空と大地と海の向こう |
願いは叶う。努力は報われる。幼い頃から十五年間、そう教えられて育ってきた。でも全部嘘だった。信じる者は騙されて、頑張る者こそ馬鹿を見るのだ。((陸|リク))は叫び出したいほどの怒りを原動力に、ひたすら自転車のペダルをふみこんだ。
山間を貫く国道は両脇にあふれんばかりの緑をたたえ、前も後ろも地平線まで自動車一台見えない。初夏の空は腹の立つほど青く高く澄み、白い入道雲がその裾を鷹揚にふちどっている。世界はこんなにもまぶしく輝いているのに、彼を取り巻く現実は不条理でいっぱいだった。
「やっと追いついた。」
陸が国道沿いの自販機の前に自転車を止めてルビー色のサイダーを一気飲みしていると、先ほどから遠く後ろに見え隠れしていた黄色いマウンテンバイクにあっと言う間に追いつかれた。サッカー部の紺のユニフォームの少年はマウンテンバイクからヒラリと降りると、古びたベンチで休憩していた陸の真ん前に立ちはだかる。ちょうど太陽の手前に割りこんだから、陸からは少年のふわふわ漂う頭髪のシルエットしか見えない。だがそれで充分だった。少年は催促するように陸の前にずいと細長い腕を差し出す。
「一口ちょうだい。陸、速いよ。ガリベンなのに結構体力あるんだね。」
「ガリベンじゃないし。」
陸はそっぽを向いてペットボトルを乱暴に手渡す。受け取った少年は喉に流しこむ勢いで残りのサイダーをすべて飲み干すと、少し離れたゴミ箱に向かってペットボトルを蹴り上げた。透明の容器が太陽の光をキラキラと反射しながらきれいな弧を描く。金網のゴミ箱がガラガラと乾いた音を立てて揺れた。
「なんでついてくるんだよ。((宙|ソラ))も敵なんだろ、ほっとけよ。」
陸がいらついたように声を上げると、宙はしゅんとしたように肩をすくめた。 二人は同じ高校に通う幼なじみだった。
「敵じゃないよ、オレは陸の味方だよ。」
「母さんたちの味方をするんだから敵だろ!」
「顔色をうかがって嘘をつくようなやつが本当の敵だよ。陸を思って正直でいるオレは味方だ。」
「……フン。いいからほっとけよ。」
ただでさえ小柄で童顔な陸は子供のようにふてくされた顔で吐き捨てると、サドルにまたがって再び勢いよく自転車をこぎ始める。相変わらず車一台通らない田舎道は、夏の大陽の照り返しで遠くのアスファルトがぬらりと光って見えた。
「待ってよ、もー!」
宙も地面に下ろしたばかりのボールバッグを再び斜めがけにし、ペダルを踏んで急いで陸の後を追う。マウンテンバイクの黄色のボディを陸はいつも趣味が悪いと言っていたが、大らかで暢気な宙にはその鮮やかな色が不思議とよく似合っていた。
その日の陸は、毎週土曜日の朝から行われる特別補講に参加していた。テストや模試の前に不定期に開催される、特進科の希望者のみが参加する成績上位者向けの授業だった。
陸は子供の頃から学校の成績がずば抜けており、真面目で素行もよかったので地元の小さな町では幼い頃から天才だの神童だのともてはやされていたが、県立高校の特進科に入学して四ヶ月、ここでも創立以来の天才児だと教師たちをうならせていた。
「陸、帰ろうぜ!」
補講の終わった教室の真ん中で一人、通話の切れた携帯電話を握りしめ怒りにわななく陸を見て、部活を終えて裸足にユニフォームのまま駆け上がってきた宙が首を傾げる。
「なんでぶーたれてるの? またおばちゃんとケンカ?」
「うるせー!」
陸は携帯を通学バッグに投げ入れ、手に持っていた模試の結果をぐしゃぐしゃに丸めて机に突っ伏した。
「騙された。西大医学部でA判定を取ったら、留学はしなくていいって約束したのに。」
