峠の悪魔
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 峠には悪魔がいる、という噂がある。

 

 実際、矢鱈と長くて勾配の急なその峠に行けば、往来の人々を面白そうに眺めている、一人の男に会うことが出来る。

 見た目は若く、如何にも洒落者といった風情の男であった。

 長い垂れ袖を持った、前あきのフープランドを着込んでいて、それを大粒の宝石が嵌め込まれたベルトで留めている。

 

 黒光りする一本脚の洋卓が峠道の脇に置かれており、向かい合わせになった古びた椅子に、男は座っていた。

 卓上には奇妙な模様の描かれた寄せ木や大小のサイコロ、何組かのカードが雑然と並べられていて、通り掛かった行商人や麓の村の住人を捕まえては、賭けを持ち掛ける。

 

 賭けるものは人それぞれで、数枚の銅貨を遣り取りしただけという話もあれば、噂を裏付けるように、魂まで注ぎ込んだというぞっとしない話もあった。

 尤も、何処までが本当なのかは、はっきりしない。

 確認した者がいない所為であったし、また、自分から峠の男と賭けをしたと言い出す者もいないからだ。

 

 その日の夕暮れ、鋳物屋の男が峠を通り掛かった。

 街にまで出て金物の修理を請け負っていたのだが、予想外に客が多く、懐は暖かかった。

 峠を越えた故郷の村には身重の女房がおり、生まれてくる赤ん坊のことも考えると、この収入は有り難い。

 そこへ、峠の男が声を掛けた。

 

「随分と、儲けたようだね」

 

 びくりとして、鋳物屋は男を見た。

 峠の男の噂は当然知っており、余り関わりを持ちたい相手ではない。

 だが、この時間には珍しく、峠には自分と男だけしかおらず、無視することも出来なかった。

 

「へ、へえ。街には鍋や壷でお困りの客が大勢で」

「そうかい、それは良かった」

 

 屈託無く、峠の男が言う。

 鋳物屋は居心地が悪そうに、視線を泳がせていた。

 

 それ以上、峠の男は何かを言うことも無く、カードをシャッフルしたり、サイコロを並べ替えたりしている。

 もしかしたら、賭けをする相手が後から来る予定で、その準備をしているのかも知れなかった。

 希望も含めて鋳物屋はそう思った。

 

 サイコロが一つ、洋卓から転げ落ちる。

 ころころと地面を転がって、鋳物屋の足元で止まった。

 

「ああ、済まないね、拾ってくれるかい」

 

 気軽に峠の男は頼み、鋳物屋も素直にそれに従った。

 拾ってみると、そのサイコロは見た目よりもずっしりと重い。

 

 よくよく見てみれば、それは、金で出来ているのであった。

 目の部分には、小さいながらも、きらきらと輝く宝石が嵌め込まれている。

 

 思わず、鋳物屋は息を呑んだ。

 震える手で、サイコロを元の卓の上に置く。

 卓上に並べられた別のサイコロも、落ちたものと同じ造りであった。

 

「え、えらく豪勢なサイコロで」

「サイコロはサイコロさ」

 

 鋳物屋は、洋卓の上で黄金色に夕日を跳ね返すサイコロから、目が離せなくなっていた。

 サイコロの数は、全部で十はあるだろう。

 自分の稼ぎなど、この小さなサイコロ一つ分にも満たないに違いなかった。

 

「興味があるのかい」

 

 峠の男が静かに尋ねる。

 

「え、ええ、そりゃあ、まあ」

 

 生唾を飲みながら、何とか答えた鋳物屋に、峠の男は値踏みするような視線を向けた。

 

「それじゃあ、こいつを使って一つ、勝負をしてみるかい」

 

 洋卓の上で肘を突きながら、気楽な口調で峠の男が言った。

 しかし、言われた側は平静ではいられない。

 

「い、いや、あっしには、そんな……」

 

 何とか断りの言葉を吐き出そうとするが、実のところ、この鋳物屋は結構な博打好きであった。

 細工としても見事なサイコロが、誘うように滑った光を放っている。

 ごくり、と鋳物屋が生唾を飲んだ。

 

