いける(β)
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 植物は茎を裁断されるとその切り口から刺激臭を放つのだという。花屋の娘として生まれた渋谷凛であったが、これを学校の授業で知った。今朝も入荷したばかりの生花の茎を母親が鋏で整える音を聴きながら目を醒ました。毎日店先で吸い込んでいるあの香りは、植物の生命が残す抵抗者の悲鳴なのだろうか。その臭いが制服に染み付いていやしないかと自分の袖を嗅いでみたが、鼻腔が捉えたのは洗髪剤のわざとらしいハーブの香りだけだった。長い髪を洗うのが面倒で何度も切ろうと考えたが、褒めてくれる友達に申し訳なくて踏ん切りがつかなかった。

 教室には無骨な溶接で組み立てられた机が等間隔で配置されていた。窓に蛍光灯を映す教室には質の悪い鉄の香が薄っすらと漂っていた。家に帰るのが億劫だった凛は、一人で黙々と宿題をこなしていた。この時彼女は未だ中学生。家業を手伝わされることを嫌い、こうして無理に用事を作って学校に居残ることが多くなっていた。

「どうしたの? 恐い顔して」

数学の問題が少し込み入っていた。一人でいる時の彼女にはどこかしら人を遠ざけるような雰囲気があった。集中していると瞳が少し内側に寄る。机の上のノートを見ているのにどこか遠くを凝視しているようだと言われる。言われて始めて、ノートの文字を追っているのではなく物思いに耽っていることに気が付く。

「そんな顔してる?」

凛は顔を上げてクラスメイトに応えた。長い付き合いであれば、凛が人をえり好みしない人物と分かる。だからこうして放課後に心細い思いをしている少女の話し相手に選ばれるのだ。

 部活のこと、進路のこと、教師のこと。窓ガラスの向こうに自身を写した教室は彼女達だけの世界であった。ひとりふたりと話の輪に加わる者が現れ、紙箱に詰まった駄菓子が持ち込まれ、そして秘蔵の恋愛話が惜しみ惜しみ投下されていった。「うそ、あいつが?」「そう、ありえないでしょう?」凛は他人の恋愛沙汰に興味を示す言葉を選びながら、またどこか醒めている自分を感じ取っていた。みんな、夢中になっているものがある。私には、ない。すっかり暗くなった帰宅の途で一人になった凛は、ふと足を止めてしまった。そうしてお腹に空洞ができたような感覚を保ったまま、そのまま体が崩れないように一歩二歩と意識して道を進んだ。やがて一階が店舗になっている自宅に到着すると、息を潜めている植物が放つ厳格な薫りに凛は迎えられた。

 自宅の浴室にある鏡に向かう時、凛は目の前に映る人物が自分であることを理解するのにいつも数秒要するのだった。相手が無愛想に自分を見つめるので、まばたきをして相手も真似するのを認めて、ようやく鏡に映っている人物が自分であることを自覚できる。微笑んでみせる。睨んでみる。鏡の自分に飽きると浴室に入り、下腹部の膨らみを指で沿ってみる。左の肩からスポンジで自分の体を洗い、時間をかけて髪を濯ぐ。コンディショナーは明日でいいかな。そういえばまだ宿題が終わっていなかった。湯船に浸かりながら、凛の思考は止め処なく彷徨い始めていた。彼氏に振られた友達。今日のテレビの歌番組。幼少時代。たまに母親が自分に花束を持たせてくれた。それは幼稚園の玄関の花瓶に飾られた。その花が枯れると、凛は自分の責任だと思い込み、物置に隠れて泣いた。あの頃は何も知らない子供だったなと、凛は水面に映る自分の顔を他人であるかのように眺めてみるのであった。

 

 凛が幼稚園で他の家庭で育った子達と話をするようになると、自分が特別な家庭に住んでいるのだと知った。それまでの凛はどの家にも所狭しと花が並べられているのだと信じていたのに、花瓶さえない家の子供がいることを知った時は声を出して驚いてしまった。そして将来の夢が花屋さんだという子がいたりすると、凛は密かに優越感を抱いたりしたのだった。

 やがて幼い凛は花屋の娘であることを意識し始め、植物のことで絶対に他の子供に負けてはならないと考えるようになった。花の名前を凛はよく憶えた。周りの女友達が凛のことを何度も何度も羨ましがるのを聞いて得意になっていたりもした。

