Essentia Vol.8「正中線の太陽」 |
スロープに沿って整然と敷き詰められたブロックの両側に、手入れの行き届いた花壇があった。外灯のそばには終わりかけの紫陽花が手を広げ、初夏の到来を見守るようにひっそりと座っている。
結城くんのお宅は、いわゆる建売住宅というやつで、左右に並んだ家々とは外観もさほど変わらなかった。
それでも、個々に我が家の色というものを主張したがっているのは伝わってくる。
彼のご両親とはまだ対面していないけれど、アイボリー調で統一された外観を見る限り、あたたかみと和合を重んじる家庭なのではないかと思った。
「沖田さん。こっちです。」
さっそく彼の部屋に通されて、どこに腰を落ち着ければいいのかという問題があった。
セミダブルくらいありそうなベッドの脇には背の高い本棚が備えつけてあり、趣味のものから実用的なものまでが所狭しと詰めてある。
難しそうな本が積まれた使い勝手のよさそうな机は、高校生が使うものの割には引き出しが少なくてシンプルな造りのようだった。
さらに、その脇には36インチはありそうなデスクトップ型のパソコンが置いてあり、モニターに立てかけてあるメモ帳には細かい書き込みの跡が見られた。
きちんと整頓はされているけれど、まさしく彼の私生活が凝縮されているような部屋だった。
(男子らしい部屋だな)
もっとも目を引いたのは、バスケットボール選手のポスターだ。壁の面積を陣取るほど、大きくて迫力のあるものだった。それ以外にも、大会の集合写真やら旅行の記念写真なんかも飾られている。
「へぇ。これが結城くんの部屋ですか。」
部屋をぐるりと見渡しながら、落ち着かない気持ちを何とか紛らわそうとする。だけど、初めて訪れる他人の家というのは、たとえ相手に敵意などがなかったとしても、見知らぬ場所というだけで緊張するものだ。
そういう私の心情を察知していたのか、結城くんもまたどこか落ち着かずにそわそわしている。
「まじまじと見られると、なんだか恥ずかしいですね。」
「あ、ごめんなさい。つい珍しくて。」
「適当にくつろいでてもらって大丈夫です。」
彼は言うなりクローゼットの扉を開け、その中に体ごと入っていって奥のほうに仕舞ってある何かをとり出そうとしていた。どうしてそんな奥深くに仕舞い込んだのかはわからないけれど、もしかしたら彼にとっては人目に触れさせたくない何かなのかもしれないなと思った。そういう意味ではプライベートに包まれたそのクローゼットを興味本位で覗き込むのは失礼にあたると思い、私は彼の動作から視線を外すことにした。その外した視線が真っ先にとらえたのは、ベッドボードの写真立てだった。
誰もが一度は目にしたことのある有名な一枚。たしか教科書にもこの写真が使われていたはずだ。
「…坂本さんだ。」
あまりにも有名だから間違えるはずもない。
まるで本人がそこにいるかのように呟くと、クローゼットに頭を突っ込んでいた彼が勢いあまって振り返った。
「えっ!? …ああ、その写真ですか。」
木箱のようなものを抱えて出てきた結城くんは、それをいったん机に置いてから庇うようにその写真立てをとった。
遠い日に誼を結んだ兄事を思い、わずかに口もとをゆるめた彼の目はあの頃へと舞い戻っていく。淡く揺れたように見えるその瞳は、さまざまな思いが綯い交ぜになったように切ない色を孕んでいた。
「太陽みたいな人でした。みんなの行く手を明るく照らしてくれる人です。」
労わりの感じられる声で呟いて、彼は真新しい写真の表面をなぞる。
坂本龍馬はたしかに存在した。それは誰しもが認める事実だ。でも、坂本龍馬とは実際どんな人物だったのか。本当はどんな考えを持っていたのか。この時代の人たちは想像でしか語れないだろう。
自分の目で見て、耳で聞いたことを事実として語れるのは、唯一彼だけなのだ。
「もう一度、会いたいな…」
今にも泣き出しそうな痛々しい笑顔だった。
写真立てを伏せるカタンという物音が、寂しそうに響く。
(会いたい…)
そう思う人ならたくさんいる。たとえば、条件つきで誰か一人を選ばなければならないのだとしたら、私が選ぶ相手は決まっていた。結城くんの言葉を借りるならば、私にとっての太陽は近藤さんだった。
