協定世界放浪日記1〜7
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1日目

 

 今日から日記をつけることにした。理由は二つある。一つは単純な備忘録だ。私は今、一つ一つの判断が生死を分かつような状況にある。何か迷うことがあったのなら、この日記を判断の材料にしようと思う。自殺志願者でもないのだから、少しでも生存確率を上げる努力はすべきだろう。

 もう一つの理由は、この異常な状況を客観視するためだ。自分の精神や脳が正常であることを、このノートに刻みつける。そうでもしなければやってられない! 今すぐにでも木に頭を打ち付けて、恍惚のまま鼻血の海に沈みたくなってしまう。

 愚痴はやめよう。冷静であれ。架空の読者に語りかけるように平常心が必要だ。

 

 これまで私は日記の類を書いたことがない。作法がわからないので、とりあえず今日あったことを時系列順に書いていこうと思う。

 まずは朝からだ。

 目が覚めると私は見覚えのない森にいた。初っ端からこれである。おしゃれ小説の冒頭のようで気に食わないけれど、どうしようもない事実だ。

 記憶をたどると図書館からの帰り道に行き着く。コンビニに寄ってペットボトルのお茶とおにぎり2個、それにお菓子を買ったはずだ。実際、土がむき出しになった地面には、コンビニ袋と鞄が転がっていた。

 お酒も飲んでいないし、不健全な薬物に手を出した経験もない。コンビニを出たところで記憶はぶつりと断絶し森の中だ。

 理解の範疇を超える異常事態に陥った人間は、本当に頬を抓るのだと理解した。自分の脳を疑うしかないから、そういった無意味な迷信や慣習に従うのだろう。

 頬のちょっとした痛みが薄れるのを待っても、森は消えないし、ピンク色の象さんも現れない。これが現実と思うしかなかった。

 映画や漫画のように、悪者に捕まって危険な森に放り出されたのだろうなんて妄想がよぎった。私は正義の味方でもなければ、他人にあれこれされる借金もない。テレビに映るタレントなら、どっきり番組だと考えられるけれど、幸か不幸かそういった職業に就いてもいない。

 あらゆる可能性を検討し終わってから、はたと気づく。鞄の中に携帯電話が入っている事に。毎日毎日使っている文明の利器の存在を忘れているとは、完全に冷静さを失っていた証拠だ。

 しかし、圏外だった。GPS対応の地図アプリも入っていないので、現在位置を確かめることも出来なかった。

 携帯電話を握る手が震え、自然と力を込めてしまう。この役立たずが7万円もすることを思い出して、色々と思いとどまることができた。一時の感情に身を任せても後悔しかないことぐらい知っている。

 とりあえず携帯電話の電源を切ることにした。こいつが役立たずのまま終わらない事を願った。

 立ち尽くして文句ばかり考えていても仕方ないので、周囲を歩いてみた。前後左右を見渡しても木しか見えない。とりあえず太陽を目印に南に向かって進むことにした。幸いなことに地面は平らで、背の高い木が多いせいで草はそれほど茂ってはいない。歩くのに苦労はしないけれど、行けども行けども森の中で、遠くを見通すことはできなかった。

 鳥の声や木々が揺れる音に混じり、犬の遠吠えのような鳴き声が聞こえた気がした。徐々に足が早まっていった。視界の端で茂みが揺れたのに驚いて転んでしまった。擦りむいた手のひらがジンジンと痛んだ。

 こうやって文字にすると冷静に思えるけれど、実際は神経質に辺りを見回しながら、それこそ初めてお化け屋敷に入った時のような心細さで森を歩いた。途中で何度も何度も携帯電話の電源を入れなおし、電波や時刻をチェックした。電池の消耗が早まることぐらい分かっているけれど、我慢できなかった。

 やがて日が傾き始めた。何も発見できず疲労と焦りだけが蓄積した。走り出したくなるような不安が身体を包んでいた。

 夜を覚悟した私は、少しでも安全に休める場所を探すことにした。日頃の行いが良かったのか、二本の倒木が重なり、ちょっとした角を作る場所がすぐに見つかった。多少は周囲から身を隠せるし、なにより近くに遮蔽物があるという安心感が良かった。

 野営地が決まれば次は火起こしだ。携帯電話の電池は節約したいし、なにより温かさが恋しかった。それに野犬や猪、もしかしたら熊もいるかもしれない。野獣を遠ざけるためにも火は必要だ。

 目の前にある二本の倒木は乾いていて薪にはちょうど良さそうだけれど、大きすぎた。割れた樹皮や裂けた部分を踏みつけて砕いてみたけれど、あまり焚火ができるほどの量は採れなかった。すでに夕暮れ時だ、遠くに行くのは怖いので周辺に落ちている枝や枯れ葉を集めた。焼き芋ぐらいならできそうな一山ができた。

 燃料が揃ったところで、私はコンビニの袋からお菓子の箱を一つ取り出し、薄いビニールの包を開けた。一〇個入りの一口サイズの板チョコを一つ取り出して銀紙を剥いて、ぱくっと口に放り込んだ。乾いた口の中に唾液がじゅわっと溢れだし、刺激的な甘さとともにチョコが舌の上で溶けていった。生命活動を思い出したかのように、頬がきゅっと窄まった。

 チョコを食べたのはお腹が減ったからだけではない。必要なのは、残った銀紙だ。

 長方形の銀紙の二つの長辺をえぐるように千切る。地図記号の橋やルビンの壺のような、両端が太く中央が狭くなるよう銀紙を加工した。鞄に入っていた電子辞書から単三電池を取り外せば、着火装置の材料は全て揃う。

 銀紙の千切りカスやポケットの糸くず、ノートの切れ端などなど燃えやすそうなものを、焚火の枯れ葉にのせる。これで着火準備は全て完了だ。

 電池のプラスとマイナスに銀紙の左右の太い部分を押し付け橋を渡す。すると、銀紙の細い部分から煙が上がりすぐに火がついた。急いで火種を糸くずに持って行ったけれど、銀紙の燃焼が思ったよりも早く燃え移らせられなかった。

 失敗したとはいえ、とりあえず今日の火種の問題は解決だ。小学校の理科室で学んだ実験が、こうして生死を分かつほど役立つ日が来るとは思いもしなかった。自由電子さまさまだ。

 結局、チョコを3つ食べることになったけれど、なんとか火を大きくすることができた。その頃にはすっかり日が落ち、辺りは木々の闇に沈んでいた。

 身体がおにぎりを求めていたけれどグッと堪えた。消費期限+1日ぐらいは大丈夫だろう。500mlのペットボトルでは潤沢とはいえない。飲み物も食料も節約しなければならない。

 固い地面からお尻に土の冷気がのぼってくる。寒いほどではないけれど酷く心細くなった。冷気を払おうと焚火に近づきすぎて火傷しそうになった。

 一息ついた私は酷く疲れていることを思い出した。だから頭を空っぽにしたくて夜空を見上げた。キラキラと音を立てて降ってきそうな満天の星空だった。それは住んでいる街の明かりが届かないほど、遠く離れた山の中だという事実を私に突きつけてきた。深い溜息に焚火が揺れ、いくつもの影が踊った。

 

 この程度の出来事だったのなら私がこの日記を書くことは無かった。疲れていたのだから、そのまま寝てしまっただろう。実際、その時の私は倒木に身体を預けうつらうつらとしていた。

 最初に聞こえたのは鳴き声だった。鳥とも獣とも判別がつかない声が森全体を打ち鳴らした。とにかく恐ろしい声だった。私の眠気は吹き飛び、本能的な恐怖に倒木の陰に身体を押し付け震えることしかできなかった。

 続いて木々の間から何かが逃げ出すように風が抜けていった。激しく炎が揺れた。焚火を守るべきかどうか迷っていると、大きな影が頭上を通り過ぎていった。私は思わず、その影を追って天上を仰いだ。

 白銀に輝く鱗、蛇か蜥蜴のような身体、そして一対の翼。

 それは竜だった。中世ファンタジーを題材にしたマンガや映画に出てくる、あのドラゴンだ。それも二匹! 目測で10メートル以上あるだろう巨体を軽やかに操り飛んでいたのだ!

