Little Challenger (上)
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#Prologue

 

 

――アイドルコロシアム

 

開催を重ねるたびに権威を増すこの大会は日本のエンターテイメント業界の趨勢を占う国民的なイベントとなっていた。

 

その中心に、成長を遂げた高槻やよいと水瀬伊織が躍り出ていた。

 

胸を支えるように腕組みをする、高槻やよい。

家族のためにフライパンを振り回し続けてきたその腕は、アイドルにしては少し太いのかもしれない。

だが、やよいはそれを恥ずかしいと思わなかった。

鍛えられた胸筋はやよいの豊かになった胸を支え、引き締まったウエストを強調し、彼女にしか現れない強く美しい曲線を作り出していた。

 

その横に構える、水瀬伊織。

シルクのような美しい髪が、歩く度に体の線を沿うように曲線を描いていた。

飾り物の人形のようだった少女には、いつしか舞台で観客を鼓舞する荒々しさが秘められるようになった。

やよいという存在が彼女の心を開放し、その笑みはファンを骨抜きにする破壊力を備えていた。

 

五年。

数えてみれば、出会ってからもう五年だ。

 

出会った頃は全く共通点のない二人であったが、今では無二の親友だ。

多くの友人と社会的地位を得たやよいは、今手にしている幸福を静かに噛み締めていた。

 

やよいと伊織という絶対的エースを中心に、765プロダクションはその最盛期を迎えていた。

去年の大会で彼女達のアイドルグループ『ユナイト』はコロシアムで二連覇を達成し、今年三連覇となれば史上初の快挙となる。

 

これに対しライバル事務所の961プロは一時の勢いが鳴りを潜め、苦境が続いていた。

今年も961プロからの出場者は出るには出るらしかったが、それが誰であるかは発表されていなかった。

 

突出したアイドルがいない為に選考が滞っているというのが専らの噂であった。

 

 

――開会式

 

この時になっても961プロの出演者は明かにされていなかった。

 

エントリーした各事務所の代表が順番にステージに立ちアピールしていた。

出演者用の席で佇むやよいと伊織。

観覧席の真ん中で腕組みをしながらライバル達を見下ろすやよいと伊織には、ベテランアイドルとしての威厳が漂っていた。

隣に座る亜美と真美が出演者に対する見解を面白おかしく述べ、やよいと伊織から余裕の笑みを引き出していた。

 

他の事務所のアイドルは、そんなやよい達からの視線にプレッシャーを感じていた。威圧するつもりがなくても、彼女達自身が萎縮してしまうのだ。

 

961プロの出番だ。

スモークが掛かったステージ。舞台中央の小迫りに乗って、その影が現れてきた。

 

 ――女性。

 ――背はそれ程高くはない。

 ――随分若そうな雰囲気だ。

 

 ……誰だろう?

 961プロでこんな娘がいただろうか?

 

そして、スモークが晴れて彼女の姿を確認すると、765プロメンバーの表情は一変した。

「ど、どうして……?」

「ま……、まさか!」

亜美と真美は驚きを隠せなかった。

 

やよいは言葉を失い、まるで一人だけ時間が止まったように、一点を見つめて動かなくなっていた。

伊織は心配そうにやよいの顔を見守ることしかできなかった。

 

961プロの代表は、観客席に対してまっすぐ指を刺した。

その指先は他でもないやよいに向けられていた。

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やよいは険しい表情を浮かべながらゆっくりと立ち上がり、そのまま席を後にした。

伊織は直ぐにやよいを追いかけた。

 

やよいは我を忘れているようだった。

伊織の制止を振り切って、やよいは相手の控え室に乗り込んでいった。

 

「どうゆうことなの!」

凄い剣幕だった。やよいと付き合いが長い伊織であったが、こんなやよいは初めてだった。

 

相手も黙っていなかった。

「ここはアイドル同士が戦う場所じゃない。

 それだけのことよ」

彼女の挑発的な言葉はやよいの怒りに油を注いだ。

「関係無いわけ無いよ!

 どうゆうことなの? 961プロの代表だなんて!

 どうして? どうしてなの?」

 

冷静さを失ったやよいは相手の両肩に手を掛けようとした。伊織は咄嗟にやよいを羽交い絞めにして引き離した。

「ちょっと止めなさいよやよい。落ち着いてよ二人とも!」

 

二人の興奮は冷めていなかった。

二人の荒々しい呼吸が楽屋に響いた。

 

「今日は負けないんだから。『高槻やよい』さん」

やよいは愕然とした。

「……そんな呼び方ないじゃない」

 

伊織が啖呵を切った。

「いくらあんたでもそんなふざけた口の利き方許さないわよ。

 黒井の手先である以上、私達も引き下がることはできないわ」

「黒井社長は伊織さんが思っているような悪い人じゃないから。

 こんな私を拾ってくれるところ、961プロしかなかったもの」

「あんな奴のことなんかどうでもいいのよ!

 それよりも、あなた今私達に正面から喧嘩を売っているのよ。

 やよいがどれだけあなた達の為にがんばってたのか知ってるの?」

「知ってるわよ!

 伊織さんよりもずっと知ってるわよ! 

 だから、家族のために自分の人生を犠牲にするのは止めて欲しいの!」

「やよいが犠牲ってどういう意味?」

「伊織さんは知らないのよ。

 いつもボロボロだった。私、胸が張り裂けそうだった。

 無理してたのよ。伊織さんたちを元気付けようとして。

 分からなかったの?」

 

伊織はその言葉に動揺した。

 

伊織はやよいの一番の理解者であることを自負していた。

それでも目の前の娘が伊織の知らないやよいの一面を知っているのは確かなことだった。

 

「こんな私でも一応961プロの代表なんだ。

 だから今日は『高槻やよい』に勝ってみせる。

 もし勝ったら、引退してよ。

 私が替わりに働くから心配しないで」

「あんたにそんなこと言う権利ないわよ!」

「あるわよ! 

 お姉ちゃん達だって何人ものアイドルを引退させてきたじゃない!」

 

会場では、961プロの代表が高槻やよいの妹であるという噂が拡散し始めていた。

この予期せぬ姉妹対決に、会場は一気に熱を帯びてきた。

 

三人の問答の最中、一人の男が控え室に入ってきた。

 

「なんだか騒がしいな。

 ……あれ?

 おいおい、なんで765プロの連中がここにいるんだ?」

やよいと伊織は目の前に現れた男を見て再び言葉を失った。

「な……、なんでアンタがここにいるのよ……」

「はぁ?

 質問の意味が分からないな」

男の昔と変わらない不遜な態度に二人は眉をしかめた。

 

 この三年間、芸能界の表舞台から姿を消していたアイツが今なぜここに……?

 

「遅いですよ、プロデューサー!」

 

かすみは男に駆け寄り男の腕をとった。

その姿にやよいと伊織は狼狽した。

「おい、かすみ、靴の紐が緩んでるじゃないか」

かすみのプロデューサーは跪いて靴紐を結びなおした。

それはあの尊大な男のイメージからは想像だにできない行動だった。

「紹介するわね。私のプロデューサーよ」

男は立ち上がると少し立ちくらみをした。それから軽く頭を振って二人を見下ろして言った。

「とりあえず挨拶だけはしておくよ。俺が高槻かすみのプロデューサー……」

「う、うるさいわよ!

 言わなくたってアンタの名前なら知ってるんだから!」

「チッ。そうかいそうかい。

 相変わらず礼儀をわきまえないガキ共だな、お前らは。

 ところで人の控え室にいつまでいるつもりなんだ?

 はっきり言うが、目障りだ」

 

二人は黙って出てゆくしかなかった。

そして数年前、事務所の先輩アイドル達を壊滅させられた悪夢を思い出していた。

 

 かすみのプロデューサーが……、天ヶ瀬冬馬!?

 

伊織は呆然とするやよいを引っ張るようにして退散していった。

 

 以前までプロデューサー制を否定していた961プロが専属プロデューサーを設けているなんて。

 何が起こっているのか全然分からない……。

 かすみちゃん、一体どうして……?

