蛇女の叫び 修正版 |
その恐怖は田んぼに立ち尽くす少女の悲鳴により雄弁に語られたかのように思われた。
満月に照らされ輝く稲穂を飲み干す炎。
己の漆黒の棍棒で満月を貫こうとする黒煙。
少女は恐怖したのではない。
全てを焼き尽くせと先刻産み落とした朱色の鬼子を焚きつけていたのだ。
残ったのは彼女だったものだけ。
それでも彼女が世の汚れを直視し、苦しまずに済んで良かった。
僕も他の男とおんなじで彼女が好きだった。
想像力が及ぶ限り自身を悲劇の谷底へと突き落とさずには気が済まない人がいる。
そういった人を救う手段は存在するのだろうか?
この質問に、「それは愛だ」と答える人はいるだろうか?
自身を苦しめずにはいられない人間にとって愛とは、いかにして嫌われようかという欲求だ
彼らは、嫌われるまで相手を愛して、愛し尽くさずにはいられない。
だから、愛は彼らに対して救世主の名を語る資格はない。
初恋は報われない。
それは気づいた頃には、もう取り返しがつかなくなっているからかもしれない。
例えば、それは特別な感情を抱いていた相手はもう自分の近くにいないからとか。
自身の精神の未熟さが原因だとか。
家は多くの人には、心身共にノアの方舟のような数少ない安らぎの空間であり、集団なのかもしれない。
でも、僕みたいな人間にとって家もまた人生に有り触れた苦痛の一つでしかない。
父は色情狂。今の僕と大差ない女性たちを買っていた。彼曰く、人と肌を合わせていないと落ち着かないそうだ。
母は鬱病。いつも布団で横になっていた。まだ生きているのだろうか?
祖父は時間が止まってしまった哀れな人間だ。早く死ねば良いのに。
祖母は過労死した。下半身不随の祖父を介護して過労で死んだ。あんな幸せそうな死に顔を僕は見たことがない。
妹は去年自殺した。ビルから飛び降りて自殺した。遺書にはバイバイという文字がびっしりと敷き詰めてあった。
我が家のもう一人の構成員を説明するために少しだけ我が家の家業について説明させてほしい。
我が家は代々、畜生を殺めることを業としてきた、なんていうとかっこいい気がしなくもない。要は、酪農を営んでいた。バブル期には成り上がった碌でなしどもが脱税の手段として牛を買うなんてことが行われていたらしい。そこに目をつけた爺さんは成金どもにせっせと牛を売り込むことでちょっとした財産を拵えた。ただ、所詮はあぶく銭。努力の対価ではない金など後の破滅の契機に過ぎない。実際、宝くじで当選した人間の多くは破産する。我が家の文盲は、騙されて地上権のない二束三文もしない土地を購入し、ただデカイだけの機能性無視の欠陥住宅を建築した。
不当な報酬の下にはろくでもない乞食どもが蠅やネズミのように群がり持ち主を貪り尽す。
家畜の命を奪う代わりに、社会奉仕をしなくてはならないというよく分からない理由である日ヒズと名乗る女性が養子として我が家の一員に加わった。
我が家の新たなる構成員は、父が与えたブカブカの水色の半袖をよく着ていた。半袖からいやでも存在感を主張する陶磁器の肌。そして彼女の右腕から手首にまで絡みつく白蛇の刺青。彼女の透き通るように美しい肌に巻き付く白蛇はどこか誇らしげに見えた。この刺青は、生贄に捧げられる者が14歳の誕生日を迎える際に施されるものだった。しかし、この刺青はただの生贄に授けられるものではない。この刺青は、生贄を求める白蛇が佳人を好んで喰んだという胡散臭い民話に由来するらしい。つまり、この刺青は彼女が村一番の美人であることを意味しているのだ。
私見だが、魅力的な女性が時間に犯されるのを見たくないという病的な美意識や老婆心がこの大蛇の正体ではないだろうか?しかし、この風習は家の面汚しである障害者を消すあるいは口減らしの最良の口実としても使われ始め、その対象年齢は飢餓や貧困が人々を襲うたびに吊り下げられ、大蛇の毒牙は幼子にまで及んだのである。考えて欲しい、「ウチの息子、娘さんは美しいので生贄に選ばれました」と言っておけば、不必要ですからというよりは角が立たない。ちなみにこういう建前で生贄が選ばれたときは生贄に仮面を被せていたらしい。
生贄という風習は流石にすでに廃止されていた。だが惰性で、美人で精神や知能に問題がある女性にのみ今でも白蛇の刺青が施されている。
つまり、現在の白蛇は男の目には「諦めろ」という意味に映ることになる。
彼女はある凄惨な事件により両親を失い、心が砕け、言葉を失ってしまった。
だから、彼女は口がきけず、精神の年齢が五歳で止まっていた。
行き場や仕事場がない障害者や身寄りのない人物そして乞食に仕事、住居、そして食事を供給していたため彼女以外にも、多くのマイノリティーと僕は日々顔を合わせていた。だから、彼女に対して差別的な意識を持たなかった。寧ろ、小学校一年生だった僕は自分にお姉ちゃんが出来たと喜んでいた。
彼女との初対面は今でも鮮明に思い出すことができる。
右腕から手首まで伸びる白蛇と刺青。
どんな湖よりも透き通った白い肌。
確かにその容姿は形容し難いほど優れていたが、彼女の魅力はその裏表のない表情であった。
そしてなによりも驚いたのが、当時十九歳だった彼女がいきなり当時五歳の僕にいきなり抱きついてきたことだ。
僕の首に巻き付く彼女の両腕から伝わる温もりに驚いた。
今でもそうだが、彼女は僕にとっての唯一の希望だった。
話ができない代わりに彼女は表情の微妙な変化で全てを語った。
彼女の表情筋が紡ぐ「語彙」は広辞苑にすら匹敵した。
目をつぶると今でも彼女の万華鏡の表情が浮かぶのだから、僕は何か視覚で捉える必要性を失った。
彼女と同程度に観る価値のあるものなどないのだから。
僕は視力を失った。
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