告解の丘で
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 フリードは咄嗟に、足下の水たまりを飛び越えた。

 昨日の大雨で、丘を囲む一帯は水浸しだ。さらに早朝で薄暗く、用心が必要だ。水平線上に雲を透かした朝日がぼんやりと灯り、辺りを弱々しい群青で染めている。

 左肩のショルダーバッグをずり上げ、右肩に預けていた花束の状態を軽く確かめて歩き出した。息を大きく吸い込むと、湿った土の匂いが立ち込める。

 朝の気配がくすぶる感触。冷たく湿った風が、吹いたり止んだりを繰り返している。徐々にシャツが冷え、肩から背中にかけてゾクゾクと震えが走る。せめてセーターを着てくるべきだったと思いながら、悪あがきでシャツの襟を立てた。

 時折、雲が切れてぼんやり届いだ朝日が水たまりをちらつかせる。足下には枯れた芝。日陰のところは既に浅黄色にしおれている。

 以前、ここに来たのは十年前だったな。優しい記憶が脳裏を掠める。

 徐々に勾配が急になっていく。濡れる斜面に気を配りながら、ひたすら頂上を目指す。汗をかく位になって、ようやく頂上に着いた。迷わず、そこにある石造りの青白い泉に近づいた。石はひび割れており、藻に覆われ、湧き水は勢いなくちょろちょろと垂れ流されていた。先ほど通りがかった麓の教会も、熊でも出たかと思うほどボロボロに打ち棄てられていたな、とフリードは思った。

 刹那、強風に煽られてよろめいた。花束の花が散らされないように胸元に抱えた。目に見えない何かが失われたことを、ひしひしと痛感した。

 随分と変わってしまったものだ。ただ、それでも朝の空気は心地よい。

 瞬間、雲間がすっと切れた。草原が鏡のように一斉に朝日を弾き、思わず目元を腕で覆った。力強い朝の光。奇蹟などに頼らなくたって、こうして世界ははじまっている。見上げると、頭上にあった雲にも切れ目が生まれ、ぽっかりと天井が開いていた。強風に散った花びらが、頭上の雲間に吸い寄せられるように立ち上った。

 しばらくして、再び雲が覆った後、おもむろに丘を見下ろした。風がやむ気配はなさそうだが、花束の状態など、よく考えたら気にする必要もない。そもそも手向ける場所などないのだ。

 空に向けて適当に花束を投げやると、強風が奪い合うようにもみ合い、花びらと茎に乱暴に分解しながら、大急ぎで空に溶かした。

 その様子を、フリードは呆れたように見上げていた。

 ここは忘却の丘。決して、記憶してはいけない。決して、記念を遺してはいけない。そう、風が警告しているようだった。

 分かっている。もう二度と、ここに来ることはないさ。やれやれと首を振って、苦笑いを浮かべた。丘を下りる間、彼が振り返ることはなかった。

 彼がいなくなった後も、何かを守るように風は吹きすさんでいた。

 

 かつての威光も神秘も、時を重ねればいつかは終わりを迎える。

 これは、斜陽の丘に残された終節の物語。

 

 

「告解の丘で」

 

 画家殺しの丘とも呼ばれる。それ以上美しく描ける余地がない、という皮肉めいた賛美だ。

 春の匂いを含んだ肌触りのよい微風が、延々と続く芝をさらさらとなでていく。柔らかな平原の長閑さに、湖の反映と森の陰影が彩りを添える。空には、南国の海のような透明な青が広がっている。そこに紗が掛かった雲が伸びて、偶然を装った黄金比を図り出している。

 人はこの景色に出会うと、必ず涙する。人という存在が、神の理想に達する事は無いのだと気付いてしまうから。

 

 雨は降らない。風も微かにそよぐ程度。一年中、春の気候と清々しい景観を保ち続ける。

 楽園。

 聖域。

 潔癖の庭。

 しかし、そんな場所が実在する事よりも、そんな奇蹟を不思議に思わない人々が、何よりも歪だった。

 

――

 

 丘に名はないが、宗教的背景から多くの人々の間で、「告解の丘」とよばれている。その呼称は、頂にある青白い石膏で造られた泉にまつわる。

 泉は「救いの泉」と言い、法典に記されている。法典にある泉の記述はこうである。

 

 ――罪人が救いの泉で喉を潤せば、過去に犯した罪は全て赦される。

 

 それは、世界に敷延されている神の法典によって定められた、懺悔の手順。

 誰も貶めることのできない、絶対の贖罪。

 

 ただし、この掟には続きがある。

 

 ――罪人によって傷つけられた者、あるいはその親族は、救いの泉から目の届く範囲であれば、罪人を処断することができる。ただし、それより先に罪人が泉の水を飲んだ場合、何人たりとも傷つけることは許されない。

 

 この大陸には、人が考えた刑法はない。人を裁くのは神のみとしているからである。有史以来ずっと、神への畏れを遵守する歴史を辿ってきた。罪を抱えたまま死を迎えることは、死よりも恐ろしいとされている。その教えが善人悪人を問わず深く根付いているため、法がなくとも罪人は救いを求めて丘をのぼる。

 だが、そこに立ちふさがるのが、「断罪者」と呼ばれる、罪人に恨みを持つ者達だ。告解の丘での処断。それは、刑法の存在しない大陸において、罪人を裁く唯一の合法的手段である。断罪に携わる者は、丘の麓にある教会で拳銃を受け取る。それは、私刑と言い換えることもできる。

 では、神が見ているにもかかわらず、あえて人に手を下させる神意とは何か。

 

「罪人は今ある命を惜しまず、神の許しを請うか否や」

 

 命を捨てる覚悟が無ければ、泉を飲む事はできない。

 被害者感情への配慮と、罪人の信仰表明。相反する両者の目的が、丘を目指すようにと促す。

 

 そして、まもなく十三時。告解がはじまる。

 

 時が満ち、続々と丘に人が集まってくる。

 自身を傷つけられた者、家族を傷つけられた者。あるいは、それらの目をかいくぐり泉の水にありつこうとしている者。

 そんな中、今朝は一風変わった男が登っていた。

 灰色の目を持つ四十代の男で、顔には心労によるものと思わしき深い皺があり、茶色の髪の中に白髪を交えていた。元は精悍な顔や体つきのようだが弱々しく肩を落とし、シャツの上からでも痩せていることがわかる。顔に暗い影を落とし、緩めたネクタイを力なく垂らしている。そして何より、辺りを気にする様子がない。そこが、訪れる二種類の人間のどちらにも当てはまらない所である。丘に来たのも一度や二度ではなく、慣れた足取りで丘をのぼっている。時折、丘の方を見上げては、目元の皺をきゅっと寄せて切なそうな顔をした。

 男は丘の中腹まで来ると立ち止まり、どさりと座り込んだ。やることがあるわけではなく、ただじっと草原を眺めている。その目に風景は映っておらず、視線は内面へと向けられているようだった。

それから一時間ほどして、大きな溜め息を吐いた。

 と、男は右手側に気配を感じ、振り返った。そこには、一人の青年が立っていた。青年は腰に手をついた姿勢で、男を見下ろしている。

 二十代前半で、ブロンズの髪に白い肌、二重の青い瞳。ラフな白シャツと綿のカーキパンツが似合う、爽やかな印象の若者だった。

 男は気構える様子もなく、青年に尋ねた。

「どうした?」

「……いや、あんまりにもおっちゃん元気なかったからさ。あんた、罪人待ちだろ?」

 その口ぶりは粗野でぶっきらぼうだったが、悪い感じは受けかった。その表情からは、気さくながらも真摯さが感じられた。

「……違う。私はね、罪を犯したんだ」

「ってことは、もう泉の水は飲んだ後ってことか。なら、誤射される前にとっとと降りたほうがいいって」

 罪人が水を飲まないまま、うろうろしているなどありえない。けれど、男はさらに首を振り、溜め息まじりに答えた。

「全ての罪人にとって、あの泉が救いだとは限らないよ」

「それじゃ、どうしてこんなところにいるんだ?」

 青年は戸惑いを隠しきれず、問い詰めた。男は彼の情熱的な性質、若さを感じ取った。男は丘を見渡しながら、微かに笑った。

「私は、この命を持って償いたいんだ。そうでなければ、耐えられない。とてもじゃないが、平静でいられないんだ。だから、こうして足を運んで、その日が来ることを祈っているんだ」

 諦観の表情を浮かべたまま、遙か地平に光のない目を向けた。

「……裁いてほしいということか」

 男は静かに頷いた。

 すると、青年は男の横にどさりと腰掛けた。

「なあ。その話、もう少し詳しく聞かせてくれよ」

 男は驚いて一瞬目を見開いたが、青年の瞳に強い気持ちが込められているのを見て、小さく頷いた。

「私も、本当は誰かに聞いてもらいたかったのかもな」

 男は照れくさそうに笑った。

「そう言ってくれると嬉しいけど。おっと、自己紹介がまだだった。俺は、フリード・ローカスっていうんだ。フリードと呼んでくれよ」

「私は、アルヴァン・アルシェ・ソイマール。アルヴァンで構わない」

「わかったよ、おっちゃん」

 アルヴァンは苦笑いを浮かべながら頷いた。

「さて、私の話を聞いてもらうんだったね」

 そして、歪なまでに青く染まった空をスクリーンのように見つめ、昨日のことのように鮮明な出来事を、瞼の裏に蘇らせた。

 

 

 それは、今から7年前のこと。

 当時、アルヴァンは35歳。告解の丘からそう遠くない市街区を中心に、タクシーを走らせて生計を立てていた。様々な人生の架け橋になれるタクシードライバーという仕事は嫌いではなかった。毎日、平凡ながらも退屈ではない日常を過ごしていた。

 そんなある日、二十歳にも満たない若いカップルが、アルヴァンの車を呼び止めた。二人はウェディング衣装を纏っており、新婦のほうは抱きあげられている状態だった。新婦はタクシーが来ると、慌てて新郎の腕から降りた。停車した直後に節操なく飛び乗った新郎と、あとから静かに乗り込む新婦。性格は違うようだったが、一目見ただけで、それらが互いに愛し合っている事が伝わってきた。