 

時は、決戦の舞台へと突き進んでいた。

 

765プロの高槻やよいと961プロの高槻かすみによる姉妹対決の幕が上がろうとしていた。

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#1 高槻家に生まれて

 

 

――決戦の日から五年前

 

父が職を失った。

 

高槻家の家計は毎年悪化するばかりで、公共料金の支払もままならぬ状況が続いていた。

電話越しに水道局の職員に平謝りする親の姿を見ると、無邪気な子供達でさえ我が家の生活の綻びを感じざるを得なくなっていた。

 

今日は生活支援の審査の為に都の職員が来ることになっている。

子供達は皆不安を飲み込むようにして静かに待つより他なかった。

 

職員が難しい顔をしながら電卓を何度も叩き、父親にあれを止めろこれを止めろと指導の言葉を連ねる。

ただでさえ切り詰めた生活をさらに絞り上げるような文言は、命令も同然であった。

職員は深く溜息をつき、覇気のない声でぼそっと呟くように言った。

「そうですね、子供が二人少なければなんとか遣り繰りできそうなのですが……」

名指しされたわけではなかったが、浩司は職員の一言に反応し、眉間にしわを寄せて屈辱に耐えていた。

 

かすみが手元にあったティッシュ箱を職員に投げつける。

それに驚いたやよいと長介はかすみを取り押さえて職員に謝った。

 

かすみは肩を震わせて泣きそうになるのを堪えていたが、その目は職員を捕らえたままだった。

職員は自分の失言に気が付いて子供達に謝ったが、子供達の昂る感情は終息しないように思えた。

 

結局やよい達の両親は職員と話し合い続きを近くの喫茶店で済ますことにした。

 

取り残された子供達はみな深刻な表情を浮かべて自分達の未来を案じていた。

「ねぇ、僕が生まれなかったら、お姉ちゃん達の生活はもっと楽だったのかなぁ?」

ふと浩司が口にした。

「なんてこと言うの! 

 ……そんなことないよ。そんなこと……絶対にないから!」

やよいは浩司を抱きしめてそう言った。だかそれは自分にそう言い聞かせるようでもあった。

かすみは惨めさに耐えられず、とうとう声を上げて泣き出してしまった。浩三もそれに続いた。

 

やよいと長介は二人を必死になだめようとした。

 

浩三の唸るような鳴き声は、まるで自分達の窮状を世界に訴えるように、薄く屎尿の臭いがたちこめる高槻家に響き渡った。

「もう、お姉ちゃん、どうしたらいいの?」

やよいもとうとうめそめそと泣き出してしまった。

弟の長介は歯がゆそうに姉を見守ることしかできなかった。

 

 

職員だけが原因ではなかった。

 

これまで社会や学校で受けてきた数々の出来事が彼等を疲弊させていたのであり、その蓄積が蓋を外され漏れ出したのである。

子供達の胸には、彼等の尊厳を吸い尽す巨大な蛭が付いているようだった。

光太郎が養分を吸われた様に乾燥した肌を爪で引っ掻くと、粗目のような角質が飛散して、それを喰らうダニが住む畳の上にパラパラと落ちていった。

 

食いつないではきた。

 

それでも自分達の将来の可能性を否定される大人達の言葉には納得できなかった。

やよいの本能は、それに屈してはならないことを知っていた。

だから心の底から健気に振舞った。

 

弟達のことを想えば、胸の奥から染み出るように、やよいの顔に笑みを咲かせた。

やよいが高槻家の最後の砦だった。

弟達に笑顔を絶やさない事が、彼女の反抗であった。

 

 

両親と職員が帰ってきた。

 

彼等の口から出てきた信じられない言葉の数々は、石を握り締めた拳のようにやよいを打ちのめした。

「だっ……、だめです」

やよいは両手を横に伸ばし大人達の提案を拒絶する姿勢を示した。

「そんなの、絶対にだめです!」

 

両親の収入が安定するまで、浩司と浩三を育児施設に預けるというのだ。

 

やよいは、泣き止んだばかりの腫れた目のまま、職員に駆け寄り言いよった。

「私が働きます。何か。何か私でもできる仕事はありませんか?」

職員は困った顔をした。

公務員が中学生に仕事を斡旋することなど無理な相談であった。

 

しかしやよいは引き下がらなかった。

「お願いします! お願いします!」

絶叫する姉の声は意味を成さないサイレンのようにかすみの心を揺さぶった。

かすみは胸が張り裂ける想いで、物乞いをするように職員に張り付く姉を見ていた。

 

この壮絶な光景はかすみの心に赤く焼き付けられた。

 

 

職員はやよいをなだめてから両親に話し始めた。

「やよいちゃんでも働ける口があるかもしれません。

 ……これは職務範囲を超えているので内密にして欲しいのですが、よろしいでしょうか?」

やよいは頷いた。

「うちの娘が通っている芸能事務所があります。

 そこならばやよいちゃんでもできる仕事があるかも知れません。

 ご紹介したいと思うのですがいかがでしょうか?」

やよいは再び頷き、この刹那に社会に出る覚悟を決めていた。

 

 待って。

 どうしてお姉ちゃんが?

 

かすみの瞳からは光が吸い取られたように消え失せていった。

何一つかすみには納得できなかった。

 

 

職員の星井が父親に連絡先を渡し高槻家を後にすると、かすみと弟達は祈るように姉の顔を見上げていた。

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#2 扉の向こうに

 

 

やよいは間もなく765プロダクションという芸能事務所で働き始めた。

学校が終わると事務所に直行するようになり、帰宅時間は遅くなっていった。

 

最初の半年、やよいが稼いでくる収入は僅かなものだった。

暫くは最低限の生活費は両親がまかない子供達の玩具や娯楽といった出費がやよいの稼ぎから支出されるようになった。

やよいにとってこの予算分配ルールは、弟達に言う事を聞かせる装置として上手く機能していた。

余所の人が考えているよりも、姉としてのやよいは厳しいのである。

 

姉の事務所で働いているアイドル達はまだ知名度が低く、たまにテレビに出演することはあってもゴールデンタイムの番組に出演することはなかったので、かすみ達には姉が芸能事務所で働いているという実感が薄かった。

姉に対する遠慮もあって、弟達が仕事先についてあれこれ聞くことはしなかったので、やよいが765プロで何をしていたのかは伝え聞いた範囲でしか分からない状態だった。

 

 

――土曜の朝

 

「ねぇ、かすみ。お姉ちゃん達のレッスン、見に来ない?」

突然の誘いにかすみは戸惑ったが、少しでも長く姉と一緒にいたかったので、その言葉に甘えることにした。

 

二人は横に並んで歩きながら都内のレッスン場に向かった。

姉と会話する機会が少なくなっていたかすみは、姉に学校での出来事を一方的に話し続けた。

 

 ――運動会でリレーの選手になったこと。

 ――お小遣いがないから友達とカフェに行けなかったこと。

 ――クラスにかすみの家庭事情をあげつらう女の子がいたこと。

 ――助けてくれたクラスメートがいたこと。

 

姉は明るい話題でも暗い話題でもやさしくうんうんと頷きながら妹の話を聞いてくれた。

 

 

「あそこだよ、かすみ」

どうやら目的地に着いたようだ。

正直に言うと初見は何の変哲もない寂れたビルにしか見えなかった。

狭い階段を昇り姉がドアを開けた。

 

それはかすみにとって、文字通り運命の扉だったのかも知れない。

 

 

音響がなくても部屋中に響き渡る歌声、シンクロするダンス、その合間に聞こえる床とダンスシューズが摺れる音と彼女達の呼吸。

そんな激しい動きの中でも崩れることがない彼女達の表情。

 

かすみは間近で見るアイドル候補生達に圧倒されていた。

 

母や姉や学校の先生や同級生とは違う女性達。真摯に自己表現に取り組む者達の熱気にかすみは仰け反った。

少女の視点から見る765プロのアイドル達は、かすみに強烈な憧れを喚起するものだった。

 

 す、すごい……。

 

かすみはその中で揉まれる小さな姉の姿をとらえた。

 

 この中にお姉ちゃんがいるんだ!

 

かすみの心には姉に対する誇りがむくむくと湧き上がっていた。

 

「あっ。やよい、来てたのね」

「おはようございます!

 あのー、本当に妹を連れてきてよかったんですか?」

「もちろんよ。

 へぇー、この娘がかすみちゃんかぁー。

 こんにちわ、かすみちゃん」

眼鏡をかけた女性がかすみに話しかけてきた。

「あ、あの、こ、こんにちは」

かすみは少し怯えたように返事をした。

「うふふっ。かわいいわねー。

 さってと。

 お姉ちゃんも練習しなきゃいけないから、ここで座って見ててねぇー」

かすみは部屋の端のソファーに座ると、二人の女の子がかすみに話しかけてきた。

「おぉーう。やよいっちの妹だねぇー。

 ねえねえ、お姉ちゃん達と遊ぼうか?」

「え、あっ……、はい」

「あれれぇ、緊張してるのかなぁ?」

かすみは初対面でも二人が仲良くしてくれることを嬉しく想った。

その後、暫くかすみは双子にもみくちゃにされたのであった。

亜美と真美にとって、かすみはめずらしい玩具にすぎなかったようだ。

 

 

かすみはようやく双子から逃れ、また姉を探し始めた。

 

 いた!