近藤さんの追い求める光――そこには輝かしい未来があるのだと信じて疑わなかった私だ。
思想の違う人々の手によって、反逆という咎のもと葬り去られてしまうまでは――
「今までいろんな大人に出会ってきたけど、龍馬さんみたいに自分のすべてを預けてもいいと思える人はいなかった。たまにやかましいと思うことはあったけど、楽しくてあったかくて、誰からも好かれる人でした。」
(結城くんは私と似ているな)
命を捧げてもいいと思えたのは、後にも先にも近藤先生だけだった。
少し不器用で誤解を招くことも多かったけど、近藤さんが風を起こせば、皆がその追い風に乗って信念を貫くことができたんだ。
「歴史を知ってる俺たちなら、大事な人を守れるかもって…そんな大それたこと、本気で信じてた。なんとしても近江屋を回避してやるんだって。」
もし、労咳ではなかったら――
板橋の刑場へ命懸けで救いに行ったことだろう。
それが武士としての矜持を穢す行いであったとしても、私は敵に頭を下げて見逃してくれと叫ぶだろう。
自分がしてきたことを棚上げするのは、士道に悖る行為だとわかっていても、近藤さんを救うのを止められないはずだ。
泥を舐め、地面にひれ伏してみっともなく哀願して、近藤さんが生き延びるのならば、この命すら惜しくはないと――。
(ああ、もしかしたら…)
彼女もこんなふうに捨て身だったんだろうか。
私が辿るべき道を知ったうえで、できるかぎり知恵を回し、私を生かそうとしてくれたんだろうか。
「あるとき、意を決して伝えたんです。俺たちが未来から来たこと。龍馬さんの命を守りたいから、俺が言うことを信じてほしいって。」
(((星|ひかり))さんも同じだったな)
(未来から来ただなんて、さぞかし勇気がいったことだろう)
「そしたらあの人、平気だって笑うんです。仮にそれが本当だったとして、物事が全部そのとおりになっても、大丈夫じゃ、心配ないき…相変わらず笑い飛ばして。」
(おそらくは、坂本さんも同じ考えだったのかもしれないな)
――成さねばならぬ
世に生まれ出でることも、死することで世を隠遁するとこも、それは人としての単なる通過儀礼でしかない。誰もが平等にその山を越えていくのだ。
生まれることも死ぬことも、この世のルールとして絶対とするならば、それこそ己の限界と可能性を問いたくもなるだろう。なぜなら、時間は有限とされているからだ。
「自分は何のために生まれてきたのか?」「生きているうちに、自分が果たすべきことは何か?」という考えに没頭すると、「男として生まれたからには…」という野心を生む。
その結果、「自分にしかできないこと」を求めるようになるのだ。それがあの時代の新選組であり、英雄視されてきた志士たちの姿だった。
「龍馬さんじゃ話にならないから、もうやけっぱちになって、最後は中岡さんに泣きつきました。彼もまた、龍馬さんは日本を変えた男だから、運命なんぞに命を持ってかれるわけがないって。」
(薩長同盟か…あの出来事には泡を食ったものだ)
坂本龍馬が特別なのではなく、皆が暁光を求めて駆け抜けた時代だ。
驚天動地。いつ何が起きてもおかしくはない時局に入っていたのだった。皆がみな翻弄され、もがき苦しんだ。
「どうしてなんですか? どうしてあの時代の人たちって命の話になると、なんでもないことのように明るく笑い飛ばしてしまうんですか?」
自分の命にかまけていられるほど、余裕がなかったというのもひとつだけど――
(大義の前に命など惜しくはない)
そういう観念が常に先走っていて、時代を象徴する合言葉になっていたというのが、そもそもの真相だろう。あの頃の私たちが、勢い余ってそのようにしか表現できなかったというのもまた事実のような気がする。
「もしもまたあの時代に飛ばされたとしたら、俺は何度だって龍馬さんの背中を追いかけます。たとえ、傷だらけになろうが、命を脅かされようが、何度でも立ち上がってあの人を守ります。誰かを救えるのだとしたら、俺は絶対に龍馬さんを選ぶ。」
「つまりはそういうことです。」
結城くんは問いたかったわけではなく、ただ話を聞いてほしかっただけなんだろう。