高校に入学してまもなく、陸は両親から熱心に語学留学を勧められていた。でも陸はどうしても留学する気になれなかった。英語は好きだったし外国の暮らしに興味もあったが、陸にはここを離れられない理由があったのだ。だから散々両親を説得し、次の模試で好成績を上げたら留学の件は考え直すと約束を取り付けたのに、いともあっさりと反故されてしまった。陸に黙って手続きをしてしまったから、今更取り消しできないという。本人の意向をまるきり無視して。
「えっ、それはひどいね!」
陸と瓜二つの母親が笑顔でしゃあしゃあと言ってのける姿は宙にも容易に想像できた。彼女は明るく快活で愛情深い母親であったが、思いこみが激しくマイペースで、少々思慮に欠けるところがあった。
「なんだよ、留学、留学って。留学しなくても英語くらい満点とれたし。」
「……でも、絶対陸の将来的のためになるとは思うけどな。」
てっきり味方だと思っていた宙が発した予想外の言葉に陸はびっくりしたように顔を上げ、それから酷く傷ついた表情を浮かべた。
「なんだよ。お前も、母さんやおばちゃんたちの味方になったのかよ。」
「父さんに言われたんだ。本当の親友なら、自分のことより陸のためを考えるべきだって。」
「……意味わかんねぇ。オレのためってなんだよ! オレの気持ちを無視するのがオレのためかよ? お前なんか親友じゃねえ!」
「あっ、待って! 話を聞いてよ!」
陸は制止を振り切って教室を飛び出し廊下を駆け抜け、校舎裏の駐輪場に止めた自転車に飛び乗った。家とは逆方向の西門を抜け、県外へと続く国道に向かって自転車を走らせる。
嘘をつく大人たちが嫌いだった。どんなに訴えても聞いてもらえないのが悔しかった。最初は父親、次に母親、そして幼なじみの宙の両親。ついには宙まで取りこまれてしまった。あまりの腹立たしさに涙がにじんで、陸は細いメタルフレームの眼鏡を外して制服のシャツの袖で目元を拭うと、ひたすら家から逆方向に向かって自転車をこいだのだった。
「ついてくるなって。」
まっすぐな県道を二台の自転車がひたすら西へ走る。一台は紺の地味な自転車で、もう一台は派手な黄色のマウンテンバイク。車がほとんど通らないため、二台並んでレースのように前後ろを競い合う。
「一体どこまでいくつもり?」
こめかみを伝う汗をリストバンドでぬぐいながら宙が尋ねる。急に飛び出した陸を慌てて追いかけてきたから、スニーカーこそはき直したが、泥に汚れた紺のユニフォームのままだった。
「決めていない。家じゃないどこか。」
「あまり遠くまでいくと帰れな――」
「あんな家、二度と帰らねえ!」
宙の言葉尻にかぶせるように陸が強く断言する。陸は真面目で責任感が強く、学校では成績優秀、品行方正で級友のみならず教師からも一目置かれていたが、少々内弁慶なところがあり、家族や宙の前では短気で頑固でいまいち子供っぽさが抜けない少年だった。こんなに頭はいいのに、親とケンカしたから自転車で家出をしようとでも言うのだろうか、怒っている陸には悪いが彼の生真面目さゆえの安直さが面白くて、性根が陽気な宙は笑いをかみ殺すのに苦労して陸ににらまれた。
「そうだ陸、この国道をまっすぐにいったら海に出るって、昔父さんが言ってた。今から海を見にゆこうよ!」
「海って、隣の県だぜ?」
「いいじゃん、自転車だし。ほら、いくよ!」
宙がマウンテンバイクをギアチェンジし、ぐんぐんスピードを上げてゆく。向かい風が音を立てて耳元を通りすぎ、シャツの裾が涼しげにバタバタとはためいた。
「あ、ずるいぞ!」
陸もサドルから腰を浮かし、全速力で宙を追いかける。汗ばんだ体を風が洗うようで、嫌な気持ちも青い空のどこか遠くに吹き飛ばせそうだった。
しばらく無我夢中で自転車をこぎ、陸はふと前を走る宙の背中のボールバッグに目を留める。白地に紺のアルファベッドで高校名が印字されているもので、県内の公立高校の中では一番の実力を誇るサッカー部のバッグだった。宙はそのサッカー部に入部して3か月、一年生にして唯一、早くもスタメン入りを果たしたエースだった。