 私は恐怖も忘れてその神々しい姿をボケっと見続けた。二匹の竜は私の視線になど気づいていないだろう。グルグル回ったり、急上昇と急降下を繰り返したり、二匹で絡まるように戯れたりと飛び続けていた。まるで夜更かしした幼い兄弟が、月光浴を楽しんでいるようだった。実際には求愛のダンスや生殖行動なのかもしれないが、距離と暗さで交接器などは確認できなかった。

 5分か、あるいは30分、もしかしたら1時間だろうか、星明かりの下で私は自分の置かれた状況も忘れ竜の演舞を楽しんだ。

 やがて二匹の竜は月の方角に飛び去っていった。森は安堵するように、そよ風の息吹を取り戻し静寂が戻っていった。

 私は鞄に手を突っ込み筆記用具とノートを取り出すと、弱まった焚火の灯りでこの日記を書くことにした。

 

 正直なところ、私が異常な状況に置かれているのか、私の脳に異常が発生しているのかは分からない。現実の私は病院のベッドで、心電図をピコンピコンさせているのかもしれない。

 ああ、静寂に気が遠くなりそうだ。眠いのに神経はツンツンと尖っている。とにかく身体を休めて、できることなら少しでも寝たい。目が覚めたら、全てが元通りになっているかもしれないのだから。

 

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2日目

 

 結局、私はこうして日記を書いている。

 朝になってもこのふざけた状況は夢まぼろしと消えず、わけの分からない樹海の中だ。脳と身体に栄養を与えるために、とりあえず鮭おにぎりを一個食べた。戻るべき現実を感じさせる味に、行動力が戻っていく気がした。過度の空腹は理性を揺らがせる事を実感した。チョコとアメがまだ残っているので、定期的に糖分だけでも摂取した方が良い。

 腹が多少満たされ私は落ち着きを取り戻した。そして昨晩の幻想的な光景を思い出し、今更ながらに恐怖を感じていた。竜との遭遇が突然であり、さらにその美しさに呆気にとられていたけれど、すぐに火を消すべきだったのだ。もし彼らが暗い森に灯る一点の火を見つけたらどうなったことだろうか。神々しいからと言って、襲いかかって来ないという保証はどこにもないのだ。いま未知の状況に叩き落とされているのだ。どれだけ慎重になっても度が過ぎるということはない。

 慎重さと同時に、私は自ら行動を起こさなければならない。どう考えても救助は絶望的だ。このまま森の中にいたら危険な生物のエサになるか、飢えと渇きで死んでしまう。全てを成り行きに任せて死に逝くほど、私は達観していない。足掻き生きていくことを選択した。

 

 目標はこの森を脱出することだ。森の外には人間がいるはずだ。竜がいるんだから、人間がいないなんて絶対におかしい! 甚だ理論的ではないけれど、そうとでも考えなければキツすぎた。

 

 私は焚火が完全に消えていることを確認し出発の準備を始めた。昨日は混乱していて忘れていたけれど、携帯電話のアプリにコンパスがあることを思い出した。

 アプリを起動してから携帯電話を様々な方向に向けたり、ひっくり返したり、軽く歩いてみたりした。画面内の方位磁針はほぼ同じ方向を指している。

 電子コンパスは周囲の磁性体に対して補正を行うので、磁石を使った方位磁針よりも高い確度が保証されている。とはいえ、それは地球の地磁気に対してなので、信用しすぎるのもよくないだろう。磁北と真北が違うことも一応は留意すべきだ。

 ただ、この場所(世界?)に地磁気のようなものがあると仮定すると、それだけでいくつか想定できる。例えば地磁気の発生をダイナモ理論で説明すれば、地面の下にマントル対流が存在していることになる。地殻が動いているのだから造山運動から大山脈の形成が考えられる。大山脈があれば極端な気候の差異があることになる。こういった外的要因は進化や文明発達の常だ。人間やそれに類する知的生命体が存在すると期待できる。

 というか、他の人間がどこかにいると期待していないとやってられない!

 

 私は昇り始めた太陽の位置を東と仮定し、昨日と同じ南の方角に向かって歩くことにした。コンパスは重要だけれど、昨日のように電波を常に気にしながら動くのは危険だし、なにより電池がもったいない。携帯電話は鞄の底に押し込んだ。

 開き直ったせいか周囲を観察する余裕が出てきた。例えばその辺りに生えている樹木。見る限りではコナラのような広葉樹ばかりだ。一般的に広葉樹は成育が早いので、条件が整えば針葉樹より多く繁茂する。だからこの場所の標高は低いと考えた。平野部か山裾の可能性が高い。また広葉樹は寒さに強くないことから温帯、冷帯だとしても緯度はそれほど高くないはずだ。

 竜の存在する世界だとしても、私が息をして普通に歩いている以上は物事の道理もそれほど変わらないだろう。とはいえ、色々と仮定した大雑把な情報がすぐに役に立つわけもなく。私には、あてどなく森をさまよい歩くことしか出来なかった。

 

 探したのは水場だった。人間が動けなくなる最初の理由は大抵が脱水症状だ。空腹でも歩けるけれど人体の構造上、水が少なくなると脳が引き起こす防衛反応に身体の支配権を握られてしまう。救助が期待できないのだから、もっとも避けなければならない状況だ。だからペットボトルに残っていたお茶を定期的に飲んだ。

 水場ならなんでも良いわけではない。地面に溜まった泥水では困る。衛生的な観点からも池や水溜りなどよりも、流れのある小川やできることなら湧き水が良い。低温の水はそれだけで雑菌の数が少ないことが期待できる。

 

 結局、今日は水場は発見できなかった。けれども収穫はあった。辺りに注意を払いながら歩いていると、頻繁に動物の気配を感じられたことだ。枝を伝わるリスのような生き物、木々の間を飛ぶムササビのような影、穴からひょっこりと顔出した生き物はウサギそっくりだった。それに頭上を飛んでいく小さな鳥から大型のミミズクらしき鳥もいる。私の技術や運動能力で彼らを捕らえるの難しい。しかし、小動物が多数暮らしているという事は、彼らがエサとする木の実や果物が存在するはずだ。全てが肉食ということはないだろう。実際、それらしい食べカスも見つけた。

 鳥だけではなく昆虫類も多く生息している。メスのカブトムシに似た虫や、列を成す黒い蟻、手のひらサイズのバッタなどが、樹の幹や草陰に生息していた。

 昆虫は良質なタンパク源として摂取できる。ビタミンやミネラル、必須アミノ酸も食肉とそれほど変わらない。イナゴの佃煮やハチノコ、アリ、虫キャンディーなど国内外を問わず例を上げたらキリがない。幼虫系は生でも食べられ、甘くて美味しいらしい。

 と、知識では知っているけれど、実際に食べる覚悟はまだできていない。ワキワキと動く節足を見て、私はまだ餓えを選んでしまった。

 残っていた最後のおにぎりを食べる。お米がパサパサになってしまっていて、せっかくのシーチキン味が台無しだ。最後のまともな食事になるかもしれないと悲しくなった。こんなことなら、まだ美味しい昨日のうちに食べておけば良かった。

 なにより困ったのはペットボトルのお茶がなくなったことだ。人間が1日に必要な水分は3リットル程度だ。口にしたのはおにぎり2個とお茶を300ミリリットル程度だ。とてもではないが足りていない。明日はなんとかしなければならない。それこそ昆虫やわけの分からない木の実を食べるぐらいの覚悟が必要だ。

 

 今日のキャンプは樹木の下だ。昨日と同じように火をおこした。地面に表出したうねる大きな根に身体を預けて眠るつもりだ。

 最後に軽く荷物を確認しておこう。

 

 鞄

 筆記用具

 プリントの入ったクリアファイル

 携帯電話 電池は80%程度

 財布 カードやレシート なんの役にも立たない金銭

 ノート 4冊

 電子辞書 単三電池2本入り

 ポケットテッシュ 2つ

 タオル

 ハンカチ

 空きペットボトル

 お菓子 チョコ6枚 アメ10個

 ビニール袋 2枚

 

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3日目

 

 何事も決断は早い方が良い。普段からあれやこれやと悩みすぎて行動に移せないのは悪い癖だ。特にこんな状況では悩んでいる余裕なんてあるはずがない。

 お菓子があることで低血糖は防げているが、遠からず脱水症状や空腹による虚脱が襲ってくる。動けなくなってしまったら、私を待つのは最悪の結末だけだ。

 

 私は水を求めて森の中を一日中歩き続けた。これだけ豊かな森ならば、池や湧き水の一つもあって良いと考えたのだ。コンパスアプリと太陽の位置を頼りに南だろう方向に向かいながら、水の流れる音や気配を求めた。

