Aufrecht Vol.18 踏み出す一歩
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ついに訪れた身請けの日。

当日の世話役は尾形さんの予定だったけれど、体調が良かったこともあり、急遽志願した私は明里さんを迎えに行くことになった。

 

「一人で行くつもりかよ。」

 

式台の角に寄りかかり、土方さんは神経質そうに腕組みをしていた。表に駕籠を待たせてあったから、返事は自ずとそっけのないものになる。いちいちそれにかまけていられないのだ。

 

「はい。駄目ですかね?」

「作法も知らねぇくせに。尾形も連れてけよ。」

「これ以上お世話になるわけにはいかないんですよ。私一人でなんとかやりますから。」

 

公式の場に呼ばれることもあろうかと、羽二重の紋付羽織を誂えてあったのが良かったと思う。仕立ててから一度も袖を通さなかったそれに着替え、柄でもなく扇子を差しいざ島原へと踏み出す。

 

「祝儀は包んだのか?」

 

隠し玉をぽろっと落とされたように、ぎくりとした私は緩慢な動作で振り向いた。

 

「そんなもの、いるんですか?」

「ったく…これだからお前一人には任せられねぇんだ。」

「たまたま知らなかっただけですよ!」

 

土方さんはくったりとした顔を見せながらも、いくつか小分けにした祝儀の包みを手渡してくれた。

 

「その無知が恥なんだろ。頼むから山南に恥をかかせるなよ。」

「もちろんです!」

 

(身請けの作法を間違えるだけで、山南さんの恥になるなんて気づかなかったな)

 

言われてみれば正論で、作法や品格がその人の評判に関わってくるのは事実だ。一歩間違えたら、私のせいで山南さんの体面に傷がつくところだった。

 

(引き止めてもらえてよかった)

 

「では、今度こそ行って参ります。」

「下手をやらかすなよ。」

 

歩き出した私の背に、容赦のない一言が飛ぶ。

 

(ぅう…そうやって、プレッシャーをかけるんだもんなぁ)

(まるで、婚約者の実家に挨拶に行くような心持ちだ)

 

今の心境をわかりやすく喩えただけの話なのだが、これがたとえ話では済まされない事件が起こることを、このときの私はまだ知らなかった。

 

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無事に落籍を済ませ、山南さんは新居に移っていた。もともと体の強い方ではなかったにせよ、最近ではめっきり食も細り、目の下のくまが目立つようになっている。それでも、同じ屋根の下に明里さんがいるからなのか、表情はずっと明るかった。

 

――少し、休養をとったらどうだ?

 

そう提案したのは土方さんで、感情がプラスに昂ぶっていた山南さんは、珍しく提案を受け入れ屯所から離れていった。

 

 

彼らが落ち着いた頃合いを見計らって、私は静かな村落を訪れていた。勝手に身請けしてしまったことを詫びていなかったので、山南さんを訪ねることにしたのだ。

 

「ごめんくださーい。」

 

竹垣の外から呼びかけると、庭の方からパタパタとかけてくる音が聞こえた。山南さんにしては、なんだか身軽な気がする。音の正体はすぐに判明した。

 

「おっちゃん誰や?」

 

近所の子どもらしく、どんぐりまなこが私を見上げていた。

 

「沖田と言います。山南さんはご在宅でしょうか?」

「おっちゃんが沖田はんか。」

 

なぜかその男の子は私のことを知っているらしく、急な来客にも物怖じせず母屋へ駆けて行った。と思ったら、すぐに戻ってきて私の袂を掴み、戸口のところまで引っ張っていく。元気のありあまる子どもという印象だ。

 

「先生がお入りやす言うとる。」

「そ、そうですか。では、お邪魔しますね。」

 

(子どもに懐かれてるみたいだな)

(手習いでも教えているのかな?)

 

土地に馴染んでいることをうれしく思いながら、風通しの良い土間へと入っていく。縁側で本を読んでいた山南さんは、私が来たことがわかるとゆっくりと立ち上がり出迎えてくれた。

 

「やあ。遅かったじゃないか。」

「いやぁ、邪魔しちゃ悪いかと思いまして。」

「上がりなさい。茶を淹れよう。」

 

土間に降り立ち湯を沸かそうとするのを差し止めて、私はもっぱら恐縮していた。手土産すら持たずに来てしまったからだ。

 

「いえいえ! どうぞお構いなく。」

「なんだよ。急に他人行儀になったな。私と沖田くんは、家族みたいなものだろう。ゆっくりしていきなさい。」

「…では、お言葉に甘えます。」

 

山南さんとやりとりをしている間、さっきの男の子は内と外を忙しく走り回り、何本かの薪を抱えてきては、竃の火を起こしたりと手際よく働いている。

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「もしかして、雇ったんですか?」

 

雇うような年齢ではないことは明らかだったけれど、台所仕事をそつなくこなしているのを見て、それ以外に何があるんだろうと首をかしげたくなった。私の見立てでは、九つか十くらいの子どもだ。

