現の中の夢物語 五章
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五章 最初にして、最後の場所

 

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 梅雨が明けていた。

 俺が“明日見の丘”に来てすぐの頃は、一日一日が非常に長く感じられていた。それはやっぱり不安があったんだろうし、妙な夢を見ていたのもあり、昼も夜も濃密な時間を過ごしていたからだろう。

 もちろん、ここでの生活にすっかり慣れた今でも、毎日に刺激はある。元から、この店には個性が強すぎるほどにあるマスターと、一応はその人の恋人のようなものであるウェイトレスがいて、その中で唯一の癒やしとも呼べる優しく、しっかり者の一人娘がいるのだから、退屈な時間なんてあるはずもない。

 常連客の一人は毒舌で、でも温かな文章を書く詩人で、更にマスターと同い年なのに見た目は子ども、という超個性派と来たものだから、仕事にもやりがいがある。俺は幸か不幸か、彼女に気に入られているし。

 ただ、それでもあの頃に比べれば、俺の一日は早く過ぎ去るようになっていた。

 結局、恋人――蓮香との関係も、目に見えて進展したことはない。

 足羽さんやヘンリーに突っ込まれる度にがっかりされるが、まだロクに手を繋いだことすらない。その調子な訳だから、もっと進んだことなんてしようとすら思わないし、二人きりで話していても、あまり恋人同士だという雰囲気は出ていないようだ。

 そんな関係でも、俺達はわざわざ言葉には出さずとも、互いを尊敬し合う関係でいた。俺の記憶はもう、戻りそうもないが、そのことを気に病むことも今となってはしない。今が楽しく、幸せなのだから、過去に囚われている暇なんてなかった。そんなことをするより、楽しく過ごすことを俺は絶対に選び取る。

「あっ、ヒロミさん。俺がケーキを並べておきます。いつもご苦労様です」

「……ありがとう。売れ行きは順調?」

「もちろん。そういや、俺も昨日、ショートケーキを食べたんですけど、すごく美味しかったです」

「そう……。じゃあ、私はこれで」

「お疲れ様です。お気をつけて」

 一つ、変わったこととして、俺もケーキ屋のヒロミさんと話すようになった、ということがある。

 ピーク時、蓮香とヘンリーの二人は常にオーダーを取るか、料理を運ぶかをしている。それがなくても、激務の中で息を整えるので精一杯だ。だからと言って、ヒロミさんの相手は蓮香が最適で、他の人では上手くいかない……のだが、ふと俺がヒロミさんの相手をしたことがあった。

 他でもない、蓮香のことを気遣っての行動だったのが、強烈に人見知りをするというヒロミさんは、不思議と俺とは目を合わせて話してくれて、こんな風に軽く会話をすることだって出来る。

 秋広さんいわく、俺と蓮香が似ているから。だそうだが……一体、どこが似ているというのか。ともかく、時間さえあればヒロミさんともきちんと話してみたいところだ。蓮香の友人なら、きっと今よりもっと楽しく話せるようになれる気がする。……と、今の俺はすっかり、ものごとを前向きに考えられるようになっている。これも変化の一つだろうか。

 何せ、俺はもうふた月以上、この新しい生活をしている。色々と変わってくるのも道理というものだろう。

「しかし、あなた達ほど見ていて楽しくないカップルはいないわね。付き合い始めた瞬間から倦怠期なの?」

「……足羽さん、縁起でもないことをやめてください」

「当人達がそれでいいのなら、私はいいけどもね。はい、次はカフェオレでお願い」

「珍しいですね」

「今日の午後はミルクを飲みたい気分なの。でもミルクだけを頼んだりしたら、秋広に何を言われるかわからないから」

「そんな意地、張らなくていいのに……」

「子どもにはわからない、大人の世界の話よ」

 いや、思いっきり子どもの次元の話じゃないですか。そう言いたいところだが、ここはそれこそ大人の対応だ。珍しいオーダーを秋広さんに伝え、お客様へ送り届ける。通常、俺は今でもこういう仕事をしていないが、足羽さんの場合だけは別になっている。

「はい。カフェオレです」

「ありがとう。……やけに白いわ。コーヒーをケチったわね、あいつ」

「オーダーの裏に隠れていたものを汲み取ったんじゃないですか?」

「あなたが余計なことまで付け足したんじゃないでしょうね。それとも、あの男がとんでもない地獄耳だったのかしら」

「それはないと思いますよ。だって足羽さん、声張らないですし、秋広さんは仕事してると周りの音が聞こえないタイプなんで」

「あら、それは私のオーダーが聞き取りづらいという、遠回しの批判?」

「ち、違いますよ!足羽さんの話し方は落ち着いていて、聞きやすくていいですよ」

「見え透いたお世辞ね。子どもが社交辞令なんて無理に使おうとするものじゃないわよ。そんなもの、本当は大人でも使うべきじゃないんだから」

 更にぶつくさと言いながら、しかしカフェオレを口に含むと、少しだけ優しそうな、安らいだ表情になる。滅多に見られる表情じゃないが、俺は足羽さんの魅力はこの顔に詰まっていると思う。童顔で子ども体型なのに、包容力を持った大人の女性。それが足羽さんなのだろう。