 一昨日から摂取した水分は500mlのお茶だけだ。唾液もほとんど出なくなっていたので、口の中は張り付き、舌が不健康にざらざらとしていた。アメで多少の電解質が摂取できていなければ、今頃はしびれや脱力など中度の脱水症状が出ていることだろう。植物の蒸散作用で森の中が程よい湿気で満ちているのも幸運だった。しかし、それでも限界が近かいことぐらい分かっている。

 水分として見つけられたのは、苔が群生している湿った地面や土の窪みに溜まった泥水だけだった。どれも飲めるようなものではない。

 その代わりにだが、いくつかの食料を発見することができた。

 まずは黒紫の小さな果実だ。ひと粒が小指の爪ほどのサイズで、木の先端に5〜10個ほどまとまってなっていた。ブドウに似ているけれど、品種改良などされていない力強い不格好さがあった。見つけた時、ちょうどリスのような小動物が食べていたのでそれほど危険ではないだろうと判断した。もちろん、コアラなど人間にとっては有害な植物を糧とする生き物も存在する。身体が大丈夫だとしても、腸内細菌的にアウトという可能性もある。

 私は実を一粒潰すと、その紫色の果汁を二の腕の内側に擦りつけた。気休め程度だがパッチテストだ。

 30分ほど待って塗りつけた箇所を確認すると、紫の汁が渇いただけだった。刺激の強い物質は入っていなそうだと判断し、次に果汁を舐めてみた。

 かなり酸味が強かった。カラカラに渇いた口の中にまた唾液が滲み出るほどだった。今度は一粒まるまる食べてみた。多少の青臭さと、なにより酸っぱさにほっぺたが悲鳴を上げた。飲み込んだ後には舌に若干の渋みが残った。

 美味しいものではないけれど、食べられないものでもないということが分かった。ビタミンとかは豊富そうだと自分に言い聞かせて、口の乾きを癒すのに30粒ほどを平らげた。

 野生の果物は育成環境によって、味がずいぶん変わると聞いたことがある。畑の作物だって日照時間や土の栄養素で糖度などが変わるのだから当然だろう。今日食べた黒紫の実が特別マズイものだったと思いたい。

 他に赤い果実も見つけたけれど、なっているのが木のかなり高い位置だった。私は木登りに自信がないので諦めるしか無かった。あれはきっとものすごく酸っぱいかとてつもなく渋いに違いない。

 果物ではないけれど、何種類ものキノコが森の中に生えていた。比較的簡単に見つけられるのが焦げ茶色の傘とベージュ色の柄を持つキノコだ。その地面を掘ってみる樹木の根から生えていた。植物の根と共生する松茸のような菌根菌タイプだろう。

 また樹の幹から手に平よりも大きな赤い傘を張り出すキノコも多く見られる。これはサルノコシカケなどに見られる腐朽菌タイプだろう。

 きのこは主にこの二つのタイプに大別される。なぜ私がこのように回りくどいこと書いたかというと、第三のタイプとでも呼ぶべきキノコがこの森の中には存在していたからだ。

 私が倒木に腰掛け休憩をしていた時だ。石の上に10センチほどの大きさのキノコを見つけた。茶色の丸い傘に白い柄、しめじを太らせたような格好をしていた。キノコは石から生えているのではなく、置かれているように見えた。エサとして咥えた小動物が、落としていったのかもしれない。もしそうなら毒性がない可能性が高いと私は期待した。まともな食物が見つからなければ、こういったキノコを食べる賭けをしなければならない。

 念のため、近くにこのキノコを食べた動物の死骸がないか確認しようと近づいた、その時だ。

 キノコが二本の足でおもむろに立ち上がったのだ。私は驚き思わず後ろに下がった。私の存在に気づいたキノコは遠ざかるように移動を始めた。見ると、小さいながら手のようなものを振って走っているのだ。我に返った私はキノコを追いかけたけれど、草木に阻まれすぐに見失ってしまった。

 果たして、あれは本当にキノコだったのだろうか。竜がいるぐらいだ、キノコに擬態した未知の虫や小動物という可能性も考えられる。次に見つけた時は是非、確保したいところだ。寂しさを紛らわすぐらいの役に立つかもしれない。

 

 今日はかなり疲れやすかった。栄養と水分が足りていないせいだろう。集中力も続かなくなっていた。このまま無理をして進んでは怪我の心配もあると、早めに野営地を定めることにした。

 そうして、薪を集めてきた時だ。茂みから何かが這い出してきた。茶褐色の蛇だった。もちろん正確に蛇と断定することは出来ないけれどこの際、蛇と呼んで構わないだろう。

 この時、集中力を欠いていた私は、驚きのまま反射的に持っていた枝を蛇に投げつけてしまった。これがいけなかった。枝は地面をペチリと叩き、蛇を怒らせてしまったのだ。蛇はいつでも私に飛びかかれるように身体を曲げてバネを溜めると、尻尾の先を小刻みに振動させた。

 明らかに威嚇行動だ。このまま逃げ出してしまいたいところだが、蛇を挟んで向こう側に鞄がある。薪集めに邪魔なので置いてきてしまっていた。

 蛇は去る気配を見せないどころか、脅すように私の方に近づいてくる。私は後ずさりしながら、武器になるようなものを探した。蛇なら毒があるかも知れない。遠距離から追い払いたい。地面に落ちている小石を蛇の近くに投げたが、興奮しているのか蛇は私を睨みつけてくる。もしかしたら獲物と見られていたのかもしれない。

 後退を続けていると、長径20センチほどの大きな石が転がっていた。私は蛇を刺激しないようにゆっくりと石を取ろうとする。しかし、蛇は黙ってみていてはくれなかった。迫り来る蛇に向かって、私はとっさに両手で抱えた数キロはあるだろう石を投げつけた。

 たいした狙いもつけずに放った石だけれど、幸運な事に石は蛇の頭部を地面に押しつぶしていた。蛇の胴体が苦しそうに悶える。生きているのか、筋肉の反射か分からないが、私は石を両足で踏みつけて確実に蛇へとどめを刺した。しばらくして蛇は動かなくなった。心象的には大蛇だったけれど、冷静さを取り戻して確認すると全長は1メートルも無かった。

 石を退かすと地面に赤黒い血が広がっていた。蛇の頭部はそれほど潰れていなかった。

 蛇の生き血といえば、滋養強壮や精力増強として飲まれることもある。単体で飲む以外にも、臭みを消すためにお酒と一緒に飲む方法もあるらしい。

 血液は栄養が豊富だ。蚊や蛭、吸血コウモリなど他の動物の血を吸う生物もいる。少々臭い生理食塩水と考えられなくもない。

 考えられなくもないけれど、蛇の生き血は飲む勇気はなかった。しかし、肉はいけると思った。

 食べると決めたのなら調理しなければならない。蛇にも死後硬直はあるだろうから、火起こしよりも先に処理することにした。

 注意すべきは牙だ。もしこれが毒蛇なら死んでいても毒が残っている。だから蛇を殺傷した場合、焼却処理する時間がない場合は土に埋めなければいけない。

 私は中途半端に潰れた蛇の頭を靴で踏みつけ、首の辺りを落ちていた石でゴリゴリと擦り潰すようにして切断した。潰れた頭部は軽く掘った穴に入れ先ほどの石を上に乗せた。ヘビ毒を用いた毒矢などに使えるかと一瞬思ったけれど、弓を作る技術も射る腕もない。

 不格好に切断された皮を摘み、尻尾の方へ引っ張ってみた。最初はひっつくような抵抗があったけれど、べろりと捲れ取っ掛かりができた。そのまま力を入れると、皮自体の弾力性のお陰でかなり簡単に剥くことができた。光沢のある白っぽい肉があらわになった。

 内臓の処理は面倒かと思ったけれど、サンマの骨を取るよりも簡単だった。剥き身なった蛇の腹部はナイフで切れ目を入れたかのように、内蔵が露出していた。管状の消化器官や豆粒ほどの内蔵を引っ張り出せば良いだけだった。ライオンなどの肉食動物は、ビタミンやミネラルを摂取するためにこの内臓から食べ始めるというが、私は遠慮することにした。肉となった蛇を大きめの葉っぱに乗せると、原始人の気分が味わえた。

 生臭くなった手を、その辺の葉っぱや岩に生えた苔に擦りつけて血を落とした。完全に臭いが落ちたわけではないけれど、多少はマシになった気がする。嗅覚細胞が疲れているだけかもしれない。