 

「ん? あの子か。紹介していなかったね。私の息子だよ。血は繋がっていないけれどね。弥七。こっちへ来なさい。」

 

弥七と呼ばれた男の子は、鉄瓶を置いたのを見届けてから、機敏な動作で座敷に上がり、山南さんの隣で行儀よく腰を下ろした。

 

「弥七言います。ようお越しやした。」

 

山南さんの口から発せられた「息子」という事実に驚きはしたものの、はきはきと物をいう弥七くんを見て、自然と笑みがこぼれるのを私は感じていた。どんな事情があるにせよ、山南さんのもとで育つ子どもは将来が有望だ。

 

「沖田総司と言います。ときどき訪ねることもあるかと思いますので、どうぞよろしくお願いします。」

 

お互いに自己紹介を済ませると、読んでいた本を文机の上に置いて、山南さんは子どもの背をやさしくなでた。

 

「弥七。私の世話はもういいから、明里を迎えに行ってくれないか?」

「へぇ。ほなら、行ってきます。」

「ああ。頼んだよ。」

 

言いつけを頼まれたのがうれしかったのか、弥七くんは意気揚々と立ち上がり出かけていった。

 

「明里さんはお出かけですか?」

「うん。町へ買い出しに行っているよ。私はもっぱら畑仕事さ。」

 

腰のあたりをぐりぐりと押しながら、朗らかな貌で山南さんは言う。腰を痛めたんだとわかり、少し心配になった。

それにしても、山南さんが畑仕事だなんて驚きだ。

 

「山南さんが畑を耕しているんですか?」

「驚いたかい? 武士が野良作業だなんて、外聞が悪いもんなぁ。しかし、そうも言ってられない世の中が、着々と迫っているような気がしてね。」

 

(土方さんも鋭いけれど、山南さんもなかなかだな)

 

「急に慣れないことをすると、体に響くといいますからね。あまり無理はなさらないでくださいよ?」

 

体を鍛えてきたという自負があったとしても、剣術と畑仕事は筋肉の使い方が違うような気がする。

 

「あはは。確かに。道場で鍛えていたからと、高を括っていたことは認めよう。ところで、その節は世話になったね。君が主導していたのだと聞いて、本当に驚いたよ。」

「言い出しっぺは私なんですが、実際に金子を工面したのは尾形さんだし、祝儀のお金を出してくれたのは土方さんなんです。この家を見つけてくれてのも、原田さんですし…」

 

事実を並べ立てていくと、いかに自分が力不足だったかが窺い知れるというものだ。気持ちだけは誰よりも強かったけれど、みんなの協力がなかったら今頃はどうなっていたかわからない。

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ところが、山南さんはそんなことよりも、土方さんが用意した祝儀のことに注意を引かれたようだ。

 

「ちょっと待ってくれ。土方くんが身銭を切ったというのは、間違いないのかい?」

「…? はい。日野から送金されてきた五十両が手つかずに残っていたみたいで、それをご祝儀として充てたみたいですよ?」

 

(土方さんのこと、言わないほうが良かったのかなぁ?)

(少しは見直してくれるかと思ったのに…)

 

身を乗り出してまで聞き出そうとする山南さんに、思いがけずも気圧される形になった。

 

「そうか…そうか…土方くんが…」

 

繰り返す言葉の中に、信じられないという気持ちが込められている。もっとも私が怖れているのは、土方さんの好意を真逆に捉えられ、誤解されることだ。

 

「山南さんがが思っているよりも、土方さんはずっと気にかけていますよ。大丈夫です。あの人はただの捻くれ者ですからね。」

「うん…そうだね。違いない。」

 

小さく頷いてから恥ずかしそうに笑う山南さんに、私もほっと息を吐く。

 

「自分が舵をきって勝手にしたことだから、山南さんの機嫌を損ねてやいないかと心配していたんですよ。」

「まさか! そんなことあるもんか。この恩義は一生忘れないよ。君は、根がまっすぐで心のあたたかい若者だ。明里もそれを理解したようで、とても感謝していたよ。」

 

力強く肩を叩かれ、あたたかみのある言葉が胸の真ん中に拡がっていた。張りのある声と、朗らかな笑顔。屯所にこもりがちになっていた山南さんが、見違えるほど活力に満ち溢れている。

 

「そうですか。そうだといいんですけど…」

 

こうであってほしいと願ったことが、山南さんに上手く伝わっているかどうか、満足を得られるほどの達成感が私にはなかった。なぜなら、他の仲間たちが言っていたように、私情ともなると自分で始末をつけたがるのが山南さんという人だからだ。一般的に善いこととされることも、人によっては裏返しに捉えられてしまうこともあるだろう。京に来てからの山南さんは、同情というものに敏感だった。

 