それには薄々気づいていたけれど、この暴走を止めてあげなければ彼はこの先も延々と苦しむことになってしまう。星さんの記憶が失われた以上、彼の苦しみを軽くしてあげられるかもしれないのは自分をおいて他にはいないのだ。
「傷だらけになろうが、命を脅かされようが、坂本さんの命を守るんでしょう? 彼が言いたかったことは、そういうことじゃないのかな。」
たとえ満身創痍となろうとも、守りたいものがあるから戦うのだ。そこに正義も悪もない。他人の価値観が入り込む余地もないのだ。
「君は知らず知らずのうちに、坂本さんの思想を受け継いでいるんですよ。君の中に、坂本さんの志が根づいている。時代を超えてね。すごいことです。」
「志か…あの時代、皆が口を揃えてそう言ってたな…」
結城くんは、熱を偲ばせるようにして静かに目を閉じた。穏やかになったその気配からは、さっきまでの責めるような剣呑もなく、悪感情の名残すらも感じられない。私の言いたいことが伝わったのだろうか。
「どうしてか、あの時代には今も愛着があります。血で血を洗うような凄惨な世の中だったのに、生きてるって実感が強烈にあって。」
命と隣合わせだったからこそ、自分の生命の躍動感を嫌というほど感じられたのだろう。そして、いつ散るともわからない自分の命が今日も無事に自分を生かしてくれたこと、周囲の気づかいや思いやりにいつも感謝の念が絶えなかった。
「戻りたいって思うのは簡単ですけど、志半ばで亡くなってしまった人たちを思うと、やっぱり簡単なことじゃないですよね。」
(戻りたい、か…)
あの時代にしか味わえない風がある。
その熱風に一度でも巻かれた者は、たとえ血に飢え憎しみに悶え苦しんだとしても、再びあの灼熱を感じたいと願うのかもしれない。不可抗力なのだ。そこに生きた者にしか決して味わえない風だ。
「なんだか話が脱線してすみません。実は、沖田さんに渡したいものがあったんです。」
「そうでしたね。」
「これなんですけど、見覚えありますか?」
若い人が持つのには珍しい檜か何かの木箱を開くと、中から現れたのは色褪せくたびれた蝶だった。想像だにしていなかったその姿に、私は息を呑む。
(なぜこんなにも古びてしまったのだろうか?)
信じられない思いでようやく手を伸ばし、壊れてしまわないように手のひらに乗せながらそれを観察する。
どれだけの歳月を眠っていたのだろう。星さんとともに飛んできたのならば、もう少し形がしっかりしていてもおかしくはないというのに、布地の模様がわからないくらいくすんでいるし、鈍い音しか鳴らさない鈴は錆に覆われていた。
(自分で作ったのだから、見間違えるはずがないんだ)
たしかに彼女に贈ったものだった。肌身離さず持っていてくれたんだろうか。
私の形見として――。
(それなのに、なぜだろう…)
哀しくて、胸がしくしくと泣いている。
大切にすると言っていたはずの彼女が、簡単に手放してしまったからだろうか。それとも、私と星さんだけの秘密に、結城くんが関与しているからだろうか。
「なぜ、君が?」
「やっぱりそうなんですね。」
探し物がようやく見つかったときのように、達成感をわずかに滲ませて彼は頷いていた。
「星のポケットに入ってたんです。綻びて色褪せていたから、もしかしたらと思って。」
「星さんは、これを見て何と…?」
投扇興を忘れてしまった彼女が、蝶だけを覚えているはずがない。
答えはなんとなくわかっていたけれど、頭で考えるよりも先に、もしかしたらという思いが口をついて洩れていた。
「それが…本人もどういう物なのか見当がつかない様子でした。でも、俺は一目見て曰くありげだなって思ったんですよ。」
(結城くんが勘の鋭い人でよかった)
身に覚えのない物が出てきたら、普通は気味が悪いと思って捨ててしまうことだろう。年季物ならば、なおさらだ。
持ち主にすら忘れ去られてしまったこの蝶は、結城くんの心づかいのおかげで棄てられずに済んだのだった。
「それで、君が預かることにしたんですね?」
「はい。差し出がましいとは思ったんですけど、いつか沖田さんが迎えに来たら渡そうと思って。」
(なぜ私が現れると信じられたのだろう?)