 隣の人は誰だろう?

 ……ふーん、綺麗な人だなぁ。

 

かすみはフロアの端にいた姉の練習を覗くことにした。

 

「ちょっと! また間違ってるじゃない!」

やよいが相手の娘に叱られていた。

かすみにはどこが間違っているのか分からなかったが、とにかく、彼女は姉の出来が気に入らなかったらしい。

「ううぅ、ごめんなさいー。もう一回通す?」

「当たり前じゃない!」

姉が他人に注意されているのを見るのはかすみにとって珍しい出来事だった。

かすみは二人のダンスを見ていたが、ゆったり踊る伊織とぴょんぴょん跳ねる姉の組み合わせはチグハグな印象を与えた。

 

自然とかすみは二人の真似事を始めていた。

 

「あっ、かすみちゃんもやりたい?

 美希が教えてあげるよ」

かすみに明るい髪色のお姉さんが話しかけてきた。

「あのね、まず、バーンと立ってから、ぬうーっと入って、それから、キュキュッ、ターン、なの」

 

 うーんと、うんと……あれ? こう?

 

かすみは振り付けを修正されながら1パートだけマスターした。

いろいろ大変な場所なんだなとかすみは思った。

「やーん、かすみちゃん上手なのー」

幼いかすみでも、それが社交辞令だというのは分かった。だが悪い気はしなかった。

「でもね、未だかすみちゃんはね、『ぬうーっ』じゃなくて、なんか『にゅぅーっ』になってるの、そこはね……」

「こら、美希、遊んでんじゃないわよ!

 クインテット、通すわよ!」

「は、はいなの!」

 

 さっきの眼鏡の人だ。偉い人なのかなぁ?

 でも『遊び』だなんて言い方は傷つくなぁ。

 

かすみは一人で美希に教わったパートを何度も繰り返していた。

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暫くすると五人が曲に合わせて踊り始めた。

各自が忙しく持ち場を廻りながら自分のパートを歌っていた。

 

やよいを含む年少組はそれを見ていた。

かすみは美希から褒められて嬉しかったので、無意識のうちに五人のダンスの真似事をし始めていた。

 

「こらっ! 大人しくしてなさい!」

かすみは姉に捕まりソファーに引き戻された。

「ふーん、妹に対しては偉そうにするじゃないの」

伊織がやよいに突っかかった。

「そ、そんなんじゃないですー」

姉は決まりが悪そうだった。

かすみは姉が馬鹿にされたようで腹立たしかったが、いつも自分を叱る姉が他人に注意されているのは内心愉快でもあった。

 

 バタッ!

 

突然曲が中断された。

誰かが倒れている。

「い、痛っ……。ご、ごめんなさい。足つっちゃいました」

ショートカットの人が走り寄り、倒れた娘の足を解し始めた。

「うぅ、本当に私、だめだめです……」

その娘が別室に退場すると、律子は暫く考えた後で姉に声を掛けた。

「やよい。雪歩の代わりやってちょうだい」

「は、はい!」

姉が真剣な表情に変わった。

 

かすみは引き続き練習風景を見ていたが、また無意識にダンスの真似事をしていた。

 

 私も……。

 私も、お姉ちゃんと一緒に……。

 

かすみはふらふらとトレーニングルームの中央に寄っていった。

 

曲は五人が手を振りながら大きな輪を描くようなパートに移った。

誰もが練習に集中していてかすみが眼に入っていなかった。

 

「キャッ!」

かすみはその輪に巻き込まれ吹き飛ばされてしまった。

 

「ちょっとストップ!」

かすみはぶつかった娘に起こされた。

「かすみちゃん、大丈夫?」

リボンをしたお姉さんが優しくかすみを気遣ってくれた。

 

 バシッ!

 

刹那、かすみは姉に頬を叩かれ、目の前が真っ白になった。

「かすみの馬鹿! 大人しくしてなさいって言ったでしょ!」

かすみは何が起こったのか分からなかった。

耳がジーンジーンと鳴っていた。

「言う事聞かないんだったらもう連れて来ないから!」

知らない人達の面前で姉に叱られた恥ずかしさと痛みから、かすみは大声を上げて泣き出してしまった。

 

「だめよ、やよいちゃん」

髪の長い女性がかすみを抱き上げた。

「あらあら、かわいそうに、かすみちゃん」

かすみは彼女のふくよかな胸に顔を埋めて涙を拭った。

 

練習が終わるまで、かすみはソファーで座っていた。ずっと不貞腐れたままだった。終わるまでの時間が随分と長く感じられた。

 

 ここはお姉ちゃんが真剣に仕事をしている場所なんだ。

 ……お姉ちゃんは、私が知らない世界で生き始めているんだ。

 

そう考えると、かすみは突然寂しい気分に襲われた。

 

 今日は来ないほうが良かったのかな?

 きちんと大人しくしているべきだったのかな?

 

大人から見れば765プロのレッスンは少女達の遊戯に見えるかもしれない。

しかし、少女から見上げるアイドル候補生達の熱気は、荒波となってかすみの心を打ちつけた。

 

かすみは、目の前にいる姉が自分からどんどん遠ざかってゆくような錯覚に捕らわれていた。

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後で聞いた話だが、姉が候補生として登用されるまでは、事務所の掃除など雑務係として働いていたのだという。

 

 きっとお姉ちゃんは自分がアイドルの端くれとして活躍し出した姿を私に見せたかったんだ。

 それを邪魔してしまったから怒っちゃんたんだろう。

 

765プロのアイドル達の練習風景を見て、一つかすみがはっきりと理解できたことがある。

それは姉がもう自分だけのものではないという事実だった。

 

まだ小さなかすみにとって自分の世界は家と学校だけであった。少し前までは姉もその中にいた。

 

 でも今は違う。

 

姉は自分が知らない世界の住人になりつつあり、人間関係その世界が中心となりつつある。

かすみは自分と姉の間にある距離を認識するようになった。

 

以前まで姉が帰ってくると無邪気に飛びついて遊んでくれるようねだった。それもあの練習風景を見てからは遠慮するようになった。

就寝前に姉の胸に埋まって髪を梳かしてもらうのも二人だけの暗黙の約束事だった。それも自分で梳かすようになった。

最近姉は事務所から支給された携帯で事務所の仲間達と話をするようになっていた。

かすみの知らない人達と楽しそうに会話する姉を見ているのは、まだ姉への依存が強かったかすみにとって辛いことだった。

男の兄弟達は、子供ながら存在する男社会の住人になりつつあり、女性であるかすみには関心が向かなくなっていった。

 

かすみはまるで巣から飛び立てない雛鳥のようだった。

 

 

働き始めたやよいであったが両親が居ないときの食事の世話はしてくれていた。

 

やよいは長介と浩司が学校から持ち帰ってきた食パンを二枚取り出し、ピーナツバターを塗って挟んだ。

それを包丁で四つに切って、同じく持ち帰ってきた牛乳と一緒に煮込んだ。

それを二切れずつ弟達に食べさせた。

 

名状しがたいデザートだったが、とにかくやよいが作るとおいしかった。

 

姉は弟の食事の世話をしながらかすみに近況をたずねた。

「ねぇ、かすみ、最近どう?」

「別に何もないよ」

「今度は事務所に来てみない?」

かすみは黙って首を横に振った。

食事を済ますと食器を流しに運んだ。弟達は他の食べ物を要求して騒いでいた。

やよいは台所の戸棚から氷砂糖と煮干を人数分取り出し弟達に手渡した。

それを手に弟達はテレビを囲んだ。

 

やよいはかすみを手招きすると、ポシェットからティッシュに包まれたクッキーを取り出し一つかすみに手渡した。

「秘密だよ」

不均等なチョコレートの塊が入ったチョコチップだった。きっと誰かの手作りなのだろう。

かすみは素早くそれを口に放り込んだ。

「いい子にしててね、かすみ」

やよいはそう言い残すとレッスンに出かけていった。

 

 

それから数日後、かすみが学校から帰って冷蔵庫を開けると、卵のパックがぎっしりと詰め込まれていた。

姉に聞くと、特売の一人一パック限定の卵だったが事務所の子達が買い物に付き合ってくれたおかげで大量に購入できたのだという。

かすみは姉が事務所で信頼を得ている証拠だと考え嬉しくなった。

 

それに、かすみはやよいが作るだし巻卵が大好きだった。

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#3 明日への階段

 

 

帰宅したやよいを起きていたかすみが出迎えた。

今日は765プロの合同レッスンだった。

姉は言葉少なげだった。

 

本当は姉に話したい事が沢山あるのだが、姉を気遣うが故に、かすみは黙って姉を見つめているだけで我慢していた。

「起きてたの? もう遅いじゃない。お姉ちゃん先に寝るからね」

かすみは布団に入り暫く寝たふりをした。自分が眠らないと姉が気にして眠れないからだ。

間もなくやよいが小さないびきをかきだした。

 

疲れ果てていたのだ。

 

姉の寝顔を見ながら、かすみは自責の念を深めていた。

姉を愛して止まないが故、姉ががんばればかんばるほど、やさしければやさしいほど、かすみは自分の無力さに対する苛立ちを覚えた。

 

 私達の為に、姉はこんなにがんばってくれる。

 姉がこんなに苦労しているのは私達のせいだ。

 少しでもお姉ちゃんを助けることはできないだろうか?