 焚火の準備をするために銀紙を剥がして思った。チョコと一緒なら蛇の生き血もイケたのではと。初めて蛇を解体して神経が高ぶっていたからの気の迷いだろう。

 蛇肉をぶつ切りにするのは難しいので、そのまま丸焼きにすることにした。串が燃えてしまわないように大きめの生枝を選び、巻きつけるように串刺しにした。

 焼き時間の目安は分からない。肉の焼ける匂いだけで、口の中がもぞもぞして落ち着かなかった。それでも我慢して、表面に焦げ目がつくまで遠火でじっくりと焼いた。

 ホカホカと湯気を立てる食べ物は、なんと神々しいのだろう。一口かじっただけで、身体の中に活力が戻っていくような感じがした。肉の味はその感動を追うようにして、後からやってきた。

 鳥のささみ肉によく似ていた。焼き過ぎたからか、元からそういうものなのか、肉汁の感触はあまり無い。軟骨質がアクセントになっていて、噛むたびに旨味が増す感じだ。食事量が減っているので多く咀嚼して、内臓に負担をかけないようにするのにちょうど良かった。

 塩か醤油でもあれば、もっと美味しく頂けるだろう。半分ほど食べ進んだところで、灰をほんの少しだけ肉にかけてみたけれど、塩の代わりにはならなかった。しかし木灰にはカリウムが多く含まれている。カリウムは人体に必須なので摂取しておくべきだ。また灰は強アルカリ性なので、多少の殺菌作用も期待できる。多めに枝などを燃やし、炭化した木と一緒にビニール袋に入れて、持ち運ぶことにした。

 蛇一匹はなかなか食べごたえがあり、満足度の高い食事だった。空腹から開放されると、急に疲れが襲ってきた。

 このまま寝てしまうおうと横になったけれど、眠れなかった。蛇の強壮作用かもしれない。仕方なくこの日記を書くことにしたのだった。

 今はもう頭上でキラキラと星が舞っている。思考も鈍り、寝るのにはちょうど良い。

 

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4日目

 

 今日は朝からどんよりとした曇りだった。太陽が見えないとおおよその方角も掴めなくてとても困る。携帯電話の電池は節約したいけれど、仕方なく何度かコンパスアプリに使った。ちなみに時計の時間は深夜の3時を示していてあてにならない。

 1時間ほどぐらい歩いたところだろうか、森の木々がざわめいた。ポツポツと雨が降ってきたのだ。

 雨足が強まるなか、私は大樹の下に身を寄せた。大樹は葉が茂っていたので、幹の近くまで寄るとほとんど雨を受けることはなかった。

 軒先を借りた大樹は背こそ高くは無いけれど、幹は太くがっしりとしていた。大人10人が手をつないでも一周できないだろう。さらに二本の太い枝を突き出し辺りを葉の陰で覆っている。幹の表面は樹皮がうねっていて、年月を経て刻まれた深いシワのようになっている。まるで祖父の両腕に包まれているような安心感があった。

 進むことはできなくなってしまったけれど、雨は僥倖だ。葉から滴った雨を両手で受けると、溜まった水を口に運んだ。美味しいと感じる暇もなく、水が身体に染みこんでいった。生きるためのスイッチが入ったかように水を飲み続けた。滴る雨水を手で受け止めるのすらもどかしくて、大口を開けて直接喉に入れた。気づくと袖や襟周りがビショビショになっていた。身体に潤いが戻ったところで、ようやく空のペットボトルがあることを思い出した。滴りにペットボトルの口を合わせて、雨水を貯めることにした。

 衣服が濡れて身体が冷えてきたので、火を起こすことにした。昨日は焚火で炭を作ろうと試みたけれど、それっぽい10センチ程度の黒い木片を少し採取できただけだった。土を盛っただけの簡易な物でも炭焼き窯が必要なようだ。

 薪を探してくる必要があった。私は樹の下を離れると、雨に濡れながら、どうにか着火できそうな枝や葉っぱを集めた。地面を掘って乾いた土を出し、その上に枝や葉っぱ、炭の欠片を組んで焚火の準備をした。

 湿気のせいで手こずったけれど、なんとか火を起こすことができた。代償としてチョコが残り2枚になってしまった。

 慎重に火を大きくしたところで、上着を脱いで鞄に被せて焚火の近くに置く。そうやって乾かしている間に、雨水で手と頭を洗うことにした。さっそく少量の灰を石鹸代わりに使ってみることにした。手にためた水に灰を溶く。泡立つというよりは、膜が張るという感じで少々心配だった。シャンプーよろしく頭髪にかけてシャカシャカと指を動かし、天然のシャワー(微力)で洗い流した。綺麗になった気はするけれど、髪の毛がかなりゴワゴワした。灰のアルカリ性によって、髪の毛や頭皮の油分が分解されたからだろう。心配していた灰臭さみたいなものは残らなかった。

 さっぱりした。風邪などリスクがある軽率な行動かも知れない。しかし、精神衛生のためにも洗髪が私には必要だったのだ。

 髪を洗い終わると、いよいよすることがなくなった。雨が激しくないとはいえ、食料を集めに森をうろつくこともできない。携帯電話にゲームぐらい入っているけれど、退屈しのぎに貴重な電池を使えるわけもない。

 雨の音を聞きながら、水を貯めるペットボトルを眺めていると、小学校の頃を思い出した。雨で体育が潰れると図書室で自習になった。そこで沢山の本を読んだ。手塚治虫の漫画も少しだけど置いてあって、いつも大人気だった。そういえば、ブラックジャックにも漂流する話があった。試験管に溜めた雨水をブラックジャックが金持ちの若者に大金で売るシーンが、今の私の状況になんとなく重なった。ブラックジャックには山の中で自分のお腹から寄生虫を摘出するという話もあったはずだ。生きること、生かすことにこだわる姿勢を見習いたい。

 焚火の火で身体も暖められ活力が湧いてきた。生きたいのだったら、少しでもできることをした方が良いに決っている。

 まず解決すべき問題は何だろうか。水と食料だ。とりあえずペットボトル1本分の雨水を確保したけれど、晴天が続けばまた干上がる。水場を見つけなければならない。

 食料はどうだろうか。残っているのはチョコ2枚とアメが7個だ。果実を取りたい。また蛇を見つけたら、今度は積極的に狩りを試みるべきだろう。

 そうなると何か武器が必要だ。遠距離から安全に仕留められるもの。とっさに浮かぶのは槍だ。杖代わりにも使える。木の棒はそこらに転がっているから、その先端を削れば良い。ただ刃物がない。ペンケースを開けても、筆記用具しか入っていない。

 私は石からナイフを作ることにした。それこそ石器時代から存在する安心の道具加工だ。

 黒曜石のように、見るからにガラス質の石が落ちていれば良いのだけれど、そんな都合よくいかない。とりあえず適当に落ちている石同士をぶつけて砕いてみることにした。

 十数個ぐらい試したところで、破砕部分が刃状に剥離する淡青色の石が見つかった。その淡青色の石に、別の石を細かく打ち付けることで端を削り、刃の形を作っていった。

 完成させた石ナイフの刃はかなりデコボコしていた。私は原始人よりも不器用なようだ。

 次に長さ1.5メートルほどの木の棒を拾ってきて、余計な枝を落とした。その先端を石ナイフの刃でなんとか削っていく。私の腕が悪いのか、石が脆いのか、石ナイフの刃は頻繁に割れた。木の棒が木の槍に変わる頃には、石ナイフは2本目で、それも小さくなってしまっていた。。

 作業に集中していて気付かなかったが、いつの間にか雨が止み、夕日が周囲を赤く染めていた。

 今日はこの場所で野営することにした。

 

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5日目

 

 驚くべきことが2つあった。こうして日記を記している今も多少だけれど興奮している。夜空に舞う二匹の竜を見た時も驚いたけれど、それ以上の感動だと言って良いだろう。

 前置きが長くなってしまった。物事は順番通りに説明すべきだ。まずは朝の『出会い』から時系列に沿って書いていこう。

 

 私は強い葉っぱの匂いで目を覚ました。感覚的には朝を迎えているはずなのに、不思議と辺りが薄暗かった。清涼感のある匂いに頭がはっきりし焦点が合っていくと、自分がどういう状態に置かれているのか認識することができた。

