紅のオーク 〜第六章〜
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第六章 〜囚われの姫と魔王の斧〜

 

「おーい、誰か生き残ってねえのか」

 白みゆく空にザジの乾いた声が虚しく広がった。

 傍らでは一晩燃え続けた小屋の残り火が燻り、白煙を上げている。木が弾ける音だけが聞こえ、花開くように火の粉が舞っていた。

 ザジの呼びかけに応えるものは誰もいなかった。

 それもそのはずだ、辺りに転がっている死体だけで三つ。森のなかにはさらに多くの死体が転がっている。

 与えられた部下は二〇人で、全員が例の丸薬を持っていた。それが全滅だ。もう笑うしかない。

 ただ、言い訳もある。改良品だとか言われて渡された例の丸薬がとんだ失敗作だったのだ。確かにモンスター化してからの力は素晴らしかった。オークにも負けない腕力に森を縦横無尽に駆けまわる脚力、そして多少の傷なら治ってしまう回復能力。最初こそ隊長、今はガルディだったか、を相手にも優勢をとれていたが、時間が経つにつれとんでもない問題が起きた。

 モンスター化した部下が次々に正気を失い暴れだしたのだ。ガルディに向かって行くならまだしも、同士討ちをおっぱじめやがった。そうなると、強大な力と治癒力がむしろ仇となり戦いは混迷を極めた。

 結局、決め手になったのは最初にザジが言った通り時間だった。傷つけ合った連中に毒が回り、一人また一人とぶっ倒れていった。払暁から太陽が姿を表わすまでの僅かな時間は、敵のまっただ中に一人残され要害の攻略を待ったあの時と変わらないほど肝が冷えていた。まあ、最後の一人がみごとガルディと刺し違えてくれたので結果は良しだ。そうでなければ、自分まであの丸薬を使う羽目になっていた。

 さて問題はこの幸運が最後まで続いているのかだ。

 ザジは五歩ほど離れた所に転がったままピクリとも動かない緑色の巨躯を見た。こいつがまだ生きているのか、もう死んでいるのか。それが問題だ。

 切り傷、擦り傷、刺し傷、熱傷、身につけているボロ布はどす黒い血に染まっていた。切り裂かれた腹からは内臓が覗きそうだ。正直、毒で倒れたのか、出血で倒れたのか分からない。普通の人間ならもちろん死んでいるが、残念ながらこいつはオークだ。

 部下の誰も生き残ってないとなると、もう自分自身で確かめるしか無い。

 ザジは短刀を抜くと用心深くガルディに近づいた。

 一歩、二歩……。ガルディは動かない。あるいは動けない。

 にじり寄るようにして八歩かかった。うつ伏せに倒れているので奴の顔は見えない。肩も背中も動いていない。切り裂かれた腹の出血具合も心臓が動いているのか微妙な所だ。傷口を二度三度と踏みつけるが苦痛の吐息すら無い。

 死んでいる、もしくはすでに意識が無い。それでもザジは警戒は解かないまま、溜まっていた息を吐きだした。

 依頼人の希望は死亡確認に首を持ってくることだ。しかし、とてもではないがたった一人でろくな道具もなくこのぶっとい首を切り落とすのは無理だ。証はこの緑の耳で勘弁してもらおう。

 ザジはうつ伏せになっているガルディの頭の方に回りこむと、しゃがんで耳を掴み、その付け根に短刀をあてた。左手で耳を引っ張りながら短刀を押し付ける。短刀を前後に動かすと、軟骨質のコリコリとした抵抗感とともに耳が切り離されていく。

 短刀の刃が半ばを過ぎた所で一気に力を加えた。左手で引き剥がすよう耳が取れた瞬間、ザジの重心が僅かに前のめりになる。

 その時だ。ガルディの巨体が跳ねるように起き上がった。

「くそったれ!」

 ザジは悪態をつくが遅かった。圧倒的な重量がザジの身体にのしかかる。苦し紛れに短刀を振るおうとするが、乱雑に振るわれたガルディの左腕に短刀が跳ね飛ばされてしまう。

「うぐっ……、くたばり損ないが……」

 仰向けに押し倒されたザジは、オークの腕力ではなくその重量で身動きが取れなくなってしまった。

「ようやくだな」

 ガルディは腹の下にでも隠し持っていたのか、折れた矢をザジの首根っこに突きつけてきた。ちぎれた耳の痕から垂れた血がザジの顔に染みを作っていく。

「解毒剤を出せ」

 血走った目でガルディはザジを睨みつけてきた。この諦めの悪さはさすがだと、驚嘆するしか無い。

「……持ってないな」

「嘘を、つくな……毒矢を扱うのに、お前の手下は……誰も、持っていなかった。お前が……待っているはずだ……」

 ガルディの言葉に力はないが、喉元に押し付けられる矢尻の痛みは確かだった。

「ぐっ……」

 この矢尻に毒が残ってなくても、あとひと押しで喉は切り裂かれザジの命はそこで終わってしまう。

「三つ、数える……死ぬか、渡すか……決めろ」

 ハッタリじゃないことは分かり切っている。こいつは殺ると言ったら殺る奴だ。

 どうする? 渡して命乞いか? だがこの場をやり過ごしてどうなる? 見逃すという保証はあるのか?

「ひとつ……」

 いや、待てよ。そもそもなんで隊長はこんな取引を持ちかけてきた? 殺してから解毒剤を探せばいいんじゃないのか?

「……ふた、つ」

 もう、それだけの余裕がないってことだろ!

「みっ……」

 言いかけた時だ。ガルディの身体から、ふっと力が抜けた。ザジは押さえつけられていた手を引き抜くと、力の抜けた喉元の矢尻を払う。ガルディは最後の力を振り絞るように矢を突き出そうとするが、矢尻はザジの首を掠っただけだった。

 そのまま力なく倒れたオークの巨体が、ザジの身体を地面に押しつける。

「ぐげぇ」

 衝撃と圧力で肺の空気が全部抜けてしまうが、それで終わりだった。

「はぁ……はぁ……た、助かった……」

 体温の殆ど感じられない趣味の悪い肉布団が残っただけだ。ザジはその下から這い出ると、大きく息を吸い込んだ。

「へ、へへ……はは……はははっ……、か、勝ったぞ……俺が! 俺があの隊長に勝ったんだ!」

 勝利の実感は驚くほどの歓喜とともにやってきた。正直、この命令を受けた時は気が乗らなかった。多少の義理を感じたのはもちろん、あの化け物を倒せるとは思えなかったからだ。化け物と言ってもオークだから恐れたんじゃあない。どんあ状況下であっても崩れない理性と判断力、そして経験に裏打ちされた戦いの技術を恐れた。

「やったぞ! 殺って殺ったぞ! ハハハハッ!」

 実際、二〇人の部下がいようとも、狙いをザジ一人に絞られれば殺されていただろう。十三年の間に何をしていたのか知らないが、腕は衰えていなかった。

 衰えてはいないが、なぜか人間臭さが出ていた。記憶にある隊長はもっと野獣のような迫力があった。その迫力を感じなかったからこそ、ザジも最後まで冷静に戦いを進め勝利を手に入れられた。

「こんな姿になって、まったく皮肉な話だな!」

 ひとしきり笑いが収まった所で、ザジは首の痛みを思い出した。ガルディが倒れ込んでくるときに、矢尻が擦った傷だ。毒の有無と量は分からないが、解毒剤を飲んでおくべきだろう。庭園から出るまでに、毒が回って死んだのでは笑えない。

 ザジは鞘を腰から外し手にとった。短刀が納められていたものだが、鞘の長さは刀身よりもかなり長い。両手で握って撚ると、鞘の半ばほどで二つに分かれる。この先端側は容器になっていて、解毒薬が入っている。

 そして、容器の弁を外そうとした時だ。ザジは足首に何かが触れる感触があった。

「くそぉおおおおおお!」

 足首を掬われてひっくり返されると同時に、ザジは容器の弁を弾き解毒薬が入ったそれを全力で放り投げた。回転する視界の中で容器はクルクルと回りながら解毒薬をまき散らし飛んで行く。後頭部を強かにぶつけた直後、遠くで水音がした。

 容器は庭園に注ぐ小川に浸っていた。開いた弁から解毒剤は水と混じり合い、すぐに流れでてしまう。

「これで……あんたは助からないぜ……へへへ……アハハハ!」

 不思議と後悔はなく頭の中はやりきった高揚感でいっぱいだった。ガルディが苦し紛れに腹を殴ってきたが、力ない痛みよりも伝わってくる必死さが痛快だった。殴られた衝撃で、懐から何かがこぼれ落ちたがもうどうでも良かった。