 何か私にできることはないだろうか?

 

かすみは自分ができることは何かを考え続けた。

765プロという芸能事務所、伊織を始めとするアイドル達、姉に声援を送ってくれるファン達、皆が姉を必要としている。

 

 だから自分は我慢しなくちゃ。

 

かすみはそれが最善だと考えた。

だがかすみはこうも思った。

 

 765プロに、お姉ちゃん盗られたんだ。

 

と。

 

 

高槻家の両親の仕事は安定せず時間帯も不規則であった。

夕食で一家団欒の時間がないわけでもなかったが、それは両親の仕事がなくその日の収入がなかったことを意味していた。

高槻家の家計は以前と比べて危機的な状況は脱してはいたものの、やよいの芸能活動による収入も兄弟達の成長に伴う出費で食いつぶされていった。

公共料金を滞納する程切羽詰まった経済環境ではなくなったものの、明日どうなるか分からない不安はいつまでも付きまとった。

 

間もなく、かすみは新聞配達のアルバイトを始めた。

本当はその配達所ではアルバイトできない年齢であったが、人手不足の折、書類上は兄の長介の名義を使い働かせてもらった。

 

担当区域は郊外特有の坂が多い住宅地だった。本来は二人で廻る地区を一人で担当した。

自転車で廻っては、長い階段の昇降し、終わることには汗でびっしょりになっていた。

これを朝夕繰り返した。

 

このアルバイトはかすみに多くのものを与えた。

さほど多くは無かったが給料が入るようになり、金銭を理由に学校のイベントをキャンセルすることもなくなった。

何よりもかすみに自尊心を与えた。

後になって考えると子供っぽい話であるが、密かに自分の普通口座を大人の証として自慢に思っていた。

そして配達を通した規則正しい運動が、かすみの基礎体力と自己管理能力を築いた。

こうしてかすみは同年代の女の子と比べて少し大人びた印象を与える娘に成長していった。

 

しかし学校での人間関係は相変わらず上手くいっていなかった。

家庭事情からくる劣等感が、他の娘達に対して心を開くことの妨げとなっていた。

重ねて、姉が芸能事務所に通っていることを秘密にしていたため、無意識のうちに普段の会話でも言葉を選び本音を見せないよう警戒するようになっていた。

足が速く歌も上手だったので、それなりに友達がいないわけではなかったが、かすみはなかなか心を開かない少女になっていた。

 

「ごめんね、かすみちゃん。私、明日から塾に行かなきゃいけなくなったんだ」

「かすみちゃん。クラブ活動があるから今日は一緒に帰れないの」

少なかった友達も、一人ずつかすみから離れていった。

 

孤独を紛らわせるため、かすみは時間を塗りつぶすように働いた。

皆が夢を見る夜明け前の街で、皆が家庭に帰る夕暮れの中で、小さな体とその影が坂道を駆けていった。

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新聞配達のアルバイトが生活の一部となり体に染み付くようになってくると、かすみは暇を弄ぶようになった。

クラブ活動もしていなかったので、若いかすみはその身をもてあましていた。

 

そんな時、公園でダンスの練習をしている少女達を目にした。

 

かすみはその風景を見ながら、姉の仕事に想いを馳せていた。

 

 お姉ちゃんも765プロでこのようなふうに練習する日々を過しているのだろうか。

 

「私にだって……」

かすみは無意識にそう呟いた。

 

かすみは自分の言葉に驚き、そして、考え始めた。

 

 私もがんばればお姉ちゃんのように芸能事務所で働けるかもしれない。

 姉の替わりに家計を支えることができるかもしれない。

 そうだ、姉ばかりに苦労を掛け続けてはいけない。

 今まで姉が私達の生活を支えてくれたように、今度は私が兄弟の生活を支える番だ。

 

 私が甘えているから、姉が毎晩遅くまで働かなくてはならないのだ。

 だったら、今すぐ行動に移したい。

 でも、どうやって……?

 

 765プロに行ってもどうせ邪魔者扱いにされるだけだし……。

 

ふと気が付くと、少女達のダンスを指導しているらしき青年がかすみの目の前にいた。

「君、さっきから僕達の練習を見ていたよね。もしかして興味あるんじゃない?」

かすみは驚いて逃げ去ろうとしたが、思いとどまって問いかけに応えた。

「えっと……、ごめんなさい、その……、上手だなーって……」

「今日一人休んでてコンビネーションの練習ができないのよ。よかったら手伝ってくれる?」

「でも、邪魔になるだけじゃ……」

「心配することないよ」

 

そうしてかすみは少女達に混じり練習を始めた。

娘達はかすみが基本的なステップをこなして踊るのに驚いた。

「へー、ど素人ってわけじゃないんだな」

「姉がダンスやっているんで、教えてもらってたんです」

かすみは恥ずかしそうに答えた。

最初は遠慮がちに踊っていたかすみも、振り付けを覚えると楽しくなり終わりの方では伸び伸びと踊るようになった。

 

「今日はありがとう。君、練習すればもっと上手くなるよ。うちの事務所に来てみたら?」

青年は鞄から小さなパンフレットを取り出しかすみに渡した。

 

彼女達と別れると、かすみは一人そのパンフレットを手に、公園のベンチに座って案内を何度も何度も読み返した。

 

どうやら芸能事務所の練習生募集のパンフレットらしい。

しかし右下に書いてあったレッスン料の金額がかすみを失望させた。

それと友達を紹介して入会させるとキャッシュバックがあるという記述もかすみを傷つけた。

 

 結局さっきの人はこのキャッシュバック目的で私に声を掛けただけじゃない。

 

後で分かったことだが、この手の練習生募集を通して入った者から、アイドルとしてデビューできるのは皆無だという。

つまり、事務所の看板に釣られた富裕層の子供達を捕まえ、有名芸能人と同じ事務所という自尊心を金で売っているのだ。

もともと稼ぎ頭になるような有望なアイドルの卵はそれなりの目利きが調達してくるのである。

 

しかし、かすみは直ぐには諦めなかった。

 

 お姉ちゃんだって最初は事務所の手伝いとして転がり込みチャンスを掴んだんだ。

 私がここで諦めてどうするのよ。

 とにかく行ってみて駄目なら駄目で諦めよう。

 何もせずに諦めるなんてできない。

 

かすみはパンフレットをもう一度見た。

『961プロダクション』と書いてあった。

 

 どこかで聞いたことがある名前だけど、忘れちゃった。

 えっと、次の説明会は来週の土曜日か……。

 

かすみは決意を固めた。

-9ページ-

――土曜日

 

かすみはパンフレットに書いてあった事務所のビルに到着した。

その事務所は眼も眩むほどの高層ビルに入居していた。

ビジネス街に来るのが初めてだったかすみは、まわりをきょろきょろと不安そうに見回していた。

 

暫くすると何人かの同世代だと思われる女の子達がエレベーターに向かって歩いていった。

よく見ると説明会らしき案内の看板が立っていた。

かすみはその流れに乗って説明会場まで滑り込んでいった。

 

エレベーターの中で、早くもかすみは自分が場違いな存在であることに気づいた。

 

 −髪の艶が違う。

 −肌の輝きが違う。

 −着ている服の質が違う。

 −何よりも目の輝きが違う。

 

彼女達は名門961プロダクションでアイドルを目指すプロの卵なのだ。

周りから奇異な物を見るような視線を感じ、かすみは不安でいっぱいになった。

 

この時、かすみ自身は自分の持つ魅力に気づいてはいなかった。

質素で孤独な生活が与えたシャープな輪郭と見るものを引きずり込むような瞳の輝きは、普通の家庭で育った娘達には決して備わらない彼女の素質であった。

 