 アルヴァンは、先ほどチャペルの鐘が聞こえていたことや、さらに二人の妙に浮ついた雰囲気から、挙式の後なのだろうと推測した。

「先ほどまで、式を?」

「そうなんですよ! 本当はこれからも知人達とパーティが予定されてたんですけど。あいつらシェリーが困ってる顔してるのに、ブーケを引ったくろうとして怖がらせるから……。そういうわけで、行くアテはないんですけど……」

 薄い赤毛を逆立てたわんぱくそうな新郎が、頭を掻きながら答えた。取り巻きを振り切ってきたばかりのようで、息が荒い。対して、新婦は緊張しているようで、頬を赤らめて俯いている。

「それじゃ、落ち着くまでしばらく静かな場所を走りましょうか」

「それでお願いします! あ、俺、ブレンドン・ロードメイルっていいます」

「私は、シェリー・カスティーダです」

「どうも。私は、本日のドライブをお供させて頂く、アルヴァン・アルシェ・ソイマールと申します。短い間ですが、どうぞよろしく」

 それからの道中、アルヴァンは二人との話にずっと耳を傾けた。

 ほとんどは、二人の思い出だ。といっても、話していたのはほとんどブレンドンで、彼女は横で頷いているだけだった。それでも、二人の気持ちが通じ合っていることは伝わってきた。

 色んな話を聞いた。友人達がサプライズで起こしたシェリーの浮気発覚騒動で、ブレンドンが大泣きしてしまったこと。それを黙って見ていたシェリーもうっかり大泣きしてしまって、結局友人達も申し訳なくなって泣き出してしまったこと。

それから、なによりたくさん耳にした話は、シェリーがいかに優しい女の子だったか、というエピソードだ。クラスメートの大切にしていた犬が死んだときも、いつまでも一緒に泣いてあげていたという。彼の話す思い出からは、シェリーを愛おしく思う気持ちが伝わってきた。

 穏やかな愛の記憶が、のどかな週末の街道をラジオの音と共に風に流れていった。

 そうして30分ほど、ぐるぐると郊外を抜けた。山道の反対車線を走り抜ける貨物トラックの往来を何気なくやり過ごし、小高い山から吹き降りる風を開け放った窓から招き入れていた。

と、トラックが巻き上げた排気ガスが車の中に入ってきて、慌てて窓を閉めようとした。僅かに目を離して前を向いた瞬間、目の前を横切る車に気付いた。慌ててハンドルを切って衝突を回避しようとしたが、舗装の十分でない砂利道にタイヤを取られ、車は土手のほうへとせり出していった。

 そのまま、無情に車は土手を滑り落ち、何度も横転を繰り返して谷底に落下した。

 かろうじて炎上は免れたが、予断は許せない。アルヴァンは天井で頭を強打しながらも、かろうじて窓から抜け出した。窓が開いていたのが幸いして、抜け出すのに時間は掛からなかった。急いで後部座席を確認する。ブレンドンがシェリーを抱いた状態で重なり合っている。声を掛けたが返事はない。ドアの損壊は激しかったが、片方の窓側から二人を引きずり出せそうだった。駆けつけてきた人達と協力して、窓側にいるシェリーを引っ張り出した。

 シェリーに意識はなく、ぐったりしていた。胸元に小さな切り傷があるが、命に別状はなさそうだ。次にブレンドンの方に目をやった全員が悲鳴をあげた。ブレンドンの背中から胸に向けて、鉄骨が突き出ていた。ちょうど、彼が抱いていたシェリーの胸の切り傷と同じ位置だった。

 即死と思われた。ふてぶてしいほど逞しい笑みをたたえていた。

 その後、二人は病院へ搬送された。ブレンドンはもはや手の施す余地はなく、シェリーも昏睡状態が続いていた。

 それから三日後。病院に関係者が呼ばれて発表があった。シェリーの脳に損傷は見られないものの、意識が回復する兆候はなく、目を覚ます具体的な目処は立っていない、という話だった。

 アルヴァンはその後、ブレンドンの告別式の日を待たずに告解の丘へ向かうことにした。幸いと言うべきか、アルヴァンには身内らしい身内はいなかった。別れを告げる相手はいない。あとは、自分のけじめをつけるだけだ。一人の若者の命を奪い、一人の若者の意識を奪い、二人の未来を奪った。彼らの家族、友人の光を奪った。そういう購い切れない罪を犯した者には、相応しい最期がある。シェリーの言葉が聞けないなら、これ以上待つ理由はない。

 

 病院から一時間かけて、告解の丘にたどり着いた。

 来たのは、初めてだった。

 時刻は十二時。告解の儀式がはじまる一時間前。目の前に広がるのは、美しい芝の草原。肌になじむそよ風。耳をくすぐる草木のさえずり。穏やかな時間に心が洗われるような心地がしていた、そのとき。ゴーン、と重々しい鐘が鳴り響いた。今まで、麓でしか聞いたことのない、はじまりの音だ。鐘の余韻が消えるかどうかという辺りで、アルヴァンは無意識に鳥肌が立つのを感じた。

 狂気が、とぐろを巻いている。

 一歩、一歩、癒えない傷を抱えた者達が、銃を片手に丘を踏みしめる音が響く。音なき殺意が行進している。罪人に信仰が残っていることを祈りながら、引き金を指でなぞる。

 正当な淀みが充満していく。

 息苦しさに立ち眩み、近くの木陰に身を伏せた。

 遠くから眺めていた美しい丘は、そばで見ると地獄だった。恨みを晴らさんと鎌首をもたげる様は、グリム・リーパーのそれだった。

 ここから早く逃げたい。

 逃げたい。

 逃げたい。

 逃げたい。

 その気持ちだけが、頭の中をぐるぐると回っている。

 私はこんな憎悪を向けられながら殺されるのか。ここにいる者達は皆、ささやかな幸せを願う、どこにでもいる人々のはずだ。それがこうして、触れるだけで血が流れそうな殺気を放っている。

 それが人なのだ。その両方が、人なのだ。そして、いずれ私も呪われる。

 心優しき善人に、生きてきた意味を否定されながら。人を思いやる隣人の慟哭に、怨嗟に、鼓膜を振るわせながら事尽きる。心なき強盗に殺された方がまだ救いがあるとさえ思った。

 覚悟を決めたつもりだったが、考えが甘かったのだ。震えが止まらない。

 情けない! なんと情けない!

 アルヴァンは自身を叱咤し、震える足を叩いた。これ以上悩むのはよそう。そんな時ではない。もう、いつ殺されてもおかしくないのだ。ここは、告解の丘なのだから。

 

 そうして、ようやく救いの泉が見える場所まで来たが、どうやら遺族の姿は見当たらない。

 本当に悲しい時は、復讐心を燃やす気力すら起こらないのだろうか。アルヴァンは腑に落ちない気持ちを胸に、救いの泉が見える場所に腰を下ろして、遺族の到来を待った。けれど、その日、復讐を遂げようとする親族は現れなかった。

 翌日も、そのまた翌日も、丘の上で断罪者を待った。その間、一度たりとも救いの泉に手を伸ばそうと考えなかった。罪の所在をゲームのように扱う事を、軽薄にさえ感じていた。目を閉じれば、今も瞼にあの二人の姿が映っている。日が経っても、彼の決意は変わらない。

 

 それから、一ヶ月、二ヶ月が過ぎ。やがて、一年、二年、三年もの歳月が流れた。その間、彼を訪ねる者は一人もなかったが、ずっと告解の丘に通い続けた。

 また、彼は眠り続けるシェリーの家に花束を届けていた。それらは彼の日課であり、生を繋ぐ糧でもあった。

 

 そうして、三年が過ぎた。とある夕暮れ時、彼はいつものように景色をぼんやり眺めながら、断罪の時を待った。

 十七時を過ぎ、空が赤く染まりはじめる。

「何度、この空を見送ってきただろうか」

 透ける茜が降り注ぎ、芝が赤く燃えている。遠くの森の幾つかは紫に染まり夜をはじめている。

 そう、もうじき夜なのだ。座り込んだまま、足下の影をじっと見つめている。季節はもう冬だというのに、たいした厚着もせずにじっとしていられる。どんなに黒く淀んでいようと、やはりここは聖域なのだろう。

 ふと、頂上を見上げた。この三年の間に、何人もの人が泉の水を飲む姿を見守り、何千発の銃声を耳にして、何百人ものの人が倒れるのを目にした。なのに、未だに自分を訪ねる者の姿は無い。気が遠くなりそうだ。これも私への罰だというのか。

 ……この魂をブレンドンの墓に差し出せる日は、本当に来るのか?

 告解の儀式は、十八時までだ。水平線に沈みゆく太陽を眺めた。落ち着かない気持ちを残して、今日も終えるのか。そう思ったとき、風の中に芝を踏む音が聞こえた。同時に、長い影に気付いた。

 ……ついに来たのか。

 ドクリと心臓が鳴った。

 不思議な心地がした。ずっと待っていた気がするのに、現実味が無い。この丘で過ごした三年間が、ふっと脳裏をよぎった。三年は長かった。けれど、とても短かったようにも思える。

 アルヴァンはゆっくり顔をあげた。すらりと長い足が目に入ってくる。さらに顔をあげると、怜悧な瞳を丸みを帯びた眼鏡で包んだ、シェリーの父親クランプソンの顔が見えた。その右手には、拳銃が握られている。

 彼は歩み寄り、やがて穏やかな声色で尋ねた。

「……あなたは、アルヴァン・アルシェ・ソイマールですね」

「はい。あなたは、クランプソン・カスティーダ」

 互いに、確かめるまでもないという風にうなずき合った。そして、しばらく目を合わせていたが、やがてアルヴァンは決意を固め、目を閉じた。拳を握り、息を呑んだ。

 重い沈黙が流れる。さららと風が頬をかすめる。夕陽がまた少し小さくなり、紫がかった影が芝に迫る。もうここに残っているのは二人だけのようだ。沈黙の中、クランプソンは微動だにせず、目を閉じたままのアルヴァンを見つめている。何度かクランプソンの深い呼吸が続き、そして、ガチャリと何かが地面に落ちる音がした。アルヴァンがゆっくりと目を開けると、クランプソンが手にしていたはずの拳銃が地面に落ちていた。