 「ねえ、凛ちゃん。この黄色いのは?」花壇まで手を引かれて花博士凛ちゃんの登場である。幼いながらにもったいぶる芝居も心得ていた凛は、人差し指を唇に添えて少し考えるポーズをして皆が静かになるのを待った。「フリージアだよ」「へえ」「あのね、家に白いのもあるよ」尊敬の眼差しで自分を見つめる弟子たちだけに、凛は特別に秘伝を授けるのだった。「赤いのもあるんだよ!」そう答えると、丸々としていた幼年期の凛の頬は薄赤く色付くのであった。

 

 「そんなの知らなくたって生きていけるじゃん」小学校に上がると、凛は心無い言葉を投げつける男子の標的になった。年端の少年の無慮な一言でしかなかったが受け取った凛にとっては重いものだった。その言葉には得意に思っていた凛を咎める含みがあるように思えた。母親の家業が余計な仕事で、それで生活している自分が余計な人間で、きっと教室に飾るために持ち込んでいる花束も余計なのだと、凛は母親から持たされる花束を拒むようになった。明日、誰も花を買ってくれなくなったら、自分の生活はどうなるのだろうか。学校を辞めなくてはならなくなるのかもしれない。サラリーマンの家庭が多いクラスメイトの中で、まだ社会の成り立ちをよく理解していなかった凛は不用意に不安を覚えるようになった。

 男の子は凛が分からないプラスチックの玩具に夢中になり女の子は衣服や漫画に惹き込まれていった。理科の授業の菜園も不細工なヘチマが相手だった。そういう世界にどこかしら違和感を持っていた凛は、何かの儀式のつもりで校庭の端にコンボルブルスの種を蒔いてみた。程なく芽が出て金網をよじ登ったコンボルブルスは肥料が乏しく貧弱であれど夏前にいちおうの花を咲かせた。ところがある日、悪戯者の男子生徒が花弁を全て千切ってしまった。自分が種を撒いたとも言えず、彼を非難する事ができなかった。それでも彼を許す事ができず、彼が教室でふざけた真似をしていると、凛は無意識に彼を睨みつけるようになった。「あいつ、目つき悪いよな」と男子が言うのが聴こえた。負けん気が強かった凛は、男子の粗相を探し当てては担任に報告を入れたが、些細な事でも告げ口する凛は担任が少しは他人を許すようにと注意をされた。

 そんなことが何度かあったためか、凛はあまり大人を信用しない子供になってしまった。丁度その頃、母親が外回りの仕事に凛を連れて行かなくなった。理由は分からなかったが、自分が足手まといのように思われているのだと受け取り悔く思っていた。母親の食事は店が閉まってからなので一人の夕食に随分と慣れた。ふと凛は、ある計画を思いついた。その計画は日増しに凛を夢中にさせていた。もう実行すると心に決めた凛は、お店の手伝いを条件に母親に交渉を試みた。

 「そんなの無理に決まってるでしょ」「そんなことないよ。絶対大丈夫だから」「あのね……」「私できるよ」母親はいつの間にか娘がしっかりと自分の意見を持つ年齢になったのだと凛をしみじみと眺めていた。犬を飼いたいなどと言い出す娘だとは思っていなかった。普段は何も関心がなさそうな顔をしているのに。「いいでしょ?」そして娘は頑固だった。ついに折れた母親は面倒が少なそうな小型犬を凛に与えた。これも母親にとっては意外であったが、凛はしっかりと犬の面倒をみた。母親の背中を見て育った凛は日課を欠かさない責任感がある娘に成長していたのだ。

 自分の存在に強く依存した子犬に少女時代の凛は大いに愛情を注いだ。犬の頬を持ち上げるようにさすっては、その柔らかな毛並みの感触を楽しんだ。時折店頭に飛び出し売り物の花壇でしきりに鼻を動かすその犬を凛は花子と名付けた。小さな犬であったが散歩については貪欲で、凛は随分と走らされることになった。

 