 

説明会場はパイプ椅子が並んだ質素なものだった。

「やあ、君か。来てくれたんだね」

あの時の青年だった。

かすみは知り合いをみつけて嬉しくなったが、青年は直ぐに他の娘達にも声を掛けていった。

かすみは直ぐに自分がその他大勢の一人に過ぎないことを悟った。

 

縞模様のスーツを着た中年の男がマイクを持って説明を始めた。

要約すると、放課後レッスンの施すので毎月レッスン料を払えということで、特典として現役のアイドルのレッスンを受けられるかもしれないというものだった。

ただし、それは特別クラスのメンバーの方が頻度は高く、そこはレッスン料も特別であるということだった。

そして優秀な娘は961から抜擢されアイドルになれるというものだった。

 

もちろん、詐欺に近い内容だった。

現役のアイドルが来ることなど先ずないし、961社長の方針通り961プロのアイドル登用は原則として一本釣りなのである。

ただ、少女達に夢を見させる対価として小遣い程度のキャッシュフローを受け取るこのシステムを、誰も詐欺とは言い切れないのかも知れない。

 

最後に男が青年を紹介をした。

「彼がレッスンを担当する翔太だ。君達と年も近いし実力があるので先ずは彼に基礎を習ってほしい。そうだ、翔太、ちょっと見せてやれよ」

翔太がニヤリと笑ってから宙返りをして見せると会場に黄色い声が漏れた。

「君達とのレッスンを楽しみにしているよ」

 

 翔太さんか……。

 

かすみも一瞬色めきはしたが、それよりもレッスン料のことで頭が一杯だった。

ジュニアコースなら月額一万円アルバイト料で払えない額でもなかった。ここまでの交通費も馬鹿にならない。

かすみは悩みに悩んだが、だめだったら辞めればいいと思い、レッスンを受けてみることにした。

 

かすみを最後に後押ししたのは姉への憧れであった。

 

 

レッスン場は郊外のビルの一室だった。

かすみのアルバイト先から随分と離れていたが、かすみは電車代を浮かすため自転車で一時間かけて通った。

自転車通勤がばれると恥ずかしいので、わざとビルから離れた場所に駐輪していた。

レッスンは神経質な中年女性が担当していて翔太がレッスン場に現れることは希であったが、かすみは真面目にレッスンを消化していった。

他の練習生達と親しくはならなかったが、新聞配達で基礎体力が備わっていたかすみは、実力派練習生として一目置かれるようになっていた。

 

レッスン場は少女らしからぬ女同士のエゴが露骨にぶつかりあっていた。貧乏な家庭に育ち控え目でみすぼらしい格好をしたかすみは直ぐにからかいの対象になった。

裕福な家庭で育ったと思われる少女が健気に練習するかすみを馬鹿正直すぎると侮蔑したりもした。それでもかすみはそんな言葉に負けず練習を続けた。彼女を支えたのは、自分が高槻やよいの妹であるという誇りだった。

 

レッスンの間、かすみは765プロを見学した時に観たアイドル達を自分に重ねていた。こうしてレッスンに身を投じることが、かすみの孤独を癒してくれた。

 

 

――ある日のこと

 

一人の青年がレッスン場にやってきて彼女達を眺めてから大声で号令をかけた。

「おい、下手糞共! 俺が鍛えてやる」

先輩アイドルによるシゴキだった。

 

その男はミスをした娘に、それがどんなに幼かろうと、容赦なく手を上げた。

すすり泣く娘。殴られる娘。逃げ出す娘。レッスン場は阿鼻叫喚になった。

 

かすみはその男を睨みつけた。最後に残ったのは彼女だけだった。

「クソッ! なんだその目は!」

男はかすみを足蹴にした。それでもかすみは耐えた。

「あ、あの……」

「ああん?」

「レッスンをお願いします!」

 

かすみの執念にとうとう男は観念したようだった。

短い時間であったが、かすみは男のレッスンに自分の成長を感じた。彼の意識がずっしりと自分に圧し掛かってくるようだった。

「フッ、まぁこれぐらいにしといてやるよ。

 大した根性だな。お前、名前は?」

「か、かすみ……です」

 

男の名は、天ヶ瀬冬馬といった。

 

その後、冬馬の一件で何人かの練習生が辞めていった。

あれだけの暴行があったにも関わらず、何の騒ぎにもならなかった。これが961プロダクションの体質でもあった。

 

それでもかすみは、ここから逃げ出すのは諦める事だと考え、961プロに通い続けた。

こうして数ヶ月が過ぎていった。

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ある日かすみがレッスン場に行くと、皆レッスンをそっちのけで961プロの話題で盛り上がっていた。

どうやら翔太さんが何かの大会に出場するらしい。知らない間に翔太はどこかのグループメンバーとして抜擢されていたのだ。

他の練習生は有名アイドルが身近な存在であることに興奮冷めやらぬ状態であったが、かすみは意に介せず準備体操を始めた。

 

 ジュピター……か。

 

なにしろ昔765プロの練習場でぶつかった女性が、最近歌番組に出演している天海春香だと気づかない程の無頓着ぶりである。かすみ程、芸能界の疎い練習生はいなかった。

 

その代わり、かすみが求めたのは充実だった。かすみは学校とアルバイトとレッスンで生活が隙間なく埋まっていった。この頃のかすみは、姉が自分から離れてゆくことでできた穴を埋めることに必死だった。

 

練習生達の表情は決して明るくはなかった。

そのジュピターのリーダーは、自分達を虐待した天ヶ瀬冬馬であったからだ。

 

 

――数ヶ月後

 

その日は事務所のお祝いとか何とかでトレーナーが休むためレッスンは中止された。

特に行く宛のないかすみは自宅で過すことにした。

最近のレッスンで体の節々が痛い。たまには休養も必要だろうとかすみは思った。

 

まだ夕方だったが珍しく姉が帰宅していた。

しかも姉らしからぬ悲痛な表情を浮かべていた。

「もうお終いだよ……」

一体何事だろう。

「あのね……、もうお仕事なくなるかもしれない……」

「えっ、なんで?」

「この間ね、事務所の先輩達がコロシアムで負けちゃったの。

 それでね、先輩達が引退することになったの」

かすみはテレビの番組を見ていなかったが、そのコロシアムという歌合戦のようなイベントはレッスン場で話題となっていたので知っていた。

「でも、どうして?

 引退なんかする必要ないのに」

「心が折れたの」

 

かすみはまだコロシアムのシステムを知らなかった。

 

それは偶然が生み出したアイドルの殺戮場だった。

最初は決勝の二組が残るまで様々なメディアが連日そのアイドル達を追いかけるオマケがついたテレビ局の企画にすぎなかった。

初回は注目を集め続ける演出が成功したと評価されたが、準優勝のアイドルが突如引退するという後味の悪い幕切れとなった。

ただ、人気があるアイドルが突然引退するのは珍しくなかったので、誰も気にはしなかった。

 

だが、それが数年続くと、関係者もその異常さに気づき始める。

決勝に至るまで勝ち続けるアイドルの精神は異常なまでに高揚し全能感に支配されてゆく。その状態で大観衆の前で優劣を言い渡され敗者の精神はその公開処刑により崩壊するのである。この精神状態は、コロシアム決勝進出者ではないと理解できないものらしい。

 

それでも利益を生むその舞台は今日も廻り続けていたのであった。

 

 

引退するのはかすみの憧れのアイドルばかりであった。

 

 一体誰がそんな目にあわせたのだろう?

 

「ねぇ、お姉ちゃん。誰に負けたの?」

「ジュピターよ」

 

 えっ?

 ええっ? 翔太さん?

 

「かすみ、私ね、いつも人のこと恨んじゃいけないって言っていたけど……」

かすみは姉がこんなに恨めしい表情をしているのを始めて見た。

こんな姉は見たくはなかった。

「……お姉ちゃん、961プロを絶対に許さない!」

 

 ……しまった!