「クランプソン?」

「……アルヴァン。私たちは、あなたを殺さない」

 クランプソンの宣告は穏やかながら、しっかりとした響きがあった。けれどアルヴァンは、呼吸を乱して首を振った。

「あり得ない! あなたが殺さずにいられるはずが無い!」 

 アルヴァンの上ずった反論に、クランプソンは首を横に振った。

「……憎くないといえば、嘘になる。わざとでないからといって、すんなり気持ちの整理がつけられるほど、感情というものは便利なものではありません。決着をつけてしまいたい、そういう衝動が胸を突いて出そうになることは度々ありました。今、私の指先が引き金に掛からなかった事を、必然だと言い切れないのが正直なところです。それでも、事故の直後、告解の丘を訪れるあなたの姿を陰から見かけてから、これまで一度も引き金を引かなかった事もまた、偶然ではありません」

 クランプソンは安らいだ物腰で言いながら、うなだれているアルヴァンの様子を伺った。

「……私は、復讐が悪だとは思いません。それは神が許しているからではなく、親の心情としての話です。けれど、毎日届く花束を娘のベッドに届けると、嬉しそうな顔をするんですよ。あなたの強い気持ちは、きっとあの子を動かす力がある。だから、娘が再びその目に光を宿すまで、祈り続けて欲しいのです。それが、娘にとって一番よいことなのだと。ただ、それだけの話です」

言い終えると、これまでの逡巡の物々しさを思わせる深い思いを秘めた瞳を覗かせた。

 その瞳に答えるように、アルヴァンは頷いた。けれど、それはあくまでクランプソンの思いを受け取ったという意味にすぎない。彼の目には依然として深い霧が立ちこめていた。

「ならば、ブレンドンの家族は……。母モアナは、ブレンドンを深く愛していた」

「……確かに。ブレンドンが物心つくまでに父は亡くなり、母モアナは一手で家族を養っていました。ブレンドンはモアナをよく支えており、彼はモアナの自慢の息子でした。いずれ、シェリーもモアナの支えになるはずでした。あの日から、モアナは毎日泣いていました。ですが、私は彼女が恨み言を口にしたのを見たことがありません。むしろ、未だにあなたに礼らしいことを出来ずにいることを、申し訳ないとさえ言っていました」

「……礼?」

「ブレンドンには、エリスという4歳下の妹がいますが、あなたに命を救われたらしいのです。これは、ブレンドンの死後にモアナから聞かされた話ですが。10年ほど前、当時5歳のエリスが高熱による発作を起こしたのです。近くに病院は無く、救急車も遠くへ出払っていました。そして、あてもなくエリスを抱えて彷徨っていた時、あなたのタクシーが通りかかりました。アルヴァンのタクシーには、既に客がいましたが、深く詫びを入れて降りてもらい、エリスを乗せて病院へ。事が落着した後、モアナがそのときの客と偶然出会ったらしいのですが、客は、あれこそがタクシーの使命だと感心していたといいます。私も同感です。ですが、私はモアナにその話を聞かされた後も、未練がましくあなたを殺すべき理由がないか尋ね歩いてみたものの、ついぞ見つけることはできませんでした。それどころか、帰る頃にはいつもあなたを生かすべき理由が集まっている。そして、私は一つの結論に至りました。あなたはもう、生きるべきなのだと」

「……」

 アルヴァンは記憶を思い起こし、あの少女が無事だったのだと知って安堵した。同時に、クランプソンの勧めに応じられない自分の心にも気付いた。

「さあ、あなたの贖罪は終わりました。告解の刻が終わる前に、救いの泉を飲んでください」

 クランプソンが、真っ赤に染まる芝のなだらかな頂に佇む白き奇蹟を手で示した。

 二人の深い息の音が響く。いつ終わりの音が鳴ってもおかしくない時刻にさしかかっていた。

 しばらく俯いていたアルヴァンは、決意を固めて顔を上げた。

「……申し訳ありません。身に余るお言葉ですが、まだ私の魂は救いには及びません」

「なぜですか?」

 クランプソンの困ったような問いに、アルヴァンは無言で首を振った。そして、ゆっくりと丘を降り始めた。クランプソンは彼に思いとどまるよう説得しようとして、思わず息を呑んだ。

 男の目に、光がなかった。求めている救いは泉などにはない、と静かに告げていた。

 

――

 

 ……クランプソンは去りゆく背中を見送りながら、悔しさに震えて指の爪が食い込むほど拳を握りしめた。そして、彼の言っていた「まだ」という言葉を思い出して、口を紡ぎ空を仰いだ。

「どうして、そんなに自分を追い詰めようとするのですか? どうして自分の価値に気付かず、徒に闇の淵へ落ちようとするのですか?」

 力なき問いかけは、終わりの鐘の音にかき消された。アルヴァンの背中は、麓の森の影に消えていった。

 

――

 

 それからも、アルヴァンは変わらず告解の丘を訪れ、彼女の家の軒先に花束を置き続けた。

 思えば、ずっと花と向き合っている。花を見ただけで名前が言えるほどに詳しくなっていた。

 だけど、花が枯れる事に慣れることはなかった。花盛りの乙女の、大切な時を奪い続けていると痛感するからだ。毎日、花を抱きながら、その儚さに胸を痛めた。

 お見舞いなら枯れないものがよいと、花屋の店主に言われたこともあったが、可憐な大輪を広げる瀟洒な花々を選んだ。

 だから、いつも咲き頃の花で彼女の部屋が満たされるように、毎日花を贈りつづけた。けれど、そのうち、花を手に入れる費用を捻出することが難しくなり、やがて彼は種を買って、自分で育てるようになった。

 そして、花とはいかにデリケートなものかを思い知り、それでも忘れられず愛される普遍的な力に、興奮に似た感情を抱いた。シェリーの目覚めを願う熱意が、そのまま花を育てることに注がれた。それはまさにすさまじい執念で、独学でありながら彼の育てた 花は大きな花弁をつけ、通りがかった人から、是非売って欲しい、と声を掛けられるほどだった。

 

 彼は花の手入れをしながら、時々激しい疼きを覚えた。

 あの可憐で初々しい笑顔が、再び咲くことはないのだろうか。もし仮に彼女が目を覚ましたとして、それが私への憎悪によって失われてしまうのだろうか。アルヴァンはその光景を想像して、心臓をかきむしられるような思いがした。

 

 そうして事故から5年の歳月が流れ、雪深い1月の暮れ。

 この近く植えた花があまり上手に咲かなかったため、やむを得ず自室で育てていたポインセチアを手にシェリーの家へ向かった。レンガ作りの家の軒先に鉢を置いて帰ろうとしたとき、ガチャリとドアが開く音がした。

「待ってください」

「……クランプソン」

「中へどうぞ。コーヒーでも炒れましょう」

 クランプソンが家の中を見せて、手招いた。

「いえ、そういうわけには」

「……彼女に、シェリーに会ってやってください」

 突然の提案に、アルヴァンは戸惑った。

 同時に、雪がちらりと降りはじめた。それはまるでアルヴァンの心を表しているかのように、音も無く、静かに、肩口を白く濡らし続けた。

「いつまでもそうしていては、風邪をひきますよ」

 クランプソンが促すと、アルヴァンは小さく頷いた。

「……シェリーに、会わせてください」

 

 二人は二階へあがった。小さな軋みを立てて、階段を上っていく。家に流れる空気はどことなく寂しげだった。

「評判は伺っています。この花もあなたが育てられたのですか?」

「人に評価されるような事は何もしていません。それと、これは花ではありませんよ。口惜しいですが、手入れがうまくいかなかったので」

「花は草木より難しいでしょう」

「それより難しいものを育てたことがないので、よくはわかりませんが。彼女たちが繊細なのは確かです」

 話しているうちに2人は二階に着き、シェリーと書かれたプレートの掛かった部屋の前へ向かった。

 クランプソンは柔らかくノックした。

「入るよ」そう言ってドアを開けると、たちまち花の匂いが押し寄せてきた。

 中へ入ると、白いベッドを取り囲むようにアルヴァンの花々が飾られており、その中心には、現実味がないほど美しい女がいた。

 白くか弱い少女は、まるで人形のようだった。アルヴァンはその場に崩れ落ちそうになった。

「私はコーヒーを炒れてきます。彼女に話しかけてあげてください」

 クランプソンはそう言い残して、部屋を出て行った。

 アルヴァンはぎこちない足取りで、彼女のほうへゆっくりと近づいていった。

 どことなく微笑んでいるようにもみえる。その微睡みの中で、あなたは一体何を見ているのか。いつまでそうしているのか。

 世界から忘れられていても、彼女の大切な命は日々散らされている。彼女に、掛ける言葉……。

 何を話せばよいのだろう。謝るべきなのか、目覚めを願えばよいのか。

 考えて、考えて、やはり、彼女に掛けるべき言葉など無いと思った。ただ、この美しい乙女が、愛した人の仇を討ち宿願を果たすためならば、果たすためならば。

 アルヴァンは別れの言葉も掛けず、クランプソンの制止も振り切って家を飛び出した。

 しばらく走っていたが、やがて崩れ落ちるように地面に転んだ。雪道でうずくまり、声をあげて泣いた。恋というには、あまりにも残酷な痛みだった。

 彼女に、自分が生まれてきた意味を否定されて死ねたら、間違いなく此の罪は消える。そう確信できる位、彼女は美しく、その笑顔にいつまでも触れていたいとさえ思うほど、可憐だった。

 

 

――

 

 

「だから、私は今もこうして、告解の丘を訪れている。ここに来れば、いつか私の希望が叶うと信じられるから」

「それは、要するに」

 不快さをにじませた表情で言葉を切ってから、そしてアルヴァンの方へ向き直った。

「シェリーに復讐をさせるって事か」

「私は、そのためだけに命を長引かせてきた。……死ぬなら、彼女の手で死にたいんだ。それが、私が私を許せる唯一の手段だ」

「冗談だろ?」

「冗談ではない」

「確かに、タチが悪すぎて笑えないな」

 アルヴァンは鼻で笑った。

「なんだと!」

 激昂するアルヴァンに対し、鋭い目でにらみ返した。

「あんたは、目が覚めたばかりの新婦に引き金を引かせる気か。そんなひどい悲劇、聞いたことないぜ」

「……うるさい」

「それはさ、もうただのエゴだ」

 アルヴァンはフリードの話を止めるように、肩に掴みかかった。

「黙れと言っている! 君に誰かの未来を奪った欠落感がわかるか? この魂は、彼女のために取ってある。彼女に裁いてもらう為に生きてきた。せめて、願う形で裁かれたいというのは、いけない事なのか?」