別れを決意したあの日。彼とは言葉少なに約束を交わし、星さんの未来を託してすべてを任せることにした。お互いのことはほとんど何も知らなかったというのに、決意を同じくした瞬間、目に見えないけれど通じるものがはっきり感じられたのを覚えている。
そして、お互いに本意じゃないことも痛いほどよくわかっていた。
「もし、私が現れなければ、どうするつもりだったんです?」
つい憐れなものを見る目つきになって、そのひたむきで一本気な信念がますます痛ましく思えた。
本人だってこっちへ来られるとは予想もしていなかったくらいだ。原理もはっきりしていないうえに、物理的にも不可能だと言われているタイムワープ。結果として私は今ここにいるけれど、彼の期待どおりにいかなかったらどうなっていただろう。
「それは考えてませんでした。」
頭をかきながら照れ笑いする結城くんは、少しのわだかまりもなく晴れ晴れとしている。
彼は、おそらくこういう人なんだろう。信じた道は諦めない人なのだ。坂本さんがそうであったように、彼譲りの信条を持っているのかもしれないと思った。
「これは私が差し上げたんです。蝶といって、投扇興という遊びで使うものです。私が手作りしたのを彼女が褒めてくれたから。」
「もしかして、お座敷遊びの?」
結城くんは手のひらをポンっと打って、ひらめいたという仕草をとった。
「そうです! よく憶えていましたね。」
「星が手紙で教えてくれました。お座敷遊びというと、龍馬さんはもっぱら金毘羅船々でしたけど。」
突然思い出したらしく、結城くんはおかしそうに笑っていた。
私はもっぱら投扇興一辺倒だったけど、上方出身の隊士が所望した際に一度だけ座を見ていたことがあり、その名前だけは聞き覚えがあった。陽気な唄をうたいながらする遊びだ。
「懐かしいですねぇ。つい、昨日のことのように思えるなぁ。」
大の苦手だった島原がいまさら恋しくなるだなんて、私も相当通い詰めたということだろうか。
土方さんがここに同席していれば、そのことを真っ先にからかわれていることだろう。
(克服できたのも、星さんのおかげだ)
京の雅やかな情景に耽っていると、賑やかな笑い声や三味線の独特な音色が聞こえてくるような気がした。
一度思い出すと止まらない。京のさまざまな情景が頭の中を駆け巡るようだった。
「蝶は沖田さんが持っていてください。」
「どうしてです? これは彼女のものですよ。私が持っていても仕方がない。」
元々の所有者が私だったとしても、それを贈ったからには真の持ち主は星さんだ。いずれは彼女の手に収まるべきもののはずなのに、結城くんはそれは違うという目で否定する。
「よく考えてみてください。星が記憶を取り戻したとき、あなたからこれを渡されたらきっと喜ぶ。二人の思い出が詰まってるんでしょう?」
「それはそうかもしれませんが…。」
――私の宝物です
気恥ずかしそうに頬を染め、それでも真摯に伝えようとしてくれた彼女の面影がよみがえる。
自分の拙さを丸ごと受け止めてくれる彼女に、愛しさが溢れて止まらなかった瞬間だ。
「たしかに、私にとっても星さんにとっても思い出のものです。」
もう一度溢れてやまないこの想いは、どこまでも私をやさしい気持ちにさせた。
彼女に手渡す日が来たら、今度こそ伝えたいと思う。
君が好きだよ、と。
「だったら、沖田さんから渡してあげてください。もう一度、彼女との思い出を取り戻してください。」
(もう一度…)
もう一度、彼女に出会えたら伝えたいことがある。
彼の手渡してくれた蝶を、胸の中でしっかりと抱きとめた。壊さないように、失くさないように胸の中であたためる。
(あなたを手放したことを後悔しています)
もう一度伝えたい。
彼女を迎えに行こう。そしてまた、恋をするんだ。
(あなたを二度と離したりしない)
ゆびさきのぬくもりを、今も憶えているよ。
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