「レディーの顔をまじまじと見つめるの、失礼だとは思わないの?」

「あっ、ごめんなさいっ。コーヒーは薄いみたいですけど、それで大丈夫でしたか」

「ええ。悪くはないわ。……あれね、小学校の給食で出た、牛乳に溶かしてコーヒー牛乳にする粉を思い出すわ。さすがにそれよりコーヒーの味は上等だけど、懐かしいわね」

「小学校か……。俺にも、そんな時代があったんだろうな」

 過去のことに思いを馳せた時、やっぱり脳にセキュリティーロックがかかっているように、それ以上の思考を妨げられる。実際に痛く感じる訳じゃないが、これを俺は精神的な頭痛と呼んでいた。

 このことは足羽さんにも話したし、秋広さんやヘンリーにも聞いてもらった。蓮香とも、何度か話し合うことはあった。

 その結果、俺は記憶を失ったというより、記憶に自分から鍵をかけたんじゃないか、という結論が出た。過去の俺に何か大変な事件があり、それを忘れたがった俺は、幼い頃の記憶も全て含めて、思い出に鍵をかけて封印した。そうすることで、自分の心がめちゃくちゃになることを防いだんじゃないか、と。

 現実的に考えれば、医者に相談するのが一番なんだろう。だが、そうするときっと、俺は自分の記憶を取り戻す方向へと進むことになってしまう。今は過去にこだわることをやめたつもりでいるが、治療の方法があるのなら、俺はきっと失った十数年を取り返したくなってしまう。

 そして、その先に蓮香達との別れがないと、誰が言い切れる?

 俺の過去は何もわからない。だからこそ、それを取り戻してからの未来も、何一つとして見通しを立てることが出来ない。それに比べれば、今の新しい生活を続けることには、明確な未来のビジョンがある。大きな変化がない、恋人との関係。これからも楽しく続いていくであろう喫茶店。いつかはやって来るであろう、秋広さんの再婚。

 いずれの未来にも明るい光が差していて、霧や雲で覆われた“俺本来の未来”とは比べ物にもならない。それならば俺は、光ある未来の方へ歩んでいきたいと思っている。たとえ現実からの逃避と言われたとしても、必要以上に記憶へは触れないようにしよう。そう考えていた。

「燎太。人の記憶というのは、そんなに万能なものじゃないわよ。私は、ふと小学校の給食のことを思い出したけど、細かなエピソードはまるで覚えていないわ。そういう意味では、大人も記憶喪失者なのよ。でも、それでも問題はないの。幼い頃の経験は、自分の中に染み付き、溶け込んで、それぞれの哲学になっているから」

「……足羽さん」

「あなたには立派な哲学があるわ。真面目で責任感があって、深くうじうじ考える点は、同族として嫌悪せざるを得ないけども、あなたの記憶はなくても、あなたという人物はいるの。それだけで人は生きていけるものよ。現に、あなたはここで二ヶ月も生きているのだから」

「ありがとうございます。……足羽さんにそう言ってもらえると、説得力がありますね」

「別に、あなたのために言ったんじゃないわ。次の詩は“記憶”というタイトルで書こうと思っているから、それに関係して考えていたことを口に出しただけ。誰かに語りかける形で考えを深めると、上手くいくのよ。別に相手はマネキンか何かでもよかったんだけど!」

 わずかに頬を赤らめた足羽さんは、テーブルの足を軽く蹴り続け、露骨に俺を遠ざけようとしている。……照れ隠しなんだな。その仕草も言動も子どもっぽいが、この天才詩人はどういう気まぐれか、俺を励まそうとしてくれた。

 ――この店で働き、生活していると本当に思う。人は、特に俺は、本当に多くの人々に助けられながら生きている。他人が傍にいてくれていて、その人に存在を認めてもらっている。そのことを確認する手段が会話で、だからこそ大切な人と話していると楽しくて、嬉しくて、時間の流れが速く感じるのだろう。

 俺にとって一番大切で、一番時を進ませるのが速い人は、間違いなく蓮香だ。でも、彼女だけが特別という訳ではない。足羽さんもヘンリーも、俺を認め、支えてくれる大事な人だ。

「ユイカと何を話してたのー?」

「珍しく大きな声を出されていましたが」

「いや、ちょっとしたことだよ。でも、大事なことだった」

 自分でそう言いながらおかしくて笑ってしまう。二人は不思議そうに顔を見合わせる。俺が笑ったのが珍しかったのかもしれない。

「リョータくんも変わったけど、ユイカも変わったよね。……ワタシにはまだ冷たいけど」

「確かに、足羽さんに大声を上げさせるなんて。燎太くん、何を言ったんですか?」

「なんだろう、ただ感謝しただけ、っていう感じかな。そしたら照れ隠しに、みたいな感じで」

「ああ、なるほど。それなら納得です。足羽さんは前からそうなんですよ。詩の感想を伝えただけで、顔を真っ赤にされてました」

 容易にその場面が想像出来る。クールそうに見えて、実際は感受性が豊か過ぎるから詩人になれているんだろうし、面と向かって褒められるのが苦手、というのもわかる。人から評価を受けているから詩集の出版が出来ているんだろうが、そういうお堅い人からの“評価”より、友人からの素朴な“感想”の方が嬉しいんだろう。

