鏡の裏 |
「ここも、ずいぶん平和になったものだ。」
カノンは大きな買い物袋を肩に担ぎ、時折、切れるような青空を見上げた。十二宮の先頭に立つ白羊宮の守護者ムウはジャミールに戻っており、次いで金牛宮の主も、今は故郷のブラジルに帰っている。双児宮より上の宮も、現在はほとんどが無人の状態で、そのため聖域は穏やかな静けさに包まれていた。黄金聖闘士だけは無断で通ることを許されているので、カノンは遠慮なく宮の中央廊下を突っ切っていった。やがて双児宮が見えると、途端にカノンは笑顔を浮かべて、何段か階段を飛ばしながら上がっていった。
「おかえり、カノン。」
プライベート空間に入ると、すぐに奥の部屋からサガの声がした。キッチンに荷物を置き、冷蔵庫に入れるものだけ手早く片付けると、カノンはサガのいる部屋に入った。サガは窓辺の椅子に座り、繕いものをしている。顔を上げると、テーブルの上に積んである衣類の中から、ターコイズブルーのズボンを手に取ってカノンに見せた。
「ほら、直しておいてやったぞ。大事に着てくれ。」
カノンは、派手に破いた箇所が上手に修復されているのを見て、感嘆の声を上げた。
「よく縫い物なんかできるな。信じられん。オレには絶対に無理だ。」
「黄金聖闘士はすべての学問を習っている。お前もちょっとやれば思い出すはずだ。」
「とっくに忘れたよ。…まあ、兄さんは様になっているけどな。アルデバランが針仕事をしている姿だけは、オレは見たくない。」
「やめろ、手元が狂う。」
笑いながらサガは答えた。その間もサガはスイスイと針を動かし、小さな穴を繕っていく。その白い手先をじっと見つめていたカノンは、笑みを浮かべながらゆっくりとサガの背後に回った。そっと両腕をサガの肩にまわし、ウェーブするシルバーブルーの髪に口づける。
「サガ、オレの綺麗な兄さん…」
耳元でささやくと、サガの目が急にトロンとなった。瞼が半分眠そうに下りかかっている。なおもカノンの誘惑する声が続くと、サガは操られるように縫い物をテーブルに置き、ゆっくり椅子から立ち上がった。
どうしてもサガを手に入れたかった。
兄弟ということではなく、すべての意味で。
文武両道で優しい美貌のサガに近づく者は多かったが、誰よりも長く彼の側にいたのは自分であり、誰よりも多く、その小宇宙の強大さを見てきた。ケンカだって、一番してきた相手だ。10代の頃に、少なくとも4回は実家を全壊させている。その分、周囲には見せることのない真のサガの激しさ、厳しさも知っている。牢獄にぶちこまれた時はさすがに恐れを感じた。しかしそれでも、本気でサガを憎いと思わなかった。何があっても、兄を最も正しく理解しているのは自分だけだと、カノンは自負してした。
あの日、ラダマンティスと宇宙で共に砕け散った時……カノンは自分の命の欠片が双子座の聖衣に宿ったまま、サガの元へ向かう幻想を見ていた。ただ一つの役割を果たすためだけに復活したサガは、聖衣をまとう瞬間、カノンに両手を差しのべた。今までに見たことのない、心からの笑顔だった。その笑顔を見て、カノンは叶うならもう一度サガと共に生きたいと願った。もう一度、サガの側へ。サガと共に新しい世界へ……
奇跡的に復活を遂げた直後は、再会の喜びの方が勝っていて、穏やかに楽しく過ごせた。サガの方も、以前よりもっとカノンに対して従順だったので、ケンカもしなかった。このままなら何もかも正しくやり直せて、良き兄弟であり続けただろう。しかし、次第に膨れ上がる「新たな感情」だけは、どうにも押さえがたかった。サガの性格からして、素直に打ち明けたところで、うまくいくとは考えられない。神話の時代…ひとつの卵から生まれて以来、ずっと双子であり続ける宿命を背負っている。未来永劫、恋愛関係になれない唯一の存在。でも、このままでは気が狂う……たとえ女神の怒りを買おうとも、聖域の、人の掟を破ってでも、サガを手に入れたくなった。カノンの深い欲望は、やがて恐ろしい計画へと自身を駆り立てた。