 アルヴァンの問いに、フリードは切なそうに小さく頷いた。

「確かに、純粋な対価でいうなら、命には命を支払うしかないし、それが一番確実だ。第一、俺にはおっちゃんの抱えてきた苦しみは分からない。ごめんよ。だけど、それでも俺は、どうしてもここで黙ってはいられない」

 そして、アルヴァンの目を見つめた。

「あんたは、シェリーの事をどう考えてるんだ? 彼女の手が返り血で染まってる姿を想像してみたことはあるか?」

「……それは、当然の報復を果たしたゆえの事だ」

「本当にそう思ってるのか? 丘に何度も来たあんたなら、もう分かってるはずだろ」

「何を……」

 言いかけて、アルヴァンは口を閉ざして、空を仰いだ。

 確かに、本当はもう分かっていた。

 人はそう簡単に、人の命を背負いきれない。

 復讐を遂げた断罪者の顔は、抱えていたものがごっそりと落ちた、そんな表情をしていた。

 人が本来持っているものを抱えたままでは、人の死は重すぎる。だから、人は持っていた心を削ぎ落として、荷を背負う隙を作らなくていけなかったのだ。

 どれだけ殺したいと願っていたとしても、奪った命の影は残り続ける。その手を復讐に染めてしまえば、ブレンドンに抱えられていた時のシャイな微笑みは、二度と戻らない。

「とはいえ、私にできる事など、残されているのだろうか?」

「もちろん。俺みたいなお気楽な奴だって、それなりに使い道はあるだろうさ」

 フリードは優しく微笑んだ。

 アルヴァンは、物腰に似合わず繊細な彼の、気を咎めを察した。

「ありがとう。……それじゃ、今度は君の話を聞かせてもらおうかな」

「えっ」

「私も、君の話を聞きたいんだ」

「おっちゃん……」

 フリードは優しく目を閉じ、「ありがとう」と言った。

 青い空を遠くに望みながら、その雲の流れと同じように、ゆっくりと語りはじめた。

 

――

 

 告解の丘からしばらく北に向かった先に位置する、ユーリ地方。その山間の村、ケイネルヴェン。人の動きが皆無の閉鎖的な村で、フリードと親友は生まれ育った。

 

 フリード・ローカス。卓越した身体能力を持っている事以外、特技はない。ただ、人の気持ちを裏切れない真っ直ぐな心を持っていた。両親ともに不埒な遊び人で、方々から金を借りて飲み歩いている。そのため、幼少からずっと周囲の冷たい目に晒されながら生きてきた。

 ジェームス・オルベリッチ。学業優秀で、紳士的な言動に加え容姿も美しかった。我が強く、意思を押し通すところがあったが、強い説得力を持ち、常に中心的存在であることが多かった。けれど、その存在感ゆえに嫉妬や敬遠する者も多く、心を許せる友はなかった。過ちを悔いて改める柔軟さも備えているが、それは負けず嫌いが転じたものであり、誰にも貸しは作らないという信念を持っていた。

 最後は、リグレット・ランペードという少女。上品で礼儀正しい乙女。栗色の髪を肩辺りで揃えており、品のある大人びた顔立ちをしていた。外見とは裏腹に周りの顔色を気にしすぎたり、感情的になりやすい脆さもあった。けれど彼女は、手を触れた相手の怒りや憎しみを消してしまう魔法を持っていた。ジェームスに対し、崇敬に近い愛情を抱いている。

 ジェームスとリグレットは幼なじみで、フリードと出会う前には既に恋仲にあった。

 そして、3人がはじめて出会ったのは、全員が14歳の時だ。

 

 その日、いつものようにフリードがいじめられていた。同世代の複数人に囲まれ、石を投げられていた。フリードは彼らに立ち向かえる腕っ節を備えていたが、すぐに暴力で解決しようとは思わなかった。彼らに囲まれたら、するりとかわして網模様の路地へと逃げ込む。そうやって煙のように姿をくらませるのが日常になっていた。

 しかし、その日フリードは不覚にも塀から塀へと飛び移ろうとした際に足を滑らせ、くじいてしまった。物音を聞きつけたいじめっ子達が、フリードを再び取り囲んだ。

「鬼ごっこはおしまいにしようぜ」

 けれど、フリードは焦るような態度は見せず、面倒くさそうに溜め息を吐いた。

 少年達が一斉に飛びかかり、フリードを羽交い締めにした。動けなくなったフリードの頬を何度も殴りつけた。

 そのとき、ちょうど買い物をしていたジェームスとリグレットが、その場に居合わせた。それが、フリードとの初めての出会いだった。

 リグレットは思わず小さな悲鳴をあげた。ジェームスはリグレットを後ろに残して、表情一つ変えずに彼らに近づいていった。

 そして、フリードの腕を掴んだ。

「行こう」

 彼がそう言うと、フリードも周りの者も面食らった。が、やがて少年達は我に返り、それを阻んだ。

「ちょっと待てよ」

 けれど、少年の一人がそれを制した。

「なあ、こいつジェームスだろ。顔広いし、あんま目つけられない方がいいって」

「何言ってんだよ。俺はこういうエリート面した奴が一番ムカつくんだよ!」

 少年の一人がジェームスの服を掴んだ。ジェームズはそれを払いのけると、穏やかな所作で振り返った。直後、音もなく少年が腹を押さえて倒れ込んだ。フリードは全てを察して、手近の少年を掴んで投げ飛ばした。二人は少年達を圧倒し、恐れをなした輩は大慌てで逃げ帰った。

 

 少年が逃げ去った後、フリードは尻の埃を払いながら立ち上がった。

「誰か知らないけど、ありがとうな」

 すると、ジェームスは埃を払いながら、不愉快そうに振り返った。

「どうして、やりあわなかったんだ? 僕が来なくてもなんとか出来ていたように見えたが」

 追い返すときでさえ、彼らに痛手を負わせないように投げ飛ばすにとどめていた。

「……嫌なんだよ。いつも殴って終わらせるってのは」

「自分を守るために、相手を殴るのは悪いことじゃない。世の中はそんなにフェアじゃないだろう」

 そして思い出したように振り返って、後ろの物陰にいる少女を呼び寄せた。

「リグレット。彼の怪我の手当を」

「はい」

 命令されることが当たり前であるような自然なやりとりだった。それは友人同士というより、主人とメイドの主従関係を思わせた。

「べ、別に大したことないから」

 慌てて手を振って断ろうとするが、その手をふわりと握られると、そのまま黙りこくってしまった。

 慣れた手つきで患部に薬が塗られていく。リグレットのしっとりした指先が首筋に触れるたび、電気が走るような心地がして落ち着かなかった。

「痛くないですか?」

 挙動不審の彼を慮ってリグレットが尋ねるが、ますますぎこちなくなってしまう。

 手当が終わり、ようやく緊張から解放されると、絆創膏をさすりながらジェームスに答えた。

「世の中がどうとか難しいことはわからない。ただ、人を殴るのが嫌いなだけなんだ」

 ジェームスが腑に落ちない様子で顔を見やると、フリードは自分の境遇をさしたる障害とも思わぬという風に、眩しい笑顔を見せた。

「二人ともありがとう。それじゃ」

 首筋にリグレットの熱がまだ残っており、どうにも落ち着かないので早々と立ち去ろうとしたところで、ジェームスが思わず呼び止めた。

「君。ラグビーに興味はないか」

 立ち止まり振り返ったフリードに向けて、加えて言った。

「僕の名は、ジェームス・オルベリッチだ」

 フリードはしっかりと立ち止まり、振り返った。

「いいのか。俺はフリード。フリード・ローカスだぞ」

「……ああ、知っている」

 この辺りでローカスという名を聞いて、顔をしかめぬ者はいない。ジェームスやリグレットの親の会話にも、幾度も出てきた。もちろん良い話ではない。

 彼ほど忌み嫌われている少年は、他にはいない。ジェームスは今まで彼と会ったことはなかったが、おそらく彼がそうなのだろうとは勘づいていた。

 だからこそ、その、世界を恨まぬ屈託のない笑顔に興味を惹かれたのだ。彼なら、友達になれるかもしれない。

「一緒に、ラグビーをやろう」

 再び、問いかけた。フリードは、参ったという風に首を振り、腰に手をやって笑った。

「めちゃくちゃ面白そうだな」

 二人はがっしりと手を取り合った。

 

 ほどなくして、彼らはユーリ地方の有するラグビー部で再会した。

 フリードの入部については反対する者も多かった。だが、ジェームスが「彼は、僕の友達だ」と告げただけで、皆はそれ以上反論しなかった。

 内面にくすぶる不満も、リグレットがマネージャーとして入部した事により、ほぼ立ち消えになった。

 フリードのことを認められずにいた最後の者も、フリードの身体能力の高さと無垢な人柄に惹かれ、次第に打ち解けていった。

 

 フリードはジェームスと出会い、彼のストイックな責任感と説得力に憧れを持った。

 もう駄目だ、と皆がぼやいたとき、必ず活を入れ、冷静な判断で皆を危機から脱却させた。それは、背負った者しか至れない才覚だった。

 ジェームスも、フリードの誰からも好かれる柔和さと弱さに目敏い繊細さを認めていた。

 思いつめて屋上にいた少女を連れて、クラスになじめるようにさりげなく気を配った。それは、傷ついた者しか分からない感覚だった。

 2人は互いの存在を感じながら、切磋琢磨していった。

 

 