「こう言うのは年上の人なのに失礼ですけど、可愛らしい方ですよね」

「そうだな。初めはきつい人だと思ったけど、その印象もどっかに行ったぐらいだ」

「……ワタシには、未だかつて可愛い姿を見せてないんだけど!――こうなったら、何をしてでもユイカを笑わせるんだからー!」

「ちょっ、ヘンリー!今から足羽さん、新しい詩を書くみたいだから」

 暴走する彼女を止めようとしても、無理だった。手を伸ばしても、もうそこには虚空しかなく、仮に腕を取れたとしても、そのまま引きずられて行きそうだ。かつてはカウガールだったそうだが、今の彼女はバッファローのようにパワフルで、大した筋力もない男の力で止められそうもない。

『ちょっと、いきなり何よこの金髪田舎娘が!この私に泥臭い牛女が触れていいとでも思ってるの?身の程をわきまえなさい、この庶民がっ』

『ほれほーれー。よいではないかー、よいではないかー』

『く、くすぐるのはやめなさいっ。万年筆で刺すわよ!?パソコンでどつくわよ!?ナイフで切り裂くわよ!?』

 ……大惨事だ。ちなみに、ナイフとは言ってもペーパーナイフであり、本当にそこまでの殺傷能力がある訳じゃない。本当に人を斬れるような、危険なものを持ち歩いてもらっていても困るが。

 結局、そんな物理的手段で足羽さんが笑い、“可愛い一面”を見せたのかはわからないが、少しして帰って来たヘンリーは満足そうだった。もしかすると、いつも冷たくあしらわれている彼女に復讐がしたかったのかもしれない。

「ユイカ、ちょっとは胸があるね!」

「そこまで触ったんですか……」

 足羽さんがテーブルに伏せて、少しも動かない理由がわかった気がした。なお、後から蓮香が彼女の安否を確認したところによると、パソコン上には『純潔を奪われた薔薇』というタイトルで、実に切ない内容の韻文詩が綴られていたという。

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「水曜日が休みだという話はもうしていたと思うけど、その日にオレ、ヘンリーと出かけることにしたんだ」

「わかりました。お父さん」

「ずいぶんと急ですね。何か用事が?」

「いや……。遂にオレにも、春が訪れていい、そう思ったんだ」

 はぁ、と二人して息をつく。今は月曜日の夜だ。臨時休業日が水曜日だとは先週から聞かされていて、その旨はお客さんにも伝えてある。しかし、遂に秋広さんは告白でもするつもりなのか?俺が知るヘンリーの気持ちが変わっていないのなら、まず玉砕する結果にはならないだろうが……。

「それで、さ。もしかするとこの店を使うことになるかもしれないんだ。ほら、やっぱりオレの長所は料理が出来ることだし、必殺料理で一発、っていうの、漫画みたいでいい展開だろ?そういう訳で、すごく申し訳ないんだけど――」

「あたし達も外出していた方が、都合がいい、と」

「申し訳ない!親の勝手な都合で、インドア派な娘を家から追い出すなんて、最低だとは自覚しているんだ……」

「別にあたしはそこまでのインドア派じゃないですし、構いませんよ。燎太くんも、問題はないですよね」

「もちろん。秋広さん、どうぞ引け目とかは感じずに、自分の力を出しきってください」

「……ありがとう。本当にありがとう、二人とも!」

 秋広さんは感極まって、泣き出しそうな勢いだ。そこまで、本気でヘンリーを想っているんだな。俺が蓮香を想う気持ちに、ここまでの切実さがあったのかと考えれば、どうしてもそこには疑問符が挟まってしまう。今なら確実に俺は蓮香と別れられないほど強く惹かれていると言えるけど、かつてここまでの真剣さはなかったかもしれない。

 だから、秋広さんの必死な姿を見ていて、どうしても応援したくなってしまった。そうでなくても秋広さんは俺の恩人だし、ヘンリーだって、あれで秋広さんの気持ちに対しては不安を持っているのかもしれない。なら、なんとか上手くいくよう、せめて環境を作るぐらいの協力はしたかった。

「それで、お礼と言うにはお粗末過ぎるかもしれないが、こんなものがあるんだ。受け取ってくれないか」

 こうなることを初めから予期していたように、カウンターから細長い封筒を取り出す。そして、その中には二枚のチケットが入っていた。

「動物園のチケットなんだ。当初はヘンリーと行くつもりだったんだけど、思えば彼女は実際に動物と触れ合っていた訳だし、不必要に郷土心を刺激するのもね。飛び出して来た彼女に、家のことを思い出させるのもよくないだろう。という訳で、よければ二人で行ってくれないか。今時、デートに動物園なんて、と思うかもしれないが」

「デ、デート……になるんですね。それは」

「思えば、一度も行ったことなかったな」

 店を開けていて暇な時はあっても、完全な休みはそうそうないし、二人きりで出かけるような機会には恵まれなかった。皮肉にも、秋広さんがヘンリーと一緒に行くつもりだった動物園に行くことが、初めての恋人らしいことになる訳か。