 

かすみはこの時になって始めて自分が犯しているとんでもない過ちに気がづいた。自分が家族に内緒で通っている961プロは姉の事務所のライバル事務所だったのだ。

姉の気迫にかすみはたじろいだ。

とても自分の行いを告白できる状況ではなかった。

 

 いや……。

 私が961プロに通っていたからって、何も関係ないじゃない。

 私、単なる練習生だし……。

 

かすみはそう自分を誤魔化しながら現状を維持するしかなかった。

 

その日からのかすみは喉に物が詰まったような生活を強いられるのであった。

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#4 偽りの中で

 

 

ジュピターの優勝は他の芸能事務所を大きく揺さぶった。

順位の問題ではなかった。音楽の方向性や要求されるダンステクニックが変化したのである。

春香の世代で打ち出していた『身近なお姉さん』というコンセプトは一夜にして過去の産物となりつつあった。

従来のファンは支持し続けてくれるが、悲しいかな芸能事務所の売上の大半は気まぐれな流行の荒波に溺れ続ける大衆によってもたらされるのである。

 

早期の戦略転換が必要とされていた。

 

このタイミングで高木社長は秘蔵っ子の美希を抜擢する。

インパクトのある美希を中心に同年代のやよいと伊織で脇を固めこれに亜美と真美を加えた。

こうして新ユニット「ユナイト」は765プロの主力ユニットとして位置づけられた。

 

この決定は春香達の世代に対する間接的な引退勧告でもあった。

籍は残したものの「事実上の引退」を余儀なくされたのである。

そう言われなくても大観衆の中で否定された春香達の心は既に再起不能な状態であった。

 

 

やよいの登用は高槻家にも影響を与えた。姉が居ない生活が始まったのだ。

765プロの中核メンバーに抜擢されたやよいは遅くまでの練習と交友を優先した。

家計の為という当初の目的は消えてなくなり、自分が戦わなくてはならないという覚悟がやよいを突き動かしていた。

 

姉は手が掛からない妹を有難く思っていた。

妹が自分の世界を持ち始めようだと姉は考えていた。

そうして二人は表面的な会話しか交わさない浅い関係になっていった。

 

かすみは今まで姉と使いまわしていたヘアブラシを止め、自分専用のものを買ってきた。

 

 

――かすみの誕生日

 

姉は居なかったが、その替わり本格的なショートケーキが準備されていた。

 

男兄弟達は無邪気にケーキをほうばっていた。

「これけっこう高かったんいじゃない?」

「ああ、やよいがお金を出してくれたんだ」

父のその言葉を聞いて、かすみはフォークを置いた。

「光太郎、浩司、私、甘いのだめだから食べる?」

かすみはケーキを弟に渡した。長介が文句を言ったが、兄さんは我慢しろと父に諭された。

 

 なによそれ……。

 

布団の中でかすみは都の職員が来た日を思い出していた。

『私、生まれてこなかった方がよかったのかな?』

かすみは浩司の言葉をなぞった。

私の誕生日なんて何も祝福される必要なんてないんだ。

 

久しぶりに姉が帰ってきた。

足音だけでも疲れ果てているのが分かる。

 

 おかえりなさい『高槻やよい』さん。

 

かすみは布団に潜り寝たふりをした。

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やよいの帰宅が連日深夜となった原因の一つに美希の重用があった。

 

もともと独創性の高いタイプだった美希は学校や家庭で押さえつけられていた鬱憤が溜まっていた。

自分の意見を聴いてもらえることに飢えていた美希にとって、ユナイトは自分の自己表現のための最高の手段であった。

そしてこれにプロデューサーも加担する。

確かに客観的に見て美希のアイディアはすばらしかった。

ただ、ダンス一つをとってみても、度重なる変更と調整は他のメンバー達の大きな負担となっていた。

 

プロデューサーはパッとした男ではなかったが、美希に対して子供扱いすることなく彼女の意見を尊重した。

そんなプロデューサーは美希にとって心を開くことができる初めての成人男性であった。

そのような気持ちは直ぐに行動となって現れ始め、彼と美希が真昼間から腕を組んで歩く姿があちこちで目撃されるようになった。

 

さらに美希は人の使い方が上手かった。

文字通り最も踊らされたのが伊織である。

美希は伊織に対して本当の主役だのユナイトの薔薇だの言葉たくみに持ち上げて掌で弄ぶよう難しいパートを伊織に任せた。

その無茶な要求に応えた続けた伊織もさすがである。

亜美と真美も学園祭的なノリを楽しんでいるようだったし、やよいも難しい舞台をやりぬくことに充実感を覚えていた。

 

その中で、やよいは春香達の敵を討つという執念を燃やし続けていた。

 

 

ユナイトの存在は961プロ側も意識するようになっていた。

かすみがレッスン場に行くと姉達の舞台がテレビで流されていた。ライバルの動向分析という訳である。

「フン! レベル低いわよ」

練習生の一人が言い放った。

かすみはムッときたが、確かに翔太達と比べて一人一人の動きはアピールに乏しいと思った。

「ちょっとやってみましょうよ」

別の練習性からの呼びかけが切欠で、765プロのダンスをコピーしてみることになった。

「ねえ、あんた、765プロのこの娘に似ているから、入らない?」

かすみは心臓が飛び出るかと思った。

「あっ、いや、わ、私、……やめとく」

かすみは慌てて断った。

 

五人の練習生達がテレビに合わせてマネをしてみた。

何回か見ただけでコピーできるのはさすが961の門下生といったところである。

しかし、上手くいったのは最初のフォーメーションチェンジまでであった。

五人が縦横無尽にステージ上を移動しつつシンクロしたダンスをするのは、彼女達が考える以上に困難なことだった。

彼女達は衝突したり合わないダンスを微調整しながら最後まで踊り終えた。

 

「……くだらない、止めましょう」

 

負け惜しみのようにコピーを呼びかけた練習生が言った。

この中でかすみは一人理解していた。ユナイトがこのコンビネーションのために莫大な時間を割いて練習していることを。

 

 お姉ちゃん凄いよ。

 

かすみはアイドルとしての姉に対して尊敬の念を抱き始めてもいた。

同時に、アイドル『高槻やよい』への対抗心が芽生え始めていた。

 

 

あの日練習生達が感じていた脅威は誤りではなかった。

 

コロシアムでジュピターがユナイトに敗れたのである。

個々の能力でずば抜けていたジュピターであったが、統率の取れたユナイトのグループパフォーマンスが観衆の目を引いた。

高木社長の戦略眼による勝利でもあった。

 

敵失でもあった。

この頃のジュピターはメンバー同士や黒井社長との仲が上手くいっていなかった。

大会後、961プロは社長とジュピター同士の喧嘩ばかりに振り回されていた。

結局、黒井社長が本腰を入れていたジュピターは結成一年少しで解散することになった。

 

居場所がなくなった翔太はレッスン場に入り浸るようになった。

この頃、かすみは翔太の目に留まり特別に高度なレッスンを受けさせてもらえるようになっていた。

特待生への移籍も薦められたが、かすみは料金を理由に断った。

 

翔太は練習生達に怪しげな予言を言い残していた。

「このままじゃ終わらないよ」

それが何を意味するのか分かったのは一ヵ月後のことだった。

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朝の新聞配達で、かすみは配達所にある芸能新聞に目を奪われた。

『ユナイト星井美希引退か?』

 

 え……?

 えええええ?

 

記事には、プロデューサーと美希が同伴でホテルに入るのを週刊誌にスクープされたため765プロがユナイトの活動停止を発表したとあった。

横には殴られた頬を押さえた美希が泣きながら記者の質問に答えている写真が載っていた。

 

 どういうこと?

 こんな酷い事、一体誰が……?

 

美希を殴った犯人は他ならぬかすみの姉であった。

 

 

765プロの事務所で、今回のスキャンダルに関する事実関係を問いただそうと、社長とプロデューサーとユナイトメンバーが一同に会していた。

プロデューサーは平謝りしていたが、その場で辞表を書かされた。美希が必死になって弁明したが社長は聞き入れなかった。

この時点までは社長は美希の引退までは考えてはいなかった。

「でも美希、好きな人と一緒にいたかっただけなの……」

「場所ってもんがあるでしょ馬鹿!」

伊織が怒鳴り散らした。

「だって……、美希の言う事聴いてくれるのハニーだけだったの。

 ……それで優勝できたからいいじゃない!」

「プロデューサーさんもそうだけど、私達も一所懸命美希さんの言うとおり頑張ってきたのに……」

美希は二人の間に入ろうとするやよいにあからさまな嫌悪を示した。

「ダメなの。やよい達は自分で考えられないからダメなの。

 新しいことに挑戦しない人に、美希はとやかく言われたくなもん」

「いくらなんでもそんな言い方ひどいです!」

「事実なの。昔からそうなの。

 あーあ、春香達も辞めてくれて楽しくなってきたのに」

 

次の瞬間やよいの平手打ちが美希の頬を直撃した。

始めて他人に殴られた美希は悲鳴を上げて床に転げた。

美希は口に手を当てた。切れた唇から出た血が指に絡まりついていた。

 