 出会ってから3ヶ月が経った。2人より僅かに早く生まれたリグレットが14歳を過ぎたばかりの秋の暮れ。

 ジェームスが家の都合で試合を欠場し、フリードとリグレットが2人で夕陽の下を歩いていた。

「ありがとう。今日も、この擦り傷の手当してくれて」

「もちろん。フリードは大切な友達ですもの」

 その後、しばらく静かに小道を歩いていたが、ふとリグレットがフリードを手招いて顔を近づけた。

「あのね、これはジェームスの家のメイドさんから聞いた話なんですけど。ジェームスがフリードをラグビー部に入部させるって言った時、お父さんにすごく反対されたらしいの。だけど、これは僕が交わした大事な約束だから、って押し通したって」

耳元で囁くリグレットはとても嬉しそうで、話している間ずっと興奮気味だった。リグレットは、ジェームスにとってそれだけフリードが大切なんだと伝えようとしたつもりだったが、フリードには、彼女がジェームスの事を自慢したがっているのが分かった。

 嬉しいような、悲しいような複雑な気持ちが膨らんだ。

 風が吹いて、彼女の甘い匂いが掠めた。秋風は、汗をかいた少年の肌には少し冷たかった。

 

――

 

 フリードのぼろい家に、久しぶりに父レイノルドと母シャンディが両方揃っていた。

「フリード。金は持っていないか」

 それ以外に言うことはないのか、と呆れたが、それでも二人のことは嫌いにはなれなかった。

「今はないけど、月末になれば給料が出る」

「うわあ、すごいぃ。いつから働くようになったの?」

 潤んだ目でシャンディが言う。

「今はないのか。借りられないのか」とレイノルドが言う。

「うるさいな。誰が俺みたいなガキに金を貸すんだよ」

「……月末に戻ってくる」

 レイノルドはそう言うと、シャンディに口づけして家を出た。

「ったく、用はそれだけかよ。もう」

 シャンディの方は、フリードに適当な食事を作らせた後、ふらりと麓町へと消えた。

 2人とも、適当に帰ってきて、汚れた服を脱ぎ捨てて、有り金を掴んで放蕩の旅に出る、の繰り返しだ。シャンディはレイノルドほどの長旅はあまりせず、近場で留まり、探そうと思えば探せる程度の酒場を転々としている。

シャンディは女優であると疑われるほどの美人であり、ベッドの上で男をたぶらかす術も身につけていた。一夜過ごした店主は、その日の飲み代を帳消しにするどころか、金を持たせて帰らせた。囲む者あれば、住む場所にも不自由しない。シャンディへの悪評のほとんどは、夫を持つ女達の、彼女の美貌に対する妬みと、夫を寝取られた事への怒りによるものだ。

 レイノルドの方がどのように金を作っているのかフリードには分からなかったが、おそらくシャンディよりもよっぽど薄汚いやり口に違いないと思った。

 そもそも、この2人がいつまでも夫婦として、曲がりなりにも同じ家に帰ってくるということが、フリードには理解できなかった。もはや夫婦の体を成していないくせに、どうして時々は顔を見たがるのだろう。

「それが、愛なのか」

 リグレットへのほろ苦い気持ちを思い出して、溜め息を吐いた。

 

――

 

 リグレットは幼い頃から、定期的に不安定な情緒になることがあり、小さく身を折りたたんで木陰でよく泣いていた。

 リグレットの家は小高い場所にあり、フリードは坂道を駆け上がってくる。そして、彼女をいち早く見つけては、近くで摘んできた花をプレゼントした。

「どうして私が泣いてるってわかったの?」

 何も答えずにニコニコと笑っているフリードを見ていると、リグレットも思わず頬が緩んだ。

「ジェームスには嫌われたくないから、こんな顔を見せたくない」と、彼女は言った。

 その言葉は、フリードの胸をチクリと刺したが、彼女の支えになれることが嬉しかった。

 彼女にとって、見栄を張らずに話せるフリードといる時間は、とても居心地がよかった。

 そして、その立場を利用している事に対して、お互いに罪悪感を覚えていた。

 

――

 

 やがて、3人は16歳を迎え、同じ高校への入学が決まった。

 ラグビー部に入れば同じチームで続けられるし、なにより一緒にいたかった。フリードは柄にも無く勉学に励み、かろうじて同じ高校の切符を手に入れた。

「正直言って、君が合格するとは思わなかったよ」

 ジェームスの率直な感想に、フリードはやりきったような笑みを浮かべていた。

「これからも、みんな一緒ですね」

 リグレットが二人の間に入り、そっと手を握った。初夏の昼下がり、プラタナスの木の下で、青い笑みを浮かべて見つめ合った。

 けれど、やがてジェームスがたしなめるように息を吐いた。

「あっ、ごめんなさい」

 リグレットは、自分がいつまでもフリードの手を握っている事を咎められていると気づき、手を離した。謝って俯く彼女の顔は、だけどどこか満足げだった。

 リグレットは、嫉妬するジェームスを見るのが好きなのだろう、とフリードは思った。時々そうして、ジェームスの顔色を窺っているところを目にしてきた。好きな人の所作は嫌でも目に付いてしまう。それがフリードの青い心をいつも苦しめた。

 しばらく静かな散歩道を歩いた。

「私ね。こうして3人で散歩している時間が、好きです」

 踊るようにその場を回ると、出会った頃より少し伸ばした栗色の髪が、木陰のコントラストに淡く浮かび上がった。

 ジェームスは照れくさそうに顔を背けた。そして、照れを隠すように、「高校でもよろしく」と、フリードの方に手を伸ばした。フリードは恋慕の揺らぎを日だまりに隠した。

「ああ、もちろん」

 そこで、広い芝生を見つけたリグレットが立ち止まった。

「サンドウィッチ、この辺りでいただきましょうか」

 2人はそれに賛成し、芝生に腰を下ろした。

 フリードはサンドウィッチを食べて腹鼓を打ちながら、芝生に寝そべった。

 これまでの事、これからの事をぼんやり考えていた。

 みんなの力がなければ、ここまで来ることは出来なかった。テストまでの間、リグレットがしょっちゅう食事を用意してくれた。ジェームスも、入学の費用を捻出するために、給金の高いホテルでの仕事を紹介してくれた。

 相変わらず親父たちはダメダメだけど、高校を卒業したら働いて、村の人に少しずつ返済していくつもりだ。

 そうやって、ちょっとずつでもいいから、ローカスの汚名を晴らしていこう。

 

――

 

 家に着くと、フリードの母シャンディが相変わらず飲んだくれてベッドに突っ伏している。やれやれと苦笑いしながらテーブルを見ると、豪華そうな牛肉がどんと置いてあった。

「ステーキ作れ」

 それだけが聞こえた。

 それから30分後、「フリードォ、まだあ?」と催促する声が聞こえて、急いで仕上げに入る。

「出来たぞ」

 慣れないステーキをなんとか焼き終え、しゃがれ声で呼んでいる母の元へ向かった。

「親父は?」

「しらんわ」

「酒くさいな、もう」

 フリードは溜め息を吐きながら、体を支えてテーブルに連れて行く。

 2人は久々に豪華な夕食についた。

「いやはやぁ、まさかこんないい息子に育つとはねえー」

 にやにやと酔いが覚めぬ表情でぼやく母に、適当に相づちを打つ。

「で、どこから肉と酒出てきたんだよ」

「ははっ、ビビった? ビビッたえしょ? 母さんだって、まだ終わってないわけよお。ちゃあんと仕事やってるから」

「嘘!?」

「そんなつまらない嘘つくわけないえしょ。レストランのウェイター。ちょっぴり強引に店長を口説いたらわけなし、ヒヒヒ。だから、これはいわゆるお祝い、みたいな、ヒック」

 そう言うと、引きつった笑い声をあげながらテーブルに顔から倒れた。

「……まだ半分残ってるし」

 ジェームズは呆れ顔でベッドに運びながら、ふと嬉しくなって笑みがこぼれた。

 それからシャンディは一日も休まず、レストランで働き続けた。

 しかし、一ヶ月を過ぎた辺りで目眩や激しい頭痛を訴えるようになり、ある日、ついに仕事場で倒れた。

 事態を聞きつけて病院に駆けつけたフリードに向かって、シャンディは困ったような顔で笑いかけた。

「ごめんねえ」

 それが、今日の仕事に穴を開けた事に対するものでないことは、フリードには分かった。

 それからまもなく、シャンディは亡くなった。

 埋葬の際、ジェームスとリグレット以外、見送りに来た村人は一人もなかった。

 フリードは、それが当然の報いだと思うことが、悔しかった。

 

 それから一ヶ月後、父のレイノルドが無精髭を蓄えて、ぶらりと家に帰ってきた。

「……シャンディ、死んだらしいな」

 フリードは悔しさをこらえながら、無言の肯定で返した。

「アイツが死ぬ前に働いてたってのは本当か?」

「……ああ」

「はあ。柄にもないことは、するもんじゃないな」

 そのとき、フリードは糸が切れたようにレイノルドに飛びかかり、顔面を殴りつけた。

「二度と姿を見せるな!」

 レイノルドは、ぼおっと濁った目でフリードを見つめていたが、やがておもむろに立ち上がると、シャンディの飲みかけのボトルを一つ掴んで、家を出た。

 その後、レイノルドが帰ってくることはなかった。

 

 ……シャンディの死後一年が過ぎ、高校2年の春。それぞれが進路について思い巡らせる時期になった。

「君達は、高校を出たらどうする気だ?」

 ジェームスの問いに、二人は俯いたり唸ったりした。ジェームスはコホン、と咳払いをして、2人の方を見やった。

「僕は大学に行きながら、設計の仕事を請け負う。それで信頼を得て、卒業と同時に独立するつもりだ。親の力に頼らずに起業しないと、後々口を挟まれそうだからな」

「なんかすごいな」

 フリードは言いながら、リグレットの羨望の表情から目をそらした。

「応援しています」

「何を言っている。会社が出来たら、そこで働いてもらうから覚悟しておくことだ。フリード、君もだ」

 夢の話を熱く語っていることが照れくさいのか、顔を赤らめている。

「力仕事でよければ、手伝えるよ」

 フリードはへらへらと返した。だけど、あまり嬉しそうではなかった。

「だけど、まずはシルヴェスペル大学に受かる事が先だがな」

「えっ、嘘だろ?」

「ここまで来たら、僕達に付き合えよ」

 リグレットの顔を見たら、小さく頷いていた。彼女も同じ所を志望しているのだろう。

「やれるだけ、やってみるよ」

 