「宙、ボール! 入れていいぜ。」
自分の自転車の前カゴを陸が顎で指す。
「サンキュ!」
宙は器用に手離しで運転しながら斜めがけのバッグから肩を外し、隣に並んだ陸の自転車のカゴに押しこんだ。
「ハハッ、背中が涼しいや!」
シャツの裾を大きく風に煽られ、宙が大口開けて機嫌良く笑う。陸はその紺のユニフォームを少し切ない気持ちで眺めた。本当は、子供の頃からずっと自分も着たかったものだ。高校受験を機に、陸は小学校から続けていたサッカーを中学三年生に進学した春で辞めてしまっていた。勉強に専念した方がいいと両親に説得されたことに加え、陸自身も将来の夢があったから素直にそれに従った。陸は小さな頃から父親のように医師になりたかったのだ。
でも、だからと言って未練をきれいに断ち切れるわけでもない。まだサッカーを好きな気持ちと、続けられなかったことへの後悔からか、朝から晩まで校庭を走り回っている宙を教室から見ていると、教科書も参考書も窓から放り投げて、スパイクをはいてグラウンドに駆け出したい衝動に時々駆られた。
初夏の長い陽も徐々に傾き始める頃、二人はいまだに海に向かって自転車を走らせていた。田舎の小さな街を一つ越え、再び人気のないなだらかな山道に差しかかる。
十七時を回ると陸の携帯電話が五分おきに鳴り始めて止まらなくなった。無視を決めこんでいたがいい加減うるさくなって鞄から取り出し画面を開くと、予想通り母親が着信履歴を埋めつくしている。
「かけ直した方がいいんじゃない? そろそろオレも家にかけたいし。」
「えー! めんどくせー!」
そうは言いつつ履歴の中に一件、年の離れた妹の名前を見つけ、陸も渋々路肩に自転車を止める。母親のことはいまいち好きになれなかったが、母親によく似た顔と性格の妹のことはいつも気にかけていた。
『……あ、もしもし? おにいちゃん? 今日の算数の宿題でね、わからな――』
『花ちゃんちょっとママに貸してちょうだい! ……陸?』
妹の花の呑気な声をかき消すように、携帯を奪った母親の高い声が耳に飛びこんでくる。
『あなたどこにいるの? 補講は午前中まででしょ? 早く帰って、試験のお祝いしましょ? 今日は陸の好きな九日堂のショートケーキを買ってきたのよ。』
母親が出るであろうことは予見していたが、さっきもめたばかりだというのに人の気持ちなど微塵も察しない呑気な態度に陸は早くもいら立ち始める。医者である陸の父親のもとに嫁いできたお嬢さん育ちの美しい母親は、人の気持ちの機微に疎く、ものごとをあまり深く考えない無邪気な人間だった。だから息子が腹を立てていることもさほど深刻にとらえずに、好物で試験結果のお祝いをしようとケーキを買って機嫌良く帰りを待つようなことをする。繊細で神経質な陸とは不仲でこそないが昔からかみ合わないところがあった。
「母さんが約束を守らないなら、オレ、今日は帰らない。」
『陸。留学のことなら、おうちでもう一度お話し合いしましょ? あなたはパパに似てとても頭のいい子なんだから、冷静に考えたらわかるはずよ。』
「オレを説得するだけで、結論を変える気はないんだろ! どこが話し合いだよ、父さんも母さんも嘘つきだ!」
短気な陸が再び爆発して叩きつけるように通話を切り、その大声にびっくりしたように宙が肩をすくめる。
「陸――」
「……さっき先生がさ、春の模試の結果をこっそり先に返してくれたんだ。他のみんなには月曜日に渡すけどって。」
陸は一度あふれた怒りを抑えるように押し殺した声で語る。