「長郷くん。頑張るんだぞ。――オレも、気合入れて望むからな」

 最後にそう秋広さんは耳打ちし、チケットは俺に握らせた。男の俺がエスコートしろ、そういうことだ。

「ところで……動物園はどこにあるんですか?この街にあるとしたら、郊外のどこか……?」

「ああ。電車で三駅ほど行ったところだよ。行き方は蓮香が知ってるから、任せればいい」

「はい。行ったことはないですけど、ルートは完全にわかってます」

 ……早速、彼女の手を引いて導く、ということが出来なくなったのだが、果たしてこれで俺はしっかりやれるものだろうか。俺はかつて蓮香達と街に繰り出した時、完全に彼女達に連れられていくばかりで、道を覚えることもできなかった。実は俺、相当な方向音痴なんじゃないだろうか。そんな人間が、彼女の手を引くことなんて、一生かかっても実現しないことなんじゃ……。

 どうにも情けない自分自身に溜め息をつき、ふと隣を見ると蓮香が笑っている。彼女が笑顔以外の表情でいることは少ない。さすがに寝起きすぐは違うが、後はいつだって微笑しているものだから、彼女をよく知らない人間はお面を付けているように、いつも笑顔でいる。笑顔の価値がない子だ、と思うかもしれない。

 だが、俺は笑顔の裏にあるもう一つの表情。それに気付くことができる。蓮香は俺を元気づけ、励まそうとしてくれている。そのための笑顔だ。別に努力して彼女の笑顔が読み取れるようになったのではなく、一緒にいる中でいつしかわかるようになっていたことだから、頭を悩ませることはない。――蓮香は、いつも笑顔でいる自分が好きではないみたいだが。

「それじゃあ、オレからは以上。素敵な休日にしよう」

「明日は普通にお仕事ですけどね。お父さん、明後日が楽しみ過ぎて、気を抜かないでくださいよ」

「ははは、オレはプロだよ。そんな私情なんかに振り回される訳がないだろう」

「ならいいんですけど。足羽さんはそういうの、うるさいと思いますよ。少しでも味が落ちていればなんと言われるか……」

「わかってる、わかってるともさ、我が最愛の娘よ!だからどうか、今のオレにあの女のことを思い出せないでくれ……!」

 二人は仲が悪そうで、実際は中々に息が合っているようなのに、今はもうヘンリーのことばかりが頭にあるのか。しかし、それで本当に明日の仕事は大丈夫なのか不安になるが、仮に足羽さんが怒ってしまった場合、なんとかして、上手くなだめることにしよう。豆の種類が変わったとか……いや、そんな嘘は逆に信じられたら大事になるか。素直に謝ってもらう方がいいな。俺達のような店員ではなく、秋広さん本人に。そこから喧嘩が始まっても、それはもうこの店の名物みたいなものだ。

「さて。ではお父さん、夕ご飯を作ってしまいますね」

「今日のメニューは何かな?」

「焼きうどんです。ケーキが少し残っていますので、それも食べてしまいましょう」

 ここで言うケーキとは、もちろん山代屋のものだ。生ものである以上、売れ残りは山代屋に返してそちらで食べてもらうか、こっちの店で買い取り、食べることになる。ちなみに買取価格は半額。味の全く落ちていないケーキをこんなにも安く食べられるのは、思ってもみない役得だ。

「じゃあ、オレはチーズスフレで」

「残念ながら残っていません。ショートケーキが二つ、モンブランが二つですね」

「モンブランが残るなんて珍しいな。真っ先になくなってる印象があったのに」

 山代屋はその店の背景的に、苺や栗のような和菓子にも使えるような食材は、かなり高品質のものを仕入れている。そのため、ただのショートケーキ、ただのモンブランと侮ることは出来ず、最高級のそれは多少値が張るものの、そんじょそこらじゃ食べられない味だ……とされている。ショートケーキはともかく、モンブランは食べたことないが。

「今日はいつもより少し多めにいただきましたから。それでやっとかな、と思いきや少しだけ残ってしまいましたね。あたしと燎太くんでいただきましょう。お父さんは栗、苦手ですよね」

「へぇ、珍しいですね」

「あの渋みがちょっとね。コーヒーはいいんだけど、オレ、基本的に味覚が子どもだから」

 それを自称するのはどうなんだろう。夕食のメニューにオムライスやハンバーグ、後はカレーなんかが多く、それを食べる時の秋広さんのイキイキとした表情から、そうなんだろうな、となんとなく予想はできていたが。

「燎太くんも、甘いものは好きですよね。燎太くんぐらいの年頃になると、男性はもう甘いものがきつくなって来る、と聞きますが」

「ああ。不思議と嫌じゃないな。そもそも俺は食べ物の好き嫌いがないみたいだ」

「毎日の献立を考える身として、これほど辛いこともないですね。適度に好き嫌いがあってくれた方が、献立を絞ることが出来るのに。……なんて」

「れ、蓮香……」

「冗談ですって。お父さんの好みに合わせると、自然と限られて来てしまいますし、燎太くんに好き嫌いがないのなら、あたしの好みに合わせればいいんです」

 いたずらに舌を出して笑う。たまに蓮香はこんなこともするようになった。もしかすると、元から親しい相手には、いたずらっぽいところもあるのかもしれない。実際、秋広さんには強く当たることだってある訳だし。