 

――

 

 フリードは、卒業までの間、受験の勉強と並行して、設計についての勉強をはじめることにした。

 どうせなら、ジェームスと同じ立場で、同じ理想を追いかけたいと思った。

 ジェームスは、掛け替えのない親友だ。

 ジェームスを慕うリグレットとの恋も、支えてやりなければ、と思っている。それは間違いなく本心だ。2人の幸せは、自分にとっての幸せだ。

 だけど、それでも不意にやりきれない思いになることがある。喧嘩して相談にやってきたリグレットを、押し倒してしまいたくなる。

「……はあ。俺、親友失格だな」

 フリードは頭をぶんぶんと振って、公園の芝生に倒れ込んだ。

 初夏の日差しを吸い込んだ芝は、生きる喜びを理屈じゃなく感じさせてくれる。やってきた小鳥が、目の前の枝に止まっている。それが飛び立つまで、じっと見守っていた。

 どちらがジェームスで、どちらがリグレットなのか。そんなことをふと思っていた。

 この頃は、フリードは二人の関係に気付いていた。

 それまでずっと、ジェームスの高圧的な態度にリグレットが萎縮していると思い、気に掛けていた。

 だけど、そうじゃない。

 リグレットは、あえて彼の所有物になっている。主従関係は、彼女自身が望んでいることだ。そう思うと同時に、自分にはジェームスと同じような振る舞いは出来ない事にきづいて、悲しくなった。

 

――

 

「フリード。私のこと、好きなの?」

 高校2年の冬。

 誰も居なくなった下校前の廊下で、隣にいたリグレットがぽつりと尋ねた。夕陽が照らす顔は、あどけなくフリードを見つめていた。

 まるで、どこかでそういう噂を聞いた。そんなニュアンスだった。もちろんフリード自身が誰かに話したことなどない。

 まったく言葉がでてこなかった。

 リグレットはなおも、彼の目をじっと見つめていた。

 フリードはずっと黙っていたが、やがて眠っていた感情がくすぶる音が聞こえた。が、すぐに彼女のほうから慌てて首を振った。

「ごめんなさい。今のは忘れて」

 彼女はそう言って、走って逃げた。

 何を謝ったのか。

 何を確かめたかったのか。

 そうだと言って欲しかったのか。違うと言って欲しかったのか。

 フリードは様々な疑問を胸にしまい込んだまま、走り去る背中を見送った。

 

――

 

 リグレットは、泣き虫だ。

 それを知っているのはフリードだけだ。

 特に高校に入った辺りから、リグレットの直情的な部分が顕著になっていった。

 彼女にとって、ジェームスへの従順が矜持であり、ジェームスの求める上品で貞潔な雰囲気を守ることに、陶酔さえ覚えていた。それでも彼女は普通の少女であり、好きな人には自分の核心を掴んでほしいという欲求もある。

 そんな矛盾した衝動的な話にも、フリードは優しく耳を傾けた。彼には人の考えを否定しない大らかさがあり、2人の一番の理解者だった。

 フリードは彼女の事が好きだったが、それでもリグレットの泣き顔を見ることが耐えられなかったし、ジェームスのことも大切に思っていた。

 それで、ジェームスにそれとなくリグレットの気持ちに気付かせるように促した。そうして、2人の恋は安寧に続いた。

 

――

 

 今より少し前、シャンディの死後半年位のある夏の日の話。フリードは家に誰も居ないことに不安を覚えて、リグレットを連れ出した。

 長く続いた夏期休暇も残り一週間を切っていた。リグレットを連れて遠くの町まで目的もなく歩き続けた。

 彼女は一度も理由を尋ねることはなかった。

 フリードは、立ち止まれば泣き出してしまいそうで、闇雲にぬくもりを求めてしまいそうで、落ち着かなかった。

 そのとき、ふと彼女の手がフリードの手を握りしめた。それから帰るまで、互いが話すことはなかった。

 ただ、そのぬくもりだけが、ずっと彼の傍にいた。

 

――

 

 高校を卒業後、難関と思われた大学にも無事合格し、再び3人の学園生活がはじまった。

 部活はやっぱりラグビーだ。それなりに強いチームで、張りのある戦いが出来そうだ、と2人で語り合った。

 フリードは、今の関係に不満はなかった。二人の恋を支えている自分も、嫌いじゃない。それぞれが充実した気持ちを分かち合った。

 

 入学してまもなく、ジェームスは設計の依頼を受ける手はずを整えた。フリードも助手として、彼のサポートをするようになった。

 だが、ジェームスがこなした仕事はなかなか認められず、彼の計画は思惑より遙かに難航した。

 そんなとき、フリードが軽い気持ちで出したデザインがクライアントに評価され、話が一気に進んだ。

「いつの間に、あんなものを書けるようになってたんだ」

 ラグビーの試合の後、ジェームスが尋ねた。タオルで顔を拭ったフリードが、笑顔で答えた。

「俺だって、後ろをついていくだけじゃ駄目だって思ったのさ」

 すると、ジェームスが鼻で笑った。

「そういう卑屈な発言は不愉快だ。君は数少ない僕の友なんだぞ。もっと胸を張れ」

「あ、ああ。わかったよ」

 ジェームスは落ち着きなくその場を去った。ジェームスにとって、フリードの無欲な精神は、ときに尊く、憎くもあった。

 

 その頃から、ジェームスのリグレットへの扱いが少しずつ変わり始めた。

 彼女を執拗に何度も家に呼びつけた。彼女が自分のものであることを実感したかった。たとえ深夜でも早朝でも、会いたいといえば駆けつけてくる彼女の献身が、彼の心の拠り所だった。

 また、大丈夫か、辛いことはないか、としきりに尋ねるようになった。矛盾した言動が弱さからくる依存であると気付き、リグレットはひどく悲しんだ。

 彼が弱いことが悲しいのではない。彼は弱さを認めながら生きていく人ではないと理解していたのだ。ただ、気高く、孤高でなければいけない。それが、少なくともリグレットの求めるジェームスの姿だった。

 そんな中、ジェームスはリグレットの悲しそうな顔を見て、さらにひどい不安に駆られた。

 唐突に彼女の部屋に押しかけ、泣きつくようにリグレットを抱き寄せた。

 けれど、リグレットが泣き顔で拒んだ。あり得ないことだった。

 そのとき、ジェームスは完全に心のバランスを失ってしまった。

「なんでだ! 君は僕のものじゃないか!」

 彼女の切実な思いは、狼狽えていた彼の心には届かなかった。ジェームスは叫びながら家を飛び出した。

 

 フリードは、二人の関係に深い歪みが生まれている事に気付いた。

 リグレットが用意した昼食に些細なことで注文をつけたり、リグレットが出かけた後で場所を聞き出したり、彼女の全てを支配しようとした。

 フリードはそれが極めて不愉快だったが、二人の関係性が自分の理解の及びつかないバランスで成り立っている事を知っていたから、直接的な介入は避けることにしていた。

 その頃から、リグレットがフリードに相談する機会も増えたが、二人だけで一緒にいる事も気付かれる訳にいかず、あたかも密会のごとく屋根裏で相談に乗るような日々が続いた。

 

 ラグビーの試合が終わった後、彼らは休憩所で二人きりになった。

「フリード。ようやく僕の設計に声が掛かった。プレゼンで掴み取ってきたんだ」

「昔から、演説とか上手かったよな」

「まあ、そういうわけで、色々と忙しくなるぞ」

 そう言って、ドリンクをフリードに投げた。

「ああ。ただ、リグレットの事は、ちゃんと見てあげてるのか?」

 途端、ジェームスの目つきが変わった。不敵にフリードを見返して、ドリンクを飲み干した。

「君には関係ない」

 空き瓶を乱暴にゴミ箱に投げ捨てて、出て行った。

 彼はこれまで、リグレットのことを他人に口出しされることを何より嫌がった。分かっていても、つい口に出てしまう。彼女を大切にしてやってほしい。余計なお世話だと思っても、わかったよ、という言葉が聞きたかった。

 そして、彼らの歯車は狂っていった。

 大学での昼食後、ジェームスが突然リグレットの肩を掴んだ。

「おい、リグレット。さっきの男がお前に笑顔を向けていたぞ。アイツは何者だ」

「この前、学校に財布を落としていたから、家に届けておいたんです」

「そんなものは、交番に匿名で届けろ。変な気を起こされたらどうする気だ」

 そこにフリードが慌てて仲裁に入った。

「ちょっと待てよ。彼女は今までだってそうやってみんなを支えてくれた。そこが良いところなんだろ」

「フリード、お前は黙ってろ」

「ごめんなさい、私が気をつけるから」

「それが、『誰にでも優しくしてる』っていうのが、まだ分からないのか!」

 

 その騒動の頃から、ジェームスが次第に大学を休みがちになった。せっかく手にした仕事も、ほとんど手をつけられずにいる。

 ジェームスが酒に溺れていると聞きつけたフリードは、いたたまれなくなった。

 大学で会ったリグレットは激しく落ち込んだ様子で、フリードに話しかけた。

「ねえ、フリード。いつの時か、私には触れた人を元気にする力があるって言ってくれたの、覚えてる? でも、もう私の魔法は効かなくなったみたいです」

 フリードはリグレットの瞳に涙が溢れるのを見て、無力感に打ちひしがれた。どうして、あの男なのか。どうして、自分ではないのか。行き場のない感情が心をかき乱した。

 

 その数日後、ついにリグレットまでが学校に来なくなった。

 気になってアパートを訪ねたが、彼女がどうにも顔を出さないので、強引にドアを引いて中に入った。すると、彼女の顔に痣が出来ていることに気付いた。

 フリードはそれを数秒間、じっと凝視した。

 やがて、その表情を見たリグレットが、はっと青ざめて、フリードが行かないようにと強くしがみついた。その反応が、犯人がジェームスであると物語っていた。本能的に、ジェームスを庇おうとしたのだ。