 やはり限界であったのかガルディは小さく呻くと、膝から崩れるようにぶっ倒れていく。その濁った目が今度こそガルディは本当の終わりだとザジに告げていた。

 ザジは受け身も取らず地面に転がった。安堵と同時に押し寄せた疲労感だか、回ってきた毒だかの所為で意識が朦朧とし始めた。

「エク……セラ……」

 近くで聞こえた呻きに、何かを飲み込む音が続いた。

 

 

 エクセラの私室には普段ならぬ人数のメイド達が集まっていた。髪を梳くのに三人、下着をつけるだけでも二人、純白のドレスを着るにはなんと五人がかりだ。さらにその手伝いのメイドもいて、普段は広すぎる部屋が息苦しいほど混み合っていた。

 メイド達の誰もがこの日を祝うために、全力を尽くしてくれているのがエクセラにも分かった。自分はそれに応えてべきなのだろうけれど、まだ上手く笑顔を作れていなかった。優秀なメイド達はそんなエクセラの心情を機敏に察してか、いつものような賑やかなお喋りはせず淡々と作業を続けてくれていた。

 いつもならエクセラが面倒臭がるので軽く櫛を入れるだけの髪も、今日は一本一本を解くように丁寧に梳いている。まるで騎士から一人の女に仕立てあげられていくようだ。コルセットの紐が締めあげられるごとに、自由に鍵がかけられ心の形が決めらる。羽のように軽いはずのアーデルシルクのドレスが、身体をこの場所に繋ぎ止めていった。

 抗うことさえ心の奥に閉じ込め、エクセラは全てを任せていた。

「お綺麗ですね」

 粛々と進む身支度の合間に、メイドのアイリンが不意に言葉を漏らした。鏡に写ったドレス姿ではなく、エクセラが見つめていた純白の花の事だとすぐに分かった。

「そうだろ、育てた奴の腕が良いからな」

 エクセラは少し自慢気に言った。なぜだか今日初めて息をしたような気した。

「アデルニアの花言葉を知っていますか?」

「花言葉? ひとつも知らないな」

 貴族の女性は花言葉やら誕生石にやたらと詳しいものだが、エクセラはこれっぽっちも興味がないので覚えていない。花も宝石も美しければ、その意味などどうでも良いと思っていた。

「花言葉は『あなたを守ります』。新しい道を歩みだすエクセラ様を、これからもずっと守るということですね」

「……そうか」

 ガルディは花言葉なんて知らないだろう。ちょうど咲きそうな白い花を選んだだけに違いない。

 それでも嬉しかった。たとえ勝手な思い込みだとしても、遠くはなれていても守ってくれるという言葉が悲しかった。

「お化粧はもう少し後にしましょう」

「すまない、そうしてくれ」

 どうしても心を落ち着ける時間が必要だった。

「……花を一本頂いてもよろしいですか?」

 俯いたままのエクセラは声には出さず頷いた。

 アイリンは花瓶からアデルニアを一本抜くと、茎をわずかに残し切り落とした。それから切り口に濡れた布を巻き、さらに乾いた紐で用意してあった髪留めに巻きつける。一輪の花が髪飾りへと生まれ変わった。

「ドレスによく似合います」

 エクセラの髪に花飾りをつけながらアイリンは優しく言った。小さく控えめな花は、まるでそこで咲いているのが当たり前のようにおさまっていた。

「ああ、そうだな」

 エクセラは吹っ切るように笑顔を浮かべる。ドレス姿を褒められて嬉しかったのはこの時が初めてだった。

「アデルニアに合わせたお化粧が良いですね」

「頼む」

 化粧のことが分からないエクセラは、彼女たちを全面的に信頼して任せることにした。アイリン達は用意していた口紅などの化粧品をいそいそと別のものに交換し始めた。

 柔らかな布が涙の跡を拭い去り、毛先の細かい刷毛が少しだけ厚ぼったくなっていた瞼を顔料で覆っていく。その上からさらに少し赤の混ざった明るい粉があてられる。

 慣れない化粧は、自分の顔を土台にケーキでも作られているような不思議な気分だ。白い顔料はクリームで、真っ赤な口紅は苺。確かに食べられるために着飾るのが花嫁の務めなのだろう。

 化粧も終わりに差し掛かった頃、もう一人の主役が部屋を訪れた。

「これは……」

 正面に回り込んできたロイドは、驚いたように目を見開いた。

「美しい」

 賞賛の言葉がため息のように零れた。そう言うロイドもクロディウスの儀礼服だろう豪華な装いをしている。赤を基調とした長衣はロイドの内なる情熱を表しているかのようだ。エクセラが作った白い肩布も身につけてくれている。儀礼服の仕立ての良さからすると、不格好な肩布はかなり浮いてしまっていた。

「馬子にも衣装と言ったところか?」

 恥ずかしさもあってエクセラはロイドの賛辞を素直に受け取れず、皮肉めいたことを言ってしまった。これから式にのぞむ花嫁が花婿に返す言葉ではなかったが、ロイドが気にしている様子はなかった。

「剣を握っている勇ましい姿も素敵だが、あなたには白いドレスも良く似合っていますよ。ところで……、その白い花は?」

 ロイドの視線がエクセラの頭で訝しげに止まる。

「アデルニア、この国の花だ」

「そうですか。私からもティアラを送らせて頂いたのですが、お気に召しませんでしたか?」

 クロディウスから戻ったロイドは、綺羅びやかな宝石や金、他にも希少な魔法具などを貢物として携えていた。その中でも大小の宝石を散りばめた煌めくティアラは目立っていた。ロイドはこのティアラをエクセラが結婚式で身に付けると思っていたようだ。実際、メイド達はそのティアラを準備していたのだが、エクセラが白いアルデニアの花を選んだことで、化粧ごと変更されてしまった。

「花で不都合でも?」

「いえ、とっても似合っています」

 ロイドは平然と取り繕ったが、エクセラには彼が納得していないの事がはっきりと分かった。

「あれだけ自由だ何だと言っておいて、私のドレスやアクセサリーに注文をつけるのか?」

「失礼しました。女性の格好に男性があれやこれや言うものではありませんね」

 険悪になりかけた雰囲気を察し、ロイドは軽口のように言って素直に頭を下げた。

「お化粧、終わりました」

 続くアイリンの言葉にロイドは安堵の溜息を漏らした。

「では、行きましょうか。皆にエクセラ姫の美しさと、我々の永遠の誓いを見せに」

 ロイドは恭しく手を差し伸べる。エクセラは彼の瞳を一瞥すると、無言でその手を取り立ち上がった。メイド達はすっと脇に下がり、廊下へと続く道を作る。式場で見ることが出来ない彼女たちに、自分を美しく飾り立ててくれた感謝を伝えようとエクセラは胸を張ってその花道を歩く。見送る視線を背中に受け、エクセラは戦いに赴くような心境で部屋を後にした。

 式場である大広間へ向かう途中でも、城の下働きが廊下に跪き次代の王と王妃に忠誠と敬意を表している。多くの国民がこの結婚に期待していることを、エクセラは改めて感じることができた。

 大広間が近づくと大勢の賑やかな話し声が聞こえてきた。集まった列席者達が美酒と食事に舌鼓を打ち、楽しげに歓談している様子が伝わってくる。

 エクセラとロイドに気づいた大扉の開閉係が、扉を軽く三回ノックする。それが合図だったようで「エクセラ様の準備が整いました」という掛け声が扉の内側から聞こえてきた。人々の話し声がピタリと止み、空気が一変したのが分かった。

「ここから共に歩んでいきましょう」

 ペイルの言葉に従い扉が開かれる。称賛の笑み、感嘆の涙、意味深な溜息、様々な種類の視線が洪水のように殺到した。居並ぶは王国の重臣と有力貴族、さらにはクロディウスの貴人や使者だ。ただ二人の結婚を祝うためだけにやってきたわけではない。各人の思惑が絡み合った政治の場だ。

 重圧をはね退けるようにエクセラは大きく一歩を踏み出した。これから自分が戦っていくのは悪漢ではなく、彼らだ。ここで怯むわけにはいかない。

 会場の何処かから失笑が漏れ聞こえてくる。花婿のロイドより先にずんずんと赤絨毯を進んでいくのがおかしいらしい。

 笑いたい奴には笑わせておけば良い。

 そんなエクセラの気迫が伝わったのか、赤絨毯の半ばまで進む頃には列席者達は圧倒されたかのように押し黙り、身じろぎさえもしなくなっていた。

 追いついたロイドと共にエクセラは、壇上へとのぼっていく。

「美しいぞ、エクセラ。妻の……アリシアの若いころを思い出す」

 正面から迎えた父は在りし日を懐かしむように言った。

「ありがとうございます、お父様」

 父がこの結婚式をどういう思いで迎えたか、エクセラには分からなかった。父として娘の幸せを願ってくれたのか、王として苦渋の選択をしたのか。

 いつかそれを聞ける日が来るかもしれない。少なくとも自分はその日まで、エクセラ・アーデルランドとしての務めをまっとうしなければならない。

「ロイド・クロディウスよ」

 父は何かを堪えるようにロイドと向き合った。

「娘を頼むぞ」

「はい、この命に代えても」

 短くもしっかりと口調に納得できたのか、父はロイドの手を両手で握りしめた。それが区切りだったのだろうか、父の顔から柔らかさが抜け、厳しい王の表情へと一変する。その視線は二人から、広間に集まった列席者の方に移っていった。