「何も儲けをかっ攫おうというわけじゃない。何も賭けずに、勝負だけするのでも構わないさ」

 

 峠の男が、如何にも誠実そうに言った。

 穏やかな表情を浮かべて紡がれるその言葉が、心地よく頭に響く。

 

「……何も賭けずに、勝負だけですかい?」

「そうさ」

「本当に?」

「きみが望むんなら」

 

 余裕の笑みを浮かべて、峠の男は答える。

 再び、鋳物屋は唾を飲み込んだ。

 自分の帰りを待っている女房の顔が脳裏に浮かび、魅力的な輝きを持ったサイコロが視界を占める。

 

 ああ、そうだ。

 これは何も悪いことじゃあない。

 ただ、立派なサイコロで、ちょいと遊ぼうと言うだけのことさ。

 あいつにも、良い土産話になるだろうよ。

 

「じゃ、じゃあ、少しだけですぜ」

「よしきた!」

 

 嬉しそうに峠の男が、両手を揉み擦りながらサイコロを用意する。

 そして、峠の男と鋳物屋の、金を賭けないお遊びが始まった。

 

 出目を当てる。

 奇数か偶数かを当てる。

 決められた出目によって、勝ち負けを決める。

 出目の合計の大小で勝ち負けを決める。

 

 様々なルールと複数のサイコロを使い、峠の男と鋳物屋はサイコロ遊びに興じた。

 しかし、物足りなくなったのは鋳物屋が先であった。

 

 自分が勝ったときに、金を賭けていたらと夢想してしまう。

 今の懐にある儲けが、もう少し増えていたかも知れない。

 

 酒の一杯分は贅沢できるくらいに。

 生まれてくる赤ん坊の産衣ぐらいに。

 女房に新鮮な野菜や、肉を食わせてやれるくらいに。

 

「ね、ねえ、旦那」

「何だい」

「金を賭けませんか、その、ほんの少し」

「へえ」

 

 面白そうな声を峠の男が上げた。

 持ち込まれたがらくたを値踏みする、古美術商のような目付きで、鋳物屋を見る。

 しかし、一瞬の後に、峠の男は堪らなく魅力的な表情で破顔した。

 

「良いね。勿論、賭けるのは少しの金だ」

「え、ええ、少しの金で」

 

 こうして、峠の男と鋳物屋は、金を賭けて遊び始めたのだった。

 最初は、銅貨の一枚や二枚程度が行き来するぐらいであった。

 勝負の結果も勝ったり負けたりである。

 

 峠の男が負けると、洋卓の上に置いた革製の小袋から硬貨を取り出して、鋳物屋に支払った。

 隙間から、見たことの無いような大振りな金貨や、ごろりとした宝石までが覗く。

 

 そして。

 

 徐々にではあるが少しずつ、しかし、確実に賭ける金の額は大きくなっていった。

 同時に、最初は互角であった勝敗の割合が、鋳物屋に傾いていく。

 

 鋳物屋の前には、峠の男が小袋から取り出して払った銅貨や銀貨が積み上げられた。

 街で稼いだ額と同じか、それを僅かに上回るほどの額である。

 喉仏を上下させながら、鋳物屋が唾を飲み込む。

 

「ここは、勝負所でさあ。今までの勝ち分を丸ごと賭けますぜ!」

「豪気だねえ」

 

 言って、峠の男がサイコロを二つ握る。

 峠の男と鋳物屋が興じているのは、『男か女か』というサイコロ遊びであった。

 サイコロを二つ使い、出目の合計が奇数か偶数かを当てるのである。

 

 男と言えば奇数、女と言えば偶数を指す。

 サイコロを振るのは交代制であり、どちらに賭けるかを決める優先権は、投げ手が持つ。

 

 また、賭け金は相手と同じ額を出さなければならないのだが、勝っても全額を奪えるわけではない。

 通常であれば、その半分を受け取るだけである。

 

 ただ、出目の合計によっては役が付いて、それ以上の金を得ることが出来るのだ。

 例えば、『男』と宣言して出目の合計が七なら、それは『お世継ぎ』と呼ばれ、相手が賭けた金の三分の二を手に入れることができる。

 逆に『女』と宣言してぞろ目が出れば、それは『双子』と呼ばれ、同じく相手が賭けた金の三分の二を手に入れることができる。

 