 犬の世話に真面目な凛であったが、早朝からのイベントがあると母親に散歩をお願いしなくてはならなかった。小学校の最後の遠足は都心から伸びる路線の終点に麓がある標高の低い山だった。最初は慣れない山道で足元が気になったが、途中まで来ると歩き方のコツが分かり黙々と進めるようになった。自然の草木に包まれてこれが本当の自然なのだと感傷的になりながら凛は深呼吸をしてみた。体力のある男子は悪ふざけしながら前に進み、運動が苦手な女子は口数も少なくなり道半ばで登頂を諦める子も出てきた。そんな中で凛は女子で一番先頭を歩いていた。必ず最後まで歩き抜くんだと何故だか意地になっていた。

 暫くすると男子の第二グループと凛が合流した。気が進まなかったが、歩調を緩めるのが嫌だったので、凛は歩調を緩めず男子のグループの中に混じっていった。普段は異性と話すことがない男子が遠足という非日常の力を借りて凛に話しかけてみるのであった。「お前、よく疲れないな」「毎朝犬の散歩してるから」「何の犬?」「ヨーギー」「何それ?」「雑種でさ」凛も黙々と歩き続けるのに疲れていたので、今まで自分から話したことがない色々なことが口から溢れ出した。凛から男子達に質問をしなかったので、自然と凛に質問が向った。この頃ではめずらしくなった長い黒髪をたたえる凛は男子の関心の的だったのだ。

 「そうなんだ。花屋なんだ渋谷ん家」隠す必要もない事柄であったが、渋谷は家業のことを聞かれてしまったのを面倒に思った。「うん、そうだよ」「女の子らしいや」花屋の仕事は朝が早く花束を届ける外回りも多い。水仕事ばかりの母親の手はいつも荒れている。そんな大人の気苦労を知るよしもない同級生に、凛は少しいらついてしまった。「そうかな」と凛は男子の質問をあしらった。そんな凛のつれない態度を生意気に思ったのか、別の男子が道端の野草を毟り採り、彼女の前にかざして挑発してみせた。

「じゃあこれは何の花? お前ん家、花屋なんだから分かるだろ?」

その花の名前を凛は答えることができなかった。小さな葉と細い枝でさらに小さな白い花弁を掲げるミヤマムグラであった。その地味で可愛げのない野草を誰も求めはしなかった。山奥で生息する花の存在意義など、都市部の人間の価値観で左右されてしまうのだ。

「なんだよ知らないじゃないか」

「何でも知ってるわけじゃないし」

そういい捨てる凛であったが、深くショックを受けている自分を認めざるをえなかった。今しがた千切られた雑草はすでに脇道に捨てられ、他の草木の肥やしとなるのを待つ運命しか残されていない。ふと見渡せば、辺りは凛が名を知らぬ草木ばかりであった。そして毎日生花の柔らかな香に包まれている凛だからこそ気がつく、深緑の草木が放つ強い生命力を伴う匂いに、凛は諌められるような思いがした。

 会話が途切れて、男子達から遅れ一人になった凛は、足元の砂利が生み出す模様を追いながら黙々と歩いていた。自分が知っていた花というのは、生花市場に出回っている商品名に過ぎないのだと凛は悟った。そして自分も花の名をろくに知らぬ者の一人であったのだ。ふと凛は今まで自分の中に巣食っていた根拠の無い優越感のようなものが挫かれた気がして気が弱くなった。そんなことを知らなくても生きていける。自分が歩いているのは山道の端に張られた落下防止のロープの内側で、自然との触れ合いをうたった遠足など、誰かが考えた芝居じみたものではないだと凛は思った。この日を境に、凛は同級生に自宅が花屋であることを明かさなくなってしまった。

 