「皆の者、急な知らせであったが、我が娘の結婚式によくぞ集まってくれた」

 まずは家臣を労い、ついで会場の右手に集まっている異装の人々に語りかける。

「クロディウスからの客人も遠路をご苦労であった。此度は両国のさらなる発展を願う席でもある。この佳き日を共に祝おうではないか」

 王は一呼吸置くと高らかに宣言した。

「これより、我が娘エクセラ・アーデルランドとクロディウス帝国第三王子ロイド・クロディウスの結婚式を執り行う。この婚姻の成立をもって二国間の同盟とする!」

 威厳ある声は大広間を圧倒し、列席者達から一斉に拍手を引き出した。アーデルランドの貴族の中にはこの同盟を歓迎する者と、そうでない者がいる。その両者の違いが拍手の大きさとなって分かるような気がした。

 特に妹の拍手は聞こえてこない。それもそうだ、強固に反対を続けるイランジュアはこの場にすら居なかった。

 

 

「エクセラ様が入場! 式が始まってしまいました!」

 城門で待つイランジュアとルークのもとに、式場に忍ばせていた部下の一人が駆けつけた。大広間から城門までは大した距離ではないが、あらん限りの全力を尽くしたのだろう部下は肩で息をしている。

 イランジュアの部下には二種類いる。一つは普段からイランジュアの傍に仕え事務仕事を行う部下だ。ここまで駆けてきた彼もその一人だ。

 そしてもう一種類が、国の内外を行き来しイランジュアに様々な情報を集めてくる部下、いわゆる間者や密偵と呼ばれる者達だ。

 エクセラお姉さまの結婚が決まった後も、イランジュアは密偵にロイド・クロディウスについて調べを続けさせていた。醜聞、弱点、人格的な欠点などロイドの不利になるものなら全てを利用するつもりだったが、決定的な情報はなかなか手に入らなかった。

 風向きが変わりだしたのは、平行して進めていた盗賊団に居たという男ザジの素性が掴めてからだ。クロディウスの傭兵ギルドにザジの名前があったのだ。それだけなら傭兵が身を持ち崩して盗賊になっただけの話だが、実際は少し違った。密偵が入手した情報によると、彼がギルド経由で最後に仕事を請け負ったのはある魔術士からだった。その魔術士というのが、ロイドと付き合いがあるという噂の人物だ。さらに以前お姉さまが回収したゴーレムの瓶が、その魔術士の住む近くの工房で作られたガラス瓶である可能性が高いことまで判明した。

 情況証拠だけはロイドと盗賊団が繋がっていることを示している。しかし、決定的な証拠は何一つない。牢屋に繋がれている盗賊達は知らないようで、ロイドについては何も喋っていない。

 イランジュアが魔術士を拉致し、城まで連れてくるよう部下に命じたのが六日前。全てが上手く運んだとしてもぎりぎりの期限だったが――。

「結局、間に合わなかったですね」

 残念だが最後まで諦めるわけにはいかない。いまできる最善の手を尽くすまでだ。イランジュアは呼吸を整えた部下に命じる。

「あなたはここに残って、密偵の帰りを待ちなさい。ルーク、行くわよ」

「はい」

 何も言わなくてもルークは付いて来てくれる。それでも命令という形をとらなければ気がすまなかった。これからする『無茶』が失敗すれば、いくら第二王女とはいえ罪を問われることになるだろう。これまで築き上げた立場は失われ、最悪はお姉さまの信頼すら失うことになる。そうなってしまった時に、出来る限りルークや他の部下たちを庇える手順が必要だ。

「それで、イラはどうするつもりなんです? 形勢は我々が相当に不利ですよ」

 式が行われている大広間へと続く中央廊下を歩きながらルークが尋ねてきた。もちろん無茶を止めるのではなく、作戦を確かめるためだ。

「切り札が無くても、賭けに勝つことはできます。状況証拠だけでロイドを追い詰める。不信の種を蒔いて、考えなおさせる時間を作る。その間に例の魔術士を手に入れれば私達の勝利よ」

 嵐の前の静けさと言わんばかりに静まり返った城内を、イランジュアは大股で歩いて行く。大広間の入り口はいくつかあるが、派手な先制攻撃で怯ませるために一番大きな入口に向かっている。

「了解。僕はイラが話してる間に邪魔が入らないようにすれば良いんですね」

 無茶な話だがルークは反対しない。それどころか少し楽しげに魔法触媒のタクトを握った。長い付き合いだけれど、相変わらず気分の上がり方がよく分からない奴だ。

 大広間の扉が見え、イランジュアは苦笑を引っ込める。結婚式に列席しているべき二人が物々しい様子で遅れてやってきたので、扉の開閉係達が少し訝しんでいた。

「扉を開けなさい。ご列席の方々に至急お伝えしたき要件があります」

 イランジュアは威圧するように男に詰め寄った。

「い、いま確認を!」

 背筋を伸ばした使用人は扉の内側にいる上役に合図を送ろうとするが、それを止める声がかかった。

「その必要はない」

 こちらの様子を伺っていたのか、大広間の中二階へと続く階段から、老人がしっかりとした足取りで降りてきた。

「マラド……」

 式に参加中だとばかり思っていた宰相の登場に、イランジュアは苦々しく呟いた。マラドは後ろに衛兵を伴っていて、彼が何に備えていたかは一目瞭然だ。

「エクセラ様の結婚式を台無しにはさせませんぞ」

 年齢を感じさせない力強さでマラドは二人の前に立ちふさがる。執念と呼んでも差し支えのない気迫を感じた。

「この国のために、お姉さまの幸せのために、この結婚は止めるべきです!」

 イランジュアは一歩も引かず、真正面からマラドと対峙する。これまでも政策や様々な所で対立した二人は、その度にどうにか妥協点を見つけて折り合ってきた。しかし、今回だけは譲ることが出来ない。

 徹底抗戦の構えにルークが、いつでも魔法を発動できるようにタクトの先を衛兵に向けた。

「……イランジュア様、心配は分かりますが、これは王とエクセラさまご自身が決めたことです。すでに式は半ば、条文の読み上げが終わり二人がご署名されれば同盟は成立する。失礼ながら、もうあなたの出る幕ではない」

「マラド、あなたが国を思う気持ちは分かります。だからといって、焦って事を進め失敗したのでは意味がない。ロイド・クロディウスは叩けば埃の出る男、黒い噂が絶えないのをあなたは知らない! 奴の汚いやり口の証拠があるんです!」

「それはどこに?」

「もうすぐ届きます!」

「それでは話になりません」

 イランジュアの説得にもマラドは首を横に振るだけだった?

「その証拠とやらも怪しいものです。私はロイド王子と話して分かりました。彼は聡明でカリスマ性があり、王に値する素晴らしい方だ。その優しさはエクセラ様とこの国に等しく注がれることでしょう。その黒い噂とやらも、ロイド王子の才能に嫉妬した兄君達が流したものでしょう。見る目のない人々の所為で、彼は国元では疎んじられているようですから」

 マラドはまるで見てきたかのように言った。口ぶりもしっかりしていて、魔法や薬で操られているとは思えない。金や権力で動かされる男ではないので、ロイドの口先に騙されてでもいるのだろう。

「見せかけの優しさに騙されるなんて耄碌しましたね。証拠はあと三日、いえ二日で届きます。今ならまだ間に合います。式を順延させなさい!」

「出来ない相談です。国全土から集まった貴族、クロディウスの要人をそのような理由で待たせるわけには行きません。なにより、一刻も早く条約を締結し、デインを牽制しなければなりません。集結したデインの強硬派が、国境を越えれば全ては終わりです」

「終わりません! 交渉はできるはずです。一時の危機を回避するために、国を腐らす厄災を招き入れてどうします!」

 こうして言い合っている間にも、広間からは式の進行を告げる声が聞こえてくる。

 イランジュアは後ろ手に、ルークに使うべき雷撃の魔法を指示する。

「時間がないです! もしこれ以上、拒否するなら力づくでも押し通ります!」

「だから証拠を示して下さい! 言葉ではなく形で!」

 ルークの詠唱が、衛兵達の剣が、動き出したその時だ。

「人間同士なのに言葉で不十分か?」

 睨み合う両者が一斉に低い声のした方を向く。厨房に続く廊下から現れたのは、それはそれは大きな影だった。

「なら、こいつでどうだ」

 言葉とともに放り出されたのは縄で雁字搦めにされた男だった。背中を打った衝撃で轡をした口から呻き声が漏れる。男と目があったマラドが一瞬気まずそうにするのをイランジュアは見逃さなかった。