「父さんも母さんも、この模試で西大医学部のA判定をとったら、留学しなくていいって言ったんだ。だからワールドカップも見ないで毎晩遅くまで頑張ったのに……もう手続きしちゃったから取り消しできないんだって。なんで素直に信じたんだろう。バカみたいだ。」
陸はすでにぐしゃぐしゃに丸められた試験結果を乱暴にバッグから引っ張り出すと、さらに力任せに小さく丸めて空高く放り投げた。紙の塊はポカリと空中に放り出されて、勢いの割には大して飛びもせずに手前で落ちる。
「お前のおばちゃんだって嘘つきだ。留学なんてしたくないなら無理にすることもないって言っていたのに、いつのまにか母さんの味方になっていやがる! 宙だって!!」
「……。」
宙は砂のついた試験結果をそっと拾い上げ、破かないよう丁寧に開いてしわを伸ばした。そこには、三教科、五教科ともに全国一位の清々しいほど見事な成績が記されていた。
「――陸! 全国一位って、インターハイ優勝ってことじゃん!」
宙が大きな目をさらに見開いて喜ぶのを見て、陸は腹立たしいようや泣きたいような気持ちになる。西大医学部A判定だろうと、日本一だろうと、分からず屋な両親のもとに生まれた自分は無力でちっぽけな子供でしかない。どんなに頑張っても親の気持ち一つ変えられないし、腹を立てて家を飛び出す程度しか訴える手段も持たない。願いは叶わない。努力も報われない。突きつけられたら現実に打ちのめされて、陸は再び唇をかんで黙りこむ。
いまだに食い入るように試験結果を見つめていた宙が、遠慮がちに声を上げる。
「約束を守らないおばさんたちはひどいと思うよ? 陸がどんなに頑張ってるのかも忘れてさ。でも、おばさんたちの気が変わるのも、オレちょっとわかる気がするんだ。こんなに頭がよくて、こんなに勉強が好きなら、もっともっといい環境においてあげたいって思っちゃったんだろうな。」
「勉強ならここでできる!」
「でも外国でしか勉強できないこともあるでしょ。」
「ここにいないとできないこともある!」
陸がキッと宙をにらむ。宙が悲しそうに目を伏せて黙ってしまい、陸も頭を抱えて地面にうずくまった。親に声を荒げたいわけではないし、家出をしたいわけでもなく、ましてや宙に八つ当たりしたいわけなど絶対になかったのだ。願いは叶うと信じて、自分がそのときできることを精一杯努力してきたつもりなのに、 なにもかもがことごとくうまくゆかない。 こんなことならA判定などとらなければよかった――
陸は小学校の六年間、テストは満点しかとったことがなかった。身体は小柄だったが責任感が強くしっかり者だったので、級友から学級委員長に推薦され委員長とあだ名を付けられるようなタイプの生真面目な子供だった。
そんな彼も中学二年生の数学のテストで不覚にもケアレスミスをし、生まれて初めて解答用紙に赤いバツを刻まれた日、陸は自分に腹が立って悔しさのあまり帰り道に怒りながら泣いた。それを見て宙は笑ったが、勉強が嫌いな宙は生まれてこの方一度も満点などとったことがなかった。
勉強に関しては他の誰の追随も許さない陸だったが、サッカーに関してはごく凡才だった。地元の小さな少年サッカーチームでこそ試合に出してもらっていたが、小柄で体力がなかったから中学校のサッカー部に入ってからはほぼベンチ要員に終わった。でも、部活が終わった後も家の裏の空き地で、部屋の窓から漏れる灯かりを頼りに隣に住む宙とボールを蹴り合うのが好きだった。幼い頃から何年もそうしてきたから、試合でこそ大きな選手に力で競り負けることが多かったが、パスやドリブルだけを見ればそこそこの腕前だった。