やよいと伊織は問い詰めるように美希との間合いを詰めた。

そして二人は髪を留めていたリボンを解いて美希の前に突き出した。

「これ、何だか分かりますか?」

それは春香の引退コンサートで二人が受け取ったリボンだった。

美希は気づかなかったが、節目節目で二人はそれを着用し、春香達に対する敬意をメッセージとして送っていたのだ。

 

「確かに美希さんは凄いと思います。

 でもだからって他の人を馬鹿にする権利なんてありません!」

「な、なによ……。分かった。もう分かったもん。

 やよいも伊織もそうなんだ。つまらない大人の手先なんだ。

 こんなつまらない事務所、美希の居場所なんかじゃないの!」

美希はドアを蹴飛ばして外に出て行った。

そこにはスキャンダルを嗅ぎつけた芸能記者が人だかりを作っていた。

「もうお終い! 美希、辞める!」

 

人目をはばからず泣き崩れる美希の嗚咽と、炊き続けられるフラッシュの音が、深夜の街に響き続けた。

 

765プロには自分の居場所を求める少女達が集まってくる。そんな場所だった。

しかしその場所で守ろうとする娘達と作り出そうとする娘達は共存できなかったのである。

 

今年のコロシアムには、誰一人として勝者は存在しなかった。

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#5 他の誰でもなく

 

 

スキャンダルで大打撃を受けた765プロは再び体制の立て直しを図らなくてはならなかった。

その結果が男性社員の排斥であり二頭体制の導入であった。

前者は外部に対する潔癖をアピールする手段であったが、導入できたのは律子という優秀な新プロデューサーを抜擢できたからである。

そして後者の方は独断で物事を決めないようにとの配慮だった。

そうでなくてもやよいと伊織はその体制を選択しただろう。

ユナイトは四人のまま継続されたが、人数を減らしたので演目の組み立てを一からやり直す必要があった。

それが律子の初仕事となった。

 

 

後味の悪い分かれ方をした美希とやよいであったが、やよいがかすみにプレゼントする服を選ぶのに美希が同行することになった。

それは伊織がお膳立てした美希とやよいの和解イベントでもあった。

律子が運転する車で美希と伊織が高槻家までやって来た。

 

「あはっ、かすみちゃーん、大きくなったねぇー」

 

 そういえば始めてダンスを教えてもらったのは美希さんだったっけ。

 よくよく考えるとコロシアム優勝者にダンスを教えてもらったのは私ぐらいかもしれない。

 

そんな考え事をしていたかすみは急に恐縮してしまい、美希に対して何も応えることができなくなってしまった。

 

「じゃぁ、サイズを測るの〜」

美希はかすみを抱き上げた。

 

 え?

 なんなの?

 

美希は自分の感触を疑った。かすみの鍛え上げられた肉体に美希は唖然とした。

 

 この腹筋……それにふくらはぎの膨らみ……。

 こんな幼い顔してるのに。

 

「ね、ねぇ、かすみちゃん、何かスポーツしてるの?」

かすみは美希の質問に焦った。

美希が鋭い女性であることはかすみにも分かっていた。

「え、はい、ダンスを……」

「ふうん……」

美希は釈然としていなかった。

「もしかしてどこかの……」

 

律子のクラクションがかすみを救った。

美希は質問の途中だったが、また律子にねちねちと言われるのが嫌なので、そそくさと車に移動することにした。

その後にやよいが続いた。二人は不自然に小さい会釈をした後、車に向かって歩き出した。

「今日はお願いします。美希さん」

「まかせてなのー」

二人は何か芝居の台詞を話しているようだとかすみは思った。

 

律子は小さくてもこだわりがありそうな店を数点選んで巡った。

人目を避けるためだ。

しかし、美希と伊織とやよいの趣味が一致せず、延々と議論が続いた。

でも、こうして話がはずんでくれれば、後味が悪い美希の脱退を忘れられるような気がした。

 

結局、散々の議論の挙句、シンプルだけど質のいい紺のワンピースで決着した。

かすみが着ると清楚だけどもちょっと大人びた印象を与えた。これには三人も納得した。

帰りの車はガールズトークが花咲いた。

 

しかし、最後まで美希とやよいから、互いに謝罪の言葉は出てこなかった。

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かすみが新しい服を着てでかけたのは、ユナイトの復活コンサートだった。

 

美希のファンを失ったのは大打撃であったが成長期を向かえ大人びた雰囲気を帯びてきた四人で美希の穴は補えると律子は踏んでいた。

ユナイトの名称は継続した。

それはやよいと伊織が決めたことだった。

こそこそと名前を変えてやり直すほど彼女達のプライドは低くなかったのだ。

 

これまで美希が中心となり四人が補足する形式をとっていたが、二組の二人になったり一人と三人になったりと、フォーメーションのバリエーションを増やした。

美希色を払拭したいとの意識が働いていたのか、律子が創り上げた演目はゼロから作り直された形となっていた。

四人は律子の努力に応えた。

わずか一ヶ月で新生ユナイトのコンサートを成功させたのである。

 

かすみもコンサートを堪能した。

いや、分析しつくした。

姉達の舞台よりも、舞台装置や周りのスタッフの動きや進行の時間割りを見ていた時間が圧倒的に長かった。

 

 私もステージに立ちたい。

 

自分でもよくわからない動機で961プロに通い始めたかすみであったが、この頃になるとはっきりとアイドルとしての目標を持つようになっていた。

かすみにとって今日のコンサートはライバルの偵察以外の何者でもなかった。

 

 

このコンサートに一人絶望を深めた者がいた。美希である。

これほどまで自分が創り上げてきたステージが否定されるとは思っていなかった。

それは自分だけではなく、前職のプロデューサーも、完全に否定されたのだ。

 

それでも美希は四人を労いに行った。

「おめでとう」

美希は用意していた花束を真美に渡した。

そして挨拶もそこそこに控え室を去った。

四人は美希が退出する間際も忙しく動き回っていた。

まるで美希がその他大勢の一人とでも言いたげであるようだ、と美希には思えた。

 

 馬鹿みたい……。

 

美希はやり場のない気持ちを抱えたまま舞台裏を後にした。

「あっ、かすみちゃん」

美希はかすみを見つけた。かすみも姉達に挨拶をした後だったが、舞台裏のいろいろな物がめずらしくてうろうろしていたのだ。

美希はかすみを連れて街に繰り出した。一人でいることが耐えられなかった。

 

 

引退したばかりの美希が街を歩いても平気だったのはトレードマークの金髪を止めたからであった。

完全な黒ではないが少し明るくした品のある髪型に変身していた美希は、アイドル時代と打って変わって良家の娘といった風貌になっていた。

 

二人には真面目な姉という共通点があった。

 

かすみが驚いたのは美希が姉に対して一人の人間として良い点も悪い点も客観的に評価していることだった。

 

 ――誠実で真面目であること。でも親の言いなりになりすぎていていること。

 ――美希に対して優しいこと。でも優しすぎること。

 

かすみは姉に対して甘えようとしてばかりだった自分を恥じた。

 

「やよいね、かすみちゃんが隠し事しているみたいだって悩んでた。美希もそう思うんだ。ねぇ、話してよ」

かすみは俯いて何も答えなかった。

「……今じゃなくていいから。でも、もし話す気になったら、美希に最初に話してくれると嬉しいな」

かすみは大きく頷いた。

 

暫く二人は黙って歩き続けた。

「でも、美希、分かってるんだ」

美希の一言にかすみは息を呑んだ。

「かすみちゃーん、カレシできたんでしょー」

「ち、違いますよぉ」

こうして話しているうちに、かすみは美希にすっかり心を許すようになっていた。

 

 

しかし、かすみの秘密は間もなく美希の知るところとなる。

 

「「あっ」」

薄く髭を生やした若い男性がこちらを睨んでいた。美希もその男を睨み返していた。

「冬馬君?」

「お前、星井美希か?」

 

 あっ、冬馬さんだ。

 ……まずい、まずいよ。

 

かすみはその場を逃げ去ろうとした。

「どこいくの、かすみちゃん?」

かすみは美希に手をつかまれてしまった。

振り解く訳にもゆかず、かすみは俯いたまま振り返った。

「ねぇねぇ、かすみちゃん。ジュピターって知ってるでしょ。ジュピターの冬馬君だよ」

「うるせえなぁ、もうジュピターなんて存在しねぇんだよ。何なんだそのガキは?」

「あのね、やよいの妹のかすみちゃんなのー」

「あー、あの知恵遅れっぽいガキの妹か」

とんでもない侮辱発言であったがかすみはそれどころではなかった。

かすみは両手で顔を覆った。

「ん?」

「やーん、かすみちゃん、恥ずかしがることないの」

「おい、お前、961プロの練習生じゃないか?」

「え?」

 

 もうだめだ!