「マラド、この男と面識があるようですね。ご紹介頂けますか?」

「い、いや、知りません」

 想定外の事態だったのか、マラドの慌て様に衛兵たちも訝しむ。

「ああ、なるほどな。城から外れた庭園とはいえ、こいつらがやすやすと侵入できたのはあんたの手引があったというわけか」

 彼の言葉にマラドが目を見開く。まるで自ら殺した死人が復讐に蘇ってきたような、そんな焦りと恐怖の表情を浮かべていた。

「マラドは都合が悪いようですね。ではあなたがこの方を紹介して下さい」

 非常に悔しいことだが、エクセラお姉さまが彼を信頼する気持ちが分かってしまった。

「できれば、手短に」

 だから少しぐらい意地悪して許されるだろう。

「まったく……」

 小さく鼻を鳴らすと、彼は男の正体といくつかの事実を語った。

 全ての欠片が揃ろいロイドが描いていた絵は明らかになった。後はこれを白日の下に晒すだけだ。

 

 

 王の宣言から始まった結婚と調印の儀典は終幕を迎えようとしていた。

「――を迎える二人に、昼は太陽神ポーランの支えと、夜は月の女神クレスの加護があらんことを」

 古式に則った口上を述べ終えた神官がロイドの方を向く。

「ロイド・クロディウス、あなたはエクセラ・アーデルランドを妻とし愛することを誓いますか?」

「はい、たゆまぬ愛を捧げる事を誓います」

 よく通る声で答えロイドはエクセラの手に触れる。神官は満足そうに頷き、次はエクセラに尋ねた。

「エクセラ・アーデルランド、あなたはロイド・クロディウスを夫とし愛することを誓いますか?」

「はい」

 言葉を詰まらせないように気をつけてエクセラは答えた。もう少し何か付け足すべきなのかもしれないが、乾いた口では一言が精一杯だった。

「では、証のくちづけを」

 神官に促され二人は互いに向き合った。硬くなったエクセラを、ロイドの手が導くように抱き寄せる。エクセラはビクッと身体を震わせてしまうが、ロイドはまるで気にしない。

 呼吸が、心臓の音が聞こえてくるほどにロイドの端正な顔が近づいていく。

 これから夫になる男だ。彼のことは嫌いではない。夫婦として長い人生を共に歩むには出来た男だ。優しくしてくれるはずだ。きっと心から愛してくれるだろう。それでも――。

 エクセラは顔を僅かに逸らしてしまった。ロイドが少し驚いたのが伝わってくる。唇の端に押し当てられた柔らかい感触が無くなるまで、エクセラは目をつぶり心のなかで謝り続けた。

「……続きは後ほど」

 顔を離したロイドはエクセラの髪を上げるふりをして耳元で囁いた。それからエクセラの手を取ると、何事もなかったかのように微笑んだ。くちづけが未遂に終わったことは、列席者からは遠く、父からは角度的に見えなかっただろう。

 式はいよいよ最後を迎える。二人の結婚と二国の同盟を記した宣誓書が、台座に載せられ壇上に用意された。ここまで式を進めていた神官が脇に下がり、代わりにアーデルランド王である父とクロディウスの使者がエクセラとロイドの仲立ちに並ぶ。

 父は二人を迎えるように両手を広げた。

「これより結ばれる婚姻で、アーデルランドとクロディウスは百年の争い越え、千年の平和へと続く道を歩み出す」

 白布に置かれた一組揃いのペンを、エクセラとロイドがそれぞれ手にする。

「次代を担う若き二人にその一歩目を記してもらう」

 父の宣言に被さり後方の正面扉の方から、慌しい様子でうるさい声が聞こえてくる。重要な調印の時を妨げられ父は眉を顰めた。

「気にすることはありません。式を続けましょう」

 ロイドは振り返ろうとするエクセラを制し、先に署名をすませた。

 促されたエクセラはペン先を、ロイドの名前の横につける。黄色味がかった宣誓書に黒いインクが染み、ペンを動かすとその点が線へと伸びていく。そして、一文字目を書き終わろうとしたその時だ。

 正面扉が蹴破られたかのような大きな音を立て乱雑に開かれた。手を止めたエクセラは思わず振り返り言葉を失った。

 もう二度と会えないと思っていた彼の姿があった。

 突然現れた緑の巨躯に大広間に混乱と怯えが広がる。それを余興と思う参列者は誰一人いなかった。

 当然だ、彼は恐ろしいオークなのだから。

「ガルディ!」

 喜びの余り駆け寄ろうとするエクセラだったが、ロイドがその手を掴み引き止める。

「いけません。何か尋常ではない」

 ロイドは警戒心を露わに言って、エクセラの前に出る。

 確かにガルディの様子はおかしかった。人間の前に出るというのに身体を隠すローブを着ていない。それどころか着古した服はあちこち擦り切れ、乾いて茶褐色になった血で染まっている。全身傷だらけで特に酷いのが耳の辺りだ。申し訳程度に巻いた包帯からにじみ出た鮮血が緑の身体を滴り、痛々しい紋様を描いている。

「だ、誰だ、この豚を城に入れたのは! 衛兵は何をしている!」

 恐怖に声を震わせながら大臣の一人が吠えるが答える者はいない。ガルディは騒然とする気配をまるで意に介さず、大広間を睥睨するようにゆっくりとこちらに近づいてくる。結婚式に物々しい警備は似合わないと、式典中は大広間の外を守る形で騎士団が配されている。剣もなければ、魔法も使えないただの貴族にオークの歩みを止める蛮勇などなかった。

「臭えな」

 ガルディはこれみよがしに鼻を鳴らす。くんくんという可愛らしい音が緊迫した雰囲気に不釣り合いで、エクセラは思わず笑いそうになったがどうにか堪えた。

「性根の腐った匂いがするぜ」

 歩み寄ったガルディは壇上のロイドを前に歩みを止める。数段のステップがあるので、二人の視線が丁度水平になる。

「あなたも姫の結婚を祝いに?」

 ガルディの重圧を前にしてもロイドは平然と尋ねる。

「いや、花についた害虫を駆除しに来た」

 応えたガルディは険しい表情でロイドを睨みつける。その顔にはじっとりと脂汗が浮かんでいた。普段なら新緑のような肌が、黒ずんだ深緑に見える。態度にこそ出さないが、怪我が相当酷いようだ。

「早く怪我の治療を!」

 何がどうなっているのか分からないけれど、エクセラにとってはそれが一番重要なことだった。気の進まない結婚式なんか中断して、すぐにでもガルディの手当てをしなければと思った。

 しかし、父の考えは違った。

「その必要はない! 命を助けてやった恩を忘れ、思い上がったかオークめが! 衛兵、すぐにこやつを放り出せ!」

 父のその言葉を待っていたかのように、各所に設けられた扉から警備にあたっていた衛兵たちが大広間に踏み込んでくる。

「お父様、やめて下さい! 彼の行いの理由は分かりませんが、とにかく手当を!」

「式を血で汚すのは憚られる。早くしろ!」

 エクセラの必死の訴えを無視し父は命じる。壇上を取り囲んだ衛兵たちはその包囲を縮めていき――、その剣をロイドに向けた。

「な、何をしている? 命令が聞こえなかったのか! 儂はオークを捕らえろと言ったのだ!」

 不可解な事態にロイドや父はもちろん、会場中が困惑の表情を浮かべる。

「彼らには誰がこの国から追放されるべきなのか分かってもらいました」

 疑問に答えたのはガルディの背後から現れたイランジュアだった。さらにその後ろには神妙な表情のマラドと騎士団長が控えていた。

「姿を見ないと思っていたが……、これはどういうことだ」

 大事な式典を台無しにされた父がイランジュアに厳しい目を向ける。いくら温厚な父とはいえ、この狼藉を許すほど甘くはない。

 そんな父にイランジュアも眼光鋭く果敢に立ち向かっていく。

「もちろん結婚式と調印式をぶっ壊しにです。この悪党にお姉さまを渡すわけにはいきません!」

 イランジュアは剣の一振りのような鋭さでロイドを指さした。

「これは手厳しい。私は姉上を盗んだ悪党ですか」

 衛兵に囲まれイランジュアに睨みつけられながらも、ロイドはまるで聞き分けのない子供の我儘をあしらうように落ち着いていた。

「あなたが盗もうとしているのは、このアーデルランドの全てです」

「盗むだなんてとんでもない。私はこれからの人生の全てをこの国に尽くし、発展させていくつもりです」

 イランジュアの無礼にも、ロイドは真摯な態度を崩さず思いを語った。夫として婿入りするのだから当然のことだとエクセラも思った。しかし、イランジュアは首をふる。

「そのためなら、野盗団に金銭や道具の援助をし無辜の民に被害を与えても良いと?」

 思わぬ告発の言葉に大広間が少なからずどよめいた。エクセラがまさかとロイドを見ると、心外だとばかりに眉をひそめていた。

「なんのご冗談ですか? むしろ私は私財をなげうち盗賊団を退治に行きましたよ」

「退治なんて形だけです。お姉さまが盗賊団を捕まえに動いていることを知り、近くの村で待機していたんです。あなたの部隊が不必要に五日間も村に滞在していたことは調べがついています」