 処分用のダンボール箱で茶色く腐ってゆく花束を見下ろしながら、凛はこの世界は嘘で塗り固められているのだと思った。

――嘘ばっかり。みんな、嘘ばっかり。

 これが凛の結論みたいなものだった。そう独白する度に薄い膜が彼女を覆い、やがて硬い殻の層となった。街の植物は計画的に植えられた代物に過ぎない。コンビニにならぶ菓子など工場で生産された製品に過ぎない。友達が裏で別の友達を悪く言う。テレビ番組に映る楽しげな会話も台本を演じているだけ。仕事が忙しいという親や教師は自分と話すのが面倒なだけなのだろう。そんなことを考えながらたまたま通りかかった裏路地で、母親がアレンジメントした花束が捨てられているのを見つけた。風俗嬢の名刺が添えられていた。都心部で営む花屋の多くがこうした店舗に納入する造花を収入源としていた。偽りの男女関係。その舞台に添えられるために命を断たれる植物。そうして生み出された虚像によって私の血肉が造られているのだ。嘘ばっかり。花束を蹴り用水に捨てた凛は湧き上がってくる唾液を集め唾を吐き捨てた。みんな、嘘ばっかり。そうして固く結ばれた唇は、いつしか凛の頬から柔らかな丸みを奪っていった。彼女のように鋭い感性を持つ少女は、倦怠に達するのもまた早かった。私は――? 凛は自分のことになると都合良く糖衣の内側に篭ってしまうのだった。

 

 

 観光客の外国人が物珍しそうに無数の人間が行き交うするスクランブル交差点の様子をビデオカメラに収めていた。その枠から逃れようと斜めに進む凛を一人の男が遮った。

「すみません、ちょっとお話をお伺いしたいのですが」

凛は露骨に顔をしかめて男を一瞥した。凛はナンパが大嫌いだった。見ず知らずの他人が自分のスペースに無遠慮で上がりこんでくるのを我慢できないのだ。大人びた風格の凛が私服でいると中学生らしくないのも声を掛けられる要因で、それを自覚しているから尚更嫌な気分になるのだ。しかし、男の姿をみとめて、凛はすこし警戒を解いてしまった。男は地味なジャケットを羽織り顔の前に名刺を掲げていた。凛はその名刺を手に取った。男の名刺は都心にある大学の助教授を名乗っていた。

「社会学者?」

「そうです」

「私に何か関係あるの?」

「ありますとも。是非あなたのお話を伺いたい」

「私、別に変なことしてないし。調べても無駄なんじゃないかな」

男は黙って凛が語るのを聴き続けていた。そして間が空くともったいぶったように小さなノートに何かを書き記していた。

「ねえ……」凛は男の意図を測りかねていた。時間の無駄だと思った。「私、帰るから」

「まだ何も話していないじゃないですか」

「関係ないから」

「関係ない人間なんていませんから。それが社会の成り立ちです。私はそれを研究しています」

「私とアンタは関係ないでしょ」

「それも社会の在り方の一つでしょう?」

そう飄々と答える男に凛は少し興味が湧いてきた。面白い事を言う男だと思った。凛は何か咽喉元に引っ掛かっていたものが取れかける気がした。

「どうか人文学の進歩のためだと思ってお時間を頂けませんか?」

何かの役に立つならばと、凛は彼が指差す方向に足を向けた。

 「たまには甘いものを飲みませんか?」と男は席に座らぬ間に尋ねた。いつも太らないようにとブラックのコーヒーを飲んでいた凛は何故それを見透かされたのだろうかと驚いた。「好き嫌いはないから」「そう思いました」少しずつ、凛は男に警戒を解かれていった。

男は暫く形式的な質問を続けた。学校のこと。家族構成。友人のこと。淡々と答え続けたが、質問が将来の展望に及ぶと凛は言葉を詰まらせた。

「……なんというか、何をするのも嘘くさいっていうか。変だよね、こんなふうに感じるの」

「そんなことありせん。……つまりですね、渋谷さんが感じているのはシミュラークルなんですね」

「……何それ? よく分からないんだけど」

「簡単に言うと、今の社会というのは本物っぽく形作られたした偽物で構成されている、ということです」

男の『偽物』という言葉に凛は反応した。「そうだよね。私、難しいこと分からないけど、えっと、家さ、花屋をしててさ。なんというか偽物を売って生活してるというか。うん、ちゃんとした生花だけど、箱詰めにされたやつでさ。なんかそれって、違うよね。あれ、私、何か訳わかんないこと言ってる?」普段このような議論を同級生とできないので、凛は期せずして饒舌になっていた。

「聡明な人なんですね」男は凛が語り終わるのを待って一呼吸置くように言った。「驚きました」と、男は覗きこむように凛の顔を眺めていた。

「実体と記号は乖離しているのですよ」

「記号……」と凛は眉をひそめて男に説明を求めた。

「例えば花屋さんで花束を買う。それは何にお金を払っているのでしょうか?」

「花束、じゃないの?」

「いえ、それは花束を贈るという行為、そうするつもりの自分が花束を買うという行為にお金を払っているのですよ」

男の理屈を上手く理解できなかったが、凛は不思議と深く腑に落ちるものを感じていた。そういうことか。きっと家業の花屋も都市に生きる人間の自惚れを売っているのだ。子供の頃の私は、きっと売るほど自惚れていたのだろう。