 その愛おしさに、胸が熱く焦がされるのを感じた。

 だが、フリードはあくまで冷静だった。誰が何と言おうと自分の決意が変わらないことを理解していた。

「大丈夫だよ。ちょっと殴ってくるだけだから。アイツ、もやしみたいな顔して、割と頑丈なんだぜ」

「違います! あなたには、あなたにだけは見損なわれてはいけないんです! そうしたら、あの人は終わってしまいます……」

 どうしてそこまで庇うのか。

 そうか。

「それが、愛なのか?」

 彼女の手を優しく振りほどいた。

「俺には、愛は難しすぎる」

 彼女は引きつった顔でフリードを見つめた。

「恨みたかったら恨んでくれ。悪いけど、終わるなら、俺の手で終わらせてやるよ。だって、この町でアイツより強いのは俺だけなんだ」

 どんなに頼んでも止まってはくれないと理解したリグレットは、その場に崩れ落ちた。

 

 フリードは、ジェームスの家に行った。そのときは留守か、居留守を使っていた為、「話がある。午後10時、町外れの峠で待ち合わせよう」とだけ書いた手紙を入れた。

 約束の時間、意外にもジェームスは姿を現した。その手には酒瓶が握られていたが。

 

 二人はしばらく崖の下を見下ろしていた。眼下の家々はひっそりと寝静まり生気がなく、まるで模型のようだった。

「ずっと飲んでるのか」

「なんだ、説教する気か」

「……そうだよ。説教だよ」

 ジェームスは露骨に面倒くさそうな顔をして、頭を掻いた。とはいえ、分かっていながらわざわざここまで足を運んだのだから、聞く耳はあるということだろう、とフリードは思った。

「どうして大学に来ないんだよ。設計もやってないだろ」

「うるさいな」

「リグレットを殴ったのは、あんたか」

 ジェームスは急に静まりかえった。

 その瞬間、フリードの拳がジェームスの顔面を抉っていた。

 勢いよく吹っ飛んで地面を転がったジェームスは、鼻血をこぼしながら、恨めしそうにフリードを見上げた。

「いい格好するなよ。本当はリグレットのこと、抱きたいんだろ」

 フリードは息を呑んだ。

「気付いてないとでも思ったのか? もういいよ、君にやる。そのほうがお似合いだ」

 ジェームズがにやついていると、フリードはジェームスの胸ぐらを掴んで押し倒した。

「リグレットは、俺がここに来るのを泣いて止めたんだぞ」

 ジェームスは、はっと目を見開いて、ぐったりと夜空を仰いで、小さく笑った。

「……まったく、僕はどうしようもなく君の事が大好きで、とても憎かったよ。君は罪のない顔で、僕が触れない所にまで手を伸ばしていくんだ」

 ジェームスは、リグレットの心の隙間にフリードが入り込んでいる事にきづいていた。どんなに体を縛っても、いつの日か内側からリグレットを奪われてしまうような気がした。

 フリードは笑い返した。

「バカか、あんたは。俺こそあんたがどれだけ眩しかったか。根拠なんかなくても、あんたが言えばみんな信じた。あんたがやろうと言えば、みんなついてきた。俺にとって、あんたは英雄だった」

 ジェームスは、ふっと自嘲の笑みを浮かべた。フリードは懐かしそうな表情を浮かべ、暗く沈んだ崖の下をすっと見下ろした。

「俺は、あんたらの前から姿を消すよ」

 フリードの言葉に、ジェームスは黙り込んだ。フリードはまだ地面に倒れたままのジェームスに手を差し伸べたが、ジェームスはそれを断ってすっと立ち上がった。酒瓶を茂みに投げ捨てて、勢いよく踵を返した。

 二人は、決して振り返ることは無かった。

 そこには、親友だから通じる暗黙の了解があった。謝ったり呼び止めたりしないことが、ジェームスの誠意だった。

 もう二度と会えないかもしれない。だけど、それでいい。

 

 

 その翌日、ジェームスが崖から落ちて死んだ。

 場所は、昨日別れた場所から数十メートル上の崖。死亡時刻は別れて30分以内だという。足下が悪い場所で、これまでにも何人か落ちて死亡事故になっている場所だった。

 訃報が届いたのは、フリードが大学のロッカーに荷物をまとめるために向かった時の事だった。

 リグレットの元にも話が届いているだろう。フリードは急いでリグレットを探した。

 1時間ほど町を走り回って、ようやく公園のベンチで見つけた。

 慌てて駆け寄ると、リグレットはフリードの顔を見て、ああ、と呆けた返事をした。今まで心がなかったような虚ろさだった。

 二言ほど事故の事について話しかけたが、リグレットはぼんやり空を眺めているだけだった。

 しばらくそのまま傍で見守っていたとき、突然、リグレットが大声で泣きはじめた。折れてしまいそうなほど細い体を震わせて、泣き続けた。

 10分ほどして落ち着いた彼女は、手元を見ながら寂しそうに笑った。

「あの人は、親友を作るべきではなかったんです」

「……」

 二人は言葉なく、ただ空を見ていた。

 やがて青かった空に雲が垂れ込め、雷鳴が轟き始めた。

「家に入ろう」

 近くにあったフリードの家へ向かった。途中に降り始めた雨で濡れた体をシャワーで流し、雨で濡れた服を室内で干して乾かしていた。

「あのね」

 雨音が窓を叩く薄暗い室内で、バスローブを羽織ったリグレットが、ぽつりと呟いた。

「……私のこと、好きなの?」

 前にも一度、聞かれたことがあった。

 思えば、それはジェームスが言っていた話なのだろう。

 フリードは今だって、どうしようもなくリグレットの事が好きだった。だけど、そう答えるのはジェームスを裏切ってしまうことになるような気がした。

 今、彼女の目を見てしまったら、引き返せなくなる。

 フリードは顔をあげることもできず、黙っていた。

「好きだったら、抱いてください」

 それは、今、目の前にある不安から逃げたいだけなのだろうか。

 自分を置いて去ったジェームスへの復讐なのだろうか。

 フリードは、生唾を飲み込んだ。ただ、自分の気持ちを素直に伝えたいという思いがこみあげてくる。細いうなじが、優しい瞳が、ずっと焦がれてきた薄い唇が、そこにある。

 けれど、肩に伸ばしかけた手を止めて、静かに笑った。

「……アイツ、最後さ、君のところに行こうとしてたんだ」

 リグレットはたまらなくなって、顔を覆った。

「俺は、君のことを愛している。だけど、ジェームスを裏切れない。本当に馬鹿な奴だけど、俺に見損なわれた位で立ち直れなくなるほど、繊細な男じゃなかったよ」

 リグレットは泣きじゃくってフリードの胸に顔をうずめた。

「だから、俺への答えは、君の気持ちが追いついてからでいいよ」

 リグレットは涙目で頷いた。泣いていたけど、幸せそうだった。

 

 

 それから数週間後、2人はもう一度静かに向き合った。

 しっかりと自分の心を取り戻したリグレットに、よろしくと握手を差し出した。その日から2人は同じ部屋で暮らすようになった。

 フリードは設計の評判が広まっており、遠方からも依頼が来るようになり、リグレットも大学に通いながら近くの喫茶店で働いた。

 互いの将来について、ぼんやりと話し合うようになった。

 そうして久しぶりに2人とも休みの日がきて、リグレットが手の込んだ食事を支度していた朝。

 突然、顔まで黒い布で覆った黒装束の集団が、二人の部屋に入ってきた。

 彼らは乱暴に部屋に入るなり、2人を睨みながら話し始めた。

「我々の事は御存知か?」

「さあ……」

「我々は黒の使者と呼ばれている、神託を賜りし査問官である。我々の使命は只一つ、罪人を問いただす事」

「何のことだ?」

 そういえば、確かそういう名の団体が無恥な罪人を神に代わって裁くのだと聞いたことがある。

 だが、それが何故ここに来たのか。

 訝しむフリードに構わず話を続けた。

「君達の友人、ジェームス・オルベリッチの死に関して、新たな手がかりが見つかった」

「……?」

 査問官の1人が、ポケットから一枚の紙切れを取り出した。それは、フリードがジェームスを呼び出すときに残した手紙だった。

「見覚えはあるか?」

「それは、俺が書いたものだけど」

「何故、呼び出した?」

 一言一言を別人が言っていたが、まるで同一の個体であるかのように間髪入れずに話を進めていく。

「……あのときのジェームスは酒ばかり飲んで、大学にも来なくなっていた。だから、じっくりと話そうと思った」

「ジェームスの遺体には、頬に打撲の痕跡があるが」

「それも俺がやった。アイツの目を覚まさせるためだ」

「ジェームス・オルベリッチの頬にある殴られた跡とすぐ近くの崖からの転落。この二つが全く関係がないと言い切れるか」

「調べてもらえばわかるが、ジェームスはあの日も酒に酔っていた。足下が覚束なくなっても不思議じゃない。第一、全ての罪は自己申告なんだろ? 神が見ているから、人が人を裁く必要はないんだろ?」

「それはあくまで、一般的な良識を持った人間の話だ。クズから生まれた子供は、我々が然るべき検察を行う必要がある」

「クズだと……」

「クズにクズと言って何が悪い。現にこうしてジェームスの恋人を寝取って暮らしているではないか。証拠はそれで十分だ」

「その男を連れて行け」

「ちょっと待ってください!」

 リグレットが割って入ろうとしたが、両手を掴まれ、口をふさがれた。

「リグレットから手を離せ!」

 フリードのあまりの剣幕に査問官はひるみ、ゆっくりと手を離した。

 フリードはリグレットの方を向いて、安心させるように笑いかけた。

「大丈夫、心配するな。こんな穴だらけの証拠じゃ、どうあっても罪に問えるわけないだろ。すぐに帰ってくるから」

 

 そして、フリードは疑わしい者を収容する施設に連れられた。

 真っ白い壁の部屋に、小さな椅子とテーブル、ベッド。

 そこで幾日も拘束され、厳しい質疑応答が繰り返された。

 長い問答の後、最後に必ずこう言った。

「ならずものローカスの息子の話を、一体誰が信用する?」

 それだけは彼の手ではどうあっても拭えるものではなく、絶望が目の前を覆った。

 