「はぁ、恋人っぽい会話をしているなぁ、君等は」

「そ、そんなことはないでしょう!?」

「だ、だよな」

「……大人をいじめるのはやめてくれないか。もう完全に会話の内容が、新婚夫婦のそれじゃないかっ。オレはどうせ、告白すらロクに出来ないヘタレだよ!」

「お、お父さん」

「やめてくれ!同情は時に人を更に追い詰めるんだっ」

 何が悪かったのか、秋広さんの変なスイッチが入ってしまったようだ。いつもは明るい人だが、たまにこうやってとことんネガティブになってしまう。正直、いつものテンションをさばくよりも楽だが、これじゃ気の毒だ。

「秋広さん。きっと上手くいきますよ。自信を持ってください」

「どうして、そう言い切れる?オレなんて、料理を作ってコーヒーを淹れられる、ただそれだけの人間じゃないか……。それに比べ、ヘンリーは美しくて、明るくて、なんて輝かしい人なんだ。俺にとても釣り合うはずがない」

「それ、俺に対する蓮香と同じですって。俺も全然わからないんですけど、多分、釣り合うかどうかとか、そういうんじゃないと思いますよ」

「じゃあ、なんだと……?」

「あっ、いえ、だから俺もそこのところはわからないんですけど、ヘンリーはきっと気持ちに応えてくれますよ。そしたら今度は、秋広さんが俺達に見せ付けてやってください。二人みたいに積極的な人なら、簡単でしょう?」

「……はぁ、なんとも微妙な励ましだな。でも、ありがとう。なんだか君に言われると、無茶なことでも説得力を持って来るみたいだ」

 それはどういうことだろう。と思ったが、俺はそういえば記憶失って行き倒れていて、蓮香に助けられ、今に至るという奇跡の体現者だった。ほとんどファンタジーの塊みたいな人間だから、俺以上に信じられないものはない、ってことか。

「お父さん、燎太くん。お話もいいですけど、ご飯の準備をしてくれませんか。あたし一人に任せていたら、いつまでも食べられませんよ」

『はーい』

 腹はもう、十分過ぎるほどに空いている。俺も秋広さんもしゃかりきになって、閉店後の仕事を始めた。

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 水曜日。天気予報によれば雨が降る可能性もあったが、実際の天気は曇り。青空は見えないが、過ごしやすいしとりあえず雨は降らないようだ。俺達にとっても秋広さんにとっても、これは僥倖だ。雨の中の告白はまだ絵になるかもしれないが、雨の日に動物園でデートなんて、ロクに楽しめなさそうだからな。

「それじゃあ、秋広さん」

「ああ……頑張るよ。長郷くんも、楽しんで来てくれよ」

「はい。蓮香を退屈させないように頑張ります」

 既に蓮香は店の外に出ている。一応、こうして最後に男同士で話すことにしたのだった。

「蓮香は君と一緒なら、それだけで楽しいだろうさ。ああ、羨ましいもんだなぁ……」

「あ、秋広さん。朝から後ろ向きにならないでください。上手くいくものもいきませんよ」

「そうだよな……。オレはやっぱりダメだよなぁ……」

「ああもう、面倒だなぁ!」

 思わず声を張ってしまい、しまった、と思ったが、逆にそれで秋広さんは目が覚めたかのようにしゃきっとし、持っている中で一番いい服なんだろう。いかにも高級そうなシャツの襟元を正す。

「ふぅ、そうだ、オレはなんて面倒な大人なんだろうな。いい歳して、娘もいるっていうのに」

「秋広さん……」

「一つ、やりきってみよう。この店を始めた時のような勇気を、もう一度ふりしぼる時が来たらしい。さぁ、若い者は出て行った!ここからは大人の世界だっ」

「は、はい。それでは」

 簡単にネガティブスイッチが入るかと思えば、立ち直りも音速だ。まあ、暗い顔で見送られるより、晴れやかな顔をされた方が出て行くのに気持ちがいい。

 少年のようなニコニコ顔の秋広さんを店に残し、俺も街に繰り出した。――蓮香との、初めてのデートだ。

「動物園、か……。蓮香はどれぐらい行ったことがあるんだ?」

「ええと、たぶんない、ですね。お父さんに誘われたこともあるんですが、あたしは動物園にいるような動物より、“あっちの動物園”にいるような子の方が好きですし」

「ああ、ペットショップな」

 そういえば、ハムスターの件もまだだった。動物園に行った帰り、ついでにまた見に行ってもいいかもしれない。蓮香はともかく、俺に手持ちがほとんどないのが不安だが……まあ、今すぐに現物を買わずに、ケージとか、育て方の本とかだけでもいいだろう。

「けど、いざ行くとなると、やっぱりわくわくしますね。あたし、動物はなんでも好きなのかもしれません」

「そうか。俺は、どうなんだろうな。あのペットショップだと犬をずっと見てたけど、犬が好きなのかな。他の動物にはあんまり興味ないっていうか」

「では、今日の動物園は微妙ですか……?」

「い、いやいや。そんなことは全然。初動物園な訳だし、知識としては覚えていても、やっぱり楽しめると思う」

 喜んで動物園に行く年頃といえば、幼稚園か小学生の時分だろうな。その頃の俺は……と深く考えて頭痛を感じるのは避けた。今日は仕事が休みで、しかも蓮香と初デートをする日だ。こんな時ぐらい、何も考えず――いや、蓮香のこと以外は何も考えず、めいっぱい楽しんだっていいだろう。