「馬鹿みたい、それって」

「そうですか。そう思われるのも一つの見解ですが」

「いや、なんというか、私がって意味でさ。えっと……。浮いてるの。あ、そんなんじゃなくて、そうだ、地に足が着いてないというかさ、ずっとそんな気がしてんの」

「なるほど」

男は凛の体を下から上まで舐めるように眺めると、呼吸を置いてからこう提案してきた。

「場所を変えましょうか。貴方のように感じている女性は結構多いんですよ」

男は会計を済まし、凛を外に連れ出した。

 

 凛は男に導かれるまま坂道を登り続けた。裏路地に入ると、チェーン店ばかりの表通りとは打って変わり、インチキ臭い看板を掲げた古びたビルが並んでいた。やがてアパートのようなビルに男が入っていった。何も看板はなかったが、建物の中に入ると老婆が男に鍵を渡した。凛は促されるままに男とエレベーターに乗った。赤い絨毯がひかれた廊下を歩き男が部屋のドアを開けると、そこには二人が向かい合い座ることができるテーブルと少し大きなベットがあった。何のための部屋なのだろうかと凛は思ったが、とりあえず椅子に座って男の話の続きを聞くことにした。

「名前を聞いていませんでした」と男はドアの鍵を閉めると、歩きながら凛の名前を尋ねた。

「凛。渋谷凛」

「リンちゃん」

出会ったばかりの男にチャン付けで呼ばれることに凛は少し違和感を抱いた。男の態度が急に馴れ馴れしくなったと感じた。

「何ここ?」

男は凛の素朴な質問に直ぐには答えなかった。笑いをかみ殺している男の表情を見て、凛は自分が馬鹿にされていると感じた。しかし、学者という肩書きを持つ男に対して、自分が馬鹿なことを言っているかもしれないと萎縮していた。

「ここですか。ええ、二人でコミュニケーションをとるには丁度いいかと思うんですよ」

改めて凛は部屋を俯瞰してみた。ふと生臭い肉のような臭いが鼻についた。

「リンちゃんの同級生でリスカしている女の子はいませんか?」

「リスカ?」

「リストカットですよ」と男は左の手首を右の人差し指で切りつける仕草をした。

突然の生々しい質問に戸惑いもしたが、何かの統計的な目的の質問だろうと思い、凛は真面目に回答をしようと頭を巡らせてみた。

「いるよ。あ、同級生じゃないけどさ。友達の友達でさ。噂に聞いただけだけど」

「リンちゃんはどう思いますか?」

「そんなの、意味ないと思うし、自分を傷つけるって理解できないし……」

「あれ、おかしいですね。リンちゃんだったら共感するんじゃないかと思たのに」

今まで感じのよかった男の不気味な決め付けに凛は警戒心を抱き始めた。たとえ年長の男性でも凛は物怖じせず反論する性格だった。

「はあ? どうして?」男に反感して凛は声を上げた。しかし男は動じずに、淡々と持論を展開し続けた。

「先程リンちゃんは『浮く』と仰ってましたよね。何故リストカットをするか? それは実感を求めるからです」

「……そんなの信じない」凛の耳元には母親が仕入れた花の茎を裁断する鋏の音が鳴り響いていた。

「リンちゃんは感受性が高いんですよ。だから世の中の全てが嘘に思えて折り合いが付けられない。だから他人とも深く関われない。違いますか?」

「そんなの信じないってば!」そう叫んだ次の瞬間、凛の視界が急転した。力ずくで手を引かれ部屋の奥にあるベットに自分が放り投げられたのだと凛は気付いた。

混乱していた凛がふらふらと立ち上がると男が背後に立っていた。

「リンちゃん。あなたは自惚れて何もかも偽物だと思ってますよね」

「そんなことは――」

「あなたの存在も偽物だと気がつきませんか?」男の手が両肩を掴んだと思うと、その手は胸の膨らみにゆっくりと伸びていった。

「馬鹿! 止めて!」

「こうすると実体を得られるのですよ」

巨大なナメクジに凛は包み込まれるような恐怖に萎縮した凛は声を上げることもできなくなっていた。それでも怒りに体が反応してくれた。肘で男の顔面を二度三度と打ち付けた。肘に男の鼻を砕いた感触があったと同時に男の唸り声が聞こえた。

しまった! 凛は今やっと自分が置かれている状況に気がついた。

――ちくしょう! 間抜け過ぎるよ私!