 イランジュアの言葉にエクセラは自分の耳を疑った。

 決闘を申し込まれる前にロイドの人となりを知っていたからこそ、マラドの願いを聞き入れることができた。それが全部仕組まれたことだとしたら……。

「なるほど、面白い推理です。逗留が長くなったのは単に部下が体調不良を訴えたからだけですが……、まあ、良いでしょう。しかしです、私がエクセラ姫と結婚したいと考えたなら、最初から決闘を申しこめば済む話では? 運命的な出会いを演出するためだけに、私が野盗団を援助していたと?」

 イランジュアの話に揺らいでいたエクセラだったが、ロイドの弁解には頷くことができた。そもそも結婚を決めたのは、タイミングの問題だ。もしデイン王国が軍備を配しているという話がなければエクセラも断っていたことだろう。

 エクセラは偶然の重なりだと自分を納得させようとするが、イランジュアの説明にはまだ先があった。

「お姉さまとの出会いは、野盗団の使い方の一つにしかすぎません。クロディウス側の野盗による被害を調べたら、あなたの政敵や商売敵が不自然に多かった」

「それこそ私を悪党に仕立てあげようと、恣意的に情報を拾い上げただけでは?」

 水掛け論にエクセラは混乱した。ロイドの事も信じたいけれど、イランジュアが嘘を言っているとも思えない。二人が揃って何か思い違いをしていれば良いのだけれど。

 そんなエクセラの希望を打ち砕いたのはイランジュアの方だった。

「言うと思っていました。確かに妨害工作だけなら、あなたの裏切りは決定的ではありません。ですが、私はあなたが野盗団を援助していた本当の理由を掴んでいます」

 堂々としたイランジュアの言葉に、ロイドの表情が一瞬曇ったように見えた。

「野盗団を実験場にしていたのです。一つは安価なゴーレムなどの魔道具の検証。そしてもう一つが、人間を魔物化する実験! ロイド・クロディウスの言う国の発展とは、人間を魔物化し、その力で他国に対抗しようというのものです!」

 イランジュアの告発に、それまで雰囲気に飲まれ静まり返っていた貴族たちがにわかに騒ぎ出す。

「人間の魔物化だと?」

「古の魔王が使ったという禁忌の術ではないか」

「なんと恐ろしいことを……」

 貴族だけでなく、その頂点に君臨する父の表情にも迷いが浮かんでいた。イランジュアは畳み掛けるように、後ろで控えていた騎士団長を促した。

「我々騎士団が拠点に乗り込んだ時、確かにその実験体と思しき魔物を見ています」

「そうか……ふむ……」

 父は考えるように目を閉じる。部下として信頼する騎士団長もイランジュアに賛同するとあって悩んでいるようだ。そんな父の様子を察したのかロイドは一歩踏み出し声を張る。

「ダルトン王、私にやましいところなどありません! 邪法に手を出しているなど、根拠の無いただの妄想です! 失礼ながらイランジュア姫は私の事を嫌うあまり嘘を――」

「証拠ならあります。この男が全て証言しました」

 ロイドの訴えを遮ったイランジュアは衛兵に指示し、縄で縛られた男を一同の前に連れてこさせる。エクセラには見覚えのない男だった。

「へへへ……、すみませんね。俺も命が惜しいんで」

 ネズミ顔の男は気まずそうな笑みを浮かべた。それを見たロイドが不快感もあらわに首を振る。

「どこの誰かは知らないが、イランジュア姫に金で雇われたのなら止めておきなさい。不正は明るみに出るものですよ」

「お父様、どうかこの男の話を聞いて下さい」

 ロイドの言葉を無視しイランジュアはネズミ顔の男を王の前に連れて行く。それを引き止めるようにロイドは手を伸ばす。

「王よ、このような薄汚い野盗の話になど耳を傾けないで下さい」

 まるでその言葉を待っていたかのようにイランジュアは歩みを止めロイドを振り返る。

「なぜこの男が野盗だと? 私はこの男の素性に関してなにも言っていませんよ?」

 イランジュアはそう言って、満面の意地の悪い笑みを浮かべる。この瞬間、エクセラは全てに決着がついたことを理解した。イランジュアのこの笑みこそ、城内で他の誰も逆らえない、ある意味で王を越える恐怖の象徴だ。

 それを知らないロイドは、周囲の諦めの気配も読めずにただ弁解を続ける。

「決まっています、エクセラ姫と初めて会ったあの野盗共との戦いで見かけたのです」

「それは無いな」

 即座に否定したのは今まで黙っていたガルディだ。

「あの時こいつは森の奥から隠れて矢を放った。姿を見たのは追いかけた俺だけだ。もし仮にだ、それでもお前がこいつの姿を見ているというなら、同じ場所にいて先に矢に反応したエクセラが見ていないとおかしい話じゃないか?」

「お姉さま、この男に見覚えはありますか?」

 尋ねられたエクセラはロイドを見る。

「キミも見たはずだ。真実を言ってくれ、エクセラ」

 縋るような視線にエクセラは首を横に振り、はっきりと答えた。

「見覚えはない。こんな男は知らん」

 エクセラの答えにロイドは何かを噛みしめるように一度目を閉じ、そのあとがっくりと肩を落とした。明らかな矛盾を突きつけられ、さらに自分の妻になるはずだったエクセラにも見捨てられたショックは大きいのだろう。彼なりに精一杯やった事は理解できるし、多少気の毒に思えなくもない。それでもエクセラは、これ以上は自分にも他人にも嘘をつきたくなかった。

 静まり返った広間に父の悲しげな溜息がやたら大きく聞こえた。

「どういうことだロイド、本当のことを全て話してくれ」

 それは父の最後の温情だったのだろう。短い間だったが父はロイドを気に入っていた。男児をもうける前に王妃を亡くした父にとっては、義理とはいえ待望の息子だ。ロイドもそれを分かってか、父の前では気概ある好青年でいてくれた。それだけは彼に感謝できた。

「説明、ですか……」

「止まれ! それ以上、近づけば斬るぞ」

 ロイドはため息をつくと、まるで剣を向ける衛兵が目にはいらないかのように父に向かって踏み出す。

「こういうことですよ!」

 ボタンを引きちぎるようにして長衣の前を開くと、懐に隠し持っていた小瓶を周囲にばら撒いた。小瓶は石床や柱、壁にぶつかり砕け、中の緑の液体をぶちまけた。

「ゴーレムだ、気をつけろ!」

 エクセラの叫びと共に緑の液体を吸収した箇所が音を立てて盛り上がる。

「うわぁあああああ」

 足元をすくわれた衛兵が数人を巻き込んで倒れこむ。その隙にロイドは衛兵の包囲を突破し、クロディウスから連れてきた従者に近づいた。

「計画変更だ。力づくで全てを手に入れるぞ」

 指示を受けた従者達は頷くと、何か黒い飴のようなものを飲み込んだ。すると従者達の身体が見る間に魔物へと変じていく。

 大広間の至るところから悲鳴が聞こえてくる。結婚式を祝い、調印を見届けるために来たクロディウスの人間は全てロイドの息が掛かっていたに違いない。

 見かねた王がロイドを叱責する。

「乱心したか! このような蛮行は許されんぞ」

「誰の許しもいらん。力で! 計略で! 屈服させれば良い!」

 魔物と化した従者を連れ、ロイドは王に立ち向かう。

「待て、ロイド!」

 エクセラも後を追おうとするが、ヒラヒラとした純白のドレスに無骨な剣帯はついていない。どこかに剣でも転がってないかと探すと。

「お姉さま、これを!」

 列席者の退避を支持していたイランジュアが、エクセラの愛剣を投げてよこした。エクセラは空中でそれを掴むと、鞘から振りぬく勢いのまま邪魔なドレスの裾を切り落とした。

「ゴーレムは任せろ」

 ガルディは全身の傷など感じさせない力強さで地面を踏みつけ、無秩序に暴れまわるゴーレムに拳を叩きつける。

「頼む!」

 信頼できる二人に背中を押されたエクセラには迷いも心配も無い。衛兵とともに壇上の隅へと追い詰められる父を助けに、エクセラは駆けつける。

「父には指一本触れさせん!」

 騎士道も何もなくエクセラは魔物化した従者に背後から斬りかかる。どんな力を手に入れてのかは知らないが、後ろに目は付いていない。エクセラの剣は伸びた黒い羽ごと、従者の背中を斬り裂いた。