陸は万年交代要員だったが、一方の宙は小学校でも中学校でも十番を背負ってキャプテンを務めたエースだった。朝から晩まで一年中、寝ても覚めてもサッカーのことしか考えていないような子供だった。だから陸が部活をやめることを決めたとき、宙は激しく反対した。朗らかでめったに機嫌を損ねることのないな宙が、生まれて初めて陸に腹を立てて一週間も口を開かなかったくらいだ。陸は今でもその時の宙の傷ついたような顔を覚えている。サッカーボールを見てたまに胸が切なく痛むのは、サッカーをやめた後悔よりも、宙への罪悪感なのかもしれなかった。
「……宙。ごめん。八つ当たりした。」
うずくまっていた陸は一度メガネを取って眉間のあたりを軽く押さえ、それからゆっくりと立ち上がった。
「海が見たい。一人だとつまらないから、ついてきて。」
唇をかんで押し黙っていた宙も顔を上げ、頷いて少し笑った。
いつまでも立ち止まっているわけにもいかないので、二人はまた自転車を走らせ始めた。まっすぐだった道はくねくねと山道にさしかかり、一車線になったり二車線になったりしながらひたすら前へと続いていく。山を抜け、民家を抜け、田畑を抜け、再び山に戻る。大きな起伏こそないが、ゆるやかな勾配が続くと太腿が張って苦しかった。
夜の九時を過ぎる頃にはさすがにあたりは真っ暗になり、二人は小さな町の公園に自転車を止め、水道の蛇口を限界まで開いて頭から水をひっかぶった。温い水でもべたついた肌には心地よく、宙はユニフォームの上からざぶざぶと豪快に浴び、水しぶきを跳ね上げながら全身びしょ濡れになってはしゃいだ。人通りのないのをいいことに、陸も制服のシャツを脱いで身体と一緒に洗ってしまった。汗をかいた肌にくっつく黒いズボンも気持ちが悪く、こちらもはぎ取るように脱いでしまう。いつもは品声方正で行儀のよい陸だが、たまにはバカをしてみるのも楽しかった。
「あはは、陸のパンツ、オッサンみたいだ!」
若者がはくにしてはやけに渋い色、渋い柄のトランクスを見て、植え込みでずぶ濡れのユニフォームを絞っていた宙が笑い出す。
「オ、オレの趣味じゃねえ! 母さんが適当に買ってきたんだよ!」
「それ何柄? 生物の教科書に載ってなかった?」
「微生物じゃねー!」
陽気で笑い上戸の気がある宙は腹を抱えて爆笑しつつ、バッグからサッカー部のジャージを引っ張り出して陸に投げてよこした。
「でかい……」
足を通して裾を折りながら陸は口を尖らせるが、幼い頃に夢見た県立第一高校のユニフォームをかつて着るのをあきらめたことを思って、くすぐったいような切ないようなほろ苦い気分になる。
「ほら陸! パス!」
宙がサッカーボールを取り出して高く蹴り上げる。一年以上のブランクも感じさせず、陸は器用に胸でトラップしてから力強く蹴り返した。
「なめんな!」
それからしばらく、二人で球を奪いあって遊んだ。小さな公園、暗い街灯。一年前まで毎晩家の裏の空き地でボールを蹴り合った景色によく似ていて、途絶えてしまった昔の日課が、まるでなにごともなく今日まで続いていたような気さえした。
「あと千円しかないわ。」
「オレ三百円。」
洗ったシャツをジャングルジムに引っかけ、二人でてっぺんまで登ってスーパーで買った弁当を頬張った。夜空も雲一つなくよく晴れていて、乾いた風が濡れた体に心地よい。
「ねえ陸。こうしていると、昔を思い出さない?」
今は開発が進んでこぎれいな建て売り住宅の並ぶニュータウンと化してしまったが、陸と宙の住む町は昔は三方を山に囲まれた古く小さな村だった。
小学校に上がってすぐの二人は毎日、手に入れたばかりの自転車に乗って近くの小高い山へと出かけ、日が暮れるまでそこで遊んで過ごしていた。岩肌の斜面を巨人が両手でえぐりとったような小さな洞を二人の秘密基地と名付け、玩具や駄菓子を持ちこんだり、カブトムシやクワガタを捕まえて飼ったりしていた。他人に内緒の遊び場を持つことで、七歳の二人は自分たちも大人になったような甘酸っぱい誇らしさを満喫していた。