男がもだえている間に凛はバックを取って廊下に逃げた。

「ふざけんなこのガキ!」

先程までの息を殺したように話していた男が野太い声を上げ、ドシドシと足音を立てて凛を追ってきた。非常口の明かりの下に見つけた階段を下り、自動ドアを抜け、凛は走った。追ってきた男の走る姿は完全に中年のそれで、足取りは速くはなかった。それでも逆上した様子は凛の恐怖を煽るのに十分だった。凛は咄嗟に裏路地のさらに細かな道に方向転換した。男を振り撒くための賭けであったが、不幸にも突然急な下りの階段が目の前に現れた。段差が高く足をとられていた凛の背後に男が迫っていた。

「舐めたことしやがってこいつ!」

男に手を握られると、凛は男のこめかみをめがけてバックを打ちつけた。しかし男はバックを掴み凛の手から奪い取った。男は誇示するようにバックを目前に投げ捨てた。

「離して! 誰か!」

人目を恐れた男は凛の口を手で塞いだ。凛は身を左右に振って男を振り解こうとした。男は足を踏ん張り凛を離そうとしなかった。凛は力尽きてへたり込んでしまい、男は凛の体重を支えるように足を踏ん張ったが、その表紙で凛のバックの紐に足がひっかかりバランスを崩した。男はそのまま石段を転げ落ちた。

「ぐああ、痛っ、痛ええっ!」

凛はすぐさま立ち上がり男の足元からバックを回収し、そのまま石段を下り細道に逃れた。踏み切りを渡ったところで振り向くと、男が足を引き摺りながら追いかけてきていた。踏切が鳴り始めた。間もなく電車が互いの視線を遮った。

 電車が通り過ぎた後、男の視線から凛は消え失せてしまっていた。

 

 悔し涙を拭いながら、凛は駅までの下り坂を小走りで下っていた。

――ちくしょう。馬鹿。馬鹿だあたし。

冷静に振り返れば街で男に声を掛けられそのままホテルに連れ込まれた白痴そのものだった。なんでこんな馬鹿なことになったんだろう。凛はそのまま自宅に早足で帰っていった。途中で涙ぐむ自分を物珍しそうに眺める視線を感じてはいたが、見たければ見ればいいという心境だった。それでも帰宅して母親に見つかることが恐かった。余計な心配をかけたくなかった。幸いなことに部屋に戻るまで家族の誰とも会わなかった。洋服を雑に脱ぎ捨て、下着姿のまま凛はベットに深く潜り込んだ。

――呼吸を、呼吸をしよう。

不思議と凛は冷静だった。こんな不用意な出来事があった後だから、何を考えても変なことしか思い浮かばない。今は、ただ何も考えずに呼吸をしよう。そうしているとガシガシとドアを引っ掻く音がした。花子だ。凛はベットから飛び上がりそっとドアを開いた。子犬は凛の素足に鼻を擦り付けた。凛はベットに戻ると花子も一緒に潜り込んできた。凛が頭を撫でてやると、相手は無遠慮に凛の頬を舐めてくるのだった。「ふっ、ふふっ」くすぐったい。花子は目をひん剥いて凛に突っかかっていった。凛が花子の腹部をくすぐると花子は口を開いて喜んでいるようだった。胸の中に迎え、何度も頭を撫でてやった。

――記号。実体。私って皆からどう思われてるんだろう?

