本編では不気味な終わり方をするのだが、この場合は綺麗な協和音で終わる。
冒頭から弥生のフルートソロ、そして連なる静かな木管の旋律、音量指定はpなのだが、コンダクターの指揮にしっかり音が乗っている。
生徒の努力が足りないなどどの口が言った事か。確かに上手い指揮だ、それは間違いない。だが、指揮者の意向を汲んで演奏できる奏者の存在が指揮者にとってどれほど有難いものか。
それにしても上手い……音の一つ一つが咀嚼できる、噛めば噛むほど味が出る。気付けば片目を瞑っていた。
……と言うわけにもいかないので、再び目を開ける。いつしか曲もクライマックスに入っていた。層が一枚、また一枚と厚く、熱くなっていく。
そして全ての層が共鳴した時。シンバルが高らかに鳴り響くと共に指揮棒が全パートを編み込み、圧倒的な音圧がだだ広いホールを埋め尽くした。
……まずい、指揮棒が下りてもその余韻が耳から消えない。病院行った方がいいのか。確かにこれなら欲が出るのも無理はない。十分に日本の頂点に立つ実力はある。
「……お恥ずかしい物をお見せしましたな。どうでしたか?」
「……誇張無しでお願いします。このバンドは、現時点で今演奏したよりも上手く演奏できる技量があるんですか?」
「成程……それが貴方の答えですか。質問に質問を返すのはどうかと思いますが、まあ良いでしょう」
勅使河原先生は生徒達にてきぱきと気になった点を伝え、新しい楽譜を取りに行くとかでまた下に降りて行った。
何と言うか、むかついていたのは変わらない。ただ、あの人は凄すぎた。指示も的確、指揮も上手い。圧倒的技量に裏付けられた自信があるのだろう。
もっと機械的で冷酷な音がするかと思っていた、音楽を全く楽しんでいないようなサウンドが飛んでくると思っていた、それは容易く裏切られてしまったのだった。
「……と、お疲れ様、南」
「……何で来たんですか」
「いや、勅使河原先生に呼ばれてさ……てか、上手かったぞソロとか。まあ最後少しミスったのは個人的に気にしてるかもしれんけど」
「っ……!!」
殆ど弥生しか見てなかったのだ、彼女が顔を一瞬しかめたのを見逃すわけも無かった。そこだけ高音域のオーケストレーションが乱れたし。あからさまなイージーミスだ、先生もそこは指摘していなかった。
「……別に、たまたまです」
「そりゃ、ミスはたまたまだろ。気にすんな」
「……れのせいで……」
「ん?」
「何でもありませんっ!!!」
怒られてしまった。薄い頬が桃色に染まるのを俺は見逃さなかった。こんな表情もするんだな、ミスして逆切れなんて言うと言葉は悪いが、可愛い所もあるじゃないか。
その夜、寮にて……
「ま〜だ気に病んでんの〜? 大丈夫っしょ、あんくらいでトップ降ろされたりしないって」
「う〜〜〜〜〜〜〜……」
弥生は布団にくるまってみの虫のように身悶えしていた。
(言えないよ……言えないにきまってるじゃない……)
言えるわけがないのだ、彼女には。
『誰のせいで失敗したと思ってるんですか!?』なんて。
『先生に見られて、先生を意識しすぎて、気が散ってしまったから』なんて。
例えそれがこの前の悶着のせいであって、別に好きでも何でもない男の事であっても。
プライドの高い彼女にとって、それは認められるはずのないものだったのだ。
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