あれも夏のはじめだったろうか。その日も二人は家に帰るとまだピカピカのランドセルを脱ぎ捨て、小さな自転車に飛び乗って村外れの山に向かった。のどかな農道で小柄な陸が必死に先頭を守り、のんびり屋の宙がその後ろを悠々とついてゆくのがいつもの昼過ぎの光景だった。幼い陸はその頃から負けず嫌いのしっかり者で、宙は泣き虫で甘えん坊な子供だった。
秘密基地に着くとそれぞれ母親に持たされたおやつを半分ずつ分け合い、集めたカブトムシたちの世話をし、それから水を汲みに山の西側にある河原へ向かった。好奇心旺盛な二人は山道で見つけた木の実や種を基地の周りに植え、花を咲かせようと奮闘していたのだ。
河原までの細い山道を一列になって機嫌よく歩いていると、突然ガサガサと真後ろの茂みを割り裂く気配とともに黒っぽく大きな固まりが飛び出してきた。そのなにか大きな黒い獣と目があって、二人が金切り声を上げる。
「おっ……おおかみだぁぁ!!?」
「ぎゃあああああ!」
実際には狼でなく小さな猪で、悲鳴に驚いてすぐに逃げていったのだが、パニックを起こした二人は無我夢中で山の奥に向かって走った。逃げて、逃げて、逃げて、迷ったあげく、宙が転んで足首をくじいた。
「足がじんじんするよぉ。骨が折れた、オレはもうだめだ。」
雑木林の木の根につまずき、宙が腫れた足首を押さえてしゃくりあげる。いつの間に山道を外れてしまったのか、そこは雑多な植物が生い茂る薄暗い林で、いつもは穏やかな緑の山は暗く深い樹海に飲みこまれてしまったようだった。陸は宙の体についた土をはらい、擦りむいた膝小僧はハンカチで丁寧に覆ってやる。肩を貸して宙を立たせ、足を引きずりながらも二人で少しでも明るい方に向かった。
数分も歩かないうちに木々の開けた場所に出られたは本当に幸いだった。そこはよく知った河原までの道ではなかったが、人通りの見こめそうな山道に戻れたことでひとまず安心して地面に座りこむ。しかし前も後ろも似たような木が生い茂り、どこをどう走ってきたのかも皆目見当がつかない。頭上には鬱蒼と茂る木々の向こうにわずかな空がのぞくばかりで、自分たちの存在がみるみる小さくなり、世界の果てまで広がる緑の海に飲みこまれるような錯覚に襲われた。
「足が折れた。オレはもう歩けない。陸、オレをおいていってくれ!」
不安に押しつぶされまいと、宙が鼻水をたらしながらやけに大声を上げる。
「いやだよ、オレたち親友だろ! ひとりで助かるくらいなら一緒に死ぬ!!」
陸も負けじと腹の底から大声を張る。
宙を座らせたまま、陸は立ち上がってキョロキョロとあたりの様子をうかがった。幸運にも山道に戻ってこられたことはわかるが、どちらに向かえば下山できるのか、来た方角も判然としない今の状態では判断に窮した。不安そうに視線で陸を追う宙の足首は赤く腫れて歩けそうにもなかったし、こんなに大きな山の真ん中で離れ離れになるのはしっかり者の陸ですら恐ろしかったから、先ほど遭遇した黒い獣の再来に怯えつつ、なすすべもなくそのままじっと助けを待つことになった。
「足が痛くて動かないよ。オレ、もうサッカー選手になれないかな?」
少し風が吹いただけで心細くなった宙がまためそめそと泣き始めたので、陸がその頭を撫でてやる。
「なれるよ! もうすぐ夕飯の時間だから、父さんたちが心配して探しにきて、すぐに治してくれるさ!」
「えー! 先生はすぐに注射打つからやだ。」
「じゃあオレがお医者さんになって、注射しないで治してやる!」
陸は立ち上がってキョロキョロとあたりを見渡し、座りこんだ宙のちょうど頭上に繁る青く瑞々しい草の葉を一枚切り取り、柔らかくなるまで手でよくしごいて宙の腫れた足首にぺたりと貼った。
「ほら、骨折が直る薬だよ!」
「ん、なんかくさい……。」
「良薬は口に苦し、って言うんだよ。」