 私の身体を大樹の枝葉が覆っていたのだ。折れた太い枝の下敷きにでもなってしまったのかと錯覚したが、圧迫感はまるでなかった。むしろ羽布団のように優しく私を包んでくれていた。

 枝の下から這い出そうと身体をねじると、その振動に反応して大きな枝が自動的に持ち上がった。不可思議な現象に辺りを見回すけれど、枝が昨日と違う方向を向いている以外の変化は分からなかった。

 何か危険が潜んでいるかもしれない。この場をすぐに去ろうと、荷物に手を伸ばした。そんな私を呼び止めるように大樹がざわめいた。振り向くと、皺のように見えた幹の樹皮の左右に並んだ2箇所がめくり上がった。

 現れたのは二つの球体だ。木肌を彫刻刀で削りヤスリで仕上げたような滑らかな球面、くぼみに嵌るようにして存在するそれは、紛うことなき眼だった。

 私は情けない悲鳴を上げて後ずさり、足を引っ掛け尻もちをついてしまった。そんな私の醜態を見て、大樹が笑った。目の下の幹が横一文字に開き、そこからくぐもった低い笑い声が聞こえてきたのだ。

 面食らっている私に向かって大樹は、その太い枝を振り下ろしてきた。昨晩の雨で地面が緩んでいてとっさに立つことが出来きず、両手を前につきだした。もちろん、そんなことで防げるとは思えないが仕方がない。

 潰されると肝を冷やしたけれど、何の衝撃もなかった。恐る恐る目を開き大樹の方を見ると、太い枝をゆっくりと前後に振っているだけだった。どうやら私をぺちゃんこに潰して、食べようというわけではないようだ。

 立ち上がった私は大樹の目を見た。そこには何らかの意志や感情が宿っているような気がした。わけの分からない状況に叩き落とされてから、初めて出会った知性を感じる生物だ。緊張に頬を引き攣らせながら、それでも安堵の混じったため息を吐いた。

 危害を加える意志がないとなると、俄然興味が湧いてきた。大樹はそんな私の考えなど、気にも留めないで枝を振り続ける。よくよく観察してみると、どうやら腕代わりの太い枝で、背中?背面?の方に私を呼んでいるようだった。

 完全に安心したわけではないので、ある程度距離を取りながら私は大樹の背後に回り込んだ。するとそこには全高で1メートルはあろうかという巨大なキノコが生えていた。茶色の皺皺の傘に真っ白い網目状の柄をしている。

 昨日、大樹を見て回った時にはこんな巨大なキノコは無かったはずだ。一晩でここまで成長したのだろう。おおよそだけれど、一分間に4mm程度成長した計算だ。形状と成長速度はキヌガサタケというキノコに非常によく似ている。ただしキヌガサダケは10センチかそこらで、1メートルなんて馬鹿げたサイズに成長することはない。

 大樹は背後に回した枝先でキノコに触れて左右に動かす。どうやら、このキノコを取れと言っているようだ。試しにキノコを両腕でつかみ揺らしてみる。大樹は意志が通じたことを喜ぶように枝を揺らした。

 そのままキノコは左右に揺すってみたけれど、簡単にもぐことは出来なかった。私は荷物のところに戻ると、作ったばかりの石ナイフを手にとった。

 キノコの石突きの部分に刃をあて前後に動かすと、網目状の繊維にショリショリと切込みを入れることができた。そのまま石ナイフを動かし続けること10分ほど、巨大キノコを切り倒す事に成功した。念のためキノコの生えていた幹と根っこ部分を石ナイフで削っておく。大樹は気持ちよさそうな低音を鳴らした。

 これで良いのかと取り除いたキノコを見せると、大樹は私の布団にしたのとは逆の枝を差し出してきた。そこには直径15センチほどで丸々とした黄緑色の木の実がなっていた。私が木の実に手を触れると、大樹は頷くように目を伏せ笑った。どうやらお礼にくれるようだ。多少の心配はあったけれど、私はこの果実を受け取ることにした。

 どうやら大樹はキノコを取って欲しくて、寝ている時に枝葉をかけてくれたようだ。初めに私が接近した時に、大樹が隠れるようにしていたのは自分に危害を加える生き物かどうか見極めていたのだろう。臆病な性格なのかもしれない。軒先を借り、その御礼に樹皮のメンテナンスをする。野生生物らしい共生関係だ。

 お互いに害意が無いことを確かめ合えたのは幸いだ。私はどうにか大樹とコミュニケーションをとろうと、話しかけてみることにした。もちろん日本語でだ。例え言葉が通じなくてもニュアンスは伝わるかもしれない。

 とりあえず自己紹介し、とても困っていることを告げてみた。大樹は何かを考えるように目をぐるりと回し、そしてまた笑った。言葉はもちろん、ニュアンスも通じていないようだ。

 次に身振り手振りで伝えてみることにした。きょろきょろと辺りを見回して、泣く真似をしたり、首をかしげる仕草などを繰り返した。『仕草など』の部分を詳しく思い出すと、心拍数が上がり顔から火が出そうになるので省略する。

 始めのうちは私の仕草を見て、大樹は笑うだけだった。しかし私が必死の形相で何度も何度もしつこく繰り返していると、やがて大樹は笑うのをやめた。それから目をぐるりと回して、考えこむように瞼?を閉じた。

 祈るように大樹の反応を待った。大樹はピクリともせず目を開けなかった。私は辛抱強く待ち続けた。

 さすがに寝てしまったのかと思い、もう一度喋りかけようとした時だ。大樹は目を開きニカッと笑った。そして、太い枝を前方に向かって突き出した。何かを指さしているように思えた。私がその方向を向き、同じように右手を上げて指差すと大樹は満足そうに笑った。

 何らかのコミュニケーションが成立したようだ。困っているという意思を、大樹が感じ取ってくれたと私は好意的に解釈することにした。大樹が指し示す方向には、きっと困っている私の力になるモノがあるに違いない。

 私は荷物をまとめると、焚火に残った灰を大樹の根本にまんべんなく撒いた。灰はミネラルを含むので、植物が生育する土壌に良い。私にできる精一杯のお礼だった。その気持ちが通じたのか、大樹も穏やかに笑っていた。

 久しぶりに他者とコミュニケーションをとったせいか、離れがたい気持ちもあった。しかし、いつまでも森の中で私は生きていけない。

 大樹に別れを告げ、その場を後にした。

 

 私は大樹のことを信じて歩き続けた。もちろん信じるに足る根拠があった。大樹の眼に私がどう映っていたのか分からない。しかし、私のことをコミュニケーションが取れる知的生命体だと認識していた。その上で警戒から受容へと態度を変えている。この事から推測されるのは、以前にも大樹が二本足の知的生命体に会ったことがある、もしくはその知識を持っているということだ。暗闇の中で希望の光を見た気がした。

 雨上がりの森は肌寒く感じるほどの湿気で満ちていた。植物や生き物が活発になったようで、フィトンチッドや土の匂いも強まっている。清涼感で気分は良くなるけれど、泥濘んだ足元には困った。転びそうになって手を伸ばした樹の幹もツルンと滑ってしまい、何度か酷い尻餅をついた。大樹の前での失態といい、今日はよく尻を打つ日だった。

 太陽が南中を過ぎて私は昼食を摂ることにした。歩きながら食料を探していたけれど、見つからなかったので大樹から貰った果実だ。

 とりあえず黄緑色の皮を一欠片だけ剥いて、二の腕でパッチテストをすることにした。結果を待っている時間が暇なので、その間に皮を剥いた。果実の皮はリンゴのように薄く、皮のまま囓れそうだけれど念のためだ。手が糖質で滑り、甘い匂いが私の鼻孔をくすぐり続けた。

 皮を剥いて現れる果肉は雪のように白かった。薄く剥きすぎてミカンの白いアレのような内果皮までしか到達していないのかと思ったけれど、どんなに石ナイフの刃を入れても果肉は真っ白なままだった。

 結局パッチテストに問題は見られなかった。とりあえず滴る果汁をぺろりと舐めてみる。コクのある甘さがスッと舌に広がった。果物の見た目からリンゴや梨のような味を想像していたけれど明らかに違うことが、ひと舐めで分かった。

 思い切って果肉にガブリとかじりつく。猛烈な甘さが退去して押し寄せ、口を占拠した。とろけるような果肉の食感と相まって、濃厚なクリームを頬張っているようだ。果物を食べるというより、未知の菓子を食べているような感覚におちいる。果肉を飲み込むと舌の上から甘さは去り、心地よい酸味だけが残った。