 駅に着くと、切符を買い、改札を通り、電車を待つ。電車が来たらそれに乗り、目的の駅まで軽く蓮香と話しながら待ち、忘れずに降りるべき駅で降りる。また改札に切符を通して、駅を出た。

 ……と、まるで学生か社会人のルーティンワークみたいに一連のことをして来たが、今の俺にとっては全て初めてのことだ。なんでもない、誰もが同じことをやっているはずなのに、こうして客観的に見つめると、行程も多いし、それぞれに制限時間があるんだし、中々なハードワークに思える。それでも、体に覚えさせることで機械的に全てやれる人間は、すごいというかなんというか。軽く呆れた。

「動物園はすぐ近くですよ。近くに美術館もあるんです」

「へぇ、そっちも興味あるな」

「そうですか?意外……と言うのは失礼ですね。でも、本当にちょっとびっくりしました」

「足羽さんの話し相手をさせられてると、自然と芸術的なことへの興味を持たされてな……。蓮香もそうじゃないか?」

「えっ、そうですか?あたしは足羽さんのお話は結構、適当に受け流しているところがあるので」

「そ、そうか」

 俺にしてみれば、そのことの方が意外な真実だ。確かに、足羽さんが蓮香よりも俺の方を呼び出すようになった気がしていたが、俺が律儀にきちんとした相槌を打ったり、時には意見を求められて、それにちゃんと答えたりしていたものだから、気に入られていたのか……。

「でも、いいですよ。動物園よりずっと涼しいと思いますし、いい休憩になります」

「曇ってるとはいえ、結構蒸し暑いからな。それじゃあ、早いところ動物園に行こう」

 蓮香が前を歩き、俺がそれについていく。“それっぽく”手を繋ぐようなことはなく、ただそれほど距離を開けずに歩くだけだ。ただ、彼女の最近は少し伸びて来た茶髪が揺れるのを見ている。それだけのことで、俺はこの人と緊密な関係にいるんだ、と思うことができる。どうも最近は伸ばすことにしたらしいが、ヘンリーみたいに結ったりするのだろうか。

 彼女にはずっと、短めの髪で快活。というイメージがあったが、長髪の彼女はきっと大人っぽくて、優しげなイメージが強まることだろう。元気さと柔和さが共存しているところが俺の感じる彼女の魅力だが、淑やかな容姿になるというのも捨てがたい。

「燎太くん?どうしたんですか、そんなにゆっくり歩いて」

「いや。最近の蓮香は髪を伸ばしていて、それもいいなって思ってただけだ。こうやって後ろから見ていると、より強く意識するからな」

「そうですか?ジェイムズさんも、足羽さんも髪が長いので、ちょっと憧れて来てしまって、実験的に伸ばしていたんです。燎太くんがいいと言ってくれるなら、まだもう少し伸ばしてみましょうか」

「いいな。その方がきっといいと思う。……いや、手入れが面倒になったりしないなら、だけど。やっぱり、髪が長くなると洗う時とか、セットとか大変だろうし」

「大丈夫ですよ。それぐらい。……っと、そういう辺りで到着です。チケットは燎太くんが持ってるんですよね」

「おっ、もう着いたのか」

 蓮香ばかり見ていたせいで、周囲の情景が変わっていることにまるで気付かなかった。……なんて、まるでナンパ男のセリフだ。

 カバン(秋広さんのお下がりだ)を開き、その中から封筒に入ったチケットを取り出す……つもりだった。が、どれだけ探しても一向に出て来ない。財布に挟んでいたんじゃないか、と思って開いてもなし。つまり俺は、秋広さんからもらったチケットを忘れて来たか、途中で落としてしまったということになる。カバンを開けたのは、切符を開けた時が最初で最後だ。その時に零れ落ちるような入れ方はしてなかったはずだが……。

「ごめん、蓮香。忘れて来たみたいだ」

「幼い頃の純粋さを、ですか?」

「それを忘れるぐらいで動物園に入れるなら、喜んで忘れて来ただろうな……どこにだって」

 咄嗟に考え付いて、俺の重く沈んだ心をすくい上げてくれようとしたんであろうジョークも、どこか虚しく響いた。

「お、俺が払うよ。それぐらいの金はあるしっ」

「い、いえ。自分の分は自分で……。だって、その、デートなんですから」

「だ、だからこそ、俺がっ」

「じゃあもう、あたしが全額払いますっ」

「それは絶対になしだ!俺が勝手に忘れたんだから、やっぱり俺に払わせてくれ」

 どうしても蓮香は折れず、それからもしばらくは同じやりとりをくり返したが、結局は動物園へは自分のお金で入り、昼食代を七三で支払うことにした。もちろん、七割は俺だ。

「はぁ……。燎太くんもつまらない意地を張りますね」

「蓮香には負けるよ。普通、そこは素直に男の俺を立ててくれないか?」

「あたし、そういう男の子だから支払うとかって好きじゃないんです。それに、思うんですけど……」

 そこで一度、蓮香の言葉は途切れた。小さく息を吸ってから続きを一気に言う。

「恋人って、もっとこう、お互いを支え合う関係なんだと思います。だから燎太くんが失敗をしたら、あたしが補いたいって思うんです。今回は、燎太くんの言う通りにしますけど……これからはあんまり、責任感とかそういうの、意識し過ぎないでください」