「陸はすぐむずかしいこと言う……あれ? なんだか足が痛くなくなってきた!」
「だろ? これは秘密の薬草だからね!」
「すげー! 足がちょっと痛くなくなった! 陸すごいよ!!」
まだ頬が濡れている宙が今にも立ち上がって走り回りそうな勢いではしゃぐのを見て、陸も嬉しそうに笑った。
「オレ決めた。将来は父さんみたいな立派な医者になる!」
「じゃあオレはサッカー選手になる!」
それから二人で夢の話をした。今度の誕生日に新しいサッカーボールを買ってもらえること。小学三年生になったら町内の少年サッカーチームに入れること。時々サッカーを教えてくれる近所のお兄さんが通っている県立第一高校のサッカー部のユニフォームがかっこいいこと。将来はプロの選手になって、いつかヨーロッパで活躍すること。
ひとしきり話し疲れる頃には、闇が降りてきたようにあたりは真っ暗になっていた。でも不思議と不安はもう訪れなかった。
「土のにおいがするね。」
「風が吹いている。」
「星がきれいだよ。」
肩を寄せ合い、ひそひそとささやき合う声は夜空に吸いこまれてゆくようだ。木々のざわめき、草木の息遣い、虫の音色に、風の気配。様々な音が耳をかすめるのに、夜の山はやわらかな静謐に満ちていた。
「パパたち、ちゃんと助けにきてくれるかな。」
「もちろんくるさ。」
「オレたちここで、死ぬのかな?」
「死なないよ。」
「死ぬって何だろう?」
このしっとり暗く深い闇に、とろりと溶けてしまうことだろうか。大地に横たわって、手をつないで、呼吸をやめて、目を閉じる。魂と世界を隔てる境界線はあいまいになり、地面に縛られた身体を手放し夜空の二つ星になる。
「……オレたち死んでも一緒だよな。」
「そうだよ、オレたちずっと一緒だよ。」
空の闇が大地に流れこみ、深い夜が山を包んで、二人の意識も沈むように眠りに落ちた。小さな手と手をかたくつないだまま。
「懐かしいなあ。陸が薬草貼ってくれたんだよ。」
「何度も言ってるけど、ただの草だぜ?」
「でも本当に痛くなくなったんだって!」
当時の自分たちを思い出して、二人で頬が痛くなるまで腹を抱えて笑う。今思い返せばまるで大したことのないことが当時はとんでもない一大事だった。遭難したと思っていたのに二人が発見されたのはふもとから歩いて一キロにも満たない山道だったし、夜八時前には町内の消防団の青年におんぶされて家に帰してもらった。狼は猪だったし、折れたと思った足も軽い捻挫だった。秘密基地と名付けた遊び場も、近所の住人たちには二人がいつもそこで遊んでいることをちゃんと知られていた。
残念ながらそれ以降は二人だけで山で遊ぶことを禁止されてしまった。そのかわりに宙の父親が家の裏の空き地に小さなサッカーゴールを作ってくれた。新しいサッカーボールも買ってもらった。二人のサッカー遊びはその時から始まったものだった。
「あの時からさ、陸はいつでもオレの憧れなの。頭がよくて、しっかり者で、まじめで真っ直ぐで努力家で優しくて……ちょっと怒りっぽくて気が短くて短気だけど。」
「気が短いと短気は同じだ。サッカーバカめ。」
「ふんだガリベン!」
それからしばらく公園で休憩し、夜更けに再び自転車をこぎはじめた。
海まであと少しだった。
夜明け前に町を抜け、潮の気配を感じて間もなく、国道に沿ってゆるやかに大きなカーブを切ると唐突に白い砂浜が目に飛びこんできた。
「海だ! 宙、海だ!」
夜通し自転車をこいで疲れがたまっていた陸はサドルから腰を浮かせて、眠気も吹き飛ばすほど白い砂浜に歓声を上げる。
「白い! 青い! 広い!」
朝日の登りきった海岸は、まるでここが世界の始まりのようにキラキラと光を弾いている。