「ぐぎゃあああああ、あッ……」

 従者が振り返ろうとするが遅い。返すか刃がその首を刎ね飛ばした。続けざまにもう一人の従者を斬りつけようとするが、横から伸びた剣がそれを阻止した。

「邪魔しないでもらえますか、エクセラ。おとなしくして頂ければ、あなたのことも悪いようにはしませんよ」

 ロイドはふてぶてしく言って、剣先をエクセラに向け立ちふさがる。

「これ以上、花嫁らしくしているのは私には無理だ。代わりに騎士としてお前を成敗する。この国を謀ろうとした罪、償ってもらうぞ!」

 諸悪の根源であるロイドを前に、エクセラは溜まっていた鬱憤を晴らすかのように吠えた。

「誰も謀ってなどいませんよ。魔道具の効率的な運用と強力な魔物化軍団、この二つがあればアーデルランドは強国となれる!」

「そんな強さなど誰も求めてはいない!」

 剣と剣が激しく打つかる。前に決闘した時よりも、ロイドの剣は重い。エクセラだけでなく、勝利の奸計を張り巡らせたロイドも手を抜いていたというわけだ。

「自ら剣を取り悪漢と戦う、力の重要性を知るあなたなら分かってくれるでしょう。力がなければ、何も成せないのです。力あってこその自由です! 今からでも遅くありません、どうです私と理想の国を作りましょう!」

「断る!」

 エクセラは即答し、ロイドの剣を弾き返す。

「力がないゆえにあなたはこの国に縛られている。私ならその鎖を断ち切る本当の力を与えられる。アーデルランドもクロディウスも、大陸中を呑み込む力です!」

 ロイドは絶妙な位置取りで、エクセラを父の方へ寄せ付けない。父を守る衛兵はすでに二人が倒され、残り一人となっていた。エクセラの焦りを見抜いているのか、ロイドは深くは踏み込まず小手先で斬りつけてくる。

「どこにでもいける! なんでもできる! 誰だって従わせられる! それこそ真に自由な国! 甘美な果実はすでにあなたの手の中にあるんですよ。一緒に食べましょう」

「我儘を力で押し通して何になる! 貴様が言う自由は、貴様だけが自由な世界だ!」

 押し付けがましいロイドの太刀筋を、エクセラは見切った。

「そんなもの本当の自由じゃない!」

 上段気味のロイドの斬撃を剣先で往なすと、そのまま正面から踏み込み込む。

「他人との繋がりを拒絶した――」

 ロイドが剣を引き戻し受けようとするが、構わず握った剣を振り下ろす。

「ただの無責任だ!」

 気合一閃、ロイドの剣は間に合ったが、その膂力はエクセラに及ばない。ロイドの剣は石床に叩きつけられ、エクセラの剣先はロイドの胸を斬り裂く。浅いが確かな手応えだった。

「ぐっ……」

 着飾った礼服が無残に裂け、その間から赤い鮮血が滲み出る。取り繕った真摯さは霧散し、歪めた口元に怨嗟と怒りが浮かんでいた。

「これでお前の野望は潰えた。最後ぐらいは貴人としての誇りをもって部下を止めろ」

 エクセラは蹲るロイドに剣を突きつける。

「まだだ……」

 顔を上げたロイドはいつの間にか赤い丸薬を咥えていた。

「まさか!」

 エクセラが蹴り飛ばそうとするが、それより早くロイドは丸薬を噛み砕き飲み込んでしまった。

 ロイドの喉元が不自然に黒く変色し盛り上がり、エクセラを睨みつける目が、黒く染まっていく。

「私は王になり力を手に入れる! たとえ人間でなくとも! 全てを従わせる力の化身に! この身を魔に堕としてもおおおおおおおおおお!」

 濁った絶叫を迸らせロイドの身体が、内側から張り裂けるように膨れ上がっていく。

「なんだ、様子が違うぞ」

 従者の魔物化と明らかに違う変化に、エクセラは警戒して距離を取る。これまでに培った経験と実践勘が、これは質を異にする危険だと告げていた。

「その首、討ちとってやる!」

 王を捉えようとしてた従者を倒した衛兵が、勢いそのままにロイドに斬りかかっていく。

「待て! 様子を――」

 その衛兵にエクセラの言葉は最後まで届かなかった。ゴーレムと遜色がないほどに膨れ上がったロイドの巨大な腕が鞭のようにしなり、衛兵を壁に叩きつける。どれほどの力だったのか、衛兵は腐った果実のように臓腑を蒔き散らせ息絶えた。

「ガァアアアアアアアアアアア」

 衛兵を殺したことなど気づいていないのかロイドは全身を掻きむしる。膨れ上がった身体は二階の吹き抜けまで達し、ゴーレムの体躯を超えていた。変化に伴う痛みがあるのか、耐えるように両手をがむしゃらに振るう。

「うおおぉおおお! 私は! 私は負けぇええええええん!」

 踏みとどまるように動きを止めたロイドがエクセラを振り返る。悪魔と呼ぶにふさわしい顔に、人間だった頃の面影は残っていなかった。

「エクセラァ……」

 破れ鐘ののような声が自分の名を呼ぶ。力を求めた男の哀れな成れの果てにエクセラは息を呑む。

「エクセラアアアアアアアアア!」

 衛兵を一振りで倒した腕が、槍のようにエクセラに突き出される。剣こそ構えていたが、ここは逃げるべきだったと後悔が脳裏をよぎった。

「下がってろ!」

 力強い声とともに、横から伸びたガルディの腕がエクセラを突き飛ばす。ロイドの巨大な手が割り込んだガルディをいともたやすく突き倒す。

「オークごときが、私の花嫁に汚らしい手で触れるな!」

 ロイドは倒れたガルディの足首を掴み逆さまに持ち上げる。ガルディも抵抗してロイドの手を蹴るがびくともしない。

「貴様が、貴様さえいなければ! この場から消えろ!」

 身体をぐるりと回転させ勢いをつけたロイドは、ガルディの巨躯を二階吹き抜けのステンドグラスに向かって投げ飛ばす。

「ガルディ!」

「ぐおおおおっ!」

 投石機に射出されたか岩のように、ガルディは二階の部分の手すりを粉砕しそのまま、ステンドグラスに激突。鮮やかなガラスをまき散らし、城外へと放り出されてしまった。

「姫様、国王様とお逃げ下さい」

 ガルディの作った時間で、衛兵たちが駆けつけた。大広間で暴れまわるゴーレムや魔物化した従者を倒す事も必要だが、王がロイドの手に落ちればそれも無意味になってしまう。

「くっ……皆頼む」

 決断したエクセラは父の所まで駆け寄った。

「お父様、ここは一旦引きましょう」

「儂がここにいては弱点を晒しているようなものか……」

 父は口惜しさに苦虫を噛み潰すような表情で頷いた。家臣に託し自らは逃げなければならない苦しみは、王である父にしか分からない。そんな父を励ますようにエクセラは言った。

「大丈夫です、お父様。騎士団もガルディもいます。彼らはあのような卑怯者に負けたりはしません。さあ、右から大広間を回りこみ城門の方へ」

 促したエクセラが父を先導しようとするが、先に動いたのはロイドだった。

「そう容易く逃げられると思うな!」

 ロイドは囲む四人の衛兵を右手のひと薙で容易く蹴散らすと、瓦解したゴーレムを投げつけエクセラ達の行く手を塞いだ。

「ならば裏手からです、お父様!」

 大広間を突っ切るのを諦めたエクセラは父の背中を押し、城の裏へと通じる扉に向かった。

「逃さぬと言っている!」

 倒れた柱を掴んだロイドが腕を振りかぶったその時だ。

「ぜやっ!」

 少々間の抜けた気合と共に振るわれた剣撃がロイドの背中を貫いた。

「ぐうぉおおお! だ、誰だ!?」

 魔物の巨躯を手に入れようと痛みは感じるのかロイドは体制を崩し柱を取り落としてしまった。

「姫、ここは僕が食い止めます!」

 そう言って剣を構えなおしたのは、意外にもレイナルドだった。何度も決闘を挑んできて、エクセラから一本も取れなかったあのレイナルドが、初めて力強さを見せていた。

「すまない」

 レイナルドの作ってくれた好機に感謝し、エクセラは父とともに城の裏手へと続く通路に飛び込んだ。背後からはレイナルドとロイドがやり合う声が聞こえてくる。

「今の一撃でため時間はおよそ半分、最大までためれば貴様の腕の一本や二本、軽く切り飛ばしてみせよう!」

「ゴミ虫の相手をしている暇などない、退け!」

「ぐわああああああああああ」

 勝負は一瞬でついてしまったようだが、レイナルドの残した時間は大きい。通路は終わり城の裏門はすぐそこだ。

「待てええええ! エクセラアアアアアア!」

 背後から聞こえる破砕音は激しさを増していく。振り返らなくても分かる。怒り狂ったロイドが扉を破り、柱を砕き、追いかけてきているのだ。

 裏門を抜けると庭園へと続く林道に差し掛かる。老齢の父の足は重くなっていた。

「追いつかれたら儂を置いて、お前だけでも逃げるんだ」

 人気のない方へと逃げてしまい父は不安になっているのだろう。しかし、エクセラは違った。

「お父様を残し、一人で逃げるなどできません。弱気にならずにとにかく走って下さい。森まで逃げ込めば何とかなります」

 エクセラは強引に父を引っ張り、前だけを見て走った。

 城裏の森まで行ければ逃げ切れる自信があった。あの森はエクセラにとっては幼い頃からの遊び場だ。ガルディが獣用に仕掛けた罠の場所も知っているし、隠れんぼに使った灌木が覆う横穴だって覚えている。強大な魔物になったロイドを倒せなくとも、時間稼ぎはできるはずだ。