花子の温もりを抱きながら、凛はゆっくりと考え始めた。私を不安にするのは何だろうか。自分は皆とは違うのだろうか。こんなふうに何もかも虚しく思えるのは何故だろう。だからといって自傷する勇気なんてないし、それに意味があるなんて思えない。どうして自分には夢中になれるものがないのだろうか。私も物を考えない植物になってしまえばよいのに。

――ジョキン、ジョキン――

母親が仕事場で生花の手入れをしている音が聞こえた。下着姿のままであることを思い起こした凛は部屋着をまとい脱ぎ捨てたままの洋服をハンガーに掛けた。スカートに土埃が付いている。あの不機嫌な出来事は現実だったのだと改めて凛は思った。

――ジョキン、ジョキン――

あの男は私も偽物だと言った。それが当たっていると思えるから癪に障るのだろうか。でも今更本物の自分だなんて子供みたいだし。

凛はいつも店先に足を踏み入れる前に呼吸を数秒止める。花壇の生臭い香を吸いたくないのだ。でも今日は違った。深く吸い込んでみるとふわりと心が浮かぶような錯覚がした。

「あら、凛。ご飯は作ってあるから」

「うん」

凛は母親がせっせと売り残りの花を処分しているのを暫く眺めていた。

「どうしたの凛?」

「ううん。なんか……、それ、もったいないよね」

「仕方ないわよ」と母親は首を振った。

「ねえ、仕事、大変?」

凛が珍しく仕事の話をするので母親は暫く考えてから答えた。

「そうねぇ。楽ではないけど。どうしたの急に?」

「ううん、なんでもない」

娘の泣き止んだ目元に気が付かない母親ではなかったが、それを口にするほど鈍感でもなかったし、自分の娘のことは信じていた。若い時分だから何かあったのだろう。失恋だろうか。凛もそういう歳だ。

「凛。嫌なことがあったら早く忘れなさい」

凛は今日の出来事が見抜かれたことに驚いたが直ぐに母親の思い違いであることがわかって胸を撫で下ろした。

「どうせ禄な男じゃないわよ」

「そういうんじゃないよ、本当になんでもないんだから」

「難しく考えないことね」

それでも眉を寄せて考え込んでいる様子の娘に母親は一言付け足したのだった。

「仕事だって欲しいと言ってくれる人がいるから続けてるだけよ。なるようになるんだから」

母親は切り揃えた生花を束ね包装紙に包みリボンで束ねた。明日客に届けるのだという。美しくその身を誇示する花束に久しぶりに凛は魅せられた。

――なるようになる、か。

気が付いたらお腹が空いていた。難しいことは食べてから考えよう。いや、考えなくてもよいのだ。くだらないことを考えすぎたら、結局あの男のようになってしまうのだろう。同じく腹をすかした花子が凛の後を健気に追いかけていった。

 

 

 やがて高校に進学した凛は、やはり膝を抱えて悩み続けていた。アイドルにスカウトされて身の処し方に苦悩していた。いや、結論は最初から出ていた。嘘ばかりの世界から抜け出すには、虚構の奥に飛び込んでしまうが一番だという直感を、あとは凛が時間をかけて受け入れてゆくだけの問題であった。地面から浮かんでいたように感じていた自分が、刈り取られるような出来事だった。不思議なことに、そうすると今まで自分がしっかりと地に根を張っていたことを実感できるのだ。植物は茎を裁断されるとその切り口から刺激臭を放つのだという。周りの友達が普通の生活を捨ててしまうのかと心配する。父親と母親がお前をそんな娘に育てた覚えはないと非難する。そうした言葉が凛の鼓動をハウリングさせ判断力を失わせていた。

 

――ジョキン、ジョキン――

いける。この痛みだ。

 

 度重なるレッスンで足の裏の皮が剥ける。手入れを怠っていた爪が皮膚に食い込む。発声練習で枯れた咽喉が錆びた鉄のように焼け付く。食事制限で許された間食のグレープフルーツを噛みしめながら歌詞を頭に叩き込む。新しい仲間と凛は光と対を成す舞台袖の闇に包まれていた。スタッフが私を包む衣装を縫合している。仲間達としかりと両手を繋いで、凛はステージに向わんとしていた。喚声が迎える。魂が震える。光が私を包む。この快感がなくては生きてはいけない。これが嘘か本当かなんて些細な問題だ。

 アイドルの寿命は数年で果ててしまうという。誰もが反対をした。誰もが自分を正気の世界に戻そうとした。でもこれでいいのだ。私にはこれしかなかったのだ。呼吸をする。深く息を吸い込む。搾り出すように響かせる歌声に沸き立つ観客を前に凛はいける者の使命を全うしようとするのであった。

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