陸と宙は砂浜に自転車を乗り捨て、靴を脱ぎ捨てて波打ち際に走って向かう。足の裏の砂粒。耳を打つ波のざわめき。髪を逆立てる潮風。内陸に住む二人は海にすっかりテンションが上がり、ひとしきり波を蹴り合ってはしゃいだ。最初は爪先で軽く水を跳ね飛ばす程度だったのが、エスカレートして両手で盛大に水しぶきを上げ始め、すぐに追いかけっこがとっくみあいになる。しまいには二人で波間にもつれこんで頭からびしょ濡れになり、潮でベタベタになって後悔して笑った。
「陸はこの海の向こうにいくんだね。」
渚に両脚を投げ出して、宙が水平線を眩しそうに眺めた。水面が朝日を反射して目にしみる。
「……いかないし。だいたいこっちは日本海側だ。」
「ん?」
「アメリカは太平洋側。真逆だよ。」
「ん? どーゆーこと? 地球は丸いんでしょ?」
宙が空中に指先でくるりと円を描く。
「……そうだな、オレがバカだったよ。」
波に洗われながら頭を抱える陸の肩に、宙が無邪気に腕を回す
「オレは陸の味方だよ。陸は留学するべきだよ!」
「……なんでだよ。ずっと一緒って、あのとき約束したじゃねーか。」
陸の語尾がかすかに震えた。楽しかった気持ちが波と一緒に引いてゆき、悲しみと寂しさが押し寄せてくる。宙にだけは理解者でいてほしかったのに、所詮人間は一人ぼっちなのだろうか。砂浜を洗う波の音が急にわびしく聞こえ始める。潮風に煽られて涙が目頭までこみあげてきた時、宙の腕にぎゅっと力がこめられた。
「ずっと一緒だよ! ほら見てよ、空と大地はつながっている。宙と陸もつながっている。海の向こうでも、変わらない。」
「……」
「オレ、陸が好きだ。子供の頃からずっとずっと陸が好きだ!」
「なっ……、変なこと叫ぶな!」
動揺した陸が腰を浮かせて声を上げる。
「頭が良くて、まじめで頑張り屋で、気が短くて怒りっぽくて子供な陸が可愛くて大好きだ!」
「悪口じゃねーかよ!」
「去年の春、陸が部活やめるって決めたとき、オレ、めちゃくちゃ反対したでしょ? 生まれて初めて陸のこと悪く言って、一週間も口をきかなかった。あの時、父さんにすごく怒られたんだ。オレが陸がサッカーやめるのを反対してるのは、陸と一緒にいたいオレのただのわがままだって。本当に陸が好きなら、陸の決めたとを応援できるはずだって。」
「オレは、別に……」
頭の回転の速い陸にしては珍しく言いよどむ。
「陸は優しいから、これ以上オレから離れないようにしてくれている。オレが陸を縛ってる。オレ、ずっと後悔してたんだ。あの時陸を応援できなかったこと。もう陸とサッカーできないなんて嫌だって、自分のことばかり考えていたこと。」
「オレがお前と一緒にいたいんだよ! 別にお前のためだけじゃない!」
「オレ、待ってるから。待ってろって陸が言うなら、ずっと、ずっと、待ってるから。」
宙がこつりと頭を寄せる。陸は返事をしなかった。言葉にならない思いが涙になって、ポロポロと陸の頬を伝ってこぼれ落ちた。
その後二人で家に電話して、それぞれの両親から鬼のように叱られた。今から自転車で帰る気力もなかったので、宙の父親が軽トラックで迎えにきてくれることになった。
迎えがくる間、二人は濡れたシャツを脱ぎ捨て、白い砂浜でもう一度サッカーボールを蹴って遊んだ。 足許に砂が絡んでうまく蹴れなかったが、朝日が海面を照らして砂浜までキラキラ光っているようだった。
宙と陸はつながっている。海の向こうでも、変わらずに。
説明 | ||
高校生の陸(リク)は、将来のことで親とケンカして学校を飛び出した。 幼なじみの宙(ソラ)と家出さながら夜通し自転車をこいで、隣街の海を見にゆく甘酸っぱい青春BL短編小説。 「オレ、陸が好きだ。子供の頃からずっとずっと陸が好きだ!」 |
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