「れ、蓮香」

「……お願い、します。お父さんやジェイムズさんがそう扱うのなら仕方ないと思いますけど、燎太くんはあたしのこと、子どもみたいに扱わないでください。あたしは体こそこうですけど、少なくとも心は大人のつもりです。どうか一人前として、もっと頼ってくれませんか?」

「蓮香」

「燎太くん。あたしはここにいます。名前だけを呼ぶんじゃなく、言葉で語りかけてください。じゃないとあたし、わかりません」

「わかった。これからは、蓮香を信じて、頼るよ。でも、今日だけは俺の責任にしておいてくれ」

「はぁ、やっぱり燎太くんは頑固です。強情です。つまらない意地を張ることしかしません。まるであの人と同じ……じゃなくてっ、そんなんでもあたし、燎太くんが嫌いじゃないです」

「好きとは言ってくれないんだな」

「あたしの“好き”は安くないんです。燎太くんも同じでしょう」

「それもそうだ」

 蓮香は恥ずかしそうに顔を赤らめ、さっさと園の中へと行ってしまった。慌ててチケットを買い、追いかける。きちんと彼女は待っていてくれて、パンフレットを俺にも見せてくれた。自然と、二人の体と顔の距離が近づく。

 パンフレットを覗き込もうとすると、すぐ近くに蓮香の頭があって、自然と髪の香りが嗅げてしまう。甘く、同時に爽やかないい匂いだ。

「まずはどこに行く?」

「順当に端から……にしたいですけど、コアラは人気そうですね。逆回りにしても、パンダみたいないかにもな人気動物が端の方に配置されてます。まるで壁サークルですね。そういう訳ですから、アトランダムに見たい動物を適当に見て回りますか」

「壁サー……?」

「燎太くんは知らなくてもいいことです。さっさと行きましょう」

「あ、ああ」

 突然、不思議な言葉を使い出した蓮香だが、なんだろう、もしかすると国言葉だったりするのか?ともかく、彼女に自然に手を引かれていき、辿り着いたのは大きな茶色のネズミ的な、アレの檻の前だった。

「あたし、カピバラ好きなんです。燎太くんには見せてませんけど、ぬいぐるみもいくつか持っているんですよ」

「へ、へえ」

「今の時期はお風呂はやってないんですね。残念です。あっ、けどスプリンクラーとかするみたいですよ。水遊びをするカピバラって、最高に癒やされますよね!」

「そう、だな」

「後々、カピバラが段々に積み重なるやつ、あれ知ってます?あたしは勝手にピラミッドって呼んでるんですけど、あの上に乗っかってもふもふするのが夢なんです!……まあ、実際のカピバラの毛は硬いそうなので、ぬいぐるみであれを再現して、その上に乗るのが夢、って感じですね」

「い、いいな」

「でしょう!それでね、あたし、前にハムスターを飼いたいって言ってたけど、カピバラの影響も大きいの!同じげっ歯類だし、名前も実は決めててね、バラさんか、カピちゃんでいこうかな、って。ハムスターって番で飼うのは難しいみたいだけど、将来的には別のケージで飼えば解決するよね」

「………………」

 蓮香はここに来る前、ペットショップの方がいいと言っていたよな。

 それなのに、実際はこの始末だ。恐ろしく饒舌になったばかりか、カピバラ愛を語る中で、いつもの丁寧な口調はどこかに行き、歳相応の女の子っぽい話し方になっている。鼻息も荒いし、こういう姿も新鮮で可愛いって言えば確かにそうだけども、できるならば知らないでいていい、隠された一面だったな……。

「ねぇねぇ燎太くん、触れ合いも出来るみたいだけど、お昼からなんだって。また来ていい?その日の内は入り放題なんだし」

「あ、ああ」

「やったぁ!燎太くんも一緒にやろうよ」

「い、いや。俺はいい。蓮香が一人で思いっきり楽しめばいいよ」

 ……どうしよう、接していて辛い。蓮香がこんなにも己の人格を崩壊――いや、解放させてしまうだなんて。

 ちなみに俺は、どうも奴らの可愛さというやつが理解出来ない。ひたすらにぬぼーっとしているし、蓮香も言うようになぜか積み重なるし、まるで人間を観察しているように動かないことがあるし、なんか人間にいそうな顔だし。

 とはいえ、そんなことを言えば最悪の場合、ここで二人の関係が終わりかねない。別に好きじゃないからといって、見ていて不快な訳でもないし、上手く付き合っていこう。蓮香とも、カピバラとも。

「見て見て!あそこのカピバラさん、二人で一緒にいるよ。恋人同士かな?まるであたし達みたいだねっ」

「……あれが、俺と蓮香か」

 ぬぼーっとしたカピバラが二匹。ぴったりと寄り添い合って、こっちを見ている。

 可愛い、んだろうか。あれは。

「パンダって、並んでまで見るほど好きじゃないんですよね。並ぶぐらいなら、カピバラに行きましょうよ」

 なお、カピバラ以降の蓮香はずっとこういう感じで、いつもよりもテンションが落ちているようにすら思った。

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 改めて思うが、蓮香は世間一般で言うところの「美少女」だ。だからこそ明日見の丘の看板ウェイトレスが務まっているんだし、その容姿の華やかさはテレビに出ているようなアイドルにも劣らない。