 あまりの美味さに私はここが森の中だということも忘れて、一心不乱に果実をガブガブと食べ続けた。分析しながら味わうことすらもったいないほどの美味さだった。こうやって思い出して書いていると、口の中が唾液であふれてしまうほどだ。

 白い果肉を平らげると、親指大の黒い種が二つ残った。煎れば食べられそうだけれど、記念にとっておくことにした。とはいえ、空腹が限界になったら迷いなく食べるだろう。感傷で腹は膨れない。

 今までにないほどの美味しい果実を食べて気分が高揚していた。今日までの疲れが吹き飛び、午後もほとんど疲れを感じずに歩き続けることができた。果物に多少の興奮作用でもあったのか身体が軽く感じ、どこまでも行くことができそうだった。

 やがて太陽の高度が下がり、周囲が赤みを増していった。そろそろ今日の野営の準備をしなければと、考え始めた頃だ。

 

 木々の合間に、小屋を見つけた。

 

 お腹の底がふわふわするような感覚に襲われた私は、大きく息を吐きだしてから、小屋に向かってかけ出した。その時にはもう涙が溢れていたと思う。

 小屋は森の中の少し開けた広場に建っていた。切り出した樹木をそのまま建材に使っているログハウスだ。入り口を探して回りこむ途中で、窓が開いていた。私は躊躇わず中をのぞき込んだ。

 誰もいなかった。そして、生活している形跡が無いこともすぐに分かった。窓の戸は腐り落ち、そこから侵入した蔦が小屋の中にも広がっていた。

 私は扉のない入り口から小屋に足を踏み入れた。中央に囲炉裏らしきものもあるけれど、風で吹き流された灰がうっすらと広がっているだけだ。最後にここへ火が灯されたのは、いつのことだろうか……。

 それでも誰かがこの小屋を建て、使用していた事実に、私は感極まって声を出して泣いてしまった。

 

 どこかに『人』がいる!

 この世界で私は独りではない!

 

 間接的にでも他者の存在を知ることができた喜びは、想像以上に大きかった。

 しばらく大泣きしてから私はようやく冷静さを取り戻した。辺りはすっかり暗くなっていた。

 道々ビニール袋に集めておいた枝葉を取り出し、打ち捨てられていた囲炉裏に火を起こす。久方ぶりの来客に喜んでいるのか火は簡単に大きくなり、小屋の隅々まで照らした。

 あらためて小屋の中を確認する。6畳か7畳ほどの広さで、中央に囲炉裏がある。戸のない窓が2つ、どちらからも蔦が入り込んでいる。初めに覗きこんだのとは別の窓際に、木製の長机が置かれていた。他には壁の高い位置にドアノブのような木製の突起がある。コートや服でも掛けていたのだろうか。

 森の中にたった一軒で立っていることから考えて、猟師小屋として使われていたのかもしれない。捨てられたのではなく、猟のシーズンではないので誰も居ないという可能性もある。とはいえ、斧や鉈、猟に使う道具などそれを決定づけるような物は見つからなかった。

 不必要に考えこんでも仕方ない。高ぶった精神を落ち着け、休むことのほうが重要だ。

 

 屋根と壁に囲まれている空間が、こんなにも安心できるものなのだと初めて実感できた。暗い森の奥の得体のしれない気配や獣の遠吠え、草木が風に揺れる音にビクつかないですむ。さらに焚火の熱も程よくこもって温かい。入り口や窓の戸がないのは多少怖いけれど、二酸化炭素中毒の心配をしなくて良い。

 今まで建築物についてそれほど興味を持っていなかったけれど、これをきっかけに壁や床、天井が好きになってしまいそうだ。

 

 身体が思い出したような疲れと、大きな安堵で眠くなってくる。今日はゆっくりと眠れそうだ。

 猟師小屋があるということは、大きな生活圏に隣接しているか、そこから遠く離れていないことが期待できる。逆にそうでないとしたら、生活に必要な水場が近くに存在しているはずだ。もしかしたら、果物の木や畑なんかも残っているかもしれない。

 期待に胸が踊る。明日は早く起きて周囲を探索してみよう。

 

-6ページ-

6日目

 

 早起きを決意した時ほど人間は寝坊してしまう。きっと、そういう生き物なのだろう。

 目を覚ました私が小屋を出ると、太陽はすでに高く昇っていた。肉体はもちろん精神的に疲労していたのだから仕方ない。こんな状況だからこそ変に焦る必要はない。ゆっくりと回復できたと都合よく考えることにした。

 

 まず私は小屋の周囲を見て回った。太陽の下でみると小屋はかなり古びて見えた。絡みつく蔦はもちろん、戸口にまで苔が生えている。猟のシーズンとは関係なしに、ずいぶんと使われていないようだ。

 小屋のまわりには切り株が至る所に見られる。森を切り開いた建材でこの小屋を建てたようだ。また小屋の裏手には骨が転がっていた。形状からして数種類の動物だ。残っていた頭骨や大腿骨を見ると、私よりも大きな動物仕留めた形跡もある。小屋の長机にも黒いシミがついていたけれど、あれは解体した時についた血の跡だろう。猟師小屋として使われていたのは間違いなさそうだ。干し肉か燻製肉にでもすれば長期保存ができる。ある程度の量を揃えたら、集落などの人口密集地へ運び出していたのだろう。

 

 情報を揃えると、小屋を使用していた『人』の姿が見えてくる。間口や長机のサイズから、体型は私とそう変わらない。3メートルの巨人が使うには小屋は狭すぎるし、背の低い人間にはあの長机の高さは不便だ。

 人数は1〜3人だ。それ以上ならもっと広い小屋を建てたことだろう。その人数で大型の野生獣を仕留めることができたということは、強力な狩猟道具か効果的な罠を用いているはずだ。小屋を建てていること以上に、高い知性がある証拠だ。

 

 小屋をひと通り観察し終わり、次は周囲の森に目を向ける。昨日も考えた通り、どこか近くに水場があるはずだ。無闇に小屋を建てたとは思えない。猟場と水場の中間ぐらいに、この小屋は存在していることだろう。

 大樹はここから東のほうに存在している。まだ足を踏み入れていない西の方を、まずは探索することにした。

 小屋の西側はひらけていた。切り倒した樹木を小屋の建材や薪にしたのだろう。背の高い木が無いので下草が茂っていて少し歩きづらかった。足元を見ながら注意深く歩いていると、地面にわずかだが白っぽいものが埋まっているのが見えた。その先からは蔓が伸び、青々とした矢尻型の葉っぱが沢山ついていた。ヤマイモやサツマイモに似ている気がした。

 足を止め、白っぽいものの周囲の土を払ってみる。5、6センチほどの太さの根(地下茎かもしれない)だった。イモかゴボウのような根菜に見える。一昨日の雨で土が流され、地表に露出したようだ。

 天然の根菜にしては、都合よく生えすぎている気がした。木を切り倒し余った土地を畑に使った可能性がある。あの小屋が使われなくなった後も、根菜は残りここで自生していたと考えるとしっくりきた。

 自然の恵みにせよ、誰かの残した物にせよ、私にとってはありがたいことだ。さっそく掘り起こしてみることにした。

 はじめは手で土を掘ってみたけれど、根っ子は縦方向に深く生えていてしんどくなった。そこで、杖代わりにしていた木の槍をスコップ代わりに地面を削っていくことにした。

 不便な道具で土を掘るのはかなり重労働だった。10センチ掘るだけで汗が吹き出し、20センチで手が痛くなり、30センチ掘って根っ子の先端に到達する頃には全身が疲弊しヘトヘトになっていた。

 出てきたのは、ゴボウとヤマイモの間のような根っ子だった。掘り出す途中で折ってしまった断面は真っ白で、水分がじわりと滲んでいる。

 いつものようにパッチテストをしたいところだが、これがヤマイモに似た植物だとすると少し困ったことになる。痒くなる可能性があるからだ。

 ヤマイモで痒くなるのは、皮の近くにシュウ酸カルシウムが含まれているからだ。

 シュウ酸カルシウムというのは実にややこしい物質だ。まず第一に、シュウ酸カルシウム自体は劇物で摂取すれば身体に有害だ。しかし皮膚が痒くなる反応は、物理的な性質による。シュウ酸カルシウムの結晶は針状になっていて、それが皮膚などにささって痒くなっているのだ。