 査問団は、狂信者の結成した私設機関である。教会とは全く関係がないが、彼らの理念には正当性があると評価され、黙認されている。

 全員が潔癖症であり、罪を免れる者が一人もあってはならないと血道を上げていた。神の名の下に、非人道的な行為も容認されていた。

 

「いつまでもこうしていても埒が明かない。まだジェームスが死んだ心の傷が癒えていないリグレットを一人にしておくのは不安だ。罪を認めればひとまず出られる。出ることさえできれば、無罪なのだから告解の丘に行く理由もない。それでいいじゃないか」

 焦りの中で疲弊しながら、次第にそう考えるようになった。それでも、いざとなると、ジェームスを殺したのが自分だとは言えなかった。

 そうこうしているうちに、フリードを裁く為の証言を躍起になって集めていた黒の使者が、結果としてフリードの犯行が不可能であるという結論を出した。

 最期までフリードへの不信感を残しながらも、絶対的な秩序を求める彼らにとって自ら耳にした証言をねじ曲げる事は理念に反する為、尋問は即座に打ち切られた。

 あと一歩で罪人と認定されそうになったところで釈放されたフリードは、施設を飛び出して深呼吸した。

 ふざけた話もあったものだ。凝り固まった肩をさすりながら、家路を急いだ。

「ただいま。随分と待たせてしまったな」

 カーテンがかかった薄暗い室内の明かりをつけた。

 室内が照らされて視界に映ったのは、床に膝をついて、ベッドにうつぶせになっているリグレットの姿だった。

 異様な気配を察して近寄ると、辺りに大量の睡眠薬がまき散らされていた。

 抱き上げたときには既に冷たくなっており、顔は真っ青になっていた。

「……リグレット、ごめんよ」

 泣きながら抱きしめても、彼女が声を返すことはなかった。

 

 その後、フリードはこの町で起きていた事を知り、愕然とした。

 自分がいなくなってから、彼女は毎日のように侮蔑的な言葉を浴びせられ、冷たい目を向け続けられていた。

 

 ……あの聡明なジェームスが落ちぶれたのも、殺すように仕向けたのも、あの女に違いない。愚鈍な男をたぶらかして不要になった男を始末させたのだ。そうして、ちゃっかり新しい人生をはじめているときた。恐ろしい女だ。

 ……なあに、どうせあの野卑な男は罪人だ。罪人が罪を償わないまま、まともな仕事に就けるわけがない。救いを求めて丘で殺されるにせよ、世間の目から逃げ回るにしても、二人で一緒に暮らす日はもう来ない。ざまあみろ。

 

 毎日毎日、彼女に聞こえるように村人全員が吹聴していたという。

 過去、査問官に捕まって冤罪になった例はない。連れて行かれた時点でフリードが罪人同然だと誰もが信じて疑わなかった。

 さらに、罪人だと認定されてしまえば、世間に認めてもらうために救いの泉へ向かうしか道はなく、それは同時に死に通じる道だ。

 恋人を殺したのはお前だと罵られ、新たに出会った男もやがて殺される運命にあると言われた。

 その迫害は、心の傷が癒えていない彼女を突き落とすには十分すぎた。

 しかし、彼女の自殺の理由について査問が行われることは無論なかった。

 

――

 

 アルヴァンは話を聞き終えた後、苦々しい顔つきでフリードの顔を見やった。

「なんということだ……」

 アルヴァンは胸を押さえ、言葉を詰まらせた。

 フリードはその時のことを思い返し、たまらなくなって目を閉じた。

「リグレットは、あいつらの心ない空砲に撃ち殺されたんだ」

 そして、フリードは胸元から一丁の拳銃を取り出した。

「それは、教会から支給されたものじゃない、な」

「そうさ。これは、裏道で手に入れた」

 古めかしいが、教会から支給されるものよりも大きく、作りもしっかりしていた。

「俺は、もしも今日、ここであの村の奴を一人でも見つけられたら、それで全てを水に流そうと思っているんだ。……だけど、もしも見つけられなかったら、そのときは、丘を下りて、この銃で村人全員を殺して、自分も死ぬつもりでいた」

 アルヴァンの心配そうな顔を見ながら、泣き笑いを浮かべた。

「来るわけないよな。あいつら、自分達が善人だって、清く正しいって信じた面してるんだぜ」

 アルヴァンは顔をゆがめた。この若者の死を見過ごしたくない。だが、彼の覚悟を否定する権利があるだろうか。シェリーに命を絶ってもらおうとしていた自分に。

 そのとき、フリードはふぅ、と深呼吸をした。

「だけどさ、もう心配しなくていい。広い世の中には、あんたみたいに、誰からも咎められてないのに罪を抱えている人もいるって気付いたから。だから、もうそれでいいかな、って」

 アルヴァンの顔が明るくなった。

 フリードは目を細めて空を見上げた。

「だから、あんたも俺と村の人間の命を救った分くらいは、自分の事を許してやれよ」

「私は、生きていてもよいのだろうか」

「おっちゃん、それは違う。クランプソンは、一度でも、許すって言ったのか? 彼らはあんたのことを許したんじゃない。生きていてもよいなんて考えてやいない。クランプソンは、生きるべきだって言ったんだ。色々考えて、それでもあんたが生きる事を、選んだんだ。あんたが罪を償う方法があるとしたら、それはこんな丘でくたばる事じゃ無いって。きっと、他の親族も同じ思いだったはずだ。それは妥協や容認なんかよりずっと重い、願いだ。それなら、あんたはもっと自分を信じて、今まであんたがやってきたように、シェリーの目覚めを祈ってあげるべきなんだ。そして、通りすがる誰かの幸せを、そっと支えていってくれよ」

 フリードは目を見つめたまま、自分の思いが伝わるようにと願った。

「村の連中はさ、罪の自覚すらなく、善人面してのうのうと毎日生きている。たとえ重い罪を犯したとしても、それを自覚して悔いている人間の方が、よっぽど救いがあると思わないか」

 フリードはそう言いながら、手に持っていた拳銃を胸にしまった。そして、再びアルヴァンの方を振り向いた。

 アルヴァンの目に光が宿っているのを見て、フリードは嬉しそうに笑った。

「それじゃ、そろそろ行こうか」

「ああ」

 二人は立ち上がった。

 さらさらと芝がこすれる音だけが耳元に残る。随分と長い間、話していたような気がした。

 フリードは背を伸ばし、ぐいっと顔を上げて空を見た。

「それでも、こんなくだらない丘のおかげで、俺達はこうして救われているんだもんな」

「そうだな」

 皮肉なものだ、と二人で笑い合った。

「次に会う時は、この丘の下で」

 二人は握手を交わした。

 そして、それぞれ自分の帰るべき場所へと戻っていった。

 

 

――

 

 

 告解の丘での出会いから3年の月日が流れた。

 秋の昼下がり。枯れ葉舞い散る遊歩道を歩く青年の姿があった。彼は設計の仕事を終えた後、告解の丘の近くを通りがかり、ふと足が向いて、車を停めて町並みを歩いていた。

 やがて、商店街の通りに入り、そこで一つの花屋を見つけた。看板には「snow drop」と書かれていた。花屋らしくない響きに、青年の目が留まった。

 中に入ると、落ち着いた雰囲気で、一つ一つの花々が大輪をつけて誇らしげにこちらを向いていた。

 すると、気配に気付いた店主が奥からやってきた。

「いらっしゃいませ」

 その声は聞き覚えがあった。

 痩せた体に糊のついたシャツを着込んだ男は、アルヴァンだった。

 二人は再会を喜び、笑い合った。

「花屋をやってたんだな」

「ああ、色々考えたんだが、これが一番私の性にあっていてね」

 照れくさそうに話すアルヴァンは、とても幸せそうだった。

「確かに、いい花だ」

 そして、フリードは適当に選んだ花を何本か買うことにした。

「毎度あり。では、ラッピングなんだが、新入りに頼んでもかまわないだろうか」

「ああ、いいよ」

「ありがとう。おーい、ラッピングを頼むよ!」

 大きめの声で言うと、奥の方から女の声がした。

「はーい、かしこまりました」

 女は枝切り鋏を手に、小走りでやってきた。女は若く、愛らしい顔立ちをしており、綺麗なクリーム色の長髪を後ろで束ねていた。

 彼女は作業台の上に丁寧にラッピングの紙を広げて、花を包み始めた。

 彼女のシャツからのぞいた腕は、可憐な顔立ちからは想像できないほど細く、指先も骨が浮いており、小さく震えていた。

 震える指先で懸命に包んでいる姿を、アルヴァンが離れた場所からじっと見守っていた。

 その優しそうな表情を見たとき、フリードは、そうか、彼女なんだな、と思った。

 時間をかけて仕上げた包みは、出来が良いとはいえなかった。

「ごめんなさい。私、なかなか上手に出来なくて」

 彼女は申し訳なさそうに俯いていたが、フリードは花束を手にしながら、満足そうな顔で首を振った。

「いや、良い出来だ。ありがとう」

「あ、ありがとうございます!」

 彼女は興奮気味に、顔を赤らめながら礼をした。そして、思い出したように二人の顔を見比べた。

「そういえば、お二人はお知り合いなんですか?」

「まあね」

「そうさ。おっちゃんは、俺の恩人なんだ」

 アルヴァンが照れたように首を振ったが、彼女はそれに対して目を輝かせた。

「すごいです! 私、アルヴァンみたいになりたいんです。器用で、花への情熱もあって」

「あんた、花は好きかい?」

「はい。実は、つい最近まで何年も眠り続けていたんですけど、その夢の中では、いつも花が咲き乱れていたんです。だから、目が覚めたら絶対に花屋で働こうって決めてたんです」

「そうか」

 フリードは頷きながら、ふと思い出したように看板を指さした。

「そういや、snow dropって、なんか花屋の名前っぽくないけど、どういう意味だ?」

「それは、白い花の名前だよ」

「ややこしいなあ、もう」

 フリードが肩をすくめた。

 それを見ていた2人は顔を見合わせて、笑った。

説明
どんな罪でもその丘の泉を飲めば許される。
告解の丘にはいつも、泉を求める罪人とそれを阻む断罪者の姿があった。
そんなある日、丘を下りてきた元罪人の男を一人の青年が迎える。
互いに負った過去から、二人のこれからの生き方が決まる。
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