 つまり、人混みの中にいても目立つ訳だ。特にこの動物園のある辺りは、俺達の住む街に比べれば人通りも少なく、平日の昼間なので更に街を行く人の数は限られてくる。歩いているのは大学生がほとんどだろうか。俺よりも少し年上に見えるが、そんな男達に蓮香がナンパされるようなことはないよう、俺がきちんと目を光らせている。

 そうすると、よほど俺の顔が険しかったのか、彼氏持ちはそもそも声をかけないのか、ちょっかいを出されることもなかった。これでもしも絡んでくるやつがいれば、遠慮なく撃退するつもりだったが、出来れば荒事は避けたいからこれでいい。

「燎太くん。そんなあたしのガードマンみたいにならなくていいですよ。誰も声なんかかけませんって」

「いや。心配だ。蓮香はほら、声とかかけられそうだから」

「ええっ、そんなにあたし、ガードが緩そうに見えます?」

「見た目だけならな。いっつも朗らかだし、強く迫ったら嫌とは言えない、って思われそうに見える」

「そんなんじゃないのに……。あたし、お父さんと燎太くん以外の男性とは、話すことすら苦手です。真っ先に拒絶しますよ」

 確かに、蓮香はお客さんと必要最低限の会話はするが、男の人ときちんと話している姿は見たことがない。でも、こうして恋人という関係になる前から俺とは話してくれていた。特別な出会い方をしていたとはいえ、彼女にとっての特例になれていたのは、初めから彼女にいいと思われていたからで……なんて夢を見たくなったが、単純に同じ家で暮らしているからか。あんまり夢を見ていても仕方ない。俺はこういう身の上だからこそ、リアリストだ。

「手、繋いでみますか?」

「ど、どうした。唐突に」

「ほら、デートですから……。お父さんに手も繋がなかった、なんて言ったらヘタレ扱いされるのは燎太くんですよ」

「それもそうか。じゃあ、繋いでみるか」

「みましょう。あっ、強くはしないでくださいね」

 彼女から言われた時点で、もう十分に俺はヘタレ男のような気もするが、せめて繋ぐのは俺の方が先にした。動物園で思い切り手は引かれていたが、ゆっくりと手を繋ぎながら歩くのはまた特別な経験だ。

 男の俺とは違う、簡単に折れてしまいそうな腕。長さも太さも違う、女性の手指。爪も俺よりずっと奇麗だった。きちんと手入れをしているのだろうか。

「温かい、な」

「燎太くんがそんなこと言うから、もっと熱くなっちゃいますよ……」

「それでもいい」

「もうっ」

 指がしっかりと絡み合う。互いの体温が交換されるようで、それを意識すると更に体が火照っていく。曇りの日なのに、真夏の太陽が照り付けているかのような暑さに感じる。同時に、これが恋人なのか、という実感がやっとやって来た。俺はこの時から、初めて蓮香を彼女として認識したのかもしれない。心はともかく、体は。

「知り合いがいないとはわかってますけど……なんだか人には見られたくないですね」

「そうだな。結構こう、自慢みたいだ」

「でも、幸せな気持ちです。今まで生きてきて、燎太くんと出会えて、よかった……」

「おいおい、ずいぶんと重い言い方だな。別に俺じゃなくても、蓮香ならいい人に出会えたし、愛してもらえただろう。むしろ、そうやって出会いに感謝するのは俺の方だ。蓮香に助けてもらった、そこから全てが始まったんだからな」

 長い時間、彼女とあの店で、あの家で過ごして来た。俺にもかつては実家というものがあったんだろうが、今ではあそここそが俺の家。俺が「ただいま」と言える場所だ。あんまりに居心地がいいから、そこから外に出ることも少ないが、たまに外出して、戻って来ると改めてそのよさを感じる。何度だって感動できる、安らぎの場所だ。

 そここそが俺達の始まりの場所で、恋人を始めた場所でもある。願わくは、その場所を最後の場所にだってしたい。

「燎太くん。あたし、嘘をついてたんです」

「……どうした、急に」

 蓮香の声は震えていた。こんなにも俺は幸せで、彼女も幸せそうに話していたのに、表情は曇り、目には……涙が見えていた。彼女の泣き顔なんて、未だかつて見たことがあっただろうか。

「全部、嘘なんです。あたしと燎太くんの出会いも。あたしが燎太くんを好きだということも。……全部、嘘でした。あたしは、あなたの顔に。あなたの体に。あなたの身体だけに恋をしていたんです」

 蓮香は走り出していた。どこまでも走り、走り……どこにいったのかはわからなくなる。それでも俺には、彼女はきっと家に帰るんだろうとわかった。俺も彼女も、あそこに帰るしかない。

 そして多分、あの場所で終わるんだろう。俺達の関係は。完全に。

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五章。大詰めです
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長編 現の中の夢物語 

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