 つまり、毒物だから痒くなっているのではない。だからパッチテストで、皮膚がかぶれたとしても見分けがつかない。

 さらに難溶性なので茹でたりしても取り除くことはできない。ただ、還元剤として働くので酸化物と反応しやすい。これを利用したのが、お酢をかけて痒みを取り除くご家庭の知恵だ。もちろん手元にお酢などない。

 採取した芋も皮だけにシュウ酸カルシウムが含まれているなら剥けば済む話だ。しかし、その保証はない。

 

 とりあえず西側の探索を適当に切り上げた私は、根菜を小屋に持って帰り、次は南側へと向かった。

 歩いてみてすぐに分かった。周囲と比べて木々の生え方が違う。ほぼ一直線に大きな石や倒木の破片などが落ちていず、踏み固められたかのように地面が平らだ。この方角が道として使われていたようだ。

 道の痕跡を注意深く観察しながら進んでいると、見覚えのある植物が生えているのに気づいた。ブドウに似た黒紫の果実だ。口の中に酸っぱさの記憶が蘇り、唾液が溢れだす。その刺激に閃いた。あれだけ酸っぱいということはクエン酸やビタミンCが含まれていることが期待できる。つまり、あのイモの処理に使えるかもしれないのだ。私は辺りに生えている黒紫の果実を大量に取ると、ビニール袋に入れた。

 

 それからしばらく進むと、地面が下りになっていた。さらに何か連続する低い音が聞こえてきた。私は逸る気持ちを抑え、転ばないように下って行く。音が大きくなっていった。

 視界が急に開け岩場が見えたところで、私は思わず「よしっ」と声を漏らした。

 太陽を受け輝く水が流れていた。水場の存在は自分を納得させるために予想していたけれど、こうして実際に発見できると心の底から嬉しかった。

 川幅は6〜7メートル程だろうか、流れはあまり速くない。水はかなり澄んでいて、川底までほぼ見通せる。水深は分かりづらいけれど、深くはなさそうだ。

 あの小屋を使っていた人間は、この川を利用して獲物を運搬していたのだろう。本格的な船を行き来させるのは難しそうだけれど、水深を必要としない筏で下るだけならできそうだ。

 

 つまり、この川の下流に人口密集地がある可能性が高いということだ!

 

 自分でも分かるほど浮き足立っていた。一刻も早くこの川を下っていきたくなった。しかし、まだダメだ。私にまともな筏は造れないし、無理に作ったとしても操舵はムリだ。もしこの前に、滝でもあったらすべて終わりだ。

 徒歩で下るには、どれほどの距離を歩かなければいけないのか分からない。数日かかるとしたら、それに耐えられる準備が必要だ。少ない食事と水で衰えている体力を回復し、可能なら保存できる食料を持って行きたい。そう、焦ってはいけない。

 

 下流への移動はこれから考えるとして、水を見つけたことはとにかくラッキーだ。ただ、生水を直接飲むのは少し怖かった。細菌類はもちろん、エキノコックスなどの寄生虫の危険もある。水蒸気が凝結した雨の方が、出自が分かるだけずっと安全だ。

 沸騰させることができれば良いのだけれど、あの小屋に鍋などはなかった。沸騰させる以外だと二つほど方法を知っている。一つはペットボトルに小石や砂や葉っぱ、炭や灰を突っ込んで蒸留装置を作る方法だ。炭と灰による殺菌が上手くいくか不安が残る。もう一つは、地面に水を撒いて日光で蒸発した水蒸気をビニール袋などで集める方法だ。手持ちのビニール袋二枚では、とにかく時間がかかるから現実的ではないだろう。

 やはり沸騰させるのが一番だ。太い枝か動かせる切り株でも見つけてきてそれを削って鍋を作るか、くぼんだ石でも探してくるのが良さそうだと思った。とりあえず、雨水を飲み干したペットボトルに川の水を汲むことにした。

 川には魚の影もちらほら見えた。槍で突こうとしたけれど、簡単に逃げられてしまってかすりもしなかった。岩に石をぶつけて衝撃で魚を気絶させるガッチン漁も試してみた。砕けた石が腕をかすり、跳ねた川の水で服がビショビショになった。飛び出したのは小さな虫だけだった。やけになって魚に掴みかかった。魚は小指の先にすら触れなかった。

 魚一匹以上のカロリーを消費しても、私の身体能力では魚を捕らえることが無理だと分かった。何か工夫と道具が必要だ。もし魚を多めに捕らえることができれば、燻製にして保存食にできる。下流に向かって捜索範囲を広げるためには必須だろう。

 私は魚を捕らえる方法を考えながら小屋に戻った。

 

 小屋に侵入していた蔦を石ナイフで切り落としているうちに日が傾いてきた。急いで夕食の準備を始めた。

 今日の食材はあの芋だ。パッチテストは芋の皮の部分と、芯に近い部分の2箇所で行った。すると皮に近い部位では案の定、皮膚が赤くなり痒みがあった。そこであの黒紫の果汁を塗ってみた。予測通りに効果があって、赤みが引き痒みも収まった。どうやらいけそうだ。芯に近い部分は赤くなった気がするが、痒みはない。なんとも言えない結果だった。とりあえず、調理中は手に果汁を塗っておくことにした。

 私は拾ってきた平たい石の上に、切って皮を剥いた芋の欠片をいくつか乗せ、黒紫の果実と一緒にすり潰した。この芋にはヤマイモと同じような粘性があり、果実と混じって紫色のペーストが完成した。ペーストを石の上に薄く伸ばし、そのまま囲炉裏の火の近くに置いた。サイズは小さいけれど岩盤焼きだ。

 しばらく待っていると、ペーストに混じった気泡がプクプクと現れ、焼きあがっていく。紫の表面に焦げ目がついたところで、木の枝を使って石を火から離して冷ました。

 紫色のホットケーキもどきの完成だ。とりあえず、見た目はそれほどよくなかったけれど、香ばしい匂いがして美味しそうだ。

 紫の生地は石からぺろりと簡単に剥がれた。まずは一口だけ食べてみる。温かい生地はムニッとした食感で、果実の酸味と仄かな甘さが染み出すように広がった。見た目からホットケーキを想像していたけれど、むしろ厚めのクレープを食べているような感覚だ。思ったよりもずっと美味しかった。ホイップクリームでもあれば最高のお菓子になっただろう。

 1つ食べ終わってから30分ほど様子をみた。身体に異変は起こらなかった。芯に近い部分の芋で行ったパッチテストも劇的な変化はなかった。どうやら、硝酸カルシウム(と思われる物質)が含まれているのは皮の周辺だけのようだ。

 その後、皮を剥いた芋の欠片を直火で焼いて食べてみた。噛むたびに甘くなり、まさにホクホクとした里芋といった味だった。こちらは醤油が欲しいところだ。

 私は二つの調理方法で黒紫の果実と芋一本を食べ尽くした。日記を書いている今に至っても身体に不調はない。葉っぱの形は憶えたので、積極的にこの芋を探していこうと思う。

 

 さて水の件だけれど、先ほど意外な形で決着がついた。今日書いた日記を読み返していて、鍋に使えそうな物を思い出した。

 小屋の裏に放置されていた動物の頭骨だ。これを杯に使うことで少量の水ならば沸騰させることができた。さすがに煮るなどの調理は無理だが、喉を潤すことはできる。

 飲み水は解決したけれど、新たな問題も浮上した。着火剤に使っていた銀紙がなくなってしまった。囲炉裏の火をつけっぱなしにはできない。火事の危険もあるし、なにより燃料を集めるのが大変だ。

 

 明日は火おこしの道具を作らなければならない。忘れないようにしよう。

 

-7ページ-

7日目

 

 朝、目覚めた私はさっそく材料集めを始めた。どうせなら魚取りの道具も一緒に作ろうと、手当たり次第使えそうなものを拾ってくることにした。

 

 まず森で手に入れたのは大量の枝だ。薪にも使えるのであって困るものではない。枯れているものだけではなく、柔軟性のある生枝も集めてきた。

 

 次に小屋の裏に捨てられていた動物の骨にも使えるものはないだろうかと調べてみた。真っ先に思いついたのは、釣り針だ。石器時代から人類は動物の骨を削って釣り針として利用している。それだけポピュラーなものだと分かる。しかし、私に釣りの経験は無い。素人が手製の粗末な釣り道具で魚が釣れるとは思えなかった。