 

かすみは美希の手を振り解き走り去ろうとした。

「ま、待って!」

足の速いかすみだが、慣れないワンピースを着ていたかすみは直ぐに追いつかれてしまった。

 

かすみはひざまずいて二人に懇願した。

「お願いです! 誰にも言わないでください!」

「わ、分かったの。だ、だから、立って。

 ね、冬馬君も誰にも言わないよね!」

「お、おぅ……」

「ね、かすみちゃん。せっかくの服が汚れるよ」

かすみはそう言われると立ち上がって顔を上げたが、そのまま泣き出してしまった。

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二人は人目につかないようかすみを近くの小さな公園まで誘導した。

かすみは泣きながら釈明した。

「さ、最初は、お姉ちゃんみたいな事したいと思っただけなんです……。

 961プロに行ったのは本当に偶然なんです。

 で、でも、765プロと961プロがこんな関係だなんて全然知らなくて……」

「こんなのお姉ちゃんが知ったら大変なことになるよ。

 かすみちゃん、961プロに通うのは止めようよ」

「アイドルを目指しちゃだめなんですか?」

「違うの! そうじゃないの。例えば、そのー……、765プロに来る、とか」

「で、でも、私が765プロに行っても邪魔者扱いされるだけだもん」

 

ここまで聞いて美希は理解した。

やよいがそれを拒んでいるのをかすみが感じ取っているのだ。

弟達に苦労をさせまいと、やよいは何もかも一人で背負おうとしていた。

姉の優しさが、いつの間にか妹の自由を奪っていたのである。

 

しかしそんな事情も知らない冬馬から出てきたのは冷たい通告だった。

「今すぐ辞めろ」

「そ、そんな! 姉が別事務所だからって、それは酷いの!」

「あのな、やよいの妹だとかは関係ねーんだよ。

 おい、お前、さっき『お姉ちゃんみたいに』とか何とか言ったよな。

 お遊戯じゃねーんだ。

 そんな甘い考えで練習に来ているんだったら、二度とうちの事務所に来るんじゃねぇ。

 だいたい他の練習生に失礼だぞ」

「美希に負けた癖に偉そうなの」

「それは別問題だろうが!」

 

「ちょっと待ってください冬馬さん!」

かすみの大声に二人は驚いた。

「私の姉を目指して一体何が悪いんですか!

 お姉ちゃんのことを馬鹿にしないでください!」

「そうなの! かすみちゃん、よく言ったの!」

しかし冬馬は動じなかった。

「辞めろと言っているんだよ」

冬馬の気迫に二人はたじろいだ。

 

「『目指す』だと?

 それに何の意味がある?

 追いついたら次はどうするんだ?」

かすみはぐうの音も出なかった。

「教えてやるよ。

 お前がやっていることはな、『高槻やよいごっこ』だ」

 

図星だった。

 

姉に憧れ、姉の背中を追い続け、そして気が付いたら、自分がどこからどこに行こうとしているのかが分らなくなっていた。

 

言われっぱなしのかすみに美希が加勢した。

「じ、じゃあ、冬馬君はどうすればいいっていうの?」

「俺には自分の理想があるんだ。なんとなく生きているお前らなんかと一緒にするな」

「でも、冬馬君、もうアイドル辞めたんでしょ?」

「少なくても他人を目指したりするような無駄な人生は歩んだりしないさ」

「冬馬君だって自分が何をしたいのか分かっていないんじゃないの?」

「うるせえ!」

 

美希の賢さが冬馬の癪に障った。

冬馬もまたジュピター解散後の空虚な生活に焦りを感じていた。

 

 

かすみは決意を固めた表情で冬馬に言った。

「冬馬さん!

 そこまで言うんだったら、その理想がどれ程のものか見せてくださいよ!

 私、悔しいけど、将来のことなんて考えてませんでした。

 でも、姉に負けたくないと思うようになってきたんです。ごっこなんかじゃありません!

 もし冬馬さんの理想が姉を追いかける以上の価値があるんだったら、私で証明すればいいじゃないですか!」

「ちょ、ちょっと、かすみちゃん! 何言い出すの!」

 

冬馬は黙ってかすみを見下ろしていた。

 

「どうなんですか! 冬馬さん!」

「気安く名前で呼ぶな」

ふと、かすみは姉達からよく聞かされていた言葉を思い出した。そして、ゆっくりと確信するように、冬馬にその言葉を投げかけた。

「……プロデューサーさん」

かすみの何気ない一言が、冬馬の体内を反響していた。冬馬の中で感情か思考かわからないものが煮炊き始めていた。

「……何?」

「お姉ちゃん言ってた。冬馬さん、歌もダンスも上手なんでしょ。

 私に教えて!

 私が冬馬さんの替わりにステージに出る!」

「面白いこと言うな、お前」

「ねぇ、プロデューサーさん!」

 

美希が割って入った。

かすみが連呼するプロデューサーという言葉に美希の古傷が疼いた。

「ちょっと、かすみちゃん。冬馬君はプロデューサーなんかじゃないの!

 そんな呼び方しちゃだめなの!」

 

しかし美希の制止に反して、かすみと冬馬はお互いを真剣に見つめ始めていた。

そこに沸きあがる感情を美希は痛いほど理解していた。

 

 あ……。あぁ、だめ……。

 だめよ、かすみちゃん。

 行っちゃだめ……。

 

美希はがくりと肩を落とした。

かすみは美希に駆け寄り、自分の決意を伝えようとした。

 

「美希さん、ごめんなさい。

 私ね。ずっと961プロで一人ぼっちだったんだ。

 ……仕方ないよね。だってお姉ちゃんがいなくなったから、私が高槻やよいになるしかないと思ってたんだもの」

 

美希は765プロに来た頃のやよいを思い出していた。

伊織も美希も、最初はやよいを気に留めてはいなかった。

 

「知ってるの。

 皆、私のこと貧乏だって馬鹿にしてるの。だからレッスンじゃ絶対負けたくなかった。

 みんなピカピカなトレーニングウェアを着てるのに、私だけ雑巾みたいな服しか持っていなかった。

 ずっと惨めな気分だった。

 でもそれって服とかじゃないんだ。

 だってがんばってもがんばっても、どんどんお姉ちゃんが遠くに行っちゃうんだもん」

 

美希の中で春香が言った。『ねぇ、あの子も入れてあげましょうよ』

どうしてと美希が聞く。春香は『だって女の子だもん』と素っ気なく答えた。

そうしてやよいは765の輪に入った。嬉しかったのだろう。その直ぐ後にやよいはかすみを連れてきた。

 

「私、昔一度だけ冬馬さんのレッスンを受けたことがあるの。凄く真剣なレッスンだった。

 ……冬馬さんだけだった。私に一人の人間として真剣に接してくれたの。

 生きててよかったって思ったんだ」

かすみは身を翻し冬馬の元へ駆けて行った。

美希の目の前には、かつて彼女がそうだったように、信じる者に自分の全てを委ねるアイドルと、彼女の為に全てを注ぎ込もうとするプロデューサーの姿があった。

 

冬馬が念を押した。

「よく考えてから俺の所に来るんだな。

 ジュニアクラスのような御飯事じゃねぇぞ」

かすみは黙って頷いた。

 

 

冬馬を先頭に三人は駅に向かって歩いた。

暫く沈黙が続いた。美希が無理矢理話題を振った。

「ねぇ、冬馬君、あのね、その髭さ、剃った方がいいと思うな」

「そうですよ、プロデューサーさん」

「うるせーな!」

冬馬が髭を気にして触っているのを後ろから眺めて、美希とかすみの二人は声に出さずに笑っていた。

 

この時かすみは、冬馬の空回りがちで熱血漢なところに、姉との共通点を見出していたのかも知れない。

 

 いつの頃からかお姉ちゃんは私のことを叱ることがなくなった。

 それは優しさなのだろうか?

 

かすみはそんなことを考えながら、ずんずんと前を歩く冬馬の背中を見ていた。

 

それから三人は駅で別れた。

765プロから完全に心が離れていた美希は、この日の出来事を口外したりしなかった。

 

帰りの電車の中で、かすみは一人決意を新たにしていた。

話の流れで出た言葉であったが、今まで自分の中でもやもやとしていたものが吹っ切れた気がした。

 

かすみは髪をとめていたゴムを乱暴に取り去り軽く頭を振った。

 

 今まで姉のことを考えすぎていたのかもしれない。

 もっと『高槻かすみ』を大切にしよう。

 

かすみは電車の窓に映る自分の顔を見つめていた。

 

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