 また、前もって『世継ぎ』が生まれる、『双子』が生まれる、と宣言することで、相手の賭け金を全て得ることも出来るのであった。

 但し、この宣言を行うには相手の同意が必要で、『世継ぎ』か『双子』の目が出るまでサイコロを振り続けることになる。

 それで負ければ、自分が賭けた金を全て失うのだ。

 

 このゲームは相手と常に同額を賭け続けるルールのため、互いの財力に差がありすぎると博打が成立しないが、少額を程々に賭けるなら長く遊ぶことができる。

 その『男か女か』で、鋳物屋は勝った分を全て賭けるという。

 

「いいのかい」

「ええ、今日は調子がいいみたいなんで」

「じゃあ、負け分を取り戻すためにも、『双子』で行くかな」

 

 峠の男が宣言した。

 鋳物屋の頬が、引き攣る。

 もしこれでサイコロの出目が『世継ぎ』となれば、目の前の金が倍になるのだ。

 

「受けまさあ。あっしは『世継ぎ』で」

「よし」

 

 峠の男が、二つのサイコロを放った。

 ころころと卓上を転がって、そして、止まる。

 

 出た目は一と一であった。

 鋳物屋を馬鹿にするかのように、一粒の宝石を上に向けて、金で出来たサイコロが並んでいる。

 

「え?」

 

 今、起きたことが理解できないように、鋳物屋が目を白黒させる。

 卓上のサイコロと、峠の男を交互に見比べ、最後に自分が賭けた金を見た。

 

「悪いね、『双子』だ」

 

 悪びれずに言って、峠の男は鋳物屋が積み上げた金を、自分の側に引き寄せた。

 鋳物屋はそれを眺めることしか出来ない。

 

「さて、キリも良い所だし、今日はこれでお開きとしようか」

「ちょ、ちょっと待って下せえ!」

 

 賭けの終わりを宣言する峠の男に、鋳物屋が慌てて叫んだ。

 

「ここでそれはないですぜ! もう少し、もう少し続けやしょう!」

 

 頼み込む鋳物屋をじっと見て、峠の男は口の端を少しだけ吊り上げた。

 思慮深そうな顔付きで、鋳物屋を諭す。

 

「ここで終わっておけば、街での儲けは残る。それで良いじゃないか」

 

 しかし、そう言われて簡単に納得できるものではない。

 持っていた金が元に戻ったのではなく、半分になってしまったという感覚の方が強いからだ。

 

「もう少し、もう少しだけ!」

 

 鋳物屋が繰り返し、遂には峠の男が折れた。

 やれやれと肩を竦めて、鋳物屋にサイコロを手渡す。

 

 こうして、再び賭けが始まった。

 

 だが、先刻とは異なり、今度の勝負運は峠の男に傾いたらしい。

 どんどんと、鋳物屋の負けが積み重なっていく。

 街で稼いだ懐の金が、あっという間に半分になった。

 

 鋳物屋の顔から血の気が引いて、乾いた羊皮紙のようになる。

 細かく頬が震えて、悪い病に罹った病人に見えた。

 ぶつぶつと何事かを呟いている。

 

「そろそろ止めようか。半分残っただけでも良しとしてね」

 

 にこやかに言う峠の男を、鋳物屋は焦点の定まらない眼で見た。

 そして口を開く。

 

「……だ」

「なんだって?」

「い、いかさまだ! こんなに負ける筈がねえ、あんたが、なんかしたんだ! サイコロに何か細工をしたんだろ、なにせ、あんたは悪魔だって噂だからな!」

 

 叫びながら睨み付ける鋳物屋を、峠の男はじっと見詰め返した。

 表情のない、何処かの祭壇に飾ってある仮面のような顔だった。

 

「いかさま? いかさまだと……?」

 

 峠の男が身を乗り出して、鋳物屋の瞳を覗き込む。

 ぱっくりと口を開けると、真っ赤な舌がひらひらと踊っていた。

 