半年ほどたった頃。キッチンの方から何か音がするので、カノンはソファから立ち上がり、中をのぞいた。サガはあちこち戸棚を開けて何かを探していた。
「ないなあ、どうしても見つからない。」
「……何探してんだよ。」
「ほら、誰かにもらったバジルペーストの瓶。まだあったはずなんだ。」
サガは、家事をする時はいつも白いリボンで髪を緩く束ねている。普段見えない項が白く眩しかった。途端に、カノンの中に強い想いが沸き上がった。ずっと心に秘めてきた計画が頭の中いっぱいに広がり、心臓が早く脈打ち、額に汗が浮かぶ。サガは自分の方へ背中を見せ、警戒心など微塵もない。チャンスがこんなにも早く巡ってくるとは……
「あ、あった!ほら、これだ。なかなか良さそうだろう?」
嬉しそうに振り返ったサガめがけて、カノンは幻朧魔皇拳をうった。
バスタブから静かに出て、軽くタオルで雫を拭い、サガは熱い湯に火照った身体に真っ白なバスローブをはおった。リビングの入口にたち、そっと中をのぞく。カノンは腰あたりまでタオルケットをかけ、満ち足りた顔でソファに逞しい身体を横たえていた。穏やかな寝息が聞こえてくる。サガはソファにそっと近づき、カノンの寝顔の前で膝をついた。
キッチンで突然、拳を振るったカノンに、サガは「ついにきたか」と思った。他の者なら、あっけなく撃たれてしまっていただろう。しかし、サガは黄金聖闘士の中でも屈指の戦士だ。瞬時にその動きを見抜き、カノンよりも早く幻朧魔皇拳を撃った。カノンは、今でもサガが技にかかっている幻想を見ている。
カノンの気持ちは、ずっと前から気づいていた。そして……自分自身の気持ちも。しかしどうであれ、「実の兄弟が愛し合う」という重大な罪は避けなければならない。忍耐力には自信があるサガも、日増しに大きくなる「禁じられた想い」に困惑し、目眩を覚えた。「弟に愛されたい」と願ってしまった、愚かな兄……ダメだ。それだけはいけない。弟の心を、世の秩序を守らなければ……しかし、そう思う反面、自分は愛される事を望んでいる。温もりを分かち合いたいと、心の底で思っている。
そう思っていた矢先、カノンはついに愚行に走った。わかっていたのに、弟を止められなかった。愛する者を手に入れるために幻朧魔皇拳を撃つほど、カノンをここまで追いつめたのは自分のせいだ。他に止める手立てはあったはずなのに、自分は相反する心に戸惑ってばかりいて、今まで行動に移さなかった。せめて……せめてこの罪は、兄である自分が背負いたい。術をかけたのも、兄弟愛を恋愛にすり替えたのも、すべてこの兄が仕組んだ事。カノンに罪はない。愛する弟を守りたい……
急にカノンの目がパッと開いた。考え事をしていたサガは、カノンと至近距離で視線が合い、思わず目を丸くした。
「…何だサガ、可愛い顔して。」
「いや……その…カノンって寝顔はけっこうあどけないんだなと思って。」
サガが少し恥ずかしそうに目線をそらしたので、カノンはニヤリと笑った。
「オレはもっと可愛い寝顔を知ってるぜ。兄さん。」
カノンの言葉を聞いて動揺をみせる素直なサガに、愛しさが込み上げる。カノンは身を起こすと、サガにしか見せないとびきり優しい笑顔で、手を差しのべた。
「さあ、おいでサガ。優しくて可愛い兄さん……」
再びサガをソファへ横たえ、カノンは上に乗り上げると、両手でサガの頬を撫でた。
「サガ……幸せか?」
「ああ…カノン、お前でよかったと思っている…」
サガの言葉に、カノンは黙った。ただ愛しげに頬を撫で、何度も額に口づける。互いの心地よい暖かさに安堵を覚える。この想いは、決して幻想ではない。この命がけの恋が、決して罪であると思いたくない…
視線を交わしたあと、二人は深く身を重ね、無言のままお互いを強く抱きしめていた。
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どこか寄り道してる感じの、相思相愛カノサガです。 | ||
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