「沖田くんの気持ちは重々理解している。心配いらないよ。しばらくは、家族三人でのんびり過ごしてみるさ。意外とこういうことの方が向いているかもしれない。」

「腰を痛めているのに、ですか?」

「ははは。急に慣れないことをしたからさ。体が慣れてくれば、どうということはない。妻子を養っていかねばと思うと、俄然張りきってしまうものだね。」

 

弥七くんのことにしてもそうなのだが、山南さんは自分の許容範囲を上回る生真面目さをもって、新生活を軌道に乗せようと躍起になっている。突然の慣れない環境のせいで、やっぱり戸惑っているのかもしれない。健康を損ねないか心配だった。

 

(明里さんがいるから、まだ安心できるけれど…)

 

頭を下げてまで「頼む」と言った土方さんの言葉が、ここへきてようやく理解できたような気がする。

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(それに、弥七くんがいい緩和剤になるのかも)

 

彼が進んで家事を手伝うのは、何も恩義だけが原因ではないのだろう。山南さんの立場や心情を、子どもならではの視点で読み解いているのかもしれない。

 

「そういえば、さっきの弥七くんですけど、どういう経緯で養子にしたのか聞いてもいいですか?」

「禁門の変で火事があっただろう? そのとき、母親とはぐれてしまったようでね。身寄りもなく、河原を徘徊していたのを偶然見かけて、こりゃいかんと思ったのさ。」

 

火事で市中が混沌としていたせいか、中には親とはぐれる子どももいたらしい。家が焼失した人々は、しばらく河原で野宿をしていたとも聞く。

 

「そんなことがあったんですか。でも、禁門の変からずいぶんと経ってますけど、その間、弥七くんはどうしていたんです?」

「知り合いに預けていたんだが、これを機に引き取ろうと決めてね。明里も子どもを欲しがっていたから、ちょうど良かったよ。」

 

彼女にしてみれば早くも理想が現実となったわけだけど、当然ながら、弥七くんの生みの母親はこの空の下のどこかにいる。火事で慌てていたとはいえ、子どもの手を放す親がいるだろうか。何かの間違いではぐれてしまったとしても、我が子を見かけなかったか、と誰彼構わず尋ね回り、死に物狂いで探すはずだ。

 

「そうでしたか。でも、母親はどうしているんですかね? まさかこのまま…」

 

薪を運んできて竃に焼べたり、台所仕事を手際よくやって見せた弥七くんだけに、火事以前の生活が透けて見えるような気がした。

 

「うん。弥七によれば、もともとあまりいい母親ではなかったようだね。この混乱に乗じて、行方をくらませた可能性もある。もちろん、気が変わったのなら、快く送り出してあげるつもりだけれど。」

 

当面は…というよりも、再会が果たされることはないと思った方がよさそうだ。少なくとも弥七くんがひとり立ちするまでは、母親が会いにくることもないだろう。身勝手な意見かも知れないけれど、明里さんや山南さんのように、芸事と学問に秀でた大人と暮らす方がよっぽど彼のためになるはずだ。

 

「しかし、ずいぶんと山南さんに懐いているみたいですね。」

 

思ったままを口にしたのに過ぎないが、山南さんは意外そうな目で私を見た。

 

「他人の目を通してだとそう見えるのかな? 懐いているというよりは、恩義を感じていると言った方が正しいだろう。明里と相性がいいみたいでね。健気な弥七に、彼女はもう夢中さ。たまに忘れられているのではないかと思う時があるよ。」

「山南さんも、すっかり父親の顔ですね。」

「そうだろう。男なんて、そんなものさ。守るものができると、心までふくよかになる。家族というのは、いいものだよ。沖田くんもどうだい?」

 

突然そんなことを勧められて、思わず私は腰を浮かせていた。続けざまに顔が火照り出す。

 

「私にはまだ早いですよ。それに、彼女は太夫になったばかりですし。」

「子どもができれば、しばらく休むことはできるんじゃないのか?」

「こ、子どもですか!?」

 

(それは飛躍しすぎですよ!)

 

心の中で悲鳴を上げ、にこやかに笑う山南さんを見る。からかうつもりで言ったのなら、子どもという具体的な話にはならなかったはずだ。山南さんは本気で勧めているのだろうか。

 

「何をそんなに驚いているんだよ。君だって、いつかはそうするんだろう?」

「ええ…まぁ、考えなくもないですけど…」

 

(私と星さんの子ども…)

 

祝言すら挙げていないのに、子どもを持つことを夢想するのは、早すぎやしないだろうか。

 

(今はまだ考えられないけど、いずれはそうなるといいな…)

 

そんな将来像を思い描いていると、自然と頬がゆるみ、だらしのない顔になっていく自分がいた。ふやけそうになる己に喝を入れるため、両手でぱちっと頬を叩く。

 

「子どもができたら、私にも報せてくれよ?」

 

茶目っ気たっぷりに笑う山南さんは、沸騰して音を立てる竃の方へ降りていった。

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