「てめえの博才の無さを棚に上げて、いかさま呼ばわりとは笑わせる。なら、サイコロ無しで賭けをするか?」

「サイコロ無し……?」

 

 豹変した峠の男に圧倒されながら、鋳物屋は鸚鵡返しに尋ねる。

 にたり、と峠の男が笑った。

 

「何だって良いさ。おまえがやりたいようにやれ。勝てばおまえの負け分を倍にして返してやるぞ」

 

 小馬鹿にした言い様である。

 落ち着きを失って、鋳物屋がきょろきょろと視線を泳がせた。

 男の申し出に意表を突かれたためであるが、同時に、自分に有利な賭けが何かないかと、思考を巡らせていたためでもある。

 

 それで、鋳物屋は奇妙なことに気が付いた。

 賭けをしている間、この峠を通る者が全くいなかったと言うことである。

 普段ならもっと人通りがあっても良い場所であり、時間帯であった。

 

「こ、こんなのはどうです? 次にこの峠へ来るのが、男か女か、当てるってのは」

 

 言ってから、急いで付け加える。

 

「あっしは男で!」

 

 こう言ったのは、この峠の勾配が急で、女の脚ではかなりきつい坂が長く続くからだ。

 実際、ここを利用するのは、行商人や出稼ぎのために街へ向かう労働者が殆どである。

 峠の男は、鋳物屋とは対照的に落ち着いた様子で宣言した。

 

「なら、俺は女だな」

 

 こうして、峠の男と鋳物屋は、誰かがここを通るのを待つことにしたのである。

 鋳物屋にとっては、小さな炎で炙られるような、じりじりとした時間が過ぎていく。

 一方の峠の男は、落ち着いたものであった。

 今にも、鼻歌の一つも奏でそうである。

 

 そして――。

 

 夕日も傾いて、地平線の向こうに沈もうかという頃合いに、何者かの足音が遠くから聞こえてきた。

 段々とそれが近付いてくる。

 

 あからさまに、鋳物屋がそわそわとしだした。

 椅子から立ち上がって、足音のする方を見遣る。

 

「女だな」

 

 峠の男が呟いた一言が、教会の鐘のように、鋳物屋の頭に響く。

 確認するまでも無く、峠を苦労して登ってくるのが女だと言うことは一目で分かった。

 何故なら、腹が大きく膨れた妊婦であったからだ。

 

「さて、勝負はお開きだ。賭け金は頂くぞ」

 

 誤解しようのない明確さで言って、峠の男は鋳物屋が洋卓に置いていた金を、全て自分の革袋に放り込んだ。

 無造作に、何のためらいも無く、あっさりと。

 

「ま、待て、待ってくれ!」

 

 鋳物屋が叫ぶ。

 だが、それを無視して峠の男は、洋卓の上に散らばっていた賭けの道具も片付け始めていた。

 泣きそうな顔で、鋳物屋が周囲を見渡す。

 

 今、この峠にいるのは、自分と、峠の男と、坂を登ってくる妊婦だけであった。

 鋳物屋の眼に、ぎらぎらとした光が宿る。

 

 駆け出した。

 鋳物屋が、妊婦に向かって走っていったのである。

 

 丁度、妊婦が峠の頂に辿り着いたところで、鋳物屋は女を地面に押し倒した。

 そして、帰り支度を始めた峠の男に向かって叫ぶ。

 

「この女の腹の中には、赤ん坊がいる! 先に峠に着いたのは、腹の中にいる子供でさあ!」

 

 そして、何事かを喚いている女の腹に、護身用に腰から提げていた短剣を突き立てる。

 ぶしゅり、と血がしぶいた。

 

 肉を切り裂いて、はらわたを掻き分け、女の腹から血塗れの胎児を取り出す。

 びくんびくんと、妊婦の身体が地面の上で跳ねた。

 

「ほ、ほら、見て下せえ! こいつ、この赤子は男じゃねえですか! 賭けは、あっしの勝ちだ!」

 

 無理矢理母体から引き摺り出されたショックのためか、ぐったりとしたまま動かない赤ん坊を、高々と鋳物屋は掲げた。

 血飛沫が、鋳物屋の顔を赤く濡らす。

 