 魚取りと言えば、木槍の先に尖った骨をつけて刺突性能を上げることができるだろう。しかし、そもそも魚にまるで命中させられない。他の方法を試した方が良いだろう。

 そんなことを考えながら動物の骨を退けていると、下の方から10センチほどの金属片が出てきた。かなり錆びているけれど、金属の片側に砥いである形跡が見て取れた。鉈か鎌あるいは包丁の切っ先のようだ。残りの半身を探してみたけれど、見つからなかった。獲物の解体作業中に折れて、骨と一緒にここへ捨てたのだろう。

 錆びているとはいえ刃物が手に入ったのは幸運だ。石で作ったナイフは芋や果物の調理には便利だけれど、木など少し硬いものを削ろうとするとすぐに欠けてしまう。この切っ先は小さくても金属製だ。作業効率は格段に上がるだろう。

 

 小屋に戻った私は作業台に材料を広げた。まず作ることにしたのは、魚取りの仕掛けだ。早い時間のうちに作って、川に仕掛けておけば夕飯に魚を食べられるかもしれない。

 仕掛けと言ってもそれほど複雑なものは、材料的にも技術的にも無理だ。そこで、うなぎ籠を参考にすることにした。

 材料は

  平たくまっすぐな20センチほどの枝 15本

  小屋に侵入していた蔦 紐の代用品

 これだけだ。

 枝を横向きに揃えて並ばせ、蔦を縦糸にして上下に編みこんでいく。蔦が端の枝まで来たらぐるっと反対側に戻して、最初の枝からまた編みこむ。これを5回繰り返したところで15本の枝を垂直に立てて蔦を引っ張る。蔦と枝を直角に編み込んだ筒状の物ができる。さらに蔦を編みこむのだけれど、締め付ける力を強め筒の先端が細まるようにしていく。枝の半分ぐらいまで蔦を編み込めば完成だ。

 ホイップクリームの絞り器の先端みたいな形状と言えば分かりやすいかもしれない。あるいは茶筅か。とにかく、うなぎ籠の反しの部分ができた。

 

 私はこの仕掛を持って川に向かった。

 川辺には流されてきた大小の石が沢山ある。その石を組んで直径1メートルほどの囲いを作った。これがうなぎ籠の『籠』の代わりだ。

 上流側の囲いの一部を崩し、そこに仕掛けをセットする。魚がこの場所を通って囲いに入ると、寄り集まった枝が反しになって出れないという仕組みだ。

 撒き餌になるようなものがあれば良いけれど、そんなものはない。自分が食べるものすら困っている状況だ。石をひっくり返せば川虫ぐらい取れそうだけれど、この囲いの粗さではあまり意味が無いだろう。

 とりあえず仕掛けは放置だ。川辺に落ちていた手のひらサイズの石を一つ手にして、小屋へと戻った。

 

 次に火起こし道具の制作に取り掛かった。原始的な道具で火を起こす基本は摩擦だ。木と木をすり合わせ、その摩擦熱が発火点を超えることで火がつく。接地面に対して一箇所でもこの発火点を超えれば良いのだから、力をかける面積はできるだけ小さくした方が効率的だ。

 集めてきた枝の中でもっとも真っ直ぐな枝を選ぶ。握れるほど太いので耐久力は申し分ないけれど、力をかける接地面が太すぎた。拾った刃物片で、巨大な鉛筆のような形に削る。

 次に棒を受ける方を作る。といっても、拾ってきた柔らかめの木片に、刃物片でくぼみを作るだけだ。擦りつける棒の先端が外れないようにするための細工だ。

 基本はこれで完成した。棒の先端を板の切れ込みに当てて、両手のひらを合わせて拝むように擦ってみる。枝製の棒は表面がデコボコザラザラしていて、とてもではないけれど長時間擦っていられない。棒が擦った先端を触ってみたけれど、多少熱くなっているだけだった。

 

 やはり、弓きり式への改良が必要だ。

 次に手にとったのは、弧状に曲がった柔軟性のある枝だ。枝の両端に蔦を巻きつけ、弦の緩い弓を作った。弓きり式の由来はこの形だ。

 先ほど作った擦り棒に、この緩めの弦を一重に巻きつける。もう一度、擦り棒を受け板に当てた。一方の手では弓を持ち、もう一方の手には川で拾ってきた平たい石を握りそれで棒の上端をグッと押さえつける。

 あとは猛然と弓を前後に動かすだけだ。弓に合わせて、蔦を巻きつけた棒が回転する。バイオリンを弾くかのように、と言いたいところだけれど、現実は違った。

 とにかく手を速く動かす必要があった。しつこい油汚れでも削りとるように、ガリガリと手を前後に動かす。動きが激しくなると、今度は上から棒を押さえるのが難しくなった。握る石が滑って棒があさっての方向に飛んでしまったり、勢い余って受け板を弾き飛ばしてしまったりと、あまり上手くいかなかった。知識としてもっていても、やはり実践は難しいものだと実感した。

 

 それでも火を起こさなければならない。休憩を挟みつつ辛抱強く続け、どうにか煙が上がり始めた。棒を退けて見ると、削れた木の粉が小さく燃焼していた。急いで裂いた木の繊維を近づける。火が移るかと思ったけれど、そのまま煙は消えてしまった。やり直しだ。

 その後、4回ほど失敗を繰り返して種火を作ることに成功した。受け板のくぼみに大きく切込みを入れ、燃えた木の粉が下に落ちるように加工したのが勝因だった。

 道具作りの何倍もの時間がかかってしまったけれど、なんとか無事に着火することができた。今日もう一度火を付けるのはさすがに心が折れるので、このまま囲炉裏に火を入れ続けることにした。

 

 外を見ると太陽がだいぶ傾いていた。暗くなる前に川の仕掛けを確認することにした。

 

 あのヘビ肉以来のタンパク質だと、私は期待に胸を膨らませて囲いを覗きこんだ。魚の影もなければ、サワガニの一匹すらいなかった。

 川を見回すと魚はいるのに、苦労して作った仕掛けは何の役にも立っていない。無価値だった思うと悲しかった。

 私は意を決して川に足を踏み入れた。太ももまで浸かり魚を追い回し仕掛けに追い込もうとした。そんな私の暴挙を笑うように魚たちは足元をすり抜け、岩陰やさらに深い川底へ消えていった。諦めて動きを止めると、濡れた服が冷たかった。

 何の収穫も無しに戻るのは悔しかったので、周囲に転がっている石に注目してみた。岩というほど大きなものは少なく、小石から20〜30センチ程度がほとんどだ。川の中流域に見れる特徴だ。上流ではもっと大きな岩が多く存在しているだろうし、下流なら砂地や泥が多いはずだ。

 落ちている石の表面を撫でて、その感触を確かめて回った。その中で手頃なサイズと形で、表面がザラザラの石とツルツルの石を持って小屋に戻った。

 

 緊張感が途切れ思い出したように空腹が襲ってきた。私は夕暮れに急かされながら芋を探した。昨日ほど大きなものは見つからず、10センチほどの小さな芋二つが今晩の食事だった。

 

 食事を終え手持ち無沙汰になった私は、持ち帰った石で錆びた刃物片を研ぐことにした。見た目と採取した場所から堆積岩だろう。岩石中に石英質が含まれているはずだ。石英のモース硬度は7で、普通の鉄は5〜6程度だから、研ぐことができると考えた。

 ザラザラの石を水で濡らし、刃物片を表面に擦りつける。ジョリジョリと心地よい音がし、錆が薄くなっていく。肉眼で錆が確認できなくなったら、ツルツルの石に替える。砥石の表面が細かくなったので、削れる音がショリショリという静かなものになった。

 森に訪れた暗闇の静けさの中、刃物を研ぐ音だけが大きく響く。その音に引き込まれるようにして、私はとても集中することができた。

 無心で刃物を研ぐというのは、不思議と気持ちの良いものだった。斧を摺って針を作ろうとする摺針峠の老婆の気持ちが、少しだけ分かった気がした。

 

 お腹がグーと鳴った。空腹を紛らわすために、もう寝よう。

 

 

説明
異世界でサバイバルする日記風小説です。1日目から7日目までを収録しています。
PIXIV(http://www.pixiv.net/series.php?id=505142)と
小説家になろう(http://ncode.syosetu.com/n1696cn/)で時々更新しています。こちらではまとめて読めます。
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