「頑張ってください!」

 短い林道を抜け、庭園に足を踏み入れたエクセラはすぐに異変に気づいた。昨日は完璧なまでに手入れが行き届いていた花壇に、誰かの足跡が残っていた。それに夏の草花の匂いに混じり、木が燃えたような異臭が漂ってくる。原因が気になるけれど確かめている余裕などない。

「もうあと少しです!」

 自分をも奮い立たせるように言って、エクセラが父を振り返った時だ。頭上を黒い影が飛び越えていった。

「追いかけっコは終わリだ」

 地響きを轟かせ着地したロイドは花壇の花々を踏み躙り行く手を阻んだ。

 魔物化がさらに進みロイドはすでに人間の面相を失いっていた。黒い裂け目のような口からは黄色みがかった牙が突き出し、捻くれた角が反り返っている。足は蹄のようになり、手の指先からは鋭い爪が伸びている。獣じみた下半身に比べて、上半身は僅かに人間らしさを残しているが比率がおかしい。腕が異常に長くなり、中腰の姿勢で手が地面についてしまっている。急激に身体が大きくなったせいか、ぬらぬらと黒光りする肌はひび割れ内側から赤黒い肉のようなものが覗いている。

「くっ……」

 奥歯を噛みしめエクセラはロイドを見上げた。その身体は城で対峙した時よりも確実に大きくなっていた。高さだけなら、ゴーレムよりもその辺りに生えている樹木と比べたほうが分かりやすい。体格差なんて生易しいものではない。

 どうにか脇をすり抜けるか、それとも来た道を全力で戻るか。いや、そのどちらも難しい。父の体力は限界だ。もう切り開くべき道は一つしかない。

 エクセラは覚悟を決め、剣を抜いた。

「そんナ剣一本で何がでキる?」

 自分の圧倒的優位を確信しているロイドはエクセラを嘲笑う。

「たとえ剣一本でも諦めたらそこで終わりだ!」

 エクセラはロイドの注意を父から逸そうと、自ら斬りかかっていく。たとえ一呼吸の時間でも、一歩の距離でも父を遠くへ逃したかった。

「愚かダな。力の違いヲ教えてヤル」

 そんなエクセラの希望を馬鹿にするかのように、ロイドは刃を無造作に腕で受けた。

「なんだこの感触は?」

 深々と食い込んだ剣は筋肉に締め付けられびくともしない。傷を負わせられてもこれではなんの意味もなかった。

「言っただろ、ヨワさに自由などナイのダ!」

「ぐわっ!」

 ロイドの腕の一振りでエクセラの身体は軽々と宙を舞い、石畳に叩きつけられてしまう。かろうじて剣を取り戻せたが、信じたくない光景が目の前にあった。

「傷が、治って……」

 決死の思いでつけた傷も内側から盛り上がってきた赤黒い肉によって埋められてしまう。

「ツヨさが、チカラが、自由を与えル。だから、ワタシがお前らに選ばせてヤル」

 ロイドは覚束なくなった口元に余裕の笑みを浮かべると、それまで握りしめていた右手を開き首輪を投げてよこした。

「よく知っテいるダろ? 服従の首輪ダ。こイつは特別製で頭のナカをグチャグチャにして、人間ヲ人形に作り変えル。ペットの首輪ヨリ便利ダろ?」

 黒い首輪の表面には血管のような赤い筋が幾本も浮き出ていて、まるでロイドの生皮を剥いで作られたかのような禍々しさがあった。

「エクセラ、お前ガその首輪をハメてワタシに跪くと言うナラ、人形とシテ可愛がっテやル」

「娘を人質になどさせん! 儂がその首輪をつければすむのだろ!」

 声を荒げる父にロイドは鼻を鳴らす。

「言ったダロ、首輪を着けタ者は人形にナルと。飾りでも王ガ廃人デハ面倒ダ。しかしエクセラ、お前ガ断るというナラそれモ已む無シだ」

「ならんぞエクセラ! その首輪をつける事は父として絶対に許さん!」

 最後の力を振り絞った父は駆け寄ってきて首輪を奪おうと手を伸ばすが、エクセラは一歩下がりこれを躱した。

「良いのです、お父様」

 勢い余り地面に倒れ込む父の前でエクセラは留め具を外し、喉元に首輪をあてる。

「また守れないぐらいなら、私が……」

 身代わりになった方が良い。そう思い金属の感触を頼りに留め具をはめようとした時だ。

「お前に首輪は似合わねえな」

 背の高い生け垣から飛び出した大きな影が抱えた丸太で、ロイドの脇腹をぶん殴った。

「ぐああああ!」

 虚を衝かれたロイドは顔を歪め、よろめき後ずさる。いくら超再生能力があっても身体の内側への衝撃はどうにもならないようだ。

「ガルディ!」

 エクセラは歓喜とともにその名を叫んだ。

 危機にはいつも現れてくれる私だけの英雄。例え世界中が敵になって彼だけは助けてくれるって信じている。

 駆け寄って思い切り抱きしめたい思いを抑えたエクセラは首輪を投げ捨てた。そして代わりに剣を構える。もちろん、彼と一緒に戦うためだ。

「早く逃げろ!」

 そんなエクセラの気勢を削ぐかのように、ガルディは鋭い声で言った。しかし、エクセラは首を横に振る。

「私も戦う! 一人じゃ無理でも二人なら――」

「二人でも無理だ」

 ガルディは自分の脇腹に手を伸ばした。抉りとられたように肉が覗き真っ赤な血がだらだらと垂れ流しになっていた。耳の傷どころではない。下手をしたら命にかかわる傷だった。

「貴様、ナゼ生きていられル? いくらオークとはイエ、あの高さカラ落ちて、ソの傷…………ンっ?」

 訝しんでいたロイドはガルディの手を見て何かに気づいたのか目を見開く。彼の血まみれの手は不自然なほど黒ずんでいた。

「ナルホド、あの薬を飲ンダノカ」

「薬……だと? まさか!」

 ガルディの身体に起こりつつある変化の正体がエクセラにも分かった。

「解毒剤代わりには少し効き過ぎちまったみたいだが、お前を相手にするには丁度いいのかもしれないな」

 黒ずみはガルディの命を蝕む蛇のように、手首から徐々に胴体へと這い上がっていた。

「フハハハッ、ソノ程度デ対等ダト、カ、勘違イシタカ? 貴様ガ飲ンダノハ試作品ダ!」

 ガルディが抱えるほどだった丸太を、ロイドは左手一本で掴む。単純な握力だけで木の皮が押しつぶされ、指がめり込んだ。

「本物ノチカラヲ、ミ、見ミセテヤル!」

 ロイドは無造作に左腕を振るい丸太をガルディに投げつけた。

「まがい物はお前の方だろ」

 ガルディは素早い身のこなしで丸太を躱すと、大鉈を握りロイドに斬りかかる。しかし、ロイドもこれを読んでいたのか、右腕を鞭のようにしならせガルディを迎え撃つ。

 大鉈の鈍い刃と鋭い黒曜の爪が交差する。ロイドがただ爪で相手を捉えようとしただけなのに対し、その一瞬でガルディは大鉈を二度振るった。ひと振り目がロイドの爪を弾き、ふた振り目でその手首を皮一枚の所まで斬り裂いた。