「なるほどな。ところで、その女がおまえに言いたいことがあるようだぞ」

 

 興味なさそうに峠の男は指摘し、血の色に染まった顔で鋳物屋が女を見る。

 陸に上がった瀕死の魚のように、女はぱくぱくと口を開閉していた。

 鋳物屋に何かを伝えようとしている。

 

 その顔を、鋳物屋はじっと見た。

 不意に、鋳物屋の意識を電撃に似た衝撃が貫く。

 

 見覚えがあった。

 確かに、その女の顔には見覚えがあったのだ。

 

「お、おまえ……、なんで、おまえがここに……?」

 

 唇を震わせながら、鋳物屋が言った。

 

「あ、あんた……」

 

 女は、間違いなく、鋳物屋の女房であった。

 何かを言いたげに唇を歪め、そして、言葉の代わりに小さな血の泡を吐く。

 ごぽり、と大きめの泡が咽喉から溢れ、女はそれきり動かなくなった。

 

「あ、あ、あああああああっ!」

 

 鋳物屋が絶叫した。

 その光景を、壊してしまった玩具を眺める子供に似た、無感動な視線で峠の男は眺めている。

 ぶつんと、太い糸を断ち切ったときに似た感触と供に、鋳物屋の意識はそこで途切れた。

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

 喧噪が遠くで響く潮騒のように耳に忍び込み、それが一気に大きくなった。

 その騒々しさに意識を揺さぶられ、鋳物屋が周囲を見渡す。

 

 時刻は夕暮れであった。

 確かに沈みかけていたはずの太陽が、山の稜線の上に戻っている。

 峠には往来の人々がごった返しており、独特の熱気が渦巻いていた。

 

「あ、あれ……?」

 

 何が起こったのか分からず、鋳物屋は間の抜けた声を発し、間の抜けた表情で視線を彷徨わせた。

 気付けば、自分は古い椅子に座っており、目の前には峠の男が腕を組んで座っている。

 

 峠の男が身を乗り出して、鋳物屋の顔を覗き込んだ。

 ぱくりと、赤い口を開いて言葉を吐き出す。

 

「俺が、いかさまをしようと思えば、何が出来るか分かっただろう」

 

 刃物で切りつけたような、薄ら寒い笑みを峠の男が見せる。

 

「それじゃあ、こいつを使って一つ、勝負をしてみるかい」

 

 金色のサイコロをお手玉のように弄びながら、峠の男が尋ねた。

 ひ、と言葉に詰まりながらも、鋳物屋は頭を激しく振る。

 

 それから、安っぽいバネ仕掛けの人形のように椅子から跳び上がると、峠の男に背中を向けて立ち去ろうとした。

 その背中へ、峠の男が声を掛ける。

 

「最後の賭けは無効だったからな、おまえの金は返してやる」

 

 無造作に、峠の男が小さな革袋を投げて寄越した。

 思わず振り返った鋳物屋の両手に、すっぽりとその革袋が収まる。

 

 確かにそれは、鋳物屋が街での稼ぎを突っ込んでいた袋であった。

 一瞬だけ、その金を返すべきか迷う。

 しかし、未練ではなく、これ以上峠の男と係わることへの忌避が勝って、鋳物屋は革袋を掴んだまま走り去った。

 

 その後、鋳物屋は無事に郷里に戻り、腹の大きくなった妻に迎えられる。

 鋳物屋の帰りがもう少し遅ければ迎えに行っていたと女房は語り、自分の旦那に厭な汗を流させたが、その理由を知ることはなかった。

 

 数週間後に鋳物屋の妻は臨月を迎え、出産する。

 そして、鋳物屋は峠の男が言ったことを思い出したのであった。

 生まれたのは『男』の『双子』だったのである。

 

「最後の賭けは無効」

 

 そう言った峠の男の顔が、鋳物屋の脳裏に浮かんで、にやにやと笑っていた。

説明
異国の民話的な雰囲気を目指してみました。
如何でしょうか。
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コメント
昔……読んだ英国圏内の昔話を思い出します! 勿論、日本語版ですよ! 楽しめさせて貰いました!! (いた)
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