 さらに踏み込むガルディに向かって、ロイドは叩き潰すように残った左手を振るう。ガルディは構わず踏み込むと、大鉈でもって頭上を斬り上げる。

 斬り飛ばされたロイドの指が三本、宙を舞う。

 長い腕の攻撃を掻い潜ったガルディが、ついにその大鉈をロイドの腹めがけて突き出そうとする。

「避けろ、ガルディ!」

 エクセラの注意は僅かに遅れた。それでもガルディは反応し横っ飛びに逃れようとするが間に合わない。

 ロイドの右手がガルディの身体を抱き込むように掴む。皮一枚でしか繋がっていなかった手首は、すでに再生しきっていた。

「うぐっ……再生速度が段違いか……」

「バカメ、デキソコナイとは違ウト言ッタダロ」

 ロイドは自らの力を自慢するように左手をガルディに見せる。切断した三本の指がもう生え揃っていた。

「化け物め、首でも切り落とさないと死なねえか」

「バ、バケモノダト? コノワタシガ? 下等なオーク、フ、フゼイガ何ヲイッテイル」

 ロイドはまるで理解できないといった様子で首を傾げる。その動きはどこかぎこちなく、まるで壊れかけのゼンマイ人形のようだった。

「何度でも言ってやる。貴様は化け物だ。オークより醜い、異形の力に取り込まれた哀れな化け物なんだよ!」

「ウルサイ! ウルサイ! ウルサイ! シ、シ、シシシシネ、オーク! 死ネエエエエエエ!」

 発狂したような絶叫を迸らせロイドはガルディを庭園の中央にある巨岩、そこに突き刺さる斧に向かって投げつけた。

「ぐがあぁあああああああ、あっ…………」

 赤錆びた斧の柄が投げつけられたガルディの腹を突き破った。吐き出した血が、傷口から滴る血が、斧を真紅に染める。

「ガルディィイイイイイ!」

 叫んだエクセラはガルディに駆け寄ろうとするが、その行く手をロイドが遮った。

「ナ、ナゼダ? ナゼワタシデハナク、ヤ、ヤツノ心配ヲスル。ア、アレハ下等デ穢ラワシイ、オークだ」

 この期に及んで何を思ったのかロイドは縋りつくように言った。

「オークも人も姿形は関係ない。大事なのは心だ。貴様のように力に執着し、心を化け物に食わせた人間など誰も心配しない!」

 自分自身も強さを求めたけれど、それはロイドとは過程も目的も違った。

「人は決して一人では強くなれない。誰かから受け取った強さは、別の誰かのために使ってこそ意味がある。力は自分の欲望のためではなく、誰かを守るために振るうものだ!」

 エクセラは再び剣を構えた。

「エ、エエ、エクセラ、オマエモ私ヲバケモノと呼ブノカ……夫デアルワタシヲ……」

「貴様のような化け物を夫にした憶えはない!」

 エクセラはロイドの言葉を斬って捨てると、薬指の指輪を乱雑に引っこ抜き投げ捨てた。

「……オ、オ、終ワリダ。モウ、イ、要ラナイ……オマエナンカイラナイ……王モイラナイ……チ、チカラダケアレバ、ホカニハナニモイラナイ……シネ、二人共シネ……ワタシヲバカニシタ、ム、無能ナ父モ、兄モ、シネ……ミ、ミナゴロシ、ミナゴロシ、ミナゴロシダァアアアアア」

 ロイドの瞳に残っていた最後の理性の火が消えた。虚ろな瞳はもう何も映してはいない。人間でもなく、魔物ですらない、ただの力の塊へと変じてしまった。彼であったモノの中に残されているのは、ただ憎しみと破壊衝動だけだろう。自分がすでに終わっていることも気づかずに、他者の終わりを求め続ける。

 いかに強大な力があろうと、一国を一人で滅ぼせるわけがない。アーデルランドにはイランジュアやルーク、マラド、騎士団長、他にも沢山の強く賢い人々がいる。

「大丈夫だ」

 エクセラは自分に言い聞かせる。

 後悔は、父を守れなかったこと。

 嬉しかったのは、最後にひと目でもガルディに会えたこと。

「ここまで鍛えてくれたのにすまないな、ガルディ」

 エクセラは教えを破って、ロイドから視線を外しガルディの方を見る。

 巨岩に食い込む斧が、柄に突き刺さるガルディの重みで傾いでいた。決して抜けないはずの魔王の斧が――。

「シネエエエエエエエエエエ」

 内側から溢れる奔流に耐えかねたように、ロイドは力任せに拳を振り下ろした。背後の光景に言葉を失っていたエクセラは動けない。父の悲痛な叫びが聞こえた。

 しかし、その拳はエクセラには届かなかった。それどころか、足元の地面にさえ触れなかった。

 ロイドの腕は振り下ろされた勢いのまま、くるくると回転し森の方へ飛んでいってしまった。

「アェッ?!」

 間の抜けた声を出したロイドは、始め何があったのか分からなかったようだが、エクセラと王の視線に気づき後ろを振り返った。

 ガルディがいた。血塗られた斧を手にして。

『永年の働きご苦労であった』

 聞き覚えのない声がした。

『数多の生命のマナと芳しき血が満ち、相応しき器が揃った。我は目覚めの時を迎えん』

 ガルディの方から聞こえてくるけれど、彼は口を動かしていない。

『さあ、契約の時である。その身を器として差し出すならば力を与えよう』

 人間味をまるで感じさせない一本調子で、声は告げる。

「ガルディ、やめるんだ!」

 その声に何か得体のしれない恐怖を感じたエクセラは、本能的に止めた。しかし、彼は応えてしまう。

「ああ、くれてやるよ。こんな身体一つで、たった一つの大事なもんが守れるならな!」

『宜しい』

 声は笑っているかのように僅かに揺らぐ。斧の表面を覆っていた錆が割れ落ち、黒鉄の地金が現れる。

『振るえ、我が力を!』

 斧から赤い紋様が広がり、ガルディの身体を蝕んでいた黒ずみを食い尽くしていく。紋様は全身に広がり、それは燃え立つ紅蓮の劫火のように揺らめいた。

「ナ、ナンダ、ソレハ」

 身構えたロイドが問いかける。

「俺だって知るかよ!」

 身も蓋もない事を言ってガルディは斧を手にロイドに斬りかかる。どれほどの力に満ちているのか、踏みしめる地面が一歩ごとに抉れてしまう。

「溶ケテシネエエエエエ」

 嗚咽のような声に続き、ロイドは口から緑色の液塊を吐き出した。地面に落ちた液塊はぐじゅぐじゅと土を溶かすが、ガルディは意に介さず突っ込んでいく。

「危ない!」

 狙いを修正した液塊の三発目がガルディを捉える。緑の液をまとわり付かせたガルディの身体から、白い煙が立ち昇る。

「そんな古臭い斧で何が――」

『眷属風情が調子に乗るな』

 ガルディの身体を包んでいた紋様が輝き、緑の粘液を一瞬にしてすべて蒸発させてしまう。さらに四発目、五発目と液塊がぶち当たるが、紅の紋様の前には無力だった。

 逆にガルディが斧を振るうと、不可視の一撃がロイドの右膝から下を斬り飛ばした。

「……なぜだ、ガルディ」

 彼らしくない戦い方にエクセラの中で不安が募っていく。たとえ効かないと分かっている攻撃でも、本来のガルディなら確実に躱すはずだ。なぜ、あんな力に任せた戦い方をするのか分からなかった。

「コ、コレナラ!」

 手足の再生を終えたロイドが上半身に力を込める。すると、盛り上がった肩から背中が不快な音と共に裂け、一対の蝙蝠のような翼が姿を表した。

「ドウダ!」

 地面を蹴ったロイドは矢のようにガルディに迫ると、その身体を両手で捕らえ空へと急上昇していく。

「ソラハトベナイダロ。ジ、ジメンニ叩キツケテ、ツ、ツブレテ、シ、シネ」

 破れ鐘のようなロイドの声が空から降ってくる。

「かまわねえな」

 小指の先ほどの大きさになったガルディも吠えていた。

『消えるがよい』

 天頂から地上へ白い糸を垂らしたかのような縦の一閃が瞬く。それはガルディが斧を振り下ろしたのだろう一撃だ。

 不意の静寂が辺りを包む。

「いぎゃああああああああああああああああ!」

 ロイドの絶叫を切っ掛けに膨大な力が開放され、天地が揺れた。

 まるで大陸を覆うほどの巨大な斧を振り下ろしたかのごとく、空の雲が裂け、大地が森の木々ごと一直線に割れていく。

 理外の衝撃は森の背後に控える巨大山脈をも突き通す。子供の砂遊びのように山々が消し飛び、噴火のような土煙が北の空に昇っていく。

 衝撃の余波は後方にいたエクセラ達にも届く。突風というよりも、目に見えない壁がぶつかって来たような圧力だ。踏ん張ることすら出来ず、エクセラの身体は宙を舞い庭園の木に激しく打ち付けられた。それでも衝撃は収まらず、ついには呼吸すらままならなくなる。

「ガルディ……」

 失われる呼吸に意識が落ちていく。

 最後に見たのは地面に降り立ち、血と太陽の紅に染まる彼の姿だった。

 

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エクセラの結婚式が行われる。
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